タイトル: 階級闘争の副作用を生き延びる
著者名: Dr. Ruthless
ソース: https://note.com/naminanamix/n/n4cb46ebe8d53(2023年4月21日検索)
備考: 訳者より:ツイッターで「活動家のコミュニティでお互いにケアしあう方法をホントに学びたい。セルフケアの知識はあるけど、それだけじゃダメっていうこともまた分かってる。ここ(東京)のアナキスト・シーンにはいろいろ問題があるけど、相互扶助・集団的ケアはマジで欠けてる。少なくとも共有すべき戦略とか方針みたいなものがない。」と英語でつぶやいたら、瞬く間に山のようなリプライを頂いて、様々な情報や資料を教えていただきました。まさにこれが相互扶助・集団的ケアの実践そのものだと感動もひとしお、全部翻訳します!と宣言したのが1か月以上前のことで…。思ったより「全部」を翻訳するのは時間がかかりそうで冷や汗が出ます。少々お待ちを…。

今回はまず手始めとして「アクティビスト・トラウマ・サポート(ATS)」を紹介します。2004-2014年に活動していたグループのウェブ・アーカイブ。ATSは政治運動にかかわる人々が経験するストレスやトラウマ的な経験への問題意識からイギリスで発足しました。彼らはG8やクライメイト・キャンプなどの大きな集まりでWellbeingな空間を運営したり、ワークショップをしたり、電話や直接会って個人を支えたり、このサイトで文章を共有したり、他の国で同じような活動をする別のグループと協力したり、また活動家の燃え尽き(バーンアウト)問題にも関心を広げてきました。

サイトには、トラウマと政治(運動)に関する文章や個人的な体験の報告、印刷して配れるPDFなどの情報がアーカイブされています。なかでも今回は「階級闘争の副作用を生き延びる」という文章を翻訳してみました。これを書いたDr. Ruthlessはここで、システムと対決する社会運動の過程で心の傷を負うことと、それを乗り越えるために精神医療という別の権力システムの中に取り込まれてしまう危険性を指摘しています。
ただし、ここで書かれた海外の状況は日本の文脈とは別の場所にあることに注意してください。また、私は精神保健の専門家ではないので、もし不正確な訳がありましたらご指摘いただければ幸いです。(2020/10/23加筆修正) ☆日本におけるこういった取り組みのなかでもネットで参照しやすい形で残っているのは、反G8運動で結成された「フェミニスト+クィアユニット」です。こちらのアーカイブでATSの別の記事の翻訳も読むことができます。

【閲覧注意】
以下の文章は、警察や精神医療による暴力、そして心の危機の経験について言及しています。読んでトラウマを思い出してしまうきっかけになってしまう可能性があります。気分が悪くなった場合は途中で読むのを中止してください(2020/10/23追記)

原文:"Surviving The Side Effects Of The Class Struggle" by Dr. Ruthless(名波ナミより)

最近の警察国家との対決を経験したことで、私たちのなかには体の傷や心の傷を抱えた仲間たちがいる。そこで、多くの仲間がカリフォルニア州バークレーのロングホール・コミュニティセンターに集まり、警察暴力が心に及ぼす影響にどう対処するかアイデアを出し合った。そして、活動家が生きて活動的であり続けるのを助けるための、より良いサポートネットワークが必要だという結論に達した。

私たちは準備するのは得意だ。抗議や直接行動で起きうる様々なことに対して、たとえば獄中や法廷で闘う人々に無利子無担保で融資したり、医療班を配置したり、手の甲に救援連絡センターの番号を書いたりする。私たちは警察に撃たれ、催涙ガスを浴び、血が出るまで殴られ、肩が脱臼するまで腕をねじり上げられた、全ての人への共感を持っている。しかし、目に見える傷が癒えた時、多くの仲間たちが恐怖、敗北感、死を考えるほどの絶望感、あるいは痛み止めへの依存状態のなかにひとり取り残されるのだ。もしそれを人前で嘆こうものなら、たいていの場合「体制と闘う中で傷つくなんて、当たり前だ」と言われてしまう。しかし、こういう対応は私たちが表現している感情を残酷に否定し、誤った解釈を押し付けるものだ。私たちは驚いたのではない。ショックを受けた。トラウマ(心的外傷)を受けたのだ。トラウマを受けたい人なんかいるわけがない。これは人が暴力や不正義に直面したときにとる典型的な反応である。実際、資本主義体制と積極的に対決する活動家のコミュニティでは、トラウマは避けがたい。感情的なサポートネットワークは、医療や法的な対応とともに、抗議活動の準備に組み込まれるべきだ。

燃え尽きを防ぎ、運動の仲間が現実との次なる対決への恐怖で尻込みするようになるのを避けたいと望むのなら、私たちは皆トラウマに気づき、それが私たちや私たちのコミュニティ全体に与える感情的な影響をもっと理解し、誰かが孤立したら取り戻さなければいけない。現在、感情的な危機にどう対処すればいいのか分からない仲間が専門家の助けを求めるよう別の仲間にアドバイスして、知らず知らずのうちに仲間を地雷原に送り込むのが当たり前になっている。

私は精神保健産業を命からがら潜り抜けた経験から、精神的・感情的なニーズに対して専門家の助けを得るのは困難で、危険でさえあると深く思い知った。医療者や司法支援者が単に医学や明文化された法に関する知識さえ持っていれば良いのと違って、心理学は驚くほど危険な分野である。そして、有用なサポートシステムと、カルト的なコミュニティや思考パターンとの見分けをつけるのは難しい。私たちは、「専門家」の手によって一層傷つけられる事態を防ぐ必要がある。というのはトラウマの深さがにっちもさっちもいかなくなる前、専門家の犠牲になりやすくなる前に、どんな種類の安全な支援が受けられるかをよく研究するべきなのだ。

科学を乗っ取り抑圧を正当化する

今日の精神医療システムを正しく理解するために重要なのは、これまで精神医学は決して医療職ではなく、なによりも抑圧の装置であったと知ることだ。宗教裁判所の時代が終わろうという時、それまで「魔女」という名で呼ばれていたのと同じ存在が「精神病」と呼ばれるようになった。そうすることで、教会は「迷信のせいでおかしなことになったけど、魔女狩りは善意でやっていたことだ」と言い訳することができた。看板を「科学」にかけ替えることで、それまで気の遠くなるほどたくさんの人々に対して教会が行ってきたのと同じ迫害を続けることができた。それが「精神科」というもののそもそもの成り立ちなのだ。初期の精神医学の文献は、今日のホロコーストを正当化する歴史修正主義者の文章と不気味なほど似ている。ナチスのガス室では、この時は安楽死という形で、誰でもなく精神病「患者」が最初に殺されたことを忘れないでおこう。

精神医学は科学に基づいていたことなどないし、今もそうだ。精神病「患者」の診断のための生理学的な検査もないし、それどころか最近の「科学的」ブームが「精神疾患」の原因だという化学的な失調状態や遺伝的な原因を見つける検査さえない。診断は会話と行動観察、文化や自己表現を医師個人の文化や個人的な意見に基づく分類に落とし込むことに基づいている。ある精神病「患者」の診断が、診察した精神科医ごとに異なることも珍しくない。診断基準それ自体も気まぐれや天気や社会体制の変化と共にかわっていくようだ。DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)は、たとえば1970年代まで同性愛を精神障害としていた。それが削除され、病気であることが否定されてから現在に至っても、クィアな若者たちは精神科病棟に閉じ込められ薬漬けにされている。

向精神薬のおかげで生きられているとか、少なくとも社会でやっていくために薬物が役立つと感じている多くの人を私は疑わない。私はそういった目的で自ら向精神薬あるいは違法なストリート・ドラッグを使用する権利をはっきりと擁護する。しかし、それが医療だとは認めない。医学的な根拠を持たない疾患を治療することを求める治療は、良く言っても実験の域を出ない。これらの薬物の実験は製薬会社がみずから、あきれるほど科学的な実験方法と操作されたデータのもとで全てを計画し、出資し、監督されている。その副作用が「患者」に対して明らかにされることはまれである。特に、その使用を強制されているような場合には。人格や創造力が悲劇的に変わってしまうことを別にしたとしても、最も深刻な副作用はパーキンソン病に似た障害で不可逆的な脳へのダメージを示唆する晩発性運動障害(顔や口などの痙攣)から、発作や昏睡、不審死まで様々だ。精神科医は普通、そういった副作用や禁断症状さえも「精神疾患」のまた別のさらなる症状であり、これも薬で治療されるべきだと主張する。その結果、しばしば多すぎる薬物が投与され、被害者は病気を治すための薬で引き起こされた病気の治療をするという悪循環に陥る。

よくよく注意して精神科の診察室に足を踏み入れてみれば良い。個々の精神科医がどれほど善意を持っていたとしても、彼らの貢献するシステムの構造は医療実践というよりも法的処置と言った方が良い。というのも「患者」とされた人々は犯罪者のように扱われているのだ。精神科の診断を受けた人々は意思に反して監禁収容され、薬漬けにされかねない。そこで押される社会的烙印(スティグマ)だけを取っても、健康保険、就職、入学、養子を受け入れる資格や、証言者としての信頼性に不可逆的な影響を与える。自分の家族や友人からの偏見は言うまでもない。精神医療を受け生き延びた人(精神医療サバイバー)が精神科医から受けた被害を訴えたとしても、そういう人は「不安定」で信頼できないと見なされ、裁判で勝つのはほとんど不可能である。他の診療科のカルテと違って、精神科の場合は「患者自身の利益のため」として自分のカルテを見られないこともある。言論の自由も精神病「患者」には適用されない。精神科医は、希死念慮を持つと自ら認める者を最低72時間監禁することを法により求められる。精神科病棟は、私たちに拘束衣を着せ、隔離し、洗脳し、薬で正気を失わせ、ロボトミー手術を行い、そして場合によっては電気ショックを与えるための監獄である。2005年のバークレーにおいてそうだ。金持ち病院においてさえ、人々はいまだに脳みそを焼き切られているのだ。

精神医学の抑圧という遺産は今でも引き継がれている。ブッシュ政権のもと新しい精神保健の自由委員会は学校の子供や教師を手始めに最終的にはすべての人々が年に一度の医師による定期的な診察を受けるようにして、すべてのアメリカ国民が精神科の検診を受ける体制を作ろうとロビイングをしている。これが精神医療にもたらすのは市場の高価な向精神薬だけだろう。なにしろこの話は製薬会社のバックがついている。いくつかの州ではもうすでに学区ごとに実施されている。全国の教師たちはこのところ、薬を配るよう圧力をかけられ、財政難の学校や福祉を受けている家庭には子供たちに精神障害のレッテルを張る金銭的インセンティブが設けられている。学校におけるADD/ADHDの診断数は驚異的な速さで増えている。精神保健サービスへの連邦補助金を審査する「米国精神保健サービスセンター全国諮問委員会」にブッシュが任命した精神科医のサリー・サテルは、外来患者のさらなる収容を含め、その人の意思に関わらず向精神薬を飲むのを強制する裁判所命令といったアメリカのほとんどの州ですでに確立された強制的な治療を主張している。

同じく精神医学から発展したもののこれと対照的なのが精神分析学で、医師を自称しない人々によって主に実践されている。フロイトの「談話療法」は、トラウマ体験が現在では「解離」と呼ばれている精神的な混乱を引き起こし、場合によっては無意識にそれが発露する、つまりトラウマとなった出来事それ自体は意識的に覚えていないこともあるという発見から出発した。話すことでそのトラウマとなった記憶を意識に上らせ、多かれ少なかれこの精神的な混乱を緩和できることにフロイトは気づいた。しかし、虐待が当たり前の社会的基準でさえあるこの抑圧的な社会において、真実などそもそも求められていない。秘密こそ、精神医学の要である。当時の精神医学界は、頻発する児童虐待を白日の下に晒してしまうフロイトに圧力をかけて彼を追い出そうとした。それでフロイトは、彼のもっとも示唆的な心理学的発見を棄てて、代わりに「虐待の記憶は被害者の妄想だ」という理論を発明したのである。この彼の変わり身のせいで、人の感情、行動、そして真実についての社会的な理解は現代に至るまで壊滅的な打撃を被った。以来、抑圧された記憶が本物かどうか、繰り返し疑われ、議論の的となり、確かめられてきたのである。真実を握りつぶそうとする動きは今でもある。1992年(証拠に関する法的基準が改正され時効が延長され、成人して時間が経つまで出来事の記憶全てを抑圧していた児童虐待のサバイバーが法律の対象に含まれるようになった直後)、「虚偽記憶症候群財団」という子供への性的虐待で訴えられた親たちの団体が、サバイバーによるサポートネットワークをめちゃくちゃにぶち壊し始めた。その攻撃は直接にはセラピストを狙ったものだった。というのも、多くのサバイバーにとって、本当のことを言える比較的安全な場を提供する最初の存在だからである。

心を言葉にする

自己表現がいつも妨げられたり、秘密や混乱や嘘を押し付けられて自己表現ができなくされると――特に加害者が自分の犯罪行為を隠すことが何よりも優先される虐待家庭においては特にそうだが、学校であっても、職場であっても、闘いの中であっても――私たちのコミュニケーションは従来のかたちをとらず、自分自身で適切だと思える何かしらの形で自らの真実を表現する方法を編み出す。そうやって生み出されたパターンや振る舞いは奇妙だとか理解不能だとか、ときには恐ろしいとみなされることもある。そして困っている人のその困難を真に理解しようとするのではなく、この社会はそういったコミュニケーションの症状に精神「病」というレッテルを張って、私たちに烙印(スティグマ)を押そうとする。しかし、私たちの「狂気」がどれほど理解不能であろうが、その意味を読み取ろうとする人にとっては、そこにあるのは同じメッセージである。「今起きている精神的な錯乱は未解決のトラウマのせいだ。精神的錯乱の度合いはそのままトラウマの度合いだ。」あまりにも極端で乱暴に思えるかもしれないが、この精神的錯乱あるいは「解離」は多かれ少なかれ誰しも無関係ではない。実際のところ、これは人間の基本的な機能である。つまり、不要だったり過剰だったりする情報を取捨選択するために、意識的な経験や感情や記憶や他者や自分自身の身体、自己感覚、現実感覚といったものから分解してしまうわけだ。

トラウマやそれを乗り越えることの困難は、なぜ人が「精神病」のレッテルを張られるかという問いの核心にある。何かがトラウマになるのは、自分が手に負えないほどの圧倒的な現実に直面するときだ。ときにその衝撃は自分に起きたことを言葉にできなくなるほど絶大で、本当に言葉が出なくなったり、体が硬直してしまうこともある。トラウマとなる出来事が起きた後に行動が不自然になる人もいるし、何とも無いかのように見える人もいる。しかし、外からどう見えるかと言うこととは関係なく、トラウマを受けた人は突然に現実から切り離されたように感じたり、その出来事を今まさに起きているかのように追体験することがしばしば、頻繁にある。ちょっとしたことでトラウマを思い出してしまい、フラッシュバックに襲われる。だから身を守るために過去についても現在についても感覚をマヒさせてしまう。そのせいでもたらされる混乱は現実を様々な形でゆがめ、ときには幻聴を聞いたり、幻覚を見たり、ある種の身体記憶を経験する場合もある。悪夢を見たくなくて不眠症になったり、恐怖や憂鬱のあまり日常生活を送れなくなる人も多い。

私は幾人かの親友たちの死に打ちのめされ、何年も家に引きこもっていたことがある。一人は警察暴力によって亡くなった。その前には、虐待的な上司が私の働き口をたてに私を脅し、性暴力をふるい、私は恐ろしい子供時代のフラッシュバックに引きずり込まれていた。私は死にたくなり、強迫的な躁状態とぐったりするほどの悲しみの間を行き来した。入院するまで何も食べなかった。夢はあまりにも鮮明で現実との区別がつかなかった。今が過去なのか現在なのかも分からなかった。頭の中からも外からも声がした。目の前に渦巻きがあらわれる幻覚を見た。ある日など、鏡を見るたびに他人が私を見つめ返していることに気づいて、目をばちばちと見開いた。あの時期、たくさんの人が治療だと言って錠剤やら祈祷やらをくれたけど、私はそのどれも信用しなかった。だから自分がどういう支援を受けられるのか自分で調べてみた。似たような経験をした人たちの話や連帯が気付かせてくれたのは、自分の適応機制(ストレスから精神を守るために本能的に働く心の防衛反応)はまったく当たり前で、それどころか私の人生を考えれば起きて当然でさえあるということだった。そこで、私は自分の今必要としていることに即して適応機制を調整するやり方を探し始めた。

回復のために使える方法にも、色々な方法(EMDR、生体エネルギー療法、交流分析、非暴力コミュニケーション、原初療法…)を用いる色々なセラピスト(心理士、ソーシャルワーカー、エコ・サイコロジスト、シャーマン…)がいるし、特定のテーマのもとガイドがついた匿名のグループ(依存、虐待、喪失…)もあり、ピアカウンセリングがあり、ハーブだの、マッサージだの、瞑想だの、ヨガ、太極拳、ダンス、カポエラ、マーシャルアーツ、護身術、芸術や音楽、日記をつけたり、食べ物や眠りとか家や仕事の環境といった生活スタイルを変えること、支え合える関係を見つけ虐待的な関係から離れることなどなどがある。様々な方法の中でもなかなか興味深いのはソーマ療法(訳注:ロバート・フレイレがライヒの理論に基づき開発したグループ療法。カポエイラを取り入れた実践、反精神医学的態度、そしてアナキスト的原理に基づくグループ運営が特徴)だ。最近のSlingshot(リンク)でも特集されていた。もっとも私の知る限りではブラジルでしか使えない。ただし、助けを求める時に一番考慮するべきはセラピストや支えてくれる人たちとの個人的な信頼関係、そして基本的な守るべき線引きや懸念についての合意である。そうすれば、方法論や仕組み(もしあるなら)について交渉できる。自分に合ったアプローチを組み合わせて行うのがいちばん良い。

トラウマは普遍的であると同時にとても個人的なものである。また心理療法士にも色々いる。たいていのセラピストは病理や衝動を生物学的還元主義や性格診断や自我状態に基づいて、あるいは運命や宿命やカルマに関する種々の抽象的な宗教的説明に沿って、人の仕組みに関する何かしらの心理学的分類を採用している。解決策も「病を治す」ことを目指す治療法から、行動を修正することを目指すもの、会話を通してクライエントが洞察や自己への気づき、自律性、自尊心、希望、自己決定を深めるのを助けようとするものまで幅がある。再トラウマ化を避けるためには、治療的同盟関係に入る前にいくつかの点を事前に明らかにしておくことが不可欠だ。治療的同盟関係を探すときには、反精神医療運動が精神医療サバイバー、マルクス主義者、市民的リバタリアンからサイエントロジー教会(市民の人権擁護の会)にいたるまで、様々な政治的な幅を持っていることによく気を付けなければいけない。コ・カウンセリングでさえ、ダイアネティックス(サイエントロジーの手法)にその起源を持つようだし、その密教的実践だとか創始者が性的虐待、権力の乱用をしていたのを批判されている。そもそもはアルコールやドラッグ依存症者のパートナーを示す用語だった「共依存」という言葉をお互いに頼り合う関係に何でも当てはめてしまい、結果的に本当に親密な関係性を妨げてしまう風潮も、いろいろなセラピーを検討するときに多くの人が直面しがちな問題である。根本的に、回復の第一歩は心の霧を払うことができる安全な場所を見つけ、真実と意識的現実を統合し、そしてそれに基づいて行動できるようになることだ。

真実を述べるのは回復の過程でもあり、革命の過程でもある。言語は抑圧することも、解放することもできる。自分に貼られたレッテルを役に立つと感じる人も多い。それが自分の苦労を言葉にする語彙や言葉遣いを提供してくれるからだ。しかし精神医学のレッテルを比喩として受け入れることが役に立つにしても、自分の苦労や自分の人間性を本当に病理化してしまわないよう気を付けなければいけない。張られたレッテルを奪い返すのはパワフルな行為であるけれど、たとえば鍵十字にはファシズムの意味が強すぎてそれ以外の意味を表すには不適切なように、「精神疾患」についての語りもまた、そのように名指される人々が人権を剥奪されている現代においては、単なるシンボルや言葉遣いだけでなく、(差別的)態度そのものの使用であって、それを持続させるのに加担してしまう。このシステムの下では、出来ることが普通の人と違っているだけで、住む場所や食べ物、医療といった基本的ニーズを満たすのにも偏見の目で見られるのを我慢しなければならない。この虐待的システムのもとでうまくやれないからといって、私たちの一部が受ける貧弱な障害者給付を受け取りたくないと思っている人はたくさんいる。政治的に異議申し立てすることで自分が嘘をついているように思えてきて、自分には障害なんかないと証明するために限界を超えて自分を追い込んだり、自分の経験ではなく張られたレッテル通りに行動してレッテルに自分でお墨付きを与えてしまったりする。どちらにしても、自分の人間性を医学的な問題とみなすようなレッテルを使うのは根本的に良くない。自分が苦労している精神的な混乱を増やしてしまう。私たちは、今利用できるわずかな支援をなんとかして維持しつつ、私たちを抑圧する言語を解体しなければならない。

ロングホールで意見を出し合ってから、ある仲間たちは危機にある活動家のための情報リストを作っている。例えば感情的・精神的支援、アドボカシー、法的支援、医療へのアクセス、障害者給付金やその他の基本的ニーズ、情報や、トラウマに気づいてそれを生き延びた人の経験といったことだ。また、活動家が自分の苦労(の経験)や支えとなる繋がりをお茶でも飲みながらカジュアルに、あるいはワークショップやサポートグループ、一対一のピア・サポートなどのフォーマルな形で共有するためのセーフ・スペースも作りたい。理想を言えば、「精神病」のレッテルを張られたくない人のために精神的な危機のためのクリニックを作って自分たちで運営し、階級、ジェンダー、人種差別、同性愛嫌悪やその他の抑圧が政治的にきちんと意識される場にしたい。でもそんな野心的な課題を成し遂げるまでは、まずは小さな一歩から始めるしかない。私は皆さんに強く呼びかける。自分の状況に最も適した支援はどれか自分で調べてみよう。情報源を共有しよう。自分のいる生協組合やアフィニティ・グループに知識を広げよう。自分の経験をオープンに正直に語ろう。そして、いつでも自分の心の全部を守ろう。何より大事なのは、自分自身と他者に対して親切であることだ。この芯まで腐ったシステムが、あなたの為になることは無いのだから。


この論考の参考にした資料は多すぎて書ききれないが、私がとてもおすすめする本はこちら:
ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』みすず書房
(未邦訳:トーマス・S・サズ『狂気の発明――異端審問と精神保健運動の比較研究』)
The Manufacture of Madness – A Comparative Study of the Inquisition and the Mental Health Movement
by Thomas S. Szasz
(未邦訳:ジェフリー・M・マッソン『暴力の真実――フロイトの誘惑理論の隠蔽』)
The Assault on Truth – Freud’s Suppression of the Seduction Theory
by Jeffrey Moussaieff Masson