タイトル: 均質化を超え、均質化に抵抗する
サブタイトル: 民主的連邦主義による多様性の推進
著者名: Yavor Tarinski
発行日: 2024年1月22日
ソース: https://note.com/bakuto_morikawa/n/nbb241a0ce1ab(2024年2月9日検索)

均質な国民社会は、これまで創られた社会の中で最も人工的で、「社会工学プロジェクト」の産物である。

アブドゥッラー゠オジャラン

現代の人間を定義する特徴の一つは、間違いなく、均質性である。これは世界的規模の現象であり、程度は違えども、この惑星の隅々に影響を与えている。そして、文化は均質になっている。人々はますます、どこの出身であろうとも同じ文化的基準を持ち、似たようなドレスコードを採用し、幾つかの一般的言語の一つを使うようになっている。

均質化の傾向は地政学でもっと明らかだ。一つだけ--国民国家--が中心的役割を果たしており、そのため、国際関係で国家中心型リアリズムという言葉が使われている。

世界の複雑さが他の要因も認めるよう強いても、結局、地政学的関係を作るのは国政術の力だ。あらゆるレベルの均質性が多様性の消滅を導く。独特な言語と文化は消滅しつつある。研究者の知見では、文化的多様性の消滅と生物多様性の消滅は関連している。資本主義的近代性は世界規模の均質化の原動力だ。その擁護者は、世界を一つに近づけるのだからこの程度の対価は仕方ない、と主張するだろう。だが、同一性が世界の頂点に君臨する一方で、私達は民族紛争・戦争・排外主義・戦争ナショナリズムの再興を目にしている。なぜなら、人々を一つにするのは均質性ではなく、理解とエンパワメントだからだ。

むしろ、現在進行中の均質化は人間文明の没落を導いていると言える。その効果は私達が考えている以上に深刻かもしれない。社会的・環境的・生物学的複雑さのおかげで生命は繁栄できる。逆に、哲学者ジャン゠ボードリヤールが述べているように[1] 、同じもので生きている者は同じもので死ぬのだ。

国民国家の支配

均質化効果は無から生じたのでも偶然生じたのでもない。官僚制という特殊権力構造から生じている。官僚主義化は、その主要形態--国民国家--を通じて社会を左右に形作ってきた。ロジャヴァ国際主義コミューンが記しているように、フランス革命以来、国民国家は覇権的政治構造として確固たる地位を確立してきた。

その官僚主義的性質のために、国家主義が機能するためには空間と時間の均質化が必要である。国家主義は要求する。国境内部では、文化と生活様式は、一つの人工的な国民民族アイデンティティへと溶け込み、国家に依存し、国家のために進んで自らを犠牲にし、官僚制のダイナミックスに乗っ取られなければならない。そして、まさにこの国民構築プロセスこそが、ハヴィン゠ギュネシェールが示唆するように[2] 、現代世界を文化の墓場に変えてしまった。彼女によれば、国民国家は全てを均質にし、国民文化を創造するという口実で支配的民族・宗教の文化規範を一般的規範にするのだ。

文化的多様性の喪失は社会を貧困にする。分権化という有意義な展望を遠ざけ、その代わり、官僚主義構造の中核にある政治的集権化の論理を強める。抵抗しようとすると、最初にイデオロギーを使って説得される。それが上手く行かないとなると、物理的力を使い、様々な手段で弾圧してくる。

ロジャヴァ国際主義コミューンが示しているように、「一つの言語、一つの国旗、一つの民族」という前提は新しい国民国家を均質化するセメントになった。それに従わない他のアイデンティティは否定され、弾圧された。アブドゥッラー゠オジャランが表明しているように、均質性を求めた奮闘は、暴力でしか実現できず、従って、自由の喪失をもたらすのである。

このように均質な環境では、現存しているものが唯一の選択肢として提示される。多様で可能性を秘めた現在と未来は排除され、官僚的リアリズムを長期的に再生し続ける連続的ループに置き換えられる。現在の国家中心型世界秩序は、物理的次元では世界規模だが、実際には、社会的・個人的想像力の範囲を狭めている。このように、地球上の都市と村落がかつてないほど繋がっているように見えても、その規模はますます小さくなっているように見えるのだ。前述したように、どこへ行こうと、社会的レベルでも、文化的レベルでも、組織的レベルでも、経済的レベルでも、他のレベルでも、大抵は同じパターンに出くわすのである。

その結果、地球規模で何が起きているかと言えば、人類は、代替ヴィジョンと代替生活様式--資本主義が推進している経済主義と消費主義は無意味だという潮流の高まりに大きく寄与している--を追放する危険な旅へ船出しているのである。デヴィッド゠インペリッツェリ[3] が正しく指摘しているように、均質性と官僚主義化された大衆社会の画一化は公的領域を空洞にし、同質性と大衆の画一性と引き替えに、異質な立場と多元的視点を喪失させるのである。

資本主義と国民国家の共生関係

しかし、現状を熱烈に支持している人々が国家主義への反対を表明し、自称「無政府資本主義者」さえも国全体の運営に参画しているこの新自由主義時代と国民国家はどのように関係しているのだろうか?

この物語は、公共圏を席巻しているとはいえ、世界的な支配的政治構造が持つ官僚主義的本質を隠そうとするイデオロギー的ツールに過ぎない。国民国家という形態はグローバル資本主義の基盤として機能し続けている。だからといって、国政術に大きな変化がないというのではない。確実に変化しているのだ!むしろ、ここ数十年で国民国家は次第に権威主義になり、厳しい緊縮措置によって福祉の機能を著しく減じ、抑圧的勢力の拡大に注力している。特に顕著なのがギリシャのような国々だ。ギリシャは2008年の経済崩壊後、文字通りこのパターンを忠実に踏襲している。これら全ては、単なる偶然ではない。国政術と資本主義には哲学的関連がある。アブドゥッラー゠オジャラン[4] は強調している。権力は、最も洗練され、歴史的に蓄積された資本の形態に向かうのだ。

国民国家のような官僚主義的存在はまさにそうなりがちだ。その存在そのものは、あらゆる有意義な意志決定権と自主活動を社会から剥奪することを中心に展開し、あらゆる権威を少数のエリートに集中させようとする。

私有財産と自由市場の優位性を保証する国家権力の存在なしに資本主義経済は機能できない。だから、ギュネシェールは、今日、権力の方が実際は資本よりも重要だと主張しているのである。

権力が資本主義の搾取を機能・再生産・激化できるようにしている。社会やコミュニティが現状を打破し、根本的に異なる組織モデルを実行しようとすると、必ず、国家勢力が介入し、逸脱者が「唯一の正しい途」へ確実に戻れるようにする。これが、より公正な新社会を大胆に想像し、追求した多くの民衆叛乱の運命だった。1871年のパリコミューン・2006年のオアハカ叛乱・最近ではノートル-ダム-デ-ランドのZAD、社会変革を求めた数多くの草の根活動は激烈に弾圧された。

国民国家は資本主義を世界的に拡大し、世界の様々な場所で先住民族に資本主義を強制する上で中心的役割を果たした。だからギュネシェールは、国民国家を資本主義が社会を征服し植民地化するための最も基本的なツールと呼んでいるのである。

賃労働・飢餓の脅威・土地の私有化などを有機的コミュニティに押し付け、有機的コミュニティを無秩序に広がる資本主義グローバリゼーションに組み込んだのは、様々な形の官僚制だった。資本主義の信奉者達が信じ込ませようとしているのとは逆に、自由市場は自然発生的に現れたのではなかった。カール゠ポラニー[5] は示唆している。政府の側が意識的に、大抵は暴力的に介入した結果だったのだ。非経済的な目的で社会に市場機構を押し付けたのである。

国政術と対をなすものとして、資本主義は生活のあらゆるものの均質化を補完し、さらに強化する。単純さの名の下に複雑さの放棄を促す。単純さは利益につながるのだ。地域の背景がどのようなものであろうとも、全てを収益性と管理可能性に還元する。この商品化は、経済成長メカニズムを通じて、言語や社会関係、人間存在そのものさえをも同化させる(いわゆる「ソーシャルメディア」というビジネスモデルが典型例だ)。新自由主義のレンズは、今日物事を見る際の支配的モードになっており、多様性を、高価すぎる・経済的に非生産的だと見なす。多言語教育に反対する主張を考えてみれば分かるだろう。

直接民主主義・連邦制・多様性

このように、自らを唯一可能なもの・決定論的進化プロセスの産物として示す一つの社会システムが均質性を推進しているものの、それでも、それを覆して多様性を再び増大させることはできる。そのためには社会変革が必要である。政治構造を根本的に再編し、集団的意思決定を通じて多元的な意見を自由に表明できるようにするのである。結局、社会的エコロジストのマレイ゠ブクチン[6] が示唆しているように、多様性の統一という生態学の原則を回復する活動がそれ自体で革命的活動となるのである。

直接民主主義はこの目標を達成するために最も適したプロジェクトであろう。直接民主制社会の政治構造は多様化に必要な条件を最大限提供できる。権力を草の根レベルで維持し、可能な限り分権化するからである。こうした情況には、社会を均質化して搾取・統制しやすくしようとする中央当局や官僚階級が入り込む余地はない。逆に、各コミュニティは集団的熟慮によって自分達の公共問題に対処する。自分達の代わりに国家官僚機構がそれを実行するのを待ちはしない。こうした民主的構造の基本制度が民衆集会と公共議会である。これらは、多元的な意見が交わり、共同生活の将来に向けた政策と戦略を策定する民衆フォーラムとして機能する。

哲学者コルネリュウス゠カストリアディスは示唆している。直接民主制の枠組みの中で、こうした民衆自主管理機関は、社会組織のあらゆる面を扱い、地方自治行政の単位であると同時に、個々の自治コミュニティを結びつける連合レベルの唯一の権力基盤なのである。

意思決定において個人がより直接的で影響力ある役割を担えるようにしながら、本物の公共空間を形成してコミュニティを再活性化する。これらが社会的・文化的多様性の観点を推進する。これはまた、政策を形成し、包摂性を推進し、より幅広い観点の考慮を保証する上で、特定地域にいる疎外されたグループやマイノリティのグループにより強い発言力を与えることにもなる。

体制側はあらゆる有力な形の直接民主主義プロジェクトに対して積極的に抵抗しているが、それでも幾つかの場所は実際に直接民主主義プロジェクトを実行できている。一例が、「北部・東部シリア自治行政区」の諸コミュニティ(ロジャヴァとして広く知られている)で開発された代替システムである。長年そこで実行されている政治プロジェクトは民主的連邦主義として知られ、前述の解放パターンに従っている。権力を根本的に再配分し、地元の各コミュニティがそれぞれの自治を維持し、互いに連邦の形で結び付いているため、偏狭な孤立主義を回避している。この民主的代案は、国民国家を回避し、その均質化効果を排除してきた。ギュネシェールが強調しているように、民主的連邦主義は特定民族のエリア・地方に制限・限定されないからだ。だから、寛容と多様性が広がったのである。

直接民主主義の方針で構成された社会の実例があるのはかなり重要だが、問題は残っている。こうしたプロジェクトを自分の地域で推進するにはどうすればいいのだろうか。第一歩として、これを行う方法は一つだけではなく、青写真もマニフェストもないと認識しなければならない。それぞれの地域には独自の歴史的文脈・想像力の文脈があり、それらを注意深く調べなければならない。

次の段階は、直接民主主義の価値観(そして、その実現に向けた現実の取り組み)を可能な限り多くの人々に伝える活動である。これは前の段階と同時並行で行える。現在支配的な想像力に囚われたままでは前進できないからだ。オジャランは次のように示唆している:

社会が均質な一枚岩であるべきと信じる誤りを犯し続ける限り、連邦主義を理解するのは難しい。近代性の歴史は同時に、4世紀にわたり、架空の単一社会という名の下に行われた文化的・心理的大虐殺の歴史でもある。社会学的カテゴリーとしての民主的連邦主義はこの歴史に対抗する。それは、民族的・文化的・政治的多様性だけでなく、必要ならば戦う意思にも基づくのである。

[1] Jean Baudrillard. Screened Out (London: Verso, 2002), p2.

[2] Havin Guneser. The Art of Freedom: A Brief History of the Kurdish Liberation Struggle (Oakland: PM Press, 2021)

[3] David Impellizzeri. Bureaucratic Modernity and the Erosion of Practical Reason: A Rhetorical Education as an Antidote (Doctoral dissertation, Duquesne University). Retrieved from https://dsc.duq.edu/etd/1843. p146.

[4] Abdullah Öcalan. The Sociology of Freedom: Manifesto of the Democratic Civilization, vol. 3 (Oakland, PM Press, 2020), pp209-10.

[5] Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time (Boston: Beacon Press, 2001), p258.(邦訳書はこちら)

[6] Murray Bookchin. The Ecology of Freedom: The Emergence and Dissolution of Hierarchy (Palo Alto: Cheshire Books, 1982), p8.