タイトル: 「国家はウソだらけ・・世の中ウソばかり」
著者名: Bob Black
トピック: 国家
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black3.html(2023年4月21日検索)
備考: -- Bob Black, 1982/1985
Originally published in 'The Abolition of Work and Other Essays', by Bob Black, with no copyright.

 世の中の「ウソつき」現象について、私たちはもっとよく研究する必要がある。

 現代社会に内在し、全面的に広がっている本質として、「ウソ」の占める位置は決して小さなものではない。今こそ、それにふさわしい考察をすべき時であろう。不正直について、私たちはもっとマジメに取り組もうではないか。

 ウソつきどもは、どのようにして私たちをだますのだろうか?

 それを、これから解説してみよう。

 詐欺の手口、特に対面での手口は今日では高度に洗練されている。広く使われる表現を使って話をしている人々に突然暗雲が降りかかってくる。何か言ってさえいれば、人は意味があるのだろうと錯覚するが、それは大間違いである。鳥笛のように反応らしきものがあったとしても、本当は意味のない騒音でしかない。広告宣伝、新世代の若者用語、酒場での世間話、マルクス主義の弁証法などを思い浮かべればよくわかるだろう。

 多くの表現が氾濫しているからといって、うまくコミュニケーションできているとは限らない。たとえ最高にうまく言えたとしても、人は自分が思っていることを十分に伝えられないし、最高にうまく言えることなどほとんどないのだ。

 ニクソンのテープにある空白部分の多くは、故意に消されたわけではないのである。

 当たり前の言葉を使ってゴマカす典型は、矛盾しているとしか思えない言葉を組み合わせ、もっともらしい専門用語に変えてしまう手口に見られる。

たとえば

 開放結婚(Open marriage)

 革命政府(Revolutionary government)

 法と秩序(Law and order)

 労働の権利(Right to work)

 解放の神学(Liberation theology)

 自由学校(Free schools)

などなどだ。

 洗練された詐欺の対極にあるのは、すぐに言葉を濁すやり方である。(たとえばヤルゼルスキ将軍のやり方)タバコのように、この手のウソはキレイに包装されて出て来ることが多い。しかしタバコのような警告はない。

 政治家と聖職者が典型的な見本であろう。我々には絶対考えられないような見本だが。

 ビジネスの世界(他にどんな世界があるというのだ?)にも、まったくプロのウソつきと言っていい職業がある。たとえば弁護士やセールスマンである。原子力産業や防衛産業のように、もはや普通の消費者の目をチョコッとゴマカすようなレベルではなく、ビジネスの必要上とんでもない大ウソを人々に押しつけることを前提にしている産業さえ存在するのだ。

 それでもなお、やはり愚劣なウソつきの代表は政治家だろう。

 私たちが税金を払って受け取る代償は、(命令の他には)ウソだけである。税金は連中が自分たちのために使ってしまうのである。

 外交は、いわば正装したウソつき行為である。

 「外交的」人間というのは、対立を和らげるためにウソをつく人のことである。実際の外交では、相手の政府もこちらとまったく同じように暴力を独占しているから、政府は自分の国民に対してよりも、はるかに注意してウソをつかなければならないが。

 政治家はあいまいな言い方が得意だけれども、決して繊細であるわけではない。

 国内の武力の大半に命令できる立場にあれば、微妙な差異など無視して構わないわけだ。

 たとえば、「テロリズム」という言葉の使われ方を調べてみると、必ずといっていいほどこの手の、典型的で根源的な大ウソが組み込まれている。この言葉は、正確には「政治的な目的のために非戦闘員に向けて暴力を使用すること」を意味する。中米の暗殺団や、爆弾入り「おもちゃ」を空中投下して、アフガニスタンの子供たちを不具にしているソビエトの行為がいい例だろう。つまり、テロリズムとは、直接の強要ではなく、「テロ」という恐怖感を擦り込むことによって、自分の意志を押しつけることなのだ。

 戦争・犯罪・暴動などとは多くの面で異なる行為を、肯定的にであれ否定的にであれ、一つの言葉で言い表すこと自体は必ずしも悪いことではない。だが、政治家や御用学者・御用ジャーナリズムは、まさにこの特徴を隠してこの言葉を使っている。連中によれば、政治的暴力、破壊行為、あるいはほんの小競り合いでさえも、行為者が「制服」を着てなければ、それは全て「テロリズム」になる。従って、政府はたとえ何をしようともテロリズムにならないが、反国家的な実力行使は常にテロリズムなのである。たとえそれが軍隊同士の戦闘であっても、政府軍でない側は常にテロリズムなのだ。

 アメリカがサルバドル人傭兵にやらせた大虐殺、イスラエルによるパレスチナ難民キャンプへの爆撃やレバノン人の誘拐、カンボジアやアフガニスタンでの、あれほど殊勝ぶって嘆き悲しまれた虐殺、あるいは南アフリカの刑務所で行われている殺人でさえも、国家の行為である限り、それは正当な処置であってテロではないのである。

 テロリズムの定義は、暴力や殺人の問題とも関係ないし、折り目正しい正当性の問題ともあまり関係がない。軍人は、非難されないように念入りに制服を着こんだテロリストに他ならないのだ。

 うるさい世論を眠りこませるにはそれで十分なのである。グレナダの精神病患者を吹っ飛ばしたり、キューバの建築労働者を射殺したりしているときに、大統領がぐっすり眠れるほど十分ではないかもしれないが。しかし実際そのとき、大統領は「いつものようによく眠ったよ」と言ったものだ。  この方法は驚くほどの大成功を収めた。

 一方、サンディニスタは(後に彼らは政権を取った)ソモサに取って代わったマジックの瞬間までテロリストと罵られ続けた。ロバート・ムガベ大統領は、ジンバプエの政治家に変身するまでは、黒い「恐怖」であった。

 「イスラム原理主義者」がアメリカ人を人質にとればテロリストである。しかるにイスラエルが「イスラム原理主義者」を人質に取る場合には、国際法違反という控えめな批判がなされるだけで、決してテロリズムとは呼ばれないのである。まったくインチキもいいところだが、この「テロリズム」のイカサマ用法は実にうまくいっているのである。

 GIジョー人形は、「あえて名前を呼ばない戦争 (The War That Dare Not Speak Its Name) 」の後に除隊して数年経っていたが、召集されて現役に復帰した。今、彼はテロリストどもと戦うってわけだ。

 権力志向の連中がうらやむように、権力が組織的につくウソはニュースにならない。カール・クラウスやジョージ・オーウェルも同じことを言っているが、権力は(クラウスやオーウェルの時代よりも)詐欺の手口を洗練させ、少なくとも増大させている。今日の複雑な社会では、ムリヤリ同意させられるシステムが発達し、巧妙にゴマカす方法が大層進歩しているので、虚偽が立証されたり真実が暴露されたりすることはほとんどない。

 このシステムでは、「データ」と呼ばれる、無味乾燥でつまらない大量の情報で我々を圧倒し、数少ない真に重要な問題を見えなくさせ、忘れさせてしまうのである。

 社会の規模や構造が、人々が直接経験したり、あるいはお互いに助け合ったりするのを阻害している。知識はバラバラに細分化され、わざと隔離されて、馴れ合いの専門家たちに当てがわれるのだ。学界においては、こうした排他的閉鎖性は、サド・マゾヒスティックな意味を持つ「disciplines(訓練・鍛錬の他に学科・学問、懲戒・処罰の意もある)」と呼ばれるものに相当する。

 社会的分業とは、経験に富んだ生活をバラバラに分割し、無理矢理規格化された役割に押しこめることである。それが、いつの間にか認知を広げ、繁殖している。

 規則と分業が、我々をまるで消費財のように交換可能なものにかえていく。そういう消費財の生産が、我々を破滅させていく。 カール・マルクスが政治屋になる前に一度は指摘したように、「我々が理解できる言語は、我々の所有物が使う言語と同じなのである」としても驚くにはあたらない。我々には別の言語が必要だ。我々には、急かされるような言葉の全くない静けさが必要なのである。

 革命には、未だきちんと語られていないことを表現する、イカサマでない語法が必要である。

 物事の名前を正しく呼ばないイカサマ語法によって、その名で別のものが中傷される。名前はスリカエられて使われ、その本来の所有者に返されることはない。

 言葉の堕落は生命の堕落を促す。それはその必要条件でさえある。

 平和と自由への第一歩は、物事を正しい名で呼ぶことから始まるのだ。そしてそれは現在の階級社会や、商売目的の国家の元では不可能なのである。軍・産・政治・ジャーナリズム複合体の工作員と、メディアに「テロリスト」よばわりされている小物の違いは、卸売大企業と零細小売業者の違いにすぎない。

 戦争は殺人である。

 税金は泥棒である。

 徴兵制は奴隷制である。

 自由主義は全体主義である。

 そして(ギ=ドボールが言うように)、

 「真に回頭しようとしている世界において、真実は虚偽のモーメントなのである」