エマ・ゴールドマン

結婚

1897

結婚。どれほどの悲しみが、悲惨が、屈辱が――どれほどの涙と呪いが――どんな苦しみと煩悶が、この言葉によって人類にもたらされたことか。そのそもそもの初まりからまさに今日現在まで、男と女は結婚制度という鉄のくびきのもとに育ち、そこにはどんな解放も逃げ道もないように思われる。あらゆる時代、あらゆる世代の抑圧された者たちが、この精神的・肉体的奴隷制の鎖を打ち壊すために奮闘してきた。数千もの尊い命が火あぶりにされ、断頭台の露となり、またある者は獄中でその生を終え、あるいは無慈悲な異端審問の手にかかったのちに、これら勇敢な英雄たちの思想は成し遂げられた。だからこそ、宗教的ドグマ、封建主義と黒人奴隷制は廃止され、より進歩的で、寛容で明確な新しい思想が前面化している。それなのに、我々の足元には人間性を踏みつけられ、その権利と独立のために闘っている貧困にあえぐ人々がいるのだ。

しかしあらゆる制度のなかでも最も野蛮で最も暴虐なのが――結婚である。これまで常に不変で、その神聖性を露ほども疑わない人々に災いをもたらす。ただ議論するだけでも、キリスト教信者や保守主義者のみならず、リベラル、自由思想家、急進主義者をも激昂させてしまう。これらの人々に結婚を支持させるものとは何なのか? 何が彼らにこの偏見に固執させるのか? (というのも、これは偏見以外の何ものでもないのだ。)それは結婚関係が、私有財産と、それゆえ、今日の残酷で非人間的なシステムの基礎であるからだ。一方に富と剰余があり、他方に犯罪がある、したがって結婚を廃絶するということは、ここに言及したすべてのものを廃絶するということだ。進歩的な人々の中には現行の婚姻法をましなものにするために改正しようとする人もある。そういう人たちの中には夫婦関係を教会に干渉させないようにしようという意見もあるし、あるいはもっと進んで、法の認定抜きに自由に結婚できるようにしようという者もある。しかし、仮にそれが実現したところで、この新しい形式の結婚も旧式の結婚と同じようにくびきとなり「神聖」なものであり続けるだろう。なぜなら、これは婚姻関係の形式や分類の問題ではなく、結婚というモノそれ自体いかがわしく、有害で、人を堕落させるものであるからだ。

結婚はいつも男に自分の妻に対する権利と力を与える。それもその身体のみならず、行動や望み、つまり彼女の人生すべてに及ぶ力と権力だ。そうでなかったら何なのか? すべてあらゆる男と女の関係性の背後には、長い歴史を通して発展してきた男女一般の関係性が控えている。それが紆余曲折を経て今日の両性の立場と特権の違いをもたらしているのだ。二人の若者が結ばれるのに、彼らの関係は彼らが裁量をもたない理由によって大きく決定されてしまう。彼らはお互いを良く知らない。社会が二つの性を分断し、男の子と女の子は別々の道筋に沿って育てられる。ちょうどオリーブ・シュライナーが『あるアフリカ農場での物語』で述べたのと同じだ。「男の子は『なる』ように、女の子は『見られる』ように教えられる」。その通り、男の子は賢く、頼もしく、利口で、強く、たくましく、自立し、他人に頼らないよう教えられる。自分が備える才能を伸ばせ、その情熱と欲望を追求せよ、と。女の子は着飾って鏡の前に立ち自分の体を眺めろ、自分の感情や情熱や願いを抑制しろ、精神的な欠点を隠し、ある場面では少ない知性と能力を組み合わせよと教えられる。それが夫の利益になることだし、結婚を有益なものにするための手っ取り早い最善の道なのだ。それだから、男女は互いの性質をほとんど理解しあえないし、その精神的関心と役割が異なっているのだ。世論は両性の権利と義務、名誉と不名誉を非常に厳しく分断する。女子にとって性に関する話題は糊で閉じられた書物である。なぜなら性の問題について口にすることさえも不純で、不道徳で、下品なものだと思いこまされているからだ。男子にとってその書物のページは、病気と秘密の悪徳、そしてある場合には破滅と死をもたらす。富裕層の間では、長い間恋愛は野暮なことであった。社交界の男たちは放蕩と肉欲の日々を過ごし、そしてそのがたがたになった外聞を取り繕うために結婚する。またある男たちはスポーツ賭博だとかビジネス投機だとかで資産を失って、資産家の娘との結婚こそが必要だと思いつく。結婚による結びつきは裕福な花嫁からの収入を浪費することを妨げないとよく知ってのことだ。分別があり利口に育てられ、ただ流行に沿って生き、息をし、食べ、微笑み、歩き、着飾るように慣らされた裕福な女子は、ある種の肩書か社会的立場の確かな男のために財産をとっておくものだ。彼女を慰めるのは、上流階級の社会の既婚女性には比較的に行動の自由が許されているという事実である。もし結婚に失望したとして、彼女は他の方法で望みを満たすことができる立場を手にするのである。ご存知のように閨房とサロンの間の壁には耳も口もないのだから、少々のお楽しみは罪にはならない。

労働者階級の男女にとっては、結婚は全く違ったものである。愛は上流階級にとってそうであるほどには珍しいものではなく、また二人が失望と悲しみに耐えることを助ける。しかしここにおいても、日々の暮らしの単調さと生存競争に押し流され、多くの結婚は長続きしない。ここでもまた、働く男が結婚するのは下宿暮らしに疲れ自分の城を、安らげる場所を作りたいと望むようになるからだ。その主たる目的は、したがって、良い飯炊きかつ家政婦となる女子を見つけることだ。夫の幸せと夫の喜びのみを探し求める女子、支配者として、主人として、保護者として、擁護者として、支援者として彼を求める女子、つまり男がそのために生きようとするに値う唯一の理想として。働いて、景気の悪いときのためにいくらかの小銭を蓄え、彼を助けることのできる女子と結婚することを望む男もいる。しかし、幸福と言えるような数か月を過ごした後に、彼は苦い現実に気づくのだ。彼の妻はやがてすぐ母になり、働けなくなる。支出は増大し、以前は「寛大な」主人が恵んでくれるわずかな賃金で何とかやっていたものの、その稼ぎは家族を養うには不十分なのだと。

例えば子供時代と成人してからのある期間を工場で過ごしたある女がいる。彼女は疲れている。彼女には自分の暗澹たる未来が見える。死ぬまで売り子でい続けなければならず、その仕事も安定したものとも思えない。そこで彼女は良き夫となり、彼女を助け、良き家庭を与えてくれる男を探し出すことを迫られる。男女どちらも、結婚する目的は同じだ。例外があるとすれば、男性がその個性や名前や独立を捨てることを期待されず、一方で女子が彼女自身を、その身も心も売り渡し誰かの妻たることを楽しんでいるというごく限られた場合だけだ。ということは、二人は同じ条件にない。そして平等のないところに調和もない。結果、数か月後か、どれほど長くても一年後には、二人とも、結婚は失敗だという結論に達するのだ。

二人の状況は悪くなる。子供は増え、女は失望し、みじめに思い、不満を育て、自信を失う。美貌は間もなく衰える。そして過労、眠れない夜、子供の心配、夫婦の不一致と言い争いのせいで身体はくたくたに疲労し、女はそのさえない男の妻になることを決めた瞬間を呪うようになる。そういう陰鬱でみじめな生活は、二人に愛情や尊敬を維持し続けようと思わせるものではない。男は少なくとも、幾人かの友人とともにいるときはみじめな状況を忘れられるかもしれない。政治活動に没頭することもできる。ビールを一杯ひっかけて自分のツキのなさを紛らわすこともできる。女は千種類のやるべきことで、家に縛り付けられている。女は夫のようには余暇を楽しむことができない。なぜならその手段もないし、夫と同等の権利も世間の目から認められていないからだ。女は死ぬまで十字架を背負わなければならない。なぜなら婚姻法は無慈悲にも道徳と良識を重んじる世間の目の厳しい批判の目の前に自分の結婚生活をさらけ出さない限り彼女を許さない。その上、自分を忌々しい男に縛り付ける鎖を断ち切るためには、あらゆる非難を一身に受け、その後の人生は自分を軽蔑する世界の前に立ち続けるエネルギーを持っていなくてはならない。そんな勇気のある者がどれほどいるだろうか? ごくわずかだ。プリンセス・ド・シメイ姫のような、習俗の壁に立ち向かい心の欲するところに従おうとする度胸をもった女性が稲妻のようにときおり現れるだけである。しかしこういった例外も、誰にも依存するところのない裕福な女性に限られる。貧困な女性は自分の子供のことを考えなければならない。彼女は金持ちの姉妹とちがって恵まれてはいない。しかし屈従のもとにある女性のほうがまだしも立派だとみなされる。その全人生が嘘、いつわり、不信の連なる長い鎖であろうが、彼女は社会によって道端でその魅力や情愛を売らざるを得なくされている姉妹たちを嫌悪し見下すことができるのだ。自分がどれほど貧しく、どれほどみじめであろうと、結婚した女はそうでない女よりましだと思うだろう。売春婦と呼ばれる、誰からもつまはじきにされ、憎まれ、軽蔑される者。その抱擁を求めて金を払う男からさえ必要悪とみなされる哀れな貧民。善良な市民の中にはその他の地域を「浄化」するために、この悪徳をニューヨークの一角に隔離しましょうなどとご提案くださる立派な方々すらいる。なんというお笑い種だろう! 改良主義者はニューヨークに住んでいるすべての既婚者を追い出せと言いだしかねない。なぜならどう考えても結婚している人間が通りに立っている売春婦より道徳的に勝っているということにはならないからだ。立ちんぼの女と結婚した女の間のたった一つの違いは、一方は家庭と家名を得るために一生にわたって自分自身を小間使いの奴隷として売り渡すのに対して、他方は自分の望む間だけ売り渡す、という点にある。立ちんぼの女にはどの男に自分の情愛をささげるかを選ぶ権利がある。その一方で結婚した女にはそんなことは全くできない。主人の抱擁を拒むことなどありえないし、その抱擁がどれほど自分にとって忌まわしいものであろうが、主人の命令には従わなければならない。自分の強さと健康を犠牲にすることになっても主人の子を孕まなければならない。つまるところ、結婚した女は生涯のすべての日のすべての時間を売春しているということだ。結婚した姉妹たちのこの恐ろしい、恥ずべき、堕落した状態を見るにつけ、最もひどい種類の売春だとしか言いようがない。一方が合法で他方が非合法だという例外があるだけだ。

ここでは愛と自信と尊敬に基づく結婚というごくわずかの例外事例については扱わない。それらの例外はただルールを支えるだけである。しかし合法であれ違法であれ、あらゆる種類の売春は不自然で、有害で、卑しむべきものである。そして私はこの悪魔的なシステムが廃止されるまでこの状況は変わらないと確信している。しかし同時に信じるのは、女性の奴隷状態をもたらすのは経済的依存だけでなく、女性自身の無知と偏見でもあること。そして婚姻制度が女たちを無知と愚鈍と偏見の下に置く現在にあっても、我が姉妹たちが自由になることは可能だと確信している。私は、したがって、結婚を弾劾することこそ私の最大の義務だと考える。伝統的なものだけでなく、いわゆる「モダンな結婚」であろうが、妻とハウスキーパーを娶るという思想、一方の性を他方の私有財産ととらえる思想を私は弾劾する。私は女性の自主独立を要求する。自らを助け、自らのために生き、気に入った人を――気に入ったすべての人を愛する権利を。両性の自由を、行動の自由を、愛の自由を、母性の自由を、私は要求する。

アナーキーの下でのみこれが達成されるのだ、などと口にしないでもらいたい。それは全くの誤りである。アナーキーを実現するためには、まず第一に自由な女性が必要なのだ。自分の兄弟と同じくらいには経済的に自立している女性たちが。自由な女性がいないならば、自由な母もあり得ない。そして母が自由でないならば、若い世代がアナキスト社会の建設と言う我々の目標を達成に助力してくれようなどと望むべくもない。

唯一神を廃して多くの崇拝対象を作り出した自由思想家とリベラルよ、いまだに日曜学校に子供を通わせている急進主義者と社会主義者よ、今日の道徳の基準に妥協するすべての人々よ。私はあなたがた皆に言いたい。結婚にしがみつきそれを維持することは勇気の欠如だ。理論の上では不条理だと認めているにせよ、あなた方は世論を拒み実際に自分の人生を生きるエネルギーを持ち合わせていないのだ。あなた方は未来社会における男女平等を云々するけれども、いま女性が苦しむことについては必要悪だと考えている。あなた方は、女性は劣っていて弱いと言う。女性が強く成長するために手を差し伸べるどころか、女性を劣位に置き続ける状況に加担している。あなた方は私たちに貞節を要求しながら、自分はよりどりみどりを好み、機会さえあればどこでもそれを楽しむわけだ。

結婚は何世紀にもわたる呪い、嫉妬、自殺、犯罪の源である。必ず廃絶しなければならない。若い世代が健全で強い、自由な男と女に育つことを望むならば。


https://note.com/naminanamix/n/nda44047d15ff(2023年4月21日検索)
訳者より:去年翻訳して、未完成のまま眠らせていたのですが、もったいないので公開します。アナーカ・フェミニスト、エマ・ゴールドマンによって1897年に書かれたものです。
原文:Marriage by Emma Goldman(名波ナミより)