タイトル: 反資本主義抵抗に対するアナキズムの展望
著者名: Cindy Milstein
発行日: 2010
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/milstein2.html(2023年2月18日検索)
備考: 原文は、Anarchism's Promise for Anti-Capitalist Resistanceで読むことができる。シンディはInstitute for Social Ecologyの講師の一人だった。現在は、Institute for Anarchist Studiesの役員メンバーであり、米国ヴァーモント州モンペリエにあるBlack Sheep Booksのコレクティヴメンバーでもある。本論考は、本来ならば2003年春に発行予定だった本、反資本主義:世界的公正運動のフィールドガイド、レイチェル=ニューマンとアンディ=シャオ編(ニューヨーク:ニュープレス)に収録される予定だった。訳者はInstitute for Social Ecologyのサイトに掲載された(現在はリンク切れ)際、翻訳をした(2004年1月)が、最新の改訂版が2010年にAK Pressより出版された「Anarchism and Its Aspirations」に収録されている。(訳者、2010年6月15日改訂) (Anarchy In Japanより)

多くの人々は、1999年11月の世界貿易機構抗議行動を出迎えた冷たい雨と有毒霧のただ中で「新しいアナキズム」が生まれたと思っている。だが、この抵抗と再構築の急進主義政治は、新生社会運動の私生児ではなく、数十年にわたる変換を経験していた。シアトルの直接行動は、単に、この活動を再び目に見えるようにすることに成功しただけなのである。アナキズムは、この歴史的瞬間に人を引きつけずにはおかないプラクシスを提供した。そのようにする中で、アナキズムは現在の反資本主義運動を形成する手助けをしただけではない。代議制民主主義と資本主義のヘゲモニーに潜在的に取って代わる自由の諸原理にも光を当てたのだった。

19世紀に始まって以来、アナキズムは一連の倫理的諸概念を常に提起し、そうした諸概念が自由社会に最も近いと強く主張している。当時の言い回しだが、イタリアのアナキスト、エンリコ=マラテスタ(1853年~1932年)は、ずっと以前に、アナキズムを『同胞として人が生活し、誰も他者を抑圧・搾取する立場におらず、最大限の道徳的・物質的発展を達成する手段全てが万人に入手可能な社会生活形態』として述べていた。この簡潔な定義は、アナキズムの包括的目標を今も捕らえている。とは言うものの、このリバータリアン形態社会主義は、国境を越えた多次元のアイデンティティを持つ世界を擁護し、協働と相違に基づいた質的ヒューマニズムを求めて闘争していたという点で、当然のことながら、時代に先行していたのだった。アナキズムが、最終的に、様々な時代に語りかけ、従って民衆の様々な希望に語りかけることができるようになったのは、グローバリゼーションの文脈においてなのである。ただ、アナキズムが持つ熱望を実現させることができるかどうかは、現時点ではまだ不明である。

不可視になったヴィジョン

アナキズムが提起している組織諸形態と価値観は、世界中で様々な時代に未成熟な形で発見できる。しかし、明確な哲学としてのアナキズムのデビューは19世紀中頃の欧州においてだった。英国人の「自由の哲学者」ウィリアム=ゴドウィンは、1793年に政治的正義の研究という著作によって、国家なき社会を支持する理論を著した最初の啓蒙運動思想家となった。だが、ピエール=ヨセフ=プルードンが、1840年の財産とは何か?において「社会はアナーキーに秩序を求める」と書いて初めて、「アナキズム」という言葉は、以後数十年間、認識可能な原理的中核の周囲に凝固していったのである。ゴドウィンの政治論は、彼の文化的見解ほど解放的ではなかった。プルードンは、資本主義に固有の論理と闘わず、さらに、家父長的・反ユダヤ的信念を持っていたため、多くの分野で徹底的に非難されてしかるべきだった。実際、古典的アナキズム--押しつけの権威や威圧の全形態を非難するユートピアン政治哲学--をもっと魅力的に描写するためには、ロシア貴族ピョトール=クロポトキン(1842~1921)からドイツ系ユダヤ人の知識人グシュタフ=ランダウアー(1870~1919)、そして、傑出してはいるがそれほど良く知られていない急進主義者まで数多くの人々が必要だったのである。

社会主義者として、アナキストは特に資本主義を相手にしていた。資本主義は、産業革命中に、それまでは想像もできないほど莫大な苦難を引き起こしていた。アナキストは、階級闘争から私有財産の終焉までの経済的諸カテゴリーを活用しながら、労働者の社会的諸関係を変換することに主として望みを託していた。革命的左翼にいる全ての人々は、資本主義を改良することはできない、ということに同意していた。資本主義は廃絶されねばならないのだった。だが、他の社会主義者たちとは異なり、アナキストは、人間の奴隷化に共謀しているという点で国家も全く同じであり、従って、資本主義から社会主義へ移行するために、国政術(statecraft)を用いることなどできない--過渡期的やり方としてさえも--と感じていたのだった。階級がなくとも、なおも国家主義的社会では、その大部分を支配に特徴付けられた世界を創り出すことになる、とアナキストは主張した。アナルコサンジカリストのルドルフ=ロッカーは、1938年に、「社会主義は自由になるか、さもなくば、全く存在しない」と宣言していた。他にも幾つか理由はあるが、こうした理由から、アナキズムは社会主義から進化し、資本主義にだけでなく国家やその他の強制的で相互に関連している諸制度(例えば、組織的宗教・義務教育・軍国主義・結婚)に反対を示しているのである。だから、最も一般的な意味で、アナキズムについて、「全てのアナキストは社会主義者だが、全ての社会主義者がアナキストであるわけではない」と言われるのである。

この言明は、戦略に関する問題についても見ることができよう。多くの社会主義者は、少なくとも急進的社会主義者は、「国家を死滅させること」に反対してはいなかった。だが、問題は、何時・どのようにして、だった。国家の死滅まで舵取りをする「プロレタリア階級の独裁」が実際にそのプロセスを押し進めるなど、アナキストにとっては当てにできなかった。トップダウンの社会組織よりも、アナキストは、現時点で良い社会を予示すると考えられる様々な水平モデルを求めて闘争していた。つまり、アナキストは、革命後の時期まで受け身的に待たずとも、民衆が自主組織を通じて古い殻の中で新世界を構築しようと努めることができる、と主張していたのである。アナキストの強調点は、プラクシスにおかれていたのだ。アナキストの様々な代替案は、自主的同盟、個人的・社会的自由、連邦化しているが分権化した地域社会、諸条件の平等、人間的連帯、自発性といった鍵となる諸概念に確立されていた。アナキズムとして知られる欧州の発明が、米国・中国からラテンアメリカとアフリカまで、至る所に存在する知的・扇動的回路を通じて広がるに連れ、アナキストは共同体生活・連合・自由学校から労働者評議会・地域通貨・共済組合へとあらゆる実験を行っていたのだった。

アナキズムは1880年代から1920年代の赤狩り、そして1930年代のスペイン革命まで、非常に大規模な国際主義左翼の一部だった。その後、アナキストは、名誉を傷つけられたり、幻滅したり、殺されたりし、消え失せてしまったかに見えた。アナキストたちと共に、その哲学そのものも消え失せてしまったかに見えた。第二次世界大戦とナチズムの敗北の後、政治的選択肢は「民主主義」(自由市場資本主義)か「共産主義」(国家社会主義)の二つだと思われていた。この方程式の中で失われてしまったのは、何よりも、権威を疑問視すること、そして、アナキズムが提起したユートピアを時代に即して主張することであった。

収斂としての再出現

もちろん、遠く昔の19世紀は、現代のアナキズムの再構築に強く影響している。だが、当時のジレンマと当時始まっていたこと--例えば、自由主義・植民地主義・工業生産--は、21世紀のものとは全くかけ離れている。それ以上に、古典的アナキズムは改善されるべき多くのことを残している:例えば、人間の本性を基本的に善だとする素朴さや、国家主義政府に対するあらゆる政治的交替への嫌悪などである。従って、正統派マルクス主義に対する代案を探していた左翼主義者が1950年代にアナキズムを再発見し始めたとき、アナキズムはそれ自体を作り直すことに尽力したのである。アナキスト思想家たちは、誇示的消費から都会化までの新しい懸念・フェミニズムと文化的解放といった新しい可能性・労働者偏向的傾向から権威主義的でテロリズム的でさえある戦術まで、アナキズム自身が抱える古い亡霊に取り組んだのだった。最終的に出現し更新されたアナキズムは、実際、様々な戦後反権威主義衝動の収斂だった。1960年代と新左翼が持つリバータリアン感性が基本にあったものの、シアトルで有名に(悪名高く)なったプラクシスにとって特に重要だったのは、五つの現象である。

まず第一に、状況主義者インターナショナル(1957年~1972年)である。これは、変貌しつつある資本主義を描写しようとしていた知識人とアヴァンギャルド芸術家の小グループだった。状況主義者によれば、マルクスが述べていた資本主義生産の基盤である疎外は、現在、あらゆる裂け目を埋め尽くしている。人々は、自分たちが生産した商品から疎外されているだけでなく、自分たちの生・自分たちの願望からも疎外されている。状況主義インターナショナルのギー=ドボールがうまく述べていたように、近代資本主義は「スペクタクル社会」、つまり、受動的観客としての我々に、実現されることのない満足感を約束する消費社会を構築したのだった。状況主義者は、メディアから都市風景まで、日常生活の遊び半分の混乱を擁護していた。これは、想像力を通じてスペクタクルを粉砕するためであり、苦役を快楽で置き換えるためだった。1968年5月の革命寸前のパリで、「不感時間なく生きよ!制限なく楽しめ!」といった状況主義者インターナショナルの落書きスローガンが、いたるところに出現していた。皮肉なことに、状況主義者はアナキストに批判的だったが、アナキストは状況主義者の批判、特に文化的変革の偏重を取り入れたのである。

1970年代から現在まで、理論家マレイ=ブクチンの学際的著作もアナキズムを近代政治哲学へと変換する手助けをしてきた。旧左翼と新左翼の橋渡しをしながら、ブクチンは、アナキズムの反資本主義・反国家主義をヒエラルキーそれ自体の批判にまで拡大するために、他の誰よりも多くのことを行ったのだった。同時に、彼は、生態環境を支配と関連づけることで、アナキズムが関わるべきものとして提示した。彼が述べているように「生態系の危機は、社会的危機なのだ。」ブクチンは、生態調和欲望充足社会(そこでは、テクノロジーの理性的使用が人間を解放し、自然界と調和しながら人間の潜在的可能性を実現させることができるだろう)の萌芽的可能性を強調していた。最も重要なことだが、彼は、19世紀アナキズムが示唆していた国家に対する制度的代案を描き出したのである:直接民主主義的自治、彼の言葉では、リバータリアン自治体連合論、である。ブクチンの著作は、都市や町内が闘争・急進化・二重権力・革命の現場であり、自由市民の集会連邦が国家と資本に置き換わるということを指摘していた。彼の著作は急進的エコロジー運動、青年グリーンズのようなアナキスト連盟の実験、新しい世代のアナキスト知識人を刺激したのだった。

スペインのアナキストに関するブクチンの研究で明らかになった親和グループ(1971年の欲望充足のアナキズムに概略されている)は、米国において1970年代と1980年代の反核運動に影響を与えた。ニューイングランド地方の田舎の対抗文化から現れ、その後、西海岸--アナキストと宗教的諸宗派双方にいる急進的平和主義者を含んだ対抗文化--に現れた反核運動は、市民的不服従を使用していただけでなく、アナキストとフェミニストの感性も注入されていた:全てのヒエラルキーを拒絶し、直接民主主義過程を選択し、自発性と創造性を強調したのである。お祭り騒ぎ・人形による演出・獄中連帯(jail solidarity)と共に、封鎖から占拠まで、様々なレベルの原発に対する非暴力対決を決定したのは、親和グループとスポークスカウンシルだった。この混合体にコンセンサスを付け加え、入り交じった結果(例えば、見せかけの団結)をもたらしたのは、アナキストではなく、クエーカー教徒の活動家であった。単一争点を越えて先に進むことが難しく、島国根性の共同体になってしまったにも関わらず、米国反核運動の戦術と組織形態は、国際反核運動のそれと同様に、すぐさま、平和運動・女性運動・ゲイとレズビアン運動・急進的エコロジー運動・反軍事介入運動に取り上げられた。

同様に、1980年代の初め、西独のアウトノーメもアナキズムに影響を与えた。左翼(ソ連型「共産主義」)と右翼(「民主主義的」資本主義)の権威主義に対する欧州新左翼の批判に影響されながらも、欧州新左翼を信頼できないものと見なすことで、アウトノーメは、既存システムから、アナキズムも含めたイデオロギーレッテルまで全てを拒絶していた。反権威主義革命家の自発的・分権型ネットワークとして、彼等は、政治政党や労働組合から独立していた。同時に、「外部」から押しつけられた構造と考え方からも独立しようとしていたのだった。このことは二重の戦略を必然的に伴うこととなった。まず一つ目が、自分たちが生活するスクワットのような解放的共同体的自由空間を創造することであった。二つ目が、戦闘的対決を使って、自分たちの対抗文化を防衛し、抑圧的でファシスト的でさえある諸要素だと自分たちが見なしたものを攻撃することであった。マスクをかぶったブラックブロックの配備--一例を挙げれば、1988年のベルリンでのIMF/WB会議中のデモ--・自律的町内・「インフォストア」・警官やネオナチとの街路での闘争、これらがアウトノーメの象徴となった。アナキストは彼等に親和性を感じ、自律的政治の表面的特徴を自分たち自身に取り込み、その結果、この二つがプロセス上で関連づけ、修正されることとなった。

最後になるが、サパティスタは1994年1月1日に、北米自由貿易協定を非難して世界の檜舞台に劇的に登場した。サパティスタは、生死に関わる程の規模になる事も多い現代的問題としてグローバリゼーションの重要性をアナキストに知らしめたのだった。メヒコ南部のおよそ30の原住民族共同体による10年間の草の根活動を通じて形成され、いたるところの闘争と国際的に結ばれることで、この叛乱は連帯の力を例証した。チアパスにある村落をサパティスタが大胆に乗っ取ったことは、貧困の地域であろうと裕福な地域であろうと、抵抗は可能である、という概念に再び火をつけた。「何を求めているのか尋ねられたら、我々は恥ずかしがらずに答えるであろう:歴史に亀裂を開けるのだ。」インスルゲンテ=マルコス副司令官は宣言した。「我々はもう一つの世界を構築する。(中略)民主主義!自由!公正!」サパティスタは、インターネットのようなハイテクと、ジャングルでのエンクエントロス(会議)・主義に基づいたコミュニケと現実的な進歩・自律的自治体を通じて民衆権力を奪還する試みといったローテクを独創的にブレンドしている。このことが、アナキストを特に驚嘆させているのである--サパティスタが同時にメヒコ国家にもアピールしているということにはそれほど驚嘆してはいないものの。今も、アナキストはこの叛乱を支援するためにチアパスに集まり、世界規模の反資本主義運動に応用すべく自分の本国に教訓を持ち帰っている。そして、更新されたアナキズムは、すぐさま反資本主義運動を開始する手助けをしようとしているのだ。

部分の総和以上に

こうした様々な抵抗の糸は、初期の頃からその糸を紡ぎながら、現代アナキズムの布地を織り合わせている。状況主義者から、アナキズムは疎外と消費者社会に対する批判、そして想像力に対する信念を取り入れた。ブクチンからは、反資本主義・直接民主主義・生態学・欲望充足の関連を取り入れた。反核運動からは、非暴力直接行動だけでなく、親和グループとスポークスカウンシルの強調を取り入れた。アウトノーメからは、戦闘的対決・ブラックブロック戦略・展開的な Do-It-Yourself の強調を取り入れた。サパティスタからは、インターネット・異文化間連帯・国境を越えた抵抗運動の「グローバリゼーション」が持つ力を取り入れたのだった。だが、1999年11月に有名になったアナキズムは、こうした様々な部分の総和以上のものである。アナキズムは、多様な社会変革エージェント・社会変革戦略--究極的には「戦術の多様性」・ヴィジョン・民衆--と、全く押しつけられた諸制度や行動の外部での、参加型の自由という普遍的考えとのバランスを熱望している現代唯一の政治哲学なのだ。

シアトルの数ヶ月前、アナキストは、世界を圧倒する直接行動の趣旨を定めるために、密かに、入念に活動していた。そうだと認識していなかったかも知れないが、主要な計画発案者・組織者として、アナキストはデモの骨組みをリバータリアン諸原理に沿って作り上げることができたのである。警察の凶暴な反応とWTO停止の成功がなければ、アナキストがその大部分を創り出した1970年代の反核抗議行動や1989年のウォールストリート行動といった多くの直接行動同様に、シアトルの抗議行動も注目されないままだったかも知れない。だが突然、アナキストとアナキズムは注目の的となった。常に左翼内部で少数派の良心的声だったものに、突然、多数の人々が耳を傾けるようになったのだ。そして、アナキズムの哲学は、強力で新しい世界規模の社会運動の最先端というだけでなく、標準になったのである。

だからといって、アナキズムやアナキストだけが、グローバリゼーションの残忍な側面を非難する運動の張本人だとか、そうした運動がシアトルで始まったとか、その目標は全ての人をアナキストにすることだ、などと述べているのではない。サパティスタ同様、アナキストは、自分たち自身が、様々な反権威主義者によって長い間行われてきた自由を求めた複合的闘争に呼応して行動しているのだ、ということを(少なくとも理論上は)謙虚に理解している。だが、アナキストは、主要超大国の縄張りの中で行動を行っているためだろうが、世界規模化している人間性を持った民衆の、民衆による、民衆のための楽しい政治を現実に予示する抵抗形態を断固として確立できたのだ。そのようにして、アナキストは、アナキズムを運動の前衛へと予期せずして押し上げる一方で、権能を与える運動の柔軟な輪郭を築いているのである。

このことは、アナキズムの諸原理が、その文化と組織諸形態と共に、初めて、国境を越えた社会運動の周辺部分ではなく、最前線に出た、ということを意味している。最も広い意味で、アナキズムはこの運動にユニークで切っても切れない諸性質の一群--著しく倫理的な指向性で特色を与えられ、遊び的だが直接民主主義的なユートピアニズムによって非凡なものにされた、公然たる革命的スタンス--を持ち込んだのである。

アナキズム運動

今だに、何故アナキズムなのだろうか?

なぜなら、アナキズムが議論の条件を設定してきたからだ。透明性と一体になった社会革命の強調が意味しているのは次のことである。アナキストは「グローバリゼーション」という言葉で特徴付けられる具体的問題--つまり、資本主義社会--を告発することを躊躇っていないのだ。だが、一旦、シアトル型の直接行動が標準になると、アナキストは同様の抗議行動を計画するために他の多くの活動家から暗黙の了承を得、「資本主義に対抗するカーニバル」は一般的になった。例えば、民衆が大衆行動に「収斂」したとき、民衆は反資本主義の旗印--アナキストが掲げた旗印であり、各々の主張の象徴的核心に有無をいわさず反資本主義を持ち込んだのはアナキストだった--の下に集まったのである。グローバリゼーションに関して多くの人々に広まっていたことがこのことで実体を持ったため、多くの人々は、市場経済への焦点のために急進化、少なくとも、その焦点に共感するようになった。このようにして、資本主義について語り、反資本主義者だと明白に認めさえすることは、なおも破壊的だと見なされてはいるものの、もっと受け入れられるようになったのである。だが、「反資本主義」は、今では、反権威主義的観点を意味するようになっている。そして、その逆も同様であり、アナキズムの見解は、反資本主義活動に染み込んでいるのである。

だが、それでも、何故今なのだろうか?

グローバリゼーションがアナキズムの熱望を徐々に適切なものにしているからだ。反グローバリゼーションそれ自体どころか、アナキストは、以前から、現在進行中の変革が国境なき世界を潜在的に実現可能にする、ということを夢見てきた。実際、グローバリゼーションが使っている手段はアナキズムの価値観に全く従っている。例えば、分権化と統合・柔軟なアイデンティティと二項対立の粉砕(註)・創造的拝借と協働・機動性・雑種性・開放性などである。最も驚くべき事に、グローバリゼーションは諸国家の中心性を構造的に弱体化させているのである。

(註:the shattering of binaries:著者にこの意味を問い合わせたところ、次のような答えだった。『アナキストは世界を二元的なものを通じた多次元的なものとして見なしているものです。アナキストは、個人対地域社会ではなく、個人と地域社会双方を保持している世界を作り出そうとしており、それらをお互いを形成するために不可分のものとして見なしているのです。』)

カール=マルクスは、その時代に、資本主義のヘゲモニーが増大すること、そして、資本主義がそれ自体の歪んだイメージの中であらゆる社会的諸関係を(再)構造化する癌性の能力を持っていることを予見していた。だが、マルクスは、これをある種の展望として認めていた。自由と支配は、共に、発展的論理--これが資本主義だったのであり、不幸にして現在も資本主義なのである--と堅く結びつけられていた。「歴史を作る」こと、つまり、革命を起こし、その最良で最も一般的な意味での共産主義を確立することは、適切な諸条件があれば、正当な社会的行為者の責務だった。マルクスが明らかにしたことの多くは、現在も真実である。悲しむべき事に、さらに多くのことが、自己だけでなく社会をも作り上げる資本主義に対して、もはやほとんど外部というものが存在しない程までハッキリとしてきた。資本主義を廃絶しようというマルクスやその他多くの社会主義者の英雄的計画は、以前にもまして痛烈なものであり、それを行う革命運動の必要性も同様に痛烈なものであり続けている。だからこそ、「反資本主義」の力なのである。

アナキズムは、伝統的に、マルクスが無視した潜在的に覇権的なもう一つの発展を予見していた。国政術である。だが、資本主義とは異なり、国家主義が市場経済と同様の自然主義的状態になるまでには数十年間が必要だった。そして、だからこそ、アナキズムの批判は正しかったにも関わらず、大部分の急進主義者にとって必須のものにはならなかったのである。米国型の代議制民主主義が統治の唯一「正当な」形態としてヘゲモニーをついに確立するといった、国家主義者にもアナキストにも同様に皮肉な捩れの中で、グローバリゼーションは国家権力を減少させる作業を始めた。国家主義の箱の外で思索することは、現在では、アナキズムが長い間望んでいた関連性を提供しながら、当然のものとなり、かつ、断固たる現実になってきている。アナキストによる直接民主主義組織・連邦・相互扶助の実験が反権威主義左翼サークルの内外での比較的広く容認されていることは、今日減少しつつある国家主義、そして増加しつつある相互依存的世界に対してこうした諸形態がどれほど合致しているのかを証明している。事実、そうした実験は、人間味豊かな現在の社会的変換の下で、アナキズムが心に描いている自治諸制度を試験的に予示しているのだ。

だが、このグローバル化する世界では、「非国家主義」は、ビジネスエリートと国際NGOに支配された超国家的諸機関から、世界裁判所と地域的貿易ゾーン、テロ戦術を使いたいと思っている漠然とした個人のネットワークまで、全てを意味しかねない。そして、一方では、国家型の地政学が、もっと拡散してはいるが残酷な非国家主義的地政学に負けるに従い、アナキズムの批判はすぐさま見当違いのものになりかねず、他方では、国家社会主義が人間解放を達成できなかったことをふまえてマルクス主義が20世紀半ばに再考されねばならなかった--その結果、一例として、フランクフルト学派が新しい支配諸形態を暴露した--ように、アナキズムも非国家主義への旋回を受けて再理論化されねばならない。これは、倫理的代案の始まりの前触れであると同時に、政治的独裁の恐るべき再編成の前触れでもある。今日のアナキズム実践は、本質的に、その哲学と社会批判の前を軽く飛び越してきた。反権威主義政治が、乗り遅れた瞬間に関する歴史的脚註以上のものになろうというのであれば、哲学と社会批判は実践に追いつかねばならないのだ。

今もなお、個人と社会との緊張を一貫して理解してきた唯一の政治的伝統として、近代アナキズムは果敢に、ジェンダー・性別・民族性・能力差別といった領域での新しい社会運動の個別主義的目標を、左翼の普遍主義的諸目的と自由の展開的理解に融合しようとしている。シアトルの街路に出現した驚くべき人間の混合には、「多様性の統一」を見いだせるだろう。正にこれは、アナキストがこの理論的融合を実践に移そうとしたからだったのだ。例えば、親和グループ・スポークスカウンシルといったモデルは、何百という異なる関心事が密接な関連性を見いだせるようにした。グローバリゼーションは、マクロとミクロをより密接に関係させながら、日々世界を小さくすることで、このことを促してきた。資本主義の下では、同質性と異質性は、地域社会と自己とを犠牲にして常に結びつけられることになろう。アナキズム的組織作りが弱々しく確立した本質的包括性は、革命的二重権力として最初は機能し、その後に、サパティスタの要求を使えば「多くの世界が適合する一つの世界」の基盤として機能することができる構造的枠組みを示している。だからこそ、反資本主義抵抗のための「アナキズム」の力なのだ。

我々は今回は勝利できないかも知れない。政治的になった原理主義の勃興と9.11以後の「テロに対する戦争」から、中東のような解決不能に見える悲劇までの全ては、我々の課題が重大であり、ほとんど不可能に近いということを示している。世界規模の警察活動エージェンシーから権威主義左翼までの誰もが我々の活動に反対しようとするだろう。だが、現在の反資本主義運動プロジェクト、そして、アナキズムが持つ総体的強みは、我々が最終的に勝利を得る人間ではなかったとしても、手本を示すことなのである。

1919年、アナキストは、ドイツ革命の過程で、ミュンヘンで一週間権力を獲得した。そして、社会全体に権能を与えるべくあらゆる種類の想像力に富んだ計画をあわただしく開始した。だが、グシュタフ=ランダウアーは、彼等が行うことのできる最良のことは将来の世代に一つのモデルを構築することだ、ということを知っていた。『我々の人生は短いものとなるかもれない。だが、私には、あなた方と共有している願望がある。我々は永続的効果を残すのである。(中略)権威主義が復活したときに、洞察ある集団が、我々は悪い始まりではなかったし、活動を継続できていたなら、酷いことにはなりはしなかっただろう、と述べることを期待できるようになるために。』ランダウアーは、その直後に、右翼反動の波の中で踏み殺され、14年後、ナチスが権力を握ったのだった。それでも、自由で自治的な社会を目的とした過去の壮大な諸実験は消え失せはしない--ここで記したアナキズムの旋律に、その中でも最も有望な形で、反権威主義の方向性に沿って闘われている現在の反資本主義闘争の中に、再び出現しているのである。

21世紀の始まりは悪くはないのではないだろうか。