タイトル: ブルシットジョブと経営封建主義のくびき
サブタイトル: ポピュリズム、無意味な仕事、パニックに陥る若者:LSEで働くデヴィッド・グレーバーへのインタビュー
著者名: David Graeber
トピック: アナキズム, 労働
発行日: 2018年6月
ソース: https://note.com/neverawakeman/n/ne4023d8f5319(2023年10月28日検索)

エコノミスト:『ブルシットジョブ』とは一体何なのか、いくつか例を挙げてもらえるでしょうか?

デヴィッド・グレーバー:ブルシットジョブとは、それを行っている本人ですら、存在する必要がない、あるいは存在すべきではないと密かに思っている仕事のことです。その仕事や、あるいは業界が丸ごと消え去ってしまったとしても誰も気づかず、世界が少し良くなることさえあると思われるようなものですね。

調査によると、37~40%の労働者は、自らの仕事が何の変化ももたらさないと答えています。私の本に書かれている非常に過激なこととは、この調査のことではありません。むしろ、ほとんどの場合において人々のこうした自己評価は概ね正しいと認めるべきだと、率直に言っていることにあります。彼らの仕事は、自分で思っているのと同様、本当に無意味なものなのです。

どちらかといえば、人々の言葉をただ取り上げるだけでは問題を過小評価してしまうかもしれません。なぜなら、もし自分がやっていることが無意味だと思っていても、そこには漠然とした大局的な面が存在しており、そこで自分は、より大きな―少なくともその組織にとっての―善に貢献している場合があるのですから。(しかし、)もしそうだとして、誰もその事実を教えてくれないなんてことがあるでしょうか?

一方で、自分がやっていることにはなすべき十分な理由があると思っていても、大局的にはそうではない(例えば、自分のやっている仕事が実際には詐欺の類であったり、あるいは誰も読まないレポートの作成であったり)こともあります。ええ、これはまさに、誰も真実を教えてくれなさそうなシチュエーションですよね。

私の調査によると、ブルシットジョブは事務職や管理監督職に集中しているというわけではありません。中間管理職、広報、人事として働く人や、ブランドマネージャー、クリエイティブ・バイス・プレジデント、ファイナンシャルプランナー、コンプライアンス担当者、それに加えて、企業法務やテレマーケティングといった分野に携わる人々も、その多くが自らの仕事を無意味だと感じているのです。

エコノミスト:こうした無益な仕事が存在している現代の職場環境についてはどうでしょうか?

グレーバー氏:ここから分かることの一つは、『経費節減("lean and mean"の適訳が見つからなかったので意訳)』的な理想は、オフィスで働く一般人よりも、むしろ生産的な労働者にずっとよく適用されてしまっているということです。こんなことは、売場や配達などのスピードアップやコストダウンに誇りを持つ経営幹部にとっては当然のことでしょう。彼らがこうして金を節約する理由の少なくとも一部には、本質的には無意味な取り巻きを、封建主義的な家臣として自らのオフィスに詰め込んでおきたいからということがあります。

こうした経営幹部は、例えば、レポートの見た目をデザインするだけの人、誰も読まない社内報に賛辞を書き寄せたりするだけの人、さらに多くの場合には、日がな一日何もせずにずっと猫のミーム画像を作ったりPCゲームで遊んでいたりするだけの人で出来たチームを従えているものです。しかし、経営幹部たちはそれをやめようとはしません。なぜなら、どのマネージャーに与えられる特権も、ときには給料でさえも、彼らの下で何人働いているかに基づいて測られてしまっているからです。

企業が実際になにかモノを作ったり売ったりすることよりも金融で多くの利益を上げるようになると、この傾向はより正確になっていきます。私はこれを『経営封建主義』と呼んでいます。とはいえ、経営封建主義はFIRE(金融、保険、不動産の頭文字を合わせた業界用語)分野に限った話ではありません。クリエイティブ業界にも、同様の中間管理職は蔓延してしまっています。モノを作る人と最終的にそれを買う人の間にはマネージャーが追加され続けており、彼らの役割といえば、ただ一日中座ってお互いにモノを売りつけあうことだけなのです。

医療と教育分野も等しく大打撃を受けています。昨今のマネージャー層は、アシスタント部隊を持たなければいけないなどと思っています。とはいえ、このアシスタントには特にやることがないので、教師や医師や看護師に向けた独自規格の書類仕事を作り上げることに終始しています。そのせいで、彼らが実際に人を教えたり誰かを治療したりする時間がますます少なくなってしまっているのです。

エコノミスト:創造性と地位を伴う面白い仕事は裕福な都会に集中していると、あなたは言及しています。ブルシットジョブがポピュリズムや二極化に影響しているとは考えているでしょうか?

グレーバー氏:そうですね。『リベラルエリート』に向けられた―しばしば、極めて正当な―恨みは、楽しくてクリエイティブで、そして明確に社会に利益をもたらすことをして高い給料をもらえる仕事はリベラルエリートによって実質的に独占されてきたとみなす、労働者階級のルサンチマンに基づくものです。もし、自分の子供をトップレベルの大学に通わせ、ニューヨークやサンフランシスコなどでの2~3年に渡る無給のインターンシップを支えられるだけの経済的な余裕がないのなら、そんな仕事の存在は忘れてしまいなさい、あなたには無縁です、という感じですね。

とてつもなく幸運でない限り、誰であっても選択肢は大きく二つに絞られます。まず、基本ブルシットな仕事に就き、家賃は払えるけれど、自らの意思に背いて不正や寄生をしているという罪の意識に苛まれ続けるという選択。あるいは、有益で役に立つ仕事に就いて人を世話したり、皆が必要とするものを作り、動かし、維持したりするという選択―しかしその場合、おそらくは、自分の家族もろくに世話できないほどの薄給になるでしょう。

自らの仕事が他者にもたらす利益と(それで得られる)報酬の間には、ほとんど完全な負の相関があります。その結果が、ルサンチマンに基づいた有害な政治文化なのです。

大部分が無意味な仕事に就いている人というものは、本当に有益なことが出来ている教師や、時には自動車工のことさえも、密かに妬んでいます。そうして、彼らが高等な給料や医療、有給休暇なども要求するとなると、それは言語道断だと思ってしまいます。一方、実際に有益なことを行っているはずの労働者階級の人々はといえば、給料がよくて尊厳と尊敬が得られる、実用的あるいは有益な仕事を独占しているリベラルエリートに嫉妬してしまっているのです。

誰だって、政治階級の人間のことは本質的にペテン師の集まりだと(私の意見としては、これは極めて正しいことですが)みなし、憎んでいるものです。けれど、このルサンチマンのせいで、政治階級に対して団結して行動することが誰にとっても非常に困難になってしまっています。広範囲にわたって、我々の社会は嫉妬とルサンチマンによって繋がっているのです。これは金持ちに対する嫉妬ではなく、多くの場合はなんらかの形で道徳的に優れているとみなされる者に対する嫉妬であり、道徳的優位を主張してはいるものの偽善者とみなされる人に対するルサンチマンというわけです。

エコノミスト:人間は自らの置かれた状況に感情を適応させる傾向があります。苦役から解放された世界で、我々が劇的に満ち足りていくと思える理由はあるでしょうか?

グレーバー氏:私にとって驚きだったのは、比較的小さく見える問題―つまり、人生における退屈と、目的がないという感覚―に適応することが、とても多くの人にとってどれだけ大変であるかということです。どうして彼らはこう言わないのでしょうか?「なるほど、俺はタダ飯を食わせてもらってるということだ。上司にバレませんように!」と。

ですが、圧倒的多数の人は、そんな自身を全くもって惨めなものだと伝えています。彼らは鬱、不安、心因性疾患を訴えていたのですが、彼らが思うリアルな仕事を与えられた途端に、この症状は魔法のように無くなってしまいました。これは、酷くサドマゾヒスティックな職場力学です。

私の結論は、人は働くことを心理的に望んでいる、というのは正確ではなく、むしろ、他者になんらかの良い変化をもたらすやり方で自らの周りの世界を変えたいと思っている、という方が正確だということです。ある意味では、それこそが人のなんたるかなのです。そういう仕事を奪われた人は壊れてしまいます。だからこそ、仕事を苦役と呼ぶのは正確ではないのです。

ドストエフスキーがどこかで言っていました。もし囚人の精神を完全に壊してしまいたいなら、何度も何度も、一日中、穴を掘っては埋めさせればいい、と。そして、実際に一部の強制収容所では、懲罰の一種としてそれが試されたことがありました。彼は正しかった。うまくいってしまったのです。この懲罰は人を完全に狂わせてしまいました。人が退屈な仕事に耐えられるのは、それをやるべき十分な理由が分かっている時なのだと私は思います。

人類学者として、私は余暇そのものに問題はないと知っています。一日に最大でも2,3時間しか働かない社会というのはたくさんありますし、彼らは自らの時間で面白いことをなんでも見つけていますから。考える時間が与えられれば、人はどこまででも創造的になれるのです。

エコノミスト:西側諸国に住む人には、自らのキャリアを選ぶ自由が人類史上で最も多く与えられています。その一部はリベラリズムのおかげであると言えるでしょうか?もしその通りならば、ブルシットジョブを生んだ責任は人々自身にあるのではないでしょうか?

グレーバー氏:まあ、大学を出たばかりの若者と話していて、彼らが「ああ、俺の目の前に世界が広がっている……さあ、何をするのが一番だろう?」なんて言うのを聞くことはそう多くないでしょうね。

確かに、70年代や80年代、あるいは90年代に入ってもなお、「俺が本当にやりたいことは何だろう?」という言葉はよく聞きました。今となっては、ほとんどありません。ほとんどの大卒者は、学生ローンの返済をどうするかということと、あるリアルなジレンマのせいでパニックに陥っています。いわゆる、「生きていくのに十分な(いつか家族を持って独り立ちできる)給料がもらえて、同時にそれを恥じなくて済むような仕事に就けるだろうか?」というジレンマです。

これは先に述べたのと同じ罠ですね。皆に利益をもたらすか、少なくともあからさまに誰かを傷つけたりせず、それでもなお愛する人や家族の世話ができるような人生はどのように送ればいいのか、と。その一方で、私が言うところの『権利ばかり求めるな』の非難の声が、右翼からも左翼からも等しく、ひっきりなしに聞こえてきます。これは、親世代(この叱り文句をいつも言っている人たち)が至極当たり前に手に入れられたものはなんであれ、自分たちも手に入れられてしかるべきだと期待する若者たちは権利を与えられ甘やかされているという、道徳観念に基づく非難です。

だから、この状況下で(ブルシットジョブに就くという)最適解を選ぶ人のことを責めようとは思いません。私にとって疑問なのは、どうしてこの状況が重要な社会問題として見られていないのか?ということです。すなわち、ブルシットジョブを支えるためにリアルな仕事に携わっている人―自分の働いている会社が脱税をしたり、リアルな仕事をブルシット化したりしていることなど知らない清掃人や受付係、運転手といった人々―が何人いるのかを数えてみれば、世の中で行われている仕事の半分近くは全くもって不必要ということになるかもしれないという状況です。

もし、これらの(ブルシットジョブをしている)人々が皆自由になり、自分が本当に大事だと思えることをやれるようになったら、どんな文化、音楽、科学、思想が生まれていたか考えてみましょう。先ほどの疑問が個人の裁量に委ねられるものの一つであるとすれば、私はこう言うでしょう。「ユニバーサルベーシックインカム(あらゆる人に等しく所得を保障する社会制度)のような形態で、皆に生きていけるだけのものを与えましょう。そして、『どんな形で世界に貢献するかを決めるのはあなたの自由ですよ』と言ってあげましょう」と。

そうすれば、きっと、人は自分のアイデアに責任を持つはずです。もちろん、そのアイデアの多くはナンセンスでしょう。とはいえ、全体の40から50%の仕事がナンセンスであることだって想像しがたいのに、それこそが今日の我々の状況なのです。もし、このやり方で二人目のマイルス・デイヴィスやアインシュタインやフロイドやシェイクスピアが生まれるなら、投資した分以上の見返りは得られていると言えるでしょうね。