ヤヴォール゠タリンスキー
諸国の市民から諸都市の市民へ
今日の市民は、もはや、古代ギリシャ世界で確立された市民権の高度で卓越した人間的基準に近づくことすらできない。市民を生み出すための個人的・社会的訓練、すなわちパイデイアだけでなく、この意味をも取り戻さねばならない。
マレイ゠ブクチン[1]
現状の危機に対して市民権の再活性化を提唱しようとする人々は、大抵、その考えは排他的過ぎて今日では有意義な道筋を示せない、という主張に出会う。この主張によれば、市民は均質な全体の一部分であり、外部の他者を排除しがちだという。
このような市民権の拒否は、この概念を国民の市民権と同じと見なす混乱から生じている。よく知られているように、市民の概念は古代アテナイで生まれ、民主主義の概念と不可分だった。古典的アテナイ社会は家父長制と奴隷制に蝕まれていたが、大胆にも当時の急進的概念を打ち出した--都市の自主管理に民衆が直接参加したのだ。
哲学者コルネリュウス゠カストリアディスが強調しているように、古代アテナイ市民の平等は、公平で受動的な「権利」の付与ではなく、公共問題への積極的な一般参加に基づいていた[2] 。彼の結論は古代ギリシャの哲学者達の結論にも基づいている。彼等も民主主義と市民権を同じように見なしていた。ヘロドトスにとってもアリストテレスにとっても、それは立法に関する純然たるデモス(市民)の力であり、代表者を選挙する代わりに抽選と輪番制で陪審官が選出された[3] 。だから、反植民地の革命思想家CLR゠ジェームズは、古代アテナイの文脈で、全市民の公会が政府だったという事実が重要だと強調しているのである[4] 。
この枠組みには、市民とそのトポス--つまり市民が住む空間--との直接的結びつきがあった。その中で、市民は考えと経験を共有し、その結果、有機的コミュニティを形成した。この二つが織りなして一つの全体が生まれていた--都市と市民集団が一体となった活気ある市民生活である。このように、この文脈は市民権に一つの本質を与える。単に受動的権利を有するだけでなく、主として、意思決定への積極的参加と政治的審議への情熱も持つのである。古代アテナイで都市の自主管理への参加を拒否した人々がイディオテスと見なされていたのは不思議ではない。この言葉は現代の愚か者の語源だが、今はその意味を限定的に使っている。
市民権概念の変化はローマ帝国で始まった。ローマ帝国も奴隷制と家父長制に蝕まれており、市民であることの本質的意味を緩和し始めた。市民集団は活動的政治参加から切り離され、その代わり、所有・契約・法的サービス・一部の免税に関わる権利、そして垂直型の官僚機構内で投票し、公職に就く権利(アテナイ市民が実践した直接的集団意思決定と混同してはならない)と同一視されるようになった。
市民権の意味は16世紀以降の国民国家台頭でさらに混乱した。この時点で、政治的対話の枠組み全体が大きく変わった。この新しい極度に官僚化された文脈で、新たなプロセスが始まった。国民構築プロセスである。それぞれの国家には、国家を内面化するのに最適な国民機関が必要である。このプロセスは、多くの場合は暴力的手段を使って、国境内に偶然居合わせた多様な住民に一つの言語・文化・国旗・管理階級などを強制し、均質化する。
国民を通じた国家の内面化は、有意義な政治参加からさらに多くの住民を遠ざける--国家主義官僚制は最も小さい集落にまでその統制を拡大し、その管理に関わろうとする。他の領域でも、たとえそれが性のような個人的なものであっても、同じことを行おうとする。このように極度に官僚化された環境で、政治参加の幻想を維持しているのは、代表者選挙という儀式である--このプロセスは、日常生活から時間的にも空間的にも離れすぎているため、政治とは似ても似つかない。この点で、市民は名前だけの市民であって、本質的に市民ではないのだ。
その代わり、この枠組みで市民権は国民への帰属という法的側面に変換される。各個人は、国民に属するために一定の基準を満たさねばならない。国家が市民の地位を付与する。この環境で、市民は参加するのではなく、所属する。そのアイデンティティは共同生活の時間的・空間的次元から引き離され、本質的に何も変えられない単調な国民神話のループにはめられる。排外主義極右組織が頻繁に市民権(つまり、国民に属しているかどうか)を理由に排除しているのも不思議ではない。
こうした排除の論理に人々が恐怖を感じるのは当然だが、人々は、排外主義やレイシズムの態度を育む体系的枠組みではなく、市民のアイデンティティそのものを否定する間違いを犯している場合が多い。これが間違っているのは、市民権という概念には、現行システムのパラメーターを超えて、別な途を提供する可能性を秘めているからだ。しかし、これには、市民権を抜本的に再定義し、市民権の異なる理解へと回帰するという意味が必然的に含まれる。抽象的な国民全体へ受動的に帰属する(これが受動性と疎外を促し、民衆を群衆に変える危険が常にある)のではなく、公共問題へ積極的に参加する(人々を外に連れ出し、社会環境と再び結び付けるという意味を含む)のである。
社会的エコロジストのマレイ゠ブクチンによる次の主張には首肯するところが多い。都市と市民権を無視することで、私達は、匿名性と無力感に脅かされている大多数の人類から孤立する危険を犯している[5] 。レイシズムと差別の根本原因--つまり、疎外と孤立--に取り組むには、集団的活動を可能にする抜本的に異なる環境を創り出さなければならない。ハンナ゠アレントが思い起こさせてくれているように、活動は、工作と異なり、孤立してはできない。孤立は活動する能力の剥奪である[6] 。
そうした選択肢の一つは、共同生活の空間的・時間的次元と市民権の再接続で可能になる。こうした次元は、総会や民衆集会といった参加型草の根機関を通じて具体化され、その後、政治への情熱を持つ文化/パイデイアを復活できるようになる。アレクシ゠ド゠トクヴィルのような垂直型選挙制の支持者でさえも、直接民主制の文化的メリットを認めざるを得ない:
自由な人民の力が住まうのは地域共同体の中なのである。地域自治の制度が自由にとってもつ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって自由は人民の手の届くところにおかれる。それによって人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。[7]
松本礼二訳、『アメリカのデモクラシー』第一巻(上)、岩波文庫、97ページ
こうした枠組みの中で、市民とは、共同生活の自主管理プロセスに参加する情熱を持つ人である。社会学者サリー-アン゠アキュエテ(Sally-Ann Akuetteh)は、直接的政治参加は、主流から排斥された少数派グループを含めた万人に権能を与えるため、レイシズムと差別に抵抗する上でも不可欠だと論じる:
前述した理念を具体化する参加型民主主義は、レイシズム・セクシズム・ホモフォビアが妨害できないやり方で個人を市民として確立できるようにしてくれる。より大きなコミュニティ感覚を創り出すだけでなく、「他者化された」個人がこのプロセスを道具として使い、規範の範囲に抵抗し、それを拡張できるようになる。参加型民主主義のこの要素は、よりいっそう今日的意味を帯びている。とりわけ、抑圧された側の最良の代表者は、当事者自身だからだ。[8]
レイシズムや排外主義といった人間として最低の感情を簡単に消滅させられる絶対確実な方法も魔法のようなトリックもない。しかしそれでも私達は、社会の政治的構造を再構築して、出来るだけそれらが入り込む余地を残さないよう努力できる。誰一人排除せずに、全ての社会構成員に発言権と参加権を与えるのである。こうしたステップの一つは、集団生活を再活性化させること、空間・経験・日常生活を共有する人々に会いに出かけることなのである。
[1] (以下原註)Murray Bookchin, Urbanization Without Cities: The Rise and Decline of Citizenship (Montreal: Black Rose Books, 1992), pxviii.
[2] David Ames Curtis (ed.), The Castoriadis Reader (Oxford: Blackwell, 1997), 275.
[3] David Ames Curtis (ed.), The Castoriadis Reader (Oxford: Blackwell, 1997), 276.
[4] CLR James, Every Cook Can Govern: A Study of Democracy in Ancient Greece & Its Meaning for Today (1956) [オンライン: https://www.marxists.org/archive/james-clr/works/1956/06/every-cook.htm].
[5] Murray Bookchin, Urbanization Without Cities: The Rise and Decline of Citizenship (Montreal: Black Rose Books, 1992), pxi.
[6] Hannah Arendt, The Human Condition (Chicago: The University of Chicago Press, 1998), p188.(邦訳は、https://ci.nii.ac.jp/ncid/BD01113154)
[7] Alexis de Tocqueville, Democracy In America (1831) [オンライン: https://www.marxists.org/reference/archive/de-tocqueville/democracy-america/ch05.htm](邦訳は、https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB18137866)
[8] Akuetteh, Sally-Ann, "Democracy for Resistance: Employing Participatory Democracy as a tool for Social Resistance" (2018). UNF Undergraduate Honors Theses. p23.