#title 語彙集シリーズ アナキズム #author シンディ・ミルスタイン #LISTtitle 語彙集シリーズ アナキズム #date 2012 #source https://web.archive.org/web/20130625020107/http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/(2023年2月18日検索) #lang ja #pubdate 2023-02-17T19:43:48 #authors Cindy Milstein #topics アナキズム, 語彙シリーズ #notes [[https://web.archive.org/web/20130625020107/http://anarchiststudies.org/][The Institute for Anarchist Studies]] と[[https://web.archive.org/web/20130625020107/http://www.akpress.org/][AK Press]]が共同で、語彙集シリーズを出しています。いくつか翻訳が終了しているので、アップしていこうと思います
まずは、アナキズム。原文は以下ですが、パンフレット仕様のPDFになっているので、ご注意を。
[[http://www.revolutionbythebook.akpress.org/wp-content/uploads/2012/03/lex_anarchism_master.pdf]] (ONLINEアナキズムより) 私にとって、アナキズムの精神は、万人の利益・万人の自由と公正・民衆間の連帯と愛情を達成しようとする深遠な人間的心情を意味する。この心情は、アナキストを自認する人だけの特徴ではない。寛容で広い心を持つ全ての人を鼓舞するのだ。 --エンリコ=マラテスタ、「ユマニタ=ノヴァ」紙、1922年4月13日 アナキズムは、その中核において、確かに精神である--この精神は、現代社会の不正全てに反対して叫び声を上げながら、別種の社会組織ならば正しくなり得る全てのことを断固として宣言する。アナキズムを考察するには多くの方法があり、それらは異なってはいるものの補い合うことも多い。ただ、極めて簡単に言えば、アナキズムは「自由人からなる自由社会」を求めて奮闘することだ、と定義できるだろう。このフレーズは一見単純である。しかし、ここには潜在的な多次元的批判と、包括的で--脆弱であったとしても--再建的なヴィジョンとが結合している。 ここで、アナキズムをさらに簡潔に示した表現、あちこちで目にする「サークルA」イメージが手助けになる。Aは、権威の欠如を意味する古代ギリシャのanarkhia--「ない」の意を持つ語幹であるaと「支配者・権威」を意味するarkh(os)の結合--を示す記号である。もっと正確に現代的に言えば、支配(他者の統制や監理)とヒエラルキー(支配と服従から成る格付けされた権力関係)双方の欠如を表している。サークル(円)は、Oと見なすことができ、「秩序」(order)もしくはもっと適切には「組織」(organization)を示す記号である。これは、ピエール-ヨセフ=プルードン著「財産とは何か?」(1840年)における独創的定義を使えば「人が平等に正義を求めるように、社会はアナーキーに秩序を求める」ということになる。サークルAはアナキズムを二重のプロジェクトとして象徴している。一つは、支配・ヒエラルキー形態の社会組織(つまり、他者を支配しようとする社会関係)の廃絶であり、もう一つのプロジェクトは、水平型の社会組織(力を分かち合い共有する)--つまり、自由人からなる自由社会--による現行社会の交替である。 アナキズムは自由主義の最良の部分と共産主義の最良の部分との綜合である。自発的で非ヒエラルキー型の平等主義社会に向けて活動する諸伝統の最良の部分がこれらを高め、変化させてきた。最も広義の自由主義プロジェクトは、個人的自由を確保することである。共産主義の最重要プロジェクトは、共同的美徳を確保することである。双方のケースでの--特に自由主義と共産主義を現実に実行する際の--「自由」という言葉、そして、自由を確保する上で国家と財産に強調点を置いていること、これらについては疑問視できるし、疑問視すべきである。それでも、それぞれ、その最も「民主的」な場合には、一方の目的は解放された人生を生きることができる個人であり、他方は共同体の方針に沿って構造化されたコミュニティを求めている。どちらも重要な概念である。不幸にして、この偏ったやり方--自己を通じてか、社会を通じてか--で自由を獲得することはできない。これら二つは必ず、ほとんどすぐさま、対立する。アナキズムの大きな跳躍は、自己と社会を一つの政治ヴィジョンに結合させたことにあった。同時に、支援の支柱として国家と財産を放棄し、逆に自主組織と相互扶助に依拠したのだった。 術語としてのアナキズムという言葉は19世紀欧州に出現したが、その大志と実践は、世界中で数百年にわたり、奴隷の反乱・農民暴動・異端宗教運動といった、人々が「もうたくさんだ」と結論付けたことの中から、そして、数世紀にわたる様々な自立形態を持つ関連実験から成長した。 アナキズムは18世紀の啓蒙思想にも一部影響されている。これは、最良の場合、三つの重要概念--その大部分がこうした反乱から理論化された--を社会に広めた。第一に、個人は理性を行使する能力を持っている。第二に、人間が理性を行使する能力を持っているなら、自分の思考に基づいて行動する能力も持っている。そして、たぶん最も解放的な三つ目の思想が出現した。人々が自分の発意で考え、行動できるなら、人々は、潜在的に、善い社会という概念に基づいて思考し行動できることは文字通り理に適っている。人々は革新できる。人々は、よりよい世界を創造できるのである。 多くの啓蒙運動思想家が社会組織に関する明確な新しい概念を提示した。それらは、実践から導き出されるだけでなく、理論の中でも個人の権利から自治まで幅広く明言された。印刷テクノロジーの進歩は、人類史で初めて、本・パンフレット・定期刊行物を通じて、この文書資料を比較的広く普及させた。喫茶店・公立図書館・公園のスピーカーズコーナー(自由に演説できる場所)といった新しい公共社会空間が、こうした煽動的思想に関する議論とその普及を可能にした。これらの一つとして、人々が自分で考えたり、自分で行動したり、人間に関わる懸念から活動したりすることを保証するわけではなかった。しかし、このコペルニクス的転換は、少なくとも理論的に、次の点で革命的だった。すなわち、これ以前には、これほどまで相互に結びついて、これほどまでに自己を意識しながら、さらに重大なことだが、これほどまでに幅広く、自分達で組織を作る手段や能力を持っているなどと、大部分の人々はまずもって信じていなかったのだ。例えば、農奴として孤立した村に生まれた人は、自分は自分の全人生をその状況に従って生きることになると考えていたのである。つまり、人々は、来世にあるより良い生活を期待しながら、自分の運命と社会秩序を厳格に神が与えたもの・自然が与えたものとして受け入れていたのだった。 理論と実践の触媒的関係のために、多くの人々は、こうした三つの啓蒙思想を徐々に奉ずるようになり、宗教的な組合教会性から世俗的な共和主義・自由主義・社会主義まで、多くのリバータリアンイデオロギーを導いた。この新しい急進的衝動は、多くの政治的・経済的服従形態を非難し、欧州や、ハイチ・米国・メヒコといった欧州以外の至る所で、革命の勃発に寄与した。この革命的時期は、大まかに言って、1789年から1871年まで続いた(そして、20世紀初頭に再出現した)。 アナキズムはこの環境の中で発展した。「古典的」アナキストであるピョトール=クロポトキンの言葉を使えば、アナキズムは社会主義の「左翼」だった。全ての社会主義者同様、アナキストは経済に、特に資本主義に焦点を当てた。そして、職人だけでなく、工場や田野にいる労働者階級を革命の主たる行為者だと見なした。また、アナキストは、多くの社会主義者はアナキズムの「右翼」つまり非リバータリアン側におり、少なくとも国家の批判に関しては弱腰だ、とも感じていた。こうした初期のアナキストは、その後のアナキストと同様に、国家は社会的支配を構成することに共謀していると見なしていた。国家は資本主義を補完し、資本主義とともに活動していた。しかし、国家はそれ独自の明確な存在でもあった。資本主義同様、国家がその他の社会政治システムと「交渉」することはない。国家は次から次へと数多くの統治空間を占めようとする。中立であることもなければ、「抑制と均衡」にもなり得ない。国家はそれ自体の命令・統制論理を、政治権力独占の論理を、持つ。アナキストは、国家権力を利用して資本主義を徐々に廃止させることなど出来ないし、非資本主義・非国家主義社会に向けた過渡的戦略として国家権力を利用することも出来ない、と主張した。アナキストが主張したのは、「神もなく主人もない」という包括的観点であり、この観点は、その時代が持つ三つの大きな懸念を中心としていた。つまり、資本・国家・教会であった。これは、例えば、「共産党宣言」の「今日まで、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という主張とは対照的だった。アナキストがこの歴史を真面目に受け取っていなかったというわけではない。だが、他の歴史も多くあり、他の闘争もあったのだ。アナキズムは数十年にわたりこれらを書き入れ続けることになったのだった。 多くの人々が今日再発見しているように、アナキズムは、マルクス主義が長い間格闘しなければならなかったことを最初から探求していた。支配とヒエラルキー、そして、それらを須らくより大きな自由で置き換えることである。とは言うものの、アナキズムの古典的時期は、数多くの盲点、そして、ある種の素朴ささえもを示していた。資本主義・国家・教会を越えて支配が生じているジェンダーと人種のような分野は、多くの場合に軽んじられるか、全く無視されるかしていた。19世紀のアナキズムは、様々な形態の抑圧を特定するという点で、必ずしもその時代を常に越えていたわけではなかった。また、生態系崩壊について多くの懸念を持っていたわけでもなかった。 もちろん、古典的アナキズムを組織形態に関する現代の遙かに洗練された理解と無数の支配類型と比較するのも少々不公平である--アナキズムにとっても、他の社会主義にとっても。アナキズムは時とともに、理論的に、そして実践を通じて発展した。その根本原則であるダイナミズムこそが、アナキズムを独自の難問に尽力できるように大きく貢献していた。他の社会運動と急進主義思想に対する寛容さが、アナキズムのさらなる展開に寄与した。あらゆる新しい政治哲学同様、長年にわたる多くの意見と多くの実験とがアナキズムをもっと力強い、微妙な差異を明らかにする世界観へと発展させた--アナキズムの初期衝動をまじめに捉えるならば、これは、付け加えられていく盲点を説明するためにこの世界観を常に拡充するプロセスなのだ。過去も、現在も、そしてこれからも引き続き、アナキズムは、最近のアンソロジーの題名を引用すれば、それ自体を「始まりにすぎない」と見なすのである。 その始まりから、アナキズムの中核となる大志は、あらゆる強制的でヒエラルキー型の社会関係を根絶し、撲滅し、いかなる場合でも合意による平等主義の社会関係を考え出し、それを確立することであった。革命的可能性の時代に、そして、様々な古い生活様式が莫大な数の変遷によって非常に明白に破壊された時代の中で、初期のアナキストはより良い社会に向けたヴィジョンに関して贅沢なことが非常に多かった。失われてしまったこと(小規模農民コミュニティから共有地まで)と獲得したこと(潜在的に解放的なテクノロジーから潜在的にもっと民主的な政治構造まで)を生かして、一連の非妥協的な再建的倫理を作り上げたのである。 こうした倫理は今もアナキズムを駆り立てており、実践においてアナキズムに大きな説得力を与えている。アナキズムの価値観は一つの挑戦としての役割を果たしている。つまり、今いる全ての人の生活の質を実際に改善することで、自由という眩い地平に絶えず近づこうとするのである。アナキズムは、「不可能を実現」しようとしているまさにその時に、常に「不可能を要求」する。 その理想主義は徹底的に実用的なのだ。ヒエラルキー型社会組織によって、大部分の人々のニーズと願望が満たされるなど決してあり得ない。だが、幾度となく、非ヒエラルキー型組織は、この目的により近づくことが出来るということを示してきた。ユートピア諸観念を実験してみることは、卓越した倫理的感覚をもたらす。このことを一貫して惜しみなく、根気強く行っている政治哲学は、そして、この旅程それ自体で出会う多くの行き詰まりについてこれほどまで真っ正直な政治哲学は他にはない。 アナキズムは、平等主義型の社会組織は、特に、支配の徹底的根絶を求めた組織は、個人の自由と集団の自由双方を前提としていなければならない、と理解していた。万人が自由でなければ誰も自由ではなく、万人が自由になり得るのは、個々人が個性を持ったり、最も包括的な意味で自己実現をしたりするときだけである。同時に、アナキズムは、直感でしかなかったにせよ、この作業は絶えずバランスを取る行為であり、なおかつ、現実生活の本質でもあると認識していた。ある人の自由は、必然的に、他者の自由を、もしくは万人の幸福さえもを侵害する。万人のニーズと願望を満たす公益などあり得ない。アナキズムは当初から、困難だが究極的には実用的な疑問を問うていた。このように自己と社会双方を同時に扱うことが人間の条件の一部だと認めつつ、自分がなりたいと思う人になると同時に、その上あり得る全てのコミュニティをも創造すべく、自分たちの生活を集団的に自己決定することなどできるのだろうか? アナキズムは断言する。この緊張は、人間存在の創造的で固有の一部であり、建設的である。アナキズムは強調する。人間は誰もが似ているわけではなく、同じものを必要ともせず、同じものを欲しているわけでもなく、同じものを望んでいるわけでもない。その最高の状態で、自由な個人からなる自由社会というアナキズムの基本的大志は、生産的で調和した不協和音となるべき姿に透明性を与える。自分たちが持つ差異の中で共存し、成長する方法を見つけ出すのである。アナキストは、本質的に参加型の思いやりを持ったプロセスを創造する。アナキストは、個人的自由と社会的自由との間にぎこちなさが常に存在するという事実に対して誠実である。アナキストは認めている。バランスを見つけることこそが継続的な闘争となるだろう。この闘争こそが、まさに、アナキズムが生じる場所である。生の美が最も広範囲に、最も自己建設的に出現する--時として定着する--最大の可能性を持つのは、この場所なのである。 これは、社会のあらゆる水準で生じるが、最も個人的な水準でも経験する。それは、広く日常的な諸問題について顔を付き合わせた意志決定を行う小規模プロジェクト--食品協同組合から自由学校、占拠まで--においてである。これは、世界の大部分の場所で人々が行うように勧められたり、教えられたりしていることではない。その最もあからさまな理由は、そこに現在の縦型の社会協定を破壊する種子が含まれているからだ。このように、私たちは、一般に、直接民主主義プロセスに特に長けているわけでも、そのプロセスについて要領がよいわけでもない。集会意志決定メカニズムは骨の折れる作業である。人々は難問を提起する。しかし、そうしたメカニズムを通じて、人々は、集団自治の基盤になり得るものを、権力を万人に再分配するための基盤になり得るものを、学ぶのである。もっと重要なことは、人々が、旧世界にある可能性の空間から新世界の構造を自己決定する、ということである。 アナキズムは人類史を通じて民衆が奉じてきた崇高かつ慎み深い信念を表明する。私たちは完全に優れた、物質的に豊富な社会を想像出来るし、実行することも出来るのだ。これがアナキズムの精神であり、人間につきまとっている亡霊ある。私たちの生活とコミュニティは本当にかなり善くなり得る。さらに善くなり得る。そして、もっと善くなり得るのだ。