タイトル: アナーキズム、労働、官僚主義
サブタイトル: デヴィッド・グレーバーに聞くインタビュー
著者名: David Graeber
トピック: アナキズム, 労働
ソース: https://note.com/neverawakeman/n/n0602ca906357
https://note.com/neverawakeman/n/n5f548b4e9164
https://note.com/neverawakeman/n/n84fc5bce5914(2023年10月28日検索)

根深い、文化的なところで、みんな本当は信じ込んでいます。少なくとも、地味に鬱陶しいと思えなければ、その仕事に価値はないのだと。

人類学者にして活動家、ベストセラーのアナーキストのデヴィッド・グレーバーが語る、警察国家とブルシット・ジョブについて。また、資本主義は悪であると人々が話さなくてもいい理由について。

アロ・ヴェルメット: あなたがエストニアを訪れて、国際正義運動について講演した2003年といえば、進歩主義者にとっては厳しい時代でした。9・11テロから数年しか経っておらず、イラク戦争への準備が進み、反対デモは失敗の兆しを見せていました。しかし、あなたはそのときにも、そして『来るべき崩壊にむけた実践的ユートピア思想家のガイド』でも、あることを書いていましたよね。当時は失敗だと思われていたデモ活動も、振り返ってみれば実はずっとうまく成功していたことがわかるということです。

デヴィッド・グレーバー: ええ。我々はその場では敗北してしまいましたね。9・11のテロのあと、反主流派が皆取り締まられるはずだということは誰でも分かっていました。しかし驚くべきだったのは、路上デモの芽を刈り取るというだけのことを実際行うのに、体制側がこれほど時間をかけなければならなかったことです。これはマイアミ・モデルと呼ばれています。マイアミ世界貿易交渉の間、抗議活動者を叩きのめすために過剰な武力が行使されました。多くの人が深い傷を負い、そこでは大規模な逮捕も、拷問も、なにもかも起こっていました。

しかし、サミットで実際起こったことを同時に見てみるとどうでしょう。数年にわたって推し進めてられてきた、アメリカ国内にネオリベラル的な圏域を作ろうとした計画の失敗を彼らは認めることになりました。つまり、私たちが止めようとしていたことは、実際に止めることができたのです。当時の我々はIMFに対する大規模な抗議活動を計画していて、その内容は多岐に渡るはずでした。けれどその後にテロでツインタワーが崩落し、「いや、この活動やる意味ある?」となってしまいました。結局、他の参加者の士気向上のために抗議活動は行うべきだと決めましたが。アイオワのデモインに住んでいるアナーキストの3人に1人は、きっと今この瞬間もひどく孤独に感じていることでしょうし。

そんなわけでデモは行いましたし、そこにいた警官の多さにも驚きませんでした。彼らの数は我々の二倍、警察側の発表では目方で4倍にも及びました。膨大な数の警官が重装備で我々を取り囲み、世界銀行のビルの真横で我々にケトリング(狭所に閉じ込める群衆鎮圧方法)を仕掛けていました。普通なら、ビルの近くに行けることはありません。ビルは総ガラス張りだからです。どういうことか、もうお分かりですよね。連中は「来いよ間抜け、ガラスを割ってみろ、痛い目見るぞ」といった調子です。彼らはこちらを殴り飛ばすチャンスを探しているだけでしたし、こちらとしてもそんなチャンスを与えようとはしませんでした。あるときなどは我々の中の1人がピザを頼んで、配達員が警官の列をすり抜けられるか試してみたりしていました。とはいえ、我々はひどく意気消沈して落ち込んだ気分で帰ることになりましたね。

その後、私は世界銀行の職員と結婚した人と話しました。このデモは彼らの人生で一番恐ろしい経験だったそうです。18段階にも及ぶセキュリティが施され、職員は身体検査をされたのだと。世界でもっとも裕福で権力のある人間が集まって自身の富と権力を祝う会合だったのに、それが悪夢と化したわけですね。参加者の半分は会合に行きさえせずにビデオ通話で参加し、パーティはキャンセルされました。我々のせいで、彼らは会合を取りやめたということです。これで気付きました。「間違いなく、連中は我々のことを重要だと思っている。やつらに分かっててこちらがわからないことってなんなんだ?」と。

言い換えれば、体制側が意志を挫くメッセージを送り続けない限り、この運動は感染し拡散していただろうということです。そして、それこそが『ウォール街を占拠せよ』でほんの僅かの間だけ起こったことなのです。ほとんどの人には分かっていませんが——体制側としては、そのデモでは何かおかしなものが沸騰し、揮発していったように思えるのです。一体何が起こったっていうんでしょうか?

起こったのは、とてもシンプルなことです。アメリカにいる者なら誰でも、自分が文字通りの警察国家に住んでいると信じ込まされてきました。通りに出て変革を要求したら、たとえそれが公園に座り込むような非暴力的なものであっても、ロボコップがぶん殴りにやってくるのだと。しかし我々がズコッティパークで座り込みをやったとき、ほんの一瞬だけですが、そんなことは起こらなかったのです!皆、こんな感じでした。「え?ここって実は自由社会ってこと?本当に抗議活動してもいいの?」って。けれどその後に警察はやってきて、だいたい2ヶ月もすると「いいや、ここは自由社会なんかじゃないぞ」って言ってまた参加者を殴り始めるのでした。

『ウォール街を占拠せよ』はただ失敗し、解散に終わったわけではありません。どこかしらの公共空間に皆を連れていけるなら、直接民主主義を求める運動をそこで作り出せるという事実が肝心なのです。そうした空間に行くのは安全でなくてはいけません。『ウォール街を占拠せよ』の行進へ参加することに警棒で殴られたり監獄に叩き込まれたりするリスクがあるのなら、子持ちや老人は来なくなるでしょう。だから、過激な活動家しかやってこないんです。シンプルですよね。

ヴェルメット: この観点でいえば、2017年(このインタビューの行われた当時)はずいぶん酷い時代の再来のようですね。特に、政治運動において最も重要な信条——企業主導型グローバリズムとネオリベラリズムへの反抗——の一部が右翼やドナルド・トランプのような人間に支配されてしまってからは、この信条が捉える正義の概念が、正義どころか、むしろもっと権威主義的でトップダウンなものとなってしまっています。

グレーバー: トランプの存在はまさにこの状態を表すメッセージの集合体のようなものですよね。言ってしまえば、彼のような人物はいつでも居たのですが、大した興味を持つ人は誰もいませんでした。人々は我々(左翼)のようなオルタナのほうを好んでいましたから。私はリベラルな権力者層エスタブリッシュメントに宛てた公開状を書こうかと本気で考えていましたね。「我々が警告せんとするところを見よ!アメリカに住むほとんどの人間が、政治システムは根本的かつ完全に腐敗していると思っている。その考えはもっともだ。なぜなら、民主党のコア支持層と呼べるのは経営管理者階級の人間だけだからだ。民主党というのは、もし合法化されるのであれば贈収賄も許されると本気で思っているようなやつらだ。誰もそんなふうには考えていないというのに」……だいたい、こんなことを皆に伝えようとしていました。

我々はこれをしかるべき活動にしようと試みました、すると警察が叩きのめしにやってくるわけです。警察を差し向けたのはリベラルであって、右翼ではありません。『ウォール街を占拠せよ』を鎮圧した首長は大部分が民主党支持者であり、つまりこの鎮圧は民主国家体制の下に行われたのです。連中は自分で蒔いた種を刈り取ったということですね。米国内における左翼——自らの主張するところでは左翼主流派——はふつう、左翼の過激派ラディカルを自らの主敵とみなしています。右翼はそうではありません。こうして右翼は勝つのです。

実存的な問題のために過激派を切り捨てると、政治方針を巡る問題のために彼らを切り捨てられなくなります。そのとき彼らはもういなくなってしまっているのですから。右翼はそのことを分かっています。だから、民主党員が合衆国憲法修正第一条(信教・思想の自由)に固執し、共和党員は修正第二条(武器保有の権利)に固執しているという昔ながらの状態にとどまっていれば、トランプが大統領になるようなことはありえなかったでしょう。

トランプとブレグジットにより何が起こるのかはわかりません。しかし皮肉なのは、彼らが誤った理由でこちらを責め立てていることです。向こうはこちらを反国際主義者といいますが、それは違います。我々は自分たちを国際主義活動あるいは国際正義活動と呼び、企業主導型グローバリゼーションに代わるものを求め、境界線ボーダーを消し去ろうとしていました。もしその活動を弾圧するというなら、それこそ本物の反国際主義活動となりますね。

ヴェルメット: これまで見落とされてきたポピュリスト的政治運動の一部はグローバルサウス(訳注:南半球の発展途上国を意味する地政学用語から派生し、"現代資本主義のグローバル化により負の影響を受けている世界中の地域や人々"を指す)や旧東側諸国で起こっていて、その多くがトランプやブレグジットに先立つものでした。この右翼ナショナリズムの波には、インドのナレンドラ・モディ首相やフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領だけでなく、ここ数年でポーランドやハンガリーで起こった出来事も含まれます。かつてこれらの地域は、無政府主義運動を育む最高の土壌であり希望の地だったはずです。一体、何が起こったというのでしょうか?

グレーバー: アナーキズムの希望はまだそこに残っていますよ。本当の問題は、"体制側は何に対して支援を行っているか?"なのです。ベネズエラのチャベス元大統領のような人を見るとどうでしょう。彼は国内的には概ね権威主義者といえますが、対外的にはラテンアメリカ諸国の借金を帳消しにしたりと多くの善政を行いました。彼は実際そこまでラディカルなわけではありませんでしたが、そんな人物でさえ、絶え間ないクーデターや反乱、陰謀に直面してきました。しかし、ドゥテルテのような人物をCIAがわざわざ失脚させようとするでしょうか?私にはそうは思えません。

もしあからさまなファシストがいても、なんだかんだ許されるものです。しかし、左派ポピュリストとなるとルールはまるで変わってきます。いきなり体制の全てが評判を傷つけ、追放しようとしてきます。これは一理ありますよね。政治運動が起こっている一方で、人々は"左派ポピュリストへの投票は反抗を示す行動である"という教訓を得ています。その投票は自身に対してあらゆる形の圧力をかけるようなものだからですね。本質的に、自らの国を戦場へと変えるために票を入れているというわけです。なので、多くの人がただ首をすくめて「仕方ないさ、権力者たちは一線を半ば越えているようなもんだ——けど、実際はお咎めなしだろうよ」と言うのも不思議ではありません。

ヴェルメット: 国際的な圧力に加えてあなたが主張しているものといえば、人々はイデオロギーによってネオリベラリズム体制に閉じ込められているということです。負債や労働に関する道徳については、特に。負債にまつわる道徳については色々と議論してきましたから、今度は労働の道徳について話しましょう。直接民主主義を求める闘いにおいて、労働の道徳が重要な問題であるのは何故ですか?

グレーバー: それこそ、私がいま取りかかっている仕事なんです。2013年に私は『ブルシット・ジョブ現象について』というエッセイを書いたのですが、これは今まで書いた中で最大の成功を収めました。このエッセイはとてもありふれた経験に基づいています。私はほとんどカクテルパーティーに行ったりしないのですが、もし出席したら、自分の仕事について語りたがらない人を少なくとも1人は見つけて、そちらに行くようにしています。そこで、自分が人類学者で、マダガスカルでフィールドワークをしていることを説明すると、彼らはとても興味を持ってくれるのですが、自分の仕事の話になると急に話題を変えるんですね。

何杯か飲んでから、彼らはやっとこう言います。「上司には言わないでほしいんだけどさ、僕はなにもやってないようなもんなんだよね」と。彼らは中間管理職で、会議でグラフをプレゼンしていますが、実のところ誰もそんな会議に出たくないし、結果として何も変わりはしません。そこで、私はこうした仕事のことを"ブルシット・ジョブ"と呼ぶことにしたのです。

非常に興味深いのは、これが社会的な問題であるとは誰も考えていないことです。一つの理由としては、自由市場というイデオロギーのもとではそんなこと存在し得ないからです。そんなブルシット・ジョブが存在できるのは、一切れの肉を売るのに5人の人間を雇っていた旧ソ連のようなところだけであり、西側資本主義諸国ではない。とりわけ、利益追求を旨とする大企業ではありえないのだと。資本主義の最大の利点の一つは効率性です。ならば、どうしてこんなことが起こっているんでしょう?

もう一つ知りたかったのは、自分の仕事がブルシット・ジョブであると思っている人がどれだけ存在するかでした。驚いたことに、そのエッセイが発行されて2週間経った頃には13ヶ国語に翻訳され、一日数百万ものアクセスのせいでサイトはひっきりなしにダウンしていました。これで気付いたんです。なんてこった、これって思ってたよりずっとありふれたことなんだ!って。ついに、イギリスの大きな世論調査会社であるYouGovが私の書いたことをそのまま用いて調査を行いました。

その結果、37%の労働者が自分は社会に対して有意義な貢献を果たしていないと考えていることがわかったのです。50%の人は自分の仕事に意義があると考え、13%はよくわからないとのことでした。無意味であるなど考えられない仕事がどれだけあるか考えると、この事実はとても印象的です。ナースやバス運転手であれば、明確に社会へ貢献していますよね。くだらないことばかりしている一日かもしれませんが、その日の終りには、有意義だったと思える仕事です。この調査は、無意味ではないかと思える仕事は実際に無意味であることを示しているように思えます。

市場経済でこんなことありえるんでしょうか?我々が暮らしているのは実のところ市場経済などではないからというのがその理由の一つです。市場は非常に大きな企業が寡占していて、政府と繋がりを持っています。こうした企業が競争を加速させていて、中小企業にはそれだけの企業内官僚はとても雇えませんから、実質的に彼らがルールですよね。それだけではありません。ここで取り扱っているのは我々がどのように労働道徳を理解しているかという根本的な疑問のようにみえます。根深い、文化的なところで、みんな本当は信じ込んでいます。少なくとも、地味に鬱陶しいと思えなければ、その仕事に価値はなく、貢献もできていないのだと。

ヴェルメット: そう言われると、官僚主義に関するあなたの分析とブルシット・ジョブがどのような関係にあるか考えてしまいますね。そもそも、官僚主義こそがブルシット・ジョブを生み出す第一の存在なのですから。書類屋に管理職、事務屋といった人々を生むのに官僚主義はぴったりでしょう。次に、我々の生活に対して国家が向ける暴力行為の役割をブルシット・ジョブがどれだけ深刻化してしまっているかが——あなたが新著でとても巧みに綴っていたように——強調されています。つまるところ、我々が官僚と付き合わなくちゃいけないのは、そうしないと慇懃に退出を求められるからであり、そうしないと"政策立案者"が警備員を呼んで外に放り出しにくるからですよね。

グレーバー: まさしくその通りです。映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』は観ましたか?

ヴェルメット: ちょうどそれが頭に浮かんでいたところですよ。

グレーバー: ですよね。なにげなく人間らしく振る舞っただけの人をひっつかんで外に放り出す巨漢の警備員が劇中に登場していました。

ヴェルメット: こういう考えに込められた意味について、話してもらえますか?

グレーバー: ええ。日常生活すべてが 安全保障化セキュリタイゼーション される有様にショックを受けてしまう程度には、私も歳を取りました。子供の頃、私はニューヨーク近郊のファイアー・アイランドにあるリゾートに両親と行ったものです。そこは冬の間は誰も住んでいませんが、夏になるとビーチを訪れる子連れの家族でいっぱいになって、皆楽しんでいました。若い時分であれば警官を見かけることなんて月に一度くらいなもので、「警官だ!警官がいる!」って騒ぎ回ったものです。それくらい珍しい存在だったんですよ。その島にいるのはほとんどが裕福な人でしたから、それだけで安全だと思われていたんです。

今、この瞬間、あそこはどうなっているでしょうか?特製Tシャツに身を包み、トランシーバーを持った民間警備員が3,4人船でやってきて歩き回り、誰か酔っ払いすぎていないか確かめています。ビーチに着けば真っ先に小さな交番が目に付きますし、警官がパトロールしています。するとこう考えるわけです、ここで一体なにが起こってるんだ?って。かつては銃を見かけることすら異常だった場所が、ほとんど消え失せてしまったというわけです。遊び場にも、病院にも、学校にも警官がいて、あらゆる施設が戦場になってしまったみたいです。もしくは、いつそうなってもおかしくないと思われているみたいですよね。

現代におけるこうした展開は経済の金融化と関係があるのではないかと考えずにはいられません。究極的にいえば、金融とは資源の搾取と負債の創造のことであり、それは資本家階級が行儀よく言いたがるところの"強制力の執行"によって裏付けられたメカニズムを通じて行われます。この"強制力"という言葉使いすらソフトな言い換えであり、まるで自然の力のように聞こえてしまいます。実際にそれが意味しているのは、誰かが自分をブン殴りにやってくるだけだというのに。

銀行はこの現実を最も象徴するものだといえます。過去の20~30年を通じて、実際には明確な役割を一切果たしていないように見える地方銀行支店が爆発的に増加しました。かつての銀行は20ブロックに一つ、古代ローマの神殿のように建っていて、そこに入ると畏敬の念を抱くものでした。タイル敷きの床にコリント式の円柱、その他諸々。銀行とは、ごくたまにしかないものでした。

今となっては銀行支店はATMと同じような存在ですが、それでも何人かはそこで働いています。なにもかも削ぎ落されてシンプルになった支店は、80年代の仮想現実ゲームみたいに見えます。まるで非現実です。そこで現実的なのは——働く人々を除けば——数字と、銃だけです。銃を持った人とPCモニタが入った建物が2ブロックごとにある。それが我々の生きるこの現実世界を象徴するものの一つなのです。

もう一つ私にとって衝撃的だったのは、我々の社会——特にアメリカ社会——において、いつも正しく動いているのはATMだけであるという事実です。誰かによってこれが指摘されたのは2000年、ブッシュかゴアを選ぶ大統領選で不正な投票用紙が議論を呼んでいた頃のことです。投票用紙リーダーのエラー率が議論されました。どのリーダーでも1.5%から0.5%の確率で読取エラーが発生するらしく、もしランダムでなければ、これは選挙結果を左右するのに十分な確率です。

「いや待てよ……大統領選は4年に一度しかやらないんだぜ。これを直すのってそんなに難しいことなのか?」という指摘もありました。大統領選は我らが民主主義における 秘蹟の儀サクラメント のようなものです——そうさ、大統領が言うことはやらなきゃいけない。けれど、そのやるべきことを教えてくれるのにふさわしい奴を選び出す権利を持てるのは4年に1度しかないんだ、と。これこそ、我々の持つ自由の正体です。そして、投票用紙リーダーのエラー率を1%以下に改善することも未だにできていません。

その一方で、ATMにはいつでもどんな人でもやってきます。一日に2億回もの取引が行われているのに、エラー率はゼロ!ATMに行って、出てくる金額が違うなんてこと今までありましたか?いつも正しいのだから、金額を確認することすらありませんよね。我々の価値観に関して、ここから何が分かるでしょうか?

ロンドン地下鉄へのエスカレーターに乗ろうとしたら二回に一回は壊れているし、橋だって半分は壊れています。あれもまともに動かない、これも駄目。なにもかもめちゃくちゃになって、醜い——ATM以外は。ATMはいつも正しく動いている。それゆえに、金融という抽象概念だけが本物なのだという感覚が植え付けられてしまいます。

ヴェルメット: この状況を実際の政治的活動に移すにはどうすればいいでしょうか?マルクス主義者に「政治運動を組み立てるにあたって、我々に共通するものは何か?」と問えば、彼らはこんなことを言うでしょう。「小売店のフロアがあるだろう。そこには誰もが感じている、労働からの根本的な疎外が存在する。もし皆がそれに気付けば、一致団結して革命が起こる」って。では、労働道徳の分析から自分たちが何をすべきか考えるには、どうすればいいでしょうか?

グレーバー: 私が労働と負債について目を向けるのは、人々を動かすのにあたってこれらが最大の障害だと考えているからです。ですが、これらは非常に弱い障害です。もし、こうした道徳概念——借金を返さないのは悪人であるとか、働かない者や嫌な仕事をしない者は悪人であるといった考え——に頼らなければならないとしたら、それは他に主張できることが何もないからです。

かつては、なぜ資本主義が考えうる他の代替案よりも優れているのかについて、とても強烈な主張がなされたものです。当時言われていたのは、たとえば、「資本主義は格差を作るが、上げ潮はあらゆる船を持ち上げる(万人が利益を享受するという意味の慣用句)。たとえ自分が貧乏でも、子供は自分より良い暮らしができるだろうという理屈は理解できる」といったことです。あるいは、「資本主義は技術進歩を加速させ、我々の暮らしを良くするだろう」とか。もしくは、「資本主義は安定をもたらす。強い中間層を生み出し、予期せぬ政治的動乱を恐れる必要がなくなる。安定と、予測可能な世界が手に入るのだ」とか。

いまとなっては、この3つの主張すべてがまるで成立していません。下層に暮らす人々の概況がますます悪化し、改善などしていないことは火を見るより明らかです。政治的な安定も得られていませんし、19世紀から1950年代頃までのような技術的な進化も頓挫してしまったようです。iPhoneの新機種を水道水や飛行機と同じように比べることはできません。iPhoneで生活を同じように良くすることはできないからです。キッチンの様子を調べれば分かるように、1950年代までは10年に1度のペースで料理や洗濯のやり方をまるごと変えるような発明がありました。ええ、今は違います。キッチンはほとんど当時のままで、レンジが加わっただけです。

ヴェルメット: 付け加えるなら、多くの人の生活を悪化させるようなイノベーションはたくさんありましたよね。

グレーバー: その通りです。あなたは何を思い浮かべましたか?

ヴェルメット: たとえば、ロボットです。自動化により、十分な賃金が得られるもっとも基本的で当たり前の仕事が排除されるのではないかという恐怖ですね。

グレーバー: ロボットの面白い点はそこです。不快な仕事はなくなっていくという予測がいまや問題に変わってしまっているという事実は、我々の経済体系をとても奇妙に反映しているといえます。この問題をうまく処理できないというなら、それは経済体系が病んでいることの確かな証となりますよね。

先述したような道徳的主張が為されなければならない理由はここにあります——現実的な主張が存在しないからです。人々を結集させるのに特別な理由が必要だとは私は思いません。こうしたアイデアは、"別の思想に至る理由を得られない限り、人は現状を概ね大丈夫だと考える"という仮定のもとにあるからです。私は、そのようには全く思っていません。アメリカでの『ウォール街を占拠せよ』運動のおかげで、人々が現状を全然大丈夫などと思っていないことが明白に示されたと考えています。

農民一揆の事例について、とても興味深い研究を挙げましょう。1525年のドイツや1387年のイングランドでなぜ一揆が起こったのかを議論する際に、何を説明すべきかが歴史家にとっての疑問になりました。多くの人にとっては、「どうして農民は怒ったのか?彼らを一揆へと駆り立てた不平不満とは何なのか?」が疑問でした。次第に他の歴史家がやってきて、これは間違った疑問だと言いました。なぜなら、農民は自分たちが苦しめられていると知っていたからです。自給自足しているのに、よそ者がやってきて自分たちの収穫を奪っていくという立場に彼らは構造上立たされているのです。

私の考えでは、農民が怒った理由を訊く必要はありません。むしろ訊くべきなのは、なぜこうした農民たちは、これまで一揆を起こした他の者と違って、自分たちは根こそぎ虐殺されなくて済むと考えていたのか?ということです。自分たちがうまくいくと思っていた理由は何なのでしょうか?ドイツでの一揆を例に取ると、新しい軍事技術の拡がりによって農民でも騎士と戦い勝利できるようになったからというのが本当の理由です。彼らが一揆するのに新しい理由はいりませんでした。少なくとも500年近くの間、一揆すべき理由は変わらなかったのですから。

思うに、我々の置かれた状況はこれに近くなっています。人々は既存の体制を嫌っていますが、実行可能な可能性があるとは確信できていないだけなのです。自分たちで体制を作り上げるために各種の制度構造を生み出すなど許されていないと思っているのです。ほとんどの人は深い不満を抱えているはずです。

現状は概ね問題ないとか、体制は基本的に正しく動いているといったことを人々に信じ込ませるのは、今日のイデオロギーの主要なやり方ではないと私は考えます。ほとんどの人は体制がまともに動いていないという事実に気付いているはずですから。イデオロギーが人々に思い込ませているのはむしろ、その事実を理解しているのは自分だけで、自分以外の誰もがイデオロギー上の理想を信じているということです。もし、体制がイカれていると思っている人が自分と同じ思いを持つ人に出会ったら、きっと考えが変わるでしょう。