タイトル: ドゥルティの友グループ:1937年~1939年
著者名: Agustín Guillamón
発行日: 1996
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/fd-contents.html(2023年2月21日検索)
備考: このモノグラフは、元々、スペインの「Balance」第3号(正確な出版年は不明)に掲載された。訳出に当たっては、AK Pressより出版された「The Friends of Durruti Group: 1937-1939」(1996年、Paul Sharkey訳)を参照している。原文は、ウェブ上では、http://www.spunk.org/texts/places/spain/sp001780/index.htmlで読むことができる。
なお、バリウスのパンフレット「新しい革命に向けて」の全文は、http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/tomo3.htmで読むことができる。この翻訳で引用されている文章と異なる部分もあるが、参考にしていただきたい。(Anarchy In Japanより)
文中の注はすべて原注となります。
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英語版への序文

アグスティン=ギリャモンの「ドゥルティの友」に関するモノグラフは、英語圏の読者に、このグループの歴史と思想について最も包括的で最も徹底的な探求と解説を提供してくれる。全てとは言わないが、これほど大きな誤解・誇張・興味深いほど誤った記述をされたグループはまずない。ギリャモンは新しい証拠を明らかにし、最も長く述べられ続けている誤りの幾つかを上手く整理している。

自由主義者・スターリン主義者・マルクス主義者・リバータリアンは、互いに競ってこのグループとそのメッセージを非難し、不当に記述してきた。イタリアのスターリン主義者は、このグループと繋がりがあるというだけで政治的敵対者を処刑するのに充分な根拠である、と示した。1937年5月29日、イタリア共産党機関紙「イル=グリード=デル=ポポロ」は、カミーロ=ベルネリを「カタロニアの人民戦線政府に対する血なまぐさい蜂起を引き起こした(中略)ドゥルティの友グループの指導者の一人であり、この叛乱の中で民主的革命の手によって自身にふさわしい結果を与えられた。その正当な自己防衛権は、反ファシストならば誰も否定できない。」とする記事を載せた。ベルネリがドゥルティの友と関係していた証拠は全くない。「エンリコ=マラテスタ」グループを代表して、イタリア人アナキストであるドメニコ=ルドヴィチ(Domenico Ludovici)は次のように報告した。「不運な同志ベルネリは、『ドゥルティの友』グループのメンバーではなかった。だが、メンバーだったとしても何か悪いわけではない。彼が犠牲になった卑劣な殺人が許されるわけではないのだ。「イル=グリード=デル=ポポロ」の民主的『ジャーナリスト』は野蛮な行為を行う工作員と同じ教理を信じていたに違いない。だからこそ、血なまぐさい工作員として『ドゥルティの友』を懸念したのだ。全世界の誰もが--「イル=グリード=デル=ポポロ」を除いて--知っているように、血なまぐさい工作員は『民主的』起源を持っている。」[1] 興味深いことに、アスカソ縦隊のイタリア人アナキスト達は、実用主義ではなく原則を実直に守っていたため、スペインの仲間達と頻繁に衝突したが、彼らはどちらかといえばドゥルティの友の行動に批判すべきことを見いだせなかったようである。エルネスト=ボノミニは、10年後に回想したときでさえ、このグループについて賛同的に話すことができた。[2]

ドゥルティの友が5月のバルセロナでの戦いを扇動したという主張に関しては、「ラス=ノティシアス」紙に掲載された際に、彼ら自身が反駁した。「彼らは、我々を本物のバカだと思っているはずだ。彼らが挙げたグループ(ドゥルティの友とリバータリアン青年)が叛乱の扇動者ならば、我々が街路を明け渡すことなどしなかっただろう。」[3] ドゥルティの友は、確かに、1937年5月の事件を扇動しなかった。そうだとしても、彼らは、同様に確かに、その事件に即座に反応した数少ないグループの一つだった。彼らは、かなり以前から、復活したカタロニア国家とブルジョア階級の侵略に敏感だった。そして、1936年7月にファシストに対する勝利に伴って展望をもたらした率直な徹底的対決に戻りたいと切望した。[4]] こうした感情は、カタロニアのリバータリアン運動の多くの部門にかなり広く存在していた。組織の高次委員会が政治家と戯れ、政治家と取り引きする上で手助けとなる規律ある統一の取れた一つの政策を追求することで、こうした組織の日常実践に歓迎されない変化を幾つかもたらした。1937年1月に、「イデアス」(思想)紙が、大文字で書かれた警告と共に、労働組合連合主義の正当性を思い出させる文章を発表した。「いわゆる高次委員会は、労働組合組織の合意に拘束されねばならない。組合が取り決め、委員会はこの取り決めが実行されるよう責任を持つ。これこそ連合主義の姿である。それ以外の事が行われるならば、それは独裁であり、一分たりとも許すわけには行かない。」[5] この同じ月、リバータリアン青年の機関紙「ルタ」(道程)は、読者にあからさまに次のように指摘した。「絶対確実な指針として振る舞おうとしている自惚れの強い少数派に期待できることなど、独裁と弾圧だけである。」[6]

革命の停滞と退潮に不安な人々の中には三つの主要な関心事があったと思われる。(1)戦争の準備の背後で革命を第二段階へと持ち込もうとする試み、(2)高次委員会の説明責任の弱体化、(3)外部の力によって仲介された何らかの妥協的決議が生まれたという疑い。[7] 多くの人々が、まさに自分達の指導者こそが、政治家との関係によって唆され、腐敗したと憶測した。

ドゥルティの友は、こうした懸念を全て共有し、解決すべく努力した。リバータリアン陣営の叛乱分子全ての中で唯一、彼らは一貫した代案を発明しようとした。だが、組織に対する規律の強制と感情的結合の強さが、彼らの努力を妨害し、その聴衆を少なくした。規律と心情の混合は、ドゥルティの友の二人のメンバーが1937年5月29日に「ソリダリダー=オブレラ」(労働者の連帯)紙のページに公刊した手紙にハッキリと現れている。CNTとFAIの地方委員会とCNTのバルセロナ地方連合が、グループとの関係を公的絶たなかったドゥルティの友のメンバーは皆除名すると脅迫したことを受けて、ホアキン=アウビとロサ=ムニョスはグループを脱退した。しかし、次のようにハッキリと記していた。「私は、『ドゥルティの友』に属している同志達を同志として見なし続ける。ただ、ここで、私が常にバルセロナの総会で述べていることをもう一度言おう。『CNTは私の母胎だったし、私の墓穴となるであろう。』」

実際、この格言は、ドゥルティの友全体の墓碑銘となり得ただろう。除名を進める委員会の決定がそもそも実施されたのかどうかは分からない。ただ、「『ドゥルティの友』グループの重要人物を組織から除名し、この結果としていかなる分裂も起こらないことを保証するために必要なあらゆる処置を取る」というカタロニアの意図をCNT地方支部全国総会が承認した以上、このこと自体が、ドゥルティの友を一般民衆がどの程度まで支持していたのか確認しているように思える。[8]

ここでも、ドゥルティの友は「上役」に組織規範を思い起こさせたはずである。誰も一度たりともCNT、連合に参加してはいなかった。全てのCNTメンバーは地元の組合と連合に属し、主権はそこにあった。「我々を連合組織から除名できるのは組合の集会だけだ。地元と地方の総会は一人の同志も除名する権限を持たない。我々は、委員会にドゥルティの友の件を集会で提起するよう求める。集会にこそ組織の主権が存在する。」[9]

サンジカリズム党の指導者である三〇人派の大物アンヘル=ペスターニャがCNTの側に再加入することを許されたというニュースに対するドゥルティの友の反応に、合憲手続きに関する同様の懸念を見ることができる。「別の機会に彼の再加入の話があった際は、サンジカリズム党の始末を付けることが加入条件として要求されたが、この前提条件を求められないまま、ペスターニャがどのように承認されたのか我々には理解できない。」[10]

実際に、共和国同盟内部でCNT-FAI勢力を保持することに心を奪われても、この集合体の指導部は潜入とその頭文字の乱用に常に警戒していた。そして、ドゥルティの友をその二つに対する脅威だと見なすよう促した。極めて小さいボルシェヴィキ-レーニン主義代表団の声明とドゥルティの友の声明とにある種の共通性があり、同時に、POUMが5月の市街戦の最中に振る舞ったやり方をドゥルティの友が無党派的に認めたことで、「マルクス主義」の暗澹たる気配があった。ここでまた、誤解が広まっている。バリウスは、自分の中傷をする人々に、自分に対して非難されたり密かに言われたりしていた「マルクス主義者」の嫌疑を立証するよう挑もうと動いた。[11] ギリャモンは、POUMやトロツキストとの繋がりの疑惑を断固として扱い、こうした疑惑を鎮めている。扱いが難しいのは、ドゥルティの友自身が「ちょっとした発明」だったと認めている革命フンタをめぐる神話である。

まず最初に述べねばならないが、スペイン語のフンタ(軍事政権、評議会)には、英語と同じ侮蔑的意味はない。個々のCNT組合はフンタが運営していた。メヒコで、マゴーン兄弟のメヒコ自由党を運営していたのはフンタだった。従って、この言葉それ自体に、権威主義を示すものは何もない。

次の点も明らかにしておきたい。ドゥルティの友はフンタを扇動していたのであって、フンタ形成を報告してはいなかった。フンタを実際に作り、自分達と共にPOUMをそこに認めたとすれば、彼らに向けられた「アナルコ-ボルシェヴィズム」という嫌疑は、この代用主義(substitutionism)に基づき、有効だったであろう。しかし、ホセ=ペイラツなどが主張しているのと異なり、フンタは一度も形成されなかった。[12]

ドゥルティの友に関わる最も不愉快な表現、もしくは不当表現は、セザール=M=ロレンソがその著書「スペインのアナキストと権力」(パリ、1972年)の脚注で、共産主義者同盟宣言に言及し、ドゥルティの友・POUM・リバータリアン青年の一部を代弁するものだと示す判断をしたことである。その文面では、このことは、ドゥルティの友が自称前衛同盟の中でマルクス主義分子と関係していた、実際、融合した事実がある、と確定させている。だが、決してそのようなものではない。ロレンソは、場所を特定せずに、この宣言が「6月の初めに配布」されたと述べている。[13] 実際、彼が引用しているテキストは、1937年6月16日にパリのヴェロドゥローム=ディヴェールで1937年5月に名指しされた三つのグループが示した革命主義を、公式的CNT-FAI路線と対比させるために、ガルシア=オリベルとフェデリカ=モンセニーに論駁する目的で、ちっぽけなフランス共産主義者同盟の闘士が配布したリーフレットからのものだった。ロレンソがこのことをハッキリさせることができなかった理由が、見落としたためなのか、ドゥルティの友をアナルコ-ボルシェヴィキを形成するものだと示す目的に役立つからなのかは分からない。だが、この不当な陳述を他者は無批判に取り上げ、このグループとその思想に対して持ち越されている無知の影を助長してきた。[14]

共産主義者同盟は、1937年12月に、「エル=アミーゴ=デル=プエブロ」(民衆の友)の掲載論文を自分達の機関紙であるL'Internationaleに翻訳転載することで、ドゥルティの友のシンパであるアナキスト達(例えば、アンドレ=プリュドモ)を出し抜いた。だが、共産主義者同盟は、次のコメントを加えることで、事実を幾分誇張している。「秘密出版物の論説という狭い範囲の中でドゥルティの友が述べることができなかったことは、この革命理論は前衛の手による仕事だということである。革命理論の必要性は、組織された前衛の必要性を暗示する。前衛は闘争によって創り出され、革命綱領の諸要素を討議し、発明する。従って、『党』は必要なのだ。党という言葉は当てにならない組織を指すために乱用されてきたが、最も明敏で、最も能動的で、最も明確な社会意識を持った労働者が団結した組織が必要なのだ。」そして、次のように予測している。「ドゥルティの友は、確実に、POUMの左派分子と結合せしめたこの傾向を継続し、このことが、スペインのプロレタリア階級に近年の戦いで欠落していた革命党の設立を導くであろう。」ギリャモンが明らかにしているように、この予測は全くの見当はずれであった。[15]

民衆の友の紙面や、ドゥルティの友の十全な宣言文である「新しい革命に向けて」で提起されてはいるが、完全に解明されていない幾つかの問題があったことは否定できない。ドゥルティの友は、アナキズムの慣用句を明確に述べる正直な活動を行っていた。この活動が、他の反ファシストに対して非常に乱用されていた寛容さによる行き詰まりから脱出させ、反ファシズムの傘の下に行われている協調路線によって変質させられている革命を正常な状態に戻してくれると彼らは考えた。何度も繰り返されたフレーズの一つは、革命はケマール=ウナ=エタパ(段階を飛ばす)でなければならない、というものだった。彼らは、労働者階級リバータリアン分子の覇権を主張することで、費やされた努力に正当な報酬が支払われるよう保証しながら、反ファシズムを再構築しようとした。当時、停滞してはいないものの次第に活気を失いつつあった労働組合を、その自律性を取り戻し、協調路線に奪われた主役性を再び主張することで、生き返らせようとしたのだ。[16]

最近では、ドゥルティの友とハイメ=バリウスの性格に関する事実について、スペインの大学にいる歴史家エンリク=ウセライ=ダ=カルとスサナ=タベラ二人の筆によるかなりバカげた読み物が出現している。カタロニアにおけるリバータリアン集団の中での集団力学をなぞるという素晴らしい意図から始まり、「労働者の連帯」の編集者・カタロニアにおけるCNT-FAI「公式路線」のスポークスマンという座にあったハシント=トリオ(Jacinto Toryho)に特に依拠しながら、著者らは、バリウスの挫折したジャーナリズム的野望が、反対意見を唱えるリバータリアンの疑念と憤慨を自分のためにシニカルに利用する事へと悪化したというマキャヴェリ的逸話をでっち上げている。ギリャモンは、当該論文を「ナンセンス」で「恥知らず」で「中傷的」であり、疑いもなく非常に卑しく粗雑な一編の歴史研究がこの著者等の学者としての名声によって生き生きとしたものになり、両者の自己満足を一層助長するのであれば、哀れなものだとして正しく却下している。彼らの捏造は、1937年3月のドゥルティの友の設立を「反革命とスターリン主義者を、そしてそこまでではないにせよ、CNT内部にいる自分の(バリウスの)除名に責任ある人々を、敵だと指摘しながら、重要な政治的内容を個人的挫折へ注入しようとする試み」だと記述していることからも分かる。[17]

アグスティン=ギリャモンは、科学的調査の精神を持って自分の研究を行ったことで賞賛されるであろう。彼は、よく見られる作り話を包括的に扱い、1937年という重要な年にスペインのリバータリアニズムの大きな仲間の中にいる反体制派グループの中で今も最も魅力的な、最も明確に自分達の考えを表明したグループの思想と目的を実直に正確に解説している。

第一章 イントロダクションと年表

ドゥルティの友は、1937年3月に設立されたアナキストの親和グループである。そのメンバーは、ドゥルティ縦隊と共に軍隊化に反対した闘士たちや、CNTが共和党政府とカタロニア自治政府に参加したことに批判的なアナキスト達だった。

ドゥルティの友グループの歴史的・政治的重要性はその企図にある。この企図はリバータリアン運動それ自体の集団内部から(1937年に)生じている。革命的諸原則からの離脱と資本主義国家との協調路線とを潰すために革命的前衛を構成するというものである。ブルジョア階級に少しずつ身を委ねるのではなく、1936年7月に「獲得したこと」を防衛し、徹底的に行うためにCNTと決別するのである。

本号の「バランス」は、ドゥルティの友が出現したプロセス・そのイデオロギー特徴・政治的考えの進化・トロツキストへの対応・アナルコサンジカリズム教義の純粋さを復活させ、1936年のスペイン革命を救い出す戦いが失敗した背景となる理由を検証する。

以下の年表には、これまで発表されていなかった情報が含まれている。ただし、これは包括的なものというよりも選択的なものである。この年表は重要な歴史的出来事を熟知できるように意図されているため、年表を読めば、この研究で詳細に説明される議論を迅速に、厳密に理解できるようになるだろう。 [18]

年表

1936年7月17日~21日:軍人とファシストが共和国政府に対して反乱を起こす。労働者が武装抵抗を行った場所では反乱は失敗し、和解が試みられたり、全く武装対決がなかったりした場所でのみ勝利を確保した。内戦が勃発。

1936年7月21日:中央反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)がカタロニアで設立される。労働者組織が権力を奪取。

1936年8月19日~25日:モスクワで16人裁判。ジノビエフ・カーメネフ・スミルノフが処刑される。ラデックは逮捕されたまま。

1936年9月26日:三人のアナキスト--ドメネチェ・ファブレガス・ガルシア=ビルラン--がカタロニア自治政府に参加。

1936年10月2日:CAMCが解散。

1936年10月12日:カタロニア自治政府が(革命的)地元委員会の解散を命じる。その後すぐに、新たに人民戦線型の町会で置き換えられる。

1936年10月27日:カタロニア自治政府が人民義勇軍の軍隊化命令を宣言。

1936年11月4日:4人のアナキスト大臣--ガルシア=オリベル・フェデリカ=モンセニー・ホアン=ペイロ・ヒュアン=ロペス--が共和国政府に参加。

1936年11月5日:ドゥルティがマドリー戦線からラジオ放送を行う。その中で、彼は、自分が義勇軍を軍隊化するというカタロニア自治政府の布告に反対だと述べ、戦争に勝つために後衛からのもっと大きな献身と犠牲を求めた。

1936年11月6日:共和国政府(4人の新しいアナルコサンジカリスト大臣と共に)はマドリーからバレンシアへ安全確保のために逃亡。マドリー民衆の反応は、「政府のないマドリー万歳!」という叫びとなる。

1936年11月7日:国際旅団がマドリー戦線に介入。

1936年11月9日:マドリー防衛フンタ結成。

1936年11月20日:マドリー戦線でドゥルティが死亡。

1936年12月6日:「労働者の連帯」紙に、バリウスが「ドゥルティの遺言」と題する論考を発表。その中で彼は次のように述べる。「ドゥルティは単刀直入に主張していた。我々アナキストに必要なのは、性格として全体主義的な革命である。」

1936年12月16日:POUMがカタロニア自治政府から除名。

1936年12月21日:スターリンがラルゴ=カバリェロにアドバイスをする。

1936年12月29日:「思想」の第1号が発行。

1937年1月26日:バリウスが「ラ=ノチェ」(夜)紙の編集長に指名される。

1937年2月5日~8日:軍隊化問題を考えるためにバレンシアで連合・アナキスト義勇軍の総会が開催される。

1937年3月4日:「夜」紙がドゥルティの友グループの目的・特徴・メンバー条件を紹介する告知を掲載。

1937年3月4日:カタロニア自治政府が統制パトロールを終結する宣言を発布。「ラ=バタリャ」(戦闘)紙において、ニンは、バリウスが「夜」紙3月2日号に掲載した記事に好意的で期待を寄せていることを示すコメントを発表。

1937年3月11日:「思想」紙がアイグアデの解任を呼びかける

1937年3月17日:ドゥルティの友グループが正式に設立。バリウスは副書記に指名される。ルイスとカレーニョは運営委員となる。

1937年3月21日:アイアン縦隊が集会を開き、軍隊化するか解散するかを投票で決める。軍隊化に同意する。

1937年3月後半~4月前半:ドゥルティの友を支持するフライヤーが発行される。

1937年4月8日:「思想」紙において、バリウスは「革命を起こそう」と題された記事を発表。その中で次のように述べる。「(コンパニイスが)自分の思うままになる大規模な武装派遣部隊を持てば、資本主義の馬具へと労働者階級を引き戻すだろう。」

1937年4月14日:ドゥルティの友は共和国宣言の一周年記念に反対する宣言を公表。

1937年4月18日(日):ドゥルティの友はポリオラマ劇場で集会を開く。ロメロが議長を務め、フランシスコ=ペリセル・パブロ=ルイス・ハイメ=バリウス・フランシスコ=カレーニョ・V=ペレス=コンビナが意見を述べる。

1937年4月25日:UGT指導者のロルダン=コルタダがモリンス=デル=リョブレガトで殺される。

1937年4月27日~28日:ベリェベル=デ=セルダーニャでアナキストとカタロニア自治政府軍との間の武装対立。プイフセルダのアナキスト市長、アントニオ=マルチンが射殺される。

1937年4月下旬:ドゥルティの友のポスターがバルセロナ市中の木や壁に貼り付けられる。ポスターの中でドゥルティの友はその綱領をデザインする。「全ての権力を労働者階級に。全ての経済権力を組合に。カタロニア自治政府ではなく、革命フンタを。」

1937年5月1日(土):カタロニア自治政府が、騒乱と対立を回避しようとして、メーデー記念を禁じていたため、通常の労働日。カタロニア自治政府は議会を開催し、達成された成功について警視総監を祝う。参加した識者は、タラデリャス(最高評議員)・ロドリゲス=サラス(警視総監)・アルテミ=アイガデ(国内治安評議員)。この会議は、治安と保安に関わる緊急事業に取り組むために、密室で迅速に開催される。ボルシェヴィキ-レーニン主義支部がリーフレットを発表。

1937年5月2日(日):ドゥルティの友がゴヤ劇場で集会。「7月19日」のフィルムが上映され、バリウスがコメントをする。リベルト=カリェハスとフランシスコ=カレーニョもスピーチを行う。CNT闘士がコンパニイスとアサーナとの電話会談を妨害。

1937年5月3日(月):午後3時少し前、アルテミ=アイガデの命令で、ロドリゲス=サラスが指揮するトラック三台分の警官隊が電話局を掌握しようとする。上階にいたCNT労働者が武装抵抗を行い、これを阻止。数時間の内に、多くの武装部隊が形成され、最初のバリケードが築かれる。動員は、二つの側に分かれる。一方はCNTとPOUM、もう一方はカタロニア自治政府・PSUC・ERC・エスタト=カタラ。商売は中止になる。午後7時に列車の運行は止まる。この時間、ドゥルティ通りの「CNT-FAIの家」では、CNTの地方委員会とPOUMの執行委員会が会合を持つ。最大の要求はロドリゲス=サラスとアルテミ=アイガデの辞任。コンパニイスはこれに断固として反対する。

1937年5月4日(火):夜通しの銃撃戦。市内全土に多くのバリケードが築かれ、暴力衝突が起きる。サンツ地区では、400人の警備隊が武器を奪い取られる。コンパニイスはバレンシア政府に、CNTの施設とバラックを爆撃する飛行機を求める。[19] モンヒュイックとチビダボにあるCNTが管理している大砲がカタロニア自治政府官邸へ列車で運ばれる。[20] アバド=デ=サンティリャン・イスグレアス・モリナは、CNTのマクシモ=フランコ(ドゥルティの友のメンバー)とPOUMのホセ=ロビラが派遣した師団を「バルセロナに行く途中で」レリダで何とか食い止める。午後7時、POUMが奪い取ったランブラス通りのプリンシパル=パレスで、ドゥルティの友を代表するハイメ=バリウス・パブロ=ルイス・エレウテリオ=ロイグ・マルティンが、POUMの執行委員会を代表するゴルキン・ニン・アンドラデと会議を持つ。情況分析をし、CNTが採用した立場を鑑みた後で、バリケードの戦闘員に整然と武器を持って撤退するように勧めることに合意する。午後9時、カタロニア自治政府のラジオ局は様々な組織の指導者(CNTを代表したのはガルシア=オリベル)からの戦闘中止のアピールを発表。POUMの執行委員会は宣言を発表。ボルシェヴィキ-レーニン主義支部はビラを公表。5月4日~5日の夜に、ドゥルティの友グループはビラを起草し、印刷。

1937年5月5日(水):ドゥルティの友がビラを配布。ラジオでは、CNTがドゥルティの友グループとの関係を否定。戦闘はこの段階で市の中心部に限定される。市の他の場所は、連邦政府の防衛委員会の手中に落ちる。午後1時、カタロニア自治政府の議員に任命されたばかりのUGT指導者セセが、CNT芸能組合の建物から発射された銃火機で死亡。午後3時、カタロニア自治政府の送信機から、様々な組織の指導者(CNTはフェデリカ=モンセニー)からの新しい呼びかけが発表される。アスカソ兄弟が殺される。ベルネリとバルビエリは警備隊と水利組合のUGT闘士によって逮捕される。その後、死体が発見される。

1937年5月6日(木):「戦闘」紙がドゥルティの友のビラを再掲。同じ号で、「戦闘」紙は労働者に退却するよう訴える。「労働者の連帯」紙はドゥルティの友のビラとは関係がないと述べる。

1937年5月7日(金):「戦闘」紙が、治安部隊の撤退と武器の保持を条件として、そのアピールを改めて表明。輸送サービスが復活し、ある程度まで通常の状態が戻る。バレンシア政府が派遣した攻撃部隊が午後9時にバルセロナに到着。コンパニイスは治安管理を明け渡す。共和国政府に派遣された治安維持に責任を持つ特別派遣団の自由になるよう統制パトロールが配置される。

1937年5月8日(土):PSUCのバリケードを除き、バリケードが取り壊される。PSUCのバリケードは6月まで継続。ドゥルティの友は5月の出来事を再検討した声明を配布。この声明の中で、CNT指導部による「背信行為」について述べる。

1937年5月9日(日):「労働者の連帯」紙はドゥルティの友の声明はデマであり、メンバーは工作員だと片付ける。

1937年5月17日:ネグリンがラルゴ=カバリェロから首相の座を奪う。UGTカタロニア地方委員会は、全てのPOUM義勇軍を組合から除名することを要求し、CNTもドゥルティの友に対して同じ対応をとるように強要。

1937年5月19日:「民衆の友」紙の第1号発刊。

1937年5月22日:CNTの地元・地方連合の総会が、ドゥルティの友を除名する提議を審問。サバデル市議会の会議は、ブルーノ=リャド=ロカ議員(同時にカタロニア自治政府の地方経済使節)がドゥルティの友のポスターを自分の事務所に掲示していることで辞任すべきだということに同意する。

1937年5月26日:「民衆の友」紙の第2号が、検閲を逃れて発刊。PSUCの苦情を受け、秘密出版の指導者だとしてバリウスは数日後に投獄される。

1937年5月28日:「戦闘」紙が発禁となる。同時に、POUMのラジオ局も閉鎖。ランブラス大通りにあるドゥルティの友の社会施設も閉鎖。

1937年6月6日:統制パトロールが解散。

1937年6月12日:「民衆の友」紙第3号。

1937年6月16日:POUM執行委員会のメンバーが一斉検挙される。POUMは禁止され、その闘士は迫害される。

1937年6月22日:「民衆の友」第4号。

1937年6月22日~24日:アンドレス=ニンがソヴィエト秘密警察に誘拐され、殺される。

1937年6月26日:スターリン主義者と共和国警察に迫害されたPOUM闘士との連帯を示しながら、ボルシェヴィキ-レーニン主義支部が、支部・POUM左派・ドゥルティの友による共同行動を呼びかける。

ボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部(第四インターナショナルを代表して)のビラが、スターリン主義者に迫害されたPOUM闘士との連帯を表明。

1937年7月20日:「民衆の友」第5号。

1937年8月10日:アラゴン評議会が政府によって強制的に解散。

1937年8月12日:「民衆の友」第6号。

1937年8月31日:「民衆の友」第7号。

1937年9月21日:「民衆の友」第8号。

1937年10月20日:「民衆の友」第9号。

1937年11月8日:「民衆の友」第10号。

1937年11月20日:「民衆の友」第11号。

1938年1月:新しい革命に向けてパンフレットをバリウスが起草し、ドゥルティの友が出版。

1938年2月1日:「民衆の友」第12号。

1939年7月~9月:L'Espagne Nouvelle 第7号~9号。

第二章 7月19日に向けて

人民戦線が僅差で勝利した1936年2月16日の選挙で、アナキストは、棄権主義原則と標語ではなく、形だけのプロパガンダを仕掛けただけだった。情況の革命的分析に従い、アナルコサンジカリスト指導部は、選挙の結果がどうであろうとも軍やファシストとの対決は不可避である、と見なした。[21] 従って、目前に迫った革命的蜂起を真面目に準備し始めたのである。

フランシスコ=アスカソ・ブエナベントゥラ=ドゥルティ・ヒュアン=ガルシア=オリベル・アウレリオ=フェルナンデス・リカルド=サンス・グレゴリオ=ホベル・アントニオ=オルティス・アントニオ=マルティネス=「バレンシア」から成る「ノソトロス」(我ら)グループは、自身を中央革命防衛委員会として設定した。「我ら」グループのメンバーは実行力のある人々であり、正真正銘の労働者階級をCNT集団に傾倒させた。1936年7月19日早朝、このグループの男達は、武装した闘士達で満載の貨物自動車に乗り込み、バルセロナ中心部へ向かう途中で労働者階級のプエブロ=ヌエボ地区をゆっくり回った。彼らは、実例による指導というリバータリアン実践を実施した。工場のサイレンが労働者蜂起を召喚した。労働者が手にすることの出来た僅かばかりの武器は、1934年10月に手に入れたり、カタロニア独立主義者が捨てたものを街路で集めたり、兵器工場・警察・軍の倉庫・船の兵器庫などから7月19日までの数週間で集めたりしたものだった。武器よりも闘士の数の方がはるかに多く、そこにいた戦闘員一人に対し、三人がその人のライフルや拳銃をめぐって言い争いをしていた。だが、市街戦の最中に多くの武器が手に入った。軍隊とファシストの叛乱は、民衆がサン=アンドレス兵舎を強襲し、35,000丁のライフルを手に入れると、暴動型の蜂起となった。労働者の武装は成功した。カタロニア自治政府治安委員エスコフェトが辞任した背景には、こうした情況があった。カタロニア共和主義左派(ERC)とカタロニア自治政府にとって重要だったのは、武装叛乱を壊滅することであった。だが、この武装した民衆は、酷い大災害の前兆であり、ファシストの勝利よりももっと恐るべきものだったのだ。[22]

闘士の階級本能のおかげで、CNTは武装叛乱を打ち負かすことが出来ただけでなく、プロレタリア階級蜂起の成功を確たるものにした。しかし、階級本能以上の何かが必要となると、革命理論の実行が必要になると、全てが堕落した。革命理論なくして、革命などないのだ。そして、労働者蜂起を成功させたまさにその主役達は、革命が自身の手から滑り落ちていくのを見て驚いていた。

我々はこの偉業を繰り返し述べようとしているのでも、バルセロナの民衆蜂起の成功を可能にした戦術的洞察を詳しく述べようとしているのでもない。我々は、(他のFAI親和グループに教唆された)「我ら」グループが蜂起の勝利に向けて連合の大衆を導くのに充分明敏な革命的前衛として行動したことを強調したいだけである。同時に、このグループが、そして全ての労働指導者と労働者組織--アナキストであるかないかに関わらず--が、ライフルで武装していても政治的交渉の中で武装解除したがゆえに、権力が手の届くところにあり、獲得できたはずの時に、革命を確固たるものに出来なかったことも強調したい。誰もが認めるCNT指導者達がカタロニア自治政府官邸でのコンパニイスとの待ち合わせに早足で行くなど、どう説明すればよいのか?どう理解すればよいのか?どのようにしてCNT指導者達は、7月19日の早朝にCNTの武装を拒否した男の、何度も何度も自分達を攻撃し投獄した男の話に耳を傾けることができたのか?カタロニア自治政府に何故政府がまだあったか?何故、彼らは、カタロニア自治政府に向けて行進し、ブルジョア政府を処分しなかったのか?何故、彼らは、リバータリアン共産主義を宣言しなかったのか?[23]

革命時代の特徴であるが、出来事が異常なほど早く進展し、情況が目まぐるしく変わった。たかだか数ヶ月の内に、反逆者は大臣になり、革命家は「ソフト路線」の提唱者になり、スターリニストは殺戮者になり、カタロニア自治論者は中央政府にひれ伏す哀願者になり、アナキストは忠実な同盟者で国家の揺るぎない防波堤になり、POUM主義者はそれまでは想像もできなかった残忍な政治的弾圧の犠牲者となり、社会主義者はスターリン主義の人質になり、ドゥルティの友は異端者で工作員になった。

もう一度強調するが、ここで事件を繰り返し述べるつもりはない。こうした出来事については、多くの著述家や様々な政治的見地による本を手に入れることができるからである。具体的な歴史的事実を学んだり、探求したり、調査したりしたいと思ってい人々はそうした本を参照していただきたい。[24] ここでの関心事は、アナキストが大臣になり、反軍隊主義者が軍隊に入り、国家の敵が国家の協力者となり、何度も戦闘を経験した筋金入りの本物の革命家がいつの間にか反革命の重鎮になってしまったメカニズムを発見し、説明し、解明することである。

真の最大の関心事は、あまりにも多くの革命的闘士が混乱に陥り、実際には反革命の前衛として行動していたにもかかわらず、闘士達は革命を防衛していると信じていたというパラドックスに陥ってしまった現象を説明することにある。そのためには、まず最初に、理論的ポイントを示しておかねばならない。[25] このポイントが私達に洞察を与えてくれ、1936年7月に(特にカタロニアで)始まった歴史的プロセスの性質を明らかにしてくれる。

1.国家の破壊なくして、革命はない。カタロニア中央反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)[26] は二重権力機構ではなく、労働者の軍事動員機関、ブルジョア階級と聖なる同盟を組む機関、とどのつまりは階級協調機関であった。

2.民衆の武装は意味がない。軍事戦争の性質は、その方向付けをする階級の性質によって決まる。ブルジョア国家を防衛するために戦う軍隊は、それが反ファシズムであったとしても、資本主義に仕える軍隊である。

3.ファシスト国家と反ファシスト国家との戦争は、革命的階級戦争ではない。プロレタリア階級が一方の側に立って介入していること自体、既に負けてしまったことを示している。軍事戦線での軍事闘争において、民兵や義勇軍型軍隊の側には克服不可能な技術的・専門的劣等性が内在していた。

4.軍事戦線での戦争は、階級範囲の放棄を暗示していた。階級闘争の放棄は、革命プロセスの敗北を意味していた。

5.1936年8月のスペインには、革命はもはや存在せず、戦争--非革命的軍事戦争--の見通しだけがあった。

6.国家権力がブルジョア階級の手中にある時に、経済の集産化・社会化は無駄である。

第二に、7月19日以後の一週間でジレンマとして姿を現した難問に目を向けねばならない。資本主義国家を一掃し、プロレタリア階級がリバータリアン共産主義の導入と革命戦争の開始で階級闘争を一段階進めるか、資本主義国家がその支配機構を再建できるようにするか、である。

第三に、革命的選択肢が実行されなかった理由を疑問視する余地がある。そして、答えは非常に単純である。革命の舵取りをできる革命的前衛がいなかったのだ。

スペインの革命・反革命プロセスに関するこれらのテーゼは、論理的で厳格で正確で有効なやり方で、多くの個人的・集団的行動を説明し、照らし出す。これらのテーゼがなければ、私達はこうした行動をバカげている・不可解だ・頑迷だと思ってしまう。こうした行動の例を挙げれば、7月21日にカタロニア自治政府官邸でCNT指導者がコンパニイスと会談を持たせるよう要求したこと・CNT総会がカタロニア自治政府との協調路線を受け入れたこと・CAMCの形成と解散・CNT闘士がカタロニア自治政府に参入したこと・義勇軍の軍隊化・共和国政府にアナルコサンジカリスト大臣が参加したこと・こうした新しい「アナキスト大臣」がマドリーからの政府の亡命を即座に是認したこと・1937年5月1日の労働者蜂起を鎮圧することにアナルコサンジカリスト指導者が協力したこと・1938年のCNT-UGT団結協定・ネグリン政府との協力などである。

第三章 7月から5月へ:暴徒か、革命家か?

1937年5月の懐胎は、1936年7月の革命的出来事の一週間後に始まった。

カタロニアでは、労働者大衆の革命的蜂起が軍を打ち負かし、国家の行政・弾圧機構を混乱させ、ブルジョア階級を指導的機能から引き剥がすことに成功した。共和国に対する軍部蜂起を挫折させただけでなく、資本主義国家それ自体を打倒したのである。カタロニアの労働者階級は、突撃した兵舎から武器を奪取し、抑圧的諸機関が武装した民衆に馴染み、新しい革命秩序が確実に導入されるようにした。[27] つまり、工場を集産化・社会化し、その工場内部で生産を組織し、指揮したのである。そして、人民義勇軍を設立し、アラゴンに向けて出発した。

権力は街路にあった。民衆は武装した。だが、いかなるプロレタリア組織も権力を引き継がなかった。労働者階級は自身の労働組合と政治組織を維持し、新しい(統一された)労働者権力組織を作り出すことはなかった。これだけではない。角砂糖のように溶け出していた、幽霊のような信頼できない無能なブルジョア自治政府を動かし続けるために、いわゆる中央反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)が設立された。CAMCが新しい労働者権力の胚珠になったことは一度もなかった。むしろ階級協調機関だった。[28] ブルジョア共和主義のカタロニア自治政府の権力を保持する手助けをした地方政府だった。CAMCは、それらの機能--軍隊・治安・生産に関するもの--についてカタロニア自治政府に取って代わった。ブルジョア諸機関の崩壊後、それを行うことができる機関は他になかった。コンパニイス大統領の権力は単に名目上のものだったが、それは資本主義国家の潜在力でもあった。アナキストはその存続を許しただけでなく、実際には、それが生き残り、復活する手助けをした。7月の出来事の最中に得た革命的利益を、事後的に、「合法化」できるようにしたのだ。求めることなくして、CAMCは政府の装備すべてを獲得した。だが、CAMCは、様々な委員会--地元地域委員会・防衛委員会・労働者委員会・農民委員会といったあらゆる種類の委員会--の革命的権力を集中させず、その統一と強化に対する主たる障害物になった。カタロニアでは、地元地域の様々な革命委員会が7月19日から9月26日まで唯一本物の権力を行使していた。[29] CAMCは、こうした革命委員会の海に浸かったカタロニア自治政府に投げられた救命胴衣だったのだ。

二重権力状況は一度も存在しなかった。この概念は、スペイン革命・内線を理解するために不可欠である。CAMCは階級協調主義機関であり、資本主義国家の権力と対立する労働者権力の萌芽ではなかった。そして、CAMCに参加していようといまいと、主要な政治指導者全員にとってこのことは明らかだった。[29] この理由で、CAMCの解消は衝撃的出来事ではなかったし、甚だしく重要でもなかった。7月の出来事後に解体され、ボロボロになった国家権力を再構築するプロセスが持つ多くのステップの一つに過ぎなかったのである。CNTとPOUMも組み込んだ新しいカタロニア自治政府の形成は、CAMC内部で様々な政党と労働組合が行った活動の論理帰結だったのである。

この反革命プロセス、資本主義国家権力再構築プロセスは、必然的に多くの矛盾を引き起こした。当然、CNTの指導幹部は、反ファシストの団結を呼びかける・戦争に勝たねばならない・CNTはスペインの他の場所では少数派だ・西洋民主主義を憤慨させるのは危険だ、といったお馴染みの「状況主義的」(circumstancialist)論拠を使って、カモフラージュや隠蔽を行った。「アナキストの独裁」に背を向けているのだ、などという非常に素朴な論拠さえもあった。

資本主義国家に特有の機能すべての回復を止められない。CNTにとってこのことが抱える主たる矛盾は次の事実にあった。7月に大衆が勝ち取った「利益」の一様で継続的な損失・取り返しのつかない損失という犠牲があって初めて、これが可能になったのだ。

1936年12月から1937年5月まで、勢力争いと増大する緊張があった。CNTは常に譲歩し、POUMは疎外され、カタロニア自治政府はその機能すべてを回復すべく貪欲に圧力をかけ、ソヴィエトは尊大な圧力をかけ、その圧力がカタロニア政府も中央政府も同様に国家装置へと侵入していった。

このために、統制パトロールが、そして治安・国境管理・通信に関わるあらゆることが、台風の目の中にあった。革命闘志--敵対者の言葉を使えば「暴徒」--にとって、治安・国境・通信に及ぼす統制の保持、そしてもちろん統制パトロールの存在は、CNT指導部による絶え間ない譲歩の中でも後戻りできない基本的限界点だった。

1936年7月の革命的暴動は、何ヶ月も前に設置され訓練された地区や地元地域の防衛委員会に基づいていた。[31] 7月の事件が起こると、統制パトロールは、CAMCに釈明義務を負った革命警察として「合法的」に認められた。

だが、統制パトロールは、蜂起主義運動全体ではなかった。そこには、地区や地元地域の防衛委員会すべて、さらに他のグループや闘志達もいた。それ以上に、強調しなければならないが、統制パトロールと防衛委員会の性質は根本的に異なっていた。統制パトロールはCAMCが作り出した組織であり、組織・秩序・人材はCAMCに依っていた。防衛委員会は、CNTの反政府機構であり、1936年7月以前から存在していた。統制パトロールは労働者暴動成功の制度化だった。防衛委員会は、革命委員会に変換され、1936年7月から1937年5月まで増殖し、蜂起主義運動を代表していた。[32] だからこそ、CNT-FAIとPOUMを含むすべての政治勢力が、いわゆる「暴徒」を攻撃したのだ。

この侮蔑的レッテルは、少数の不良が行った暴力と嫌がらせを手軽に強調する場合にはぴったり当てはまる。だが、この嫌疑はCNTと組合員に対するCNTの「統制」基準にも向けられた。実際、新聞--大部分が協調主義を前提としていた連合の新聞も例外ではなかった--紙上で、「暴徒」という言葉は犯罪者と同義で使われていた。この意味合いは、ブルジョア新聞やスターリン主義新聞ではそれほど顕著ではなかった。なぜなら、こうした新聞は革命家を犯罪者と見なしていたからだ。CNTやPOUMが「暴徒」という観念を使って、自身がイデオロギー諸原則を放棄した言い訳をしていた時にこそ、重大なパラドックスがあったのだ。

あらゆる革命プロセスにおいて、自分達の都合で武力を利用するグループや個人がでてくる。だが、この少数派は、団結した労働者の力ですぐさま容易く鎮圧できる。ロシアの場合がそれを証明している。カタロニアの場合、「暴徒」に対する攻撃はほとんどいつもプロレタリアの正義(ブルジョア合法性とは無縁の)に対する攻撃であり、革命家に対する攻撃である。つまり、7月暴動でプロレタリア階級が確保した利益を手放すことを拒否した人々や、実際にそれを「さらに」押し進めようとしている人々に対する攻撃だったのだ。[33]

読者は留意していただきたい。このアプローチは非常に独特の政治的選択を前提としている。[34] 1936年~1939年のスペイン革命に関わる出来事・イデオロギー・矛盾を、革命党が存在しなかったことの結果という点で検証し、説明しているのである。

従って、「暴徒」という言葉は、純潔で中立的な言葉として用いられていなかったし、今日であってさえも用いられてはいない。完全な侮蔑的階級用語であり、この言葉を通じて、ブルジョア階級は革命家の信用を落とし、中傷しようとしていた。1937年5月、ドゥルティの友は、FAIそれ自体からさえも、スパイだとか無党派だとかいうだけでなく、暴徒だとして自身が侮辱されるのを耳にせざるを得なかった。これは偶然ではない。彼らが行った唯一の不法行為といえば、バリケードで戦っているプロレタリア階級に革命的諸目標を提示しようとしたことだけだった。

あらゆる歴史物語には、常に、特定の政治的前提を指示する選択がある。この選択が明確になることはなく、あると想定されている「客観性」を支持して、実質的に常に否定され隠されている。だが、そうした「客観性」など、この選択を昇華したのであり、存在しないのだ。[35]

最後にもう一点。1937年5月は、1936年7月に始まった革命プロセスの最後の敗北を示していた。だが、反革命のプロセスはこれで終わったわけではなく、CNTの協調主義も終わったわけではなかった。最終的に、1938年3月~4月のCNT-UGT協定の妥結とネグリン政府への参入で終わった。

第四章 ドゥルティの友の起源:軍隊化への反対とジャーナリストとしてのバリウスの経歴

ドゥルティの友グループは1937年3月17日に正式に発足した。だが、その起源は1936年10月に遡ることができる。このグループは二つの大きな潮流の結合だった。ドゥルティ縦隊(そして、「鉄の縦隊」[36] )のアナキスト闘士の一部による人民義勇軍の軍隊化への反対、そして、政府主導主義に対する反対である。政府主導主義への反対を最も上手く公言していたのはハイメ=バリウス(彼だけではないが)の著作であり、1936年7月から11月の「労働者の連帯」、1936年12月から1937年4月の「思想」、1937年3月から5月の「」に掲載されている。

パブロ=ルイスに代表される人民義勇軍の軍隊化を拒否する「民兵」潮流と、ハイメ=バリウスが先頭にたっていたCNT-FAIの政府協力への「ジャーナリスト的」批判、どちらの潮流も、程度は様々だが、特にフェデリカ=モンセニー・ガルシア=オリベル・アバド=デ=サンティリャン・ヒュアン=ペイロに具現化されていたCNTの状況主義的(circumstantialist)イデオロギー(これは、アナキズムの本質的・根本的特徴を放棄したことに対するアリバイとなっていた)に反対していた。

人民義勇軍軍隊化の拒絶は、幾つかのアナキスト民兵部隊で大きな困惑を引き起こし、1937年2月5日から8日にバレンシアで行われた連合とアナキスト縦隊の総会でハッキリ述べられた。[37] パブロ=ルイスは軍隊化に抵抗していたヘルサ支部のドゥルティ縦隊闘士の代理人として出席し、フランシスコ=ペリィセルは「鉄の縦隊」の闘士を代表して出席した。[38] ヘルサ支部はCNTとFAIの地方委員会から受けた軍隊化を受け入れるようにという命令に従うことを反抗的に拒絶した。軍隊化を受け入れたドゥルティ縦隊の闘士達とそれを拒絶した闘士達との間の峻烈な関係は、重大な問題を引き起こし、最終的には、マンサーナを長とするこの縦隊の委員会を形成することになり、これが地方委員会と問題を引き起こした。こうした論議の結末は、全ての闘士が二週間の内に次の二つの行動方針の内一つを選ぶ、という決定だった。つまり、共和党政府が課した軍隊化を受け入れるか、前線を離れるか、である。[39]

1936年7月から内戦の終わりまでのバリウスのジャーナリストとしての軌跡は、非常に多くを物語っている。彼は、永久革命を擁護する政治的立場を取っており、これが本質的に変わることはなかった。その一方で、彼の職業的・個人的名声は、来るべき反革命の波と共に急速に変化していった。

1936年7月から11月初頭まで、バリウスは、友人であるヒラベルト以外の手助けを借りることなく、「労働者の連帯」紙が7月20日に登場するよう手配し[40] 、CNTの主要機関紙であるこの紙面に多くの記事を載せた。記事の中には性質上純粋に情報提供を行うだけのものもあり[41] 、これらはジャーナリズムの報道記事にふさわしいものだった。だが、多くの記事は、そして疑いもなく最も興味深い記事は、政治的見解の表明だった。これらの記事は「労働者の連帯」紙のレギュラーコラムを埋め[42] 、時として、この新聞の論説と称して第一面に掲載された。[43]労働者の連帯」紙の政策方針の表現として署名なしに書かれた[44] 幾つかの論説の著者がバリウスだった(1936年9月から10月に)ことはほぼ確実である。しかし、こうした論説の起草に彼がどれほど関わっていようとも、バリウスが、リベルト=カリェハスが編集長だった時代の1936年9月~10月にカタロニアでCNT機関紙の紙面を通じて、CNTの主要日刊紙の政治的立場を形成するという非常に重要なイデオロギー上の役割を果たした事は全く疑う余地がないと断言できる。彼が記事の中で絶えず提示した強い主張は、7月の革命的利益の防衛、そして、そのために彼が強く要請した妥協を許さぬ断固たる鎮圧政策を徹底的に行う必要だった。後者について、彼は、フランス革命を思い起こしながら、ブルジョア階級からの反革命の脅威に対する「治安」対策と呼んでいた。[45]

1936年11月初頭に、リベルト=カリェハスは「労働者の連帯」の編集長から身を引いた。ハシント=トリオが代わって編集長に任命された。[46] 11月初めに、ドゥルティがマドリー戦線に行き、四人の連合大臣が共和党政府に参加したことを念頭に置いて欲しい。トリオの指名は、「労働者の連帯」の編集長がCNTの状況主義・協調主義政策の断固たる推進派でならねばならなかったためであった。12月の終わりに、トリオは、バリウス・ミンゴ・アレハンドロ=ヒラベルト・ピンタド・ガリピエンソ・ボラス・ガモンなどからなる古いリベルト=カリェハスの編集チーム(公式的CNT政策に反対していた)をまんまと排除した。[47] 古いチームの座は、ペイロ・モンセニー・アバド=デ=サンティリャンといった主要なアナルコサンジカリスト指導者や、レアンドロ=ブランコ(以前は君主制主義新聞の編集者だった)のようなトリオの忠実な友人からの寄稿、そしてカノバス=セルバンテスとサマコイスのような高名なる「革新主義者」の署名記事に取って代わられた。[48]

バリウスが「労働者の連帯」に発表した最後の記事の一つ(1936年12月6日)は、「ドゥルティの遺言」という題であり、ここで詳述する価値がある。この記事は、ドゥルティが11月5日にマドリーから行ったラジオ放送[49] に対する解説である。それからわずか数日の内に彼は死んだ。多くのアナキストに挑発的やり方で訴え掛けるように書かれたこの記事は、将来のドゥルティの友グループの基本的イデオロギー的支柱の一つとなるべきことを暗示している。つまり、あらゆるプロレタリア革命の全体主義的性格を、暗示しているのだ。

ドゥルティは単刀直入に述べていた。我々アナキストに必要なのは、革命が全体主義的性格を持つようにすることである。そして、ファシズムに対して戦場で粘り強く敢然と立ち向かう同志達は、この現在時が持つ革命的・解放的重要性を誰かに改竄させるつもりなどない。

(中略)ドゥルティの遺言は生きている。彼が我々に熱弁を振るった夜よりももっと大きな力と共に残っている。我々には、彼の最後の望みを現実にする責任があるのだ。

1936年12月29日、バホ=リョブレガト地方のCNT連合機関紙「思想」の第一号が出現した。バリウスは、実質的に「思想」の毎号に記事を掲載した。彼の記事は、反革命の進展をしつこく非難していた。[50] 中でも、カタロニア自治政府大統領のルイス=コンパニイスに対する攻撃は突出していた。これは、1937年4月8日の「思想」第15号に、「革命を起こそう」という題で掲載された。[51]

思想」は「民衆の友」に直接先行していた。「思想」の全ての寄稿者[52] がドゥルティの友のメンバーだったわけではないが、レリダの「アクラシア」(無政府)[53] と共に、「思想」は5月に先行するアナキスト革命潮流の最も傑出した機関紙だった。

バリウスは地元労働組合連合から1937年1月26日に「」の編集者に指名された。「」は夕刊紙であり、労働者協同組合が運営していた。協同組合の労働者の大部分はCNTに属していたものの、これはCNTの組織的出版物ではなかった。

「ドゥルティの友グループ」という名を掲げた新しいアナキスト集団の目的とメンバー条件が初めて報告されたのは、1937年3月2日の「」においてだった。[54] 3月初頭から5月の出来事まで、「」は、このグループの公式機関紙にはならなかったものの、CNTの組織新聞ではないおかげで、ドゥルティの友がCNTの公式政策を自由に批判できる新聞となった。

最も傑出した記事は、疑いもなく、バリウスのものだったが、自治体と労働組合による経済管理という主題については、ミンゴの署名記事に勝るものはない。これらははドゥルティの友の政治理論において非常に重要な要素となっているからである。

1937年3月2日号において、バリウスは「注意せよ、労働者。一歩も後退するな。」と題された記事を発表した。この記事は、ニンの目に留まり、ニンは「戦闘」の3月4日号で、バリウスが示した見解を熱烈に歓迎した。また、ドゥルティの友グループの設立が同じ号で発表されたことに対しても、アナキスト指導者によって非常に愚かで非常に近視眼的な改良主義の道へと転落させられているCNT大衆に革命的刺激を与えることができる機会だという理由で、同様に歓迎していた。

幾つかのアナキスト集団で、戦争に勝つためには、革命を捨てねばならないという見解が次第に広がっていた。この記事で、バリウスはこの見解を激しく非難した。そして、有名な三〇人派の闘士ヒュアン=ペイロが署名した記事を露骨に引用した。反革命の襲来を記し、反革命が今や統制パトロールの解散を要求していることを記した後で、彼は、この原因はCNTが追求している継続的融和政策にある、と非難した。この記事は、この政策の修正を呼びかけていた。後衛で革命が前進している場合にのみ、前線で戦争に勝つことができるからだ。従って、この記事の題「一歩も後退するな!」は多くを物語っているのである。

1937年3月6日、バリウスは「」に「反革命の事態。中立的立場が要求されている。」と題された記事を発表した。この記事で、バリウスは、カタロニア自治政府が設定した新しい治安部隊の特徴をリストし、この部隊が資本主義国家に仕えるブルジョア部隊と同じだと見なし、労働者の最も基本的利益にとって有害だと述べた。

1937年3月8日に、バリウスの典型的スタイルの記事が「」に掲載された。ニュースと意見を抜け目なく織り交ぜて、バルセロナ住民ですし詰めとなった列車が食料を求めて田舎に出発する光景を記録していた。客車に群がる人々を記述することで、バリウスは、生活必需品の提供について新しく採用されたアプローチを激しく非難した。このアプローチは、スターリン主義の指導者コモレラが導入したものだった。

1937年3月11日号の「」は、ドゥルティという人物を哀悼する記事を掲載した。バリウスは、ドゥルティが死ぬ数日前にマドリー戦線からラジオを通じて行った演説を思い起こした。この演説で、ドゥルティは、後衛が戦争をその核心にまで持ち込めなかったと非難した。ドゥルティが考えたように、解決策は、適切に攻撃し、ブルジョアを守備隊へと入隊させ、全ての労働者を戦時体制下に置くことである。バリウスによれば、ドゥルティの死後、王にふさわしい葬儀が行われたが、誰も彼の論法を真剣に考えはしなかった。その結果、内戦は独立戦争であり、ドゥルティが呼びかけた階級戦争ではないという主張が聞かれ始めた。これがこのジャーナリストの結論だった。バリウスは、ドゥルティはこれまで以上に今日的意味を帯びており、彼の思想に同意しなければ、彼の記憶に誠実ではあり得ない、と主張してこの記事を終えていた。

次の日、3月12日に、バリウスは「ラルゴ=カバリェロによるコメント:反革命進行中」と題する一編を「」に掲載した。その中で、彼はこのUGT指導者の様々な声明を批判し、それらを反革命だと述べた。それらの声明は、戦争に勝つとすぐに企業の集産化と社会化を廃止し、7月19日以前の状況に戻そうという意図を認めていたからである。

1937年3月13日の「」において、バリウスは「戦争をしなければならない。未来は戦争を必要としている。」と題された記事を掲載し、戦争経済を要求し、カタロニア自治政府の経済政策を批判した。

バリウスの記事「ファシストの蛮行。我々は武力を行使せよ。」(1937年3月16日「」)は、バルセロナの空襲に言及し、大使館を経由した難民の交換を攻撃し、第五縦隊を一掃するよう要求した。彼は、自警団委員会の設立さえも勧めた。この著者の結論は、後衛の即時的浄化が緊急を要し、戦争に勝つために必要な前提条件だ、というものであった。

後衛では全く浄化が行われていない。(中略)ファシストは莫大な数で未だ健在である。(中略)我々の敵は一網打尽にし、抹殺されねばならない。(中略)民衆正義の火を弱めようとする人は、誰であれ革命の敵である。最大の勢力を尽くして行動しよう。我々の優しい心を顧みず、腕力を示そうではないか。

」の3月18日号には、ドゥルティの友の正式な発足を報告する折り込み広告が入っていた。フェリクス=マルティン(マルティネス)がこのグループの書記として、ハイメ=バリウスが副書記として、ホセ=パニアガ・アントニオ=プイグ・フランシスコ=カレーニョ・パブロ=ルイス・アントニオ=ロメロ・セラフィン=ソビアス・エドュアルド=セルベラが運営委員のメンバーとしてリストされていた。

1937年3月23日、バリウスは「」に「具体的になる時だ:スペイン革命におけるカタロニアの役割」と題された記事を発表した。その中で、彼はカタロニアのプロレタリア階級の役割を、マドリーなどスペインの他の地方のように即座の戦争ニーズに妨害されていない、徹底的社会革命の原動力だと擁護した。

3月24日号で、この新聞は、ドゥルティの友グループのメンバーであり、縦隊の軍隊化に反対するヘルサ義勇軍のスポークスマンであるパブロ=ルイスの非常に長いインタビューを掲載した。パブロ=ルイスについて、私達が知る限りの、短いが興味深い略伝をここで紹介しよう。1933年1月8日、彼はフィゴルス革命委員会のメンバーだった。7月の出来事の際にはラス=ロンダスとパラレロにおいて40人を率いて戦った。アタラサナス兵舎の包囲と突入にドゥルティとアスカソと共に関わり、ドゥルティ縦隊に参加してアラゴン戦線へと出発した。それ以来、ヘルサ地区で現地任務に就いていた。アラゴンのアナキスト農民集産体の長所と利点を賛美した後、このインタビュアーは、軍隊化に関する彼の意見を尋ねた。彼の答えは、熟考され、慎重で、微妙な意味合いを持っていた。だが、同時に、全く一貫しており先鋭的だった。あたかも、アナキズム思想と、ブルジョア階級と共和党国家に指揮された戦争との間にある両立不可能性を強調していたかのようだった。

軍隊を再編する事に対して、我々も異論はない。一つの共通指揮を真っ先に呼びかけていたのは我々だったことを思い出して欲しい。(中略)様々な縦隊からの代理人を通じて、縦隊全ての行動に均質性を確保する。再編を進めていこう。だが、人民軍をカタロニア自治政府や中央政府の奴隷にならないようにしよう。人民軍は連合の管理下になければならないのだ。

このインタビューで、パブロ=ルイスは、7月の革命的利益から一貫して退却していること、そしてドゥルティの友が始まることをほのめかしている。

我々が前線を離れたとき、革命が、アナキズム的意味での勝利に向けて確実に行進するようにすることを、同志たちに任せた。だが、この革命を念入りに作り上げる中で、革命に何の愛情も抱いていないブルジョア諸政党に一つの役割が与えられてきた。つまり、そうした諸政党の課題は、プチブルジョア階級の利益と、我々と比べてカタロニアでは非常に少数の支持者しかいないUGTの利益とを擁護することだった。(中略)彼らと同盟を結ぶことで、我々は革命に対する主導権を失い、日を追う毎に妥協しなければならなくなった。その結果、当初の革命的利益が少しずつ削られていくに連れ、革命は損なわれてしまっている。

このことから抜け出すために、ドゥルティの友が形成された。つまり、この新しい組織は、CNT-FAIの前提条件を無傷のまま保持することを第一の目的としているのである。

パブロ=ルイスは、革命を正しい軌道に戻す方法について自身の見解を示してこのインタビューを締め括っている。第一に、CNT内部で、暴力に訴えずに、プロパガンダを行わねばならない。第二に、労働組合(CNT)による経済の方向付けを働きかけねばならない。第三に、政治的諸政党を無視しなければならない。第四に、反革命を心に抱く勢力--つまり、PSUCとUGT--とは同盟も妥協もしてはならない。

経済と社会の方向性は、労働組合組織(CNT)に委ねられねばならない。政治政党の出る幕ではない。何故なら、政治政党は革新的だと見なされる基準を満たしていないからである。こうしたことは一つとして武力を通じた強制を意味しているのではない。むしろ、CNT集団内部でのプロパガンダを通じて課すことなのである。(中略)私は政治政党の関与には反対である。政党の関与は、革命の敗北を伴うことになると確信している。政党の関与は、革命に何の愛情もない少数派のグループと妥協することなく、あらゆる手段を使って告発しなければならない。

バリウスは「革命には要件がある。全ての権力を組合へ。」と題された記事を発表した(「」1937年3月27日号)。その中で、彼はカタロニア自治政府の長期化した危機を扱った。革命機関としての労働組合という彼の見解は非常に興味深い。カタロニア自治政府の危機を二重権力状況を特徴付けている緊張関係の産物として類別した。カタロニア自治政府は法律を作り判決を下したが、組合はカタロニア自治政府の決定に取り合わなかった。バリウスの見解では、革命を前進させ、確固たるものにするためには、権力が労働者階級に移動しなければならず、これが次のスローガンに要約されたのであった。「全ての権力を組合へ」

バリウスは「歴史的瞬間。絶対的ジレンマ。」(「」1937年4月5日号)と題された興味深い記事を書いた。この中で、彼はカタロニア自治政府の危機の重大性を精査した。バリウスの考えでは、カタロニア自治政府は過去の遺物であり、新しい革命的ニーズと調和しない。

カタロニア自治政府は過去の遺物である。あらゆる不一致・動揺・偽善を伴うプチブルジョア体制の遺物である。

つまり、バリウスによれば、カタロニア自治政府の危機を解決するにはただ一つの方法しかなかった。政府職員の変更は何も達成しない。バリウスはCNTに対して、カタロニア自治政府を労働者権力で置き換え、反革命諸政党を消滅させるという訴えを暗に行いさえしたのだった。

我々は悲観論者ではないが、この挑戦に対応できなかった、と誠実に信じている。

このジレンマを回避することはできない。プロレタリア階級の未来には英雄的決定が必要である。革命を窒息させようという組織が存在するなら、我々は歴史的瞬間の責任を負う用意ができていなければならない。この責任は、まさにその壮大さ故に、現在時と調和する一連の方策と決定を前提とする。

革命と共にあるか、革命に反対するか。中間点などあり得ないのだ。

4月7日号の「」に、バリウスは「この重大なときに。主権を民衆に。」と題された記事を書いた。この中で、彼は、4月5日号の記事で詳述した観点を改めて表明し、コンパニイスに対する攻撃を繰り返した。

」にはミンゴによる幾つかの記事が掲載された。[55] 驚くほどの情熱を持って、反革命の進展について警鐘を鳴らし、アナキズムの革命的精神(これは、政府の協調主義とは絶対に相容れず、協調主義は直ちに止めるべきだった)を褒め称え、連合を常に中傷していたUGT・PSUC・コモレラ・コンパニイスを攻撃し、カタロニア自治政府を廃止する決定的必要性(バリウスが詳述したように)があることに同意し、民衆の間で成長しつつあるイライラを反響していた。ただ、こうした記事の中で最も興味深いのは、自治体に託した記事だった。彼の思考は(ここではその要点を述べるに留める)5月以降の「民衆の友」でドゥルティの友が示した綱領に十全に詳述されることとなる。この記事[56] の中で、ミンゴは次のように述べている。

自治体こそが、正真正銘の革命政府である。

ミンゴによれば、1936年7月19日以来ずっと、カタロニア自治政府は不要であった。今や政策といえば、経済政策だけであり、これは労働組合の分野であった。従って、ミンゴによれば、労働者が運営する自治体こそが、労働者によって管理された経済政策と共に、国家の後を引き継ぐことができるのであり、引き継がねばならなかった。

日刊紙「」の1937年4月14日号で、バリウスは、共和国宣言の一周年を記念して、「歴史的日付。4月14日。」という記事を発表した。この中で、共和国が宣言された日のプチブルジョア的性格を強調し、右翼であろうと左翼であろうと、マシアであろうとカンボ(二人とも、カタロニアのプロレタリア階級による脅威に直面して国粋主義をやめると誓った)であろうと、カタロニア独立主義を攻撃した。

こうしたバリウスの記事(そして、ドゥルティの友の他のメンバーによる記事)こそが、非常に多岐にわたるトピックス--一般的には政治的見解--だけでなく新しい内容にも触れ、CNTの強調主義政策に反対する重要な潮流を一つにまとめる漆喰だった。このことは疑う余地がない。バリウスは単独の批判者ではなく、最も傑出した批判者の一人であり、そしてもちろん最も一貫し、理路整然とし、急進的な批判者であった。バリウスの長所は、義勇軍の軍隊化に反対する多くの闘士グループの支持を得ていたことにある。こうした闘士達の結合は、CNTの強調主義政策に反対する他のアナルコサンジカリストと共にパブロ=ルイスが主導した。この結合の政治的見解は、バリウスの記事と批評において理論的に明言されたのである。こうした見解は、1937年4月後半を端緒とするポスターに示された綱領に結晶することとなり、5月の事件以後に出版された「民衆の友」紙にもっと詳細に説明されることになる。

要約しよう。ドゥルティの友グループの形成は、公式的には1937年3月17日に着手されたが、その起源は、人民義勇軍の軍隊化に関するカタロニア自治政府の布告によって民兵集団に創り出された深刻な苛立ちに遡ることができる。つまり、ドゥルティがまだ生きていた1936年10月後半に遡ることができるのである。その反面、バリウスはジャーナリスト・アナキズムのイデオローグとして1935年には突出するようになっていた。国粋主義に関する興味深い理論的寄稿・カタロニアのブルジョア階級の政治活動に対する激しい批判・マシアとコンパニイスに対する攻撃・デンカスとバディアに具体化されたカタロニア独立主義ファシズムの暴露・カタロニアで起きた1936年10月の出来事のCNTの観点からの分析によって有名だった。ハイメ=バリウスとパブロ=ルイスの協力には何ら新しいものはなかった。彼らは、既に共同でパンフレット[57] を書いており、二人とも同じアナキスト親和グループ「レナセル」に属していたからである。この親和グループの名前は、1936年7月以前にバリウスのパンフレットを発行した出版社の名前であった。[58] ハイメ=バリウスとパブロ=ルイスに加え、「レナセル」にはフランシスコ=ペリィセル(内戦中に「鉄の縦隊」の代理人となる)とブルーノ=リャド(内戦中にサバデル市議となり、カタロニア自治政府経済省の地方代理人となる)もいた。[59]

第五章 ドゥルティの友グループ:始まりから5月事件まで

1936年10月、人民義勇軍軍隊化命令がアラゴン戦線にいたドゥルティ縦隊のアナキスト民兵の中で大きな不満を引き起こした。そして、果てる事なき苦々しい議論が続き、1937年2月に、ヘルサ支部に拠点を置く1000人の志願兵の内およそ30人が前線から離れて後衛に戻る決意をした。[60] 取り決めでは、軍隊化に反対する民兵は二週間にわたって仕事を離れることになっていた。彼らは、その後に、武器を持って前線を離れた。

バルセロナに戻ると、他のアナキスト(7月の革命を遂行し、続行することを支持し、CNTの政府との強調に反対していた)と共に、ヘルサからの民兵は、他の多くの親和グループ同様に、既存のアナルコサンジカリスト仲間の中で親和グループを形成することを決めた。[61] その後の1936年10月からの数ヶ月は、長い抱卵期が続いた。[62] 運営委員会は「ドゥルティの友グループ」という名前を採用することにした。この名前にしたのは、一つには、ドゥルティ縦隊の元民兵という点が自分達に共通する原点であることを思い起こすためであり、バリウスが正確に述べていたように、ドゥルティの思想を意識して言及したのではなく、むしろ、一般大衆の目に映る彼の英雄的死と神話的状態を意図したものだった。

グループの中央本部はランブラス通りがオスピタル通りとぶつかるところにあった。グループのメンバー数は急速に増大した。4000人から5000人の間で、グループの会員証は発行された。会員になる必須条件の一つはCNTメンバーであることだった。グループの成長は、アナキストがCNTの妥協政策に困惑していた結果だった。

このグループは熱狂的なほど積極的で活力に満ちていた。3月17日の公式的立ち上げから5月3日まで、グループは、集会を幾度か開催し(4月19日にポリオラマ劇場で、5月2日にゴヤ劇場で)、幾つかの声明文とビラを発布し、その綱領を示したポスターをバルセロナの壁に貼り付けた。[63] その綱領で二つの点が傑出していた。(1)全ての権力を労働者階級に、(2)この労働者権力の表現として労働者・農民・戦闘員の民主的機関を。[64] 第二点目を要約したのが、革命フンタという言葉だった。

また、彼らは、この国の経済的・政治的統治を完全に乗っ取るよう労働組合に呼びかけた。そして、労働組合について彼らが語るときには、CNTの労組を意味していたのであって、UGTの労組ではなかった。事実、グループの会員の中には、UGTを辞め、即座にCNTに加盟し、ドゥルティの友の会員となるための基本的前提を満たした人々もいた。

会員の出自が労働者階級であり、このことがCNTメンバーであることを保証していたが、実際には、ほとんどの会員はFAIのメンバーであった。このため、ドゥルティの友グループは、純正主義アナキズム教義への態度を明確にし、CNT指導部とFAI指導部の協調主義国家参入政策に適切に反対していたアナキストのグループだと述べることができる。

彼らは食料品組合内部で優勢だった。この組合は、カタロニア全土だけでなく、サリェント・スリア・フィゴルス・カルドナ・リョブレガト北部地域にも影響力を持っていた。他の組合で彼らが少数派だった場合も、その組合に対して影響力を持っていた。統制パトロールに属していた会員もいた。だが、彼らが分派やグループを形成することはなかったし、統制パトロールに潜入しようとすることもなかった。

このグループを、整然とした活動を行う総合的意識を持ったまとまったグループとして特徴付けることはできない。ある種の特徴的親和性を中心に形成された多かれ少なかれインフォーマルな多くのアナキスト集団の一つであった。また、彼らは優れた宣伝家でも理論家でもなかった。CNTの妥協政策や急速に進展する反革命プロセスと対決する本能的必要性に気付いたプロレタリアの一群だった。

最も傑出したスポークスマンがハイメ=バリウスとパブロ=ルイスであったことは間違いない。1937年3月から5月まで、カタロニア青年リバータリアン[65] も自身の壁新聞[66] を発表し、ドゥルティの友の新聞と同様のことを要求した。

1937年4月14日、グループは、ブルジョア共和国宣言一周年記念に強硬に反対する声明文を発表した。[67] 一周年記念など、ブルジョア諸制度と反革命を強化する口実に過ぎないからだ。共和国の記念の代わりに、そして、ブルジョア反革命の最先端にいたカタロニア自治政府とルイス=コンパニイスに反対して、ドゥルティの友は、7月19日の記念を計画し、カタロニア自治政府の危機という袋小路から抜け出す革命的避難通路を見出すようCNTとFAIに強く勧めた。この危機は、統制パトロールの解消を命じた布告が出た3月4日に始まった。CNTが服従しなければ、カタロニア自治政府からCNT人員が排除されることになる。

この声明文は、革命家に対する多くの不法侵害を列挙していた。最も有名な事例はマロトであり、従順な「労働者の連帯」さえもがこの事例に対して憤慨したコメントを載せていた。オレサ=デ=モンセラートの事件のようにそれほど有名ではない事件も載っていた。実際、この声明文は、「」に掲載されたバリウスやミンゴなどによる記事の中で3月初頭から熟考されていた綱領の重点を改めて表明していた。これらはこの声明文の導入部に要約されている。

7月の記念すべき出来事に恐るべき痛手を負わせた資本主義国家は、プチブルジョアの反革命活動のおかげで、今だ健在である。(中略)

カタロニア自治政府の危機は、我々が国家主義の常套手段を全く排除した新しい世界を構築しなければならない絶対的証拠である。

もうとっくに、プチブルジョア・小売店主・警備員の軍団を、情け容赦なく一蹴する時期である。反革命との妥協などあり得ない。(中略)

これは、労働者階級の生死をかけた時代なのだ。(中略)躊躇してはならない。

民衆の懸念を反映している組織であるCNTとFAIは、この袋小路から抜け出す革命的やり方を見つけねばならない。(中略)我々は、廃墟となった国家に取って代わる機構を手にしている。労働組合と自治体が経済・社会生活を掌握しなければならないのだ。(略)

1937年4月18日(日)、このグループは、その存在とプログラムに民衆の注目を集めるべく、ポリオラマ劇場で集会を開いた。[68] ハイメ=バリウス・パブロ=ルイス(ヘルサグループの代理人)・フランシスコ=ペリィセル(鉄の縦隊の代理人)・フランシスコ=カレーニョ(ドゥルティ縦隊の戦争委員会のメンバー)が演説した。この集会は大きな成功を収め、演説者が用意した「思想」は完全に賞賛された。

1937年5月の第一日曜日(5月2日)、このグループは、ゴヤ劇場でさらに導入集会を開いた。劇場は超満員となり、集会は参加した人々を熱狂で狂乱状態にした。「7月19日」と題されたドキュメンタリー映画が上映され、1936年7月19日の革命的出来事の最も感情に訴える経過を追体験させた。演説者は、デ=パブロ(パブロ=ルイスか?)・ハイメ=バリウス・リベルト=カリェハス・フランシスコ=カレーニョだった。集会では、反動主義者による労働者への攻撃が今や差し迫っているという予測が口にされていた。

CNTとFAIの指導部の様々な委員会は、リバータリアン運動内部から生じた新しい反対派に、自身に向けられた容赦ない批判以外、それほど注意を払っていなかった。アナキスト集団では、様々なグループが表面に湧き出てきて、一時的に華々しく台頭し、結局出現したときと同じぐらい急速に消えてなくなることはよくあることだった。

19375月以前にドゥルティの友が詳述した綱領の特徴は、労働組合による経済管理・全政党とその国家主義的協調主義の批判・アナキズム教義の純正さのある程度までの復活であった。

ドゥルティの友は、その綱領をポスターに示し、1937年4月の終わりに向けてバルセロナの壁に貼り付けた。これらのポスターは、その当時であっても、5月の出来事に先んじて、ブルジョアのカタロニア自治政府を革命フンタで置き換える必要を主張していた。具体的には以下の通りである。[69]

ドゥルティの友グループ。労働者階級へ。

1.都市の労働者・地方の労働者・戦闘員からなる革命フンタの即時設立。
2.家族賃金・配給カード・労働組合による経済の方向付けと配給の監督。
3.反革命の一掃。
4.革命軍の創設。
5.労働者階級による治安の絶対的管理。
6.あらゆる休戦に対する断固たる反対。
7.プロレタリアの司法。
8.人事異動の廃絶。

注意せよ、労働者達。我々のグループは、反革命の継続的進展に反対する。アイガデが発起した治安命令を気に掛けてはならない。我々は、拘留されているマロトなどの同志の釈放を求める。

全ての権力を労働者階級へ。全ての経済権力を組合へ

カタロニア自治政府ではなく、革命フンタを!

1937年4月のポスターは、5月の出来事の最中に発行されたリーフレットの前兆であり、そのリーフレットを説明してくれる。また、「労働者の連帯」・「」・「思想」に掲載した記事でバリウスが扱った主題と懸念の多く(特に、革命的司法・捕虜交換・後衛が戦争を真剣に考える必要性など)がそのポスターに盛り込まれていた。革命フンタがブルジョアのカタロニア自治政府を乗っ取る必要が、ここで初めて提起された。この革命フンタ[70] は、労働者・農民・民兵から構成される革命政府として定義された。

中でも最も重要だったのが、最後の三つのスローガンに集約されたメッセージである。ブルジョアのカタロニア政府を革命フンタで置き換えることが、「全ての権力を労働者に」そして「全ての経済権力を組合に」というモットーと同時に示されているのである。[71]

5月の出来事の直前に示されたこのポスターに内在する政治綱領は、疑いもなく、既存プロレタリア集団が提示したものの中で最も進歩し明快であり、ドゥルティの友をこの重大かつ重要な時点でスペインのプロレタリア階級の革命的前衛にしている。このことは、POUMとボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部が認めることとなる。[72]

第六章 5月事件[73]

1937年5月1日(土)、バルセロナでメーデーのデモは行われなかった。カタロニア自治政府は、この日は軍需生産を行うための労働日であると発表していた。だが、真の理由は、カタロニア中の幾つかの地方や地域で高まっている緊張を受けて、様々な労働者組織間で対決があるかもしれないと恐れたためだった。この土曜日も、カタロニアの憂慮すべき治安状況を検討すべく、カタロニア自治政府評議会が開催された。国内治安と防衛の担当評議員達がここ数週間示した活動の実効性を承認し、彼らの卓越した[74] 公安活動解決能力を信任することに合意した。

評議会が終わると、防衛と国内治安に関わる評議員[75] と首相で構成される委員会の会議が持たれた。目的は治安問題を検討することだった。[76] 電話局を奪取する発議がアルテミ=アイガデ治安評議員の個人的決定だったとは信じがたい。この決定は、5月1日の会議後に開かれた委員会が決めた[77] 、もしくは、コンパニイスとアサーニャ(偶然バルセロナにいた)との電話での会話をCNT闘士ががさつに妨害した5月2日(日)の事件の結果として決められたものである見込みが高い。もちろん、作戦が失敗すれば、この治安評議員は完全な政治責任を負うことになる。運良く、5月3日(月)に、コンパニイスは、ラルゴ=カバリェロと会談を持つためベニカルロを偶然訪問することになっており、この最初の事件から都合良く身を引き離すことができた。いずれにせよ、コンパニイスは、CNTが5月3日に即座に主張したように、アルテミ=アイガデとロドリゲス=サラスの免職を拒否する[78] という狭量で理解しがたい行動をとった。コンパニイスの政治行動が、それに続く武装対決の日々の最も重大な引き金の一つとなったのだった。

1937年5月3日(月)、トラック三台分の重武装した警官隊が、プラサ=デ=カタルーニャの電話局の外に配置された。警官隊を率いていたのはロドリゲス=サラスであった。彼はUGTの闘士であり、骨の髄までスターリニストであり、バルセロナの治安兵站部を指揮していた警官だった。7月19日以来ずっと電話局はCNTが乗っ取っていた。電話回線の管理・国境管理・国境パトロールこそが不満の種だった。1月以降、カタロニアの共和党自治政府とCNT大衆は、これらを巡って何度か衝突した。「自分に」ふさわしい特権を全て完全に回復させようとしていた共和主義国家機構。1936年7月19日の「利益」を防衛しようというCNTメンバー。これらの間に闘争は不可避だった。

ロドリゲス=サラスは、電話局を奪取しようとした。階下にいたCNT闘士は、驚きのあまり、武装解除してしまった。だが、上の階では、最上階に戦略的に配備していたマシンガンのおかげで根強い抵抗が組織された。このニュースは山火事のように広がった。バリケードが市内全土に即座に作られた。このこと自体をCNTの中堅幹部が示した発意[79] だと見なせば、そして同時に、地区の防衛委員会と統制パトロールという形でCNTの一般メンバーの中に重要な戦闘的組織が既に存在していたという事実を考慮すれば、これはバルセロナ労働者階級の自発的抵抗だと述べることができる。[80] 同様に、動員が行われ、バリケードが市内全土に築かれる前に、CNT指導部からも他の政党指導部からも命令が出ていなかったことを心に留めるならば、これは自発的抵抗だと述べることができるのだ。

ゼネストの呼びかけをした人もいなかった。これは階級本能の結果だった。ドゥルティの友に示された絶好の活動機会であった。ドゥルティの友は、情況が何を必要としているのかに即座に注意を向けた。労働者が手に武器を持って戦っている間、ドゥルティの友は、革命的目的をもって労働者を指導しようとし、労働者にその目的を示そうとした。だが、すぐに、限界があることが分かった。5月8日の声明文で裏切り者だと名指ししてCNT指導者を批判したが、バリケードを断念する命令を却下させることはできなかった。また、彼らはCNT指導部の地位を奪い取ろうとは考えていなかった。革命フンタを確立するというスローガンが実行されるように何か取り計らったわけではなかった。CNT組織の管理をアナルコサンジカリスト指導部から奪い取るためには、指導部に対する批判では不充分だと彼らは承知していた。

逆に、ドゥルティの友は生まれたばかりであり、経験がなく、CNT大衆からの信望もなかった。その思想はCNT一般組合員にまだ徹底的に浸透してはいなかった。

こうした力のない情況にもがいている際に、彼らはPOUMの執行委員会からメモを受け取った。ドゥルティの友から公認の代理人を出して自分達と会ってほしいというのだった。[81] ハイメ=バリウス・パブロ=ルイス・エレウテリオ=ロイグ・マルティンが選ばれた。[82] 5月4日の午後7時、彼らはランブラス通りにあるプリンシパル=パレスで、ゴルキン・ニン・アンドラデと会談を持った。[83] 彼らは合同で情況を精査し、全員が、革命的蜂起に対するCNT指導部[84] とFAI指導部の反対を鑑みれば、蜂起は当初から失敗することが分かっている、という結論に達した。[85] 戦闘員を整然と撤退させる必要があり、戦闘員は自分の武器を保持していなければならないということに同意した。[86] さらに、この撤退は反対勢力がその場を放棄した時に行うべきであり、バリケードの闘士達にいかなる弾圧もないように保証しなければならない、ということも合意された。次の日、CNTの最高指導者達と幹部達は、戦闘を止めるよう呼びかけるラジオ放送をさらに行った。今や、現場の闘士達はCNT-FAIの「火消し屋達」について、そして、警官隊がガルシア=オリベルにキスしていることについて冗談を言うのを止めた。

5月5日(水)、ドゥルティの友はバリケードの周りで有名なビラをまいた。このビラが彼らを有名にしたのである。ビラには次のように書かれている。

CNT-FAI。「ドゥルティの友」グループより。労働者諸君。革命フンタを。犯罪者を撃て。武装兵団を武装解除せよ。経済を社会化せよ。労働者階級を攻撃してきた政治政党を解散させろ。街路を明け渡さないぞ。何よりもまず革命だ。街路で我々と親しくしているPOUMの同志達に敬意を表す。社会革命万歳!反革命打倒!

このビラは、1937年5月4日~5日の夜にバリオ=チノの印刷工場で銃を突きつけて印刷させた。[87] この即興性とドゥルティの友の経済基盤の欠如は明らかだった。ビラのテキストは5月4日午後7時にPOUM執行委員会と会合を持った後で起草された。その時に、ドゥルティの友とPOUMは、武器を手渡さない防衛的退却に合意し、弾圧がないことを保証するよう強く要求することに合意した。ビラは、POUMも承認し、「戦闘」第235号(5月6日)に転載された。このビラは、いかなる行動計画によっても裏付けられておらず、単なる主旨書であり、反革命の浸食に対して、行っている活動を続行するようCNT大衆の自発性へ訴えたものだった。実際は、全てを左右していたのはCNT指導部の決定だった。CNT大衆が、当初は指導部を妨害したり批判したりしていたとしても、7月19日の指導者達に従わないなどと信じるのはバカげており、滑稽であった。CNT指導部が革命指導部によって取って代わられて初めて、大衆が新しい指導部の革命的標語と行動計画に従う可能性--非常に薄い可能性だったが--がでてくる。だが、ドゥルティの友もPOUMもCNT指導部の席を奪おうとはせず、行動計画を起草することもなかった。実際に、CNT指導部の決定に従う方針をとり続けていた。POUMの執行委員会は、カタロニア自治政府と市の中心部で今も抵抗を続けている建物を奪取するというホセ=レブルの計画を拒否した。軍事的な事柄ではなく、政治的な事柄だというのがその理由だった。[88]

また、5月5日に、POUMバルセロナ地方委員会とドゥルティの友との会合があった。この会合についてPOUM主義者達は否定的に記していた。[89] なぜなら、

彼ら(ドゥルティの友)は、指導部を退かせるようCNT一般大衆に直接働きかけようとはしなかった。単に、運動に影響を与えようとしていただけであり、それ以上の責任を引き受けるつもりはなかった。

5月5日に発表したビラで、ドゥルティの友はPOUMとの共同行動を示唆した。その当面の目標として、そして、革命を方向付けるために、彼らは、革命フンタを設立すべきだと提案した。だが、彼らは、このモットーを発表しただけで、それを実行するために何も行わなかった。彼らはバリケードの戦士であって、オルガナイザーではなかった。CNT-FAI-POUMの共同行動を示したのは、バリケードで彼らと共に戦った他の組織の闘士に敬意を表しただけのことだった。ビラに印刷された言葉が、厳格な協定事項として進展することは一度もなかった。彼らは、CNT指導部の席を奪うために、そして、再三の街頭戦闘中止命令に耳を貸さなかったCNT大衆の管理を取り上げるために、実質的に何もしなかった。彼らは、統制パトロールのメンバーだったドゥルティの友グループメンバーを有効に使うことも、組織することも、特定の指示を出すこともできなかった。グループのメンバーであり、ロヒネグラ縦隊の代理人だったマクシモ=フランコに命令を出すこともなかった。マクシモ=フランコは、ロビラが指揮していたPOUM師団と共に、バルセロナでの戦闘に介入すべく前線を離れていた。ホセ=ロビラもマクシモ=フランコも、イスグレアス・アバド=デ=サンティリャン・モリナに--つまり、カタロニア自治政府防衛省に命令されたCNT職員に--前線に戻るよう説き伏せられてしまった。ドゥルティの友は、大衆の創造性と本能を完全に信頼していた。グループの様々なメンバー間でほんの少しの調整すらされなかった。その代わり、自分がそうしなければならないと思ったところで、自分がベストだと思った場所で、誰もが自分が望むように行動した。彼らは、現場の闘士達とバリケードを放棄することを議論し、説得しようと巡回していたCNT指導者の行動を迎え撃つことができなかった。

そして、CNT大衆は、指導者達(7月19日と全く同じ指導者達だった!)からの訴えに当惑し、当初はCNT指導部による調停の要請と反ファシスト団結のための戦闘中止の要請を無視したものの、結局、戦闘の放棄を選んだ。5月6日(火)、親善のそぶりとして、そして、この都市の平和を復元させるために、CNTの闘士は戦闘が始まった電話局の建物から撤退した。この建物は治安部隊が即座に占拠し、UGTメンバーが作業場を乗っ取った。アナキスト指導部が抗議すると、カタロニア自治政府の回答は次の通りだった。「これは、既成事実の問題だ。」そして、情熱を煽らないようCNT指導者はさらなる「謀反」を広く知らせないことを選んだのである。

ドゥルティの友グループが、CNTの反ファシズム団結政策に対する重大な障害物だったことは一度もない。せいぜい、CNT指導部とFAI指導部に批判的な反対派だった。結局、国家機構との協調政策はアナルコサンジカリズム諸原則とイデオロギーの裏切りだ、という厄介でありがたくない助言者でしかなかった。

バリケード周辺でのビラの配布は難しい活動だった。多くの闘士から疑いを持たれる危険があり、肉体的[90] 報復に立ち向かわねばならないことさえあった。

私達は、5月事件中に行われたバリウスとホセプ=レブル(POUMの72細胞)の会談の一つについて知っている。この会談は、二つの組織が数値上少数であることを鑑みると、全く実際的な効果はなかった。ドゥルティの友は、共同で声明文を出すというホセプ=レブルの提案を辞退した。[91]

ドゥルティの友が5月8日に配布した声明文[92] は、5月事件を再検討したものであり、「戦闘」紙の印刷機でプリントされた。パラデルという名前のPOUM民兵は、店員組合の指導者であり、ドゥルティの友グループが直面している問題をかぎつけ、POUM機関紙の担当者だったホセプ=レブルにこの問題を提起した。そして、レブルは革命的連帯という自分の基本的義務を引き受け、党の高次権力に相談することなく、自分の印刷機をドゥルティの友グループが使用できるようにしてくれた。[93]

この声明文で、ドゥルティの友は電話局の掌握を初期の挑発行為と結びつけた。彼らは、エスクエラ=レプブリカナ・PSUC・カタロニア自治政府の武装機関を、5月事件の引き金を引いた責任があると名指しした。ドゥルティの友は、1936年7月(ファシスト蜂起に単に反対しただけではなかったと主張した)と1937年5月(単に政府の変革を目的としたのではなかった)それぞれの革命的性格を主張した。

街路やバリケードにいて、プロレタリア階級の利益を防衛していた我々のグループは、社会革命の完全勝利を求める。我々は、作り話に同意できない。代表者が違うだけの同じ諸政党で新しい政府が作られるという反革命の事実には同意できないのだ。

ドゥルティの友は、議会の妥協に対抗し、そうした妥協を革命プログラムに対する欺瞞だと呼び、5月5日に配布したビラで次のように示した。

我々のグループは、革命フンタの即時設立・犯罪者の射殺・武装兵団の武装解除・経済の社会化・労働者階級に敵意を示すあらゆる政治政党の解散を要求する。

ドゥルティの友グループは、戦闘に勝ったのは労働者であり、だからこそ、無意味なカタロニア自治政府をきっぱりと廃止すべきだ、と何の躊躇もなく主張した。このグループは、労働者蜂起の勝利を行き詰まらせたCNT委員会と指導者たちは大逆罪にあたると非難した。

カタロニア自治政府には何の意味もない。その継続的存在は反革命を強化している。我々労働者は勝利している。CNT委員会が「停戦」命令を出すなど、実際、完全勝利のギリギリの境界に我々が立っているときに労働者を無理矢理仕事に引き戻すほど臆病に行動しなければならなかったなど、信念の否定である。攻撃の発端についていかなる説明もなされず、現在の出来事が持つ真の意味にいかなる注意も払われていない。このような行為は、革命への大逆だと述べねばならない。誰であろうと、いかなる名においてであろうと、犯してはならぬ・助長してはならぬ行為だ。「労働者の連帯」とCNTの傑出した闘士が決行したこの有害な活動をどのように分類すべきか我々には分かっている。

「大逆」という記述は、CNT地方委員会によるドゥルティの友の否認、そして、バレンシアにある中央政府への治安・防衛責務(カタロニア自治政府管理下にあるものではなく、CNT管理下にあるもの)の移管に言及する際も繰り返し使われた。

大逆は途方もない規模で行われている。労働者階級が持つ二つの本質的担保--治安と防衛--は、易々と我々の敵に与えられたのだ。

この声明文の終わりでは、5月事件の戦術的失敗に関する簡単な自己批判をし、未来に対する楽観的観測が示されている--5月28日に放たれた直接的弾圧の波が、この観測を根拠がなく空虚なものだったと示すことになった。1937年5月は、膠着状態で終わったのではなく、プロレタリア階級の大敗だったのだ。

1937年5月の事件に関する神話に関して言えば、結局のところ、この神話が述べているのは、非常に混沌とし混乱した[94] 情況であり、戦闘に関わったそれぞれの側が折衝する熱意を発達させていたということである。1937年5月は革命的蜂起ではなく、1936年7月に達成された「労働組合所有」の防衛として始まった。この戦闘の引き金を引いたのが、カタロニア自治政府軍による電話局の強襲だった。そして、この動きは、7月19日の労働者蜂起という「変則的」情況が政府から一時的にもぎ取った権力を、コンパニイスの政府が継続的に少しずつ回復しようとする企図の本質的部分だった。プイグセルダとセルダーニャ全体で少し前に獲得した成功が、バルセロナでの、そしてカタロニア全体での決定的動きに道を開けたのだ。明らかに、コンパニイスはコモレラ(PSUC)とアントノフ-オフセーエンコ(ソ連領事)に支持されていると感じていた。コンパニイスは、POUMがカタロニア自治政府から除名された12月以来、彼らと非常に密接に非常に効果的に活動していた。スターリン主義政策はコンパニイスの目的と一致していた。革命勢力--つまりPOUMとCNT--を弱体化させ、脇に追いやるという目的は、ブルジョアカタロニア自治政府が強くなった場合に、ソ連が唯一取り込むことのできる目的だった。1937年3月4日の統制パトロール解散命令をCNTが拒否した後にカタロニア自治政府内で広がった危機はダラダラと長期化していたが、暴力によって解決した。ビラネサ・ラ=ファテリャ・バレンシアのクリェラ・ベルベル・ロルダン=コルタダの葬式などで武器を使った小競り合いが幾つかあった後に、バルセロナでの電話局攻撃と5月の流血事件によって解決されたのだ。愚かしい程の近視眼・反ファシズム団結への確固たる忠誠・主要アナルコサンジカリスト指導者(ペイロからフェデリカ=モンセニーまで、アバド=デ=サンティリャンからガルシア=オリベルまで、マリアネトからバレリオ=マスまで)が共和国政府と協調していく範囲、これらは取るに足らない要因などではなかったし、カタロニア自治政府もソ連の職員も見落とさなかった。彼らは、5月事件中に充分証明されたように、聖人ぶった愚かさ(an asinine saintliness)を利用することもできた。

5月事件中のドゥルティの友グループの行動に関する限り、バリケードでの役割とビラについて誤解を招きやすい神話化[95] がされているが、これも場違いだ。既に述べたように、ドゥルティの友は、いかなる時でもCNT指導部を乗っ取るつもりはなく、指導者達と革命に対する大逆的政策とを容赦なく批判することで満足していた。メンバー数とCNT支持者集団に対する影響力の薄さを考えれば、彼らは他に何もできなかったのかも知れない。だが、市街戦への関与[96] ・ランブラス通りの幾つかのバリケードでの支配力(特に、自分達の本部の反対側にあるバリケードでの)[97] ・サンツやラ=トラサやサリェントでの戦闘への関与は指摘せねばならない。当然、1937年5月5日のビラで指導と幾つかの政治的最小要求を提供しようとしたことは、強調されてしかるべきである。このビラの配布は簡単な仕事ではなく、グループメンバー数人が命を落とした。バリケードの周囲でビラを配る際、彼らはCNT闘士の支援を当てにできた。5月事件中の活動で言及する価値のあるものの中で、ランブラス通りとオスピタル通りがぶつかる場所にあったバリケードでバリウスが発行した、欧州の全労働者はスペイン革命との連帯を示さねばならないという呼びかけ文を忘れてはならない。[98] 攻撃部隊の一縦隊が叛乱を鎮圧すべくバレンシアから近づいているという報告を受け、ドゥルティの友はアナキスト縦隊を集めてそれを阻止しようとした。だが、これは計画段階を超えることはなかった。バリケードを築いたCNT闘士達に受け入れられなかったからである。

最後に、労働者に対してアピールを発表すべきだ、ということについて、政治的観点からPOUMと合意に到達したことを指摘しなければならない。労働者は、バリケードを放棄する前にその後の報復がないという保証を求めねばならない。結局、武器の保持こそが--これは一度も放棄されはしないはずだった--万人に対する最良の保証だと指摘したのである。

理論的見地からすれば、ドゥルティの友の役割は、5月事件以後の方がはるかに突出していた。彼らは、自身の新聞の出版に取りかかった。彼らは新聞の名をフランス革命中にマラーが出版した新聞から拝借した:民衆の友である。

第七章 5月事件以後

CNT指導部はドゥルティの友グループのメンバーを除名しようと動いたが、様々な組合の集会でこの議案が承認されることはなかった。[99] CNT組合員はこのグループに体現された革命的反対に共感していた。だからといって、ドゥルティの友の活動や考えを承認していたわけではなかったが、確かに、グループのスタンスを理解し、CNT指導部に対するグループの批判を尊重--実際、支持--していた。[100]

CNT指導部は「マルクス主義」という疑惑を意図的に利用し、乱用した。この言葉はアナキストの中で考え得る最悪の罵倒表現であり、このグループ、特にバリウスに対して繰り返し使われた表現だった。グループの理論的見解にも、「民衆の友」のコラムにも、様々な声明文やビラにも、「マルクス主義」という記述がこのグループに適用されてしかるべきようなものはない。彼らは、組織の中で、そしてアナルコサンジカリズムイデオロギーについて、自分達の立場を明確にしながら、CNT指導部の協調路線政策に反対していただけだった。「民衆の友」の第一号は、5月19日に合法的に出版された[101] が、検閲のためにゲラ刷りの多くが削除された。赤黒の大きな表紙には、たなびく赤黒旗を持って微笑んでいるドゥルティが描かれていた。第一号には日付がない。編集部・本部は、ランブラ=デ=ラス=フロレス2階一号室と記載されている。この新聞はドゥルティの友の機関紙だと宣言されていた。バリウスが編集長、エレウテリオ=ロイグ・パブロ=ルイス・ドミンゴ=パニアガが編集者として記載されていた。最も興味深い記事は、バリウスの署名で書かれ、「念のために言っておくが、我々はスパイではない」と題されたものだった。その中で、バリウスは、CNTの一般組合員から発せられている侮辱と中傷とを嘆いた。彼は5月に発行したビラと声明文に言及し、それらを増刷しなかったのは、そうすれば必ず検閲されたからだと主張した。彼は、ドゥルティの友に対して悪意に満ちた態度を示していた「労働者の連帯」を直接攻撃[102] し、CNT指導部から発せられる中傷に反駁した。「我々はスパイではない。」

第二号は、文章の検閲はなく、15000部ほど印刷された。[103] 表紙にはアタラサナス兵舎襲撃で死んだアスカソを追悼した絵がカラーで描かれていた。この号は1937年5月26日(水)バルセロナと日付欄に記入されていた。表紙には次の文章が掲示されていた。

検閲が我々に与えた卑しい扱い。我々はそれから逃れねばならならい。我々の非常にちっぽけな意見を抹消するなどという見当違いは、恥であり不名誉だ。我々はそれに耐えることなどできないし、耐えるつもりもない。奴隷になるなど、拒否する!

その結果、この号は検閲に提示されず、秘密裏に出版された。[104] この号で突出していたのは、UGTが出したモットーの糾弾だった。UGTはスターリン主義者が統制する組合であり、組合員からPOUMメンバーを除名し、CNTに対してもドゥルティの友を同様に扱うよう求めた。バリウスによる署名記事はこの号には掲載されなかった。だが、二つの記事が傑出している。それは、内在価値のためというよりもむしろそれらが映し出しているメンタリティのためにである。その一つは「フルメン」の署名で、1973年のフランス革命と1937年のスペイン革命との、マラーとバリウスとの、ジャコバン派とドゥルティの友メンバー(durrutistas)との類似点を引き出していた。もう一つは、無署名の記事で、パリに住む主導的カタロニア自治論者著名人をカタロニア自治政府の家来だと非難し、また、コンパニイスなどの政治家が受け取る給料と、民兵の賃金・戦争を継続するための資金集めの難しさとを、一般大衆に分かりやすく扇動的なやり方で比較していた。どちらの記事も興味深い。それは、労働者主義で扇動的な見解を示しているからであり、その見解を一般民衆が抱える日常の経済的困難と辛苦とに非常に上手く結びつけているように思える。これは当時の新聞では余り見られなかった。これこそが「民衆の友」独特の特徴だったと言うことができよう。この号の論説は、「ネグリン政府」と題されて、裏表紙に掲載され、5月事件の結果として共産党による支援の下で反革命政府が形成されたことを嘆いていた。反革命政府の短期目標は労働者階級の武装解除とブルジョア軍隊の形成だった。この論説は、バレンシア政府の危機解決は植民地介入(つまり、ロシアの介入を意味していた)の明確な実例だと分類した。バリウスは、この論説のために投獄され、保釈を認められなかった(6月中旬頃)。ただ、彼は一度も裁判に掛けられなかった。この事件を審理した裁判所が釈放を命じたからである。釈放(10月中旬頃)から二週間後、彼は予防拘禁命令の下で再び(11月の初めに)二ヶ月間投獄され、ブリリョ署長に引き渡された。[105] 結局、彼は合計で約九ヶ月間投獄されたが、三度目の服役期間を逃れたのは、単に、彼がそれを避けるためにバルセロナから逃げたからだった。

第三号は1937年6月12日の日付で、バルセロナで出版されたとされており、全くの白黒刷りだった。この号はさらに好戦的になったように思える。記事はさらに彼らに噛みついていた。アナキスト闘士達の殺害と統制パトロールに対する侵害(非合法化しようとしてのことだった)を糾弾し、5月のビラのテキストを引用し、その内容を説明していた。これらは、目下危篤状態にある革命の将来にとって差し迫った重大事件だと発表された。[106] この号に掲載された記事は以下の通りである。フランス革命に関するフルメンによるとされた筆者不明の記事。マドリー戦線でアナキストのシプリアノ=メラが軍事的に成功を収めたニュース。エレウテリオ=ロイグ(Roig)の詩。ドゥルティを手本にすることは、宥和政策を意味するのではなく、むしろ自由になりたいのであれば戦争に勝つことが必須だというドゥルティのイデオロギー立場を擁護することを意味する、と断言したサンタナ=カレロの記事。ドゥルティがマドリー戦線から行ったラジオ放送も転載されていた。アラゴン戦線と後衛に関する扇動的記事もあった。7月19日以前に存在していたような共和国の導入に関してペイロが直近に出した声明に対する容赦ない非難。そして最後に、「5月事件について」と題された最も興味深い記事があった。この中でドゥルティの友は、CNTの指導的委員会に関する5月8日の声明文で使われた「裏切り者」という描写を撤回し、同時に、CNTがドゥルティの友に対して使った「スパイ」という描写も撤回するよう求めた。

第四号は、1937年6月22日の日付で、バリウスが保釈なしに拘束されていることが報じられた。表紙に大きく示されていたのは、ドゥルティの友の要求一覧表(1937年3月後半に発表された声明文で最初に現れて以来、既に何度か改訂されていた)だった。これは、強制的組合加入・後衛の浄化・配給制・プロレタリア階級の武装・弾圧機関の解散など厳格な措置を提議していた。その目的は反動に脅されている革命を防衛し、ファシストに対する戦争に勝利することであった。

我々「無責任なスパイ」は要求する。経済生活と社会生活の労働組合による方向付けを。自由な自治体を。

労働者階級が監督する軍隊と公的秩序を。

武装兵団の解散を。防衛委員会と防衛評議員職の保持を。

武器はプロレタリア階級が所有しなければならない。ライフルは革命利益の究極的担保である。労働者階級以外がライフルに接してはならない。身分の廃絶を。プロレタリア階級の敵で形成される国境警備隊を。

強制的組合加入を。雇用局を。雇用保証に関わる証明書の廃止。配給カードを。義務的労働を。後衛は戦争のために生きねばならない。

あらゆる生産・交換手段の社会化を。ファシズムとその共犯者に対する徹底的戦いを。後衛の浄化を。町内委員会の確立を。

いかなるお役所的例外もない家族賃金の即座の導入を。戦争と革命は我々皆に平等に影響しなければならない。ブルジョア議会の一時停止を。パスポートの一時停止を。

反革命に対する動員を。

検閲の強制・労働者の武装解除・国家によるラジオ局の没収といった国家の強制的措置に対する絶対的不服従を。

労働者階級がこの国の絶対的支配を享受する時まで、生産手段の自治体化に断固たる反対を。

我々の組織の革命的傾向の完全な復活を。

政府との協調に徹底的な反対を。政府との協調など、プロレタリア階級を解放する上で明らかに非生産的だ。

相場師・官僚・物価上昇の背後にいる人々に対する徹底的戦争を。休戦に対抗する戦時体制を。

2ページ目には以下の告知--再通知--が掲載されていた。「ドゥルティの友グループの革命綱領:

革命フンタ。

経済権力を組合へ。自由自治体。

我々は以前よりもっと効果的に活動したいと思っている。我々はアナキストだ。」

さらに、エレウテリオ=ロイグによる定例の詩、フルメンによるフランス革命に関する定例の記事、そして、リバータリアン青年とFAIが労働組合の中で活動を始め、戦争に勝つと同時に革命を遂行する必要を再確認しするように要請したサンタナ=カレロの記事が掲載されていた。もちろん、傑出していたのは、ハイメ=バリウスによる「正当防衛をする上で。説明を求める。」という印象的な記事だった。この記事で、バリウスは、彼がマルクス主義者だという嫌疑、あらゆる事の中でも人を最も傷つける侮辱としてCNT指導部とCNT新聞が彼に向けた嫌疑に対して抗弁した。

民衆の友」第五号は、1937年7月20日の日付で、以前よりも小さい体裁で印刷された。グループの事務所は警察によって閉鎖され、新聞は秘密裏に印刷されたが、事務所と編集部の住所は第一号と全く同じ場所が書かれていた。これは、警察の捜査を逃れるための策略の一つだった。警察はその時まで「民衆の友」はフランスのペルピニャンかモンペリエでフランス人アナキストの助けを借りて印刷されていると考えていたが、実際には、未だバルセロナで出版されていた。「民衆の友」は、この号以降の毎号で、全ての記事が無署名となった。ただ、時折掲載される偽名で書かれた記事は例外だった。バリウスが投獄によって論説文への寄稿を妨げられることはなく、時として獄中から記事を書くこともあった。

第五号は一連の「民衆の友」の中で最も興味深いものの一つである。第一ページには、「革命理論」と題された論説が掲載されている。この記事だけでも、ドゥルティの友の政治的・歴史的重要性を充分浮き彫りにしてくれる。その重要性は、内戦の歴史に関してではなく、アナキズムイデオロギーに関してである。論説の中でドゥルティの友は、1936年7月の明白な絶対的勝利以後の反革命の進展とCNTの失敗を一つの要因のせいだとしていた。革命綱領の欠如である。また、この要因は1937年5月の敗北の背景にもあった。彼らが到達した結論は驚異的な明確さで打ち出されている。

(革命の)下方スパイラルは、具体的綱領の欠如と短期的成果の欠如に、そして、これらが欠如していたが故に、プロレタリア階級の大志を満足させる程まで情況がハッキリと好転したまさにその時に、反革命派の罠にはまってしまったという事実に起因すると考えねばならない。ハッキリとした階級方針に沿って覚醒した7月に身を委ねることができなかったために、我々はプチブル支配を可能にしてしまったのだ。プロレタリア階級をこの国の運転席に据えるという全員一致の決定が広がっていれば、こんなことは絶対に生じ得なかったのだ。

(中略)社会的な革命がその経済的・社会的ダイナミクスを敵の党派と共有できると考えるという大間違いを犯しながら(中略)

5月にこの問題が再び提起された。ここでもまた、口では革命の方向性が最優先だと述べていた。しかし、まさに同じ人々が、7月には外国からの介入の危険に怯え、5月の事件が来るとヴィジョンの欠如を示した。これは悪意に満ちた「停戦」でクライマックスを迎え、停戦協定が合意されたにも関わらず、後には継続的武装解除と非情な労働者階級弾圧として解釈された。(中略)

つまり、綱領--リバータリアン共産主義--を諦めることにより、我々は敵対者に全面的に投降しているのだ。敵対者は、(中略)7月と5月に撲滅されるべきだったプチブル政党の(中略)綱領と指針を持っていたし、今も持っている。我々の観点からすれば、他の党派が、もし我々が持っていたような絶対多数を享受していれば、この情況の絶対的主人として振る舞ったであろう。

この新聞の前号で我々は綱領を詳述した。我々は革命フンタの、経済を管理する組合の、自由に組織された自治体の必要性に気付いている。我々のグループは、7月と5月に似た情況で、自分達が同じように行動するのを見たくないが故に、方針を辿ろうとしてきた。成功は綱領の存在にあるのであり、それはライフルによってしっかりと支持されていなければならない。(中略)

理論のない革命は前進できない。我々「ドゥルティの友」は自分達の考えを概略してきた。我々の考えは、大きな社会動乱に応じて修正されるかもしれない。だが、我々の考えの要となっているのは次の二つの回避不可能な要点である。綱領とライフルだ。

これは重要なテキストである。何故なら、アナキズム思想の進化における画期的出来事だからだ。ここに示されている理論的概念は、以前は非常に混乱したやり方でしか描かれていなかったが、今や目も眩むばかりの明瞭さで詳述されている。そして、こうした理論的獲得は、その後、バリウスのパンフレット「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」(新しい革命に向けて)に改めて表明され、徹底的に熟考されることになる。だが、ここに初めてそれが現れている。アナキズム思想の文脈でこれらの斬新さと重要性を正当に評価できたものは一人もいなかった。ドゥルティの友は、内戦と革命プロセスに関わる古い理論的概念を手に入れた。彼等は、痛々しい歴史的経験の終わりにこれに到達したのだ。そして、これが階級闘争の矛盾と必要を率直に暴き出したのである。それならば、我々は、ドゥルティの友の政治的思考がこのように進化したのは、本当は、外部グループ--例えばトロツキストやPOUM主義者--の影響のためであり、これは検証できる、などと信じねばならないのだろうか?これがドゥルティの友グループだけに起因する進化だということに議論の余地はない。政治的・歴史的情況を分析することで、彼らは次の結論に到達した。革命において、革命フンタの設立は避けることのできない要件である。当然、ドゥルティの友はマルクス主義に特有の用語を避け[107] 、アナキズムイデオロギーに特有の別の表現形式を用いた。彼らが「プロレタリア独裁」という概念を組み立てる際のこの表現形式こそ、ここで扱っているこのグループの内的進化に関するさらなる証拠なのであり、外部集団に植民地化されたり魅了されたりしている証拠ではない。社会的・歴史的現実は充分確固としており、充分厳しいが故に、ただただ目を開け続け、精神を敏感にし続けている一つの革命グループにこそ革命理論の諸要素が生まれるのである。

この号の新聞には、5月以降の出来事の分析が掲載されていた。それにはスターリン主義者によるPOUM闘士の投獄と裁判に対する糾弾や、集産体の崩壊が含まれていた。スターリン主義者の発生源だった中産階級の生活の容易さと革命的労働者の迫害とが辛辣に対比されていた。また、フルメンによるフランス革命に関するいつもの記事もあり、フランス革命のプロセスとスペイン革命のプロセスとの興味深い比較が概説されていた。最後に、CNTの主導的委員会の一部がドゥルティの友を除名しようと虚しい努力を行っていることを非難した優れた長い記事が掲載されていた。

民衆の友」の第六号は1937年8月12日バルセロナと日付欄に記入されている。この号は「革命フンタの必要性」という記事が最初に掲載されている。革命フンタに関わる前号の論説を改めて述べ、革命フンタが1936年7月に設置されるべきだったと主張していた。

7月の運動から、我々は、革命の敵は情け容赦なく潰すべきだと結論付けねばならない。これが大きな誤りの一つだったのであり、今、我々は利息分と共に支払をしている。この防衛的使命は革命フンタの肩に掛かるであろう。革命フンタは敵にいかなる情けも掛けてはならない。(中略)

革命フンタの設立は莫大な重要性を持つ。新たな抽象概念の問題ではない。これは一連の失敗と災厄の成果であり、これまで従ってきた軌跡の絶対的修正である。

7月に、反ファシズム委員会が設置されたが、この崇高な時がもたらす結果と同じではなかった。既に行われてしまったが革命の友も敵も同じ様に組み込みながらバリケードがもたらした胚芽を発展させるなど、どうすればできるのか?そうした構造を持つ反ファシズム委員会は、7月の闘争の具現化などではなかった。[108]

(中略)我々は、革命フンタの参加者は都市と田園の労働者、そして、全ての闘争の重要時点に姿を見せて社会革命の擁護者となってきた戦闘員だけであるべきだと主張する。(中略)

「ドゥルティの友グループ」は、5月事件を的確に批判するだけ充分のことを知っていたし、今もなお、我々が目論んでいる方針に従って、革命フンタを設立しなければならないことが分かっている。そして、革命フンタを革命の防衛に不可欠だと見なしている。(中略)

ドゥルティの友の政治的考えの進化はその時にはもう止まらなくなっていた。プロレタリア独裁の必要性を承認すると、次に生じる問題は、プロレタリア階級の独裁を実行するのは誰か?、だった。答えは、革命家の前衛として直ちに定義される革命フンタだった。その役割は?マルクス主義者が革命党に帰しているもの以外の何かだなどとは考えられない。

だが、「レーニン主義者の声」第二号で、ムニスは「民衆の友」第六号を批判した。この号の内容は5月事件中とその直後にドゥルティの友グループが考案したのと同じ公式に退却していると見なしたからだった。

第六号は、POUMに対する裁判の報告とニンの殺害の報告が掲載され、ニンの殺害は現行政府の責任だと述べられた。フランス革命に関する定例の記事に加え、さほど興味深くもない記事が幾つか掲載されていた。裏表紙には、印刷工の印が「Imp. Libertaria-Perpignan」と示されていた。「民衆の友」は未だバルセロナで印刷されていたため、この号は警察を念頭に置いた見せかけだった可能性が高い。[109]

この新聞の第七号の日付欄には9月31日バルセロナと書かれていた。[110] 幾つかの記事が傑出していた。アラゴン評議会の解散とアナキスト集産体の崩壊を受けてスターリン主義者がアラゴンで行った弾圧について・エディシオネス=エブロ社が出版した匿名のパンフレットの中でアグスティン=ソウヒガふれ回ったドゥルティの友に関する誤った主張に対する反論・信教の自由の再導入に対する反対・基本的生活コストの不合理な増大に対する抗議などである。その時代を上手く示してた極めて機知に富んだ注記もあった。それは次の通りであった。

我々は提議する。ミハイル=バクーニン・ピョトール=クロポトキン・セバスチャン=フォール・エンリコ=マラテスタ・リカルド=メリャの名によって、我々の組織から人々を即座に除名しよう。

こうした除名を補うために、我々は提議する。反革命の危険を上手く打ち倒したという理由で、「干渉主義者」に貢ぎ物を送ろう。

我々は「正統性」を持っているが故に、「暴徒」に対してイデオロギー的・物質的養分を与えている人々とは相容れない。同時に、それは、我々を、偉大なる「情況」解釈者の輝かしい「絶対確実性」に対する感嘆で満たしているのだ。

論説では、5月事件の意味が分析されていた。ドゥルティの友は、7月以降行われた過ちを修正すべく蜂起を起こすべきだと考えていた。ある種の主要アナキスト闘士が座っている囲いを非難した。「全体主義の誘惑」にそうした闘士が抗っているなど、結局、リバータリアン共産主義導入の放棄以外の何にもならなかった。ドゥルティの友は、再三にわたり、アナキストは経験から教訓を学ばねばならないと主張した。

全体主義的解決策は回避された。リバータリアン共産主義の確立を止める決定に公印が押されたのだ!アナキズムが取らねばならない方針--責任ある立場にいる同志達が公表したところによれば--は、いかなる反ファシズム派も利己的利益を求めてはならない、というものだった。(中略)独裁でもなく民主主義でもない!、と主張される。我々は何処に向かっているのだろうか?我々自身の綱領がなければ、ブルジョア民主主義の子分であり続ける恐れがあり、大胆に軍事行動を行う党派の犠牲者になる危険があるのだ。(中略)

我々の現在時は、専ら過去の経験に照らして読まれねばならない。戦場・牢獄・反革命の全面的猛襲の臭いがプンプンしている現実から目を閉ざし続けるならば、我々はイベリア半島から容赦なく追い出されてしまうだろう。

我々はなおも革命を救い出すことができるかも知れない。(中略)経験は非常に厳しい教師であり、軍事的火力を使って自説を主張しなければならないこと・労働者階級と革命の敵である勢力を全滅しなければならないことを経験から推論しなければならない。

経験からの教訓を心に留めておこう。そこにこそ我々の救済がある。

デウス=エクス=マシナ(強引な解決策)への嘆願はなかった。ドゥルティの友は、最も厳しい直接経験から教訓を学んだアナキストであった。彼らがアナキズム理論に導入した斬新さは、古いマルクス主義の前提条件だったのだろう。それ自体は、階級闘争からの単なる初歩的教訓に過ぎなかったかもしれない。だが、レッテルを言いふらし、それで問題解決だと見なす人々は軽率なのだ。階級闘争でのプロレタリア階級の直接経験が誤謬を修正するのに充分でないなら、歴史には過去の闘争から学ぶことは何もないのなら、我々に残されているのは、ドグマと信念の優位性を確認し、経験と歴史に妥当性があることを否定するだけである。

日付欄に1937年9月21日バルセロナと書かれた「民衆の友」の第八号の論説は、革命に成功の見通しを持たせるのであれば、綱領が必要だと詳しく論じていた。以前に示されていた考えと同じで、特に目新しく示されたものは何もなかった。残りの記事は、まずまず興味深く、食料調達・民族主義者による9月11日の記念祝宴に対する反対・アラゴン戦線・CNT陣営へのアンヘル=ペスターニャの復帰といった様々なトピックスを扱っていた。

1937年10月20日付の第九号には、興味深い声明文が掲載され、ドゥルティの友の起源と革命行動に関する歴史を詳しく述べると共に、このグループの政治的立場に関する綱領一覧も記されていた。これは賛否両論を呼び、多くの意見が寄せられたため、1937年11月8日付けの第十号でこれを擁護する論説が掲載された。同じ号は「アレルタ(警報)」の出現をイデオロギー的に同類の新聞だとして歓迎していた。コモレラに対する紛れもない恨み節も掲載された。彼は、生活必需品を管理する人物としてその政策のために、そして7月19日の闘士達を「部族民」だと片付けたために、容赦なく批判された。バリウスが「ほんの15日~20日間の自由な期間の後に」[111] 再度投獄された報告もあった。彼は「民衆の友」の編集者として有罪宣告を受けた。この新聞は、第二号以降検閲を受けることを拒否していたが故に非合法新聞だと糾弾されていた。最も興味深い記事は、「率直に述べねばならない」と「歴史的合流点」と題された記事だった。最初の記事は、「暴徒・スパイ・反革命家」というレッテルを貼られたグループメンバーに対してCNTが浴びせたお決まりの嫌疑にユーモアに富んだ調子で反駁していた。グループメンバーを弁護し、自分達の革命的・戦闘的信用証明を繰り返し述べた後、この記事はCNTとFAIに対して嫌疑を向けるのをハッキリと止めた。「我々皆が飲まねばならない泉の水に毒を盛ることになる」という理由からだった。この記事でハッキリしているのは、自分達自身の闘争というドゥルティの友の大きく限定されたヴィジョンである。彼等はCNTの「理不尽な」指導者達について穏やかなあら探しをすることに自分達を限定し、組合からの除名の回避をその究極的成果だと見なした。その見解は、遅かれ早かれアナルコサンジカリズムの二つの異なる潮流が一つにならねばならない、さもなくば、スターリン主義独裁によって破壊されるのを避けることができなくなるだろう、というものだった。この記事から、グループが、5月にとった急進的立場からどんどん横滑りしていったことが明らかである。コメントに値する二つ目の記事は「歴史的合流点」である。この記事は、ファシストが途切れることなく勝利の前進をし、外国がそれを支援していたことに示されているように、好ましくない方向に進んだ戦争を分析した。ドゥルティの友は、マラガや北部のような地方全体が、その商店・工業・食料--これらは敵の略奪品となった--が破壊されなかったにも関わらず、降伏してしまったことを疑問に思っていた。ドゥルティの友グループは、アラゴン戦線が敗北したのは、CNTに渡されるはずの武器を中央政府が提供しなかったからだ、と記している。戦争の準備は裏切りにつきまとわれていた。将校階級が浄化されてこなかったからであり、後衛に闘志(fighting moral)がなかったからであり、ブルジョア政治家が相当な財産を海外で蓄えること以外に何の考えもなかったからだ。ドゥルティの友は労働者に戦争に勝つよう呼びかけ、この呼びかけは以下の十項目に濃縮された。

  1. 革命フンタの設立。

  2. 全ての経済権力を組合へ。

  3. 生産と消費の社会化。

  4. 生産者カートの導入。(Introduction of the producer's cart)

  5. 全民衆の動員。

  6. 後衛の浄化。

  7. 軍の労働者管理。

  8. 家族賃金。あらゆる特権の廃絶。

  9. 自由な自治体。社会秩序を労働者の手に。

  10. 一律の消費統制。

だが、これは単なる要求リストに過ぎない。達成する方法について何の示唆もなければ、それに向けた運動を起こすために用いる戦術もない。従って、戦争に勝つための理論的綱領を説明しただけだった。グループが実際に持っている実行力を越えた綱領だった。どうであれ、真面目に企図されたのではなく、単なるプロパガンダやロビー作戦として企図されていた。だが、戦争の方向性・軍隊の管理・経済の社会化・社会秩序の管理は、単なる要求だけにはなり得ない。権力を告訴するのではなく、奪取するからである。その結果、ドゥルティの友グループは、この時点で、いかなる現実的役割からもはるかに離れていたと断言できよう。力尽きてしまったかのようだった。以前の自己の単なる影になりつつあった。綱領・要求は、5月以前は妥当だったかも知れないが、今や惨めな戯画であり、徹底的に反革命になった情況でドゥルティの友グループのあからさまな無力さを証言していた。

民衆の友」第十一号は、ドゥルティの一周忌である1937年11月20日の日付が付いており、紙面のほとんどがこの人気のあるアナキズムの英雄を追悼することに割かれていた。記事は、多かれ少なかれドゥルティの人物を上手く論評しており、最も傑出した記事は、明らかに、「ドゥルティを論評する」と題されたものだった。この記事で、ドゥルティのイデオロギーと意図をめぐって「労働者の連帯」が追求された。この記事の著者によれば、「労働者の連帯」の主張は、ドゥルティは戦争に勝つためにあらゆる革命原則を放棄しても構わないと考えていた、というものだった。「民衆の友」の著者は、この主張は誤っており、ドゥルティに関わる思い出に対して示しうる最悪の侮辱だと見なした。ドゥルティの友が示したドゥルティのイデオロギー[112] は、「労働者の連帯」が提示したものと真逆だった。

ドゥルティが革命を放棄したことは一度もない。全てを放棄して勝利を確実にしなければならないと彼は確かに述べたが、その意味するところは、ファシズムが我々を打ち負かすのに任せよというのではなく、最大の物資欠乏状態に備え、命を落とす用意をしなければならない、ということだった。

だが、ドゥルティの口で、勝利という概念は、戦争と革命をほんの少しも分離することを示してはいない。(中略)ドゥルティが、最大の犠牲を払って全てを勝ち取ってきた階級は、敵対する階級を利するために常に屈服し、譲歩する階級であるべきだと主張したなど、我々は信じていない--そして、この点については確信している。(中略)

ドゥルティは戦争に勝ちたがっていたが、後衛に照準を合わせていた。(中略)ブエナベントゥラ=ドゥルティが革命を否認したことは一度もない。我々ドゥルティの友も革命を否認しない。

民衆の友」の第十二号は、1938年2月1日付けで、「全ての権力を組合へ」という優れた論説が掲載された。この論説はドゥルティの友グループの綱領における独特の論点を詳述している。この号には、テルエルの戦闘・都市の交通手段とモンジュイック監獄・食料部門に関する考察・国境地帯で行われている汚職といった様々な記事が載っていた。

第十二号は、多分、「民衆の友」の最終号だと思われる。しかし、ホルディ=アルケルは、ドゥルティの友小史において、全部で十五号が発刊されたと主張している。そして、バリウスも、バーネット=ボロテンに宛てた1946年6月10日の手紙で、1938年の終わりまで発刊されたと述べている。我々の推測は、「新しい革命に向けて」というパンフレットの英語版序文でバリウスが述べたことに基づいている。そこには、ドゥルティの友グループの最後の集会がこのパンフレットの発表後に行われた、と書かれている。「民衆の友」第十二号が直近に発表された「新しい革命に向けて」に言及していることを考え、我々は、1938年1月にパンフレットが発表され、1938年2月1日にグループの機関紙が発表された後、ドゥルティの友は最後の会議を持ち、事実上、その後の戦争についてさらなる活動を行わなかった、と結論付けて構わないと考える。いずれにせよ、この推論は革命集団の活動を不可能にするほど強大で効果的な弾圧に裏付けられている。1938年1月、フォスコは逮捕を逃れるべくフランスに逃亡した。1938年2月13日には、「レーニン主義者の声」と「民衆の友」を発行していた印刷所の印刷工バルドメロ=パラウの逮捕に加え、警察によるボルシェヴィキ-レーニン主義支部の占領があった。4月19日には、POUMの地下委員会(ホセ=ロビラ・ホルディ=アルケル・オルトラ=ピセ・ホセ=ロデス・マリア=テレサ=ガルシア=バヌス・ヒュアン=ファレ=ガソ・ビレバルド=ソラノなど)が逮捕された。

後に、1960年代になって、「民衆の友」の第二シリーズが出版された。これは、明らかに、バリウスが手に入れた相続財産を資金としていた。この第二シリーズについて我々は既に検証したが、興味も引くようなものは何もない。バリウスの名前は何処にもなく、パブロ=ルイスが編集長として掲載されている。最も顕著な特徴は、全ての号に、メンバーが国内で--スペインの内部で--秘密プロパガンダを行うために壁に貼り付けるポスターが含まれていたことだった。

第八章 バリウスのパンフレット「新しい革命に向けて」

アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」というパンフレットは、秘密裏に発行されたにも関わらず、五万部印刷され[113] 、それまでかなり曖昧だった綱領に肉付けをした。バリウスは1937年11月頃に[114] このパンフレットの草稿に着手し、ドゥルティの友グループが1938年1月に発行した。[115] 疑いもなく、これはドゥルティの友の最も包括的なテキストであり、だからこそ、別個にコメントする価値がある。

このパンフレットの最も重要な理論的貢献はそれ以前に「民衆の友」の第五号・六号・七号の論説で--つまり1937年7月20日から8月31日の間に--立案されていた。

従って、このパンフレットに何か新しい大きな理論的提言があるわけではない。いずれにせよ、このパンフレットの大きな目新しさは、マルクス主義がプロレタリア階級の革命理論に関わる最も初歩的な表現形式として体系立てた諸概念をアナキスト集団が採用したことにある。この点について、バリウスの言葉遣いは、マルクス主義の古典で使われているものとは異なっている。だが、これから見ていくように、違う名前で呼ばれていても、類似した考えを認めるのはそれほど難しくない。

このパンフレットは31ページ[116] あり、八つの章に分かれている。第一章は短い歴史的イントロダクションである。ここでバリウスはプリモ=デ=リベラの独裁時代から1934年10月までの期間を概観している。第二章は、1936年7月の革命的蜂起を導いた様々な事件を吟味している。多くの主張が突出し、衝撃的だが、それでもなお真実である。

人々は武器を探しに行かねばならなかった。彼等は征服による当然の権利として武器を奪取した。自分達自身の努力で獲得したのだ。彼等は何も与えられなかった。共和国政府からも、カタロニア自治政府からも。ライフル一つも与えられなかったのだ。

1936年7月19日の革命についてドゥルティの友が行った鋭い分析は、強調するだけの価値がある。

労働人口の大多数がCNTを支持していた。カタロニアの内部でCNTは多数派組織だった。CNTがその革命を、民衆の革命を、大多数のプロレタリア階級の革命を起こさないなど、何が起こったのだろうか?

これは起こるべくして起こったことだった。CNTは明らかに革命理論を持っていなかった。我々は、具体的綱領を持っていなかった。何処に自分達が向かっているのか全く分からなかった。リリシズムだけは沢山あった。だが、結局、我々は労働者大衆をどう扱えばよいか分からず、我々の組織内部で噴出した民衆の発露に実体を与える方法も知らなかった。何をすべきか分からないため、ブルジョア階級とマルクス主義者に革命を易々と手渡してしまった。彼等は昨年の茶番劇を後押ししている。さらに悪いことに、我々は、ブルジョア階級に息つく暇を与え、復活し、立ち直り、勝利者として行動できるようにしてしまったのだ。

CNTは、その役割に恥じない行動をする方法を知らなかった。革命をその全帰結まで押し進めようとはしなかったのだ。

従って、ドゥルティの友によれば、7月革命が失敗したのは、CNTが革命理論と革命綱領を持っていなかったからだった。アナキストの側からは、数多くの理由が提出され、様々な説明が7月革命の特徴について提示された。そうした主張の幾つかは非常に魅力的だが、ヴァーノン=リチャーズもセンプルン=マウラもアバド=デ=サンティリャンもガルシア=オリベルもベルネリも、まさにここで引用したドゥルティの友程、分かりやすくも明快でもなく、7月革命の性質を深く精査してもいない。

そうは言っても、これは見本に過ぎない。ドゥルティの友は、聡明な理論家でも天才的なオルガナイザーでもなく、本質的にはバリケードの闘志だったからである。彼等は直接経験に関わる討議に基づいて自身の理論的問題を論じ、階級本能だけに導かれ、これから見ていくテキストにおいて、スペイン革命を同時代に分析した最も優れたものの一つに到達した。考察されるに値する分析、そして、この分析にアナキズムだとかマルクス主義だとかというレッテルを貼る必要はない。なぜなら、言葉で遊ぶのではなく、生活をかけ、まさに自身の生活だけをかけていた人々による分析だからである。

組織の全存在を革命を説くことに費やしているのなら、望ましい情況が生じたときにはいつでも行動する義務がある。そして、7月にその機会が出現した。時代遅れで古めかしい全てのことに激しい最後の一撃を与えながら、CNTはこの国の運転席に飛び乗らねばならなかった。このようにして、我々は戦争に勝ち、革命を守るはずだった。

だが、逆のことが起こった。国家が四方八方に砕け散っているまさにその時に、国家の問題についてブルジョア階級と協調したのだ。コンパニイスとその仲間達を強化したのだ。貧血で恐怖におののいているブルジョア階級に胸一杯の酸素をそそぎ込んだのだ。革命が窒息し、CNTが追放された最も直接的な理由の一つは、CNTが、街路では大多数だったにも関わらず、少数派であるかのように振る舞ったことである。(中略)

一方、我々は断固として主張する。たとえ誰が何と言おうとも革命は全体主義である。現実には、革命の様々な側面は徐々に扱われていく。だが、それは、物事の新秩序を代表する階級が最大の責任を負う、という条件が付く。そして、事が中途半端だったが故に、現在我々が憂慮していること--7月の大失敗--を我々は手にしているのだ。

7月に反ファシズム義勇軍委員会が設立された。これは階級機構ではなかった。ブルジョアと反革命党派がそこに代表者を送り込んでいた。あたかも、この委員会はカタロニア自治政府に対する対抗勢力として設立されたかのように思えた。だが、全て誤魔化しだった。

まず第一に、中央反ファシズム義勇軍委員会を、未発達の労働者権力の萌芽ではなく、階級協調主義機構として定義していることを強調しなければならない。この点は、ニンが5月事件以後に書いた記事と完全に一致している。もちろん、ドゥルティの友はこの記事に気付いていなかったが。

革命組織の独占的責務は革命を起こすことであるという自明の理に、国家の救出と再構築にCNTが協力しているという批判が加えられた。

ここまでは、ドゥルティの友の主張は正統的にアナキズムだった。だが、こうした主張の直接的帰結として--もしくは、粉砕されている資本主義国家を救出し再構築するというアナキストとしてあり得ない活動に巻き込まれたCNT内部の矛盾の結果だと言った方がもっと適切だろうが--ドゥルティの友は優れた理論的進歩をした。革命は全体主義的である。もし、こうした自明の真実がリバータリアン精神と矛盾するのなら、アナキズム革命は決議を否定する矛盾だと言わざるを得ない。これに類することを1936年にスペインのアナキストは経験したのだ。

次の章で、バリウスのパンフレットは1937年5月の革命的蜂起を扱っている。ドゥルティの友の論法は、可能な限り率直で急進的だった。5月事件のルーツは7月に遡る。7月に革命を起こせなかったからである。

社会革命はカタロニアでは一つの事実になり得たはずだった。(中略)だが、事態は異なる展開をした。革命はカタロニアで起こらなかったのだ。プロレタリア階級が再び屁理屈屋の指導部を背負い込まされたと悟ると、7月に舞台裏に身をひそめたプチブルが大急ぎで闘争に参加しだした。

スターリン主義とそれが反革命の足がかりとして果たした重大な役割に関する彼等の分析は、洞察力があっただけではない。スターリン主義を支持した社会階層の特徴まで綿密に調べていた。ただ、指摘しておかねばならないが、「スターリン主義」という言葉は一度も使われてはいなかった。その代わり、「社会主義」や「マルクス主義」という言葉が使われていた。ただ、これらの言葉は、今日ならばあらゆる歴史的・イデオロギー的角度から見ても「スターリン主義」という言葉で示してしかるべき意味を持っている。

カタロニアで社会主義は哀れな生き物だった。その階層は革命に反対するメンバーで膨れ上がっていた。この階層が反革命を主導したのである。この階層がUGTを生み、UGTはGEPCIの家来になり果てた。マルクス主義の指導者達は反革命を賛美していた。彼等は、まず第一にPOUMを排除し[118] 、次にはCNTに同じ事を行おうとしながら、統一戦線の問題についてご立派なスローガンを創り出していた。

社会主義者と共産主義者と協力したプチブルによる策略は5月事件で頂点に達した。

ドゥルティの友によれば、5月事件は、労働者階級に決定的一撃を食らわす前段階として、優柔不断の雰囲気を創り出すよう周到に計画された挑発行為だった。その目的は、これを最後に、潜在的に革命的な情況を潰すことにあった。

反革命は、労働者階級に、まとまりなく街路にいて欲しかった。そうすれば潰しやすいからだ。その目的は一部実現した。街路で勝利し、敵が排除されたまさにその時に、停戦命令を与え、「ドゥルティの友」をスパイだと呼んだ指導者のバカさ加減のおかげだ。

アナキスト指導者達(名前は示されていないが、ガルシア=オリベルとフェデリカ=モンセニーだと考えざるを得ない)に浴びせられた非難は、侮辱しようと意図されたのではなく、5月の日々で指導者達が行ったことの真っ当な評価である。

ドゥルティの友は、反革命がその主たる目的--バレンシア政府が治安を管理する--を達成したと確信した。

スターリン主義の挑発に対する労働者の反発--つまり5月事件--についてドゥルティの友が示している記述と評価は、非常に興味深い。

a) それは自発的反発だった。

b) そこに革命指導部は存在しなかった。

c) 数時間の間に、労働者は全くの軍事的勝利を手に入れた。この都市の中心部にある幾つかのビルだけが抵抗を示していたが、それらは容易く奪取できただろう。

d) 蜂起は、軍事的にではなく、政治的に敗北した。

数時間後、流れは、CNTに加入しているプロレタリアに好ましい方向に転じた。プロレタリアは、7月にもそうだったように、銃を手にして自分達の権利を守った。我々は街路を乗っ取った。街路は我々だった。我々から街路を奪い取ることのできる権力などこの地になかった。労働者階級の地域はすぐさま我々のものになった。そして、敵の区域は、居住地区の一部にある要塞まで次第に浸食されていった--CNTの委員会による裏切りがなければ、都市の中心部はすぐにも陥落するはずだったのだ。

次に、バリウスは1937年5月の血なまぐさい一週間にドゥルティの友が取った行動は正当だったと述べている。ドゥルティの友は、労働者集団の決断力の無さと拡大する混乱との中で、この事件に革命的指導と目的とを与えるべくビラと宣言文を発行した。その後、CNT指導部の融和と交友という驚くべき政策に直面したグループの主たる関心事は、バリケードは無条件に・何の保証もなく破壊されてはならない、ということだった。

バリウスによれば、5月にはまだ革命を救出する時間があった。[119] そして、ドゥルティの友だけがこの情況に対応できることを示していた。CNT-FAIが弾圧に対して狭量な態度をとれば革命的労働者がいたずらに食い物にされるだけだ、とドゥルティの友は以前から予言していた。

このパンフレットの次の章はスペインの独立という主題に取り組んでいる。この章全体は、近視眼的、もしくはプチブルにこそふさわしい誤った考えで充満している。国際政治について軟弱で余りにも単純な言及をしながら、安っぽい空虚なナショナリズムを支持している。従って、ナショナリズムについてドゥルティの友は単純化された回顧的なブルジョア思想に同意していた、と述べるに留めて、この章は無視すべきである。[120]

逆に、協調主義と階級闘争に託した章は非常に興味深い。このグループがCNTを大きく糾弾したのは、ブルジョア国家の政府業務に協力していることについてだった。ドゥルティの友の批判は、ベルネリよりも遙かに急進的だった。ベルネリは政府へのCNTの参加を批判したが、このグループはCNTが資本主義国家と協力していることを批判したからである。これら二つはちょっとした語句の違いという問題ではなく、その根底にある全く異なる政治見解の問題だった。パンフレットを参照しよう。

資本主義との協調などあってはならない。ブルジョア国家の外部であろうと、政府それ自体の内部であろうと。生産者として我々の場所は組合であり、労働者が率いる革命で生き残るべき唯一の団体を拡充するのである。(中略)そして、組合の面前で国家を維持することなどできないのだ--まして、我々自身の力で国家を強化するなどあり得ない。資本主義に対する闘争は継続する。我々自身の地域には、国際的ブルジョア階級と繋がっているブルジョア階級が今もいる。ここ数年間存在していたことが今も問題なのだ。

ドゥルティの友は、協調主義者がブルジョア階級と同盟していることをあえて示そうとした。アナキスト大臣と協調主義擁護者全員はブルジョア階級と同盟していると述べているも同然だった。

協調主義者はブルジョア階級と同盟している。このような関係を擁護している個々人には階級闘争の感覚などなく、組合に幾ばくかの敬意も持っていない。我々は絶対に敵の立場の強化を認めてはならない。敵は打ち砕かねばならない。(中略)搾取する側とされる側との間に共通の基盤など絶対にあり得ない。どちらが勝つかを決めるのは戦闘だけである。ブルジョアか労働者か。明らかに双方同時にではない。

だが、このグループが次の決定的段階、ブルジョア階級との同盟政策を中止させ、関係を絶つことができないことを証明した協調主義型組織との必然的決別を取ることはなかった。このグループがCNTと決別しようとしたことは一度もないし、資本主義組織の一つだとCNTを糾弾したこともない。イデオロギー上の諸前提を設定したが、それに伴う全てのことを探求しなかったのである。少数の個人に非難の矛先を向けるのは容易い。CNTが、労働組合としてのまさにその性質のために、ブルジョア階級と協調する組織だったという厳しい陰鬱な結論に到達するよりは、協調政策を擁護した数人の指導者を非難する方が簡単である。諸原則からCNTを引き離したのは、アナキスト大臣ではなく、大臣を産み出しているCNTだったのだ。しかし、ドゥルティの友は、労働組合は階級闘争組織である、と考えていた。徹底的にスターリン主義であり、反革命政党のPSUCの道具でしかないカタロニアのUGTでさえ、ブルジョア階級組織としては考えられていなかった。従って、ドゥルティの友が決定的ステップを取ることは不可能だった。労働組合の真の性質[121] は資本主義国家機構だと認めることができない以上、CNTとの決別など考えられない。全く逆だった。労働組合こそがこのグループの理論的議論の根本要因だった。その責任は、組織ではなく個人に向けられた。病理の認識もなければ、その原因の認識もなく、幾つかの症状だけが認められたのである。[122]

このパンフレットは、この後も、ドゥルティの友の立場と綱領を説明し続ける。多分、慌てて起草したからか、もしくはその時点で余りよい評判を得られなかったためか、主要で最も象徴的な政治戦術上の立場は、それ以前の説明よりも不完全で混乱し曖昧に示されている。そうした立場は以下の通りだった。(1)労働者革命軍を通じた労働者による戦争の方向付け。(2)労働組合を強化することによる階級協調の拒絶。(3)経済の社会化。(4)反教権主義。(5)官僚制の撲滅と全消費財の普遍的配給を通じた分配の社会化。(6)同一賃金制。(7)民衆裁判所。(8)田舎と町との平等と農地集産化の防衛。(9)公安の労働者管理。

綱領の中心的基盤は7月の経験だった。ドゥルティの友はこれを成功した蜂起だと明確に描いていたが、革命理論と革命目標が欠如していると見なされていた。

彼等は、達成すべき行動の方向性について何の考えも持っていなかった。理論がなかったのだ。毎年毎年、我々は抽象概念をめぐって思索をした。何をなすべきなのか?当時、指導者達も自問していた。そして、彼等は革命の敗北を許したのだ。こうした高貴な瞬間に躊躇する時間などない。それどころか、自分が何処に行くのか知らねばならないのだ。これこそがまさに我々が満たそうとしている空洞である。7月と5月に起こったことが二度と起こってはならないと感じているからだ。

我々はアナキズムのちょっとした変形物を綱領に導入している。革命フンタの設立である。

グループは革命フンタを革命の敵を弾圧する目的で設立される前衛だと記述していた。

既に見たように、革命を監視し、敵対する党派を--組織的意味で--弾圧する有機的組織体が革命には必要である。現在の様々な事件が示しているように、こうした党派は、破壊されない限り、恩赦してはならないのだ。

ある種のイデオロギー的疑念を感じるアナキスト同志もいるかもしれない。だが、経験は、日和見的態度を止めるようにさせるほど充分な教訓を我々に与えてくれている。

現在の革命で生じていることを繰り返したいと思わない限り、我々は、労働者階級と一体になっていない人々に対して最大限のエネルギーを使って立ち向かわねばならない。

この前置きの後、ドゥルティの友は革命綱領を提示している。この綱領は三つの主旨に要約される。(1)革命フンタもしくは全国防衛評議会の設立。その仕事は、戦争の監督・公安の管理・国際情勢と革命プロパガンダの処理である。(2)全ての経済権力を労働組合へ。これは、徹底的な労働組合資本主義の形成を意味していた。(3)地域的組織の基本細胞としての自由な自治体。これは国家の分権化と典型的なアナキズム連合主義アプローチとの交点だった。

このパンフレットの最後のセクションは、パンフレットの題名と同じ表題がついている。そこには現実的で断固たる記述がある。「革命はもはや存在しない。」反革命の強さを認めながら、目下の見通しについて多くの推測と問いとを長々と示した後、人間の願望とアナキズムの理想とを満足させることのできる未来のアナキズム革命に向けて、気弱で空想的でお人好しで恐らくは言葉だけの召喚状が発表されている。だが、バリウスが1978年の「新しい革命に向けて」の英語版序文で認めていたように、共和国地帯での反革命の成功とファシストによる戦争勝利とはその時までには必至であった。

第九章 1939年亡命時のバリウスの思想

亡命したバリウスは、フランスのアナキスト評論誌「L'Espagne nouvelle」に二つの記事を書いている。最初の記事は1936年7月19日の三周年を記念したものだった。次の記事は、フランスと英国が公式にドイツに宣戦布告した1939年9月に公刊され、1937年5月をテーマとしていた。どちらの記事もバリウスの長期にわたる熟考の結果であり、バリウスは「ドゥルティの友の書記」という立場で署名していた。

どちらの記事も、使われた言語の正確さ・スペイン革命が提起した根元的諸問題への中心的焦点という点で傑出している。つまり、権力問題・革命的指導部が持つ必須機能・国家を破壊し反革命勢力を弾圧できる新しい構造(以前の文書では革命フンタと述べられていた)をその立場に導入する必要性に関するバリウスの考えを最大限明確に提示しているのである。

「1936年7月:意味と可能性」と題された記事で、彼は、7月事件は単に軍とファシストによる蜂起に対抗した抵抗の結果に過ぎない、つまり、「軍の反乱がなければ、武装民衆運動はなかった」と論じている人々に反論した。逆に、バリウスは次のように主張した。この見解は、人民戦線主義に従ったものであり、ブルジョア共和党に労働者階級が服従した結果であり、このこと自体がプロレタリア階級が敗北した主たる理由なのだ。バリウスは、ブルジョア共和党がファシスト反乱と対決する際に労働者に武器を与えることをどのように拒否したのかを思い起こしている。

バルセロナ自体でも、運輸労働者組合は、カタロニア自治政府の間抜けどもの攻撃に悩まされねばならなかった。彼等は、重大な闘争が始まるたった数時間前に、なおもライフルを取り上げようとした。そのライフルは我々がマヌエル=アルヌス号に乗り込んで奪取し、ファシストと戦うために使おうとしていたものだったのだ。

バリウスによれば、軍に勝利したのは、労働者が、すぐに使える武器を持ち、プチブルと何の取引もせずに、ファシストと対決した場所だけだった。労働者が--サラゴサのように--躊躇したり、取り引きしたりしたところでは、勝利はファシストのものとなったのだ。

1936年7月に提起された最重要問題は、バリウスによれば、スペインの幾つかの地域で軍が勝利したことではなかった。最も重要な問題は共和党ゾーンの中で生じていた。誰が権力を奪取し、誰が戦争の方向付けをしたのか?この疑問に対しては二つの答えしかあり得なかった。ブルジョア共和党か、プロレタリア階級かである。

しかし、最も重要な問題は我々のゾーンで生じた。誰が勝ったのかを決定することが問題だった。労働者なのか?そうなら、この国の統治は我々のものだった。だが、(中略)プチブルも勝ったのか?それが誤りだった。

バリウスは、1936年7月に関わらず労働者は権力を奪取したはずだと論じた。そうならば、戦争における勝利の唯一の保証となり、唯一の機会となっただろう。

CNTとFAIは、カタロニアにおける運動の精神であり、7月事件に適切な色合いを提供できたはずだった。誰が彼等を止めることができただろう?その代わりに、我々は共産党(PSUC)が日和見主義者やブルジョア右翼などを反革命陣営に集める事を許したのだ。

こうした時期に主導的役割を担うのは一つの組織次第である。たった一つしかあり得なかった。我々の組織だ。

(中略)労働者が反ファシズムのスペインで主人として行動する方法を知っていれば、戦争に勝っていただろうし、革命は当初からこれほどまで多くの逸脱を許すはずはなかっただろう。我々は勝利できたはずだった。だが、我々は、武器一杯の武器庫全体を手に入れると、四丁の拳銃で何とか手に入れたことを失ってしまった。敗北の責任ある人々について語る際、スターリン主義が雇った暗殺者・プリエトのような盗賊・ネグリンのような屑・お決まりの改良主義者から視線を移さねばならない。このガラクタ全てを処分する能力を持っていなかったが故に、我々がこの過ちを生んだのだ。(中略)だが、我々は皆一様に責任があるものの、特に重い責任を負う人々がいる。つまり、CNT-FAIの指導者達である。彼等が行った7月の改良主義アプローチこそが、1937年5月の反革命介入こそが、労働者階級の道をふさぎ、革命に致命的打撃を与えたのだ。

これこそ、アナルコサンジカリスト指導者が1936年7月に直面した、カタロニア外でアナキストが少数であること・反ファシズム団結を維持する必要があること・戦争が革命に幾度も妥協を強いたことに関わる、数多くの懸念と異議についてのバリウスの要約だった。バリウスは、もしプロレタリア階級が権力を奪取していれば、カタロニアでのアナキストの勝利は、スペイン全土でファシスト蜂起を即座に破壊する前兆となり得た、と主張した。権力は奪取されなかったのだ。バリウスによれば、これこそが19367月に犯した失敗だった。この失敗から、革命は急速に堕落し、問題が生じた。この失敗が、スターリン主義を主たる設計者とする反革命の成長を生む可能性を残した。だが、バリウスは、非難はスターリン主義者とブルジョア共和党にではなく、プロレタリア革命よりも反ファシズム団結--つまり、ブルジョア階級・国家・資本主義諸機関との協力--を望ましいとしたアナキスト指導者にある、と考えていた。

1939年9月に「1937年5月:プロレタリア階級にとって歴史的日付」と題されて発表された1937年5月の事件に関する記事で、バリウスは1937年5月以降の二年間を、この革命的事件の余波に過ぎないと書いた。バリウスによれば、1937年5月は抗議行動ではなく、カタロニアのプロレタリア階級の意識的な革命的蜂起だった。これは軍事的に成功し、政治的に失敗した。

この失敗はアナキスト指導者による裏切り行為のためだった。ここで再び、1937年5月の事件中にドゥルティの友が告発した大逆罪--後に「民衆の友」で撤回されてしまったが--が現れる。

だが、CNT-FAIの改良主義派が行った大逆はここで明らかだった。

7月事件で示された怠慢を繰り返しながら、彼等は、またもやブルジョア民主主義者の側についた。彼等は停戦命令を出した。プロレタリア階級は、この呼びかけに従うことに気が進まず、激怒し、臆病な指導者達からの命令を無視してその陣地を防衛し続けた。

そして、バリウスは、1937年5月にドゥルティの友が果たした役割について次のように描写した。

我々、ドゥルティの友は、前線で戦い、災厄を避けようとした。この災厄は、民衆が武器を手放したなら、民衆の恒常的な事柄となるであろう。我々は、戦闘を継続すべきであり、戦闘を止めるならばまず最初に特定の条件が満たされねばならない、という呼びかけを発表した。不幸にして、攻撃精神は既に破壊されており、戦闘はその革命的目標を達成することなく止めさせられてしまった。

バリウスはプロレタリア階級は軍事的に成功したが政治的に敗北したというパラドックスを非常に鮮やかに示した。

これは、全ての社会闘争史上初めてのことだった。勝者が敗者に服従したのだ。プロレタリア階級の前衛に手出しをしないという僅かばかりの保証すらなく、バリケードの解体は始まった。バルセロナ市は、あたかも何事もなかったかのように、平常の装いに戻ったのだった。

バリウスの分析では、5月事件は一つの岐路だと思われていた。革命をきっぱりと否認するか、権力を奪取するか、どちらかだった。そして、彼は、7月以降アナキストが一貫して撤退してきたことを、ブルジョア共和党との同盟という地獄に堕ちるべき人民戦線主義政策の果実だと釈明した。同時に、反革命指導部と革命的一般組合員というCNT内部に存在する分離の結果として、1937年5月は労働者が革命的指導部に追いつくことができなかったが故の失敗だった。

プロレタリア階級は重大な分岐点にいた。選択肢は二つしかなかった。反革命の前に跪くか、自分達自身の権力--すなわちプロレタリア権力--を強要する覚悟をするか。

スペイン労働者階級のドラマは、草の根と指導部との間に存在する全く完全な分離に特徴付けられている。指導部は常に反革命だった。逆に、スペインの労働者は(中略)事件の理解と解釈となると常にその指導者よりも傑出していた。こうした英雄的労働者が革命的指導部を見出していたなら、全世界が見つめている中で歴史の最も重要な一ページを書いていたであろう。

バリウスによれば、1937年5月に、カタロニアのプロレタリア階級は、CNTに権力を奪取するよう説得していた

5月事件の本質を見る際、武装闘争・経済・国全体のあり方を労働者指導部に受け持たせようというプロレタリア階級の揺るぎない決断力に目を向けねばならない。つまり(言葉を恐れぬ全てのアナキストにとって)プロレタリア階級は、権力を奪取するために戦っていたのだ。これは、古いブルジョア道具を破壊し、7月に表面化した様々な委員会に基づく新しい構造をその立場に構築することを通じて実現されると考えられていた。だが、結局、反動と改良主義者に即座に弾圧されてしまった。

これら二つの記事で、バリウスは革命とスペイン内戦の要点を切り出した。これがなければ、何が起こったのかは理解不可能なままである。つまり、権力問題である。彼は、その権力を具現化することになる機関も示した。特に、資本主義国家装置を破壊し、それに代わってプロレタリアの代案を設立する必要性を認識していた。それ以上に、バリウスは、革命的指導部の欠如がスペイン革命失敗の根源だと指摘したのである。

これら二つの記事を読むと、バリウスの政治思考の進化が、内戦中に獲得した豊かな経験の分析に根差しつつ、アナキズムのイデオロギーでタブー視されている諸問題に彼が取り組むようにさせたことを認めざるを得ない。その諸問題とは、(1)プロレタリア階級による権力奪取の必要性、(2)プロレタリアの代案に道をあけるために資本主義国家装置を破壊することの不可避性、(3)革命的指導部が果たす不可欠な役割、である。

ここまで述べてきたことは、バリウスの思考には別な様相も--多分、これらの記事では問題にはされず、伝統的アナルコサンジカリズムのイデオロギーと一致している二次的な様相も--あったという事実を排除するわけではない。つまり(1)労働組合による経済の方向付け、(2)プロレタリア権力機構としての諸委員会、(3)行政の自治体化などである。

バリウスが、スペインのアナルコサンジカリズムのイデオロギーに基づいて行動しつつ、内戦とスペイン革命の荒々しい経験を消化しようという莫大な努力を行っていたことは疑い得ない。ドゥルティの友グループの長所は、まさに、現実を理解し、スペインのプロレタリア階級の直接経験を吸収しようという活動にある。アナキスト革命家よりもアナキスト大臣の方が人生は安楽だった。イデオロギーそれ自体を否認する--敗北し、歴史の経過は矛盾を無意味にした時に立ち戻るために、現実の瞬間に諸原則を「一時的に」放棄する--方が楽だった。反ファシズム団結を呼びかけ、資本主義国家の統治への加担を呼びかけ、ブルジョア共和党が指揮する戦争に従うために軍隊化を受け入れる方が楽だった。矛盾に対峙するよりも。CNTは権力を奪取すべきである・プロレタリア階級が運転席に座ったときにのみ戦争に勝つことができる・資本主義国家は破壊されねばならない・何よりもプロレタリア階級は自身の権力構造を構築し、武力を使って反革命を粉砕しなければならない・革命指導部がなければこれら全ては実行不可能だと主張するよりも。こうした結論がアナキズムであるかないかは、資本主義国家を下支えすることがアナキズムなのかどうかを疑問視し続けた人々にとって非常に重要だった。1936年から1939年の間、アナルコサンジカリズムのイデオロギーは、その可能性・一貫性・妥当性について幾度も厳しい試練を受けた。バリウスの思索とドゥルティの友グループの思索とは、CNTとFAIを特徴付けている原則の矛盾とその放棄を解消するためにスペインのアナキスト集団が行った唯一の価値ある試みだった。バリウスとこのグループが行った理論的活動が、アナルコサンジカリズムにとって縁もゆかりもないと表現できるような結論を彼等に受け入れさせるがままにするのであれば、多分、プロレタリア階級の革命理論としてアナキズムは不適切だと認めねばならないだろう。バリウスとドゥルティの友はそのような処置は一度も取らず、CNTが国家と協力していることを批判し続けながらも、常に自身をアナキストだと見なしていた。

我々はこうした立場を一貫しているとも矛盾しているとも記述しようとは思わない。5月事件以後に革命家を食い物にしたスターリン主義弾圧は、このグループそれ自体を標的にしたのではなく--一度も非合法化されなかったためだ--全てのCNT闘士全般を標的にしていた。明らかに、このことがさらなる理論的解明と組織的決裂を妨げる手助けをした。ただ、我々は、いずれにしても、組織的決裂が生じたとは思わないが。

我々の分析があまりにも政治的で難解で不便で問題があることは認める。バリウスとドゥルティの友に対するトロツキストの影響と組織潜入というデウス=エクス=マシナ(急場しのぎ)に頼る方が、はるかに簡便で奇抜で学術的で、現在安売りされている逸話と戯画にぴったりである。

第十章 ドゥルティの友とトロツキストとの関係[123]

ドゥルティの友が一度たりともマルクス主義者だったことはなく、トロツキストやボルシェヴィキ-レーニン主義支部から全く影響を受けていなかったことは、「民衆の友」やバリウスの声明文を大雑把に読むだけで分かる。しかし、全く正反対のことを主張している歴史学派がある。この章が必要なのはそのためである。

まず第一に、莫大な偽装工作を喝破しなければならない。いわゆる「共産主義者同盟宣言」はドゥルティの友・POUM・リバータリアン青年が共同で承認したことになっている。だが、実際はそんなものは存在しなかった。その存在は歴史家業界の幻想に過ぎない。ピーターパンの影同様、「共産主義者同盟宣言」はそれ自体の生命を獲得し、主人のスリッパに繋ぎ止められることを拒否しているのだ。

問題となっている曲解された文書は、フランスのトロツキスト集団である共産主義者同盟の「宣言」であり、1937年6月にパリの冬季競輪場でフランスのアナキストが組織した集会で配布された。この集会にはフェデリカ=モンセニーとガルシア=オリベルが参加していた。[124] この誤謬を最初に受け売りしたのはセサール=M=ロレンソであり、その後多くの人々が繰り返し述べるようになった。

ドゥルティの友に関するモウリンの影響については、不当な全くの史料編纂上の作り話だと結論せざるを得ない。タルマンの本からは、モウリンこそがドゥルティの友に影響されたのではないかという疑問が出現する。[125] ただ、これが真実でなかったとしても、ドゥルティの友のイデオロギーにおけるモウリンの影響は、そのリーフレット・宣言文・何よりも「民衆の友」のコラムに示されているように、実際に影響があったとしても、何か重要な意味があったという主張の正当性を保証しない。

ドゥルティの友は、常に、アナルコサンジカリズムのイデオロギーを明言していた。同時に、CNTとFAIの指導部に対する徹底的批判を口にしてもいた。だが、このグループがマルクス主義の立場を支持していたと主張するなど飛躍しすぎである。いずれにせよ、現実分析と7月と5月の蜂起の分析によってドゥルティの友が二つの根本概念を擁護するようになったと問題なく認めることができる。これらの概念は、本質的にマルクス主義だというよりも--マルクス主義でもあるのだが--プロレタリア階級主導の革命的蜂起ならばいかなるものであっても持っている最も根本的な表現形式だと述べることができる。[126] これら二つの概念は、ドゥルティの友メンバーの表現を借りれば、次のようになる。

1.革命綱領、リバータリアン共産主義を強制しなければならなず、これは武力で防衛しなければならない。街路で大多数であったCNTは、リバータリアン共産主義を導入すべきだった。そして、武力を持ってそれを防衛すべきだった。言い換えれば、つまり、マルクス主義の用語に転換すれば、プロレタリア独裁が導入されねばならなかったのだ。

2.プロレタリア蜂起に参加した革命家から成る革命フンタの設立が必要である。権力を行使し、非プロレタリア党派を弾圧するために暴力を使うことで、非プロレタリア党派が権力を奪取しようとしたり、プロレタリア階級を打ち負かし破壊すべく反革命プロセスに着手しようとしたりすることを阻止する。ドゥルティの友はこれを革命フンタと呼んでいたが、他の人々は前衛もしくは革命政党と呼んでいる。この革命フンタを不快に思うのは、プロレタリア階級の敗北よりも言葉使いを不快に思う人だけである。

従って、アナキズムの思考プロセスに進化があったことは明らかだと思える。この進化によって、ドゥルティの友グループは、あらゆるプロレタリア革命プロセスに根本的で、もちろんずっと前から革命的マルクス主義の諸要素に組み込まれている二つの概念を受け入れるようになった。だが、ドゥルティの友がトロツキストによって外部から影響を受け、一夜にしてマルクス主義者になったと論じるのは、全く別である。このような主張が効力を持つのは、ドゥルティの友に対してCNTが用いた侮辱的プロパガンダとしてだけなのだ。

ドゥルティの友は決してスペインのトロツキストの世話になっていなかったことは、幾つかの文書から明白である。ここでそれらを分析してみよう。

a.バリウス自身の声明が、ドゥルティの友がPOUMやトロツキストに何らかの形で影響を受けていた[127] ことを幾度もきっぱりと否定し、自身を今もアナキスト闘士だと見なしていると主張していた。ただ、当然、CNTの政府・内閣への協力については厳しく批判していた。[128]

アナキストは投獄され、オブレゴン・アスカソ・サバテル・ブエナベントゥラ・ペイロがそうだったように死んでしまうかも知れない。彼等の命はプルタルコス英雄伝で讃えられてしかるべきである。我々は亡命中に・強制収容所で・マキスで・臨終病棟で死ぬかも知れない。だが、内閣の立場を担うのか?そんなことは考えられないのだ。

b.1937年6月26日(POUMが非合法化されて10日後)にボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部がPOUM左派に対して発表したアピールは次の通り。

君達は我々と同じ目の高さで全ての問題を見てはおらず、実際、我々の参入に反対している。それにも関わらず、本物の革命グループとの協力を拒否する権利は君達にはなかった。逆だ。君達には、この情況からの脱出を可能にし、我々を勝利に導く新しい闘争の道を切り開くことのできる必要な現実的措置について共通合意を求めるべく、我々だけでなく、「ドゥルティの友」を招待する義務がある。

この招待は、POUMに対してトロツキスト集団が出したものであり、非合法化され迫害を受けているPOUM・ドゥルティの友・ボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部--つまり、5月事件以後に存在していた三つの革命グループ--の会合を要求していた。この招待こそが、ドゥルティの友が、POUMやボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部と同等の組織的・イデオロギー的に独立したグループだと見なされていたことを示している。

c.以下は、POUM左派・ドゥルティの友・ボルシェヴィキ-レーニン主義支部で会合を持ち、共通の宣言文を承認するようトロツキストが出した招待を拒否したことに対する返答であり、「レーニン主義者の声」第二号に掲載された。[129]

「ドゥルティの友」とPOUM左派は具体的提案を拒否した。POUMの解散とその闘士の逮捕の後、ボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部は「ドゥルティの友」・党のマドリー支部委員会・バルセロナの左翼党派に書簡を送り、逮捕された人々の即時釈放・施設の復旧・無検閲で労働者新聞を発行する自由・攻撃部隊の武装解除・労働者委員会の指揮下にある統制パトロールの合法化を求める宣言文、そして、こうした主張を要求するCNT-FAI-POUM共同戦線の提議に共同署名することを提案した。

同じ書簡において、その内容は警察のために暴露できないが、我々の委員会は意見の相違があり得る条項について議論する集合場所を調整した。招待したグループの中でこの会合に姿を見せたものはなく、今のところ我々のメッセージに返事をくれたグループもない。非公式に、我々はPOUM左派がPOUM執(行)委(員会)と決別するのに適切な時期ではないと考えており、「ドゥルティの友」が自分達の目的にとってボルシェヴィキ-レーニン主義者と同盟を組む利点はないと考えていることが分かった。

実際には、この機会は、POUM左派とアナキズム左派が指導者としての能力と困難時の強固な意志を証明するのに絶好だったはずなのだが。

残念なことに、彼等は、トロツキストと共に活動しているように見られるよりも、自分達が敬意を払っている組織の惰性を支持することを選んだ。これは、トロツキズムに対する普遍的恐怖を彷彿とさせるものだと考えている。この事実を偽ることはできない。

ここに全文再掲したテキストは充分ハッキリと示している。ムニスが主導するトロツキスト集団の一部がドゥルティの友とPOUM左派に影響を与えるべく多大な努力をしたものの、その影響は、努力が無駄だったという事にしかならなかったのだ。

d.1937年7月6日にE=ウォルフがトロツキーに送った報告書には、以下のように書かれている(フランス語原文からの翻訳)。[131]

現時点で戦術変更が必要だ。過去、我々はほぼPOUMにしか焦点を当ててこなかった。革命的アナキスト労働者は、ドゥルティの友を除き、必要以上に無視されていた。だが、ドゥルティの友は数の上では少数であり、彼等との協力を確立するのは今後も不可能であろう。我々は、共同行動について議論する会議に参加するよう、POUM左派と共にドゥルティの友をも招待しさえした。POUMメンバーもドゥルティの友メンバーも会議には同意しなかった。我々が彼等にとってあまりにも力がないように思えたからではなく、彼等がトロツキズムに対する酷いキャンペーンの影響下に今だにいるからだ。多分、彼等は次のように考えたのだろう。「何故、我々が危険を冒して、我々が『トロツキスト』だなどという攻撃材料を敵に与えねばならないのか?」

e.1939年8月17日にムニスがトロツキーに送った報告[132] には、ドゥルティの友に対するトロツキストの影響に関して我々の主張に反しているように思えるが、次のように述べている。

社会主義とアナキズムの領域には、我々の活動範囲が多くある。「ドゥルティの友」の主要指導者は、明らかに我々に影響を受けており、非常にハッキリとマルクス主義的特徴を持った見解を支持している。我々の直接的扇動で、そして「ドゥルティの友」のために、最初の紀要が起草されたが、このテキストは我々が今も持っており、全てのアナキズム理論を徹底点検する必要が示されている。(中略)しかし、この点について形勢が不利になった。「ドゥルティの友」に対する有効な経済支援をできるほど我々は物理的な力がないからである。我々の目的は、金銭的手段だけを使って我々の方向性に運動を促すことではなく、上述した傾向に従っている労働者にボルシェヴィキ思想をもたらすために金銭的手段を利用することである。(中略)我々は多大な期待を持ってはいないが、経済的資源があれば、「ドゥルティの友」を--ともかくその一部を--第四インターナショナルに引き込む大きな影響力をすぐさま確保できるだろう。

ムニスの綿密な報告は、ドゥルティの友にイデオロギー的に影響を与え、第四インターナショナルに引き込みさえするという展望について一貫して語っている。しかし、そのまさに同じ展望が19398月に存在したということこそ、1937年にはそれが失敗したのだということの確認なのだ。

f.1939年2月24日と3月3日付けのLa Lutte ouvrie'reに掲載されたインタビューで、ムニスはドゥルティの友についてこの路線を取っていた。

この革命的労働者サークル(ドゥルティの友)は、アナキズムがマルクス主義の方向に進化し始めたことを示していました。彼等は、リバータリアン共産主義理論を、プロレタリア権力の具現化であり労働者によって民主的に選挙された「革命フンタ」(ソヴィエト)理論で置き換えようとしていました。そもそも、特に、ドゥルティの友がバリケードの前線でボルシェヴィキ-レーニン主義者と隊を組んだ5月事件以後、このグループの影響力は(CNT)労働組合センターへ、そしてそれを指導する「政治的」グループ(FAI)へと深く入り込んでいました。パニック状態の官僚は、ドゥルティの友指導者に対抗する方策を講じようとし、彼等を「マルクス主義者」だとか「政治家」だと非難しました。CNTとFAI指導部は除名を決議したのですが、組合はこの決議の実行を断固として拒否したのです。

残念ながら、ドゥルティの友の指導者達は自分達の思うように潜在的勢力を充分利用できなかったのです。「マルクス主義政治家」という非難に直面して、彼等は戦わずに退却してしまいました。

(質問)労働者がアナキズムの見解に背を向け、意識的プロレタリア権力という概念に向けて動いていた兆候は実際にあったのですか?

アナキスト指導者によるブルジョア階級との協調と、革命と戦争の総合経験とが、大部分のアナキスト労働者の目をプロレタリア権力が革命とプロレタリアの利益の保護にとって不可欠だという事実に開かせました。ボルシェヴィキ前衛と個々の労働者との合意は容易く確立できました。しかし、この合意の組織的表明は具体化しなかったのです。その理由の一部は、中核となる強力なボルシェヴィキが存在しなかったからであり、また、ドゥルティの友に政治的先見の明がなかったからだったのです。

しかし、私は昔のアナキスト闘士達と話す機会を得ました。その中には非常に影響力を持った人達もいました。彼等は皆公然と同じ考えを表明していました。「私はもはや、戦争前に支持していた考えを支持することはできない。プロレタリア階級の独裁に私が合意していることを宣言させて欲しい。だがそれは、ソ連のような党の独裁にはならず、階級の独裁になるだろう。プロレタリア権力の機関として、全ての労働者階級組織が団結し、協力するであろう。」

La Lutte ouvrie're」に掲載されたこの興味深く情熱のこもったムニスのインタビューは、ドゥルティの友についてこれまで述べてきたことを裏付けているに過ぎない。まず第一に、彼等はマルクス主義者ではなかった。第二に、理論的アナキズム反体制派としてのドゥルティの友の出現は、巨大な組織的強さと絶対的な理論的空虚とに特徴付けられるスペインのアナキズム運動内部に、戦争と革命の困難な現実が創り出した耐え難い矛盾に起因していた。

ドゥルティの友とボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部との関係について歴史的文脈を再度述べてみよう。1937年5月以前にモウリンという人物を通じて接触はあった。厳密には、モウリンがバリウスとドゥルティの友に何らかのイデオロギー的影響を及ぼしたとは言えない。5月事件中は、お互いに何の協力関係もなかった。街路で出会い、どちらのグループも戦闘継続を呼びかけたモットーを載せたリーフレットを発行しただけだった。[133] しかし、どちらもCNT指導部を退かせるだけの力は持っていなかった。

1937年5月以後、POUM左派[134] (ホセプ=レブル)もドゥルティの友[135] (ハイメ=バリウス)も、共同行動を実現する目的でトロツキストが呼びかけた会合に参加することに合意しなかった。これは、「レーニン主義者の声」第二号と1937年7月6日付けのウォルフがトロツキーに送った報告に示されている。

フランスへの亡命と1939年以後になって初めて、ドゥルティの友にトロツキストの影響があった可能性が言及されるようになった。1940年4月にムニスがトロツキーに送った極度に楽観的な手紙[136] で確認されているように、この影響は、実際には、成功しなかった。

従って、ドゥルティの友に確たる影響を与えたグループなどなかったのである。我々が証明しようとしてきたこの主張は、歴史的記録によって現在示されていることだと確信している。しかし、CNTが検討していた侮辱的行為が聞き捨てにされなかったのも同様に確実であり、CNT闘士の大多数の目には、グループとしてのドゥルティの友はマルクス主義で「あるらしい」と映り、ドゥルティの友の闘士は常にその見解が権威主義だとか「マルクス主義」だとして記述された。例えば、ペイラツによる主張を取り上げてみよう。忘れてはならないが、彼は「無政府」の編集長であり、「思想」の寄稿者リストに載っていた。ペイラツは国家との協力に非常に批判的なCNT闘士であり、CNT指導部の幹部が大臣の職を受け入れたことに対するCNT反対派に深く関わっていた。1937年11月に、彼は、革命は敗北したと信じ、自分の反軍信念に反して、CNTの矛盾を理由に、ある種の自殺準備のつもりで「死を求めて」前線へ向かうことにした。しかし、ペイラツはドゥルティの友のシンパではなかった。1976年の口頭[137] インタビューで、彼は次のように述べていた。

質問:「ドゥルティの友」グループの設立と意図に気付いていましたか?彼等と接触していたのですか?

ペイラツ:このグループは5月事件の時期に出現しました。実際、その起源は、軍隊化のキャンペーンが始まった1936年秋に遡ることができると思います。当時、軍隊化を嫌がり前線を離脱した同志たちが数多くいました。

質問:ドゥルティが死亡する前ですか?

ペイラツ:そうです。ドゥルティが死ぬ前です。ただ、多くの同志が軍隊化を拒否したのは特に彼の死後でした。ドゥルティ縦隊はまだ民兵ユニットであり、第26師団ではありませんでした。相当数の人々が指示に逆らい、後衛に戻り、そこである種の雰囲気を創り出したのです。バルセロナの5月事件で戦ったのはこうした人々でした。他の闘士もいたのですが、攻撃の矛先を担ったのは彼等でした。事態があのような恥ずべき妥協で終わったとき、叛逆の旗を再び掲げた人々が「ドゥルティの友」グループを作り、その新聞「民衆の友」を出版し、連絡を取り合ったのです。しかし、彼等はほとんど影響力を持っていませんでした。何故なら、本物のアナキストではない人々がグループにいたからです。その人達は単なる革命家であり、そのことがある種の不快感を生み出しました。彼等は多くの人々から受け入れられたわけではなく、組織のモットーに従わないと言っても良いような人々にさえも受け入れられませんでした。私はここで自分の感じたことを述べているだけです。グループの人を知っているかどうかについてですが、私は「ドゥルティの友」に本当に共感したことは一度もありません。グループの傾向が非常に権威主義的だと思ったからです。「我々はこれこれこういうことを課そうと思っているが、それを行わない人は誰であれ・・・撃ち殺す」といった話をするため、むしろボルシェヴィキ的だと思ったのです。私が彼等の支持者ではなかったのはこの理由からでした。会議に何度か出席したこともありますが、常に彼等と議論をするためでした。彼等の何人かが示した態度によって、私達の多くは彼等を支援することから確実に手を引いたのです。そして、彼等は何も達成しなかったのです。彼等自身が自分達の活動の価値を下げたのです。従って、反対派が行う真の仕事は彼等の外部で行われたのです。(中略)結局、1937年10月頃に、私は疲れ切ってしまいました。卑劣な反革命が至るところにいたからです。そして、私は英雄的態度・自殺的態度を決め、心の中で考えました。「死が来るなら来い。だが、私は前線に行く。」私は志願兵として出発し、その時から後衛にはそれ以上何の関心も払わなくなったのです。

ペイラツの証言は、アナルコサンジカリズムの原理と心理の手がかりを提供している。ドゥルティの友は、ペイラツに依れば、権威主義者でありボルシェヴィキ的だった。この理由だけで彼等と付き合わず、軍国主義を受け入れ、ブルジョア反革命の進展に対し自殺的で受動的な態度を擁護するという極端な手段に訴えさえしたのだ。ペイラツは、亡命中に内戦中の公式的CNT史[138] を著すという任務をCNTから引き受けた。従って、革命の成功は権威主義以外の何者でもないということを受け入れられなかったのである。だが、これはアナキストが理解するのには非常に過酷な試練だった。

上記の全ては、トロツキストがレブルやドゥルティの友と全く接触していなかったという意味なのだろうか?違う。

どうあろうとも、POUM左派(レブル)とドゥルティの友(バリウス)は5月事件中に一度会っていたが、双方の組織の数字上の少なさと、ドゥルティの友が72細胞との共同声明発行を拒否したことで、そうした接触は実践的なことを何も生み出すことができなかった。[139]

5月事件以後、ドゥルティの友はCNT指導部によって関係を否定され、ドゥルティの友が常に組合集会からある程度の支持を保持していたため、そのメンバーは最終的にCNTから除名されなかったものの、CNT機関紙の使用を禁じられてしまった。ドゥルティの友グループが、POUM指導部に相談することなく、「戦闘」と「エディシオネス=マルキスタス」の担当責任者だったレブルに頼ったのはこのためだった。そして、レブルは最も基本的な--確かに危険はあったが--連帯義務を引き受け、POUMの機関紙にドゥルティの友が接することを認め、ドゥルティの友が5月8日にバルセロナで配布した声明文を印刷できるようにしたのである。[140]

これは、レブルがドゥルティの友に影響を及ぼしたという意味になるのだろうか?絶対に違う。ドゥルティの友の果てしない議論にモウリンが参加していたことが、トロツキストがこのグループに影響を及ぼしていたということを意味しているのだろうか?これも違う

ボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部の闘士とドゥルティの友の間に継続的な接触があったことは否定しない。ドゥルティの友の闘士の内にトロツキストが出版した秘密新聞を購読していた人がいたことも否定しない。[141]

だが、こうした接触はそれぞれのグループが作った地下出版物の交換だけに留まってはいなかった。1937年に非合法化された様々な組織は連絡を取り合い、財産と情報を共有し、そのことで、弾圧に対して立ち上がり、共通の秘密情況から戦いを継続したり、仲間の活動家に対する連帯を示したりしていた。例えば、POUMに対する見せしめ裁判で告発された人々との連帯を呼びかける継続的キャンペーンがそうである。あるいは、ナルウィッシュ船長(Captain Narwitsch)は警察のスパイであるという情報--POUMの闘士がトロツキストに伝えた情報--もそうである。サルメロン通りで「レーニン主義者の声」第三号と「民衆の友」の数号を出版していた印刷工バルドメロ=パラウは、同時に、地下出版社も運営していた。[142]

トロツキストとドゥルティの友メンバーは、1937年5月以前に接触してはいなかったし、5月事件中とその後の数週間に接触していたにも関わらず共同行動を行わなかった。にもかかわらず、POUM・ボルシェヴィキ-レーニン主義支部・ドゥルティの友の新聞が禁止された6月以後、様々な地下組織の間で連帯と協力の期間があり、闘士達の間には個人的友情も確かにあった。[143]

従って、様々なグループがドゥルティの友と接触していたが、我々は、ドゥルティの友に対する外部からの重要で決定的な影響があったとは厳密に語ることはできないのだ。接触があったか?あった。だが、影響は?ない。

トロツキスト・POUMメンバー・ドゥルティの友メンバー・アナキスト闘士の間に接触があったことについては既に詳細に扱ってきた。こうした接触は、議論と政治的討論・新聞の交換と配布だけでなく、反革命とスターリン主義弾圧に直面して連帯を示すという印象的で危険の高い行為にも至った。連帯は、歴史家が想像するような転向させるほどのイデオロギー的・組織的影響力というよりも、活動家の間の友情に近かった。閉鎖的で輝かしい大学歴史家ギルドにいる非常に浅はかで横柄で嘘つきで自惚れている聖人ぶった偽善者にさえも分かるように言えば、様々な組織が同志に援助を申し出るのは、それまでにその同志が「根性がある」ところを見せていたからであって、抽象的で曖昧なイデオロギー的影響力を働かせようとするからではないのだ。

だが、革命家の中にも連帯という言葉の意味を理解できない輩がいるかも知れない。

第十一章 結論と結びに当たっての覚書

ドゥルティの友グループは、アナルコサンジカリズム陣営にいる多くのグループ同様、親和グループだった。トロツキストからもPOUMからも全く影響を受けていなかった。そのイデオロギーとモットーはCNTの典型的表現形式だった。いかなる時でもマルクス主義イデオロギーを示していたとは言えなかった。いずれにしても、彼等はフランス革命時代のマラーの実例に大きく関心を示し、パリの地区集会主義運動・サンキュロット・アンラージュ・ロベスピエールとサンジュストの革命政府に強く引き付けられていたと述べる方がもっと適切かも知れない。

グループの目的は、CNTの矛盾に立ち向かい、イデオロギー的一貫性を与え、著名人と責任ある委員会の統制からCNTを奪い取り、CNTを階級闘争という根元に戻すことに他ならなかった。このグループは、譲歩に譲歩を重ねるというCNTの政策を、そしてもちろんアナルコサンジカリストが中央政府とカタロニア自治政府に協力していることを批判し、その政策に敵対すべく設立された。[144] 彼等は、革命の目的とアナキズムの根本・神髄であるイデオロギー諸原則とを破棄することに反対した。CNT-FAI指導者達は、反ファシズム団結を望ましいとし、情況に順応する必要があるとしてこれらを放棄したのだ。革命理論なくして革命はない。現実が惹起した最初のハードルに対して、こうした諸原則がなんの役にも立たず、放棄するしかないのだとすれば、自分達に原則などないのだと認める方がましだろう。スペインのアナルコサンジカリズムの最高指導者達は自身を有能な交渉者だと想像していたが、多くの操り人形がそうだったように操られてしまったのだ。[145] 彼等は全てを否認し、その見返りに・・・何も得なかった。彼等は日和見主義者だったが、良い日和は来なかったのだ。7月19日の蜂起には、権力を奪取し、革命を行うことのできる革命政党はなかった。CNTは、軍の反逆者が敗北したときに何をなすべきか考えていなかった。7月の勝利はアナルコサンジカリスト指導者達を当惑と混乱に陥れた。彼等は大衆の革命的ダイナミズムに追い越されたのだ。そして、次に何をすべきか分からず、他の政党と共に人民戦線政府を樹立するというコンパニイスの示唆に合意した。そして、アナキスト独裁か、戦争に勝つための反ファシズム団結と国家協力か、というインチキジレンマを事実だと仮定した。権力にどう対処するか全く分からなかったのだ。奪取できなければブルジョアの手に落ちてしまうという時なのに。スペイン革命は、プロレタリア階級革命理論としてのアナキズムの墓場だった。これこそが、ドゥルティの友グループの起源であり、その背後にある動機だった。

だが、このグループの境界線は非常に分かりやすく明確だった。その限界も同様だった。彼等がCNTとの決別を考えたことは一度もなかった。CNTが組織力学について全く無知だったが故に、除名を導かずに批判的・分離的活動を実行できたとしか考えられない。ドゥルティの友の場合、深刻な村八分とほとんど完全な孤立を被っても、CNTの一般組合員の間で享受していた共感のおかげで除名は免れたのだった。

このグループの最終目的は、CNT指導者を批判し、CNTの政府参画政策を終わらせることだった。7月の「利益」を保持するだけでなく、革命プロセスを遂行し、先に進めようとしたのだった。しかし、その手段と組織はなおも極度に限定されていた。彼等はバリケードの戦士だったのであり、上手いオルガナイザーではなかった。実際、優れたジャーナリストはいたものの、彼等は下手な理論家だったのである。5月に、彼等は大衆の自発性を完全に信頼した。公式的CNTプロパガンダに対抗できなかった。統制パトロールのメンバーである闘士達を利用することも組織することもできなかった。ドゥルティの友メンバーでCNTのロヒネグラ師団の代理人だったマクシモ=フランコに、1937年5月4日に「バルセロナに赴く」よう指示を出すこともできず、結果として、フランコはモリナの提案に従って(ロビラが率いていたPOUM縦隊同様)前線に戻っただけだった。[146] ドゥルティの友の活動の頂点は1937年4月後半に配布されたポスターだった。ポスターで、彼等はカタロニア自治政府を転覆し、革命フンタで置き換えるよう強く要求した。5月事件中にランブラスの幾つかのバリケードを管理した。全欧州労働者に対して[147] スペイン革命と連帯するよう求めた。有名な5月5日ビラをバリケード中に配布した。5月8日の声明文で5月事件を評価した。だが、彼等はこうしたスローガンを実行できなかった。縦隊を形成し、バレンシアの軍隊の進行を阻止すべく出発させることを示唆した。しかし、この計画が冷淡な評価を受けたことを踏まえ、彼等はすぐにこの考えを放棄した。5月事件以後、「民衆の友」の出版を始めた。CNTとFAIはこの新聞との関係を認めなかった。1937年6月、彼等はPOUMのように非合法化されなかったが、他のCNT組合員を襲った政治的迫害に悩まされた。その機関紙である「民衆の友」は第二号(5月26日)から秘密裏に出版され、その編集長であるハイメ=バリウスは連続的な懲役刑に耐えた。他のドゥルティの友メンバーは、サバデル市議会のブルーノ=リャド議員のようにその立場を失ったり、影響力を失ったりした。ドゥルティの友メンバーの大部分は、CNTから除名すべきだというFAIが発起した計画[148] に耐えねばならなかった。新聞を秘密裏に発行し続け、1938年の半ばには「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」というパンフレットを発行したにも関わらず、その時までに、反革命の成功は決定的・圧倒的となり、共和党は既に戦争に負けていた。

その主たる戦術計画は以下のスローガンに要約される。労働組合による経済管理・自治体連合・義勇軍に基づく軍隊・革命綱領・革命フンタによるカタロニア自治政府の置換・CNT-FAI-POUMの共同行動。

ドゥルティの友の歴史的・政治的意義を要約するならば次のように述べねばならない。これは、CNT-FAIの協調主義を潰し、7月の革命的「利益」を防衛し発展させる革命的前衛を設立しようという、リバータリアン運動の内部に起源を持つ、未遂に終わった企てだったのだ。

この企てが未遂に終わったのは、彼等がスローガンを実践に移すことができないだけでなく、自分達の考えを効果的に普及させ、その考えのためのキャンペーンを行う実践的指針を示せないことを露呈したからである。ドゥルティの友はFAIの親和グループとして作られた。多分、恐怖におののいたブルジョア階級と変装した聖職者は、彼等を猛獣だと見なしただろう。しかし、グループのメンバーは、バリウスとカリェハスのようなジャーナリスト、パブロ=ルイス・フランシスコ=ペリィセル・マクシモ=フランコのような民兵縦隊指揮官、ブルーノ=リャドのような議員だった。グループの遙か昔の起源について、1932年1月の北部リョブレガト地方の暴動における革命的経験を共有するリバータリアン達に、そして、1934年と1936年のFAI「レナセル」親和グループに遡らねばならない。もっと直接的な起源は民兵の軍隊化に対する反対(特に、ヘルサ支部と鉄の縦隊における)と、「労働者の連帯」(1936年7月から10月初旬)・「思想」「夜」(1937年1月から5月)において発表された記事(特にバリウスのもの)で示された革命的利益の防衛とCNT協調主義批判にある。そのキャンペーン手段はビラ・ポスター・新聞・バリケードだった。だが、分裂や決裂を手段として考えたことは一度もなく、CNTの反革命役割を暴露したり、5月事件中にCNT-FAIの敗北主義的忠告を論駁するためにCNT指導者と対決したりした程度だった。

しかし、ドゥルティの友の歴史的重要性を否定することはできない。その重要性は、まさに、リバータリアン運動の協調主義政策に内部から反対したという状態にある。彼等が出現したことの政治的重要性をすぐさま認めたのはニンだった。ドゥルティの友がCNT大衆による革命路線の支持とCNTの融和・協調政策への反対という可能性を提起しているが故に、ニンは期待を寄せた賛同的記事を彼等に捧げたのだ。[149]

だからこそ、POUMとトロツキスト[150] はドゥルティの友をその影響下に置くことに関心を示したのである--これは一度も成功しなかったが。

アナキズム思想に対するグループの理論的貢献は以下のように要約できる。

1.革命綱領が必要である。

2.資本主義国家を革命フンタで置き換え、革命フンタは反革命による必然的攻撃から革命を防衛する用意をしなければならない。

アナキストの伝統的な政治的無関心は、CNTが革命理論を持っていなかったことを意味していた。理論がなければ革命はない。権力を引き受けることができないということは、資本主義国家の手中に権力を残すことを意味する。ドゥルティの友グループの推定では、CAMC(中央反ファシズム義勇軍委員会)は階級協調機関であり、ブルジョア国家を下支えし、強化することだけを目的としていたのであって、ブルジョア国家を破壊できるわけでも破壊しようとしたわけでもなかった。だからこそ、ドゥルティの友は革命フンタを設立する必要性を擁護し、無数の労働者による地元・防衛・工場・民兵などの諸委員会権力--こうした諸委員会だけで7月19日から9月26日まで権力を保持していた--を調整し、集中させ、強化できるようにしようとしたのだ。この権力は数多くの委員会の間に分散され、全ての権力が地元で保持されていたが、お互いに連合できず、集中できず、強化できなかったため、CAMCによって人民戦線評議会へ、組合化された企業の取締役会と共和国軍大隊へと導かれ、数を減らされ、変形させられてしまった。資本主義国家が徹底的に破壊されなかったため、1936年7月の革命的出来事は新しい労働者権力構造に道を開く事ができなくなった。革命プロセスの没落と最終的消滅は必然だった。だが、CNT-FAIの改良主義アナキズムとドゥルティの友の革命的アナキズムとの緊張関係は、双方の対照的姿勢を明らかにする対立を喚起するのに充分なほど明確でも著しくもなかった。

従って、ドゥルティの友が提起した政治思想はアナルコサンジカリズムのイデオロギーの範囲内でスペインの戦争と革命の現実を引き受けようとする試みだったが、CNT組合員がそれを拒絶した主たる理由の一つは、その権威主義的・「マルクス主義的」・「ボルシェヴィキ的」趣だった。このことから、ドゥルティの友はカル=デ=サク(袋小路)にはまってしまったと結論付けることができよう。CNT指導者幹部の協調路線と反革命の進展を受け入れることはできなかった。しかし、スペイン革命の経験を理論化した際、つまり、カタロニアのブルジョア共和主義自治政府を転覆するために革命フンタが必要であり、反革命分子を弾圧するために武力を行使しなければならないと結論付けた際、彼等はマルクス主義者で権威主義者だと呼ばれ[151] 、その結果CNT一般組合員の中から新しいメンバーを補充する機会を失ってしまった。ドゥルティの友のジレンマは、戦争と革命が提起した諸問題にスペインのアナルコサンジカリズム理論が果敢に立ち向かうことができなかったことの反映に過ぎなかったのではないだろうか。

結びに当たって、一つの覚書を示さずにこの研究を終えるわけにはいかない。我々は、歴史の読み手という立場で、学問的客観性[152] だと称されていることの背後に隠れ、労働運動にいる人々と組織とを嘲笑うために、中傷し審査し非難し攻撃し笑いものにする--全てがブルジョアの観点からだ--人々に対して政治的反感と否認を表明する。使っている方法論が事実の曲解と最も愚劣なナンセンスに他ならないかもしれないのに、彼等は当然科学的で片寄らないと考えているのだ。

ドゥルティの友とCNTの政治的立場についてここで述べた批判が時として非常に辛辣だと考える人もいよう。そうした人々が、同時に、我々の見解を厳格で階級に根差したものだと見なしてくれれば、それで満足せねばなるまい。我々の返答は次のようになろう。プロレタリア階級を敗北させるべく精力を傾けた弾圧はもっと過酷だったのだ。

バリウスは、ブルジョアと聖職者の恐怖が1937年に描写したような、また、今日「Benedictines of Montserrat」というカタロニア自治論の出版社から出ている「漫画」や、大学にいる相当数の歴史家から根拠のないナンセンスによって示されているような、不具で血に飢えた怪物ではなかった。バリウスは謙虚で知的で正直な人間だったし、一貫して非妥協的で、極度に良識的な革命家だった。しかし、バリウスが、恐怖におののいた聖職者とブルジョア階級が想像していたような悪魔だった--そうではなかったが--としても、ドゥルティの友に関する我々の評価を微塵も変えはしない。我々は、まさに、ドゥルティの友グループとして知られる革命家の一群の限界をこの研究で認め、分析し、繰り返し強調していたからこそ、労働者階級組織のメンバーに敬意を表すことなく、終えるわけにはいかない。彼等は、プロレタリア階級の階級意識を体現し、任意の時点で、限界と欠点を充分補足しながら、革命的前衛の役割を満たそうと奮闘したのだ。

バルセロナでは、ドゥルティと「彼の友人達」に関わる憎しみと軽蔑の表現を階級の敵の口から耳にすることがあったし、今も聞くことができる。しかし、労働者階級の仲間内では、神話的なドゥルティ、その葬儀で行われたプロレタリア階級の大規模デモ、ドゥルティの友メンバーの不屈の叛逆、7月19日の革命的アナキストの饗宴が、尊敬の念を持って常に語られてきた。フランコ主義が蔓延する長い暗黒期間、匿名の手がドゥルティとアスカソの墓標なき墓に悪口を書き殴っていた。神話を尊重するのは歴史家の仕事ではない。しかし、中傷・虚偽の記述・侮辱が歴史的物語になりすましている際、それに立ち向かうことは歴史家の仕事である。

我々はこの報われない仕事に取り組んだが、階級闘争に関わる教訓を引き出したいと思う。二つの像を心に描くことで充分だ。まず第一に、腰が低く口が上手く多弁な7月21日のコンパニイスである。彼は、アナキストが軍のファシストを一掃し、権力が街路にあったという理由で、反ファシズム戦線政府にアナキスト指導者の場所を作ろうと申し出た。二つ目は、追いつめられた厚かましいコンパニイスである。彼は、CNTの施設を爆撃するよう空軍に命令して欲しいと5月4日の共和党政府に嘆願した。革命と戦争のフィルムはこれら二つの像の間を流れている。

1937年5月は1936年7月に孵化していた。ドゥルティの友グループは、革命は全体主義であるか、さもなくば敗北すると悟った。そこにこそグループの大きな功績がある。




[1] 「思想」(バホ=リョブレガト)、第24号(1937年6月17日)、4ページに記載。

[2] エルネスト=ボノミニは、「ヴォロンタ」、第11号(1947年5月1日)に5月の事件の目撃証言を書いている。

[3] 「民衆の友」、第4号(1937年6月22日)3ページ、"El asalto a la Telefo'nica"

[4] スペインのアナキズムは、例えば反ファシズムという傘やそれ以前の共和主義同盟が作り出した曖昧な輪郭よりも、極端な対照に満足していた。「我ら、スペインのアナルコサンジカリストは、とことんまで弁証法原理に忠実だった。我々は、自由主義政府や改良主義政府を、内なる競争の感情から、我々の特別な怒りの標的とした。我々は失業手当よりも失業者の列を選ぶ。ボスの奴隷になるか協同主義の奴隷になるか選べる以上、我々は前者を選んだ。そして、断固として後者を拒絶した。」--ホセ=ペイラツ著、Examen critico constructivo del Movimiento Libertario Espan~ol (Editores Mexicanos Unidos, Mexico DF, 1967) p. 42.

[5] 「思想」、第4号(1937年1月21日)、4ページ

[6] 「道程」(バルセロナ)、第13号(1937年1月7日)、6ページ、"Centralismo."

[7] 「民衆の友」、第2号(1937年5月26日)の第一面に次の記事がハッキリと示されている。「我々はいかなる停戦条約にも反対である。スペインの労働者が流した血は堅牢な防波堤であり、地元出身の政治家と世界中にいる資本主義の外交家が出資している陰謀を打倒するだろう。勝利か、死か。他の解決などあり得ない。」「思想」紙や「道程」紙などの紙面も、戦争を外向的に解決し、スペイン労働者の手から物事を奪い取ろうと策定された怪しげな陰謀に対して同じような反抗的態度を示していた。

[8] ホセ=ペイラツ著、「スペイン革命におけるCNT(Ed. Madre Tierra, Madrid, 1988, Vol. 11, p. 220) は、CNT全国委員会が1937年5月23日の全国地方支部会議で到達した合意のレジュメを引用している。

[9] 「民衆の友」、第2号、1937年5月26日、3ページ。ドゥルティの友は辛辣に次のように付け加えている。「連合のあらゆる指針に違反して、誰かが、集会と闘士の頭上を飛び越え、自分を将軍だと見なし、誤りを犯し続けているのならいつでも、その人には--一縷の尊厳が残っているとすればだが--非難される以外に選択肢などない。ガルシア=オリベルこそこの条件を満たしているのだ!」

[10] 「民衆の友」、第8号、1937年9月21日、2ページ。「ペスターニャの加入許可は、広い連合諸集団の帯の中にブルジョア民主主義のメンタリティの侵入を承認することである。同志達、注意せよ。」

[11] 「民衆の友」、第4号(1937年6月22日)、3ページ、"En defensa propia: Necesito una aclaracio'n." 「私は、マルクス主義者というレッテルが自分に幾度となく貼られていることに愕然としている。私は、100%革命家なのに。」このコメントは、マルクス主義者は100%革命家ではない、とバリウスが見なしていることを示している。だが、ドゥルティの友は、POUMが1937年5月にバルセロナの市街戦で上手く立ち回ったことを認めるほど充分に寛大だった。マルクス主義をこのように拒絶していることは、資本主義経済のマルクス主義分析に対してではなく、社会変革に対するマルクス主義の手段に対して、記述的要素ではなく、規範的要素に、当てはまるだろう。

[12] ホセ=ペイラツ著、「スペイン革命におけるCNT Vol 11, p. 147. ペイラツは、「革命フンタがバルセロナで形成された」(強調は筆者)で始まるテキストを再掲している。セサール=M=ロレンソは、ペイラツが示したこの文章を再掲している。だが、ペイラツのテキストは引用文ではなく、誤った言い換えである。

[13] セサール=M=ロレンソ著、「スペインのアナキストと権力」(Ruedo Iberico, Paris, 1972) p. 219, n. 32.

[14] ロレンソが引用しているリーフレットの全テキストは、ヘンリ=チャセ著、Chronique de la revolution espagnole: Union Communiste (1933-1939) (Paris, Cahiers Spartacus, 1979) pp. 114-115 で見ることが出来る。ヒュアン=ゴメス=カサス著、Anarchist Organization: The History of the FAI(Black Rose Books, Montreal-Buffalo, 1986, p. 210) は、ロレンソの奇妙な脚注を、あたかもドゥルティの友のテキストであるかのように、無批判に再掲している。

[15] ヘンリ=チャセ著、前掲書、 p. 82 (L'lnternationale No 33, December 18, 1937 より)

[16] 共和国「同盟」に対する憤慨は、1937年の夏以前に広がっていた。アナキストの無邪気さを辱めた議論すらあった。「原則をハッキリさせておこう。自分達に不実の人にいかなる忠義も負うことはない。秘密裏に我々を裏切る人を尊敬する義務などない。強制しても罰を受けない程の力を持ったとたんに我々を強制しようとする人に寛容になる義務などない。この原則が、我々の自由を取り上げる人の自由を尊重するよう義務づけるはずがないのだ。」(Beobachter, in Ideas No 29, August 6, 1937).

[17] スサーナ=タベラとエンリック=ウセライ=ダ=カル共著、"Grupos de afinidad, disciplina bélica y periodismo libertario 1936-1938" in Historia Contemporanea, 9, (Servicio Ed. Universidad del Pais Vasco, 1993) pp. 184.

[18] ドゥルティの友に関する最も重要な研究は次の通り。
- Francisco Manuel Aranda: "Les amis de Durruti" in Cahiers Leon Trotsky No. 10 (1982);
- Jordi Arquer: Histo'ria de la fundacio' i actuacio' de la "Agrupacio'n Amigos de Durruti" Unpublished;
- Georges Fontenis: Le message re'volutionnaire des "Amis de Durruti" (Editions L, Paris, 1983);
- Frank Mintz and Manuel Pecin~a: Los Amigos de Durruti, los trotsquistas y los sucesos de mayo (Campo Abierto, Madrid, 1978);
- Paul Sharkey: The Friends of Durruti: A Chronology (Editorial Crisol, Tokyo, May 1984)

[19] ハウメ=アントン=アイガデルの供述書に依れば、アルテミ=アイガデの姪は、1946年8月9日にメキシコシティで参考人立ち会いの下で署名した。「5月の事件当時、カタロニア自治政府は、CNTの建物を爆破するためにスペイン政府に航空機を求め、スペイン政府はその要求を拒否した。」この発言は、コンパニイスと中央政府との間でやり取りされたテレタイプメッセージによって裏付けられている。そのメッセージの中で、1937年5月4日に、カタロニア自治政府の大統領は、反逆者が街路で大砲を持ちだしたことを内閣次官に伝え、プラト=デ=リョブリガト空軍基地の司令官フェリペ=ディアス=サンディーノ中佐がカタロニア自治政府の意のままに動けるようにして欲しいと求めた。「カタロニア自治政府大統領は、内閣次官に報告する。反逆者が大砲を街路に持ちだしている。カタロニア自治政府の意のままにサンディーノが動けるよう命じて頂きたい。」(フーバー協会に保管されている文書より)

[20] ディエゴ=アバド=デ=サンティリャンの供述書より。

[21] バーネット=ボロテンの質問書に対するガルシア=オリベルの解答(1950年前半のもの)を参照(フーバー研究所に保管)。「2月の選挙について、CNT-FAIは以下の路線を採用した。この路線は、集会でだけでなく文書を通じてもスペイン全土に次第に広がった。次の選挙は、スペイン民衆にとって決定的なものになる。労働者階級が左翼に投票すれば、左翼が権力を握る。だが、私達は、軍部と、権力掌握を目的とする右翼による蜂起と対決しなければならないだろう。労働者階級が左翼に投票しなかった場合、これはファシズムの合法的成功を意味する。私達としては、投票については労働者階級が好きなようにすればよいとアドバイスする。ただ、左翼に投票しなければ、ファシズムの勝利から6ヶ月と経たない間に、私達は武器を手にしてファシスト右翼に抵抗しなければならなくなる。当然、スペインの労働者階級は、長年にわたり投票しないようにCNTからアドバイスされ、私達のプロパガンダを私達が望んでいたように解釈した。つまり、投票すべきだ、と解釈したのである。右翼が叛乱を起こし、すぐさま敗北し、政府から手をひくなら、ファシスト右翼に対して立ち上がった方が常によいのだから。1936年2月の選挙で左翼は勝った。コンパニイスがカタロニア政府となり、左翼がスペイン政府になった。私達は公約を守った。だが、彼らは公約を一つとして守らなかった。武器を一つとして支給せず、ファシスト軍の陰謀に対して先手を取った行動をとることもなかったのだ。

[22] ファシスト叛乱の壊滅を受けて行われたコンパニイスとエスコフェトのやり取りを参照。
「大統領。」と私は言った。「公式伝聞をお伝えします。叛乱は完全に敗北しました。(中略)」
「素晴らしい、エスコフェト、実に素晴らしい。」大統領は応えた。「だが、情況は混乱している。手に負えない武装した屑どもが街路に殺到し、あらゆる不法行為を犯している。いずれにしても、重武装したCNTこそがこの都市の主人だ。彼らに対して何が出来る?」
「当分、私達は皆、押し流されます。CNT指導者自身も含めて。大統領、唯一の解決策は、私達各々の権威が見捨てられないようにしながら、情況を政治的に押さえ込むことです。あなたがその点について上手くやれるなら、私は、あなたが命じたとき・情況が許したときに、バルセロナを掌握することを約束します。[フェデリコ=エスコフェト著、De una derrota a una victoria : 6 de octubre de 1934-19 de julio de 1936 (Ed. Argos-Vergara, Barcelona, 1984, p. 352)]

[23] ガルシア=オリベルは、コンパニイスとの会談での答弁の中でこうした疑問の多くを直接的・間接的に扱っている。「軍部-ファシストの蜂起は、まさに予測したとおりに行われた。コンパニイスはバルセロナの警察本部に撤退した。私はそこで彼と会った。7月19日の朝7時だったはずだ。彼は、次に起こり得ることの結果を恐れていた。予期していたからだ。バルセロナにいる軍の連隊全てが叛乱を起こすとすぐに、連隊は全ての反対勢力を容易く一掃するだろうと。だが、ほとんど自力で、CNT-FAI勢力は、この記念すべき二日間、持ちこたえた。壮大で苦々しい闘争の後、(中略)私達は全ての連隊を打ち負かした。(中略)こうした根拠があるにも関わらず、コンパニイスはCNT-FAIの代表者が目の前にいることに当惑し、ショックを受けていた。彼に考えることが出来た事といえば、私達の予測に注意を払うことが出来なかったがために、私達とスペイン民衆に関して自分が重責を負っているということだけだった。このために、当惑していたのだ。(中略)彼らが私達に対して行った公約を守らなかったにもかかわらず、バルセロナとカタロニアのCNT-FAIは反逆者を打ち負かした。このために彼はショックを受けていたのだ。(中略)従って、私達を呼んだとき、コンパニイスは次のように述べたのである。『私に対して、君達が数多くの不平や不満の根拠を持っていることは分かる。私は君達と大々的に敵対し、君達のありようを充分理解することが出来なかった。しかし、誠実な謝罪をするのに遅すぎることはないし、私の謝罪、今私が提案しようとしていることは、懺悔と同じだ。君達の価値を認めていたなら、今の情況は違っていたかも知れない。だが、今や遅すぎる。君達だけで反乱軍を打ち負かしたのだから、理屈から言って、君達が統治するべきだ。これが君達の見解ならば、カタロニア自治政府大統領の座を君達に喜んで渡そう。そして、君達が私が別な場所で役に立つと考えるならば、私の持ち場を告げてくれるだけで良い。しかし、もし、スペインの他の場所で誰が勝利したのか今はまだ分からない以上、私がカタロニア自治政府最高会議の正当な代表として行動することが有用かも知れないと考えるならば、そのように述べて欲しい。そこから--常に君達の合意と共に--誰が勝者かハッキリするまでこの戦いを継続していこう。』私達からすれば--これはCNT-FAIの見解だったのだが--コンパニイスは自治政府の長として居続けるべきだと考えていた。まさに、私達は、厳密に社会革命のために戦うためではなく、ファシスト叛乱に対して自衛するために街路に出たのだから。」(フーバー研究所に保管されているボロテンの質問書に対してガルシア=オリベルが1950年に答えた回答より)
ガルシア=オリベルの証言は、フェデリカ=モンセニーの証言と並置してみる必要がある。「誰がどう突飛な想像をしても、私達の中で最もボルシェヴィキ的だったガルシア=オリベルの想像力でさえ、革命権力を奪取するという考えは起こらなかった。一か八かやってみるべきかどうか議論が始まったのは、その後、大激動の規模と民衆の発意がハッキリしたときだった。」[アベル=パス著、Durruti: El proletariado en armas (Bruguera, Barcelona, 1978, pp. 381-382)]

[24] 中でも最も興味深い本は、アベル=パス「Durruti: El proletariado en armas」、治安警備隊のフランシスコ=ラクルス「El alzamiento, la revolución y el terror en Barcelona」、カタロニア自治政府治安委員エスコフェトによる上記の本、アバド=デ=サンティリャンとガルシア=オリベルの回顧録である。標準的テキストとしては、バーネット=ボロテン著「La Guerra civil espan~ola: Revolucio'n y contrarrevolucio'n」(Alianza Editorial, Madrid, 1989)、ピエール=ブルース(Pierre Broue)著「Staline et la revolution. Le cas espagnol 」(Fayard, Paris, 1993)が必読である。

[25] もちろん、これは一定の政治的観点の表明であり、共有されていたかどうかは分からないが、ここでは、使い古された有りもしない学問的客観性を装ったり、それに訴えたりすることなく、あるがままを率直に並置している。

[26] バレンシアの人民執行委員会やマドリーの防衛委員会もそうだ。

[27] バリウスの主張を参照。「資本主義強制機構の破壊に対して、即座に、労働者・農民・民兵・水兵の様々な委員会が設立された。委員会が設立されなかった工場・労働者階級地区・村落・民兵部隊・船舶は一つとしてなかった。委員会は究極の権威であり、その布告と合意は固守されるべきものであった。その正義は革命的正義であり、他のすべてを排除しており、(中略)緊急の革命的要件こそが唯一の法だった。委員会の大部分は、党派に関わらず、労働者・民兵・水兵・農民が民主的に選んだ。つまり、大部分の委員会はプロレタリア民主主義を主張し、それがブルジョア議会制民主主義に取って代わっていたのである。手短に言えば、仕事場の権力は、労働と労働者だけだったのだ。
一般に、委員会が設立されると、ブルジョア階級と地主の収用が実行された。(中略)武器についても同様の権力移行があった。(中略)義勇軍が設立された。(中略)生まれつつある新しい革命秩序の維持に責任を持つ統制パトロールが設立された。(中略)
スペインのプロレタリア階級が出した答えは(中略)非常に明確で知的だった。反動は街路で鎮圧され、経済的に収用された。プロレタリア階級が国の決定者として自立したのである。(略)
(1971年4月1日の「Le Combat syndicaliste」に掲載されているハイメ=バリウス著、"Recordando julio de 1936"より。バリウスのこの論説は、G=ムニス著「Jalones de derrota, promesa de victoria」(Zero, Bilbao, 1977)の292~294ページから一字一句全文を盗用している。)

[28] 例えば、ガルシア=オリベルが断定した明確で根元的な選択肢を参照して欲しい。「社会革命と義勇軍委員会の間で、この組織は義勇軍委員会を選んだ。」(ヒュアン=ガルシア=オリベル著、「El eco de los pasos Ruedo Ibe'rico, Paris-Barcelona, 1978, p. 188)

[29] ムニスは、7月の出来事以後、委員会の統治権だけが残っていた、と強く主張している。「7月19日以後の数週間の情況をもっと正確に特徴づけるとすれば、権力がプロレタリア階級と農民の手に広がった、と定義しなければならない。こうした人々は、国中で自身の権力を調整する必要があると認識できていなかったが、地元地域の権力を十全に認識していた。こうした初期の数週間で、ブルジョア政府は、新興の労働者権力と戦うだけの能力と意思を失っていた。二重権力について語られたのはもっと後になってからだった。その時には、人民戦線政府は、自身が生き残っていることを認識し、集められるありとあらゆる武装勢力で身の回りを固め、プロレタリア階級と農民からなる様々な委員会との権力闘争に取りかかっていた。」(G=ムニス著、"Significado histo'rico del 19 de julio" in Contra la corriente No. 6, Mexico, August 1943)
ここでは、1936年7月19日以後の期間--つまり、1936年10月初頭から1937年5月まで--にムニスが提起した二重権力テーゼの分析には立ち入らない。イタリア分派の立場とムニスの立場との違いは、ボルディガ主義者は資本主義国家の徹底的破壊がなければ革命について語ることはできないと考え、ムニスはブルジョア国家を一時的に失墜させるという方針を取ったという事実にある。ここでは、この相違を指摘するだけにし、この問題をこれ以上精査しない。ここで示そうとしているのは、CAMCが階級協調主義機関として果たした役割なのである。

[29] ムニスは、7月の出来事以後、委員会の統治権だけが残っていた、と強く主張している。「7月19日以後の数週間の情況をもっと正確に特徴づけるとすれば、権力がプロレタリア階級と農民の手に広がった、と定義しなければならない。こうした人々は、国中で自身の権力を調整する必要があると認識できていなかったが、地元地域の権力を十全に認識していた。こうした初期の数週間で、ブルジョア政府は、新興の労働者権力と戦うだけの能力と意思を失っていた。二重権力について語られたのはもっと後になってからだった。その時には、人民戦線政府は、自身が生き残っていることを認識し、集められるありとあらゆる武装勢力で身の回りを固め、プロレタリア階級と農民からなる様々な委員会との権力闘争に取りかかっていた。」(G=ムニス著、"Significado histo'rico del 19 de julio" in Contra la corriente No. 6, Mexico, August 1943)
ここでは、1936年7月19日以後の期間--つまり、1936年10月初頭から1937年5月まで--にムニスが提起した二重権力テーゼの分析には立ち入らない。イタリア分派の立場とムニスの立場との違いは、ボルディガ主義者は資本主義国家の徹底的破壊がなければ革命について語ることはできないと考え、ムニスはブルジョア国家を一時的に失墜させるという方針を取ったという事実にある。ここでは、この相違を指摘するだけにし、この問題をこれ以上精査しない。ここで示そうとしているのは、CAMCが階級協調主義機関として果たした役割なのである。

[31] ヒュアン=ガルシア=オリベル著、「El movimiento libertario en Espan~a」(2)Coleccio'n de Historia Oral. Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, 出版年不詳。

[32] アベル=パスが「Viaje al pasado (1936-1939) 」(Ed. del Autor, Barcelona, 1995, pp. 63-64) で示している詳細な記述を参照。
防衛委員会は、軍部クーデターの際に、革命委員会へと転じた。カタロニアの中央反ファシズム義勇軍委員会が設立されると、革命委員会はCAMCの権威を無視した。その活動は、「CNT-FAIの家」に根差した地元地域の組織化を導いた。CNT-FAIの高次委員会権力の中で、こうした委員会は一つの権力となった。だが、革命委員会こそが真の権力であり、高次委員会の権力よりも大きかった。個々の地区委員会は思うままに使えるそれ自体の防衛グループを持っていた。グループの構成メンバーは曖昧で、6人から10人の範囲であった。こうした同志達個々人が、ライフルを持ち、拳銃を恒久的に自分のものとしていたことさえあった。私が活動していたクロット地区には、15の防衛グループがあった。控えめに見積もっても、およそ100丁のライフルがあったわけだ。だが、この強さには、クロット地区に根差した工場グループを付け加えねばならない。工場グループも自身の防衛グループを持ち、マシンガンに至るまでの武器を持っていた。最後に、リバータリアン青年グループとアナキストのグループも含めなければならない。こうした雑多なグループが、私達の地区の防衛委員会が共に活動しなければならない要素だった。

[33] 例えば、コンパニイスが7月25日にCAMC本部に対して騒擾と暴徒の活動への抗議書に署名するよう呼びかけた際のガルシア=オリベルの強迫的で侮蔑的あしらいを参照。ヒュアン=ガルシア=オリベル著、「El Eco de los Pasos」、前掲、pp. 193-194.

[34]バランス」の本号(第三号)の第二章に示している革命とスペイン内戦の性質に関するこのテーゼが詳しく説明されている。また、スペイン内戦に関するイタリア分派(ボルディガ主義者)のテーゼを検証している「バランス」第一号も参照。

[35] H=ラゲル・J=M=ソレ・J=ビリャロヤは、カタロニアのアナキズム運動に対して中傷的見解を示し、ハイメ=バリウスやアントニオ=マルティンを獰猛な鬼だと述べた。彼らは、ブルジョア的で聖人ぶったカタロニア独立主義の「中立性」を信奉している。例えば、ベネディクト会修道士のH=ラゲルは「Divendres de passio'. Vida i mort de Carrasco i Formiguera」という本の256ページ~258ページで、そして、J=M=ソレ=サバテとJ=ビリャロヤ=フォントは「La repressio' a la reraguarda de Catalunya (1936-1939) 」(Pub. Abadia Montserrat, Barcelona, 1989)の67ページと68ページでバリウスを非難した。この非難は、適切な革命的状況の文脈から切り離された、全くの誇張だった。また、セルダーニャのアナキスト政府(フランス国境をアナキストが完全に管理していた)、ベルベルの血なまぐさい事件(バルセロナでの5月事件に直接先行する事件であり、その後にカタロニア自治政府がこの国境地域の絶対的統制を掌握した)についてカタロニア独立主義者の見解を示した小冊子についても言及する価値がある。J=ポンス=イ=ポルタ・J=M=ソレ=イ=サバテ共著「Anarquia i Republica a la Cerdanya (1936-1939) El "Cojo de Ma'laga" i els fets de Bellver」(Pub. Abadia Montserrat, Barcelona, 1991)を参照。強調しなければならないが、これらの本は全て、モンセラト修道院の発行所が出版している。もちろん、このことは、明らかなイデオロギー隷属を示している。こんなことで、ハイメ=バリウスとアントニオ=マルティンの「客観的」評価が妥当だなどと受け入れることはできないし、ましてや、リバータリアン運動について彼らがひっきりなしに示している幻覚・中傷・偏見を受け入れることなどできないのだ。
スサナ=タベラとエンリク=ウセライ=ダ=カルは「Hist'oria Contempora'nea」第9号(Servicio Ed. Universidad del Pais Vasco, 1993)に掲載されている "Grupos de afinidad, disciplina belica y periodismo libertario, 1936-1938" という論文でバリウスに関するナンセンスと恥知らずな見解を示し、リバータリアン運動について中傷的見解を示している。これは、衒学的な学者の観点から発表されており、1930年代に見られたアクショングループ・労働組合・労働者のクラブ・ゼネストの意味を理解できていない。
逆に、リバータリアン運動に関するジョーセプ=エデュアルド=アドスアルの論文は興味深く、啓発的であり、読む価値が充分ある。例えば、「L'Avenc(訳註:cはセディーユ)」第14号(1979年3月)掲載の "El Comite' Central de Milicies Antifeixistes" や「Anthropos」第138号(1992年11月)に掲載されている "La fascinacio'n del poder: Diego Abad de Santilla'n en el ojo del huraca'n" を参照。また、評論誌「Historia Oral 」第三号(1990年)にはアンナ=モンホとカルメ=ベガによる "Clase obrera y guerra civil" と "Socializacio'n y Hechos de Mayo" という非常に興味深い論文が掲載されている。もちろん、同じ著者等による「Els treballadors i la guerre civil. Historia d'una indu'stria catalana colectivitzada」(Empuries, Barcelona, 1986)も参照して欲しい。

[36] 「鉄の縦隊」についてはアベル=パスの素晴らしい研究「Cro'nica de la Columna de Ferro」(Hacer, Barcelona, 1984)を参照。1936年9月と10月に、「鉄の縦隊」は後衛(バレンシア市)の浄化に関わる衝撃的事件に参加した。国家に仕えている武装兵団の武装解除と解散、そして現場へのメンバーの派遣という要求に応えるべく前線からバレンシアへ移動したのである。義勇軍軍隊化の拒否は、他の全ての連合縦隊同様、「鉄の縦隊」内部でも論議された。結局、この縦隊の集会は軍隊化を承認した。そうしなければ、武器・給料・食糧をもらえなくなるからだった。しかしまた、縦隊が解散した場合には、民兵が他の既に軍隊化された部隊に入隊しかねない危険もあった。

[37] フランク=ミンツ著「La autogestio'n en la Espan~a revolucionaria」(La Piqueta, Madrid, 1977)295ページ~308ページ。アベル=パス著、前掲書、275ページ~294ページ。ポール=シャーキー著「The Friends of Durruti: A Chronology」(Editorial Crisol, Tokyo, May 1984)。

[38] ハイメ=バリウス・パブロ=ルイス・フランシスコ=ペリィセルは、1937年4月19日(日)にポリオラマ劇場でドゥルティの友が開催した会議を裏で仕掛けた主導的オルガナイザーであった。

[39]」紙3545号(1937年3月24日)のハイメ=バリウスによるパブロ=ルイスのインタビュー;「民衆の友」第5号(1937年7月21日);ポール=シャーキー著、前掲書を参照。

[40] "Ponencia que a la Asamblea del Sindicato presenta la seccio'n de periodistas para que sea tomada en consideracio'n y elevada al Pleno y pueda servir de controversia al informe que presente el director interino de Solidaridad Obrera" 1937年2月21日と22日、バルセロナ、ジャーナリスト部門の集会を代表して。[Archivo Histo'rico Municipal de Barcelona(AHMB)に保管されている文書]

[41]労働者の連帯」に掲載された新しい記事の幾つかを参照。
"La ciudad de Barcelona" (August 18, 1936),
"En el nuevo local del Comite de Milicias Antifascistas" (August 23, 1936),
"Ha caido en el cumplimiento de su deber" (October 3, 1936),
"Los galeotos de la retaguardia" (October 4, 1936),
"Solidaridad con los caidos. . ." (October 9, 1936),
"Los pa'jaros de la revolucio'n" (October 16, 1936).
また、「労働者の連帯」の1936年9月号と10月号に、ミンゴ・フロレアル=オカニャ・ヒルベルトなどの署名で掲載された、バリウスの記事と同様の記事も参照。

[42] バリウスのレギュラーコラムは "Como en la guerra" という見出しで、時として記事に署名がないこともあった。他にもコラム執筆者がいたが、エンデリスもレギュラーコラムを書いていた。

[43] 一面に載ったバリウスの署名がされた記事の幾つかを参照。
"No podemos olvidar. 6 de octubre" (October 6, 1936),
"la revolucio'n no ha de frenarse. El le'xico de la prensa burguesa es de un sabor contrarevolucionario" (October 15, 1936),
"Como en la guerra. En los frentes de combate no han de faltar prendas que son indispensables para sobrellevar la campan~a de invierno" (October 16, 1936).

[44]労働者の連帯」(1936年10月11日)に匿名で載った論説(バリウスが書いたものであろうとなかろうと)を強調しないわけにはいかない。この論説は、"Ha de constituirse el Consejo Nacional de Defensa" と題されていた。後に「民衆の友」に掲載され、ドゥルティの友の革命綱領の最も独創的点の一つ、すなわち、革命フンタもしくは全国防衛評議会の形成に言及していたからである。

[45] 上記に加え、こうした記事の中で政治的なものを参照。
"Ha de imponerse un tributo de guerra" (September 8, 1936),
"Once de septiembre" (September 11, 1936),
"Como en la guerra. Es de inmediata necesidad el racionamiento del consumo" (September 16, 1936),
"Han triunfado las tacticas revolucionarias" (September 23, 1936),
"Como en la guerra. La justicia ha de ser inflexible" (October 11, 1936),
"Seamos conscientes. Por una moral revolucionaria" (October 18, 1936),
"Problemas fundamentales de la revolucio'n. La descentralizacio'n es la garantia que ha de recabar la clase trabajadora en defensa de la prerrogativas que se debaten en las lineas de fuego" (October 24, 1936),
"Como en la guerra. Los agiotistas tienen pena de la vida"(署名はないが、バリウスが書いたと思われる)(October 31, 1936),
"Como en la guerra. La justicia ha de ser fulminante e intachable"(バリウスによるものだと思われる)(November 1, 1936),
"Como en la guerra. Se ha de establecer un control riguroso de la poblacio'n" (November 3, 1936),
"La cuestio'n catalana" (December 2, 1936),
"El testamento de Durruti" (December 6, 1936),
"La revolucio'n de julio ha de cellal el paso a los arribislas" (December 17, 1936).

[46] AHMBに保管されている "Ponencia. . ." を参照。

[47] AHMBに保管されている "Ponencia. . ." を参照。

[48] ハシント=トリオがリベルト=カリェハスに代わって、CNTの有力紙「労働者の連帯」の編集長になったことに対するバリウスのコメントを参照。「アレハンドロ=ヒルベルトと共に(労働者の連帯の)編集者だった私には、リベルト=カリェハスの編集による労働者の連帯紙とハシント=トリオの編集によるものとの区別がなされねばならないことをハッキリ示す義務がある。カリェハスが編集長である限り、CNTが7月に得た利益は常に防衛され、アナキズム諸原則は賛美され、宣伝されていた。だが、委員会に身を隠した反革命家によって、つまり、本物のCNTを片付ける以外に目標を持たぬ陰謀団によって、ハシント=トリオが労働者の連帯の編集長として押し付けられると、単に軍隊化が支持されただけでなく、フェデリカ=モンセニーがほのめかしているように、別な問題もあった。日を追う毎に、労働者の連帯で、プリエト同志とネグリン同志についての記事を目にするようになった。全てを明るみに出してしまおう。カノバス=セルバンテスやエル=デバテの前編集者だったレアンドロ=ブランコのような胡散臭い評判の男達が、労働者の連帯の編集チームに参加したのだ。労働者の連帯での暮らしは不可能となった。私は辞めた。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、Le Combat Syndicaliste 1971年9月2日号)
"Ponencia. . ." も参照。

[49]労働者の連帯」(1936年11月6日)に転載されたラジオ放送。この号の「労働者の連帯」は、以下の言葉をドゥルティのものだと示している。「カタロニア自治政府によるこの軍隊化布告が我々を怖がらせ、鉄の規律を押し付けようと意図されたものだとすれば、彼らは間違いを犯したのだ。我々は、この布告を発明した人々を前線に行くようお勧めする。(中略)そうすれば、後衛の士気と規律と比較できるだろう。心配するな。前線には、混乱もなく、無秩序もない。」

[50]思想」に掲載されたバリウスの最も優れた記事は以下の通り。
"La pequera burguesia es impotente para reconstruir Espan~a destruida por el fascismo" (No. 1, December 29, 1936),
"La Revolucio'n ha de seguir avanzando" (No. 3, January 14, 1937),
"El fracaso de la democracia burguesa" (No. 4, January 21, 1937),
"La Revolucio'n exige un supremo esfuerzo" (No. 7, February 11, 1937),
"Despues del 19 de julio" (No. 14, April 1, 1937),
"Hagamos la revolucio'n" (No. 15, April 8, 1937).
思想」の第11号(1937年3月11日)には、"!Destitucio'n inmediata de Aiguade'!" と題された無署名記事が掲載されている。この記事は、カタロニア自治政府の治安評議員の反革命活動を非難している。この評議員は、5月事件の2ヶ月前に、偽の文書を使ってCNTから12台の戦車を盗み、カタロニア自治政府の治安部隊に君主制主義者とファシストの職員を組織的に採用した。

[51] バリウスは次のように述べている。「仕事場からの支持がほんの少しもない個人が、労働者だけに属している権力を主張しようとするなど、耐え難い。このことそれ自体が、彼が自分の思いのままになる相当数の人々を手に入れれば、この政治家は労働者階級を再び資本家の馬具へと戻してしまうことを充分伝えてくれる。(中略)革命が労働者階級の敵を一蹴できなくした罪を犯した人々に対して、我々は、労働者集団に頼らねばならない。労働者は、初期の段階で断固たる決意がなかったが故に、これほどまでに反革命勢力の成長を許してしまった。反革命勢力をしかるべき場所に置くことは非常にコストのかかる仕事になるであろう。

[52]思想」の第一号には、「バホ=リョブレガトのリバータリアン運動の機関紙」の編集者と寄稿者のリストが掲載されている。編集者は、リベルト=カリェハス(「労働者の連帯」の前編集者)・エベリオ=G=フォンタウラ・フロレアル=オカニャ・ホセ=アベリャ・ヒネス=アロンソだった。役員はセネン=フェリクスだった。寄稿者は、ハイメ=バリウス・ニエベス=ヌニェス・エリアス=ガルシア・セベリノ=カンポス・ホセ=ペイラツ(レリダの「無政府」の編集長で、後にスペインのアナキズム運動史家となる)・フラテルノ=アルバ・アンパロ=ポチェ・リカルド=リセッティ・ラモン=カロパ・ルスベル=ルイス・ビセンテ=マルセト・マヌエル=ビニュアレス・アントニオ=オカニャ・トマス=ルイス・ベンハミン=カノ=ルイス・フランシスコ=カレニョ(ドゥルティ縦隊のメンバーで、その代理人としてモスクワに行き、後にドゥルティの友の主導的闘士となる)アントリィオ=ビダル・フェリペ=アライス(著名なアナキズム理論家)・アクラシオ=プログレソ・マニュエル=ペレス・ホセ=アルベロラ・ミゲル=ヒメネスだった。漫画家には、ホアキン=カデナ・E=バディア・E=ボネットが含まれていた。

[53] レリダの「無政府」とその編集長であるペイラツについては、ペイラツの回顧録を参照すると興味深い。特に、多くのアナキスト闘士はCNT-FAIが政府と強調したことに甚だしく幻滅していたという明確な記述を参照して欲しい。ホセ=ペイラツ=バリェス著、"Memorias"、「Suplementos Anthropos」第18号(Barcelona, January 1990)を参照。
オスピラレトの「思想」とレリダの「無政府」に加え、CNTの強調主義に批判的なアナルコサンジカリスト反対派の主要新聞は以下の通り:トルトサの「シウダー=イ=カンポ」(都市と田園)、バレンシアの「ノソトロス」(我ら)。カタロニアのリバータリアン青年の機関紙である「道程」と「エスフエルソ」(努力)にも言及しておく。

[54] 訳註:「」(1937年3月2日)に掲載された通告は次のように述べている。
彼個人の軌跡全体を特徴付けている解放への熱望を持ちながら、自分の人生をどのように終わらせるのかを知っていたアナキストのブエナベントゥラ=ドゥルティ。その数名の同志の扇動で、一つのグループを発足させ、この男の記憶を生きさせ続けようとするのは、適切だと考えられる。この男は、誠実さと勇敢さによって、7月中旬に始まった革命時代の全くの象徴であった。我々は、ドゥルティが生きているときに彼を大切に思い、この巨人の死後にこの偉大なる戦士の記憶を懐かしんでいる全ての同志に呼びかける。「ドゥルティの友」に参加しよう。
「ドゥルティの友」は単なる新しいクラブではない。我々の目的は、スペイン革命をドゥルティの革命的精神で満たすことである。ドゥルティの友は、この同志がバルセロナのただ中で発した最後の言葉に忠実であり続ける。反革命活動を糾弾し、雄々しい手で我々が取るべき道を辿るのである。
我々の結社に入会するためには、まずCNTのメンバーでなければならない。また、闘争の記録証明と、思想革命への愛情の証拠とを提示しなければならない。当面、申込書は、ランブラ=デ=カタルーニャ、15、プリンシパル(CNTのジャーナリスト部門)で、朝5時から夜7時の間に受け付ける。
--運営委員会

[55] ミンゴの署名が入った「」紙の記事は以下の通り。
"Nuestra labor. La Revolucio'n ha de seguir avallzando" (April 2, 1937),
"Al pueblo se le ha de hablar claro"(April 8, 1937),
"La Revolucio'n exige una labor depuradora" (April 9, 1937),
"Una labor revolucionaria. La revalorizacio'n de los Municipios" (April 13, 1937).

[56] ミンゴ著、"Una labor revolucionaria. La revalorizacio'n de los Municipios," La Noche (April 13, 1937).

[57] ハイメ=バリウスとパブロ=ルイスが共同で署名したパンフレット(このパンフレットを私達は閲覧できなかった)は、「Figols, 8 de enero, 8 de diciembre, y Octubre」と題され、エディトリアル=レナセルから出版された。

[58] 日付はないものの、バリウスによるこれらのパンフレットは、1934年10月~1936年7月までの間に出されている。出版の順番は次の通り。
Jaime Balius De Jaca a Octubre Editorial Renacer, [Barcelona] undated;
Jaime Balius Octubre catalan Editorial Renacer,[Barcelona] undated;
Jaime Balius El nacionalisrno y el proletariado Editorial Renacer, [Barcelona] undated.

[59] 1978年6月1日のポール=シャーキー宛の手紙でバリウスは次のように述べている。「私は、FAIのレナセルグループにパブロ=ルイス・フランシスコ=ペリィセル(その後、亡くなったが)といった同志達と共に属していた。ブルーノ=リャドもそうだったが、彼も死んでしまった。」(ポール=シャーキーが示してくれた手紙より。情報提供に謝意を表す。)

[60] ドゥルティの友の設立と密接に関連していたヘルサ民兵とその軍隊化反対に関する詳細な記述は、1937年3月24日の「夜」An~o XIV, No. 3545におけるパブロ=ルイスのインタビューに見ることができる。
また、バリウス自身の次の主張も参照。「ドゥルティの友グループは、その起源を軍隊化反対に持つ。大挙してバルセロナに移転してきたのはヘルサ民兵集団だった。ヘルサ集団の長はエドュアルド=セルベロ同志だった。従って、カタロニアの後衛では、アラゴン戦線からやってきた数多くの同志たちがそばにおり、義勇軍のリバータリアン精神を放棄することはできないという意見を共有していた。カタロニアの首都に武器と手荷物を持って移動した同志達のリストを果てしなく挙げ始めないように、大きな愛情と共に、プログレソ=ロデナス・パブロ=ルイス・マルセリノ=ベネディクトといった同志達がいたことを私に思い起こさせていただきたい。一つのグループがバルセロナで設立されねばならないと合意され、ブエナベントゥラ=ドゥルティの象徴の庇護の下になければならないと決定された。ドゥルティの友のメンバーには、他にも、アレハンドロ=ヒラベルト・フランシスコ=カレーニョ・マクシモ=フランコ(ロヒネグラ部門の代理人)・ポンサン・サンタナ=カレロなど多くの同志がいた。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、「Le Combat syndicaliste」、1971年9月2日)
軍隊化を拒み、戦線を離れることを決意し、武器を持ってやってきたヘルサグループ出身の多くの民兵について、パブロ=ルイスの記述は非常に統計的に厳密で、多分ほぼ正確であろう。「(アタラサナス兵舎突入に参加した後)私はドゥルティ縦隊に参加した。そして、千人以上の民兵で構成される第四ヘルサグループを率いた。(中略)内部から我々に人民軍が押し付けられるとすぐに、(中略)私は辞任し、数十人の同志達と共に後衛に再び参加した。(中略)その上で、バリウス同志の扇動もあり、我々は、ドゥルティの友グループを設立した。(略)」(パブロ=ルイス著、"Elogio po'stumo de Jaime Balius"、「Le Combat Syndicaliste/Solidaridad Obrera」、1981年1月22日)

[61] FAIは、親和グループの連合として組織されていた。内戦中、「ノソトロス」(それ以前は「ロス=ソリダリオス」という名だった)・「ネルビオ」(神経)・「A」・「Z」・「ロス=デ=アジェール=イ=ロス=デ=オイ」(昨日と今日)・「ファロ」(灯台)などの親和グループが傑出していた。

[62] 1937年3月2日の新聞「夜」が、このグループの設立を最初に報じた。このグループは公式的には1937年3月17日に設立された。「夜」の1937年3月18日号には以下の告知がある。
「ドゥルティの友」グループが設立された。運営委員会が任命された。「ドゥルティの友」設立会議が昨晩開催された。
グループの社交施設--ランブラス=デ=ラス=フローレス1の二階にある--は人々で埋め尽くされた。議事進行は10時丁度に始まった。議論を監視するための委員会が指名された。前線と後衛それぞれから数人の同志達が議論に参加した。同志達一人一人は、自分がCNTとFAIの前提条件を絶対的に支持することを再確認した。7月19日以後の革命の進路について広範な議論が行われ、集まった同志達皆が革命を押し進めたいと思っていることは明白だった。特定の反革命工作が激しく非難された。(中略)
肉体から切り離されてはいるが、我々のドゥルティは、グループの立ち上げを統括していた。明らかに、盲目的崇拝など少しもなく、むしろ、不運な同志の願いを実行しようという願望があった。
次に、この新しいグループが伝達しようとする意思を起草する作業班と共に、運営委員会が任命された。(中略)運営委員会は次のように構成される。書記:フェリクス=マルティネス、副書記:ハイメ=バリウス、会計:ホセ=パニアガ、簿記:アントニオ=プイグ=ガレタ、委員:フランシスコ=カレーニョ・パブロ=ルイス・アントニオ=ロメロ・セラフィン=ソビアス・エドュアルド=セルベロ。作業班は次の通り:パブロ=ルイス・J=マリン・ハイメ=バリウス・フランシスコ=カレーニョ・ホセ=エスプルガス。
議事進行が終わる前に、集会は、マロト同志とバレンシアで投獄されている同志達の釈放を求めた電報をCNT全国委員会に送るべきだ、ということに満場一致で合意した。

[63] ドゥルティの友グループの署名が入った声明文・ビラ・告知・ポスターを、私達が知る限り全て羅列しておこう。バルセロナ市全土に公表されたため、発行場所は示さない。実質的にこれら全ての文書は、Archivo Historico Municipal de Barcelona(AHMB)で見ることができる: • . "Al pueblo trabajador" [1937年3月下旬に発表された声明文。両面ビラ。]
• . "Al pueblo trabajador" [4月14日の一周年記念に反対する声明文]
• . "!Trabahadiers! Acudid el pro'ximo dimingo, dia 18, al MITIN que la Agrupacio'n Los Amigos de Durruti celebrala' en el Teatro Poliorama" [1937年4月18日の集会を宣伝する告知]
• . "Agrupacio'n de Los Amigos de Durruti. A la clase trabajadora." [壁や木に貼られたポスター。1937年4月下旬。]
• . "ACTO organizado por la Agrupacio'n Los Amigos de Durruti. Domingo, 2 de mayo a las 10 de la man~ana, en el TEATRO GOYA." [1837年5月2日集会の告知]
• ."CNT-FAI. Agrupacio'n 'Los Amigos de Durruti'. !TRABAJADORES!" [1937年5月5日にバリケードにばらまかれたビラ]
• . "CNT-FAI. Agrupacion 'Los Amigos de Durruti'. Trabajadores." [1937年5月8日にばらまかれた声明文]
• . "Trabajadores. Mie'rcoles dia 19. Aparecera' el 'Los Amigos de Durruti'. " [1937年5月19日に予定されている「民衆の友」第一号発刊の告知]
また、CNT食料品組合後援によるフランシスコ=ペリィセルの講演の告知も幾つかあるが、ここには示していない。

[64] 1937年5月1日の「戦闘」紙に掲載されているヒュアン=アンドラデ著 "CNT-POUM"を参照。これは、ヒュアン=アンドラデ著「La revolucio'n espanola dia a dia」(Ed. Nueva Era, Barcelona, 1979)の248ページに転載されている。以下にアンドラデがドゥルティの友に言及している部分を抜粋する。
例えば、「ドゥルティの友」はバルセロナの全ての通りにポスターを貼ってその綱領の要点をまとめている。我々は、現状に関して「ドゥルティの友」が提起したモットーに絶対的に合意している。これは我々が承認する綱領であり、これに基づいて我々は彼らが示すことにどのようなことでも合意する用意がある。これらのモットーにある二つの事項は、我々にとっても基本的なものである。全ての権力を労働者階級へ、そして、プロレタリア権力の表現として労働者・農民・戦闘員の民主的機構を。

[65] カタロニアのリバータリアン青年の機関紙「道程」は、1936年11月以来CNTの協調主義に徹底的に反対してきた。1937年3月から5月下旬まで、この機関紙はサンタナ=カレロ(マラガのリバータリアン青年のメンバー)の記事を掲載した。彼は「民衆の友」の重要な寄稿者でもあり、ドゥルティの友のメンバーでもあった。1937年4月1日の日付の「道程」第25号は、"Por el concepto anarquista de la revolucio'n" と題されたドゥルティの友グループの記事を掲載した。その中で、3月下旬のビラや声明文で示されたものと同じ主張がなされた。CNT-FAIは7月19日に居座ることができず、少数派のプレーヤーとして協力することに合意し、プチブルジョア階級に十全な機会を与えてしまった。戦争と革命は一つでなければならなかった。「戦争と革命は分離できない二つの側面である。戦争とは革命の防衛である。組合が経済の方向付けをすべきである。軍と治安は労働者の管理下になければならない。武器は、革命を保証するために、労働者だけの手中になければならない。プチブルジョア階級は、国境警備隊を受け持たねばならない。後衛は戦争をおもく受け止めねばならない。労働は全員参加で、労働組合への加入を義務としなければならない。など。」

[66] これは「Esfuerzo: Perio'dico mural de las Juventudes Libertarias de Catalun~a」だった。壁に貼られるポスターサイズの週刊刊行物であり、3月の第二週から5月の第二週まで出版された。完全に匿名で、記事ではなく、モットー・短い宣言文・アピールが書かれていた。非常に独創的な壁新聞だった。以下の「記事」が傑出している。"El dilema: Fascismo o Revolucio'n social"(1937年3月第2週の第一号)、"Consignas de la Juventud Revolucionaria"(3月第3週の第二号)、 "El Orden Pu'blico tiene su garantia en las Patrullas de Control..."(3月第4週の第三号)、"Los 'affaires' por la substraccio'n de 11 tanques. La provocacio'n de Orden Publico en Reus, por Rodriguez Salas . . ." と "A los ochos meses de revolucio'n"(1937年4月第1週の第四号)。この壁新聞の最終号である第九号は、1937年5月の第2週の日付である。ドゥルティの友グループは一度も名指しで言及されることはなかったが、そのモットー・ヴィジョン・イデオロギー内容は、ドゥルティの友が明言し、支持していたものと非常によく似ていた。

[67] 'Friends of Durruti' Group "Al pueblo trabajador" Barcelona (1937年4月14日)

[68] ドゥルティの友グループを紹介したこの集会は、ロサリオ=ネグレテとウゴ=オエレルがバルセロナで同日付で書いた報告書に詳細に報告している。この報告書の初出は、「第四インターナショナル」第2巻、第12号(1937年)であった。「革命史」第1巻、第2号(ロンドン、1988)34ページ~35ページを参照。
会議の呼びかけにはビラが使われた。そのビラには、フランシスコ=ペリィセルが必要最低限の生活の問題について、パブロ=ルイスが革命軍について、ハイメ=バリウスが戦争と革命について、フランシスコ=カレーニョが労働組合の団結と政治的協力について、V=ペレス=コンビナが治安と現在について話すと発表していた。
会議の進行について以下の情報が日刊紙「夜」(1937年4月19日)に掲載された。
昨日の朝、ポリオラマ劇場で、ドゥルティの友グループによる会議が開かれた。多くの聴衆が集まり、会議の議長はロメロ同志が務めた。ロメロ同志がこの会議の意味を概略する短い所見を述べた後、フランシスコ=ペリィセルが呼ばれ、ドゥルティの回想で話しを始めた。
次に、必要最低限の生活という問題に焦点が向けられ、彼は、現状の給与支給率で食事をするのは不可能だと述べた。(中略)パブロ=ルイスは、革命軍について話しをした。(中略)そして、ハイメ=バリウスは幾つかのメモを読み(中略)その中で彼は7月19日のファシズムに対する最初の戦いを再検討した。(中略)彼は、革命は戦争と手を取り合って進まねばならず、どちらも勝たねばならない、と述べた。(中略)フランシスコ=カレーニョが最後に、「労働組合の団結と政治的協力」というトピックについて話した。(中略)彼は、他の講演者同様、非常に熱烈な称賛を受けた。

[69] 「Acta de la sessio' consistorial del 22-5-1937 del Ajuntamente de Sabadell」 Archivo Histo'rico de Sabadell。議事録第16号の399ページに、ドゥルティの友が1937年4月に発表したポスターが全て転載されている。このポスターは、委員であるブルノ=リャド(ディエゴ=アバド=デ=サンティリャンを長とするカタロニア自治政府経済省の地方代理人でもあった)が5月2日(日)に自分のオフィスに掲示していたものであり、彼がバルセロナの5月事件の最中にカタロニア自治政府に対する反乱を教唆していると非難された際、その証拠書類に加えられていた。
5月22日のサバデル議会の議場の議事録に載っているこのポスターのテキストは、アンドレウ=カステルス著、「Sabadell, informe de l'oposicio'. Annex per a la histo'ria de Sabadell (Vol. V) Guerra i revolucio (1936-1939) 」 (Ed. Riutort, Sabadell, 1982, p. 22.8) に転載されている。

[70] すぐに分かるが、ドゥルティの友が示した革命フンタの定義はいつも同じではなかった。だが、4月のポスターにあるモットーの重要性を理解できない人はいなかった。革命フンタの設立は、ブルジョアカタロニア自治政府の解散だけでなく、プロレタリア階級独裁の導入をも意味していた。「あらゆる権力を労働者階級へ」そして「あらゆる経済権力を組合へ」。1939年に「Lutte Ouvriere」に承諾したインタビューで、ムニスはドゥルティの友が使った際には「革命フンタ」と「ソヴィエト」という言葉は同義だった、と示した。

[71] バリウスは、1937年4月のポスターに示されたモットーの重要性を非常に意識していた。「1937年5月1日はスペインのクロンシュタットである。カタロニアでは、CNTの力があるからこそ蜂起が可能だった。そして、ロシアでクロンシュタットの水兵と労働者が『全ての権力をソヴィエトへ』という叫びに立ち上がったように、ドゥルティの友グループは『全ての権力を組合へ』と訴えた。バルセロナの都市全土に貼られた多くのポスターで、そして、戦闘が荒れ狂っていた最中に何とか出版した声明文で我々は公的に訴えたのである。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、「Le combat Syndicaliste」、1971年9月2日号に掲載)
また、1937年8月23日の「La Voz Leninista」(レーニン主義者の声)第二号に掲載されているムニスのコメントも参照。

[72] 1937年5月1日の「戦闘」に掲載されているヒュアン=アンドラデ著、"CNT-POUM"。また、1937年8月23日の「レーニン主義者の声」第二号に掲載されているG=ムニス著、"La Junta Revolucionaria y los 'Amigos de Durruti"'も参照。

[73] 5月事件に関する情報の出典は以下の通り: • J. Arquer Les Jornades de maig マドリーのAHNに保管されている未発表論文。
• Burnett Bolloten La Guerra civil espan~ola: Revoluci'on y contrarrevoluci'on (Alianza Editorial, Madrid, 1989, pp. 659-704) [English language readers should see Burnett Bolloten, The Spanish Revolution, Chapel Hill, 1979]
• Luis Companys 「これは、大統領が書いたメモと(中略)1937年5月3日~7日のバルセロナでの戦闘の最中に様々な政界実力者と大統領がテレタイプで行った会話のカーボンコピーである。」 (フーバー研究所に保管)
• Manuel Cruells Mayo sangriento. Barcelona 1937 (Ed. Juventud, Barcelona, 1970) • Francisco Lacruz El alzamiento, la revolucio'n y el terror en Barcelona (Libreria Arysel, Barcelona, 1943)
• Frank Mintz and Manuel Pecin~a Los Amigos de Durruti, los trotsquistas y los sucesos de mayo (Campo Abierto, Madrid, 1978)
• Andres Nin "El problema de los o'rganos de poder en la revolucio'n espan~ola." Published in French in No. 1 of Juillet. Revue internationale du POUM in June 1937. Available in a Spanish translation in Balance No. 2 (March 1994)
• Hugo Oehler Barricades in Barcelona (1937). Reprinted in Revolutionary History No. 2, (1988) pp. 22-29
• George Orwell "Yo fui tesligo en Barcelona" in Boletin de informacio'n sobre el proceso politico contra el POUM No. 5, Barcelona, December 15, 1937
• [Agustin Souchy] Los sucesos en Barcelona, Relacio'n documental de las tra'gicas jornadas de la 1a de semana Mayo de 1937 (Ediciones Espan~olas Ebro, no place indicated, 3rd edition August 1937)
• Pavel and Clara Thalmann Combats pur la liberte'. Moscou, Madrid, Paris (Spartacus, Paris, 1983)
• Various Los sucesos de mayo de 1937. ona revolucio'n en la Republica (Fundacio' Andreu Nin, Barcelona 1988)
• Various Sucesos de mayo (1937) Cuadernos de la guerra civil No. 1, (Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, 1987)

[74] Jordi Arquer Les jornades de maig マドリーのAHNに保管されている未公開原稿テキスト。

[75] 防衛評議委員は、CNTメンバーのフランシスコ=イスグレアスだった。彼は、ガルシア=オリベルの誠実な友人であり、支持者であり、5月事件中に非常に卓越した「中立的」役割を果たし、CNTとPOUMの軍隊が戦闘に関与しないように防いだ。ミゲル=カミナルはラファエル=ビディエリャからの証言を提供しており、それによれば、コンパニイスはアルテミ=アイガデに電話局を奪取するように命じた。これには数人の評議員とCNTのドメネクが立ち会っていた。ドメネクは単にそうした動きの結果どのようなことが起こるか指摘しただけだった。(ミゲル=カミナル著、Joan Comorera」、第二巻、120ページ)

[76] 5月1日(土)にカタロニア自治政府議会が会議を開催したことに関して、アルケル著の前掲書と1937年5月2日号の「労働者の連帯」の報告を参照。

[77] しかし、アルケル(前掲書)は、アイガデが委員会に知らせずに独力で行動したと信じているようである。いずれにしても、カタロニア自治政府は、タラデリャスの妥協・協調政策から足を洗い、その代わり、ベルベル=デ=セルダーニャで非常に上手く機能した(コンパニイスが擁護したように)直接対決を選んだ。

[78] この点については、マヌエル=クルエルス(「Mayo sangriento. Barcelona 1937」Ed. Juventud, Barcelona 1970, pp. 55-56)の所見を参照。クルエルスは当時「Diari de Barcelona」のジャーナリストだった。アイガデやロドリゲス=サラスに対するスターリン主義者の影響に関しては、コンパニイス・コモレラ・ソ連バルセロナ領事の間で得られた協力関係を考えれば、それがあったかなかったかは関係ないと思われる。この見解はアグスティン=ソウヒが前掲書(「Los sucesos de Barcelona. Relacio'n . . . 」)の13ページで示している。

[79] 電話局ビルの中で武力衝突が勃発したというニュースの直後に「この事件によってもっと大きな衝突が導かれないようにするために、治安兵站部隊の長であるエロレス・『統制パトロール』の書記長であるアセンス・防衛委員会代表のディアスが襲撃者を排除すべく電話局に赴いた。
ロドリゲス=サラスは、国内治安議員のアイガデに、誰の命令で自分が行動するのか電話で助言を求めた。アイガデは、いかなる情況下でも撤退せず、自分が入手した任務を遂行しなければならない、と指示した。(中略)
他のアナキストと共に、バレリオ=マスは(中略)タラデリャス(中略)のオフィスに現れ、電話局を占拠しようとしている攻撃部隊を撤退させるように命じて欲しいと頼んだ。(中略)タラデリャスは、そして、その後に(中略)彼らが呼び出したアルレミオ=アイガデは、驚いたふりをし、電話局を占拠せよという旨の指示は全く出していない、と主張した。
『これは、ロドリゲス=サラスが独力で行動したのである』とアイガデは彼らに述べた。『そして、私は君たちに約束する。(中略)私は平和を回復するために必要な命令を出す。』」
(フランシスコ=ラクルス著、「El Alzamiento, la revolucio'n y el terror en Barcelona」 (Libreria Arysel, Barcelona, 1943))
フランシスコ=ラクルスの情報は、多分、アグスティン=ソウヒが1937年に匿名で出版したパンフレットから盗用しているのだろう。ソウヒは次のように述べていた。「この事件がより大きな衝突を導かないように保証するために、警察署長のエロレス・統制パトロールの書記長アセンス・防衛委員会代表の同志ディアスが、電話局に出かけた。(中略)バレリオ=マスは、他の同志たちと共に、首相であるタラデリャスと内務審議官であるアイガデと話し、軍隊を撤退させるように説得した。(中略)タラデリャス(中略)とアイガデは、電話局で何が起こっているのか全く何も知らないと断言した。後に分かったことだが、アイガデ自身が電話局を占拠する命令に署名していたのだった。」[Los sucesos de Barcelona. Relacio'n. . . 前掲 p. 12]

[80] フリアン=ゴルキンが "Reu'nion du sous-secretariat international du POUM - 14 mai 1937" で述べている主張を参照。「実際、この運動は完全に自発的なものだった。もちろん、このまさに相対的自発性こそが、説明されねばならないことなのだ。7月19日以来、主としてCNTとFAIの一般人員が組織した防衛委員会が、バルセロナのあらゆる場所とカタロニア全土で非常に上手く形成された。一時の間、こうした委員会はほとんど能動的ではなかったが、5月3日に労働者階級を動員したのはこうした委員会だったと言うことができる。この運動の背後にはアクショングループがあった。二つの労働組合協会のいずれからもゼネストの指示が出ていなかったことは分かっている。」

[81] ホルディ=アルケル著、「Histo'ria de la fundacio' i actuacio' de la 'Agrupacio' Amigos de Durruti'」未発表原稿(フーバー研究所に保管)

[82] 前掲書

[83] ホルディ=アルケル著、前掲書。ドゥルティの友の設立直後からにニンが関心を持ったことは疑いもない。1937年3月2日号の「夜」に掲載された記事の中で、ハイメ=バリウスは、カタロニアにおける反革命の一貫した進展の危険を警告した。ニンは、1937年3月4日号の「戦闘」において、バリウスが論じた思想を総合的に称賛する記事を書いていた。

[84] 5月3日、CNT地方委員会とPOUMの執行委員会は「CNT-FAIの家」で会合を持ち、情況について話し合った。POUMの側から行動の見通しについて長く詳細にわたる分析がされた後で、CNT地方委員会を代表して、バレリオ=マスが、ニン・アンドラデ・ソラノに楽しい夕べだったと謝辞を述べ、議論が非常に興味深かったこと・いつかもう一度行うべきだということを何度か繰り返し延べた。だが、いかなる合意にも達しなかった。CNT人員の近視眼と政治的愚劣さが信頼関係を不可能にしたのだった。自分達は歯を剥き出しにすべきだし、バリケードはすぐに破壊されねばならない。スターリン主義者と共和党員が、CNTの強さを試しただけで、それ以上のことをする勇気がない以上、これで充分だと彼らは考えていた。ランブラス通りに帰る途中で、バリケードを避けながら、アンドラデは何度も独り言を繰り返せずにはいられなかった。「楽しい夕べ!楽しい夕べ!」(1994年6月16日にバルセロナでウィレバルド=ソラノから口頭で得た証言)
ニン・アンドラデ・ゴルキン・ボネット・ソラノからなるPOUM代表者とCNT地方委員会--もっと特定すれば、その書記であるバレリオ=マス--との会合については、「Les sucesos de mayo de 1937, Una revolucio'n en la Republica」 に掲載されているウィレバルド=ソラノ著、"La Juventud Comunista Iberica (POUM) en las jornadas de mayo de 1937 en Barcelona" を参照(Fundacio'n Nin y Fundacio'n Segui, Pandola Libros, Barcelona, 1988, pp. 158-160)。

[85] ホルディ=アルケル著、前掲書。ウィレバルド=ソラノ著の前掲書も参照。

[86] ホルディ=アルケル著、前掲書。「戦闘」の235号(1937年5月6日)・236号(1937年5月7日)・237号(1937年5月8日)の論説も参照。

[87] タルマンの報告による。上記の原註1を参照。

[88] ウィレバルド=ソラノ著、前掲書、164ページ。

[89] (POUMの)バルセロナ地方委員会 "Informe de la actuacio'n del Comite' local durante los dias de mayo que e'sta presenta a discusio'n de las celulas de Barcelona," Archivo Histo'rico Nacio'nal de Madrid.

[90] バーネット=ボロテンとの書簡に示されているバリウス自身の主張によれば、バリケードでビラを配布することで数人のグループメンバーの命が失われた。
ビラの印刷と配布については、パベル=タルマンとクララ=タルマン共著、「Combats pour la liberte. Moscou, Madrid, Paris」(Spartacus, Paris, 1983, pp. 189-191) を参照。

[91] アグスティン=ギリャモンが提示したアンケートに対するホセプ=レブルの7番目の回答(Banyuls-sur-mer, December 16, 1985):
質問:72細胞は、革命戦線を創り出すことを念頭に置いて他のグループと--つまり、ドゥルティの友・リバータリアン青年・バリウス・ムニスなどのPOUMの一部と--コンタクトを取ろうとしたのですか?
ホセプ=レブル:「ドゥルティの友」とのコンタクトは5月事件の最中だけでした。しかし、このグループが数の上で少数であり、一般大衆との繋がりが全くなく、72細胞の控えめな代表者は、闘争している労働者に声明文を発行するといった私達が示したいと思うような実践的合意に至ることはありませんでした。

[92] バリウスは1971年に酷評した。「CNT大臣達が出した『停戦』命令のために、我々はこの命令を出した責任のある委員会を『裏切り者で臆病者』だと述べた声明文を出した。この声明文は、グループのメンバーとリバータリアン青年によって、カタロニアの首都全土で配布された。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、「Le Combat syndicaliste」1971年9月2日号に掲載)

[93] ホルディ=アルケル、前掲書。

[94] フアン=アンドラデ著、「Notas sobre la guerra civil (Actuación del POUM) 」(Ediciones Libertarias, Madrid, 1986, pp. 117-125)を参照。

[95] ドゥルティの友に関するアンドラデのコメントは非常に興味深い。すべての神話に穴を開けているからだ。「(前略)我々は『ドゥルティの友』と接触を持った。このグループは、FAI内部の反対派としてしか行動するつもりがない取るに足らない集団であり、重要ではないと言われてしかるべき集団だった。彼らが我々のような「権威主義マルクス主義者」と共同行動をしようと思うわけがなかった。私がこの点を指摘しているのは、「ドゥルティの友」を、CNT-FAIの革命意識を明言している強力な代表組織だと記述しようとする企てがあるためだ。現実には、組織的に何の価値もなく、イデオロギー混乱の記念碑だった。彼らは、自分達が何を求めているのか明確な考えを持っていなかった。彼らが常に、行動に関与することもなく、FAIの規律を破ることもなかったことを考えれば、彼らが愛していたのは、全く政治的影響のない過激な革命話だったわけだ。我々は、全てのことにもかかわらず、この情況において何らかの合意に至るべくやれることを全て行った。だが、抵抗を強く訴える二つの声明文の内の一つに共同で署名しただけだった。彼らはそれ以上のことを支持しようとしなかったからである。その後、このグループは完全に消えうせ、公的に現れることはなかった。(フアン=アンドラデ著、前掲書、12ページ)
いずれにせよ、アンドラデの主張は控えめに言っても矛盾している。彼らが価値がなく取るに足らないのであれば、POUMが何故ドゥルティの友とわざわざ話をしたのか不思議に思わざるを得ない。反面、ニンが、1937年3月の段階で既に、バリウスの立場とドゥルティの友の誕生に関心を示していたことは既に指摘した。同様に、1986年のアンドラデは、1937年5月1日の「戦闘」に掲載された"CNT-POUM"という記事を書いた1937年のアンドラデと矛盾していることは疑いない。第五章の原注5を参照。

[96] バリウス自身が苦心して明確にしようとしているように、ドゥルティの友は、市街戦を歓迎するという点で孤立していた(このグループとボルシェヴィキ-レーニン主義支部だけが、革命的モットーが書かれたリーフレットを発表した)。彼らは、1937年5月事件の最中に労働者の自発的闘争に指導と革命的目的を与えようとしたのだった。「Espoir」において、フロレアル=カスティーリョは次のように述べている。カミーロ=ベルネリは5月事件に反対した指導者だった。これは間違いだ。カミーロ=ベルネリは「La Lutte de Classes」(実際には、イタリア語の新聞「Guerra di classe」)を発刊したが、積極的な役割は果たさなかった。激化したのは、ドゥルティの友のメンバーだった。我々のグループの愛すべき本部を、そして、オスピタル通りとランブラス通りのぶつかる角にバリケードを構築したのは、サリェントの鉱山労働者だった。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、1971年9月2日号のLe Combat syndicalisteに掲載)
バリウスの証言は、ハウメ=ミラビテスと一致している。「この都市は--私が知る限り--FAIのメンバーが徹底的に占拠している。特に、ドゥルティの友の様々なグループが、そして、POUMからも比較的多くの人々が占拠している。」(ハウメ=ミラビテス著、「Episodis de la guerra civil espanyola. Notes del meus arxius (2) 」(Po'rtic, Barcelona, 1972, p. 144))

[97] バリウスが、前掲の "Por los fueros de la verdad" という論文で述べているように、バリケードはサリェントの鉱山労働者が築いた。

[98] パブロ=ルイス著、"Elogio po'stumo de Balius"、1981年1月9日号の「Le Combat syndicaliste/Solidaridad Obrera」に掲載。

[99] 「Por los fueros de la verdad」という記事において、バリウスはこのことを次のように述べている。「後に、高次委員会から我々の除名を命じた勅令が出されたが、これは様々な労働組合集会やCNT-FAIの家で行われたFAIグループの総会で、一般組合員に拒否された。」

[100] ドゥルティの友はCNT組合員から願ってもない広い共感を勝ち得た。これは、CNTの様々な委員会と指導部が彼等を確実に除名するだけの力を持っていなかったという点にだけでなく、不満と討議にも明らかであり、これによって、5月事件以後にリバータリアン組織内部で謀議的構造が出現することになった。これが「Sucesos de mayo (1937) Cuadernos de la guerra civil No. 1」(Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, 1987)というアンソロジーに掲載されている「Aportacio'n a un proyecto de organizacio'n conspirativa」と「Informe respecto a la preparacio'n de un golpe de Estado」と題された文書をもたらした。

[101] 「民衆の友」第一号には日付がない。ドゥルティの友は機関紙である「民衆の友」が発行されることを発表した告知をを5月19日(水)にばらまいた。タベラとウセライは、1937年5月11日という日付を誤って示しているが、多分、これは「民衆の友」第一号の二ページ目に再掲された宣言文から取ったのであろう。ポール=シャーキーは、5月20日というもっと妥当な日付を示している。しかし、この新聞が元々週刊紙を意図し、「民衆の友」第二号が1937年5月26日に発刊されたことを考えれば、第一号が発表された日付はこの通りだと言えよう。

[102] 「労働者の連帯」は、ハシント=トリオの経営下にあった。彼は、CNTの協調主義と規律を断固として防衛するために、このCNTの主要新聞の編集長に任命された。彼は、アナルコサンジカリスト協調主義に対して常に大きく批判的だったバリウスと重大に対立していた。トリオについて、そして、バリウスに対する彼の敵意とバリウスとの軋轢については、以前に引用したスサナ=タベラとエンリク=ウセライ=ダ=カルの研究論文を参照して欲しい。ただ、この論文はこの点については興味深いが、他の点では嘆かわしい。また、ホルディ=サバテルの本「Anarquisme i catalanisme. La CNT i el fet nacio'nal catala' durant la Guerra Civil」(Edicio'ns 62, Barcelona, 1986, pp. 109-110)も参照。

[103] 1946年6月24日にバリウスがメヒコのクエルナバカからバーネット=ボロテンに宛てた手紙で述べている。

[104] 前掲書

[105] ホルディ=アルケル著、「Histo'ria de la fundacio' i actuacio' de la "Agrupacio'n Amigos de Durruti"」(前掲書)。ブリリョ大佐はニンと残りのPOUM指導部の逮捕に関与していた。

[106] 実際、6月16日に、「民衆の友」の第三号が出版されて四日後に、POUMは非合法化され、その闘士と指導者は逮捕されたり殺されたりした。これは、CPUとスペインのスターリン主義者が監督した作戦であり、スペインでは前代未聞だった。

[107] 革命的マルクス主義とスターリン主義との違いに立ち入る必要はないと我々は感じている。この件について関心のある人は、「バランス」第一号を参照すれば良い。

[108] 従って、ドゥルティの友は反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)を未熟な二重権力だとは見なしていなかった。むしろ、階級協調機構だと見なしていた。これは、ニン・アサーニャ・タラデリャス・ボルディガ主義者などが到達したのと同じ結論だったのであり、カタロニア自治政府と対照させてCAMCを未熟な労働者権力を示すという学術的史料編纂上のテーゼとは相容れない。

[109] 1938年2月~3月に作成されたボルシェヴィキ-レーニン主義支部に対する告発状には、告発された人々の一人である印刷工バルドメロ=パラウの印刷工場で行われた捜査への言及がある。捜査は、バルセロナのサルメロン通りにある印刷工場で行われた。この住所は、1938年2月15日付けの「レーニン主義者の声」第三号の奥付に示されていた。この文書は、「民衆の友」の二つの奥付が発見されたことについても言及している。これは、1938年2月1日にバルセロナで発行された「民衆の友」第十二号だった。
さらに、カタロニア地方労働連合(CNT)のチラシ第四号(アムステルダムの国際社会史研究所に保管されている)には、カタロニアの全CNT組合に対して複写機を購入するための金銭的支援を求めてドゥルティの友が発行したチラシ(日付は不明だが、1937年8月だと思われる)が転載されている。「次第に民衆の友を出すことが難しくなってきている。印刷工達はこのグループが秘密裏に存在しているために、そして、当局を恐れるが故に、この新聞の活字を組み印刷することを嫌がっている。この問題のために、我々がもはやこれを出版できなくなる日がやってくるだろう。」

[110] これは、明らかに誤植だった。日付は1937年8月31日だったはずである。第八号が9月21日付けになっており、9月は30日しかないのだから。

[111] 自身が述べているように、バリウスは1937年5月に投獄された。「私は、模範的監獄の最初の観客として拘留された。5月事件の後の1937年5月のことだった。」(1971年4月14日の「Le Combat Syndicaliste」に掲載されているハイメ=バリウス著「No es hora de confusionismos」)しかし、バリウスが投獄されたという第一報を伝えたのは、1937年6月22日付の「民衆の友」第四号だった。ドゥルティの友の機関紙の第三号が1937年6月12日付けであることを考えると、バリウスの投獄が、POUMが非合法であると宣言された6月16日に着手されたPOUM闘士の大量逮捕と一致していた可能性が高い。

[112] ここでは、人間としてのドゥルティの検証や彼の政治的イデオロギーには立ち入らない。彼の同時代人による主張を単に述べるだけである。ドゥルティの友グループが、その名にも関わらず、ドゥルティとイデオロギー的繋がりを持っていないとバリウスが考えていたことを思い出すことは場違いではない。しかし、ドゥルティはまず第一に活動家だったのであって、理論家だったことは一度もないし、そうだと主張したこともない。「労働者の連帯」がドゥルティのラジオ演説を一語一句完全に再掲していなかったことも指摘せねばなるまい。

[113] アルケル(前掲書)によれば、この数字は、甚だしいものではないにせよ、少し誇張されているように思える。

[114] 「新しい革命に向けて」の16ページには次のように記されている。「16ヶ月が過ぎた。何が残っているのか?7月の精神は、思い出しか残っていない。7月の有機的組織体は、過去のものだ。」ここから、私達は、このパンフレットは1937年11月頃、つまり1936年7月から16ヶ月経過した時に起草されたと推測している。

[115] 「新しい革命に向けて」の1978年の英語版序文において、彼はこのパンフレットが発行された(彼は「発行された」と言うべきところを「書かれた」と述べている)のは1938年の中頃だと述べている。そして、また、この出版の背景を次のように説明している。
我々のパンフレット「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」について簡単に紹介をしよう。まず第一に、何時これが書かれたのだろうか?1938年の中頃である。(中略)それは悲劇的な時間だった。我々ドゥルティの友は、グループとしての最後の会議で反革命が我々に見舞った災厄を長いこと吟味したが、災厄の規模がどの程度であろうと、そのような敗北の結末を受け入れるわけにはいかなかった。ラルゴ=カバリェロが続行した恥ずべき政策は、その政府にアナキスト闘志が何人か参加していたこともあり、後衛の革命的士気を徐々に破壊していた。ネグリン政府--敗北と降伏の政府--は、この敗北に大量の生け贄を捧げた。このために、我々は「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」を発行することにしたのだ。既に述べたように、これは希望のメッセージであり、国際資本主義に対する闘争を刷新する決意だった。国際資本主義は、アナキストとCNTの革命的組合員が先頭に立って進んでいたスペインの労働者階級を妥当すべく1930年代の憲兵(言い換えれば、黒シャツとナチ)を動員したのである。
ドゥルティの友グループによる「新しい革命に向けて」(New Anarchist Library (2) Paul Sharkey訳. Sanday, Orkney 1978)を参照。
だが、バリウスが主張しているのとは逆に、「民衆の友」第十二号には、パンフレットがこのグループによって最近出版され、題は「新しい革命に向けて」であるという言及がなされている。機関紙の第十二号は1938年2月1日付けになっていることから、パンフレットが現れたのは1938年1月だと述べることができる。

[116] 私達は、このパンフレットの原本を参照した。Etce'tera社による復刻版とは少し異なっている。復刻版はテキストは完全ではあるものの、ページ数が28ページしかない。

[118] 統一戦線の中から「マルクス主義」指導者達(マルクス主義者とはスターリン主義反革命家を意味している)とPOUM(POUMメンバーはスターリン主義者とは異なる革命家である)とをドゥルティの友が区別していることに注意されたい。

[119] 1971年に、バリウスはこの見解を改めて述べていた。「1937年5月の蜂起で終えよう。そこで犯した失敗は、その時に修正できたかも知れなかった。ここでも我々は街路を支配していた。バルセロナで前線は二つの地区に分かれていた。だが、「停戦」・圧力・議論が、これら二つの地区の指揮官(グループのメンバーであるマクシモ=フランコが指揮するCNTのロヒネグラ地区とホセプ=ロビラが指揮するPOUM地区)に影響した。CNTメンバーのモリナと防衛評議員であるCNTのイスグレアスによる提案のおかげで彼等はカタロニアの首都に到着できなかった。反革命の日がやってきたのだ。5月の躊躇が、20世紀のプロレタリア叙事詩を破滅させたのである。」
有能な革命指導部を召集できたなら、革命を起こし、確固たるものにできたであろう。世界に範をたれ、きっぱりと粗末なモスクワお化けを潰していただろう。(ハイメ=バリウス著、"Recordando julio de 1936" 「Le Combat syndicaliste」1971年4月1日号)

[120] だが、バリウスは(1935年か?)エディトリアル=レナセル社を通じて「El nacionalismo y el proletariado」と題されたパンフレットを出版した。このパンフレットの中で、彼は、アナキズムと労働者主義の観点から、ナショナリズムの問題に関する非常に興味深い思想を提示していた。

[121] ベンジャミン=ペレトとG=ムニス共著、「Los sindicatos contra la revoluci'on」(FOR, Apartado 5355, Barcelona, 1992)を参照。また、1937年6月26日にボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部が発行したPOUM左派に対するアピールも参照(POUMの非合法化から10日後だった))。 君達の指導部は、無政府改良主義指導者達に対抗して革命的アナキスト大衆を先導すべく統一戦線を利用する代わりに、CNTに盲目的に従った。この事実が最もハッキリと示されたのは5月事件の最中だった。POUMは具体的目標--例えば、治安部隊の武装解除--が達成される前に退却を命じた。この事件の間、POUMは無政府改良主義指導部の付属物に過ぎなかった。
CNT官僚制を支持するこの政策の裏側には、自発的に生じた労働者・農民・戦士の委員会の放棄があった。従って、君達は大衆から疎外されているのだ。君達の指導者は、組合--古くからある官僚機構--が権力を奪取し得るという新しい理論をでっち上げた。地元地域の委員会の崩壊を止めるために何も行わず、そうした委員会のためにプロパガンダを実行したという理由で我々の同志達を除名している。だが、5月事件中に、君達は素早く防衛委員会に助力を仰いだ。この土壇場に示した立場は、むろん、明らかに不適切だった。「委員会」を大急ぎで召集するだけでは不充分なのであって、実際面で組織を作らねばならないのだから。だが、現実には、5月事件直後に、委員会に対する君達の観念的憂慮は完全に消え失せてしまった。
(ボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部(第四インターナショナルを代表して)"El viejo POUM ha muerto: viva el POUM de la IV Internacio'nal," Barcelona June 26, 1937)

[122] 1939年に、エドゥアルド=マウリコはドゥルティの友の綱領に対して非常に似通った批判を思いついていた。
こうしたグループ(ドゥルティの友のようなグループ)にとって、諸悪の根元は指導部による「諸原則」の放棄だった。「健全な諸原則」、「純正さ」への回帰、「再出発」--これがそっくりそのままこうした党派の綱領・スローガンだった。今や再出発など全く不可能である。歴史の再魔術化となってしまうだろう。7月19日以前の情況に戻ることなどできない。しかし、同じ失敗は同様の情況で起こりうる。こうした諸党派が今日犯しかねない最大の誤りは、スペイン革命で明らかになった教訓全てを「諸原則の純正さ」の名の下に引き出せないことである。最初にこの失敗があることで、遅かれ早かれ、今日彼等が反対しているのと同じ失敗・妥協が作り出されることになろう。そして、スペイン革命の主たる帰結は、ガルシア=オリベルとシプリアノ=メラスが妥協したのは、CNTの伝統的「政治的無関心」を放棄したためではなく、突き詰めればこの「政治的無関心」それ自体にあった、ということである。つまり、それがなければ革命は不可能となる、革命理論(レーニン)の欠如に起因していたのだ。
(O. Emem "Situacio'n revolucio'naria. El poder. El partido," in !Experience espan~ole. Faits et documents No. 2, Paris, August 1939)

[123] 内戦中のスペインには二つの敵対するトロツキスト集団があった。ムニスが主導するボルシェヴィキ-レーニン主義支部と「フォスコ」が主導する「レ=ソヴィエト」グループである。ここでは「レ=ソヴィエト」には全く言及していない。というのも、ドゥルティの友とは全く関係がなかったからである。この理由から、ここでは、トロツキストという言葉はボルシェヴィキ-レーニン主義支部の闘士と同義に使っている。

[124] 「共産主義者同盟宣言」の史料編纂上の誤謬については次を参照。
- Agustin Guillamo'n "El Manifiesto de Unio'n Commuistda: un repetido error en la historiografia sobre la guerra civil" in La Histo'ria i el Joves historiadors catalans, Po'nencies i Comunicacions de les Primeres Jornades de Joves Historiadors Calalans, celeblades els dies 4, 5 i 6 d'octubre de 1984 (Edicio'ns La Magrana Barcelona 1986)
- Paul Sharkey The Friends of Durruti. A Chronology (Editorial Crisol, Tokyo May 1984)

[125] この点については、ポール=シャーキーと同意見である。

[126] 「レーニン主義者の声」第2号(1937年8月23日)に「La Junta revolucionaria y los 'Amigos de Durruti'」と題されて掲載されたムニスの論考を参照。この論考の中で、ムニスは「民衆の友」第6号(1937年8月12日)でドゥルティの友が擁護した革命フンタの概念を分析している。

[127] クエルナバカ(メヒコ)からボロテン宛に書いた1946年6月20日付の手紙の中で、バリウスは次のように述べていた。
私達に対してPOUMやトロツキストの影響があったとされていますが、誤りです。ドゥルティの友を率いていたCNT同志である私達のグループは、自分達が何を求めているか完全に承知していました。あなたはこのことを充分理解してくれるでしょう。私達は、革命家リストの新参者ではありませんでした。だから、これまで論じられてきた全ての主張は、明らかに根拠がないのです。
私の考えでは、私がここまで述べてきたことで充分なはずです。ドゥルティの友グループを、CNT闘士の一集団がCNTが陥っている難局からCNTを救い出そうとし、同時に、バカ正直なCNTが抹殺できなかった反革命勢力に発端から脅かされていたスペイン革命を救い出そうとする試みだったと記述しても構いません。特にカタロニアでは、誰も我々の優越性に挑戦できなかったのです。
1974年9月7日にイエール(フランス)からポール=シャーキーに宛てた手紙の中で、バリウス自身がドゥルティの友の独立性を強調し、19375月以前にドゥルティの友・トロツキスト・POUMの接触が全くなかったことを確認している。「私達は、POUMともトロツキストとも接触していませんでした。ただ、ライフルを手にして街路で付き合いがあった程度だったのです。」

[128] Jaime Balius "Por los fueros de la verdad" in Le Combat syndicaliste of September 2, 1971.

[129] La Voz Leninista No. 2, Barcelona, August 23, 1937.

[131] ホートン図書館(ハーバード大学)の許可を得て転載。

[132] ホートン図書館(ハーバード大学)の許可を得て転載。

[133] ボルシェヴィキ-レーニン主義支部が1937年5月4日に配布したリーフレット(1937年6月10日の「Lutte ouvrie're」第48号に掲載された複写から復元した)には次のように書かれている。
革命的攻撃万歳!妥協はするな。GNR(共和党国家警備隊)と反動の攻撃部隊から武器を取り上げろ。これは重要な分岐点である。次の時など遅すぎる。反動政府が退陣するときまで、戦争活動のために動いていない産業は全てゼネストを行え。プロレタリア権力だけが軍事的勝利を保証できる。労働者階級は完全武装せよ。CNT-FAI-POUMの団結行動万歳!プロレタリア階級の革命戦線万歳。仕事場・工場・バリケードなどに革命的防衛委員会を。(後略)

[134] ムニスは、72細胞の形態をとったバルセロナのいわゆるPOUM左派の曖昧さと優柔不断に対して非常に強烈な批判をしている。72細胞は1938年初頭にホセプ=レブル書記だけになってしまった。グランディス=ムニス著、"Carta a un obrero poumista. Ia Bandera de la IV Internacio'nal es la u'nica bandera de la revolucio'n proletaria" in La Voz Leninista No. 3, of February 5, 1938 を参照。

[135]レーニン主義者の声」第二号(1937年8月23日)で、ムニスは「民衆の友」第六号で提示された「革命フンタ」の概念を批判していた。ムニスの見解からすれば、ドゥルティの友は連続的な理論的衰退に悩まされ、現実にCNTに影響を及ぼすことができず、このことが、5月の経験のおかげで陣取ることができるようになった立場を放棄させたのである。ムニスは記している。1937年5月にドゥルティの友は「全ての権力をプロレタリア階級に」と平行して「革命フンタ」を呼びかけたが、逆に、「民衆の友」第六号(1937年8月12日)では「あらゆる国家主義形態の失敗」に対する代案としての「革命フンタ」を訴えていた。ムニスによれば、このことは、5月の経験をドゥルティの友が吸収したことからの理論的退却を示している。マルクス主義のプロレタリア独裁概念から大きく離れ、国家に関するアナキズム理論が持つ曖昧さに後退しているのである。

[136] Pierre Broue' Le'on Trotsky. La revolucio'n espan~ola (1930-1940) Vol. II, pp. 405409 に転載。

[137] Jose' Peirats El movimiento libertarion en Espan~a (1) Jose' Peirats Coleccio'n de Histo'rid Oral, Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, undated.

[138] Jose' Peirats La CNT en la revolucio'n espan~ola three volumes. (Ruedo Ibe'rico, Paris, 1971). この公式CNT史の中で、ペイラツはドゥルティの友にほとんど言及していない。

[139] 以前に引用したホセプ=レブルによるアグスティン=ギリャモンの未発表インタビューより。

[140] Jordi Arquer Histo'ria de la fundacio' . 前掲。

[141] 判事がマヌエル=フェルナンデス(ムニス)から取り、「カタロニアの諜報活動取締法と大逆罪法廷対ボルシェヴィキ-レーニン主義スペイン支部」において証言書の一部として使われた供述書には次のように書かれている。「アナキスト集団と、証人(ムニス)が書記をしていたボルシェヴィキ-レーニン主義支部が共謀していたのかという質問に、証人は次のように述べている。彼等は誰とも共謀はしていなかった。もし共謀していたとすれば、ボルシェヴィキ-レーニン主義支部に参加するためにアナキストを止めた人がいたはずだからだ。さらに、彼等は、ドゥルティの友メンバーの一部だけでなく、UGTとCNT組合員の一部にも自分達の秘密出版物を送っていた、と付言している。」

[142] バルドメロ=パラウの印刷工場の捜索に関する報告記録に関して、トロツキスト闘士に対する起訴状を起草している判事が取った報告書には次のように書かれている。「バルセロナで、1938年2月14日午前8時30分に、警官隊が(中略)上司からの指示に従って行動し、捜索令状を持って(中略)綿密な捜索を行うためにサルメロン通り241番の印刷工場に到着した。この場所は、秘密出版物の印刷に使われていると思われ、出版物の中には合法的に選ばれた政府を攻撃していたものもあった。
その場所で、印刷所の経営者バルドメロ=パラウ=ミリャン(セラ通りの家に住んでいる)の立ち会いの下(中略)警官隊は命令を履行し、その結果、印刷所の三つの『奥付』が見つかった。コピーを取り、調査した結果、これらは次のものだと判明した。一つは『民衆の友』の奥付であり、右手に余白があり、囲みで次のように書かれていた。『芸能の衝突は、円満に解消したものの、コモレラによる挑発だった。我々の同志は前線で戦っているが、この悪党は後衛の粉砕に忙しくしている。労働者の団結が彼の計画を台無しにしてきたのだ。』(1938年2月1日付け『民衆の友』第12号から引用したテキスト)残りの二つ、『レーニン主義者の声』『民衆の友』である。これら全ては担当官が押収し、上司に渡された。」

[143] 1948年10月2日にムニスがパリから送った手紙を参照。
5月事件中、B-L支部はドゥルティの友と接触したが、何も調整できなかった。それは現実的理由からであり、また、確証はないが想像するに、マルクス主義者と同盟を組んでいるとCNT指導部が非難すれば、CNTの中で評判を落としてしまうとドゥルティの友が考えたからであろう。5月事件以後、二つのグループはもっと友好的になり、やり取りするようになった。CNT内部でこれら二つのグループの影響は大きくなった。一般的に言って、「民衆の友」「レーニン主義者の声」の配布に最も関与していたのはCNTメンバーだった。
ムニスとバリウスは、1937年5月以前に一度も会っていなかったが、その後、イデオロギー的にも私的にもお互いに認め合い尊敬し合って同志的な関係を持つようになった。アルケルによれば、この友情はメヒコでの亡命中にバリウスが一時の間ムニスの家に住んで以来大きくなった。

[144] アルケル(1971年7月16日付のボロテン宛書簡、フーバー研究所に保管)によれば、ドゥルティの友は、ある時点でカタロニアのCNT組合員の最も真摯な感情を明言した一時的な感情爆発だった。ドゥルティの友のアナキスト達はこの傾向を強固にし、成長させることができたはずだった。しかし、一旦敗北すると、彼等は全ての影響力を失い、アナキスト指導者は彼等を除名しようとしたのである。

[145] フェデリカ=モンセニーとロシア大使のローゼンバーグとの間の親密さと日常的な友好関係は信じられない程であった。また、信頼できないコンパニイスに対してアバド=デ=サンティリャンが提供しようとした支援と励ましも想像しがたいものだった。アナキスト指導者達の崇高な聖人性が、彼等が操作されやすかったことを説明してくれる。今述べていることの実例として、フェデリカ=モンセニー自身による以下の証言を見ればよい。(Agusti Pons Converses amb Frederica Montseny: Frederica Montseny, sindicalisme i acra'cia [Laia, Barcelona, 1977, pp. 169-170] に収録されている)
ロシアに旅立つ前だったと記憶していますが、ローゼンバーグ大使--私の友人でした--が私を呼びました。(中略)(私は)ロシア大使館があったメトロポルに滞在していました。軍事情況の観点から、政府がマドリーからバレンシアに移動することに決めた際、私はバレンシアに最後に到着した政府関係者の一人でした。保健省も、その大臣職にいた私自身も、落ち着く場所を見つけることができませんでした。全ての場所が陣取られていました。結局、ロシア人が非常に快く、彼等の大使館として使っていたホテルの一つのフロアを転用させてくれました。私は自分の部屋に赤いカーネーションの花束を幾度も見ました。しかし、花は全ての部屋をくまなく探し回るための方便でしかなかったのです。
しかし、フェデリカ=モンセニーが1950年5月31日にトゥールーズからバーネット=ボロテン宛に出した手紙を以下に抜粋するが、これを読めばさらに浮き彫りになろう。
ローゼンバーグは、(1936年12月にバレンシアにある)ホテル=メトロポルの二つの部屋を非常に快く私に提供してくれました。ここはソヴィエト大使館とその職員が借用していました。私を彼の影響下に置き続けておくというのが彼の意図だったはずだと私は思っています。全国委員会の書記に指名されたばかりのバスケスに相談し、私はローゼンバーグの提案を受け入れ、メトロポルに移りました。私は、ロシアの職員に混じりながらホテルの食堂で食事をし、頻繁に大使個人の部屋で食事をしました。実質的に毎晩、彼は私をコーヒーに招待しました。そこで私はマルティ・ガリョ・クレベル・ブルーチャー・ティト(?)・ゴレフと会いました。彼等とは以前マドリーでも会ったことがありました。そして、私や私の秘書(私よりも詮索好きというか、余り慎重ではないのですが)はアルバレス=デル=バジョ・ガルシア=オリベル・ロペスがローゼンバーグの部屋を出入りしているのを見ました。時々、マリナロ=R=バスケスも私と共に長時間招かれ、コーヒーや紅茶を何杯も飲みながら、ダラダラと長い間おしゃべりをしていました。
FAIの半島委員会でのアバド=デ=サンティリャンの証言も参照。「私達は、義勇軍委員会が代表し、強要できる権力では全く満足していませんでした。政府があり、カタロニア自治政府があり、私達は、毎日持ち込まれる何千もの問題・不満・要求に耳を傾け、合法政府によってそれらを解決しようとしていたのです。このことを多くの大衆は分からなかった。ちょっとした会合で、コンパニイス大統領に出席を求め、民衆が、彼は我々の友人であり、信じるに足る人物だと見なすことができるようにしようとしたのです。」(ディエゴ=アバド=デ=サンティリャン著、Alfonso XIII, la II Republica, Francisco Franco (Juu'car, Madrid, 1979, p. 349))

[146] 1946年7月13日付けのクエルナバカからバリウスがバーネット=ボロテンに送った手紙。

[147] 1981年1月9日の「Le Combat syndicaliste/Solidaridad Obrera」に掲載された "Elogio po'stumo de Jaime Balius" におけるパブロ=ルイスの主張による。

[148]Boletin de informacio'n y orientacio'n orga'nica del Comite peninsular de la Federacio'n Anarquista Iberica」に掲載されているFAIがドゥルティの友を除名しようと動いた記事、例えば、"La desautorizacio'n de la entidad 'Amigos de Durruti"' 第一号(Barcelona, May 20, 1937)と"La sancio'n publica a los inteurantes de la agrupacio'n Los Amigos de Durruti" 第三号(June 6, 1937)を参照。

[149] アンドレス=ニン著、"Ante el peligro contrarrevolucio'nario ha llegado la hora de actuar"、La Batalla(March 4, 1937)に掲載。

[150] 1937年8月23日の「レーニン主義者の声」第二号に掲載されているドゥルティの友に関するムニスの記事 "La junta revolucio'naria y los 'Amigos de Durruti.'" を参照。

[151] 「権威主義」という描写は、リバータリアンの間で乱用されている言葉だが、CNTプロパガンダの産物ではなかった。このグループの理論的進歩が持つ最大の意味の一つは、権威主義の主張であり、革命が全体主義的特徴を持つという主張だったからである。これはドゥルティの友が幾つかの機会に繰り返し述べていた主張である。最初に述べていたのは、バリウスが1936年12月6日に "El testamento de Durruti" と題して発表した記事だった。これは、1936年11月5日にドゥルティがマドリー戦線から演説した際、ドゥルティの口から出た主張だった。最後に言及されたのは、1978年の英語版の「新しい革命に向けて」のイントロダクションにおいてである。ここには次のように述べられている。
1938年のこの小冊子で、我々は、全ての革命は全体主義である、と述べた。

[152] スペイン内戦に関する歴史学方法論は、これまで、内在する危険がありながらも、内戦参加者と内戦目撃者が書いた闘争史であり、同時に、自身の人生を危険にさらしたが故に言葉を危険にさらさない人によるかけがえのない情熱でもあった。しかし、その方法論は、間抜けが著し、労働者運動闘士・組織に対するナンセンス・無理解・侮辱に特徴付けられるバカげた学問的歴史に変わってしまった。だが、高潔な例外がいくつかある。その中には、ビラノバ・モンホ・ベガが切り開いた調査路線がある。その路線こそ、その役割を全うしている学問的歴史と記述できるだろうし、これ以上適した言葉を付け加える必要はない。