http://www.revolutionbythebook.akpress.org/wp-content/uploads/2012/03/lex_gender_master.pdf (ONLINEアナキズムより)
ジェイミー・ヘカート
語彙集シリーズ ジェンダー
ジェンダーとは、自分自身と相互関係(肉体・願望・行動を含む)とを分類する体系である。この体系は文化と社会のあらゆる側面に蔓延し、他のカテゴリーやヒエラルキー(人種・階級・性別・年齢・能力など多くの)と絡み合っている。様々な生物学的側面(例えば、生殖器・染色体・体型)から、人間は本来二つのカテゴリー--男と女--のどちらかに属している、と解釈されている。しかし、もっと綿密に見てみれば、ジェンダーの性質に疑問を持つことになる。生物は、人間であろうとなかろうと、素晴らしく多様なのだ。
自然がこれら二つの選択肢を与えたのではない。私たちが解釈し、分類し、そうした解釈とカテゴリーが真実だと信じるようになっているに過ぎない。ジェンダーは偶然生じたのではなく、人々が定義し、発明したのだ。インターセックスの肉体への性器手術さえもが矯正治療だと述べられる。まるで、この二元的思考に一致しなければ、自然が間違いを犯したということになるかのようだ。
私たちがジェンダーを発明した以上、現在とは違う発明をすることも出来る。これをハッキリさせるためには、歴史を通じて、文化を越えて、ジェンダーが定義されてきた様々なやり方を見ればよい。ジェンダーの定義には社会生活と人格の様々な面が含まれていたのだ。「本物の」男や「善良な」女、男らしい・女らしいと思われていること、これらは場所と時代によって異なる。ジェンダーが二つの選択肢に限定されず、三つの、四つの、もしくは多くのジェンダーが認められているような文化やサブカルチャーもある。
しかし、米国・カナダ・英国のような国々での説明には通常二つの選択肢しかない。これらの国々は公式的で法的な平等を提供しているかもしれない。だが、実際には、未だに、女と女らしさに関わる特性(例えば、相互依存性・愛・優しさ)よりも、男と男らしさに関連した特性(例えば、独立心・統制力・強さ)に大きく価値を置いている。このヒエラルキーは把握しにくい場合もあれば、露骨な場合もある。慣習と制度・社会化と文化を通じて、他のヒエラルキーと共に一つに編み込まれ、多くの複雑な効果を生み出す場合もある。こうした支配的文化では、精神と理性は、肉体と感情とは別であり、かつそれらよりも優れていると考えられている。同様に、有色人種よりも白人に、休養よりも行動に、同性愛よりも異性愛に、柔よりも剛に特権が与えられている。
ジェンダーは多かれ少なかれ杓子定規になり得る。変態的だとか不自然だとか不道徳だとか仮定されるジェンダー行動は、社会的非難に遭いかねない。その範囲は、からかい・いじめ・差別・投獄・強制的な医学「治療」・性暴力・情緒的虐待・殺人さえにも及ぶ。この暴力が最も明白になるのは、トランスジェンダーなどのように、不変で自然だと社会が仮定する二つのジェンダーに違反する人に対して生じる時である。何故、ジェンダーの違反がそれほどまでに、暴力に達するほどまでに、強い感情を引き起こすのだろうか?多分、その理由は、本物の男や本物の女の完全な例などいない、ということにあるのだろう。誰も、このような抽象的理想に従って生きることはできない。しかも、このような理想は、それが何を意味しているのかについてすら、全く矛盾するメッセージを持っているのである。
大部分の人は、自分の実際の有り様を率直に意識するのではなく、あるべき姿だと自分が考えていることに順応しようと身をよじらせている。自分のジェンダーの自己監視は身近なことで、習慣的で、気づきにくいため、順応するための労力は自然で苦にならないと思われるかもしれない。しかし、恐怖や羞恥心でしがみついている習慣を徐々に自覚するようになることは大いに解放的であり、正しいと感じると、そうした習慣を手放すようになるのである。
ただ、ジェンダーは単なる個人的経験ではない。対人関係と社会的諸制度の全てに編み込まれている--その多くは現在、偶然の場合もあるにせよ、大部分の人々を規制したり、傷つけたり、統制したりする役目を果たしている。多分、今日これを行っている最も明らかな構造は家族であろう。人は、一般に、家族においてジェンダーに伴う不安と期待に初めて気づくようになる。家族とは何か、家族はどのように機能するのか(もしくは、家族はどうあるべきで、どのように機能すべきなのか)、というまさにその考えさえもが密接にジェンダーと関係している。
例えば、理想化された核家族とは、男性の「世帯主」が率いる、一夫一婦の、結婚した、生殖を行う、異性愛カップルで構成されるものとして定義される。現段階の資本主義では女性が家庭の外で働くことが経済的に必要な場合が多い。しかし、女性は、家庭の外で働いていても、仕事のような職務についてはほとんど認められることがなく、家事・感情労働・子育てをさらにもっと行うことになる見込みが高い。子供達は、生まれた時からジェンダーのレッテルを与えられ、そのレッテルに従うよう期待されかねない。世帯主であることが特権である一方、男らしさは家族を経済的に支えることが出来るかどうかに結びつく。その結果、階級に基づく社会では、これが大きな不安・不満・恥辱を導くのである。
家族よりも大きな政治経済も抑圧的で搾取的なやり方でジェンダー差を作る。家庭内での女性の労働が軽視されていることが多いように、女性的な全ての労働も資本主義においては軽視されている。人々が「経済」について語るとき、そこには、通常、賃金労働・道具や知識の生産・そうした商品の販売と流通だけが含まれており、そうした狭い表向きの定義について述べていることが多い。この理解での経済には、出産と(無給の)子育てや、あらゆる経済が依存している(無給の)家事は含まれていない。
資本主義とそれに関連する植民地主義プロジェクトも、非資本主義文化が持つ伝統的知識を真に認識してはいない。そうした文化が持つ、例えば、植物を扱うことに関する膨大な知識は、製薬会社と農業法人に搾取されている。有色のフェミニストたちは気がついていた。植民地主義が有色人種のスキル・知恵・労働に無意識的に依存していることと、あらゆる人種の女性たちとは関連しているのだ。植民地諸国にいる多くの有名な歴史的人物たちは、白人であり男性である。白人男性それ自体に問題はなく、何ら特別な存在でもない。白人優位主義文化とジェンダーヒエラルキーが優位性を私たちに信じ込ませようとしているだけである。さらに、たった一人で何かをなしている人などどこにもいない。私たちは皆、他者の活動に依存している。資本主義思想では過小評価されているが、こうした活動は固有の価値を持ち、代替経済の方向性を示しているのである。
実際、女性と女らしさに関連する仕事(教育・看護・清掃・傾聴のような)に賃金が発生しても、男性と男らしさに関わる仕事(スポーツ・金融・統率・講演)よりも遙かに給料が安い。もっと言えば、このジェンダーヒエラルキーは、人種と階級の不平等と結びついている。例えば、地位の高い女性が、伝統的に男性と結びついていた仕事に就き、その結果、女性的労働が地位の低い女性に移っていく場合がそうだ。
国民国家もジェンダー差を作る。伝統的な世帯主のように、国家の長は服従と引き換えに保護を提供する。国家の他の特徴(厳密な国境線・競争・攻撃・独立)も、男とある種の男らしさと結びついている。ある国家が他の国家を侵略するのは、その優越性を証明するためである。ここにも人種と富のヒエラルキーが含まれる。経済的成功のために競争する個人や家族のように、国民国家は本質的に不安定なのだ。恐怖を創り出し、同時に、安全を約束することで、国民国家はその存在を常に正当化する。
人間を人種・民族・階級・国家に分類する方法は、全てジェンダー差を作る。よくある固定観念を考えてみよう。受動的な東アジア女性・性欲過剰の黒人男性・境界(国家であろうと町内であろうと)の向こう側からやってくる風変わりな余所者などだ。植民地への侵略は、褐色の女性を褐色の男性から保護すると公言しながら、富と英雄気取りに惹きつけられた白人男性(と女性)によって長い間正当化されてきた。褐色の男女--特にいわゆる発展途上国にいる人々--を、慈善を必要とする犠牲者の役割へ割り当て続けること、これが現行の不平等を強めているのである。
ジェンダーの分断は矛盾に満ちている。例えば、階級ヒエラルキーは、手作業(肉体を使う労働であり、女らしさに関連している)といわゆる熟練労働(精神を使う労働であり、権威と統制に結びついており、全て男らしさと関連している)との分断に基づいている場合がある。労働者階級の男らしい不満は、多くの場合、単にこのヒエラルキーを逆転させただけにすぎない。自分の肉体を行使する際の強さの方が本物の男らしさであり、清潔な服と柔らかな肌を持つ上流階級の男性は女々しい、ということを強調しているのである。
こうした憤り・優越であるという幻想・異なる文化のへ恐怖にしがみつくことそれ自体が、ジェンダー差を作られた情緒不安定な文化の一部である。ある感情を認めて、その感情をやり過ごすようにしたり、自分の感情に対処する健全な方法を見つけたりする代わりに、私たちの大部分は、感情にしがみつくか、感情を拒絶するか(これは、実際には、もう一つのしがみつき方に過ぎない)のどちらかを教えられる。自分の願望に満足することだけでなく恐怖にも満足することを学ぶのは、世界を創造することの一部である。自分達が受け入れることが出来る世界、類似点と相違点全てを持ちながらも互いに愛し合うことが出来る世界を創造するのである。
人間以外の自然界(「母なる自然」)との関係でさえも、ジェンダーと結びついている。自分自身のジェンダーであれ、ジェンダー差を作られた他者(クィアや外国人など)であれ、ジェンダーについて人々の恐怖と恥辱を煽り立てることは、自己中心的な精神状態を誘発する。自分が脅されたと感じるとき、その人はもちろん自己防衛の用意をする。生態系に重大な影響を持つ戦争を支持する際にこれが行われることもあるし、ショッピングの際であっても、これが行われることがある。肉体について人々を不安にし、不完全だとされる部分に焦点を当てた商品とサービスを提供するのである。これは、成長経済という火に対する燃料であり、有限な惑星では維持できないものなのだ。自己中心性(例えば、ある種の成功志向型の男らしさと関連している)のために、他者の肉体・他種・地球それ自体を、独自の権利を持つ存在ではなく、自分の利益のために利用可能な単なる「資源」と見なしかねないのである。
ジェンダーは、進化する生きたシステムである。ジェンダーに不変の真実があるわけではない。自分との・相手との・世界との関係を変えると、ジェンダーも変化する。ジェンダーの多様性は生の能力の驚くべき美しさに関わっている。この能力は、私たちがジェンダーに着せているあらゆる分類区分を氾濫させ、蝕み、転覆し、拒絶することができる。
思いやりは、お互いを捜し出し、支援しあい、育てあい、別な形でジェンダーを行うよう人々を動機付け出来る。自分を穏やかにしようとしている男達は友人になる。自分達が強くなりうると知っている女達は共に組織を作り、スキルを共有する。ドラッグクイーンとドラッグキング、バイセクシュアルとトランスフォーク、レズビアンの女性とゲイの男性、あらゆる性能力に関わるクィアは、自分達の空間を作り、お互いに結びつき、共有し、遊ぶ。友情・ネットワーク・運動も、これらのアイデンティティ全てとそれ以上のことを含んでいたり、それらと交差していたり、それらを超越したり出来る。
人は、安全だと感じるためにジェンダーアイデンティティにしがみつき、それ以外の時には、ジェンダーアイデンティティを軽くしか捉えていないかもしれない。別な空間・別な実践によって、自分自身の境界と自己監視のいくつかを捨てても充分安全だと感じることができるようになり、ジェンダーを気軽に面白く経験できるようになるかもしれない。
もちろん、家族が標準的ジェンダーに対する代案を具現化することも出来る。シングルマザーやシングルファーザー、親権を共同で持つ母親や父親、トランスジェンダーの両親、これらは全て、正反対のジェンダーだと仮定される二人の両親が子供達に必要だというわけではない、ということを示している。子供達のジェンダーの多様性は重んじられ、尊重される。人々は、仕事が家庭内でどのように振り分けられているのかを意識するようになる。
私たちは、アイデンティティだけでなく自分の役割についてももっと柔軟かつ実験的になり得る。人々は、血縁ではなく、親和性や友情や親密さに定められた家族を創り出すことがある。社会集団で、社会運動で、近所においてさえも、人々は、独自の儀式と関係を発達させながら、家族になり得る。住宅協同組合・友人と恋人同士からなるクイアネットワーク・その他の拡大家族、これらは皆、大きなジェンダー差を前提とする核家族という理想は多くの可能性の内の一つに過ぎない、ということを強調しているのである。
経済と政治も別種のものになり得る。資本主義と国民国家という支配的システムは唯一の選択肢ではない。これらは、人々が経済や政治に従事する大多数のやり方でさえない。逆に、最大の注目を要求しているだけのことである。例えば、フェミニストの地理学者と経済学者は、世界中に多様な経済が--生産・消費・共有・労働の形態が全く多様な--存在し、経済に関わる狭義の(そして、男らしい)定義には合致しないことを強調している。私たちは、多様で協力的で思いやりがある経済を認め、称え、開発し、真の代案としてその実行可能性を強調することが出来るのだ。
明確な境界を定めたり、自分の民族を取り締まったりするという社会統制方法は、政治として当然のことだと見なされているが、原住民の活動家-学者やアナキストの人類学者によれば、多くの文化は--いくつかの国でさえも--これと同じ傾向を持ってはいない。自分自身の生活の中で、誰が支配しているのかに関する公式的説明と、現実にどのような生活が機能しているのかとの違いに注目してみよう。現代社会の中で、他者と協同的に活動する諸要素だけでなく、自由・平等・芳醇を創造する生態系をどのようにして育むことができるのだろうか?
権力同様、ジェンダーはいたるところにある。自分達自身との関係、お互いの関係、地球との関係、国家・階級・文化との関係の中に満ちている。権力同様、ジェンダーそれ自体は問題ではない。逆に、私たちがどのようにジェンダーをやっているのかという問題である。ジェンダーは、統制・暴力・支配の様式になり得るし、人間存在の見事な多様性について語る新たな方法にもなり得るのだ。