Title: 語彙集シリーズ 権力
Author: Todd May
Date: 2012
Source: https://web.archive.org/web/20130625020107/http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/(2023年2月18日検索)
Notes: The Institute for Anarchist StudiesAK Pressが共同で、語彙集シリーズを出しています。いくつか翻訳が終了しているので、アップしていこうと思います
まずは、アナキズム。原文は以下ですが、パンフレット仕様のPDFになっているので、ご注意を。
https://web.archive.org/web/20130625020107/http://www.revolutionbythebook.akpress.org/wp-content/uploads/2012/03/lex_power_master.pdf (ONLINEアナキズムより)

権力は政治空間の中で最も理解しにくい側面の一つである。人々は、権力を求め、権力を保持し、権力を行使し、他者に権力を振りかざす、と言われる。右翼の側からすれば、権力は掌握されるべき現実だと見なされている。世界は権力が物を言う場所なのだ。権力を我が手に、というわけである。左翼からすれば、権力は何か汚いものだと見なされることが多い。平和と平等を確立するためには、権力を世界から取り除かねばならない、というわけだ。

権力をこのように語ることで、私たちは権力の実体と機能を熟慮できなくなっている。結局、「権力が物を言う」と述べることは、何を意味しているのだろうか?権力は世界から取り除かねばならないものだと述べることは、何を意味しているのだろうか?こうしたフレーズが使われる時、権力という言葉が何を意味しているのか本当に私たちは分かっているのだろうか?権力それ自体に対してある立場を取ったり、さもなくば、それが良いか悪いかを決めたりするよりも、権力を理解することの方が良いのではないだろうか。権力に対する単純な見解が私たちに思い込ませようとしている以上に、権力は複雑であることが分かっている。権力は、抑圧的にも創造的にも働く。良くもなれば悪くもなり得る。特定の人の手にある時もあるが、多くの場合はそうではない。逆に、権力は、個々人や組織が独占するのを阻むようなやり方で、社会関係を通じて生じ、広がる。

権力を、少なくとも政治権力を、「人々の行為に対する制約(constraint)の行使」と見なすことが出来るかもしれない。制約という言葉を抑制(restraint)という言葉と混同してはならない。ある行為を制約することとは、ある行為に影響を与えて特定の状態になるようにする事である。その行為を生じさせないようにするという場合もあり得るが、常にそうだというわけではない。制約がなければ生じなかった行為を起こすこともあり得、ある行為の方向性に影響することもあり得る。さらに注意しなければならないことがある。行為に影響することは、必ずしも、誰かに影響を与えて、それがなければ行わなかったことを行わせたり、その人が望まないやり方で影響したりするわけではない。そのように物事が起こることもあるが、いつもではない。教育制度が設定され、人々がその制度に影響を受け、自分の社会情況を熟考し、社会情況が耐えられないものだと分かったときにその情況を変えようとするようになる。これは権力操作の例である。ただ、この操作は多くの人々が承認するようなものなのである。

抑制や抑圧ではなく制約としての権力という考えは新しい。政治思想史の大部分で、権力は人々を抑制する方法だと理解されてきた。権力が国家と関連している場合が多いからである。結局、国家は社会で最も強力な抑制力なのだ。政治制度・裁判制度を通じて、国家は人々を投獄し、自由を剥奪できる。現代社会では人を殺すことも出来る。自由や生を剥奪すること以上に人々を抑制するものなどあるだろうか?

実際、国家はこの意味の権力を持っている。これは、政府の政策に反対して抗議行動をしている多くの人が気づいているように、無関係な権力ではない。左翼の人々が権力を批判する際に念頭にあるのは通常この種の権力である。

しかし、権力は必ずしも抑圧的ではない。両親・学校・雇用主(就職出来ている場合)・仲間でさえも自分の行動を形成する。この行動形成は、ある種のことを行うことを止めさせるだけではない。物事を行うようにさせたり、行うように勧めたりする。もっとある。こうした人々や制度からの権力は、ある種のことを行うようにさせるだけではなく、ある種のことを求めるようにさせることも出来るのだ。権力は、意志に反して行使されるのではなく、意思を形成するようなやり方で操作され得る。近年、私たちは、民主党と共和党の行為だけでなく、党の意志をも上位1%の人々が形成しているのを見ている。

ただ、人々の行為と意志を形成する際の権力の行使が個人的決定の問題にすぎないと考えるのは誤っていよう。権力が操作する方法の多くは構造的である。つまり、人々が現状のように形成されているのは、社会が構造化されている方法のためなのだ。これを示すために、現時点で起こっている実例を使ってみよう。新自由主義の時期(大体、1970年代後半か1980年代初頭頃に始まった)、人々は自分自身を起業家だと考えるように勧められてきた。これは、経済活動についてだけでなく、人生全般にも当てはまる。私たちは、自分自身を一定の資源--スキル・遺伝的性質・社会的知性--の集合体を持っていると見なし、こうした資源を使って目標や願望を最大化するように勧められている。ネットワーク作りによって、仲間は投資だと見なされる。衣服は装飾品というだけでなく、社会的地位への投資でもある。子供でさえも、将来の担保に対する投資として見なし得る。

このこと全ては、新自由主義的権力配置と一致している。私たちは、起業家のように行動するよう促され、自分自身を促し、お互いに促し合う。そして、起業家のように行動する中で、私たちがお互いに連帯する可能性が少なくなっている。

この起業家的方向性はどのように連帯を減少させているのだろうか?起業家は、新自由主義の時代には、それぞれが独立し、独りぼっちで、支援のない個人的な投資家になるものだとされている。新自由主義経済で公共事業が減少したり放棄されたりするのは偶然ではない。環境保護規制やインフラ社会基盤開発といった公共事業は、集団的事業である。起業家は単独行動の個人であり、自分のヴィジョンを発展させるために自分の資源を投資する。

これら全てのことは、社会の頂点にいる人々にとって都合がよい。自分自身を集団ではなく個人として見なすなら、連帯と集団的抵抗の重要性を考えられなくなる。他者を同志としてではなく競争者として見なすようになっていく見込みが高いのである。

しかし、このような思考と存在は、誰かが、もしくはある集団がこのようにすべきだと決めたために生じているのではないと認識しなければならない。エリートが何らかの秘密会議に集まり、「おい、人々に自分が起業家だと思わせることが出来れば、俺たちは彼らを分断し、何の苦もなく全ての富を手に入れることが出来るぜ」と考えた訳ではないのだ。自分自身を個人的起業家と考えること--実際に自分自身が起業家になること--は、陰謀の産物ではない。構造的なのだ。

権力は、陰謀というよりも構造的であることが多いという考えは古くからある。マルクス主義者・アナキスト・もっと近年ではミシェル=フーコーのような思想家の著作に見ることが出来る。この考えを大雑把に言えば次のようになる。権力--それが何らかの状態になるように私たちを抑圧しようと、私たちを作りだそうと--は、特定の歴史的社会実践から生じるのである。確かに、権力はトップにいる人々に利益をもたらす場合が多い。しかし、権力配置がトップにいる人々を利すると述べることと、トップの少数者がそうした権力配置を自分の利益のために作り出したと述べることとは違う。生活様式としての起業家はトップにいる人々を利する。トップにいる人々はそれを導入しなかった。これは、1970年代後半と1980年代初頭の様々な要素--石油危機やその後のケインズ経済学の理論的危機、新自由主義理論の台頭、情報伝達能力の増大、そのことによるもっと大きな地理的領域にわたる投資--が同時に生じた結果として出現したのである。

そして、政治権力は、抑圧的にも創造的にも、個人的にも構造的にもなり得る。良くも悪くもなり得る。既に見たように、自分の社会情況に関して熟考し、その情況に従事するように人々を教育することは、創造的権力形態であり、悪いというよりもむしろ良い。自分自身を進歩的だと考えている人々の間には、権力を専ら悪いもので、克服すべきことだと考える傾向がある。これは、主として、有害だったり耐え難かったりする権力配置に対決するからである。権力が世界でどのように機能しているのかを見ると、権力は、それに対して闘争したり、克服したりすべきものだと考えてしまいがちである。

そこには二つの誤りがある。まず第一に、私たちは権力の世界を排除することは出来ない。権力が、私たちを抑圧するだけでなく、自分を現在の自分に仕立て上げているならば、権力の部外者など存在しない。問題は、権力を排除することではなく、権力が社会でどのように操作されているのかを理解することである。このようにすれば、権力を評価でき、権力の効果を評価でき、人々の生を抑圧する特定の権力配置に挑戦することが出来るのである。

第二に、権力は建設的に使うことが出来る。思い出していただきたい。権力は、人々の行為を制約する。私たちは制約の対象だと言うだけでなく、その主体にもなり得る。私たちは制約の行為者になり得る。他者の行為を制約し、自分たちの特定の行為を「制約しない」ことも出来るのである。

自分がなりたいと思った場合以外に(もしくは、もっと正確に言えば、自分自身について熟考して--既に記したように、自分達の願望も創り出され得るためだ--自分がなりたいと思った場合以外に)自分がどのように形成されてきたのかを理解するようになると、私たちは、自分達自身の行為を制約しなくなる。例えば、起業家へと形成されてきたやり方を認識すれば、この形成に抵抗し始めることが出来る。他の存在様式を考えるために、他者との連帯を含んだ様式を考えるために、心を開くことが出来る。言われたとおりのやり方で自分自身について考えることを止め、自分が現在とは違うどのような自分になり得るのか、自分達が団結するには他にどのような方法があるのかを自問し始める。このことが新しい制約を導くかもしれない。しかし、建設的ヴィジョンを持っていれば、こうした制約は、現在自分達が置かれている悪い制約を良い制約で置き換えるだろう。

自分自身を制約しないことに加え、私たちは、他者の行為を制約することも出来る。富と財産双方を手に入れることを考えるよう私たちは教わってきた。本当にそうなのだろうか?生計をやりくりしようと奮闘している人々は、本当に、権力と富を持つ人々よりも価値がないのだろうか?多分、今や、私たちの自由になる手段を使って他者の行動を制約する時なのではないか。さらに、私たちが政治権力がどのように操作されているのかを理解すると、そうした手段が多くあることも理解できるだろう。権力を専ら抑圧的だと考える限り、闘争は大規模な拒絶行為にしかなり得ない。時として、これが求められることもあり、確かに、現在の権力配置で拒絶すべきことは多くある。

しかし、それ以上なのだ。私たちは、権力が操作されている方法に注意を促すべく行動できる。市民的不服従と抗議行動は、警察勢力が富裕勢力と提携しているやり口を未だに理解していない人々にそれを明示する。また、それらは、単なる被害者というよりも行為者として自分自身を考える力を人々に与える。さらに、私たちはお互いに教育し合うことが出来る。起業家になるよう教えられているなら、別なやり方で考え、生きるためにお互いに教え合うことが出来る。この教育は、抵抗している人々の間だけで行われるわけではないし、また、そうあってはならない。もっと広い民衆教育になるべきであり、そのことで、現状の生き方に制約されるのではなく、他のもっと健全な可能性を人々が理解出来るようになるかもしれない。

制約としての政治権力は多様で複雑で捉えがたい。これが絶望の源泉となっているように思われるかもしれない。これは、表面に現れないやり方で操作されるために、理解しがたい場合が多い。しかし、同時に希望の源泉でもある。権力が多様で複雑であれば、これは、私たちの戦術が多様で複雑になり得るということを意味する。現在の権力配置と対決するために、熟慮から対決から教育から直接民主主義まで、様々な水準で別種の権力実践を発展させることが出来る。権力が私たちを妨害してきたやり方だけでなく、実際に私たちを創造してきたやり方を理解することは難しい。行うべき課題は、自分達自身と自分達の世界を別な形に創造することなのである。