エマ・ゴールドマン

アナキストがほんとうに信じていること

Anarchism: What it Really Stands for

1910

「アナーキー」

貶られ責めらるること常なりて、理解されるは夢更になく

今日の〈恐怖〉、其は汝なり。

大衆叫ぶ、汝は秩序の破壊者なり、と、

終わりなき戦の惨殺者なり、と。

さあ叫べ! 叫べば良い! その語の真意は

其を求めざる者らには

いまはまだ届かざるがゆえ。

彼人ら、迷うの中の迷えるなり。

だがああ、高潔なる語よ、汝は凛然として清く、

吾の理想の全てを表す。

汝を未来に授く! 人々が

自身とそれ以上のために生き始める日に。

それは陽光とともに訪れるか、それとも嵐の動乱とともに?

ただ確かなのは、その日の訪れ!

吾はアナキストなり、ゆえに

何人も支配せず、支配もされず!

――ジョン・ヘンリー・マッケイ (John Henry Mackay)



 人類の成長と発展の歴史というものは、あらゆる思想がより明るい朝のために苦闘した歴史でもあります。どの時代のどのような主張に対しても、〈旧き思想〉は執拗に伝統へしがみつき、いかなる姑息で残虐な手段をも躊躇うことなく用いては、〈新しき思想〉の広がりを止めようとしてきました。革新的な思想家に向けられた弾圧。経験させられてきた困難。その苦悩の大きさを知るには、そう時を遡る必要もありません。拷問台、親指潰し、鉤爪付きの鞭。囚人服と社会の反感と共に、これらは今もなお静かに広がる変化の精神を押し潰そうと謀り続けているのです。

 全ての革新的思想が辿った運命を、アナキズムもまた避けることはできません。むしろ、最も革命的で徹底的な主張である以上、世界をつくりかえるにはその無知と毒の全てに立ち向かわざるを得ないでしょう。

 アナキストに向けられる暴言と暴力は実に多様です。これらの全てに多少でも答えるには大著を記すしかないだろうから、ここでは主な反論の二つに応じようと思います。これらを通じて、アナキストがほんとうに主張していることを明らかにしましょう。

 アナキズムに対する反論は、いわゆる知性と無知というものの関係について一見不思議な示唆を含みます。もっとも、よくよく考えてみれば当然のことでもあるのですが。知性のあるとされる者らに比べ、何も知らぬ大衆の方が知識や寛容さというものについて見栄を張ろうともしない。これは、褒められたことでもありましょう。彼人らは、他のことについてと同様、衝動に基づき行動し、子どものような理由づけをするのです。「なんで?」と問われれば、「だってそうだから」。とは言え、思慮不足の者がアナキズムに向ける反論に対してもまた、学のある人らによるそれと同程度には反駁する価値がありましょう。

 では、わたしたちに向けられる反論とは一体何なのでしょう。一つ目は、「アナキズムは、美しくも非現実的な理想にすぎない」。二つ目は、「アナキズムは暴力と破壊を主張する悪しく危険なものとして、否定されねばならない」。学のある者も無知な一般大衆も、きちんとした知識ではなく噂や誤解に基づいて、こう判断しているのです。

 まず、オスカー・ワイルドによれば、現実的な計画というのは、既に存在しているか、現状下で実現できる計画のことです。しかし、人々が計画を通じて変えようとするのはまさしく現状であるのだから、この説明に当てはまる計画はばかげたものであると言わざるを得ません。そうではなくて、愚かで不道徳な現状をどれほど守るかではなく、滞った旧い世界から離れた新たな世界をいかにしてつくり、そしてそれをどれほど維持する力があるかで、計画の実現性は考えられるべきです。ならば、アナキズムは確かに現実的である。他のどんな思想よりも、浅短で不道徳な現状を打破し、新たな生き方を生み出し、そしてそれを維持させるものであるのだから。

 無知な人々は、アナキズムの恐ろしい噂話に絶えず怯えさせられています。いかほどにありえない主張も、アナキズムやアナキストを攻撃する武器にされる。彼人らにとって、アナキズムとは昔話に出てくる子供を襲う悪い大人なのです。何もかもを飲み込まんとする闇の魔物、すなわち、破壊と暴力の具現。

 破壊と暴力! 無知こそが社会において最も暴力的なものであると、そしてそれによる破壊こそがアナキストの壊さんとしているものであると、どうして一般大衆は気づけましょう? 喩えるのならば、アナキズムは自然の力のひとつです。誤解されていますが、破壊されるのは正常な組織細胞ではなく、社会の生命力を吸い上げる腫瘍のみ。わたしたちは、やがてりっぱな果実が育つよう、雑草を抜いているだけなのです。

 「なにかを否定するのは、なにかを考えるよりよっぽど頭を使わない」と誰かが言っているのを聞いたことがあります。物事を考えない人がいかに世間に多いかをみれば、これが正しいことはわかりましょう。新しい思想に出くわしたとき、人々はそれの生まれた経緯も、なにを言わんとしているのかも、きちんと考えようとしない。ただ完全否定するか、表面的で偏見に満ちた定義に頼るものなのです。

 アナキズムは、あらゆる立場について考え、調べ、分析することを人に求めます。ですが、一般的な読者はそうすることに慣れていないでしょうから、ここではまず手短に定義を述べたのちに詳しく説明していきましょう。

アナキズムとは:「他人に押し付けられる法律ではなく、自由に基づいた、新たらしいかたちの社会的秩序を考える思想。あらゆる政府は、暴力に頼る不道徳的で有害かつ不要な存在である、という理論。」

 この新しい秩序のためには、もちろん、あらゆる人が物質的充足を満たせている必要があります。今日の諸悪の核心には経済的な格差があるという考えにはアナキストも賛同しています。しかし、この悪を根絶するには、個人的と集団的、内的と外的を問わず、生活の全ての側面について見直さねばならないという立場をとるのです。

 人類の発展の歴史を詳しく見れば、個として生きようとする本能と社会として生きようとする本能の間の闘争が見出せるでしょう。しかし、これらが互いに独立してはおらず、条件さえ調えば調和し合う近しい関係のものであるとようやく理解され始めたのは、近年になってからのことなのです。個人性と社会性は、何年にも渡り覇権を巡る容赦なく悲惨な戦いを続けてきましたが、その原因は、お互いの価値と重要さに気づけなかったことにあります。個として生きようとする本能は自己研鑽、成長、そして自己実現に、社会として生きようとするそれは相互扶助と社会福祉に、ともに不可欠なのです。

 個人の内面や人同士、あるいはその人の周りを巻き込む嵐について探求するのは、さほど難しいことではありません。自身の存在の理由も、ましてや生の調和も知らぬ原始人は、彼人を嘲笑し弄ばんと見境なく襲う隠れた力のきまぐれに、日々を頼っているように考えたのでしょう。その発想から生まれたのが宗教的な思想です。曰く、人々はただ、完全な屈従を求む超越的な力に依存する一芥の塵にすぎない。古典的な神話はすべてこれを端緒とし、今もなお人と神あるいは国家、社会との関係を描く聖書的な物語の中で繰り返され続けている。人は塵、権力こそが一切。これは、何度も何度も繰り返されている同じモチーフです。ゆえに、ヤーウェは完全なる服従をもってして、はじめて人の存在を認めるのです。人は地上の誉のすべてを手に入れてよいが、めざめてはならない、と。国家、社会、そして道徳もまた、すべてこう繰り返しているのです。

 人をめざめさせる思想、それはただアナキズムのみしかありません。アナキズムは、神も国家も社会も存在しないと、人の従属によってのみ実現する救済の約束など無意味で無効であると、主張します。アナキズムは、それゆえに生の調和を教えるものです。自然と人の間のみならず、人と人の間におけるそれについても。個人性と社会性の本能の間に矛盾などない。これらは心臓と肺のような関係にあります。生の真髄の鎮座する場所と、それを清く強くするもののある場所。個人こそ社会の心臓であり、社会的生活の真髄を守るものである。社会こそが肺であり、生の真髄――つまり個人性――を、清く強くするためのものを配分する場所なのです。

 「この世界には、価値のあるものがただ一つだけある」とエマソンは述べています。「それは、積極性のある魂である。これは人ならば皆持つものである。積極性のある魂こそが真理を知り、真理を語り、そして創造する。」言い換えるのならば、個人性という本能こそが、個人の世界で唯一価値を持つものなのです。これこそが真理を知り、創造する。そして、そこより更なる真理、すなわち生まれ変わった社会的な魂というものが生じるのです。

 アナキズムは、彼人を捕えていた幻霊より人々を解き放つ、偉大なる解放者です。個人性と社会性の調和を図る審判者であり調停者です。個人的本能と社会的本能、あるいは個人と社会の和平なる混じり合いは、悪しき影響力によって阻止されてきました。アナキズムは、これらの統一を達成するためにこの影響力へと戦を仕掛けているのです。

 宗教、それは人のこころの支配。私有、それは人の必要の支配。政府、それは人の行動の支配。これらはみな、人類を隷属化する塀と、それのもたらすべての恐怖を象徴します。宗教、それがいかに人の心を支配し、恥辱し、魂を堕落させることか! 神がすべてだ、人は無だ、そう宗教は教えます。だが、その無より主なる神は無慈悲で残虐で残酷で横柄な御国を築いたのです――ただ陰鬱さと涙と血のみが神々の代より玉座し続ける御国を。アナキズムはこの闇の怪物へ立ち向かうよう人を奮い立たせ、その心の枷を破壊せよ、と伝えるものなのです。自身で考え判断するようになるまで、この闇の統治――革新を阻む最大の障壁――は、なくせないのだから、と。

 私有、それは人の必要の支配。必要十分を得る権利の否定。かつて所有は神聖の権利でしたが、やがてこれは人の手にわたり、宗教と同じように繰り返されるようになりました。「贄を捧げよ! 権利を放棄せよ! 服従せよ!」だが、アナキズムの精神は人の頭を持ち上げさせました。今やアナキストたちは毅然と立ち、光に顔を向けています。私有の飽くことのない貪欲で破滅的な本質を知らしめたのです。そして今こそ、この怪物を殺さんと備えているのです。

 フランスの偉大なるアナキストであったプルードンは、「私有財産は強奪である」と言いました。その通りです。しかも盗難者に一切のリスクも危険もない。人々の努力の集積を独占する私有というものは、人間が生来的に持つ権利を略奪し、貧困や追放を経験せし者にする。「十分なものを生産できないのだ」という聞き飽きた言い訳は、もはや通用しません。ここ数十年で、普通の必需を超える量を生産できていることは、経済学を聞きかじったことのある者なら知っていることでしょう。だが、異常な制度にとって、普通の必需などなにでありましょうか? 私有が知るただ一つのことは、貪欲なる利潤追求への欲求でしかありません。富は力なのだから――支配し、他者を潰し、搾取し、奴隷化し、怒らせ、退廃させる力。アメリカは特にその力の大きいことを、その国富を、誇っています。かわいそうなアメリカよ、個々の市民が貧困にあえぐなか、汝の富などなんの意味がありましょう? ネグレクトされ、泥と犯罪の中に生き、希望も喜びも家も住む場所も失った被食者の大群として生きているとき、国富などなんの意味がありましょう?

 いかなる事業であろうとも、利潤がコストに勝らぬ限り破産は不可避であると通常は考えられています。だが、富を生まんとする利潤追求者たちは、この単純なことすらいまだ学べておりません。毎年、人々の命という形で、コストは拡大し続けています(アメリカでは昨年、五万人が亡くなり、十万が怪我を被りました)。その一方で富を生んだ大衆への見返りは減る一方。それでもなおアメリカは生産ビジネスの失敗が不可避であることに気づかぬままででいるのです。しかも、それは彼人らの唯一の罪ですらない。より深刻なのは、生産者たちを機械の歯車に還元し、鋼鉄のような主人として彼人らの意志と自律性を奪っていることなのです。人々はその労働の成果のみならず、自由な行動、独創性、そして作ったものに対する関心や欲求すらも、強奪され続けているのです。

 真なる富というものは、機能的で美しいものによって、つよく美しい身体とその中に生きるのを喜ばしきことにする環境をつくるものによって、成り立つものである。しかし、人々がその生の三十年間を車に糸を巻きつけたり、あるいは石炭を掘り続けたり、道路を敷いたりするのに使うよう強いられている今、このような富の話などすることなどできはしません。今労働者が世界にもたらすのはただ鈍色で醜いものでしかない。それは、この生きるには弱く、死ぬには臆病な、鈍く醜い在り方を映しています。しかも、奇妙なことに、この集中生産制という破滅的な制度に酔いしれる者こそが、この時代に最も驕り高ぶっているのです。彼人らは、機械に尽くし続ける限り君主に縛られることよりも完全なる隷属のなかにあることに、まったくもって気づいていないのです。集中生産制は自由の弔いの鐘であるのみならず、健康と美、芸術と科学の死を齎している。健康も芸術も、みな、時計仕掛けの機械的な空気の中では不可能なのです。彼人らはこのことから目を背けたがり続けてているのですが。

 アナキズムは個人の秘める力のすべての自由な表現を目指しているのですから、このような生産の在り方を徹底的に拒絶します。オスカー・ワイルドは完璧な人の在り方というものを「完璧なる環境下で、傷害を受けず、危機から放たれて育つ人」と定義しました。なれば、完璧な人の在り方は人々が自由に仕事のあり方や環境、そして働く自由を保障されている社会でのみ可能なものです。それは人が机を作ったり、家を建てたり、地を耕したりすることが、画家が絵を描いたり科学者が新しいことを発見したりするのと変わらない社会です。創造的な力としての仕事が、独創性や強い熱望、そして深い関心の結果である社会。これがアナキズムの理想であるから、経済もまた、自発的な組合による生産と分配によって成り立ち、やがては人の力をもっとも無駄なく使い生産する手段である自由な共産制へと徐々に発展するものでなければならないと考えているのです。そして同時に、個人あるいは個人らが各々の関心や欲求に合う様々なかたちの仕事をする権利もまた、アナキズムは認めるのです。

 このような人間の力の自由な発揮は、完全なる個人的・社会的な自由のもとでしか不可能です。アナキズムは、それゆえに、三番目にして社会的平等の最大の敵へと、その力を向けています。その敵の名は、国家、組織化された権威、あるいは法律――すなわち、人の行動を支配するもの。

 宗教が人の心を、あるいは私有や物の独占が人の必要を縛り上げたように、国家もまた、人々の魂を隷属化させ、行動のあらゆる場面を支配してきました。「あらゆる政府の本質は、暴虐である。」そうエマソンは言います。神権政治に基づく政府も、多数派による政府も、それは変わらない。いかなる形態であれ、その目的は個人の抑圧です。

 アメリカ政府について、アメリカの偉大なるアナキストであるデイヴィッド・ソローは言いました、「政府、それは自らを無傷のまま後世に残すことを図り、しかし更新のたびに全体性を失っていく、伝統、それも歴史の浅い伝統に、過ぎない。その生命力も活力も、ひとりの生きた人間にすら及ばない。法律は人を僅かにも正義に導いたことなどなく、むしろそれの尊重を通じて、もっとも穏健な者をすら日々不正義の徒になり果てさせている」、と。

 まことに、政府の特徴を一言で表すならば、不正義です。誤ったことなどしえないと信じる君主の傲慢さ自己満足とで、政府は命じ、審判し、糾弾し、もっとも小さな過失でさえも罰する。政府こそが個人の自由の惨殺という最悪の罪を犯しているのにもかかわらずです。だからウィーダの次の立場はまことに正しいのです、「自らの命令に従い国庫を満たす、そんな心を大衆に植え付けること。これが国家の唯一の目標だ。彼人らの最大の偉業は、人類を時計仕掛けの機械に還元したことである。この環境の中では、丁寧さとゆとりを必要とするより細やかで繊細な自由は、当然のように干上がり消える。国家が必要とするのは、滞りなく税金を渡してくれる機械と赤字を出さぬ大蔵省、そして、これら二つの壁の間をまっすぐと、淡々と、従順に、色も魂もなく、まるで羊の群れかのように恭しく歩く大衆でしかない。」

 もっとも、国家が自身の目的のために用いる腐敗した暴虐で抑圧的な手法さえなければ、羊の群れですらその欺瞞には抵抗するでしょう。バクーニンはそれゆえ国家制度を個人や少数のマイノリティの自由を放棄すること、自らの拡大のために社会的交流を破壊し、生命それ自体を制限、ないしは完全に拒絶することと同義として、拒絶しました。国家は政治的自由の祭壇である。それは宗教的な祭壇と同様、人の生贄のために維持されているのです。

 実際、政府、組織化された権威、あるいは国家が、私有と独占のため以外に必要だと考えている現代の思想家など、ほとんどいません。それらは私有と独占においてのみ、十分な機能を示しうることが証明されているのだから。

 フェビアン主義の国家に夢見るあのジョージ・バーナード・ショウですら、「現状の国家は暴力を通じて貧しきから盗み、彼人らを奴隷化する巨大な装置」だと言っています。そうである以上、貧困がなくなった社会でもなおあのご優秀な口上家が国家体制を支持する理由など、わたしにはわかりません。

 残念ながら、いまだ多くの人間が重大な過ちを犯しています。政府は自然法に基づくのだと、これが社会的秩序と調和を守り、犯罪を減らし、怠惰な人が仲間から金を巻き上げるのを防ぐのだと、信じているのです。この主張について、これから検討しましょう。

 自然法とは、自然の要請と調和し、外的な力なく自由かつ自発的にそれ自体が肯定される人の内的な一因子のことです。例えば栄養素や性的歓び、光、空気、運動などに対する欲求は、全て自然法です。だが、これらを満たすには、政府という装置も、こん棒も銃も手錠も監獄も不要でしょう。自然法に従うことを順法と呼ぶのであれば、これにはただ、自発性と自由な機会以外、不要なのです。政府はこのような調和的な方法を通じて自己を維持しているのではありません。それは全ての政府が生き残るために使う各種の暴力、弾圧、強制などから明らかです。ゆえにブラックストーンの言った「自然法に反する以上、人定法は無効である」は、まことに正しいのです。

 何千人もの殺戮ののちに達成されたワルシャワの秩序のようなものなら別かもしれませんが、政府に秩序や社会的調和をもたらす力があるなどとは言い難い。抑圧を通じて得られ、恐怖によって維持されるた秩序は、安全を保障などしてくれはしませんが、このような「秩序」こそ、政府が維持してきたそれなのです。真なる社会的調和は、求める利益の似た者同士が連帯することにより自然にはぐまれくるものです。しかし、働く者が何も持たず、働かざる者が全てを持つ社会においては、このような連帯は存在しえないから、社会的調和も夢に終わってしまう。では組織化された権威がこの深刻な事態にどう立ち向かうかといえば、地をすでに独占しているものへ更なる特権を与え、貧困に苦しむ大衆をさらに隷属化させるのみ。こうして政府は法律、警察、軍隊、司法、立法機関、監獄、といった武器の全て用いて、社会の対極にあるふたつの要素を「調和」させることに努力を強いられているのです。

 権威と法律をゆるすためのもっともばかばかしい言い訳は、それらが犯罪を減らすというそれでありましょう。まず、国家それ自体が最たる犯罪者である。あらゆる人定法や自然法をやぶり、税という形で奪い、戦争と死刑というかたちで殺人を繰り返す。しかも、犯罪とのたたかいにおいてすら、もはや行き詰っているのです。自らの作り出した恐るべき災厄をなくすどころか、減らすことすらできずにいるのです。

 犯罪とは向かう先を誤った活力に過ぎません。経済的、政治的、社会的、そして道徳的制度のすべてが人々の活力を誤った方向に注げさせる限り、したくないことをさせられ続け、生きたくないように生きさせられ続ける限り、犯罪は不可避です。制定法など、犯罪をなくすことはできません。ただ増やすだけです。今日の社会は犯罪と堕落に至るまでに人のこころが経験する、絶望や貧困、恐怖、恐るべき葛藤のプロセスについて、なにを知っていましょう。そして、この恐ろしい経過について知っている者ですら、次のピョートル・クロポトキンの言葉の中にある真理を見出せずにいるのです。

 「法律や刑罰の恩恵と刑罰がもたらす人類を堕落させる効果をきちんと比較し検討しうる者。チャリンとなる金を政府から受け取りながら、犯罪を暴くという名目で密告者がふりまき、裁判官によって歓迎すらされる不道徳を、そうであると正しく見極められる者。監獄の塀の内に入り、そこで自由を奪われた人間が、残虐な看守の荒く冷酷な言葉や何千もの身を突き刺すような辱めを経験する人間が、どうなってしまうかを見た者。彼人らは、監獄や刑罰の全ては廃止されねばならない忌まわしきものであるというわたしたちの主張に同意するであろう。」

 法律がなければ怠惰な人が増えるという主張は、くだらなすぎて考える価値もありません。資本家という怠惰な階級を維持する無駄と出費と、彼人らを保護するための膨大な諸経費さえこの社会からなくなれば、一部に怠惰な個人がいてもなお全ての人を養えるだけの充分な富を分配できます。それに、怠惰というものは特権に由来するものであったり、身体的、精神的な「異常」に依る場合の多いことも、考慮しなければなりません。むしろ、現行のゆがんだ生産体制こそがこれらのものを育て上げているのだから、それでもなお働きたいと考えている人のいることに驚くほどです。アナキズムは、労働から死ぬほどに退屈で陰鬱な強制を剝ぎとり、捨て去ることを目指します。代わりに、喜びや活力、生彩、そしてほんとうの意味での調和をもたらし、どんなに貧しい人間でも楽しみと希望をもてるものにすることを、目指しているのです。

 このような生の在り方を実現するなら、恣意的な不正義と抑圧を繰り返す政府は、廃止されなければなりません。よく言ったところで、政府というものは個人や社会の多様性や必要を無視し、ただ単一の在り方を強制してきたにすぎません。アナキストは、政府と制定法を廃止することで、権威による全ての抑制と侵犯より個人の自尊心と自律性を救い出すことを提案するのです。自由のなかでのみ、人は完全な存在になれるのですから。自由の中でのみ、人は自ら考え行動することを学び、最善を尽くすことができるのですから。自由の中でのみ、人々を結ぶ合う社会的結帯の真の力を知るのですから――正常な社会的生活の基盤たる、この力を。

 では、人間性はどうでしょうか? これは変えられるものなのでしょうか? これはアナキズムのなかでも生き残れるものなのでしょうか?

 人間性。その名のもとに、これまでどれほど恐ろしいことが繰り返されてきたでしょうか! 君主から警官まで、間の抜けた牧師から洞察力のない科学趣味者まで、あらゆるばかものたちが人間性についてもっともらしく語ってきました。自らを賢しいと騙ろうとする人ほど、人間性の邪悪さと弱さを強調してきました。ですが、全ての人の魂が牢獄につながれている今、全ての人のこころが枷をはめられ、傷つけられている今、人間性についていったい何を語れましょう?

 囚われた動物を用いた実験にはなんの意味もないとジョン・バローズは言いました。生まれ育った草原や森から引き離された瞬間に、性格も習性も欲求も、完全に変わってしまうからです。人間性についても同じことです。窮屈な檻に閉じ込められ、日々鞭を通じて屈従に強いられているなかで、わたしたちは人間性の可能性の何を語れましょう?

 自由、発展、機会、そして何より、和平と閑静。これらがあって、はじめて人間性の真髄とその素晴らしい可能性について知ることができるのです。

 つまり、アナキストは解放を信じているのです。宗教から人のこころを解放することを。所有から人の身体を解放することを。そして、政府の枷からの解放を。代わりにアナキズムが提案するのは、ほんとうの社会的富を生産するため、自由に基づいて組織化する人間がつくりだす社会的秩序です。この秩序は、個々の欲求、価値観、性向に基づいた多様な必要に充分応えるものとなるでしょう。

 これは非現実的な空想でも、単なる「妄想」でもありません。世界中の聡明な人々が各々に考えて達した結論なのです。人間のなかに素晴らしさと正しさを生み出す、個人的自由と経済的平等という二つの力。この二つの力の結果として表れる現代社会の傾向をじっくりと分析し観察して達した結論こそが、アナキズムなのです。

 では、アナキズムを実践する方法について述べましょう。アナキズムは、一部の人が言うような神聖な力を通じて実現される遥か未来を語る理論などではありません。それはわたしたちの生活に関わるさまざまな事柄のなかにある生きた力であり、常に新しい様相を生み出し続けているものなのです。ですから、アナキズムを実践する方法は、いかなる条件下でも実施されるべきかっちりとした計画によって成り立っているわけではありません。どのように実践されるかは、常に各々の場所と状況にある経済的必要やそして個々人の知性的感情的欲求に基づくもので無くてはなりません。例えば、トルストイのような静かで落ち着いた人間は、ミハイル・バクーニンやピョートル・クロポトキンのような激烈で情熱的な人間とは、異なる手段を通じた社会的改革を求めるでしょう。同様に、ロシアの政治経済的必要は、英国やアメリカよりももっと徹底的な手段を求めることになるでしょう。アナキストが信じるのは、軍隊のような強固な規律や画一性ではなく、人間の成長を阻害するあらゆるものに対しての、多種多様なかたちの叛逆の精神です。わたしたちはみなこのことと、大いなる社会変革のために社会的装置に立ち向かうことを、信じているのです。

 あらゆる投票はチェッカーやバックギャモンのようなものだとソローは言います。正しさを賭けた遊戯に過ぎない、と。「それは、しかし、表面的な結果をもたらすものでしかない。正しいと思うことに票を入れることですら、何もしていないのと同じなのだ。ほんとうに聡明な人は、運や多数決の力に正しさを賭けることなどしない。」政治というものの機序とそれが達成してきたことを詳しく確認すれば、ソローの言っている通りであるとわかるでしょう。

 議会政治の歴史が示すものは、失敗と敗北の系譜にすぎません。人々を経済的社会的な逼迫より救うことには、一度も成功したことはありません。確かに、労働を改善し、労働者を守るための法律が提案され、施行されてきました。しかし、炭鉱を保護する最も厳格な法律がつい昨年のイリノイ州にもたらしたのは、最悪の炭鉱事故です。児童労働についても、彼人らを保護する法律が施行されている国家ほど、児童搾取が酷いのです。わたしたちと同じく労働者たちにも政治的に均等な機会が与えられています。それにもかかわらず、資本主義は厚かましくもその最盛期を迎えているのです。

 社会主義政党の政治家たちが要求している通り、労働者たちが自らの代弁者たちを選出することができるようになったとして、どれほどの真摯さと誠実さが政策に反映されるというのでしょうか? 政治のプロセスにある、善意というものが陥りかねない様々な落とし穴の存在を忘れてはなりません。工作、謀略、おべっか、嘘、裏切り。ありとあらゆるごまかしがあって、初めて政治的な野心家は成功できるのです。それに加えて、こんな怠慢者たちにもはや何も期待できなくなるほどの、品性と信念の完全なる堕落。それでも、人々は愚かにも、何度も何度も野心家たちを信頼し、信用し、支援してきました。なんの値打ちもない者たちを。そして毎回、裏切られ、騙されてきたのです。

 高潔な人ならばこの碾き臼のような政治的プロセスに堕落させられない、そう主張する人もいるでしょう。ええ、そうかもしれませんね。ですが、これまで幾度となく示されてきたように、そのような人はなにも労働者のためになることを成し遂げられないのです。国家というものは、経済的な「主人」です。善良なる人が仮にいるとしても、自身の信念を守り経済的支援を失うか、この「主人」にしがみつき、なにも成しえないかのどちらかを選ぶしかないのです。愚か者になるか、それとも悪党になるか。政治の土俵は、ほかの選択肢の存在を許さない。

 政治に対する迷信は、いまもなお大衆のこころをつかんで離しません。しかし、真に自由というものを愛するのならば、これを捨て去り、人々は望むだけの自由を持っているというシュティルナーの考えを信じるしかないのです。アナキストがそれゆえに実践するのは直接行動、つまりあらゆる法律や経済的、社会的、道徳的な制約への果然とした抵抗、叛逆です。だが、抵抗も叛逆も非合法じゃないかとおっしゃるでしょう? ええ。ですが、そこにこそ人類の救済というものがあるのです。非合法なことをするには、誠実さ、自己信頼、そして勇気、つまり、自由で独立した精神が必要なのですから。求められるのは、「真に人間である人間、お前がその腕で貫くことなどできない、しっかりとした背骨をもつ人間」。

 普通選挙運動。それだって直接行動の結果です。「アメリカ建国の父」たちの叛逆の精神と気骨なくしては、彼らの子孫たちは今もなお王の紋章を身にまとっていたことでしょう。ジョン・ブラウンと彼の同志たちの直接行動なくしては、アメリカは今もBlackの人たちの身体を売買していたことでしょう。確かに白人たちの身体は今もなお酷使されていますが、それもやがて、直接行動を通じて廃止されねばなりません。また、現代の剣闘士たちにとっての経済的闘技場である労働組合運動だって、直接運動なくしては存在しなかった。つい最近まで、法律も政府も労働組合運動をつぶそうとしてきました。団結権という人間の基本的な権利を主張する者たちを、謀反者として監獄に閉じ込めてきました。もし彼人らが直接行動の代わりに懇願や請願や妥協をしていたのなら、今日の労働主義運動は、もはやなんの力も持たなかったでしょう。直接的で革命的な経済行動は、フランスで、スペインで、イタリアで、ロシアで、英国においてですら(英国の労働組合による闘争の拡大を見よ!)、商業的自由のためのつよい力となっています。世界に労働力の重要さを知らしめたのです。労働者たちの経済的意識の最たる表現であるゼネラルストライキは、ようやくアメリカで冷笑の的でなくなりました。今日の全てのストライキは、勝利を図るのならば、この連帯を通じた全面的な抗議の大切さを意識しなければなりません。

 ここまで、経済的な運動において直接行動が有効であることを示してきました。個人の環境に関する運動についてもその有効性は変わりません。百の力が個人を犯そうと迫ってきている中、彼人をやがて解放に導くのは不断なる抵抗の繰り返しです。職場での権威に対する直接行動、法律の権威に対する直接行動、そしてわたしたちの道徳に迫り干渉してくる権威に対する直接行動。これこそが、アナキズムの理論的で着実な実践なのです。

 それでは革命が起きてしまうのではないか! ええ、起きるでしょうね。革命なしで、ほんとうに社会が変わったことなどないのだから。それを理解していないのならば、あなたは歴史を知らないか、革命とは単に信念が行動に反映された結果でしかないことを、まだわかっていないだけ。

 アナキズム。それは思潮の偉大なる原動力である。それは、いまや人間のさまざまな活動に深く浸透してきた。科学、芸術、文学、演劇、より良い経済への運動、そして現状の問題に対するあらゆる個人的および社会的な抗議は、全てアナキズムによって一層の輝きを与えられているのです。それは個を戴きにおく思想であり、社会的調和の理論です。アナキズムは大きく轟く、生きた真実なのです。それは世界を作り変え続け、やがて押し寄せるように夜明けを引き連れてくるでしょう。


http://dwardmac.pitzer.edu/anarchist_archives/goldman/aando/anarchism.html :2023-03-11 (original: Anarchism and Other Essays, Mother Earth Publishing Association, 1910)
Translated by anarchist_neko and sykality on 2023-03-11.