#title 病理としての平和主義 #subtitle 米国の疑似プラクシスに関するノート #author ワード=チャーチル #LISTtitle 病理としての平和主義 #date 1986 #source https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/pathology.html(2023年2月18日検索) #lang ja #pubdate 2023-02-17T16:03:23 #authors Ward Churchill #topics 平和主義 #notes この論考は、元々、「Issues in Radical Therapy」1986年冬春号に掲載された。訳出に当たっては、AK Pressより出版された「Pacifism As Pathology: Reflections on the role of armed struggle in North America」(2007年)を参照している。この本には、Mike Ryan による平和主義者側からの論考も掲載されており、関心のある方は是非読んでいただきたいと思う。原文は、ウェブ上では、[[http://anarchistu.org/cgi-bin/twiki/view/Anarchistu/PacifismAsPathology]]で読むことができる。原文のイタリックの部分は下線で示してある。(Anarchy In Japanより) 自己を犠牲にしてあらゆる手段を使って抑圧者に抵抗することは、抑圧に反対すると公言する全ての人々の義務である。物理的抵抗、抑圧に対する武装抵抗を行わないのは、抑圧者を利することになる。それだけのことだ。この規則に例外はない。安易な逃げ道などないのだ。 アサータ=シャクール、一九八四年 平和主義、非暴力政治行動イデオロギーは、現代の北米主流派の中でもより進歩的な集団の間で自明の、ほとんど普遍的なものになっている。借り物の、もしくは、でっち上げられた疑似スピリチュアリズムの奇妙な寄せ集めから、予示的社会化に関わる「グラムシ派の」諸概念まで様々な専門用語を使って、平和主義は、これがなければバラバラだった「白人の異議申し立て」集団を結びつける共通分母として出現している。平和主義は常に約束する。国家権力の荒々しい現実は、自己防衛と戦闘に訴えることよりも、友好関係と目的の純粋さを通じて超越されうる、と。 平和主義者は次の宣言を絶え間なく繰り返す。充分ポジティヴな社会ヴィジョンが存在するようになると、近代の企業ファシズム国家は逃亡と無視によって萎縮するだろう(「彼らが戦争を始めても、誰も来なかったらどうなる?」)。中世には錬金術として知られていたが、このように、浅はかな主題を主張し続け、望ましい結果を得ることのできない実験を繰り返すよう主張し続けることは、ファンタジーの領域に長い間預けられており、最も甘い考えを持った者か、最も冷笑的な者(民衆を操作するためにこれを利用していた者)以外には放棄されていた。(原註一) 私は、平和主義の見解が持つ明らかに立派な感情的内容を否定しない。確かに、世界は協力・平和・調和の場所になるべきだと誰もが同意できる。実際、万物を(一時的に、思い上がって)悪しきものにしてしまう抑圧者をも含めて、誰も傷つくことなく全てのことがより良くなれば素晴らしい「であろう」。だが、感情的上品さが実現可能な政治を提供するわけではない。ほとんどの幻想が不愉快な真実と対決するのではなく、それを避けるように作られている(自分が創り出す国家は「正しい諸条件」下で死滅するというレーニンの約束を思い出す)のと同様(原註二)、平和主義のファンタジーは情況によって必然的に失敗することが分かっている。 二〇世紀史を何気なく振り返ってみても、平和主義の姿勢が持つ生々しい矛盾、その実践継続の犠牲、その変革的使命だと言われていることを達成する上での根本的無力さが示されている(原註三)。にもかかわらず、我々を現在包囲しているのは、自分の教義が持つ紛れもない実践的欠陥を埋め合わせる手段として歴史的事実を常に修正する「非暴力革命指導者」であり、あからさまに平和主義の組織が中央アメリカやアフリカなどでの武装抵抗の実践者たちと「連帯」すべく立ち上がると主張している光景なのである(原註四)。 米国で再生している軍国主義・明白な人種差別主義の復活・土着的ファシズムの全般的勃興を避けることができないにも関わらず、平和主義--一九六〇年代に消耗した大衆運動のガラクタ--は、「米国アクティヴィズム」の標準形態として存在し続けているだけでなく、最近になって重大な復活を経験しているように思える。(原註五)本稿の目的は、反動的秩序の成功と自国における平和主義抵抗運動との関係を特定することを視野に入れながら、平和主義現象をその政治的・心理的次元双方の点で簡単に検証することである。
*** 屠殺に向かう子羊のように
私は、SSからユダヤ人を救ったと主張する人を信じる気にはなれない。事実はといえば、ユダヤ人は救われなかったのだ。彼らを救うために必要な方策を講じた人など誰もいなかった。ユダヤ自身でさえもだ。 シモン=ヴァイセンタール、一九六一年 平和主義には崇高な尊大さがある。その信奉者は国家との争いの中で何故か知らないが闘争の条件を指示できるという暗黙の前提を持っている。(原註六)こうした前提は国家権力に対する受動的抵抗・非暴力抵抗の現実記録に照らしてみれば無責任に思える。この点を例示するために、多くの実例を集めることができる--インドシナ半島における米国政策に対する仏教徒の抵抗・南アフリカにおける白人史上主義支配を終わらせるために持続的に行われた活動を含む--が、ヒットラーのドイツにおける(そして、その後に占領された欧州全土における)ユダヤ人の経験以上に適切なものはないだろう。 記録はハッキリと示している。一九三〇年代にドイツのユダヤ人コミュニティの中でナチズムの影響に対して様々な平和主義的対抗形態が生まれたが、それらは、ナチ国家の強化に対して物理的敵対行動を実質的に全く行わなかった。(原註七)逆に、正統派ユダヤ指導者たちは、ナチズムに対する最良の解毒剤として「社会的責任」を使うよう忠告したという有力な証拠がある。シオニズムのハガナーと非合法移住作戦(Mossad el Aliyah Bet)といった重大な政治的策定は、実際に、自分たちの目的のためにナチ政策を吸収しようとし、SSユダヤ人問題局と協力関係に入り、パレスチナに「ユダヤ人の自国」を建設する名目としてユダヤ人の強制移住を利用しようとしていたようである。(原註八) このこと全ては、明らかに、ナチスが要求していた以上にユダヤ人に望ましいやり方で、ドイツの政治的雰囲気を操作する--「諸条件を悪化させず」、「ドイツ人民をこれ以上阻害することなく」することで--ために行われた。(原註九)もちろん、結局、ナチスは「ユダヤ人問題に対する最終解決策」を押し付けたが、その時までに、受動的抵抗のダイナミクスはユダヤ人の時代精神にあまりにも定着していた(ナチスはまるまる一〇年間権力の座にあった)ため、ある種の受動的順応が蔓延していた。ユダヤ人指導者たちはその民を、静かに非暴力的に、最初はゲットーへ、次には東へと「疎開させる」列車へと連れていった。武装抵抗はなおも「無責任」だと広く考えられていた。 最終的に、SSは、ユダヤ人自身から構成されるゾンダーコマンドが実行するナチスによる絶滅政策の矛先を当てにすることができた。根絶された人々のガスで充満した死体をアウシュヴィッツやビルケナウの死の収容所にある火葬場に引きずっていったのは、ほとんどがユダヤ人だった。個々人は延命を望んでこれを行った。この行為さえもが「抵抗」として合理化された。生き残るというまさにその行為が、ナチスの計画を「打倒する」と見なされた。(原註一一)一九四五年までに、下等人種の世界観(weltanschauung der untermenchen)に直面しても、ユダヤ人の受動性と非暴力は、数百万人の生命を失うことを防ぐために何の役にも立たなかったのだ。(原註一二) 上記した現象は次の明らかな疑問を導く。「我々と同じ数百万の男たち(原文のママ)が、抵抗せずに死へと歩いていけたのだろうか?」(原註一三)同様に、自明の理を単に問うだけで、ユダヤ知識人の間に紛れもない家内産業が生み出されてきた。個々の知識人が、「このプロセス」がユダヤ民衆に、服従し、受動的であり続け、火葬場のドアに--そしてその向こう側に--至るまで暴力に対する嫌悪に従って進行する以外に「選択肢はない」ままにしていた理由を説明している。(原註一四)この観点からすれば、ユダヤ人の能力は完璧だった。ユダヤ人は、ただただ、大量殺戮システムの罪のない犠牲者でしかなく、このシステムに対してユダヤ人はいかなる規制方策も示すことなどできなかった。(原註一五) ユダヤ人は、ナチス支配下で酷く苦しんでいた。(原註一六)ナチズムに対するユダヤ人の反応の本質には、非常に間違っている何かがある。そして、ユダヤ人コミュニティが示していた主として平和主義の抵抗形態は直接に死刑執行者の思うつぼだった。このように示すことは、極度に悪趣味--ユダヤ人文化教育促進協会の反中傷連盟の論理によれば、「反ユダヤ的」--だと見なされるようになった。(原註一七)客観的に見て、幾つかの選択肢があった。選択肢が明示されているのを見るために「少数過激派」の発言に頼る必要はない。 強制収容所の囚人だったブルーノ=ベッッテルハイムのような生真面目な保守的政治コメンテーターでさえも、ホロコーストの強度を増幅する上で受動性と非暴力が持っていた役割を明敏に分析している。アウシュヴィッツで囚人が物理的に叛乱を起こした唯一の有名な事例について、彼は次のように述べている。
第一二期ゾンダーコマンドの一回の叛乱で、一人の将校と一七人の下士官を含む七〇人のSSが殺された。火葬場の一つは完全に破壊され、別な火葬場は大破した。確かに、八五三人のコマンドは全員死んだ。だが、他のゾンダーコマンド全員よりも、叛乱を起こし、敵にこうした多くの死者を出した一つのゾンダーコマンドの死は全く異なっていたのだ。(原註一八) ベッテルハイムは、SSに対して公然の叛乱を行ったところで、ユダヤ人には文字通り何も失うものはなかった(人間としての尊厳という点では非常に多くを獲得した)と指摘するだけでなく、さらに次のように述べている。強制収容所の中と外双方でこうした行動が起これば、大量殺戮プロセスを甚大に妨げたという正当な見込みがあったのだ。(原註一九)彼は、個人個人の武装抵抗でさえも大量殺戮をナチスの桁違いな費用のかかる計画にすることができただろう、ときっぱりと述べている。
疑いもなく、非常に多くの富を持つことのできるユダヤ人は、自分が望めば銃を一つか二つ手に入れることができただろう。自分に襲いかかるSSの一人や二人を撃ち殺すことができただろう。拘束されたユダヤ人一人一人がそれぞれ一人のSSを殺したとすれば、警察国家の機能を著しく阻害したことであろう。(原註二〇) 第一二期ゾンダーコマンドの叛乱に戻って、ベッテルハイムは次のように述べる。 彼らは、あらゆる人間が行うと思われることを行っただけだ。生き延びることができなければ、自分達の死を使ってでも、可能な限り敵を衰弱させたり、妨害する。大量殺戮をもっと難しくするために、不可能かもしれないが、それを円滑に実行されるプロセスにしないために、絶望的な自己さえも使うのである。彼らがそれを行うことができるのなら、他の人々もできるだろう。何故、彼らは行わなかったのか?何故、彼らは、敵に困難を味あわせるのではなく、命を捨てたのか?何故、彼らは、家族・友人・仲間の囚人たちに対してではなく、SSに自己の存在を贈呈したのだろうか?(原註二一) 叛乱は、彼らがどのみち失うことになる命を助けたかもしれないし、他者の命を助けたかも知れない。数百万のユダヤ人を、SSが彼らのために創り出したゲットーに導いたのは、惰性だった。数十万のユダヤ人を死刑執行人を待って家に座らせていたのは惰性だったのだ。(原註二二) ベッテルハイムはこれを惰性だと述べる。これが大量殺戮に直面したユダヤ人の受動性の基盤だと彼は考えている。規則に服従し、現実を受け入れず、現実に働きかける必要もない「変わり映えのしない日常生活」を求める深い願望に基づくと考えている。この現れが、「思慮分別と責任」の保持、ニュルンベルク法などの悪名高き法律でナチスが禁じた「普通の」日常活動を継続するという慎み深い抵抗、「誰も疎外しない」といった非合理的信念だった。この姿勢が暗示しているのは、ユダヤ人の平和主義それ自体のために、ユダヤ人によるほぼ人道的な政策は間違いなくナチス国家につけ込まれかねないものとなっていた、ということだった。(原註二三) 故に、ベッテルハイムは次のように続ける。 ユダヤ人の迫害はさらに悪化した。ゆっくりと、着実に。暴力的反撃が全くなかったからだった。報復的闘争なしに、さらに激しい差別と堕落をユダヤ人は受け入れたのかもしれない。このことで、SSは、ユダヤ人がガス室に自分で歩いて入るほどまでになりえるという考えを持ったのだった。最も深い意味で、ガス室に歩いて入ることは、変わり映えのない日常生活という哲学の最終帰結でしかなかったのだ。(原註二四) これを前提とすれば、ベッテルハイムは、ナチズムに対するユダヤ人の反応が戦後に合理化され正当化されたことが持つ機能について(正しくも)次のように結論するしかない。その機能は、「私たち皆が、どれほど、この変わり映えのしない日常生活哲学に同意したいと思っているのかを強調し、そして、変わり映えのしない日常生活を続ける態度を美化することが自己崩壊を早めていることを、ホロコーストの中であっても、忘れる」ことなのだ。(原註二五)
*** 本質的矛盾 良いユダヤ人になろうなんて思っていない。羊のようにオーヴンに入ろうなんて思っていないんだ。 アビー=ホフマン、一九六一年 ナチズム下でのユダヤ人の実例は、確かに極端である。歴史は、国家政策に対する非暴力抵抗の有効性を評価するために、少なくとも、受動的人々に対して訪れる結果の規模と速さという点で、これに匹敵するモデルを与えてくれてはいない。だが、この実例を有効なものにしているのは、まさにこの極端さなのである。ユダヤ人の経験は、道徳性と政治的行動に関する平和主義諸概念の中核にある基本的没論理性を完全にハッキリと明らかにしている(原註二六)。 非暴力政治「プラクシス」の提唱者は、本質的に、道徳的優位性の断定によって国家の武力に対峙することを主張する立場にいる。この道徳的優位性は、武器と暴力の完全放棄に付随している。従って、国家は、まず第一に武装していることで先験的にその根本的不道徳・不当性を証明していることになる。多くの場合、平和主義抵抗勢力が持つ「善良で」「ポジティヴな」社会ヴィジョン(エロス)が、国家が証明した「悪い」「ネガティヴな」現実(タナトス)に突きつけられ、ある種の心理的相互関係が示される。この相互関係は、「善対悪」の両断論理に容易く順応でき、道徳劇としての社会闘争という観点を促す。(原註二七) 問題は、このようにして確立された分析的方程式に薄っぺらな論理が存在することだけであろう。一九三〇年代と一九四〇年代に、ドイツの弾圧に対して武装解除し、受動的な抵抗をしていたユダヤ人は明らかに「善」だった。ナチス--その時点まで歴史上もっとも充分武装した集団--は疑いもなく純然たる「悪」の勢力だと判断されるだろう。(原註二八)こうした二元的関係は、他の歴史的勢力を記述する際にも拡大する可能性がある。ガンディーのインド連合(善)対英帝国軍(悪)、マーティン=ルーサー=キングの非暴力市民権運動(善)対KKKと南部の貧困白人警察(悪)は、良い例である。どちらの場合も、善悪の違いは、双方を比較してどちらが暴力を使用したいと思っているか思っていないかにかかっていると言えよう(実際多くの場合そうなのである)。そして、いずれの場合も、善は、政治的進歩とある種の社会暴力の少なくとも一時的な消滅を達成して、対決している悪に最終的に打ち勝つと論じられる可能性がある(そして実際に論じられてきた)。アイヒマンは結局ユダヤ民衆大量殺戮への関与についてエルサレムで審理され、インドは英国の統制から移行し、ミシシッピの黒人は今や比較的簡単に選挙登録できるようになった。この限りにおいて、現代平和主義実践を活気づける非暴力政治が成功した名残があると主張できよう(実際に主張されている)(原註二九)。 感性が豊かで洗練され道徳的に発達した人が、ポジティヴであると同時にネガティヴな有効性を持つ手段・方法としての暴力(それ自体)を拒否しつつ、社会を変革する政治行動に従事することは、全くあり得ることとなっている。そのイデオロギー上の前提は、ある種の「否定の否定」がここに含まれており、「非暴力の力」それ自体を使うことで、国家権力の形成に代表される攻撃的な社会暴力に取って代わることができる、というものだ。この論全体の鍵は、それが既に行われてきたということである。少なくとも幾人かのユダヤ人が生き延び、インドの脱植民地化が行われ、米国南部の黒人に公民権が与えられたことが証明しているというわけだ。(原註三〇) この整然たる枠組みは、感情的レベルでは喜ばしいものかも知れないが、答えよりも多くの疑問を提起している。ハッキリとした疑問は次のようなものである。非暴力をナチスの悪に直面した際のユダヤ人の善性の象徴として受け取るならば、ベッテルハイムが言及した第一二期ゾンダーコマンドの叛乱をどのように説明するのか、また、ゾビボールとトレブリンカのような死の収容所で生じた同じような散発的事件をどのように説明するのだろうか。(原註三一)収容所外で唯一のユダヤ人大衆蜂起に参加した数千人についてはどうなのか?一九四三年四月~五月に行われたワルシャワゲットーの武装叛乱はどうなのか?(原註三二)死刑執行者に対して武器を取った人々は、善悪の境界を定めた同じ象徴路線を越え、SSと「同じ」になったと示すのが正しいというのだろうか?(原註三三) とりあえず、このように現実を大きく歪めることは、最も大胆な平和主義論客でさえもの意図するところではないと仮定しても構わない。ただ、そうした論客の立場にはこの意図が内在していると思われる。もっと酷いことは、非暴力の前提が持つ一貫性の無さである。例えば、ユダヤ人に対するナチスの政策は、一九四一年以降、ドイツ占領地にいる全ユダヤ人が一掃されるまで皆殺しを続けるという考えに深く結び付いていた、と頻繁に報告されている。(原註三四)いかなる方面からどのような非暴力介入・非暴力仲裁があろうとも、それが大量虐殺プロセスを止めるという最小限の見込みを、遅延させるという最小限の見込みすらをも、持っていたことを示すものなどないのである。逆に、赤十字のような中立的グループによる活動は、虐殺をスピードアップさせる効果を持っていたという証拠が存在するのだ。(原註三五) 最終解決策は完全な実施を見ずにある時点で終わったが、それは、単に、ドイツに対して莫大な武力が投入されたためだった(これはユダヤ人救済以外の理由によるものだった)。攻撃的な国家政策を修正し、ポジティヴな社会変革を達成するよう求めた平和主義的処方箋に任せていたなら、「世界のユダヤ民族」--少なくともその欧州種--は、遅くとも一九四六年中盤には完全に根絶させられていただろう。非常に象徴的なアドルフ=アイヒマンSS中佐の裁判でさえ、非暴力の手段で達成できたのではなかった。最後の死の収容所がロシア軍戦車で閉鎖されてから一五年後に、イスラエルの民兵部隊が武装行動をしなければならなかったのである。(原註三六)平和主義諸原則が遵守されていれば、アイヒマンは永久に裁判を避けることができ、彼自身の評価を言い換えると、六〇〇万人のユダヤ人を殺したと考えて笑いながら墓の中に飛び込むまで、適度な快適さと共に人生を全うしていただろう。(原註三七)全てがこう示しているのだ。ユダヤ人の経験に準拠すれば、非暴力は破滅的な失敗であり、他者による最も暴力的な介入だけが、徹底的な全滅の間際から滑り落ちる最後の瞬間に、欧州のユダヤ人を救ったのだ。生存者が「二度と繰り返すな!」と主張したのも無理はない。 暗示していることはそれほど明瞭ではないが、他の実例も有益である。大げさに賞賛されているガンディーの経歴は、計算尽くの非暴力戦略が持つ特徴を示している。非暴力は、周辺に暴力プロセスが存在することで初めて救出されたのだ。(原註三八)この偉大なインド人指導者が、英国の植民地化に対する受動的抵抗という自身の立場から逸脱したことはなく、最終的に英国は彼の抵抗に直面して支配を確立する活動を継続するために桁違いな費用がかかると分かった。これは真実だが、ガンディー主義の成功は三〇年間の内に二度の世界大戦で生み出された英国権力の全般的没落という文脈で見ねばならない。(原註三九) 英国軍の強度が壊滅し、第二次世界大戦中に帝国の国庫が実質的に破産する前、ガンディーの運動が英国にインドを放棄させる可能性はほとんどなかった。植民地(そして受動的住民)を強制的に統制する帝国の能力を破壊した地球規模の暴力がなければ、インドは、南アフリカの近代史の大部分を特徴付けている少数派による支配パターンを無制限に継続していた可能性がある。南アフリカは、解放に向けたガンディー主義の方法が現実の暗礁に乗り上げた最初の舞台である。(原註四〇)従って、マハトマとその信奉者は「純粋」であり続けることができたものの、その勝利は、他の要因がマハトマに対する抵抗を物理的に骨抜きにしたからだったのだ。 同様に、一九六〇年代の米国におけるマーティン=ルーサー=キングとその弟子たちが達成した限定的成功は、意識的にガンディー主義の非暴力原則によって主導された戦術を使っていたが、それほど平和主義ではない情況の存在に大きく負っていた。キングの運動は多くの著名人を引き付けたが、学生非暴力調整員会(SNCC、事実上キングの市民権運動の大学キャンパス部門だった)が全国学生調整委員会として一九六七年に再任命されることで示された一つの傾向が出現する以前には、有効な政治的進歩はほとんどなかった。(原註四一) SNCCの行動(ストークリー=カーマイケルとH=ラップ=ブラウンのような非平和主義が促した)は、ロバート=ウィリアムズのような地方の黒人指導者が最初に使った武装自衛戦術の文脈で行われ、デトロイト・ニューアーク・ワッツ・ハーレムといった都会の黒人居住地で噴出した。また、同時に、南東アジアでの米国の攻撃に対してヴェトナム人が開始した予期せぬ集中的で効果的な武装抵抗のために、国内の安定を求めるニーズが米国で高まっていた。(原註四二) それまでは体制側に妨害され、共産主義者扱いされ、公民権要求リストは「あまりにも急進的」だとか「時期尚早」だとして避けられたり、退けられたりしていたが、突然、キングは、自分が国家から小さな悪弊だと見られていることに気がついた。(原註四三)メディアは彼こそが「責任ある黒人指導者」だと正式選定し、彼が大事にしていた公民権政策の大部分が一九六八年に法律の中に組み込まれた(カーマイケル・ブラウン・ウィリアムズといった「ブラックパワー闘士」を中和すべく創られた特別な付帯条項と共に)。(原註四四)現実的にせよ感覚的にせよ、戦時中の米国において全般的な暴力的黒人革命の不安がなくなり、キングの非暴力戦術は基本的に具体的な意味で無能になった。北部のオルガナイザーの一人、ウィリアム=ジャクソンは一九六九年に私に次のように述べていた。 私が暴動のような暴力行為の扇動を支持できない理由は数多くある。それらは一つとして宗教的なものではない。全て実践的政策だ。だが、次のことは言っておく。私は、暴動がいつの間にか終わるようなことはさせない。私は、常に市役所に最初に行って、議会の前で宣誓して、あいつらに次のように言うんだ。「分かるか?君らが最初から私たちを処遇していたら、こんなことは起こらなかったんだ」と。な、良い結果を出しているんだよ。他にこんなことはないだろ。ラップ=ブラウンとブラックパンサーは市民運動で起こった最良のことなんだよ。 ジャクソンの非常に正直な--一時的冷笑以上のものだとすれば--見解は、キングもそれとなく共有していた。(原註四五)平和主義実践に内在する本質的矛盾は、生存それ自体のため、国家権力との非暴力的対決は、究極的に、国家が何らかの現実的な潜在的暴力手段を爆発させないようにするかどうか、もしくは、まさしく平和主義が政治的選択肢として拒否していると公言している類の対抗暴力が積極的に存在しているかどうかに依存せざるを得ない、ということである。 望ましくない変革と国家の安全に脅威となることから防衛するために、国家があらゆる必要な物理的武力を行使しないと示すなど明らかにバカげている。非暴力戦術家は、自分達が変換しようとしている「不道徳な国家」は、自分達が主張する優れた道徳と同じようなもの(つまり、少なくとも相対的な非暴力を)を何らかの形で示すだろう、と示唆している。こうした命題の誤謬は、ナチス国家による「ユダヤの脅威」の除去に最も良く証明されている。(原註四六) 他者による暴力的介入は、それ自体が当然二つに分かれる。敵対者に対して向けられた莫大な暴力というガンディーの要請していない「棚ぼた」、そして、自分の平和主義政策を推し進める手段として初期に現れた反国家暴力をもう少し意識的で意図的に利用するというキングのやり方に代表される。歴史は、これら二つのサブテーマを様々な形で繰り返しているが、こうした変形物が情況の核心を変えることはほとんどない。平和主義原則に基づいてもたらされた革命などなく、実質的な社会再組織化さえもない。(原註四七)あらゆる実例で、暴力は国家を変換するプロセスになくてはならないものであった。 平和主義プラクシス(もっと適切に言えば、疑似プラクシス)は、その論理的帰結に従うならば、行動方針に対する二種類の結果しかその信奉者にもたらさない。 一、国家権力に対して永久に無力で(そして、常に脅威にならないように)あり続けさせる。この場合、現状からほぼ無視され、革命的潜在性という点で自壊していく可能性が高くなる。 もしくは、 二、自身を国家に対する明確な危険にする。この場合、現状から物理的に一掃される対象となり、革命的潜在性という点で自壊する。 いずれの場合でも--単なる無力か自殺かのどちらか--社会革命の必要性を導く客観的条件は、純粋な平和主義戦術では変えられないままである。こうした条件には通常戦争が含まれ、全住民の飢餓を誘発するといったことが起こる。平和主義とそれに付きものの生命の犠牲が、明らかな社会的暴力の水準に実質的に影響してきたと言うことなど絶対にできない。革命戦術自体が「非暴力」の祭壇に乗っている以上、革命が軽減しようとしている大衆の苦悩は継続するだろう。
*** 安全地帯
ネズミを食べて生き延びる覚悟がないのなら、革命について語らないでくれ。 The Last Poets、一九七二年 革命に対する方法論的アプローチとしての平和主義には欠点があるが、現実の実践家が革命的エートスを経験できないようする基本的衝動がそこに内在しているわけではない。むしろ、既に述べたように、非暴力原則が持つ感情的内容は、現行社会秩序が象徴していること--そして本質的に革命的な観点--の多くを、全てですらをも、生理的なレベルで拒絶することに等しい。問題は、現実の平和主義者が持つ動機ではなく、当事者全員の犠牲を最小限に抑えて革命を勝利させようとするときの戦術の性質である。 この前提は、当事者全員が犠牲になる、というものだ。ここで、米国の「非暴力抵抗」の支持者を比較的容易く選別できるようになる。平和主義の前提は、自衛を理由にした場合でさえも、他者に向けられた暴力行為に従事することを絶対に排除しているが、社会正義を追求する上で被る物理的罰からその支持者を保護することはない。言い換えれば、教義の性質として、本物の平和主義者が現実的危険を冒すことを禁じてはいない。 確かに禁じてはいない。少なくとも、初期のキリスト教徒以来、献身的平和主義者は、自分が悪だと見なす人々の武力に対して、信じていることのために立ち上がり、自身を犠牲にしてきた。ガンディー支持者は数千人規模で死に、あえて殴られ、集団で不具になり、英国の支配を終わらせるためのキャンペーンの中でインドの刑法制度を妨害した。(原註四八)キングの地方オルガナイザーは、米国南部にいる人種差別主義の殺し屋と非常に勇敢に対決し、その多くが人のいない田舎道で命を落とした。(原註四九) もう一つの平和主義行動は仏教僧侶の行動であり、非暴力反戦運動の象徴となっている。ティック=クアン=ドックは一九六三年六月一一日にサイゴンの街路で焼身自殺した。自国への米国介入が増大することに対してドックが行ったこの抗議に触発され、すぐに他のヴェトナム僧侶も同じ行動をとった。そして、一九六五年一一月二日、米国のクエーカー教徒、ノーマン=モリソンはペンタゴンの前で焼身自殺し、インドシナ半島への米軍の関与が増大することに抗議した。(原註五〇)モリソンと仏教徒の行動にどのような戦略的価値を見出そうと--南東アジアの米軍の兵力がモリソンの自殺時点で約一二五〇〇だったが、たった二年後には五二五〇〇以上に急上昇した以上、自己犠牲が始まった後に、米軍によるヴェトナム掌握が急速に激化したことを認めねばならない(原註五一)--こうした人々は疑いもなく勇敢であり、自分が公言した理念を追求する上で最も耐え難いほどの死という絶対的確実性に専ら直面する意志を持っていた。その戦術の有効性には疑問の余地があるものの、その勇気と誠実さについては確かに疑問の余地はない。 それほど凄いやり方ではないが、米国平和主義者が身を切る覚悟で自己の信念を貫いた例は多くある。フィリップとダニエルのベリガン兄弟は、明らかにこの実例であり、六〇年代後半と七〇年代前半に行われた選抜徴兵制と米軍の軍事目標に反対して直接行動を行った多くの人々もそうだ。(原註五二)「平和の証人」の幹部は、八〇年代にニカラグアとホンジュラスの国境に沿って、CIAが資金援助していた反革命傭兵軍コントラと意図的に殺された民間人犠牲者との間に自身の体を横たえた。(原註五三)グリーンピース・アース=ファースト!・地球の友のメンバーは、様々な環境問題を主張する際に自身の幸福を重大な危険にさらしていることで知られている。(原註五四) 信念を持ち、自己を犠牲にする平和主義者と平和主義行動は明らかに数え切れないほどあげることができる。効果的であるかどうかに関わらず、こうした人々はその存在自体が称賛に値する。不幸にして、こうした人々は、米国での平和主義行動の慣例というよりも、その例外なのである。一九六五年以来、米国の非暴力運動に関わる標準的大衆から出現している重大で献身的な平和主義アクティヴィズムの実例全てに対して、その行動と自己犠牲の理念に支払われたのはリップサービスだけだったという無数の反証例をあげることができる。 米国アクティヴィズムの抵抗基盤として非暴力が出現し維持されていることの中心的問題「他者に対して暴力を振るうことなく革命政治をどのようにして構築できるのか?」が平和主義で公式化されたことはない。逆に、もっと正確な主導的問題は「進歩派としての姿勢を自分がとることができ、なおかつ、自分に危害が加わらないようにするために、いかなる政策を行うことができるのだろうか?」である。つまり、ある種の「安全地帯政治」を確立するために、平和主義の衣装は覆されてしまっているのだ。これはベッテルハイムが「変わり映えのしない日常生活哲学」と呼んだことと同じであり、その擁護者にはリスク意識が欠如し、同時に、いかなる革命的推進力も想像できない。(原註五五)真の平和主義アクティヴィズムが意図している革命的内容--ガンディー主義運動・ベリガン兄弟・ノーマン=モリソンが実践したような--は、米国では、参加者だと自称する一般の人々の間でさえこのように孤立し、取り込まれている。 平和主義戦術がどのような限定的有効性を持っていようとも、社会変革方法として同時に行われる他の闘争形態がないような情況は断ち切らねばならない。だが、過去十年間の米国左翼史は、次のことを非常にハッキリと示している。「平和主義実践」に埋め込まれた内容が希薄になればなるほど、平和主義の支持者たちは非暴力こそが「北米の文脈内で適切で受け入れられる」唯一の行動様式だと声高に主張するようになり、多様な行動を排斥しようとするようになり、鎮圧するようにさえなっていく。(原註五六)こうした戦術的覇権を行ってきたのは、戦術的選択肢の切り捨てを提唱する人々であり、この戦術的覇権こそが、いかなる革命的潜在性であれ、それが近代米国に存在すると述べる可能性を排除すべく尽力してきたのだ。 こうした評価はあまりにも粗雑だろうか?答えを見つけるために米国のどの都市でもよいから(表面上、国家政策に反対する)大規模デモに参加してみれば分かるだろう。数百人、時として数千人が秩序だった形で集まる。選ばれた演説者が致命的国家活動のあれやこれやを終わらせようと呼びかける。それと全く同じことを「要求」しているプラカードを持つ。デモ参加者の基本方針がいかに価値あるものかを、そして、様々な犠牲者の苦境を「防衛」すべくそこにいるのだということを情熱的に宣言する署名者を歓迎する。さらに、大抵の場合、参集者はこの問題について「努力し続ける」よう熱心に勧められ、請願書に署名したり、攻撃的な取り組みの変更や放棄を求めて議員に手紙を書くように熱心に勧められ、全てが静かに解散していく。 こうしたジェスチャー全ての中で、国家を代表するのが、慎重に距離をおきつづけ、デモの活動を邪魔せずに存在する制服を着た警官である。何故、警官はそうしているのだろうか?デモのオルガナイザーは、「正規のルート」を経て、国家が要求する認可を手に入れ、集会を開く場所・デモの時間・デモ行進の有無・デモのコースについて指示を仰ぐ。 デモ参加者の集団の周りに別な人々が見えるだろう--エリートだ。緑の(もしくは白や淡青色の)腕章を付けたエリートの役割は、デモ参加者が、国家の認可を受けた抗議行動計画から逸脱せずに、「責任を持って」行動し続けるよう保証することである。国家が接近を許していないエリアに入ろうと(その他認められていない活動を行おうと)して、デモ本隊から分かれて独自に行動しようとする個人や小集団は、腕章をした「司令官」に阻止される。「司令官」は近くにいる警察を指差して、「問題行動」は「既に緊張している情況を悪化させ」、「暴力を喚起し」、そのことで「自分達が影響を及ぼそうとしている人々を遠ざける」だけだ、と主張する。(原註五七)ある意味、「善良なユダヤ人」の声が何年にも渡ってハッキリと木霊しているのを耳にすることができるのだ。 この重大な時点で、国家と大衆非暴力運動との利害が一致しているのかどうかは明らかにできない。警官の役割は、手続きの妨害を最小限に抑えて国家政策を支持することであり、国家政策に異議を申し立て、実際に国家それ自体を変えようと主張している運動の役割とは本来相容れないはずである。(原註五八)だが、ハッキリとした悪意を持ちつつ、警察は、敵対メンバーだと嫌疑を受けている人々の自己検閲活動(正確に言えば「指令」を出しているのだが、婉曲的に「平和維持」と呼ばれる)を単に後援する(もしくは支援する)役目を果たしているに過ぎない。双方の「主張」は、国家プロセスの円滑な機能が、少なくとも重大な形で、物理的に邪魔されてはならないという点で一致している。(原註五九) このこと全ては、内実共に体制に取り込まれた巧妙な自己保存形態であり、後期ブルジョア民主主義の不可分な側面として現れている。(原註六〇)これは選挙プロセスのような陳腐な方法と上手く適合し、国家が世論投票を行う新しい手段として利用されている。意見の分かれる政策を除去するのではなく、上手く隠してしまうのだ。(原註六一)運動自身のスローガン作成でさえも、時折、このことを裏付けてくれる。「民主的社会を求める学生たち」(SDS)は、投票所に対する代案として次のキャッチフレーズを創った。「足で投票しよう、街路で投票しよう。」(原註六二) もちろん、国家権力への順応ではなく、信頼できる自己イメージを別なものに投影しようとしている運動は、究極的に、レトリックに満ちた演説を行ったり、集会で汚い言葉のプラカード(「Fuck the War」は良い例だ)を持ったりすること以上のやり方で、メディアを通じてその「戦闘的」反対を示す資格を確立しなければならない。(原註六三)ここで、米国の非暴力支持者は「市民的不服従」という由緒ある平和主義概念に新しい捻れを加える。米国の非暴力運動は、受動的な肉体を使って国家機構の機能を文字通り塞ぐ--塞いでいる人々の犠牲にお構いなく--というガンディーの(また、それほどではないにせよ、キングの)方法に従うよりも、次第に「象徴的行動」を選んできている。(原註六四) こうした活動の目玉には、多くの場合、逮捕が含まれる。これは、運動の名目上の指導者(もしくは、運動の中でも小規模で精選されたグループ)の場合もあれば、ある程度大規模な逮捕の場合もある。後者の場合、一般に、司令官が「逮捕のされ方訓練」を行う--最近では、運動オルガナイザーがこれを行うよう「命じる」ようになってきている。司令官のおかげで、群衆整理の警察部隊はほとんどもしくは何もせずにそこにいることになる。このことで、逮捕のプロセスで確実に「誰も傷つかない」ようになり、警察は混乱した逮捕手続きによって不便を被ることもなくなる。(原註六五) 逮捕が発生する出来事は前もって計画されていることが多く、前もって公にされ、たいていの場合、警察と完全に調整されているものである。どのぐらいの逮捕者が見込めそうなのかについてオルガナイザーが見積もることもしばしば見られる。一般的に言って、こうした「極端な発言」は大規模な平和的デモと同時に生じるよう計画され、その結果、「明確な政治意識を持った」第三者(そして、可能であれば NBC/CBS/ABC/CNNといったTVメディア)という重要な観衆が逮捕された人々の勇敢さと犠牲とを賞賛するべく側にいることになる。第三者の大部分は、当然、彼ら自身が何故不意に逮捕され「さえした」のかを考察してくれる。(原註六六)逮捕を引き起こすように予定された行動には以下の内の一つが含まれることが多い。(a)機密エリアに座り込み、命令があっても離れようとしない、(b)警察代表者が現場で架空に引いた一線を越えた、(c)指定された時間に解散するのを拒否した、(d)公共の建物のドアを鎖で封鎖したり、南京錠をかけたりする。事態が酷くなると、逮捕されることを狙っている人々が、「象徴的価値」を持つ物体に血(本物だったり、模造だったりするが)をかけることもある。(原註六七) 概して、逮捕された人々は非常に協力的で、待機しているバンやバスに警察を煩わすことなく大人しく入り、警察署や一時的拘留施設などの訴訟手続きを行うために作られた場所に輸送されていく。特に「戦闘的な」行動では、逮捕された人々は体の力を抜き、警察が体ごとバンやバスに運び込まねばならないようにすることで、国家の弾圧手段を重大に非難する(その間中、逮捕された人を突いたり、押しのけたり、突き飛ばしたりするといった「警察の蛮行」が行われないように保証するために、有志の弁護士が監視している)。いずれの場合でも、逮捕された人は、逮捕手続きのために走り去っている際、連れ込まれた車で静かに座っている--「ウィ=シャル=オーヴァーカム」など好きな歌を歌っているかもしれない。課せられる典型的嫌疑は、不法侵入・騒乱の創出・迷惑行為である。深刻な場合には、故意の器物破損や公共財産の破壊にさえも嫌疑がエスカレートするかも知れない。いずれにせよ、例外的な情況でなければ、誰に対しても罪状認否の日程が割り当てられ、誓約保証金か少額の現金保釈金を支払って釈放され、夕食の時間には家に帰ることになる(そして、自分の業績を六時のニュースで見直すわけだ)。(原註六八) 余りないことだが、罪状認否手続きの前に嫌疑が棄却されないといった場合(象徴的行動に対処する際に、国家が象徴的に選んだ告訴を大々的に行った場合)には、逮捕された人は指定された日に交通裁判所に似た部屋に行き、有罪答弁をし、最小限の罰金を払い、家に帰ることができる。過去に同様の逮捕歴がある人は、もう少し多くの罰金(この罰金は、もちろん、逮捕された人が表面上反対している政策を引き受けている国家口座に行く)を支払うよう、もしくは特定の「公務時間」(例えば、警察活動やコミュニティ関係の振興)を実行するよう「判決を」下されるかも知れない。(原註六九)被逮捕者に懲役刑が宣告されることがほとんどないのは、単に、大部分の刑務所が既に余り信念を持たない人々で溢れており、その大部分が本質的にどちらかといえば非平和主義で、国家の徹底的変質を求めている非暴力運動よりも非常に大きな不安を国家に引き起こしている、という理由からである。(原註七〇) 被逮捕者が嫌疑に対する無罪申立を選んだ場合、国家は、文字通り、その人が罰を受けるよう手配し、公判期日が設定される。その結果、何を行ったのであろうともその理由を裁判官と陪審員の前で説明する権利を行使することで、もう一つの象徴的利益が生まれる。本当に犯罪を行っているのは、自分達ではなく国家であると気高く主張するかも知れない。その権利は満たされ、そして一般的には、罪状認否手続きで有罪を申し立てた時に課せられるのと全く同じ額の罰金(プラス訴訟費用)を支払うよう宣告され、家に帰るのである。これから先、このような裁判に関わるつまらないことで時間を無駄にしたくないという理由で、一日か二日の懲役刑になる者もいるだろう。もっと数は少ないが、課せられた罰金の支払いを拒否し、その代わりに三〇日間程度の懲役(通常は、労働釈放)を受ける者もいよう。こうした人々の多くが、その短い監禁期間に「囚人の手紙」を執筆することを選び、(文字通りのではなく)象徴的な自己犠牲を狙っているのだという感覚を強調する。(原註七一) このレベルの活動の些末な性質は、非暴力運動が「取り組んでいる」と主張している国家活動の種類と並列しない限り、十全な明確にはならない。例を示すためには、一九六五年以来米国の反体制派が扱ってきた主な問題を簡単にサンプリングするだけで充分であろう。百万人以上の生命が失われるほどまでになった南東アジアでの米軍地上戦の激化、ヴェトナムの集中砲火(さらに百万から二百万人が殺された)、ヴェトナム戦争のインドシナ半島全土への拡大(カンボジア農地の集中的破壊とそれにより引き起こされた大量飢餓を考えれば、多分二百から三百万人が犠牲になったと思われる)、米国が支援したチリのピノチェトによるクーデター(少なくとも、一万人が死んだ)、米国が承認したサルヴァドルの寡頭政治(最低でも五万人が死んだ)、米軍が支援したグァテマラ軍事政府(一九五四年以来二〇万人が殺された)、ニカラグアのサンディニスタ政府を不安定にする活動(少なくとも二万人が死んだ)。(原註七二)これに匹敵する大規模な破壊活動もあるが、今だに全く反対されていない。(原註七三) 米国の変わり映えしない日常生活を継続することの犠牲者は、七桁(多分もっと多く)の数に上っているのに、米国の非暴力「対抗勢力」は、その戦術を専ら上記した象徴的土俵にほぼ限定しているだけでなく、他の人々がそれ以上のことをしようとするのを積極的に妨げようとしている。一般にこの目的のために使われる方法は、他の潜在的可能性を意識的に非難し、孤立させ、最小限にする--中立化もしくは少なくともその抑制の手段として--ことに限定されている。時には、あからさまに一掃しようとする国家活動との強調路線を取ることもあるようだが。(原註七四) よく見られるアプローチは、象徴的行動のレベルを超えて動こうとする個人やグループを常に先験的に排除する、というものであった。その理由は「(北米対抗政治の)元来の精神を放棄し、現状では小規模な暴力という逆効果の道を取り、後に重大な武装闘争を組織する」からである。(原註七五)これは、象徴的効果よりも具体的な効果を目的とした行動の重要性を減じる活動と常に結び付いており、一九六九年一一月の「ヴェトナム戦争終結に向けた一時凍結」(約五千人が注意深く編成された受動的活動スケジュールから抜け出した)の主要オルガナイザーだったサム=ブラウンが提起した疑問に要約されている。「みすぼらしい人々の一群が司法省に突撃することと、こうした人々(五〇万人)が同じ場所で同じ時間に歌を歌うことのどちらが重要なのだろうか?」(原註七六) 「一時凍結」オルガナイザーの観点では、器物損壊と警察との小競り合いのような「暴力」は禁じられていた。それだけでなく、集結した信じられない程多くの人々を使って、首都における支配装置のスムーズな物理的機能を明確に妨害(例えば、組織的な交通妨害と大規模な座り込みのような非暴力市民不服従)しようとする傾向をも禁じていた。(原註七七) 同じメンタリティが、一年半後にもっとハッキリと現れた。「インドシナ平和キャンペーン」が計画したワシントンでの「メーデーデモ」を、平和主義の「責任ある指導部」(とその献身的支持者の大部分)が公然とボイコットしたのである。米国史上最大の象徴的抗議行動--「一時凍結」は全国で約百万人の受動的デモ参加者を集めた--以来、幾つかの点で戦争はエスカレートしていた(例えば、重爆撃の増加)という事実にも関わらず、メーデーのオルガナイザーであるロニー=デイヴィスの「政府が今戦争を終わらせない限り、この社会を管理することはもはやできないのだということを政府に示す!」という意図は、「度を超していた」とまだ思われていたのだった。メーデーの計画それ自体は暴力行為を呼びかけていなかったが、変わり映えしない日常生活の破壊は「当局者の暴力的反応を喚起する」見込みが高いと考えられたのである。(原註七八) もっと予想通りだったのだが、非暴力の擁護者は、SDS革命青年運動・反戦反ファシズム青年・ウェザーマンといった新興の諸傾向に反撃せざるを得ないと感じていた。(原註七九)「白人急進主義者間に戦闘的運動」を構築しようとしている「無責任な」組織のデモに参加しないよう呼びかけ、そうした組織を記述するデマのフレーズを洒落をきかせて作りだし、反体制主流派は、こうした非平和主義の部分から生まれる可能性があったポジティヴな発展を阻止すべく全力を尽くしていた。結局、汚名を着せられた組織それ自体が、この押し付けられた孤立を組織化し、現状に対する象徴的反対が持つ惰性を破壊しようとすることに伴うフラストレーションは、極めて小さな地下組織のネットワークによる暴力的行動に専ら頼る「絶望の政治」へと転化した。(原註八〇) だが、非暴力大衆に対する真の憎悪は、最終的に、ウェザーマンのような白人分派グループにはならなかった。むしろ、自衛のためのブラックパンサー党に具現化した戦闘的黒人民族主義から出現した。米国黒人解放活動との「絶対的連帯」を公言してほぼ一〇年後の六〇年代後半になって、平和主義は、黒人コミュニティの抑圧を全世界の人々の搾取に意識的に結び付けた凝集性のある組織の出現に直面したのだ。この組織は、海外の解放運動が当然行うべきこととして認めていた武装自衛と全く同じ権利をその政治プログラムで主張していた。(原註八一) パンサー党が、本拠地であるオークランドのコミュニティで最初に組織され、その後に全国に広がり、大きく前進しそうになると、国家は、これが徹夜の祈り以上の脅威となっていると認めた。そして、パンサー党を物理的排除の対象とするというしかるべき反応を示した。党幹部が弾圧の暴力に対し武装抵抗で応じた(約束通りに)とき、「信念を持った」白人支持者の大半は消滅してしまった。この恐るべき退却によって、党は全力で行われる国家テロを調停したり和らげたりすることができなくなり、党員を特殊警察部隊による「外科的終結」に無防備にさらすこととなった。(原註八二) 真の平和主義諸原則--安全な場所に逃げるのではなく、「平和の証人」のように暴力を緩和する手段として自身の肉体で介入するよう呼びかけること--の不履行を隠すために、パンサー党は武器に訴えているのだから「警察と同じぐらい悪い」(第一二期ゾンダーコマンドを思い出して躊躇すべき見解だ)と述べることが流行になっていた。パンサー党は、共和国の始まり以来アフリカ系アメリカ人が襲われていた致命的な変わり映えのしない日常生活の維持を国家が議論の余地のない権利として主張することを拒絶することで、「暴力を喚起した」が故に、「このことを自ら招いた」というのだ。(原註八三) パンサー党やウェザーマンなどの、象徴的抗議行動を越えて例えば大量殺戮のようなことを行おうとするグループに対するこうした反応パターンが何を意味しているのかを解読する際、米国平和主義情況を説明するために慣例的に使われる陳腐な表現の先にあるものを思い描かねばならない(そうした表現がそれ自体で何を意味していようとも)。パンサー党のようなグループが「このこと(暴力的弾圧)を自ら招いた」という懸念以上に重要なのは、一九六九年~一九七〇年の冬にイリノイの卓越した反徴兵制オルガナイザー、アーヴ=クルキ(Irv Kurki)が表明した以下の心情である。
ブラックパンサー党やウェザーマンなどの少数グループが実践していた武装闘争だとか武装自衛だとか--何と呼ぼうと構わないが--といったことは、非常に悪い情況であり、私たち皆にとって本当に危険なことである。ここはアルジェリアでもヴェトナムでもない。合州国なのだ。こうした戦術は、それがなければ非常に共感してくれた人々を疎外し、シカゴでつい最近起こったようなことを引き起こすという点で逆効果だというだけでなく、「私たち皆に同様の暴力的弾圧をもたらしかねないという非常に現実的な危険を冒している。」(原註八四、強調は筆者) まさしくそうだ。つまり、「暴力を喚起する」可能性を持つ行為を避けることに関わる先入観の基盤は、暴力を真に避けることになるとか避けることができるという誠実な信念ではない。平和主義者は、非平和主義者同様に、国家政策を遂行する上で不可欠の要素として暴力が既に存在しており、それを喚起する必要はない、ということに充分気付いている。これが非暴力主義教義を形成する基礎なのだ。従って、暴力それ自体を回避したり最小限にしたりする妥当な試みは問題にはなり得ない。逆に、国家暴力の焦点が、米国平和主義者自身と直接衝突するような方向に再び向かわないようにする意識的努力だけが問題になり得る。これは、こうした再焦点化を誘発しかねない戦術が、それ自体で、他の場所で国家が課しているはるかに莫大な現実的暴力量を緩和する可能性があったとしても、真なのである。信念を持った米国革新主義者が、政府の行動を実行不可能にする際に、現実の肉体的苦痛を被るよりは、さらに一〇万のインドシナ農民がクラスター爆弾とナパーム弾の雨によって殲滅される方が良いというわけだ。(原註八五) このように自己犠牲を自覚的に回避すること(例えば、暴力を与える側ではなく、暴力を受ける側にいる経験を回避すること)は、米国平和主義者が自分達の実践の特徴だと主張している崇高な理念と誠実さとは何の関係もない。だが、これは、運動の司令官がいること、百万人がこの課題を達成するために結集しているときでも政府の中枢を停止させようとする試みを断固として拒絶すること、ブラックパンサー党のような国内グループについて常に込み入った被害者非難を行っていること、といった興味深い現象の真の性質を説明してくれる。(原註八六)植民地における大規模な絶え間ない暴力は、まともな考えを持った人々にショックを与えはしても、ある程度の現実的暴力が「母国の過激派」に対して向け直されるかもしれないという思いも寄らぬ選択肢と比較すると、結局のところ受け入れられてしまうのである。(原註八七) この観点で考えていけば、非常に多くのことに合点が行く。例えば、北米異議申立者の標準的非暴力党派を記述する際に「責任ある指導部」--急進的だとされている人々(もしくはドイツのユダヤ人)に当てはめると、いつも幾分不可解なのだが--という言葉を常に使っているが、これは、日常的場面で暗示されている現状適応と本質的に何も変わらないと示していることが明らかになる。(原註八八)「ゲームのルール」はずっと前から確立され、表面的な「反対方程式」の双方が戦術について合意しているのだ。国家政策に対する「抵抗」のデモは、その政策の実行を実質的に妨害しない限り許されるのである。(原註八九) こうした交換をする上での反対派指導部の責任は、国家プロセスが実質的な物理的混乱によって脅かされないことを保証することである。その見返りとして、政府の責任は、ルールに従って行動している人々の全般的安全を保障することである。(原註九〇)この快適なシナリオは、特定政策に関するある種の「適切な」(象徴的な)抗議行動が政策の修正という「野党の勝利」(つまり、政策の根本的主眼を放棄することなく、もっと政策をもっと機能的でもっと効率的なものにすることで、この政策を「チューニング」すること)をもたらす、という相互理解によって促される。一方、異議申立のこうした隠喩的仲介を乗り越えようとする活動は、「必要なあらゆる手段を使って」、関係者全員によって、鎮圧される。(原註九一)逆に、敵対する双方が向け合っている口汚い執拗なレトリックの層の間に、口には全く出されない処置が挟み込まれるのである。 私たちは、反対の抜け殻に、ある種の儀式に取り残されている。反対派の支持者は、精神的レベルで感傷主義的な「私は満足、あなたも満足」式の満足を手に入れることができる。だが、これは、体系的なグローバル暴力を永続させている権力関係を変換するという点では全く役に立たない。ただ、このような欠点は、北米の変わり映えのない日常を継続することで生み出される集合的安全地帯の中に簡単に昇華されてしまう。国家が承認した混乱のない異議申立のパラメーター内部に留まっている人々、実施された米国政策の犠牲者に対する象徴的義務内部に留まっている(国家権力の基盤全体に挑戦せずに)人々は、現在の社会秩序に置き換わると主張している革命的未来社会の原型作りに献身できるわけだ(疑いもなく、その主張が持つ道義的力を通じて、国家に自身を転覆するよう説得しながら)。(原註九二)ここで、性の実験・音楽や芸術的嗜好の工夫・様々な肉を使わない料理の開発・瞑想や幻覚剤服用を通じた自己の「イド」との交信・性別に基づいた家事分担の変更・喫煙のような「ブルジョア的悪徳」に反対するキャンペーンの実行といった具体的な活動が、「適正な政治」や「革命的実践」さえもの現れになっている。こんなことは、国家権力との積極的・効果的対決とは対立するのだ。(原註九三) 北米のゲットー・バリオ(ヒスパニック系居住区)・保留地の住民が、多くの労働者階級白人--安全地帯へのアクセスを概して構造的に(物質的諸条件という点で、そして、それに伴う比較的高度な体系的暴力の強制を避けることができないという点で)禁じられている人々--とともに、こうした政策を困惑して理解できずに傍観したり、あからさまに敵対的に反応したりすることが多いのは当然である。革命的変革の必要性に関する不安と、革命的ダイナミクスに関する考えとは、必然的に、そうした「闘争」概念とは全く食い違っている。(原註九四)米国の非暴力運動は、多様な敵対的傾向全てを孤立させようと昔から賢明になって動いており、その結果、非暴力運動自体が孤立している。人口統計的にも白人・中産階級・「社会的地位のある人」が多くなっている。結局、戦術を絶対的に独占する「道徳的権利」を持っていると執拗に主張することが大きく変化しなければ、米国平和主義は、平和主義抜きに革命が進む傍らで、「自分がいい気持ちになる」だけで終わってしまうであろう。(原註九五)
*** 偽装してみよう
ニクソンに耳を傾けているんだって?ジョンソンは俺たちのことを聞こうとしなかったんだ。あの親爺に何が起こったか知ってるだろ。 ベンジャミン=スポック、一九六九年 米国平和主義は、現状に対する革命的代案として自身を想定しようとしている。(原註九六)当然、こうした運動や見解が、国家に本質的変革を強要する際の実績がほとんどないことを認めるわけがない。顕著な成功の記録を示さねばならない。たとえ全く存在しないとしても。同様に、こうした運動や観点が自身の特定ヴィジョンの覇権性を求めている--ここでも、米国平和主義は一九六五年以来行ってきたと示されている--とすれば、ある種の方法論的強迫観念がその主張を支持するために必要となる。一般的にいって、どちらの必要性も一つに統合されたプロパガンダ構造に適合できる。(原註九七) 米国反体制派内部で非暴力政治行動の覇権性を提案している者にとって、ガンディーの方法(それ自体)やマーティン=ルーサー=キングの残したことのような伝統的寓話は、もはや、必然的結果を達成するために必要な新しさも活力も持っていない。このことが次第に明らかになるに連れ、そして、新しく現れている多くの反対分子(例えば、「フリーザー」、反核論者、環境保護主義者、中米と中東への威嚇的武力誇示の反対者など)をある種の中央集権的大衆運動へと引き込む可能性が一九八〇年代中盤に大きくなるに連れ、ヴェトナム戦争に反対する上で平和主義が果たした役割について新しくパッケージされた「歴史」が急速に頻繁にしつこく広められるようになり始めた。(原註九八)平和主義オルガナイザーが今も広げている幾つかの突出した主張を検証することは有益である。 <反戦非暴力大衆運動は、リンドン=ジョンソンがヴェトナムから撤兵できなかった際に、彼を大統領の座から引きずり下ろした>(反戦運動それ自体によく見られるテーマだ)実際には、最終的に証明されたように、ジョンソンを打倒したのは「ハト派」ではなく「タカ派」だった。(原註九九)これは、ジョンソンが戦争を行う際に明らかになった効率の悪さのためであり、米国の街路で平和主義者のパレードではなく、米軍に対するヴェトナム人の武装抵抗が効果的だったが故にもたらされたのだ。きっかけは、一九六八年一月のテト攻勢だった。ウィリアム=ウェストモーランド米軍総司令官が自分は「彼らの戦闘能力を破壊した」と公表したが、その後に彼は、自分が自由に使える百五十万の兵士を増補するためにさらに二十万六千の部隊が必要だと要請した。この時点で、右翼は戦争に負けたのだと確信し、損害を削減するプロセスを開始し、その結果、ジョンソン大統領を解雇したのである。 権力バランスが何処にあるかを見つけ、誰のために誰が何を行ったのかを明らかにし始めるためには、一九六八年の選挙キャンペーンで反戦候補者(ユージーン=マッカーシー)が一度もジョンソンの交代を真面目に主張せず、後継大統領となったのは右翼の選択(リチャード=ニクソン)だったという事実を見るだけでよい。(原註一〇一) <徴兵令抵抗のような非暴力反対戦術が持つ自己犠牲は、米軍機構の機能に重大な損害を与えた>(もう一つの典型的テーマだ)。実際にはそれほど多くの自己犠牲やリスクは含まれていなかった。ヴェトナム戦争時代に徴兵違反をした米国人男性は推計で百万人いたが、その内の二五〇〇〇人(二.五%)だけが告訴され、三二五〇人(〇.三%)が投獄された。約八万人がカナダに自発的に亡命し、「独りぼっちになる」という罰に気がついた。(原註一〇二)こうした自己犠牲を行った個人の残り九一.五%は、明らかに、全く代償を払わず、軍隊と軍隊から逃れることで被ると思われた結果とから比較的安全な地帯に居続けていた。 この規模で行われた召集令抵抗は、軍の予備軍人員には何らかの影響を与えたかも知れないが、主力部隊には影響を与えなかった。軍の機能に実際に影響したのは、ヴェトナム人の武装抵抗が有効だったために、一九六八年以後に米軍戦闘部隊の間で急速に士気が喪失したことだった。米軍内部で効力が変質したことで、最終的に戦場で米軍は無力化し、大量の戦闘拒否(当然、平和主義者は満足した)があり、薬物乱用が急上昇した(同様に、平和主義者は満足した)。最も効果的だったのは、将校や下士官の暗殺だった(そう、これはあまりにも行き過ぎだった)。(原註一〇三) 従って、非暴力運動が米軍を弱めるために行った最も効果的な戦術は、この運動が全く考えつかなかったことだった。つまり、即座に軍を転覆するために、個々人が大量に兵役につくことで犠牲になることだったのだ。 <非暴力大衆反戦運動がヴェトナム人と連帯することで、戦争を継続する米国政府の政治的能力を低下させ、早期に戦争を終わらせた>(六〇年代後半に述べられたこの運動の目的だ)この主張は、明らかに、ジョンソン大統領に関する主張に非常によく似ている。だが、米軍地上部隊さえもがその運動の「勝利」の後さらに四年間ヴェトナムに残っていたことを思い起こさねばならない。実際、米国には、一九七五年にこの戦争が終わった時点で、非暴力であろうとそうでなかろうと、大衆反戦運動などなかった。初めての、そして唯一の現実の犠牲者--オハイオ州のケント州立大学で、一九七〇年の春に四人が死亡した--が出たことを受けて、運動は、同年の夏に急速に消滅し始めたのだ。(原註一〇四)最後の米軍地上部隊が一九七三年に撤収されたときには、ニクシンガーは徴兵令を停止し、そのことで兵士の個人的危険が減り、大衆運動を刺激していた「信念を持った」反対派は一気に消滅した。だが、戦争は消滅しなかったのだ。 当時、戦争がさらに三年間継続し、米国の技術的・経済的支援によって数百万人のヴェトナム人の命が奪われ、その名に値する米国の象徴的大衆反対運動さえも存在しなかったことは、非暴力運動の「ヴェトナム人との連帯」の性質について多くを物語っている。(原註一〇五)そして、いつものことだが、最終的に戦争を無理矢理終わらせたのは--米国平和主義者から組織的支援の演技さえもなく--ヴェトナム人自身が行った武装闘争だったのだ。(原註一〇六) 空想に対して事実をこのように簡単にさらすだけ--分析をもっと拡大したところで同じ結果になるのだが--でも、ある種の一貫性がそこに存在することが明らかであろう。ガンディーとキングに関して当初創り出された神話(つまり、その業績は、非暴力原理を適用するだけで達成された)に関していえば、ヴェトナム戦争に関する現代の平和主義者のプロパガンダ方針は、(北米の文脈では「暴力に訴える」ことが「不適切」だったし、今も「不適切」である、と穏やかに主張しながら)他者が行った最も凄惨な武装闘争を通じて初めて到達された進歩を自分達がやったのだと主張するという本当に驚くべき傾向を明らかにしている。(原註一〇七) この既に記したひねくれた精神の歪みは、米国安全地帯の社会経済的境界線の外にいる人々にほとんど何のアピールもなく、非暴力を固守するためにそうした人々を募集することは全く期待できない。だが、このことそれ自体が、米国平和主義の現実的(多分、潜在意識の)政治課題について多くを説明しており、米国平和主義戦略の情況にある明らかな矛盾と一致している。
*** 責任は転嫁される
私たちはヴェトナムの民族解放戦線(NLF)の正当な闘争を支持している。 デヴィッド=デリンジャー、一九六九年 国家権力に挑戦する際に米国内で専制的に非暴力運動を最も率直に擁護している人々の多くが海外での米国権力の行使に対する最も強力な武装抵抗表現と常に提携している。この事実に直面するとたちまち混乱してしまう。この描写に適合する平和主義者著名人名簿に載っているのは、デヴィッド=デリンジャーだけでなく、ジョーン=バエズ、ベンジャミン=スポック、A=J=マスティ、ホーリー=ニアー、スタウトン=リンド、ノーム=チョムスキーも同様である。こうした指導者たちは、その支持者が革命的社会の性質を予示する活動に絶え間なく逸れていることを、それぞれのやり方で擁護している。だが、革命的社会の基盤が非暴力戦術だけで現れるなどと合理的に期待できはしない。だからこそなおさらこの情況は問題なのである。(原註一〇八) この明らかなパラドックスは推論の方向を蝕む。北米非暴力運動の中で精密に定式化されたことはないのだろうが、より明敏な運動指導部の思考を満たしていると思われる推論の方向を蝕むのだ。その論理的輪郭は次のようにスケッチできる。 少なくとも一九一六年以来、近代資本主義国家を維持する上で非工業世界を植民地として搾取し、新植民地を搾取することの重要性は、被搾取国家内部での革命的反対派によって次第に充分に理解されつつある。(原註一〇九)今日、新植民地の物質資源と超過利潤を除去してしまえば、後期資本主義国家の存続可能性は決定的に削減されてしまう。(原註一一〇) 一九四〇年代後半に、脱植民地化が国際法で命じられ(原註一一一)、さらに、「第三世界」として知られるようになった場所全土で武装解放運動が増殖し始めた。先進国内部の反体制派--米国はその時までに覇権を持った状態にいたと思われていた--にとって、まさにこうした利潤と原材料の削減が生じることは明らかになっていた。(原註一一二) 植民地・新植民地という搾取形態が第三世界住民に押し付けられていることが、叛乱を成功するまで確実に永続させるのに充分な程の組織的暴力を引き起こす。これを理解するのに、特別洗練された分析など必要なかったし、今も必要ではない。(原註一一三)同様に、第三世界の革命が、「母国」(先進資本主義国家)内部での明らかな革命活動によって達成されようとされなかろうと、自身の意志で選択した行為を継続するだろうということは理解できていたし、現在も理解されている。(原註一一四) こうした理解は、脱植民地化闘争で実際に行われたような類の戦争が母国住民を脅かすような超大国の対立(国内の反対も含む)を引き起こすことは通常の情況下ではほとんどあり得ない、という知識と容易く結びつけられる。(原註一一五)その代わり、武装した第三世界解放運動が存在することで、「局地戦」の永続的続行に必要な国内治安を確保する手段として先進工業国家がその住民に対して継続的に(形だけ)譲歩し続けざるを得なくなる。 そして、先進工業国家に対する母国住民の抵抗は、「共通の敵」が持つ相対的力を減殺すべく植民地住民が行う武装活動に依拠することができる。その間、国家を打倒して「世界革命を達成する」ために自身で戦いを始める「適切な時期」を待つわけだ。従って、問題は、「時期を捉える」のはいつか、そして、誰が--まさしく--母国それ自体の内部で「銃を手に取る」ことに関わるのかということになる。(原註一一七) ここから、植民地にいる人々(非白人と読む)の解放闘争によって国家権力が充分に弱められた時、母国の住民自身の最も抑圧された部分(ここでも非白人と読む、国内植民地を構成していると正しく記述されることが多い)こそが内部から武装闘争を行う立場にいる、と推定することができる。(原註一一八)国家のこうした崩壊は、革命後の時代の先駆けとなるであろう。 そして、白人急進主義者が武装して参加する(そして、その結果肉体的苦痛を味わう)必要性が無用のものとして扱われたり、完全に免除されたりするような世界革命プロセスを思い浮かべることができる。このシナリオの役割は、既に獲得した経済的・社会的利益を利用して、知的にも、もっと文字通りにも、革命後の文脈で万人が共有する豊かな生活の形成を予示するというものになる。彼らは、社会的諸関係の「優位な」モデルを発達させるという「破壊的ではなく建設的な目的」のために、他者が行使した武装圧力が生み出した国家の譲歩を通じて獲得した「空間」(安全地帯)を利用しながら、一つの(多分、唯一の)重要な社会要素となるだろうと見なされている。(原註一一九) 母国において「責任ある」反対派指導部の機能は--第三世界が外から国家権力を減殺するために自身の血を流す前に、内部からある程度の武装抵抗を勃発させる(そして、白人も直接参加できることを示しさえしかねない)「無責任な」変種に反対するだけでなく--、何よりもまず、第三世界解放闘争に対して象徴的に・レトリック的に母国の運動の無活動を結びつけることである。これに含まれる国家権力とのあからさまな和解を正当化している(第三世界の人々と運動の一般参加者双方に対して)のが、革命後の社会における非暴力行動の「ワーキングモデル」の必要性であり、個人的で信念を持った平和主義の公言なのだ。(原註一二〇) そこから、米国非暴力運動(今や大部分が白人「革新主義者たち」で成り立っている)は、合州国内部で出現しつつある非白人武装革命とも、全く同じ象徴的・レトリック的「連帯」へと向かうことができる。そして--ほら!--ポジティヴな社会変革は、(白人にとって)容易く確立されてきたことになり、彼ら(革命後の社会を構築する上で予め示された非暴力の「専門家」)はそれ以後の指導的役割を陣取ってきたわけだ。(原註一二一) もちろん、このこと全ては、内外で植民地化された人々が究極的にお互いに平等だと証明され、革命的変革が実際に生じるという前提で述べられている。植民地化している国家が、究極的に、こうした戦いでより強い側だと証明された場合、非暴力運動は--この同じ国家が許可した制限内にその活動を限定しながら--自然と最悪の場合の代案の立場をとり、あたかも「王立野党」の変形に過ぎないかのようになるだろう。(原註一二二)注意深く創り出されたバランス(第三世界武装叛乱との連帯を公言する一方で、叛乱が戦っている国家権力そのものと暗黙の和解をする)の結果こそが、北米非暴力信者がその結果とは無関係に勝ち取ろうとしていることなのである。つまり、「白い肌の特権」が持つ安全地帯がいずれの場合でも継続されるようにすることなのだ。(原註一二三) これが日和見が達成すると思われる成果である。この態度に内在する莫大な倫理的・道徳的・政治的諸問題の範囲は、ほとんど自明すぎて、ここでさらに解説したり考察したりする必要はない程である。こうした堂々たる(意図的な)責任転嫁に関わる純粋に病理的特徴に目を転じる前に、少なくとも一時的な議論を必要とする主要な政治的可能性がもう一つある。これは、米国における「非暴力プラクシス」の論議の中で、その可能性の存在自体が平和主義の心地よい(その受益者にとって)趣意書をさほど有望なものにしない(それが意図している支持者大衆にアピールしない、と読む)ことが多いために、一般に省略されたり無視されたりする可能性である。明らかに、この見落としは、既に述べた平和主義の傲慢さとも密接な関係がある。平和主義はある種の優れた道徳力を持っていると仮定され、国家と関係する際に非暴力を使うことで、必ずや国家は平和主義者と関係する際に(相対的にであっても)それに報いてくれると判断している。(原註一二四)このことについて一般化された沈黙の基盤がどのようなものであろうとも、次の可能性に充分な配慮をしなければならない。国家は、後背地での戦術的敗北の道のりを予測した時点で、国内でその信頼を再構成し、内部から「国民生活の浄化」によって、その忠実な支持者の心的連結(大規模な「士気高揚」)をもたらす必要があると感じるだろう。 自由主義的な同化吸収政策からもっと明らかな反動へのこうした移行は、確かに先例がないわけではない。国家がその国際的力が蝕まれていると感じる際や莫大な外的脅威を経験している際に実際に生じている。(原註一二五)常に、こうした情況は、ある種の国内団体を「国民の意思」と目標を切り崩す「破壊的」分子だとして特定し(つまり、でっち上げ)、標的にし、排除する。こうしたときに、国家は、国内の反対派を必要とはしない。実際、ほんの僅かな反対派も容認できない。非常に穏やかな「反社会的」行動の記録によって「汚染」されている人は、確実に、この種のファシスト合意形成に必要なスケープゴートとして選ばれる可能性があるのだ。(原註一二六) 北米ファシズムの強化に含まれるスケープゴート作りがどのような形態を取ることになるのかは明らかではないが、大衆非暴力運動のポーズが一九三〇年代のドイツにおけるユダヤ人の運動と非常に近いことはハッキリしている。「ここでは起こり得ない」という考えは、そこでは起こらないだろうというユダヤ人の認識と同等である。第三世界にいる何千人もの農民が米国のナパーム弾の下で火葬されているというのに、安全地帯に住んでいるという主張は、単に、「ホロコーストがあったとしても、変わり映えしない日常生活を継続するという態度」の表明に過ぎない。(原註一二七)結局、ベッテルハイムが述べているように、「自分でガス室に歩いていくような点まで(犠牲者が)到達する(ようになり得る)」という考えを国家に与えているのは、国家テロに対して象徴的で非暴力の対応だけに制限しようとする力学なのである。(原註一二八)そして、物事を向き合って見ようとする人はユダヤ人の経験から分かるだろうが、平和主義諸原則の惰性こそが、平和主義の支持者が国家によって組織的排除の対象にされた際に、武装自衛へ効果的に転換できなくしているのだ。
*** 病理の特徴
私はヴェトナムから帰ってきた。ヴェトナムでの一二ヶ月、私は民衆を鎮めようとしてきた。だが、できなかった。彼らの抵抗は凄まじかった。制圧するなど間違っていたのだ。このプロセスに私はウンザリした。だから、私は自分の国で抵抗運動に参加すべく帰ってきた。そして、君たちが自分自身を鎮めようとしているのを見た。これにも私は驚愕している。私はこれにもウンザリだ。 戦争に反対するヴェトナム退役軍人、一九七〇年 米国平和主義の前提と実践(どちらも、本物の平和主義と様々な現代米国「安全地帯」とに関連している)の教義資料集は、政治的現実に関する多くの論理的矛盾と根本的誤解を示している。この種の事柄は、通常、哲学的・政治的対話や事実認識の修正などのプロセスを通じて、少なくとも著しい程度まで治療可能である。(原註一二九)だが、平和主義概念の支持者たちは、非常に抵抗力があるため、従来型の批判と勧告に影響されないことが証明されている。特に、妥当性・実行可能性・実用性という点が論理的にも実践的にも欠落していると証明できる際には、「諸原理」の壁の後ろにしゃがみ込んでしまう。(原註一三〇) 従って、この立場に内在する「盲目的信仰」は、実用主義的考慮や経験主義的考慮さえをも即座に受け入れる余地がない。もっと適切に分類するならば、平和主義が(総称的に)「現実世界」の機能的側面としてだけでなく、革命的社会変革を生むことのできるプラクシスとしてその存在を主張していない場合には、神学的審理(特に、原理主義・神秘主義の宗教教義に関するもの)の領域に入るのだ。(原註一三一)実際、様々な平和主義ドグマは、数々の宗教セクトや宗派と強く結び付いていることを認めている。従って、その根本的非合理性は、表面的に、現実それ自体を真面目に追い越そうとしているのだと受け取られるはずである。 政治イデオロギー(もしくは疑似イデオロギーの世界観 Weltanschauung)の基盤として本質的に宗教的な象徴と神話を法典化することは、以前にも見られており、他の文献で上手く分析されている。(原註一三二)スピリチュアリストの運動力を政治的表現・実践に融合させる研究には数多くの興味深い面が見られる。様々な事例に共通する要因は、客観的諸条件(つまり、現実)が「意志」(個人的、集団的な)の作用によって変わり得るという中心的信念である。これは、極度に反社会的特徴を伴うことが多く、この特徴は意識的に表明されたり、意識下で表明されたりする。(原註一三三)平和主義の政治的表現が私たちに突きつけていることは、(大衆)病理だと類推できる。 あらゆる病理と同様に、平和主義は診断可能な特徴的症状を示していると言える。病理を創り出す複合的諸要素の顕著な例は、以下のように記述することができよう。 <平和主義は妄想的である。>この症状は、様々な指標を特徴として持ち、例えば、特定の国家政策を改良したり、調整したりすることが「革命的政治課題」となると主張したり、蝋燭を灯して徹夜で祈りながら町を歩くことが武装闘争を行っている人々との「連帯行為」となると主張したり、事実とは全く逆なのに、「非暴力によるインドの脱植民地化」や「反戦運動によるヴェトナム戦争の終結」が実際に起こったなどと主張したりする。 別なレベルでは、ここでもまた明白な事実とは逆に、ある種の戦術が(既に莫大なものであるときに)「暴力の喚起」を回避するだとか、非暴力であり続けることで平和主義は国家が同じやり方で反応するように「道徳的に強制」できるなどと主張するが、これは、根深い永続的な妄想だと見なされねばならない。(原註一三四) 結局、「深い信念を持った」と仮定される多くの信奉者たちは、自分達が本当に平和主義者だと組織ぐるみで勘違いしているのだ、ということを指摘せねばなるまい。症状のこの様相は、個人の肉体的危険を常に回避する、非暴力を公然と表明「できない」人々に対して傲慢な個人的優越の態度を示す、対人関係の文脈で(国家との関係とは逆に)どちらかと言えば非平和主義の行動様式をうっかり行ってしまう、という特徴を持つ。(原註一三五) <平和主義は人種差別主義である。>母国内外で有色の人々に対する莫大な国家暴力を置き換え、(物理的介入をすることで、非白人に暴力を加える国家の能力を低下させる時であっても)自身で暴力を幾ばくかでも現実に取り入れることがない以上、平和主義者は客観的に人種差別主義だとしか見なし得ない。 人種差別主義それ自体は病理だと正しく定義されてきた。(原註一三九)平和主義の文脈では、この基本的歪みは複雑になっていると考えねばならない。「反人種差別主義」という口実の下で犠牲者を非難するという極度に複雑なプロセスのためである(これは平和主義の病理が持つ上記した妄想的特徴に関連する事態である)。 最終的に、暴力の置換と犠牲者非難とは白人の安全地帯を確立する上で相互に絡み合う。白人は、未来の「革命的」社会関係の複合体を「予示する」基盤として(多分、完全に潜在意識的に)それを利用するが、このような社会関係は、文化的・知的「エリート」として、非白人に対して白人が持っている現在の特権的社会地位を将来も同じように繰り返す働きをするであろう。(原註一三七) この平和主義病理の全面に含まれている部分部分の一群は一つの明確な傾向を特徴として持っている。通常、この病気を患っている人は、人種差別主義行動の性質に関するあらゆる議論(単に口にするだけでもという場合もある)に対して、感情的に相当な守りの姿勢で反応するのだ。この行動は、「私は何も恥ずべきことはない」とか「私が罪悪感を感じる理由はない」という旨の動揺した主張--通常、非難するように指弾されていないにも関わらず--として現れることが多い。あらゆる病理と同様、これは、その人が、自分に恥ずべきことが多くあると無意識的に気付いており、その結果として大きな罪悪感を経験していることを示している紛れもないお馴染みの手がかりである。このような回避行動は、極端な場合には、この病理が持つ妄想的特徴と再び結合するかも知れない。(原註一三八) <平和主義は自殺行為だ。>国家権力に内在する暴力という明らかな現実の前に平伏するという平和主義の中心衝動の中で、平和主義は、エミリアーノ=サパタの有名な格言「跪いて生きるよりは、立ち上がって死ぬ方がよい」を反転させているだけでなく、跪いて死ぬことが最良だという主張を現実に断定し、原理の問題としてこの結果を成り立たせようとしている。つまり、平和主義のエロスは、タナトスへと変形しているのだ。(原註一三九) 自殺に向かう平和主義の傾向の少なくとも一部は、国家を非暴力にすることができるという既に述べた妄想から生じていることは確かだ(従って、全くの誤りだ)が、多くの場合に以下の二つの要因のどちらかが影響している見込みも高い。 一、昇華された死の願望。これは、非常によく述べられる「ギャンブル神経症」(つまり、「全てを賭けて、勝つことができるのか?」)に表明される。 二、昇華されていない死の願望。これは、バスの前を歩き出すこと(「私に当たるだろうか当たらないだろうか?」)に匹敵する「政治的な」ことに表明される。 いずれにしても、この自殺病理は、抑圧された罪悪神経症とそれに関連する個人的な悔恨の情(ほとんど確実に、上記した無意識的人種差別主義に結び付いている)を軸とする他の衝動の特徴に付随し、死の願望それ自体は「中絶反対」衝動となるという妄想的主張によって酷く複雑にされているようだ。後者の主張は一九四〇年代の欧州ユダヤ人よりも進んでいることに気がつくと興味深い。(原註一四〇) この不充分な特徴からさえも、平和主義--革命的変革を推進するのに適したプラクシスなどではない--は、政治的方法論として押し進められる際に病的疾患構造を前提としていることを充分簡単に認めることができる。その根深く、一見利己的だが社会的に認められた性質を考えれば、極度に治療が難しい病理であり、北米の革命的意識・行動を形成する上で長期的な障害物となる見込みが高い。だが、これは、革命的変革が起こらねばならないとするならば克服されなければならない障害物であり、この理由から、実行可能な米国変革プラクシス内部での非暴力政治行動の役割が持つ性質、そして同時に、平和主義病理に対する予備的な治療的アプローチの処方という問題に目を受ける。
*** 解放的プラクシスに向けて
変化に富んだ世界のカンバスが私の前にある。私は立ちはだかり、立ち向かう。このカンバスに対する私の理論的姿勢によって、私は私に対する反対を克服し、その内容を私自身のものにする。私が世界を知れば世界は家となり、世界を理解するとなおさらそこが家になる。 G=W=R=ヘーゲル 標準的定義は、「プラクシス」という言葉の意味を、「行為」や「実践」に代わる多かれ少なかれ洗練された言葉だと限定することが多い。しかし、革命理論の伝統は、この言葉のもっと的確な性質を生み出している。(原註一四一)アウグスト=フォン=チェスコーフスキーはだいぶ前に次のように述べていた。「実践哲学、もっと正確に言えばプラクシス哲学は、人生と社会関係、具体的活動における真実の発展に影響を与えることができる--これこそが哲学の最も重要な宿命なのである。」(原註一四二)マルクスにとって、プラクシスの本質は、情況(つまり、物質的諸条件)を変える継続的プロセスが人間の自己意識と一致する可能性にあるとし、彼はこれを理性的に着想された「自己変革」つまり「革命的プラクシス」と記述していた。(原註一四三)弁証法的意味で、このことは、実践(比較的無意識の世界構築活動)からプラクシス(それほど決定されていない、もっと意識的な世界構成活動)へと全体性のレベルを質的に変換するプロセスを引き起こす。マルクスは実践とプラクシスの違いを「即自」と「対自」だと定義した。(原註一四四) つまり、リチャード=キルミンスターが述べているように、マルクスにとって
ヘーゲルの「歴史哲学」にある有名な「理性の狡知」(原註一四五)、個人の「情念の集合」、本質的にそうある現状の歴史的自己実現過程において「対自的に作用する」国家の集団的大志を、理性は、その後期に理解し、体現する。強力な目的論的意味合いがこの考えには存在する。マルクスが持っている暗黙の考えをプラクシスの狡知と同じように名付けることができるが、ここにも同じ意味合いが存在している。これを通じて、マルクスは、歴史は盲目的に発展するが、究極的にはその連続的社会構造の自己実現的発展となるという点で、意識的に充当できる意味を持っていると認識した。(原註一四六) つまり、プラクシスは、理論に導かれて意識的・意図的に行われる行為であり、同時に、理論の精緻化の進化をも導くと正確に定義できる。従って、社会の解放的変革は、革命的闘争を実行する上で適切なプラクシスが発展・明示されるかどうかにかかっているのだ。(原註一四七) 革命前の社会における、特に米国のような先進資本主義の文脈は、理論と実践のプラクシス的共生関係に対して数多くの示唆を持っている。大部分、こうした示唆は本質的に知的・分析的なものであり、それに応じてプラクシス的考慮の重要性はこの方向性の中に集中している。こうした考慮が「戦略的」なものだと正しく見なされる限り、明らかにこれを強調する必要がある。だが、言うまでもなく、こうした先入観は、正当なプラクシス的関心事に対する排他主義支配を前提とせざるを得ないはずである。この点で、現代の反体制理論におけるプラクシスが持つもっと実用主義的もしくは「戦術的」側面を与える短絡的転換は、控えめに言っても、邪魔なのだ。(原註一四八)プラクシスのこうした不均衡な発展は、革命的潜在性の実現という点で極度に問題がある。 この傾向が明らかな例は、後期資本主義国家の抑圧的・防衛的勢力と、解放的変革を追求していると公言している人々との適切な物理的関係を探求しようとしている最近の文献が少ないことで分かるだろう。革命的(儀式的なものとは反対の)対決が持つ正確な性質や、十全に産業化された国の内部での革命的闘争の現実的必要性の検証に踏み込んだ知的・実践的努力はほとんどなされていない。その結果、理論的--つまり、プラクシス的--空洞がこの関係の中に出現している。そして、この種の空洞に関して言えば、最も簡便ですぐにも利用できる一連の操作的前提--平和主義に関して言えば、「革命的非暴力」の教義--が分析不履行状態を満たしているのだ。 予測できることだが(その理由は既に詳述した)、同じ情況は、第三世界の解放闘争で主流にはなっていない。史書と神話という点で、非産業化地域は、本質的に、武装闘争と暴力に訴える必要がある、と公理のように考えられている。(原註一四九)ボルシェヴィキ革命・中国革命・ヴェトナム革命・キューバ革命・アルジェリア革命・一九五〇年代のアフリカにおける脱植民地化闘争・ニカラグア革命・ジンバブエ革命などを念頭に置こうが置くまいが、これは真実である。(原註一五〇)同じ原則が、南アフリカのANC・ナミビアのSWAPO・ウルグアイのトゥパマロス・ブラジルのプレステス部隊・ペルーの輝く道といった第三世界の解放闘争について言える。(原註一五一)いずれの場合でも、武装闘争・暴力と解放的姿勢との根本的な物理的関係は明らかである。 プラクシスの問題として、この関係は様々な理論家が解明してきた(体系化しさえしてきた)。例えば、フランツ=ファノン・チェ=ゲバラ・毛沢東・ヴォー=グエン=ザップといった人々がそれである。(原註一五二)こうした人々の表現の正確さは、非常に説得力があるため、ブレイス=ボンペイン(Blase Bonpane)のような敬虔な(そして信念を持った)北米平和主義者が「受動性は抑圧・不公正・ファシズムと上手く共存できる」からこそ第三世界で武装闘争が必要なのだと述べるほどなのである。(原註一五三)ボンペインは続けている。
不幸にして、私たちは室内ゲームで育てられてきた。ゲームの参加者は、自分が暴力に「賛成」か「反対」かを論じる。病気に賛成か反対かといった同じ議論を想像できるだろうか?暴力・階級闘争・病理は全て現実のものなのだ。神秘化したところで消え失せはしない。暴力と階級闘争の現実を否定する人々は--病気の現実を否定する人々のように--現実世界を扱っていないのである。(原註一五四) つまり、第三世界解放プラクシスの「現実世界」は、必然的に、革命的暴力をそれ自体の不可欠な要素として受け入れている。この原則は、同時に、「第一世界」の余り工業化されていない部門で、ある種の情況に及ぶまで広がっている。スペイン内戦・英国植民地支配に対するアイルランドの抵抗・一九六〇年代と一九七〇年代のギリシア軍事政権に対する抵抗に関連した情況がまさにそれであり、少なくともある程度までだがイタリアにおける革命闘争の文脈の中にもある。(原註一五五)従って、平和主義左翼がブラックパンサー党・ウェザーマン・バーダーマインホフやその分派である赤軍を非難する列に並んでいるのを見れば分かるように、工業社会の最も先進的な--そして特権を持った--部分だけが、武装闘争・暴力を「プラクシス的」な「非生産性」の領域に委ねているのだ。(原註一五六) この矛盾に内在する明らかな道徳的偽善は別としても、問題は、それを信奉する人々に特定の革命的利益を提供しているかどうかに関わっているとして提起されねばならない。植民地情況・新植民地情況と同様に--それよりも多く--先進資本主義の文脈で国家の手中に自己を保存する物理的力の利用可能性があると考えれば、この問題は「純利益という点で」本質的に軍事的な問題として現れる。 この分析的パラダイムの中で、三つの基本的原理と公理を述べねばならない。この原理は、(一)「最大の部隊を配備できる側が勝利する」(つまり、最も腕力を行使するものが武力競争に勝つことが多い)というナポレオンの信条、(二)絶大な規模の勢力を弱めるには、奇襲の原理を利用すればよい、(三)さらに驚くべきことに、強度や数が欠如している場合には戦術的柔軟性(つまり、弱点に勢力を集中させること)で埋め合わせることができるものである(これが柔術の要点だ)。問題となっている公理は、英国陸軍特殊空挺部隊のモットーに採用されている。つまり「大胆なものが勝つ」である。(原註一五七) 第一原理は、確かに、実質的にあらゆる革命闘争の発生時には、絶望的な命題である。「大規模部隊」--そして物理的力のバランス--は、少なくとも解放プロセスの初期と中期を通じて、必然的に、国家警察・民兵組織・軍事機構次第である。その結果、第三世界の革命戦術家は、第二原理と第三原理(奇襲と柔軟性)を強調することで埋め合わせ、非常に高度なレベルまでゲリラ戦争の技術を発達させてきた。(原註一五八)欧州と北米というもっと工業化された文脈の中で、これは「テロリズム」と呼ばれることの多い形態を取ると想定されてきた。(原註一五九)いずれの場合でも、この方法は、二〇世紀を通じて、もっと正統派の軍事思考を上手く混乱させることができると次第に証明され、お馴染みの独裁者の没落と植民地体制の解体を導き、「大胆に闘争し、大胆に勝つ」という格言の要点を実質的に証明してきた。(原註一六〇) 一方、後期資本主義国家内部での平和主義行動・思考の覇権性は、力による正面からの対決において、現状に基づく権力バランスの前に屈服しているだけでなく、第二原理と第三原理をも放棄している。比較的狭い儀式的行動形態に自主規制された活動を使うことで、平和主義の戦術家たちは国家と対決する際の(潜在的)柔軟性の多くを自動的に犠牲にしている。この狭い範囲の中で、行動は奇襲の有効性を示さずに完全に予測できるものになり果てている。従って、物理的権力の実利的バランスは、必然的に、本質的に永久に、国家次第になっており、同時に、進歩的な社会変革の可能性はゼロにまで減少している。英国陸軍特殊空挺部隊のモットーがここでも裏付けられているが、今回はこのモットーを逆にしなければならない。「大胆に行動できないものは永久に敗北する。」 平和主義教義の特性がいかなるものであろうとも、「革命的非暴力」は完全に誤った呼称であり、平和主義それ自体は解放的社会変革に向けた一貫したプラクシスを提供していないことは明らかだ。良くても、実行可能な解放的実践のある種の側面を生み出していると言うことができる程度であり、従って、ある種の「疑似プラクシス」の状態を前提としているだけである。もっと適切に述べるならば、ルイ=アルチュセールが「第一の一般性」を構成していると呼んだ(原註一六一)イデオロギーのレベルで平和主義を見なければならない。平和主義は、真のプラクシス的見解の表明ではなく、低レベルのイデオロギー意識(つまり、ドグマ)であり、アーネスト=ジェルナー(Ernest Gellner)の意見に非常に上手く適合する。「正当性」に関するイデオロギー的「構図は、まず第一に、妥当性に関して集団的に持っている信念の一群である。実際、正当性の心理的基盤は、一定の社会標準を妥当だと見なす認識である。」(原註一六二)従って、この事態をさらに進めれば、J=G=メルコワ(Merquoir)の結論を参照することになろう。
信念に関する限り、イデオロギーの正当性は主として(それだけに限られないが)内部資料として使われる。その機能は、実際にグループ精神の触媒として作用することであり、この触媒作用がグループの関心を理にかなった一群の理念へと昇華させる。関心で固められた階級サークルの外では、疑問視されない--通常は暗黙の--価値順応が、主としてイデオロギーを構成する。これは、以前は目的に関わる言葉に翻訳されていたが、今や特権的グループの利益になるような「偏見操作」を意味している。(強調は原文)(原註一六三) 平和主義は、ある種の「進歩的」エリートの特権的状態を意識下で永続させようとして、適切なプラクシス的考慮を自己正当化イデオロギーによって阻止している。このように見なすことが、進歩した資本主義文脈の中で真の解放的プラクシスに到達するために何が必要かを見極める上で有効である。平和主義実践諸原則のものとなっているほとんど疑問視されない正当性は、意識的に、そして、包括的に検証の対象にされねばならない。平和主義の諸原則がそれ自体で、国家が支配する社会関係の実利的変革を実現させることができるのか、単独で革命的・解放的プロセスを構成することができるのかどうかを検証しなければならない。(原註一六四)こうした変革を実現できないと分かった場合に、その諸原則は、適切なプラクシスを確立する手段として完全に拡大・超越されねばならない。 だからと言って、非暴力闘争形態を放棄するとか、放棄せよなどと述べているのではない。武装闘争は、実践的にせよ概念的にせよ、革命遂行の規範的標準にならねばならないと述べているわけでもない。むしろ、クワメ=トゥーレ(ストークリー=カーマイケル)Kwame Ture' (Stokely Carmichael)が最近明確に述べていた考えの方向に従うべきである。彼は次のように記していた。
自分自身を革命家だと見なすのであれば、革命の追求を上手く成し遂げる義務を持っていると認識しなければならない。ここで、敵の力だけでなく、自分自身の力も同様に認識しなければならない。自分の力の性質を実感することで、自分が利用できる選択肢の実行を自制してはならない。奇襲・狡知・柔軟性を利用しなければならない。敵の強さを利用して、敵を混乱させ、敵のバランスを崩し、敵を抹消しなければならない。完全な透明性を持って組織を作り、全く予測不可能にならねばならない。暴力の挑発に反応することを敵が期待するのであれば、穏やかに平和的に反応しなければならない。敵が受動性を予想しているならば、手榴弾を投げねばならない。(原註一六五) 従って、問題は、覇権性のある平和主義をある種の「テロ崇拝」で置き換えることではない。逆に、効果的になり、究極的に上手くやるために、先進資本主義国家内部のあらゆる革命運動は、国家と対決するための可能な限り最も幅広い思考・行動を発達させねばならないのである。これは、数々の闘争形態要素としてではなく、請願書や手紙などを書くことから大衆動員やデモ、さらには武装自衛の領域へ、そしてまた「攻撃的」軍事作戦の領域(例えば、重要な国家施設を壊滅させたり、政府や企業組織内の重要人物を標的にしたりする)にまで進む活動の連続体として見なされねばならない。(原註一六六)このこと全ては、総体的なものとして理解されねばならない。第三世界と同様に、後期資本主義文脈にも、この全般的に策定されたレベルで適用できる内的に一貫した解放的プロセスとして理解されねばならない。この根本的理解の基盤から--そして、この基盤からのみ、と主張しても良いかも知れない--北米の実行可能な解放的プラクシスは出現しうるのだ。 革命的プラクシスの中には非暴力活動がかなりの量で--優勢でさえある--含まれているが、「信念を持った平和主義」の表明が、解放を確立する正当かつ必要な方法として暴力の利用を排除する--ましてや非難する--余地などない、ということが今はもう自明のことになっていなければならない。(原註一六七)従って、「非暴力革命」イデオロギーに内在する誤った意識の解体は、適切な解放プラクシスを実現する上で最重要なのである。
*** 平和主義に対する治療的アプローチ
観点の転倒は成人意識に対して形成される。この転倒を用意した歴史的生成は、以前にあったのではなく、そのためにのみ存在する。それが進む時間は、もはやそれを構成する時間ではなく、それが構成する時間なのだ。これこそが、心理学主義・社会学主義・歴史主義に対する批判的思考の返答なのである。 モーリス=メルロ-ポンティ、一九四七年 米国社会で表面的な対抗部門となっている中で「平和主義」が蔓延していることは、意識的に持っている哲学的信条の母胎を熟考したものというよりは、しっかりと絡み合った複雑な病理的諸特徴に立脚しているように思える。これが真実である限り、平和主義イデオロギー上の命題を推定したところで、プラクシス的関心事を解明するのではなく、ぼやかす手助けをし、米国における解放的な革命的潜在性を推進するのではなく、妨害する手助けをすることになる。こうした情況は、革命的変革ではなく、ファシズム社会構図の出現に容易く役立つ。(原註一六八)つまり、平和主義思考の覇権性を克服することが明らかに必要なのだ。 だが、あらゆる病理の徴候がそうであるように、先進資本主義文脈内で覇権を持っている平和主義は、単なる論理的・道徳的勧告に対して極度に耐久性を持っている--実際、実質的に無感覚だ--と示されている。政治的意識の高揚や運動構築の標準的装備(知的な理論的対話のような)は、平和主義絶対主義がその信念を防衛する際の冷笑的自己満足型強情と対決する際にはそれほど役に立たないと証明されてきた。従って、ワンパターンの平和主義「優越性」を独善的に行使することを越え、効果的な解放プラクシスの土俵に入る手段として必要なのは、この現象に対する対話的アプローチではなく、治療的アプローチである。 以下に示すのは戦略の概略である。この戦略を使って、急進的治療家(radical therapists)は、個人的場面と集団的場面双方で問題となる平和主義を克服し始めるであろう。(原註一六九)推奨されるアプローチ方法は、治療者自身が平和主義的偏愛に汚染されていないかどうかにかかっている(私の経験からすれば、急進的治療家だと思われている多くの人々自身が、この分野において治療を早急に必要としている)。(原註一七〇)また、記しておかねばならないが、精緻化の過程で、現在の心理学の専門用語から多くの言葉(例えば「現実療法」)を盗用しているが、それは使い勝手が良いからであって、こうした専門用語が一般に使われるようになった際の指針を公式に守っているからではない。そのような使い方をしている場合は、すぐに分かるはずである。 治療の進展は、幾つかの段階が関連したり重複したりし、その長さも不確定だと理解して頂きたい。 <価値観の明確化>治療プロセスのこの最初の段階で、参加者は革命的社会変革の必要性の基盤に関する議論・考察を行う。これは客観的にも、主観的にもである。客観的に観察された必要性と主観的に感じられた・経験された必要性との区別が、徹底的に検証されることになる。特に、この二つの矛盾--現実的なもしくは知覚された--に注意が払われる。治療プロセスのこの部分の成果は、個々の参加者が、自分が革命的情熱に一致した価値観を本当に持っているかどうか、現状を様々な形で改良・修正することに心理的に傾倒しているだけではないのかどうかについて現実的な決定に到達する援助を行うことである。 この場面での治療者の役割は、客観的諸要因に極度に精通すると共に、このプロセスのランダムな瞬間瞬間に見られる参加者の主観的反応を正直に相互に関連させていくことである。治療のこの部分は、事実上、非常に仮説的・理論的なのだが、平和主義者として自身を定義し始めた参加者の大部分が究極的には明らかに非革命型の個人的価値観を採用することが見込まれるはずである。つまり、国家の全面的変換や最も客観的に抑圧されている社会部門の解放以外の成果を導く行動方針を追求したいと個人的に望んでいることを認めるのである。 この時点で、非革命的価値観を変容させようとする手続きを行うこともできる。だが、急進的治療の目的は(ブルジョア的治療は逆に)、自分自身以外の原理と価値観に順応するように誘導することではない。「価値観の明確化」とは、ここで使っている意味では、単に、正しい名称で物事を呼び、表面的・修辞的な妄想の皮を剥ぎ取るための便宜的なものに過ぎない。 <現実療法>治療過程のこの段階で革命家だという自己概念を一貫して明言している人々--自称平和主義者も含む--は、革命の客観的基盤が持つ物理的現実との具体的な統合をしていき、同時に、そうした諸条件に対する革命的反応を適用していくようにもなる。この段階は非常に多面的で、幅広い範囲の選択的アプローチを含んでいる。 端的に言えば、治療プロセスのこの第二段階には、北米の最も客観的に抑圧されたコミュニティの少なくとも一つ(そして、望ましければもっと多く)に直接・長期的に曝されることが含まれる。例えば、黒人スラム街・メキシコ人とプエルトリコ人のバリオ・北米インディアンの居留地や都会の居住地・南部の田舎の黒人コミュニティなどにである。参加者は、単に「訪問」するのではなく、長期間そうしたコミュニティに留まり、食事をし、居住者と同じ設備の住居に住み、平均的年間所得で暮らしてみることになる。危険であり、参加者はそうしたコミュニティで迷惑になるのだから、そうした事業は理不尽だという主張には信憑性はない。これこそが、こうしたコミュニティに行く最も根本的な理由なのだ。最も惨めな条件で生活しながら、まさに迷惑であるが故に(特に、人種を基盤として)絶え間ない物理的危険の中で存在するという(そして、極端な形では、物理的に虐待されるという)現実こそ、自称革命家なり平和主義者なり何なりがまさしく理解しなければならないことなのである。こうした情況との直接的遭遇を避け、その知識をも避けることは、安全地帯を支持して革命的現実を避けることなのである。 この経験の後には、革命的闘争を経験している多くの第三世界諸国の一つ以上の中で抑圧されている人々の諸情況に同じように曝されねばならない。可能であれば、このプロセスの一部には、その国で活動している一つ以上の革命集団と直接合流することが含まれていなければならない。これは、時間がかかり、危険である見込みが高い(例えば、グアテマラやペルーの原住民族村落で生活する場合のように)。だが、ここでも、これこそがまさに要点なのだ。参加者は、国家弾圧と武装抵抗の現実に関わる諸現実の明確な知識を獲得することになる。この知識は、直接情況に曝されることがなければ獲得できない。 最終的に、上記のプロセスの最中もしくはその後のいずれかで、個々の参加者は、様々な直接的・意識的な危険を誘発する国家権力との対決を行うはずである。このことは、個人的・集団的のいずれかで無数のやり方でなされうるが、警察の関与を最小限にすべく警察との事前合意を行うことはできない。また、行動が始まった後で「秩序」を求める警察への服従もできない。参加者は、自分自身が宣言した価値観に忠実であり続けながら(例えば、平和主義者ならば、暴力的行動を控えながら)、国家への絶対的非協力の姿勢をとらねばならないのである。 この治療段階での治療者--その人自身がこうした革命的現実の基礎を既に持っていなければならない--の役割は、個人的場面と集団的場面双方で、このプロセスの議論を促すことである。治療者は、それぞれの事例における適切な文脈を確立し、その意味を捉える上で参加者を支援できるように、参加者が経験した現実に精通していなければならない。 <評価>第二段階を完了した人(特に武装闘争に対する非暴力の「代案」を信奉する人々の中で、現実療法でかなりな数の人が脱落することが予想される)にとって、「現実世界における」自分の観察と経験に基づく自主的な回想期間がやってくるはずである。これは、純粋に個人個人で行うこともできるが、一般的に言って、指導者のいる評価段階では集団場面が最適である。重大な哲学的・情況的議論と分析を読書と組み合わせながら、価値観明確化段階の成果に関するある種の総括・再公式化が整う。ロールプレイは多くの場合で非常に有効だと証明されている。 この治療過程の要点は、個人的・主観的価値観と具体的現実とを予備的に融和させることである。具体的成果は、個々の参加者が、革命的社会行動に関わる証明可能な物理的要件と一致する自分の価値観を自分がまさしくどのように評価しているのかに関する公式的な表現に見ることができる。ここでもまた、評価の最中に、一部の参加者が、自分の情熱・責務は革命的社会変革以外の何かだという自律的決定に到達することを予期しておかねばならない。 この段階の治療者の役割は、参加者の自己評価に対するコンサルタントとして機能し、参加者の関心事や混乱に対して適切な書物を推薦し、ロールプレイなどのグループダイナミクスを促し、参加者の融和に論理矛盾がないようにし続ける手助けをすることである。 <脱神話化>私の経験からすれば、治療プロセスのこの段階までに、平和主義絶対主義の諸原則を拡大しようとする参加者は(全くとは言わないが)ほとんど残っていない。残っている参加者--特に、こうした絶対主義諸概念を当初は持っていた人々--の中には、物理的弾圧と物理的抵抗双方に共通するテクノロジーとテクニックについての実際的洞察をほとんど持っていないままの人がいることが多い。 こうした無知の典型的な心理学的表現は、問題となっている道具と、その使用に長けていると知られる人々双方の神話化である。例えば、「銃の恐怖」は平和主義左翼に固有であり、特別機動隊・特殊部隊(「グリーンベレー」)・遊撃隊員のメンバーや右翼自警団組織のメンバーのような神話化された人格と直接対決するというまさにその考えに、全くの不合理な恐怖を持っているのと同じである。こうした神話化の結果は、無力感・不適切感・合理化・回避へと固まっていくものである。昇華されると、こうした感情は、補償的レトリックという形で再び現れる。低い自信を超越的美徳(例えば、「世界を遠ざけて」)の意義へと変換しようとするのである。 従って、武装闘争が、参加者が共有すると公言している革命的利益にとって不可欠であり、そうでなくてはならない、ということをこの時点で心から否定する用意がある参加者はほとんどいないだろうが、自分がそれに直接参加するのは「哲学的に」できないとまだ頑固に主張する者も多いだろう。明らかなことをハッキリさせることで、この繋がりを明確にできる。実践的なレベルで武装闘争に従事する方法を知りながら、それに従事しないことを選ぶことは、武装闘争の手段と方法を知らないために武装闘争に従事しないこととは全く異なる事柄なのである。 ここで「実践」訓練と経験は必須である。問題となっている基本的テクノロジー--ライフル・対人殺傷用銃器・拳銃・ショットガン・爆弾、さらには、その適切な用途と配備の初歩--を調査しなければならない。この連続的実戦訓練は、書物の選定と、この新しいスキル獲得の手段に関する継続的な個人的・集団的論議によって増補され、強化されねばならない。(原註一七一) 治療のこの段階は、「特殊部隊」を創り出したりゲリラ部隊を形成したりするために作られているのでも、ゲリラ部隊の形成を期待しているのでもない。むしろ、個々の参加者が事実に精通するためのものでしかない。つまり、参加者自身が、物理的威嚇や弾圧を使って自分の行動を阻止している人々と同じ情報基盤・スキル基盤を持っているのであり、こうしたそれまでは秘密の領域だったことについて、敵である「エリート」の大部分と少なくとも潜在的に同じ程度の習熟度を持ちうるという事実にである。この時点で、非暴力は、心理学的欠損から生まれた必然ではなく、哲学的選択、もしくは、急場しのぎの戦術的方法になり得る。 この段階での治療者の役割は、訓練者としてのものにはなりそうにもない(その人が既にそうした訓練を経験しているはずだということを考えると、そうなることもあり得るが)。むしろ、適切な訓練者と文献を示し、参加者の論議や参加者グループのファシリテーターとしての役目を果たすことになろう。 <再評価>治療の最終段階で、残っている参加者は、革命的社会変革の性質とプロセスに関する自分の全般的見解(つまり、解放的プラクシスの理解)を明示するように導かれる。そこには、このプロセスの中で自分自身の具体的役割について個々人がどのように認識しているのかも含まれる。治療者の役割は、個々の参加者から十全で矛盾のない詳述を引き出すことであり、同時に、未来への潜在的可能性の出現・継続的な再評価・革命的意識の発達を促すことである。 覇権的(病理的)平和主義の問題を解決する際のこうした治療的アプローチのそれぞれの段階の内部構成は、それを適用する個々の事例に参加している治療者と参加者に応じて、ほとんど無限のバリエーションがある。それぞれの段階の順番さえも、有益な場合には変えることができる。例えば、「現実療法」と命名された段階が独立して進められ、何人かの(もしくは多くの)参加者の側で価値観明確化の必要性を認めるきっかけになり得たことがある。もしくは、評価を独立して行い、何人かの参加者は価値観明確化の段階に入り、次に、現実療法へと進んでいくこともあり得よう。治療者にとって重要なことは、このモデルを適用する際にアプローチの柔軟性の感覚を持ち、それぞれの導入時点で参加者をピックアップし、それに従ってモデルを順応させることであって、ほとんど厳格に進行しようとすることではない。 要約すれば、このセクションで記述した幅広い治療モデルを適切に適用すれば、現代米国で主流となっている反体制政治実践に伴う隠れた自滅主義を特徴付けている妄想・人種差別主義の芳香・特権の感覚の多くを急激に減少させる効果がある。もう一つのレベルで--もし、広く採用されれば--このモデルは真の解放プラクシスの構築、先進工業社会内部でで初めて本物の「勝つための戦略」を可能にする手助けとなるだろう。革命家たる役割を断言しようとする人々ならば、この潜在的可能性こそが一つの建設的なステップだと見なすことができるであろう。
*** 結語
矛盾の中に希望がある。 ベルトロルト=ブレヒト このエッセイは決定的なものなどではない。本稿の構成と強調は、今日米国の反体制サークルに蔓延している対話と議論の性質に大きく影響されている。この解説の主たる強調点は、平和主義思考と実践とを批判することに向けられている。その主眼は、覇権的非暴力諸原則の正体を暴くことにあり、充分明確に表現された代案を提起することではない。これまで概して、平和主義が自認している存在論的善性という前提にまで挑戦が向けられると、先験的に、お決まりの抵抗がある程度投げかけられてきたからこそ、このエッセイがもたらされたのである。このエッセイが提起している実例は、答えがあまりにも陳腐すぎる人々と、あまりにも長いこと「目的の純粋性」に疑問を持たずにきた人々とに少なくとも一旦停止するように意図されている。 そのために、このエッセイとエッセイを越えた社会双方にある他の選択肢の概念化が犠牲にされてしまった。社会に関して言えば、これは明らかに受け入れがたい情況である。このエッセイに関して言えば、好都合だと断言することもできる。著者は、提起されている解決困難な諸問題の強度を弱めるのに自分の襲撃一つで充分だと考えるほど自惚れてもおらず、傲慢でもない。逆に、「病理としての平和主義」の強調は、充分な怒りと物議を引き起こし、他者--多くの他者--が目前にあるこの問題を真面目に扱おうとするようになることを望む。こうしたオープンで一触即発の討論の場の中で、治療的関心事項とプラクシス的関心事項が願わくば進展して欲しいのである。 最後になるが、ここでようやく、このエッセイが持つ本質的前提をハッキリと述べたいと思う。非暴力で協働的な世界の願望は、あらゆる心理学的徴候の中で最も健全なものである。これこそが解放と革命の包括的な原理である。(原註一七二)疑いもなく、矛盾の至上命令は次のようになろう。非暴力を確立するために、私たちはその根本原因を克服する上で最初に非暴力と決別しなければならない。だが、そこにこそ、私たちの唯一の希望が存在するのだ。