Title: アナキストとして投票することについて
Author: anarchist_neko
Date: 2022年7月26日
Source: https://anarchistneko.wordpress.com/2022/07/26/voting_as_an_anarchist/(2023年4月18日検索)

投票は、暴力だ。

選挙は「民主主義」の幻想を維持しながら国家の権力を正当化する暴力装置だ。自公維に投票したことがないから、日本政府によって殺された人たちの死について罪を負わなくていい?そんな甘ったれた考えは捨てろ。非Alloシスヘテに対する制度上の差別も、入管も、警察の暴力も、ホームレス状態の人の弾圧も、タッマドーの支援も、資本主義体制も、わたしたちが政府に権力を与えることで実現し続けている。その結果、今日もまた誰かが傷つけられ、誰かが殺された。わたしたちの手は綺麗だなんて、思うな。

だけれども、投票しなければ、殺される。大好きな人たちが殺されていく。わたしが、殺される。投票すれば、もしかしたら、わたしたちを守れるかもしれない。わたしの大好きな人たちの負うはずだった致命傷は、重傷程度で治まるかもしれない。

自分の一票は、入管から天皇制にいたるまでのすべての暴力を確実に一票分だけ正当化する。これまでの、そしてこれからの暴虐に必要な権力をまた与えてしまう。今日(参議院議員通常選挙前日)までずっとずっと悩んで、なお自己防衛として一票投じた。その結論に至るまで、毎回、毎回、すごく悩む。そして、毎回、涙目で、自分たちを守るために誰かを傷つけることを選ぶ。

「消去法で選べばOK!」
「自公維以外の候補者の名前を書けばOK!」
「どんな宝くじよりコスパいい!」

投票は、暴力だ。それは、正当防衛のためかもしれない。確かに、わたしも投票した、これまでも投票してきた。それは、わたしが殺されるのを、自らの自律性と尊厳を奪われるのを、わたしのために、防ぐため。わたしの大好きな人たちが殺されるのを、彼人らの自律性と尊厳を奪われるのを、わたしのために、防ぐため。

その結果、わたしの投票の結果、一人分だけ、確実に国家の暴力が正当化された。その結果、今日も明日も自分が正当化した暴力の被害を受ける人たちがいる。傷つけられる多くの人がいる。殺される多くの人がいる。それを、わすれてはいけない。

それは「投票するな」「投票しろ」なんて単純な話ではない。「自民が~」で終わる話でもない。今日までに国家が繰り返した暴力を、明日から繰り返す暴力を忘れないで、ということ。そこに関与する意味を、絶対に無視しないで、ということ。

「在外投票間に合わない人のためにも投票を!」
「投票できない人のためにも投票を!」

わたしたちのあげる声は、声を奪われている人の代わりなどではない。あなたは、誰も代弁する権利はない。傲るな。

そして、選挙に参加することで、この不平等な制度を肯定し、正当化している。忘れるな。

こんな話をしていたら、以下のように言われた:

ええ。わたしにも被選挙権があり、供託金出せて、その上で選挙活動を行うことが可能なばかりか、さまざまなマイノリティ属性にも関わらず与党の一員にすらなることができると思ってくれてるのはうれしいよ。だけど、そうなっても「少数の選民」にわたしが入っただけにしかすぎない。わたしが選ばれうること、それは様々な問題の、本質的な答えではない。わたしはわたし以外の経験を、思想を、語れない。同様に、あなたも、あなた以外の経験を、思想を、語れない。わたしが語れるのはわたしの経験のみであるし、あなたが語れるのは、あなた自身のそれらでしかない。

「投票するな」でも、「白紙投票しろ」でもない。実際、私は2枚ともに、私の思うlesser evilの氏名を、ともにわたしが差別的だと思う思想を持っていると知りつつ、暴力であることを承知で書いた。投票を呼びかけるなとも言っていない。事実、投票をしないのは、与党に「有利」であるのは、そして、その結果Queerな人がより多く殺されるのは百も承知だ。その行為の意味を真剣に真剣に考えてと、選挙制度の不平等性も国家制度の暴力も考えずに安易に語るのをやめてと、そして自身の暴力行為に責任をもてと、言っている。

「罪悪感」をおぼえてもどうしようもない。だけれども、ごく一部の人に権力を与え続ける限り、ましてや未だに一票の格差すら是正しない選挙の在り方の中でそれを続ける限り、根本的な解決は遠い。そして、投票をすることで、わたしたちはそれを正当化している。

社会的な力の差異を生む構造の存在する限り、その中で個々の「権力者」を攻撃しても変わらない。これは政治批判も、選挙も一緒だ。わたしの思う「アナキズム」は、この「社会的な力の差異を生む構造」の全てを破壊することを共同体として志向する、という合意形成を求めることであるような気がする。「社会的な力の差異を生む構造」は、わたしたち自身の選択できる言説や行為を縛ってはいるけれど、同時に、わたしたちのこれらによって維持もされているのだということに気づくことが、まず「わたしの思う『アナキズム』」のはじまりであると思う。そして、それ無しには、社会は変わらない。わたしたちは、自由になれない。

それを、ごまかすな。

社会を変えるのは政府だけじゃない。わたしたち自身の自発的な行動や自由な連帯、抵抗を、その力を、それのもつ希望と恐ろしさ。

それを、絶対に忘れるな。