Title: 労働廃絶論の幻想
Subtitle: The Abolition of Work and Other Myths
Date: 1995年
Source: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/myth01.html(2023年4月16日検索)
Notes: この記事の原文は、Kick It Over誌35号(1995年夏)に掲載された
著者について・・Neala Schleuning には三冊の著書がある。
America - Song We Sang Without Knowing: Meridel Le Sueurの生涯と思想について
Idle Hands and Empty Hearts: 米国の労働と自由について
Women, Community, and the Hormel Strike of 1985-86.
彼女は現在、財産の意味について、及び、市場経済がロシアの家計に与えた衝撃について研究している。(Anarchy In Japanより)

 そう。誰だって労働は嫌いだ。
労働を嫌悪するのは、文化や時代を越えて、人類に普遍的な特徴なようだ。
労働から解放されたいという夢は、多くの文化にたくさん見られるのである。
キリギリスの気楽な生活---冬に備えての蓄えなどせず、ただ消費するだけの生活---が、いつだって私たちのあこがれの的であった。かったるくてつまらないアリの労働者生活なんてバカバカしいではないか。古代においても現代と同様、我々の仕事を軽くする機械を夢見ていたことが判明している。 例えばフィンランドの人々Kalevalaの叙事詩には、際限なく富を作り出す夢の機械、Sampoの物語がある。西欧文化の歴史を通じて、このような永久運動機械は、ずっと人々の夢でありつづけたのである。
 だが、こうしたレジャー(暇)、無限の喜びや富へのあこがれにもかかわらず、あらゆる文化は等しく個人が働く必要性を表明している。生きることは働くことであり、人生の大半は経済活動に費やされるのである。
 労働は、至高の精神に到達する手段であったり、個人的な救済を成就する手段だったり、あるいは前世の罪に対する罰であったりと、その意味は様々であるが、世界の主な宗教はすべて怠惰を戒めている。労働を最も重要な教義として掲げている宗教もあるのである。また大半の政治思想も、労働の価値を肯定するか、あるいは、集団的善としてそれを要求している。
 私たちが労働の必要性について考える時は、もちろん私たちの生存が基本的な条件である。
 アナキストの思想はほとんど最初から、労働に関して全く相反する二つの哲学を反映していた。一方が労働の廃絶を要求し、他方は労働の必要を強調していたのである。後者は、労働過程や生産品を誰がコントロールするかが中心的な政治課題であるとしていた。
 テクノロジーの相対的なメリットについてアナキストの意見は分裂しており、三つに別れて論争している。労働者に有用ならテクノロジーの進歩を躊躇せずに認める者、テクノロジーから逃れて自然に帰れと主張する原始人主義者、もう一つはテクノロジーや機械の支配に対して攻撃的なラッダイトである。
これらの思想について、これから手短に考察してみよう。

 労働廃絶論の論拠は、たいていお決まりの論法である。分業によって神経を衰弱させられる労働への批判、テクノロジーを拒絶し、資本と機械による中央集権的支配から逃れた単純なライフスタイルへの回帰、「ボスの」ための時間を個人のための労働へ転換すること、あるいは働くことを徹底的に拒否し、居座りや盗みなど、他人の労働を個人的に着服することなどである。 このような労働廃絶説の論拠には、いくつか重大な問題がある。
 いくら良く見ても、それは見当違いであり、バカバカしいと言えよう。
悪く言えば、共同社会の生活に対し反生産的であり、そして無責任なことは明らかだ。

1) 働かないという思想は結構に思えるかもしれないが、それは現実を無視しており、極端に単純化されすぎている。もし我々が「労働」と呼ぶようになったものへの批判が、賃労働システムの搾取に対する抵抗を奨励することを意図しているなら、その目的自体は悪くはない。けれどもそれは、単なる批判のみではなく、社会が長い期間をかけて熟成させてきた労働に代替する、責任あるプランを提示できなくてはならない。

2) 労働の拒絶は傲慢で、また恐らく少し子供っぽい。
それが利己主義的で、自己中心的であることは確かだ。
誤解を恐れずに言えば、この哲学は特に、若くて強くて健康で家族を扶養する義務がない人(あるいは義務がないと思っている人)にアピールするものだ、と私は考える。 労働廃絶の論拠のいくつかは、社会倫理よりも、個別的・個人的な労働倫理のイデオロギーに基づいている。つまり、自分自身以外の誰に対しても責任は負わない、ということである。

3) 怠ける権利を要求すること、働くことを拒否することは、単に反対するだけの態度である。それは非常に自己中心的で、社会に対して全く無責任である。
現代文化の中でバラバラに分裂させらされたものの多くのように、 それは自由を希求する姿勢というより、無力な人々がどのように感じるかを象徴している。 「ドロップアウト」は元来政治的絶望の表明なのであって、現代ニヒリストの反応である。そしてそれは残念ながら、個人を政治の場から離脱させるのにとても有効にはたらくのだ。(ここで言う政治は古典的な意味であり、集団行動のことである) ドロップアウトは個人的な行為であり、政治的には全く無意味な手段である。 個人主義は、政治行動における強さと弱さを両方とももっている。 その主な危険性の一つは、現代の個人主義的文化における諸問題の全てが、個人の選択や個人への非難に還元されかねないということである。(たとえば「浪費する奴が悪い」等)
 例をあげよう。深刻な大気汚染があったとする。そのとき汚染者を追及するのではなく、人々が互いの喫煙習慣について個々に非難をしあうようなものである。また、賃金が減らされたり、会社が多くの利益を得るために仕事を減らしたりする時、労働者が互いを足をひっぱり合い、労働環境を個人対個人を戦わせる戦場にするようなものだ。
 労働はかったるくて退屈だから、個々にドロップアウトすることによって問題を解決しようということになる。
 そうではなく我々が要求するべきなのは、大気汚染者の規制、自身の労働を自分たちで決め、コントロールする権利なのである。 怠けることを要求するのは、自分だけが不快な状態から逃げようとすることだ。
結局それは、個人の権利を強化することにはならないのである。
また、それは恵まれた社会で生まれた考え方であろう。そこでは「システム」に縛られない少数の部外者が、そうでない人々をからかうことができるのである。

4)自然に帰り、生存ギリギリのレベルで暮すこともおそらく可能ではあろう。しかしそれは、気候が温暖で、人口が地域の生態系を乱すほど多くなく、簡単に食物を見つけられるような環境であって、はじめて可能なのだ。寒冷気候の地域に住んでいる我々は、生きるためには多くの労働をしなければならないのである。

5) 労働からの自由を約束するもう一つの論拠は、私たちの現代文明が暗示している。それは必ずしもアナキストの主張ではないけれども、労働批判のいくつかで暗にほのめかされているのである。すなわち、テクノロジーが進歩すれば、我々は働く必要がなくなり、機械がすべてをやってくれるであろう、というものだ。
 この信念は、資本主義、及びマルクス主義双方のアジェンダの前提である。アナキストの主張としてはそれは必ずしも明確ではないが(一般的にテクノロジーやそれに伴う中央集権的支配については懐疑的な傾向が強い)、同じ生産水準を達成するのに必要な労働はどんどん減少していき、ついには全く労働する必要はなくなるだろう、という暗黙の前提があるのだ。そして我々は、レジャー人生を楽しむことができるようになるだろうというのである。
 労働皆無の思想は、「一日あたりの労働を四時間にせよ」という要求をさらに拡張した論理である。19世紀におけるポール・ラファルグの「怠ける権利」や、最近のボブ・ブラックはそのように主張するけれども、たとえテクノロジーがいくら進歩しようとも、労働は常に我々とともにあり、またこれからもそうありつづけることだろう。
労働はその性質自体によって、長期のコミットメントを必要とする。 社会でなされる労働の大半には、選択の余地などないのだ。確かに労働の多くは面白くないし、必ずしも創造的ではないかもしれない。 子供の汚れたおしめを変えなければならない。 種をまき、手入れをしなければならない。 食糧を収穫し、いろいろな方法で保管し、料理をしたりしなければならない。 涼んだり温まったりするために、燃料や宿泊場所を整えなければならない(寒冷気候では当然だ)。 子供たちの面倒を見なくてはならない。 人々は服を着なければならないし、病気は治療されなくてはならない。
世界中で、これらの労働の大部分は女性によって担われることが多い。 特に賃金システムから外れて生きている人々には、労働-手仕事- は生存のために不可欠なのである。実際、産業の賃金奴隷制度から解放される代価として、むしろもっと多くの労働をしなければならなくなる公算が高い。
 その上、もし我々が現代の中央集権化された都市社会/産業社会を前提にするなら、少なくともその巨大なインフラを維持していかなくてはならないのである。そのためには労働は高度にコーディネイトされ、専門的なままでなくてはならない。 道路や歩道は修繕されなくてはならない。 ゴミを清掃しなくてはならない。 水を人々に供給しなくてはならない。 廃棄物を撤去し、環境上安全な方法で処理しなくてはならない。 エレベーターを駆動するモーターを動かさなければならない。 熱・水・電気や電話なども維持されなくてはならない。 「誰か」がこれらすべての労働をしなくてはならないのだ。
「協力して」であろうと、「個人的」にであろうと、大勢であろうと、強制であろうと、何であってもよいが、とにかくこれらの労働がなされなくてはならないのである。


しかしながら、私たちの労働をもっと有意義な形に組織する方法が存在する。 経済的な解決法も存在するし、個人的な解決法も存在するが、もちろん、すべて政治的な解決法である。また多くはもっと深い問題、道徳的な問題なのである。

21世紀における労働の性格を変えるためには、現在の労働環境を支えている社会のあらゆる領域において、我々は変化を図る必要がある。資本の中央集権や金融システムが生み出した資本・利益の私的支配を我々は継続するべきなのか、確立された分業は、個人が働く上で人道的・生産的なのかどうか、我々が望むテクノロジーの技術水準は、我々の生活水準に対して支払わされる環境コストとつりあうのか、人々にムリヤリ消費の強迫観念を植えつけるようなやり方を、これからも続けるべきなのかどうか?
我々はどれくらいの労働を望んでいるのか、どのようにしてその仕事を達成するのか、ライフスタイル、我々の望む生活水準、我々が環境に及ぼしたい影響、我々がガマンできる汚染水準はどれくらいなのか?
そういった問題に私たちは取り組む必要があるのだ。

 我々はまず、「人間にとって基本的な必要な量はどれくらいなのか」、また、「どれだけあれば十分なのか」を認識しなければならない。 次に、それらの基本的な必要を保証し、それ以上の消費を制限するような経済構造を採用する必要がある。
 ポール・グッドマンらは、「二重構造の経済」を提案している。第一の水準が基本的な共同社会の必要を満たすための経済であり、もう一つが個人の要求や欲望を満足させるための経済である。この経済では、働く能力がある者は、自分たちの基本的な最小限度の所得を保証するために働くことを要求される。それによって個人の必要や、共同体のインフラを構築・維持するための経費をまかなうのである。
人々は毎7年のうち、5年間は働かなければならない(二年は休息の年)。
各個人はまた、もっと消費するための所得を得るため、もう一年余分に働くこともできる。それでも一年の休息年は必要であろう。
第二水準の経済で得られる総所得は、全体的な消費を抑えるために限定されるべきであろう。第二水準の経済では、個人の選択権はある程度まで考慮されるが、個人が得られる総収入は、最低限保証される所得水準の5倍以下に抑えられることが理想であろう。
本当にかったるくて、退屈で、危険で、不快な「労働」(たとえば危険な環境で働く鉱夫など)を選択する場合は、そうでない労働の場合よりも短い労働が割り当てられる。 また、難しい仕事は交替制にする。
 労働に対する反対論の一部は、その単調な性格によるものである。だからもし我々が、一人の個人だけが重荷を負わされたり、長期間その労働に従事したりしなくてもいいようなシステムを作り上げるなら、労働は長い目で見てより容易になり、それに従事する個人の健康に害や危険をほとんど及ぼさないものになることだろう。 この二重構造の経済が「コントロールされた」経済でなければならないのは明白である。しかしそこでは、大多数の人々に課される労働は、最小限になるはずだ。
 多くのアナキストはこのような提案には賛成しないかもしれない。しかしその長所は明らかだと思う。それは消費を抑制するか、少なくともペースダウンさせるであろう。なぜならほとんどの人々は、働きすぎより二年の休養を取る方を選ぶだろうから。基本的な必要を満たすことについて心配する必要はほとんどない。富はいっそう均等に分配されるだろうし、消費での個人の自由も考慮される。そして労働は共有されるであろう。

 我々はもう一度、技術開発の方向を再検討するよう要求しなければならない。 たとえ自然に戻る強い欲求を持っていたとしても、多くの人々がテクノロジーの進歩した社会の快適さを棄て、19世紀の田舎農場のつらい労働に戻る、なんてことは全くおこりそうもないし、非常に非現実的である。
しかし、テクノロジー自体と、それを追求するべきであるかどうかは、コントロールされなければならないし、全体として社会の進む方向に向けられなければならない。 我々は技術開発を意識的に制限しなければならないのだ。
 ニワトリを解体する最も効率的な方法は、誰かが毎日、一日中同じ作業を繰り返すことであると考えられるが、我々はそういうやり方をして、労働者の手根骨の節に永久にダメージを与えるべきではない。
我々はまた、環境上安全な技術を要求しなくてはならないのだ。 我々にとって重要なことの一つに、出来る限り地球環境への負担を軽くすることがある。
我々は長持ちするものを作ることから始めることができよう。
これは現在の消費社会に対する180度の転換と反論であろう。
我々は新しいものに熱狂し、飽きてしまえば投げ捨てるようになっている。
けれども「新しい」ものの真の性質とはいったい何であろうか、なぜ我々はそんなに新しい物を欲しがるのだろうか?
 多分それは、我々の側が創造力を喪失しているからである。そのため、次々に変化する新製品の配列に目を奪われてしまうのである。 例えば、丈夫な作業服を着て、同じようにただ頑丈に造られただけの自動車に乗ろうと決心することは可能だ。しかしこれで我々が望む自己実現ができ、自尊心を満足させることができるであろうか? 我々はものを消費する必要があるのか、あるいは我々個人の自己表現は、フェイスペインティングだけにするべきだろうか?
 我々は浪費をせずに自分について語る方法をみつけなければならないし、消費以外の手段で自分自身を表現する方法を見いださなくてはならない。
私は最近、ロシアではくずかごが欠乏しているという事実 - ロシアの社会は廃棄物を多く出すような体系ではないということを示す確かな徴候 -を知って衝撃を受けた。 (けれども彼らは、不運にも、そこに行き着いている。)

 我々はまた、労働による個人の疎外の蔓延を克服する方法を考えなくてはならない。 労働廃絶論者は、賃金労働に噛み付き、無意味な労働に噛み付き、繰り返しで神経を衰弱させる労働、不必要な労働、細分化された労働 - 労働者がコントロールできない労働に噛み付いている。
 良い労働とは、自己の精神集中の手段であり、またそうあるべきである。
良い労働は創造的なエネルギーとリソースを要求する。それには知性的努力と身体的努力を統合する必要があるのだ。
 労働の死体解剖哲学は、仕事をすべてバラバラにし、それを最も小さい重要でない行いに分解すること、そして最も効率的な方法で機械化する責任を持つエンジニアに委ねることである。これはその本質から仕事を奪い、労働者から満足を奪ってしまう。
 我々の哲学でさえ、このような機械的・技術的な世界観の呪縛のとりこになってしまっった。「哲学」としてのポストモダニズム(それは哲学ではなく、単なる反抗だけであった。ほとんどすべてがそうであったと言っても構わない、と私は思う)は、企業による消費資本主義の支配的な覇権を批判する道具として始まったが、それ自身の破壊的な還元主義的手法によって、自滅してしまったのである。 今や拠り所はなくなり、自分自身の乏しい個人的リソースの上に投げ出され、さまようしかない。
 皮肉なことだが、ポストモダニズムは、消費社会をうつす完璧な鏡であった。そこには歴史もなく、連続性もなく、責任もない。 ただ手当たり次第に、「今」の些細なものごとに子供っぽく感応するだけであり、安易な満足感があるだけである。

我々の労働もまた、バラバラに細分化されている。
産業資本主義によって洗練された分業の方法論が生み出したものは、感覚を麻痺させる流れ作業のライン、繰り返し動作病と「科学的な」マネージメントであった。 分業はその結果として、機械的な労働者や、孤立した機械的市民を産み出した。彼らが関心をもつ分野は極めて狭く、政治には全く無関心で、落ち着きがなくて集中できず、そして他者から完全に孤立して生きている。 集団生活には参加せず、社会に対して無責任で、自分だけがよければそれでいいのである。

我々の社会に必要な労働を何時間も削減するのは、やり方次第でできるはずだ。もし我々が高度に発展したテクノロジーを労働に適用して、利益を排除すれば、我々は必要な労働時間数を減らすことができるだろう。
我々はまた、多くのテクノロジーのプロセスを排除することができる。 我々が、テクノロジーの規模を縮小し続ければ、当然それは労働を増加させるか、生産・消費を縮小させることにつながる。 アナーキストは伝統的に、テクノロジーの水準は低い方がよいと考えてきた。なぜならその方が非中央集権化と矛盾しないし、必要な資本量も少なくコントロールしやすいからである。


 良い労働には多くの面がある。それは個々の人間の精神や共同体の健全性をはぐくむのに重要な役割を果たす。有意義な労働が我々に達成感を与え、満足感を与え、それがまた想像力を働かせ、知的な健全性を育成するのに役立つのだ。 他方、悪い労働(Labour)は非人間的である。それは無責任と知性鈍化の環境を作る。 その無意味な繰り返しは、精神をダメにして、注意深さや好奇心といった知的習慣を蝕むのだ。

 良い労働は、究極的に社会と民主主義にかかわってくるのである。
他者のために、他者と協力して労働がなされる時、それは最も満足でき、そして充実したものになる。人が最もフルにその潜在能力を発揮することができるのは、このときなのである。
例えば、芸術は社会に消費されるために創造される。 手仕事はその美しさを完全なものにするために、鑑賞力のある観客と共にデザインされる。文化を創造する労働、社会的政治的な共同体を作る労働は、おそらく人間の手による最も重要な労働である。

 労働疎外はすべて、人間同士を互いに疎外させ、有意義で満足な共同生活を作り出す「労働」から人々を疎外させる結果になった、と私は考える。 現代の「仕事」は、人間の潜在能力を最も良く発揮させる共同体を破壊しつづけてきた。 某著者が「労働のプロレタリア化」と呼んだ苦役から、人々が離れ脱落して行ったように、人々は政治や社会共同体をはじめ多くのものから、離れ脱落して行った。

労働からの疎外は、人間がお互いに疎外しあうことへとつながっていく。 なすべき良い労働があるのに労働を拒否するのは、自分自身を疎外することである。つまり、私はそれには反対だ。
人間として、私たちは最小限、集団が生きるための労働に貢献する義務を負っている。 いや、人は労働を拒否するぜいたくを持つべきである。 だが、この共同体の生存のための労働を分担することは、必ずしも抑圧的ではないのだ。
他人のために、他人の用途、他人の満足のためにこれをすることと、他の人たちがあなたのために同じことをするだろうということを知り、他人を信頼すること、これこそが労働の本質なのである。
 抑圧的なのは、強制労働や搾取労働、商品化され交換される以外には社会関係を拡張しないような財やサービスの生産労働である。
 我々には、ラディカルな労働の建て直しが必要なのであり、その廃絶が必要なわけではない。

 そして我々は、「我々はお互いのために何をするか?」「我々の労働とは何なのか?」という質問からはじめなければならない。 単に我々が何を「する」か、をお互いに尋ねるだけでなく、我々の個別の労働とは何であり、我々を孤立させるシステムに、我々がどのように適合させられるのかを問わなければならない。
 我々が本当に自分たちの労働に打ち込むなら、子供たちの世話を誰がするかという問題や、誰が我々の衣食住を満たすのかといった問題は解決されるであろう。

次のコンセプトは、個人の向上と共同社会の政治的/社会的な関与のために重要である

(1)他の人たちと一緒にあなたの仕事をしよう。 疎外されない労働は、他の人々とともに相互に影響しあう環境で可能になるのである。

産業資本主義において、労働者に対する経営支配の重要な手段の一つは、例えば、仕事中互いに話をする権利を与えないことである。
参加は有意義な経済発展や効果的な政治行動のために重要である。 労働は他者と共に、他者のためになされるべきである。 生産物は共同体から産まれ、そして共同体に戻らなければならない。 これが新しい労働倫理の基本なのである。

(2)労働における熟練の必要を認識しよう。
労働の機械化は、労働に従事する人間が創造的であろうと努力する衝動や好奇心を殺してしまう。また、機械化は中断を嫌うから、労働者は単なる見張り役、機械への付き添い人にされてしまう。有意義な仕事を求めなさい。

(3)自分自身の行動に責任を持ち、自分の労働を自分自身でコントロールしよう。

(4)自分の労働を通じて全体の感覚を養い、部分がお互いに関係をもつ方法を追求しよう。
分業は重要な政治的な技能、すなわち手段と目的をつなげる能力を減退させる。

 種類は違うが関連する問題は、機械の世界観は、原因と結果の理解をいかに単純化するかに集中している。我々はほとんど無意識のうちに、論理的・機械的な説明を好むようにされている。そしてあいまいさ・複雑さに我慢ができなくなっている。 硬直した機械の世界で、我々のフラストレーションのレベルは著しく増大し、そして我々は繊細な感覚を失い、微妙な処理をする能力を失ってしまう。
(5)テクノロジーのプロセスを単純化しよう。
数年前に反テクノロジーを論じたFifth Estate seriesのT.Fulanoによれば、テクノロジーそれ自体が、政治的な管理システムであるという。「今日のテクノロジーシステムを形成している規模の巨大さ、仕事の相互関連とタスクの階層化が、権威主義的支配を必要にし、独立した個人の意思決定を不可能にするのだ。」 (1981)。
 「スモールイズビューティフル」でE・F・シューマッハーは、「科学技術のインフラを単純化することが、政治権力や労働者支配を非中央集権化させることにつながる」と主張している。
 権力や支配を中央集権化するテクノロジー的インフラの組織要素が、巨大化、ヒエラルキー化、専門化、製品の標準化、そして仕事の単純化などをもたらすのだ。
 自由で民主的な経済の原理は、その経済構造に小規模なものを選択すること、ヒエラルキーによらない組織化をすること、協力して労働すること、仕事と製品を多様性に富んだものにすること、そして仕事を単純化させないことなのである。

(6) 生産手段の私的所有を廃止しよう。

新しい社会の経済は、生産手段の私的所有の観念の再検討を要求する。
社会主義のいくつかの形式は「失敗した」けれども、我々にはまだカール・マルクスが百年以上前に明らかにした資本主義の問題が残されている。 世界経済への新しいアプローチも、同様に発展させられなくてはならない。 世界経済の問題は現実に存在し、我々はどのようにそれに対応すべきか、ほとんど戦略を持ちあわせていない。
 我々は第一に、あらゆる経済で最低賃金が保証されることを要求するべきである。 全世界で最低賃金を保証することが、資本の絶え間ない動きを鈍化させ、利益と投資のコントロールを取り戻し、生産手段を適切に配置できるようになる。
どんなに特別な労働市場においても、労働の付加価値は市場に残されるべきである。労働は、工場/仕事を作る際の投資や労働に対して経済発展の創造者に返済するためになされたのではない。
価格もまた通貨の比較価値を世界的に安定させる必要がある。 合衆国で20ドルするブルージーンズがロシアではたった5ドルであることは、ドルとルーブルの相対的な価値の差を反映している。
 特定の産業に必要とされるインフラのコストは、すべてその産業が完全に負担するべきである。すなわち産業に必要な道路、下水、動力、労働者のための公共輸送機関のコストなどである。 企業の社会的責任を確立し、法律で規定しなくてはならない。 資本は簡単に移動できるが、一般に人々はそうではないから、企業が移転しようとする時は、特に注意が払われなくてはならない。 ある社会の労働者が産業や企業に提供した資源は、その社会の不動産として残されるべきである。企業はその社会で仕事を続ける方法を見いださなくてはならない。 利益よりも強制的な理由として、もっと安い労働供給か厳しくない環境規制が、企業が新しい場所にその投資対象を移すことを許される前に、与えられなくてはならない。 <br  増税による資金調達をやめ、企業に少なくとも利益の50パーセントを税金として払うように要求しなさい。

 これらの提案の多くは、急進的な改革以上に改革への意志を持っている、たとえ首尾一貫した選択肢ではなかったとしても、それは出発点になりうるはずなのだ。