タイトル: 「2023年2月のわたしのアナキズム」宣言
著者名: anarchist_neko
発行日: 2023/02/10
ソース: https://anarchistneko.github.io/an_zine/an.pdf: 2023-02-15
備考: Public domain.

0.「アナキズム」

2023年2月のわたしは、自分らしく生きたい。

本来、この権利と自由はすべての人に保障されているはずである。だから、すべての人が自分らしく生きられる共同体に属している社会をわたしは求めている。そして、無数のそういった共同体が平等に協力しあってなりたっている社会を、わたしは求めている。そういった社会をすべての人が求め続ける社会を求める運動を、わたしは「アナキズム」と呼んでいる。

1.暴力行為と抵抗

2023年2月のわたしのアナキズムは、暴力行為を拒絶する。

本来、すべての人には自分らしく生きる権利と自由が保障されているはずである。暴力行為は、それを奪い、尊厳を傷つけるもの。だから、暴力行為はわたしのアナキズムに反する。

だからこそ、わたしやわたしの大切な人たちが暴力行為の被害に遭い続けているとき、わたしはわたしたちを守るため、あらゆる手段を厭わず徹底的に抵抗する。そのときに限り、必要最小限の暴力行為が認められる。ただし、「本当の敵」は個々の加害者ではなく、加害者をうんだり、うむことを防げなかったり、加害を正当化したりする思想や制度、構造自体であることも、決して忘れてはならない。

アナキストであるということは、すべての人が自分らしく生きられる社会を実現しようとすること。だから、暴力行為を、それを生み出す根源にまで徹底的に遡り、そのすべてを拒絶し続ける。そして、それにより自分らしく生きる権利を踏みにじられたときは、徹底的に抵抗する。同時に、なにが「暴力行為を生み出す根源」なのかを常に考え続け、聞き続ける。

2.イデオロギー、「秩序」、暴力

2023年2月のわたしのアナキズムは、自分らしく生きる自由や尊厳をすべての人が奪われ続けている社会に生きていることを認め、これに抵抗する。

わたしたちは、暴力を正当化するイデオロギーに縛られている。それは、状況や環境によって、国家体制主義、資本主義、本質主義、sexism、racism、ableism、allocishetero-ism、生殖主義、家父長制、植民地主義、人間中心主義、あるいはまだわたしが意識できていない様々な暴力的な思想として、名前やすがたかたちを変えながら、社会に遍在している。これらはたしかに表面的には大きく異なるが、すべて一部の人を「普通」とし、「普通」以外への暴力を正当化するイデオロギーのさまざまな顔にすぎない。

暴力を正当化するイデオロギーは、互いに絡み合い維持し合う規範や制度、権力構造などからなる「秩序」として現実化し、それを通じて正当化された暴力行為として実践される。わたしたちは、「普通」でないとされる属性であることを理由に、日常的に排除され、支配され、搾取され、周縁化され、被害者であることを求められる。わたしたちは、「普通」であるとされる属性であることを理由に、日常的に排除し、支配し、搾取し、周縁化し、加害者であることを求められる。

わたしたちは、無数の絡み合う属性の総体である。その無数の絡み合う属性の一部は「普通」であるとされる。一部は「異常」であるとされる。一部は「普通」ではないながらにも一定に容認されている。これらを元に、わたしたちは、搾取と加害によって成り立つ「秩序」のなかに位置づけられて、加害と被害を繰り返しながら生活し続けている。

アナキストであるということは、自分自身もまた、この「秩序」に参加していることを自覚した上で、暴力行為を正当化するこの邪悪な「秩序」のすべてを破壊するために戦い続けるということ。そのために、この「秩序」の背景にある暴力のイデオロギーの存在をみとめ、これに立ち向かいつづけるということ。だから、アナキストは、反資本主義者であり、フェミニストであり、Queerであり、エコロジストであり、反ableistであり、反racistであり、そして革命的である。

3.イデオロギー、言説、日常的な言行

2023年2月のわたしのアナキズムは、わたしたちの日常的な行為の重要さを理解している。

暴力を正当化するイデオロギーは、社会に、より正確には共同体の言説や言行、知識体系の中に、偏在している。それはわたしたちの言葉の使い方から日々の献立、布団の中に至るまで、あらゆるところに存在する。それはわたしたちのあらゆる日常的な行為を縛ると同時に、あらゆる日常的な行為によって、維持され再生産され再規定され続けている。

イデオロギーは偏在する。それは、大抵「中立的」だとか「普通」であるとされる言説にもっともよく表れる。そこに存在するイデオロギーを指摘すれば「偏っている」とされる。アナキズムに代表されるような、搾取と加害の「秩序」の破壊を求める主張や運動に賛同すれば、「過激」で「危険」であると咎められる。「行きすぎ」で「異常」で「おかしい」とされる。たとえあらゆる暴力行為に反対していようと、「暴力的」な「反社会的勢力」であるとレッテルを貼られ、国家によって、資本家によって、あるいは労働者や「人権家」によってすら、侮蔑され、生活の手段を奪われ、医療へのアクセスを拒否され、他方で「病気」とされ、「犯罪者」とされ、謀略と拷問の末に殺される。そして、斬り落とされた首と面白おかしく誇張された噂話を通じて、「普通」を再生産することを求められる。わたしたちは、だから多くの場合、「中立的」で「普通」な言行のみしか繰り返すことしかできない。わたしたちらしく考え、喋り、身体を動かし、生きる自由は、ここにはない。

だが、同時に。わたしたちは「普通」に縛られながらも、比較的安全に選べるいくつかの選択肢を常に与えられて続けている。それは、「小さな」ことかもしれない。挨拶の言葉として何を選ぶかとか、食肉を避ける日を増やす程度のことかもしれない。しかしそれは確実に一人分だけ社会を変えるのだ。そして、すべて人による無数の「一人分」の選択が蓄積し、「普通」は徐々に変化し続けているのだ。わたしたちはそうやって日常的に社会の在り方を変容させ、次のわたしたちの行動を縛る仕組みをつくっているのだ。

アナキストであるということは、わたしたちが日々繰り返す無数の選択を常に意識し、可能な限り最も「自分らしい」=「アナキストらしい」と信じられる選択を繰り返しながら生きるということ。一人分のもたらす変化が、わたしたちの生きる社会の複雑なシステムに反映され、あるいは、単に周囲の人がまねるという形で、ゆっくりと広がっていくことを理解すること。それを通じて、ともに暴力を正当化するイデオロギーを内側から徹底的に破壊し続けるということ。社会変革に政府はいらない。革命に火炎瓶は必ずしも必要ではない。あなたが信じることのために、今できることを、今できるかぎり、最大限に。それは明日からの戦いに備え、今は休憩することかもしれない。

4.インターセクショナリティ、経験と知識、連帯

2023年2月のわたしのアナキズムは、あなたの物語はあなたにしか書けないことを理解している。

わたしたちは、無数の絡み合う属性の総体として存在する。その無数の絡み合う属性をもとに、加害と被害の「秩序」のなかに位置づけられて存在している。この「秩序」に縛られながら、わたしたちは次の瞬間にいられる場所とできることの選択肢を与えられる。そして、わたしたちは選択を繰り返しながら、様々なことを知り、経験し、考えつづけてる。

わたしの経験や知識を分解することはできない。わたしの経験は、常に、「わたし」としての経験や知識でしかない。世界を経験するわたしは、常に無数の属性の総体である。わたしの撫でた猫は、常に無数の属性の総体としての「わたし」が撫でた猫である、それは、この邪悪な「秩序」の中で経験される「一撫で」である。わたしのもつ属性同士が絡み合うなかで、その瞬間いる社会のすべての人のすべての属性と緊張し合うなかで経験された「一撫で」である。ある一つや二つの属性のみとして猫を撫でることはできない。

あなたの経験や知識も、分解することはできない。常に、「あなた」としての経験や知識でしかない。だから、あなたとわたしが同じある属性を持つからといって、あなたがわたしと全く同じ「一撫で」を経験することはない。わたしがあなたの「一撫で」を代わりに語ることも、知ることもできない。わたしが知ることのできるのは、あなたの語る「一撫で」の、わたしなりの解釈でしかない。

わたしたちはそうやって「一撫で」ごとに世界を経験する。わたしが直接知りうるのは、あくまでわたしが撫で続けることを通じて知った「世界」でしかない。だから、世界をわたしのように知りうるのは、わたししかいない。あなたの世界を知りうるのは、あなたしかいない。わたしが知ることをできるのは、あなたの語る「世界」の、わたしなりの解釈でしかない。

そして、あなたの物語とわたしの物語は、緊張し合い、絡み合い、引用し合っている。あなたの物語なくしてわたしの物語は存在しないし、わたしの物語なくしてあなたの物語も存在しない。そうやってわたしたちも、わたしたちの物語も、わたしたちの「世界」も、存在している。

だからこそ、アナーキーを求めなければならない。あなたの物語もわたしの物語も、誰にも代弁などできない。あなたの物語を聞くことでしかわたしはわたし以外の物語を知ることはできないが、わたしが解釈した瞬間に、それはわたしの物語の一部でしかなくなるのだから。

だからこそ、ともに語り続けなければならない。わたしたちは暴力行為を正当化するイデオロギーそのものに立ち向かっている。だから、ある属性であることが被害を正当化する理由になっているのならば、それを是正せねばならない。そのためには、その属性をもつすべての人の物語と、その属性をもたぬすべての人の物語が、語られ続けなければならない。そして、被害を受け続ける人々の物語が消されてきたことを意識しながら、すべての物語がまもられ続けられる革命行為を続けなければならない。

だからこそ、アナキストは、大文字のAnarchistやFeminist、Activistなどとされてきた人々以外のアナキストやフェミニスト、アクティビストも忘れてはならない。記録に残らなかった、物語をまもられなかった人たちの物語を、忘れてはならない。

アナキストであるということは、わたしたちにしか書けない物語を書き続けるということ。あなたの書いた物語を読み続けるということ。これまで忘れられてきた人たちの物語を、わたしたちなりにまもり続けるということ。語られなかった物語の存在を忘れぬと言うこと。そうやって、わたしにしか書けない物語を書き続けるということ。そして、ともに、わたしたちの物語を語り続けるというということ。そして、もっとよく語り合うために、暴力も、「秩序」も、イデオロギーを再生産する言説も、すべて拒絶し続けるということ。

5.世界、「説明」、二元論

2023年2月のわたしのアナキズムは、世界は複雑であることを理解している。

世界は、ぐちゃぐちゃとしている。わたしたちも、わたしたちらしさも、社会も、社会的交流も、自然も、すべて単純なかたちで描くことはできない。だが、ぐちゃぐちゃとした世界が自分を殺しにかかっているとき、繰り返される抑圧と搾取と暴力を理解できないのは怖い。だから、人々は自分の経験を抽象化し、単純でわかりやすく絶対的な図形の繰り返しで描こうとする。そうやって人々は「世界」を説明し、理解したつもりになる。二元論的な説明で曖昧なものを区別したつもりになり、本質主義的な説明で「定義」をしたつもりになる。絶対的な「敵」と絶対的な「味方」をつくり、虚偽の安寧を求める。いざその「定義」に反する経験があれば、「異常」な「例外」として無視し続ける。そうやって、世界を正確に映し出す鏡を作ったと満足しようとする。それこそが暴力を正当化するイデオロギーの再生産であることも気づかぬまま。

だが、世界はぐちゃぐちゃとしている。単純を求めるのは自然でなく、解釈をするわたしたちにすぎない。綺麗に張られた薄い氷の下は、本当は真っ暗な空洞でしかない。それにある時ふと気づいて、また嘘を重ねて逃げることになる。本当に対峙すべき「敵」を見誤り続け、「味方」側であるはずの自身の罪に気づけぬまま、「定義」することの暴力性を忘れ、一部以外を「例外」として排除するだけの理論を堅持し続ける。そして、永遠に前に進めぬまま、薄氷の上で踊り続ける。

アナキストであるということは、世界がぐちゃぐちゃとしていることを一旦認めるということ。すべての説明が一定の不十分性を持っていることを認め、それの更新を続けると同時に、常に目前のぐちゃぐちゃとした世界をどんな説明よりも優先するということ。そして、これまで「例外」とされてきた人たちの経験こそ、積極的に聴き続けるということ。

だから、アナキストであるということは、この宣言のすべても、この先書かれるだろうことのすべても、常に不十分であるし、一部を排除しているものであると理解するということ。だから、これは「2023年2月のわたしのアナキズム」でしかないことを理解するということ。