Black Flag Sydney

社会主義は慈善事業ではない

「相互扶助」に反対する理由

2021

      相互扶助とは何か?

      今ではどのような意味なのか?

      私達が不満な理由

      サービス提供の落とし穴

      慈善事業:民衆煽動家が使う最初の隠れ蓑

      寄付するな--反抗しろ!

ここ数年間、「相互扶助」という言葉が左翼の中で山火事のように流行っている。この言葉は、特に、小規模なボランティア集団が協力して、ホームレスに食べ物や毛布を渡したり、コミュニティ゠ガーデンを企画したり、警官に止められないよう見ず知らずの人のブレーキライトを直してあげたりするといった博愛的な奉仕活動実践を示すようになっている。相互扶助のカテゴリーには他の活動もあろうが、ここでは、こうしたサービス提供アプローチについて述べる。と言うのも、それが最も代表的なものだと思えるからだ。

私達--組織主義の社会的アナキスト--は、この種の戦術の増加を批判的に考えざるを得ない。左翼の幻想から抜け出して「もっと何かやる」という願望には共感するが、このアプローチへの熱狂が徐々に増えたところで、継続しないだろうと懸念する。まさに、政治的袋小路として機能しているからだ--特に、もっと大きな社会的政治運動から切り離して理解されている時には。

相互扶助とは何か?

簡単に言えば、相互扶助とは、動物--人間を含む--が自身の利益と種全体の利益のために協力する傾向である。この言葉と密接に関係しているのがクロポトキンだ。アナキストで科学者のクロポトキンは、相互扶助を種の生存に貢献する進化の最重要要因だと見なした。この意味で、クロポトキンは、社会的協力を一種の無償の愛に突き動かされたものと考える楽観的ヒューマニストにも、競争に関するダーウィンの考えを着服して既存の資本主義社会秩序を正当化・強化する保守的社会的ダーウィニストにも反対していた。

クロポトキンにとって、人間の協力傾向は、同時に、無政府共産主義の実現を可能にするものだった。科学的観点からすれば、機能的で調和した社会を組織する上で、人間に軍隊・警察・資本家はいらなかった。連帯が、文明を結合する接着剤の役割として権威に置き換わるようになるだろう。競争的市場経済は社会的混乱を招く。自由な生産と分配に基づく社会の方が、もっと安定した社会秩序を保証するだろう。この意味で、クロポトキンは、バクーニンとプルードンのような自分より以前のアナキストが既に特定していたことを再び述べたに過ぎなかった。プルードンが相互主義と呼んだ自身の社会哲学全体の焦点は、相互性、相互依存の原則を中心とする社会の段階的再形成だった。この言葉自体、「相互主義者」と自称していたリヨンの急進的労働者サークルから拝借したものだった。

19世紀と20世紀を通じて資本主義が発達すると、労働者の運動も発達した。最も傑出したものは、労働組合の台頭だった。労働者がその階級利益のために互いに団結すると何を達成できるのか明示したのである。ただ、労働組合だけが唯一の労働者階級機関というわけではなかった。数十年にわたり、戦闘的労働組合は、協同組合・信用組合・友愛会と一心同体だった。

それ以来、様々な理由からその重要性は失われていったが、これらの平和的機関は、数十年にわたり急進主義においても改良主義においても労働者運動の中核だった。質の良い手頃な医療がないため、労働者は協力して毎月賃金の一部を拠出して医療関係者を雇った。同様に、地元の実業家による消費財の大幅な値上げを受け、労働者は消費者協同組合を創設し、卸売価格を活用して組合員に低価格で商品を提供した。

今ではどのような意味なのか?

現代急進主義の言葉では、相互扶助は単に一種のサービス提供を意味するだけになってしまった。ただ、ある意味、これは主流のサービス提供方法--慈善事業と政府の援助--とは異なっている。ケイト゠ルートが2020年10月に「Current Affairs」に寄稿した論文が現在の話法を象徴している。「現代世界で多種多様な人間間の相互扶助の実例」があり、「例えば、中絶基金・保釈基金・草の根の法的防衛と立ち退き防衛・災害対応・食糧配給等がそうである。」

主流派NGOと政府は官僚主義で、トップダウンで、操作的であるのに対し、新しい相互扶助グループは水平的で、ボトムアップで、権能を与え本来的にコミュニティのニーズを表現している。多くの場合、相互扶助グループは、コンセンサス意思決定手続き・有給の指導部の不在・選任される役職の定期的交代といった民主的構造を特徴として持つ。また、有給のスタッフを置かない傾向がある。この文脈で、相互扶助は幾度も「慈善事業」と対比される。相互扶助は善良で急進的だが、慈善事業は悪質で保守的だというわけだ。

私達が不満な理由

端的に言って、大部分の相互扶助組織は、その名にふさわしい行動をしていない。圧倒的に多くの場合で、慈善事業と相互扶助との怪しげな区別は破綻している。強固な相互依存--与えることと受け取ることの双方--を有するという意味で本当に相互的な組織は極僅かである。こうしたグループは主として他者のために活動している。組織を本当に相互のものにするのは、簡単な仕事ではない。ほとんどの人が、自分が現在経験している問題--食料の欠如であれ、未払い賃金であれ、何でも--を解決するために組織に近寄ってきているだけの時は特にそうである。大抵、問題が解決すれば--もしくは、そのグループが援助できなかったら--人は離れてしまう。

こういった労働者の態度は、信じられないほど無情な資本主義体制の副産物である。私達が生活しているこの体制下で、労働組合のような連帯の機関は、力づくで破壊されたり、システムに統合されたりしてきた。人々は、驚くほど互いに断絶していると感じ、個人としては自分の怒りを経験する--職場での不当な扱いのような--が、集団としては経験しない。唯一の出口は、懸命に働き、何とか地位を上げていくしかないと感じている。最悪の場合、労働者は、自分がそうしたことを達成できないのは、自分の無知や無能力のためだと感じる。こうした環境が反動を産むのだ。

この種の倫理を破壊するために、労働者は同じ階級の成員を信頼し、自分達を代表する機関を信頼しなければならない。この信頼構築は段階的プロセスであり、明確なホールインワン戦略などないが、孤立した「相互扶助」プロジェクトだけで目的を達成できるとは思えない。

サービス提供の落とし穴

現代の相互扶助グループのほとんどが、食糧支援であれ、法的支援であれ、車のブレーキライトの交換であれ、サービス提供に重点を置いている。継続的に相当な規模でこれを行おうとする願望が、必然的に、グループが事実上穏健になるよう圧力を掛けている--自分達が依存しているコミュニティ支援を確保するために、サービス提供組織は、解決しようとする諸問題を非政治化する傾向にあるのだ。これは、企業の寄付と政府の補助金に依存している老舗NGOではっきりと分かるが、もっと小さな相互扶助グループにも同じ圧力が作用するだろう。

例えば、難民運動のNGOは、幅広い資金提供者を引き付けるため、穏健になる傾向がある。これらのNGOは難民が直面している最も重大な問題を、主として人道的な性質のものだとか、共感の欠如から生じているのだと描く--意図的で計算づくの政治的プロジェクトだとは言わない。

こうした圧力が最も明らかなのは、企業の寄付と政府の補助金に依存している大規模な保守的NGOだが、急進的相互扶助グループにこの圧力が適用されないと信じる理由はない。活動するために「コミュニティ」に依存しなければならないグループは、当然、実際に「コミュニティ」を批判するのに苦労する。地元の青果店から余っている食べ物をもらって再分配するプロジェクトに参加している場合、当該の青果店を、例えば、スタッフを搾取していると非難するのは当然気後れするだろう。そして、労働者の生活を悲惨なものにしているプチブルジョアの役割を公然と非難し難くなるのである。

サービス提供活動それ自体は、大抵、そこに参加する社会主義者を階級から引きはがしてしまうものだ。労働者階級の潜在的力を実現しようというアピールが、コミュニティに寄付を求めるアピールに置き換わってしまう。労働者ではない支援者を網羅できるよう労働者階級の定義を拡大しようと、ポピュリストで無害なやり方でアピールしようと同じだ。スターリニスト等、様々なブルジョア階級セクターとの「人民戦線」に満足している人々にとって、これは問題ではないかもしれない。しかし、道徳規範を持つ社会主義者にとっては問題なのだ。

慈善事業:民衆煽動家が使う最初の隠れ蓑

スターリニストについて言えば、最近の左翼による「相互扶助」への傾倒には副産物がある。最も醜悪なものの一つが、あらゆる類の酷いグループが大した抵抗なくこの言葉を利用する傾向である。カトリック教会から全豪鉱業協会まで、あらゆるおぞましい機関が、博愛プロジェクトを通じて社会に影響を与えようとしている。相互扶助が左翼的に転回した慈善事業に陥っている以上、左翼のセクトが徐々に似たようなことを行おうとするようになっても当然である。

相互扶助プロジェクトの展開--多分、「基盤」構築や単なる「党」構築の一般的戦略として--は、当該セクトに肯定的な評価を与えると共に、新メンバーを募る手段にもなる。善意の人々は偽装団体に騙される。当該セクトはあらゆる批判に応える既成の防衛方法を持っている。君たちのような口先だけの人とは違い、私達は実際に外に出て、人々の役に立っているのだ!大衆は飢えており、党が助けに来る、というわけだ。

多分、オーストラリアで最も分かりやすい実例は、「コミュニティ゠ユニオン゠ディフェンス゠リーグ」(CUDL)--「cuddle(カドル、寄り添う)」と読むらしい--だろう。CUDLはオーストラリア共産党(Communist Party of Australia、CPA)のストリート゠キッチンとして始まったが、2019年の分裂を契機に新しく生まれ変わった。この分裂では、ストリート゠キッチン活動家とその他の人々が前書記長ボブ゠ブリントンに不満を抱いて離党し、オーストラリア共産党(Australian Communist Party、ACP)という何とも独創的な名前の党を結成した。

CPAの力の土台は、過去も現在も、左翼労働組合官僚制度の足掛かりにある。選挙への立候補も(緑の党のように)、主たる活動家基盤も(様々なトロツキスト集団のように)ない。これは、1970年代に元々のユーロコミュニズム的CPAからソ連賛同者が分裂して以降続いている。ACPは、母艦となる労働組合活動家を当初からさほど引き付けられず、社会から取り残されたため、代わりにCUDLが中心的存在になったのである。

CUDLは、非常に活動的なのが取り柄だ。ストリート゠キッチンと共に、その活動は、紅茶とビスケットを提供したり、アンザック゠デイの夜明けの礼拝で「レガシー」(戦没者遺族の支援団体)への資金集めをしたり、離婚を認めた神父を解雇したダリッチ゠ヒルのアングリア教会に対してピケを張ったり、イプスウィッチで芝刈りをしたりと幅広い。ホームページには、「1%の金持ちが、オーストラリア人全体の70%以上の富を持つ!」といった一般的スローガンが書かれたポスターがフィーチャーされ、「マルクス-レーニン主義の基本」等のPDFやパブロ゠ネルーダによる「我が党へ」と題された奇妙な詩も掲載されている。

このような非政治的慈善活動と極度に政治的なスターリニズムの加熱混合物をどのように擁護できるのかは疑問だが、ネルーダの詩の未来は明るくない。非営利セクター(ethicaljobs.com.au)の求人掲示板を最近見ると、CUDLは「ここオーストラリアで比較的新しい組織」で週「8~12時間」の「資金調達コーディネーター」ボランティアを募集し、「政府・地元企業・大企業からの寄付・助成金・後援」を確保しようとしている。「非常にやる気があり、快活な」資金集めコーディネーターは、オーストラリアの「あらゆる政府・企業・コミュニティグループに対し、実際に・ヴァーチャルに、いつでもドアをノックできるように」しておくという。

これに応募した人を気の毒に思う。多分、仕事の経験をしたいと思っている社会事業の学生だとか、ローンボウリングやガーデニングよりも慈善活動を行いたいと思っている最近の退職者なのだろう。それが誰であれ、大変な目に遭いそうである。いずれにせよ、次のいずれかが起こるだろう。CUDLは、企業スポンサーと政府の補助金を持つ史上初めての純然たるマルクス-レーニン主義グループとなるか、もしくは、トーンダウンして資金を確保するかのどちらかである。

こうしたことは、これが初めてではない。「相互扶助」というレッテルは新しいものではないし、左翼による社会事業も目新しくはない。この種の活動は、1960年代と1970年代の多くの北米新左翼グループの支柱だった。ブラックパンサー党--左翼の大部分が美化して描いている--は、朝食プログラムや学校のような社会支援組織ネットワークを構築した。これが一因となって、多くのパンサー党員がリベラル民主主義選挙政治に統合されていった。パンサー党員は、(結局は右翼だった)ライオネル゠ウィルソンが1977年のオークランド市長選挙で当選する上で大きな勢力だった。

もっと直接的な事例として、共産主義労働者党(CWP)とそのフロントグループ「平等を求めるアジア系米国人」(AAFE)がある。CWPは、以前は武闘派として有名であり、1979年のグリーンズボロ大虐殺でKKKの標的となっていた。しかし、AAFEの発展と共に、方向転換し始めた。

多くの新左翼グループ同様、彼等も1984年の大統領選でジェシー゠ジャクソンの出馬を支持し、一年後、正式に全く別物になってしまった。書記長は次のように説明していた。「一旦、人が当選したり、要職に任命されたりすると、友人に契約の便宜を図ってやれるようになる…政治目的で資金を集められるようになる。君が適切な場所で適切な雰囲気の中で適切な態度で資金を集め、さらに(主流派)政党の実力者がそこにいるとなると、調達した資金によって君は重要視されるようになる。」今日、AAFEはニューヨーク中華街最大の最も搾取的な地主として知られている。民主党機構に完全に巻きこまれ、その「非営利」の立場で標準的地主制度を覆い隠しているのである。

寄付するな--反抗しろ!

サービス提供グループが与える最も深刻な実際的影響は、社会主義による基本的な資本主義批判とは逆に作用する。社会主義は、単に、生活水準の引き上げや生活の改善だけに関わっているのではない。言うまでもなく、共産主義社会で人々の生活は飛躍的に良くなるだろう。一言で言えば、社会主義は、人々の窮状の原因は資本主義にあり、資本の利益のために行われる労働者階級の組織的搾取にあると見なすのである。だから、資本主義廃絶の活動が最優先事項なのだ。私達の戦略はこの目標を軸として展開する--私有財産体制を転覆し、共産主義で置き換えるために必要な能力を構築するのである。

もちろん、このプロセスには、当然、諸条件の改善が含まれる。ストライキによってより良い賃金を勝ち取り、地方議会によって緑地とコミュニティセンターを設置させ、地主が借家人を立ち退かせるのを防ぐといったことを行う。また、これも言うまでもないが、カトリックだろうがスターリン主義者だろうが、ホームレスの人々への食事提供が悪いわけがない。この文章で私達は一度もそのように示してはいない。私達の見解からすれば、根本的誤りは、諸条件を改善するアプローチを本来それ自体で目的と見なし、重要な戦略をすべて無効にしている点にある。諸条件の改善が戦略的に価値あるものになるのは、労働者階級を強化し、資本主義との闘いを前進させる限りにおいてなのだ。

私達の地域で社会主義者が一つの戦略を考え出す際には、二つの事柄を考慮しなければならない。一つは、「相互扶助」の「相互」を私達がどれほど真面目に受け取っているのか。そして二つ目は、法的防衛基金のような資金調達・慈善プロジェクトは労働者階級叛乱の一部となり得るのか。ただ、現在のところはっきりしているのは、私達は、資本と共に存在できないし、ましてや資本と上手くやっていくなど論外だということである。国家を包含できるまで「コミュニティの力」を構築すれば社会主義社会がもたらされるという考えは破産している--資本と対決しなければならないのだ。他のことで時間を無駄にするわけにはいかない。


https://note.com/bakuto_morikawa/n/n9ea5ed57aaf5(2023年4月21日検索)
原文:https://blackflagsydney.com/article/21
原文掲載日:2021年6月23日(bakuto morikawaより)