タイトル: 露国革命が与うる教訓
発行日: 1905年2月
ソース: http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/koutoku03.html#10(2023年10月24日検索)

      

      

      

      

露国革命運動の由来は極めて古い。

前世紀の初めに於て、仏国大革命の後ち西欧から帰った軍隊がもたらしたものは、其戦勝の光栄よりも仏人と接触して得た革命的思想の方が多かったのである。左れば一八二五年十二月に於て、早く既に十二月党の謀叛がニコラス皇帝を危うくしたことがある、次で四十年代より五十年代にかけて、ヘルツェン、バクーニン等の諸先党が激烈なる運動は、露国の思想界に著しく革命の種子を撒布した。

而して此種子をして忽ち青々と萌出しめた肥料は、実に一八六一年アレキサンドル二世の農奴解放の一事である。

農奴解放の結果、農民は、従来の生活の保障を失うと同時に、苛重なる負担は増加した、其分賦せられた少許の土地は決して彼等の衣食を支うるに足りなかった、農民の三分の一なる二千万人は忽ち土地を失うて漂泊の民となった、露帝が与えた自由は、其実「飢餓の自由」であった。

不平と痛苦と貧乏とは、一時に露国全土を掩うて、二年の間に一千余回の農民一揆は起った、革命党が社会改造を叫び出したのは、実に此経済的状態より多数農民を救い出さんが為めであった。

地方生活の苦痛の半面は、都会に於ける激烈な自由競争である。

地方の青年は皆な月給取とならんが為めに、都会の学校に集注した、是迄制限された僧侶の子弟も職業選択の自由を得て競争中に飛込んで来た、二十年前迄は学生は貴族が六割を占めて居たのに一八七八年には二割三分となった、他は大抵平民の青年である。

斯くて教育の普及と智識の進歩が下層の不平を激成するのは必然の結果である、殊に注意すべきは当時の女子教育の影響である。

生活の苦痛は女子をして独立の職業を求むるに急ならしめる、一八七二年には露京医学校に五百人の女生徒が居た、一八七三年にはスイスツーリヒに遊学して医学を修める女生徒が七十三人もあった、下層の女子が教育を求めると同時に、貴族の女子も亦教育を求めることが熾んになった、彼等は父兄の許を待ず家を抜け出でて外国へ遊学するものすら多かった。

青年男女が西欧文明の学術智識を抱いて野蛮なる自国の実際社会の状態に接した時には、彼等は革命党とならざるを得なかった、殊に感情の鋭い婦女の多数が、従来の圧制束縛と無知蒙昧の境涯を免れると同時に、一躍して革命党に投じたのは無理ならぬ次第である、そして是等数千の青年男女が「人民の中に行け」という大運動、大伝道の結果は、即ち一八七三-四年にかけての大捕縛となり、此大捕縛の反動は「民意党」の暗殺手段となった。

ウェラ・ザシュリッチなる少女が時の警務総監トレポフ将軍を射殺したのを手始として、ウェラ・フィグネル女子のストリーニコツフ将軍の狙撃となり、ミスイワノフ嬢の如きは秘密印刷発見の折短銃を以て警官と戦うた、而して遂に一八八一年のアレキサンドル二世弑逆の惨劇を演ずるに至った、是等の例は殆ど枚挙に遑ま非ずして、其多くは年少の婦人が与って居る。

殊に今も猶お人心を感奮せしむるのは、ソフィア・ペロブスカヤ女子の事跡である。

ペロブスカヤ女子は露国貴族中、極めて名門の家に生れ、十五歳から革命運動に投じ、七十三年の大捕縛に一年入獄の後北部ロシアへ追放されたが、配所より遁走し諸種の暗殺に与った後、皇帝弑逆の時、合図の役をつとめて死刑に処せられた、行年二十六歳で有名な美人であった。

如此き政府と革命党間の激烈なる戦闘(政府は警察力を以てし革命党は暗殺を以てする)の結果、一八六二年より一八八〇年に至る間、政治上の犯罪でシベリアへ流された男女は、一万七千人の多きに達した、而も革命思想なるものは到底根絶し得なかったのである。

成程単純なる破壊活動と、個人的の暗殺手段は其後一時火の消えた如くになった、併し夫は革命運動の消滅ではなくて、寧ろ運動が巧妙になったのだ。

一八八三年スイスゼネワに社会民主労働党は創立された、其創立者はプレカノフ(片山潜氏と握手せる人)、ザシュリッチ(トレポフ将軍を射殺せし婦人)、ドウィッチ(平民新聞紙上神愁鬼哭の著者)とアキセルロッドの四氏である、目的綱領は純然たるマルクス派の社会主義で、創立以来非常の勢力を得来った、彼等は四年前より「イスクラ」(火花)と題する雑誌を中央機関として発行し、其他年々数万部の図書冊子檄文等を露国に密輸入して居る。

武力手段に関しては、一八九八年第一回の大会に於て左の如く決議した。

大会は組織的の武力の攻撃を以て、未だ其時機に達せざるものと宣言する、併し個人的の武力事件の起った場合には、之を以て労働者の政治的自覚を発達せしむるの手段として利用すべきである。

此党派は今露国各地に於て三十九の支部と十一派の団体とを有して居る、右社会民主党の外に、近年社会革命党なる一派が出来た、其理想は別に前者と異なる所はないが、唯だ聊いささか実行手段を異にする。

社会革命党の創立は確か一八九八年頃だと思う、去一九〇二年第一回の大会の宣言には、其目的は社会主義の基礎の上に社会を改造せんとすること、併し我等は専制政治の下に在って現制度に対する一言の批評も出来ない故に、先づ政治上の自由を得ねばならぬことを主張して居る、而して其手段としては一面腕力を用ゆること、一面多数を団結するの必要を説き殊に暗殺の手段は敵の力を分裂せしめ平民の戦闘的精神を鼓吹し、探偵及び裏切を防ぐのには已むを得ぬと称して居る。

其結果として革命社会党中に一部は新たに「戦闘団」なる者を組織し、其幹部の決議に依て着々暗殺の実行に取り掛った。

其手始めには一九〇二年(一昨々年)四月学生バルマシエツフが内相シピアギンを暗殺し、同年七月にはカルコツフ太守オボレンスキー(現フィンランド太守)暗殺の陰謀となり、一昨年五月にはウフアの太守ボグダノウィッチ(神愁鬼哭参照)の狙撃となり、其他例の有名なるポベドノスチエツフに対しても二回まで暗殺の準備が出来て居たが遂げ得なかった。

而して昨年世界を驚したる内相プレーヴェの暗殺の如きも、実に彼等の計画に成ったのである。

彼等は昨年七月二十九日付を以て「文明世界の市民に訴う」と題する一文を発表した、プレーヴェの罪悪五ケ条を挙げて暗殺の理由を述べ且つ文明の世界には暗殺は排斥すべきも露国に於ては已むを得ざる旨を論じて居る、此一文は露国革命社会党の中央委員の署名で、現に吾人の手にも仏英両国語に訳したのが来た、五ケ条の中には、人心転向の政略の為めに皇帝を勧めて日本と開戦せしめ、国家を挙げて有史以来未曾有の難境に陥らしめ、数十万の青年の生命を犠牲とし、全人民の労働の結果たる数十億の財富を するの罪云々の条項もある。

現在「革命社会党」は二十六の団体と十六の支部を露国各要地に置き、一昨年の春にはニューヨークにも支部を置いた、機関には「革命のロシア」其他二三の雑誌を発行し、且つ年々数万部の小冊子檄文引札様の物を配分して居る。

是れまで何国の歴史でも政治的革命が先づ完成して然る後ち経済上の革命運動が始まって居る、前者に於ては多く腕力武力を用いたが、後者は投票権及び同盟罷工を武器とする順序になって居る、独り露国に至っては民権自由の革命と社会主義の革命とが同時に来たので、個人的の腕力手段と社会的の同盟罷工の方遥かに功果多きは何人も之を認むるであろう。

今回の革命運動には、諸種の分子が加わって居るには違いないが、此気運を醸成し、又其重なるパートを働いて居るのは実に右の「社会民主労働党」と「革命社会党」の二派である。

以上述べ来った革命運動の歴史は吾人に如何なる教訓を与うるであろう乎。

第一に、革命の来るや決して一朝夕でない、其成るや又一朝夕でない、多くの年月と多くの犠牲とは常に之が為めに費されるのである。而も年月の長きと犠牲の多きが為めに、一たび萌した革命思想は決して消滅するものでない、早晩大衝突、大破裂の暁に到達せずんば止まぬのである。

教育の普及、智識の進歩が、如何に露国国民をして自覚せしめたかを見よ、殊に女子教育が如何に革命運動に影響したかを見よ、革命を防圧せんとするには大に言論出版の自由を束縛すべしというの議論があるのは無理のないことである、併し露国に於ては毫も言論出版の自由束縛の功果は無かったのである。

殊に驚く可きは警察力の無効なることで、露国警察の峻厳苛酷にして其探偵の機慧敏活なるは古今類例なき所である、二十年間に数万の男女は、政治犯で捕えられた、一人の犯罪者を捕うるに数万円の金を費ったのは珍しくない、而も革命思想は少しも之が為めに衰えなかった、如何に露国の警察力という者の無能なるよ。

若し露国政府にして、今少しく人権を重んじ、自由を重んずるの心あって、早く十年二十年の前に憲法を与え議会を起して、民衆の不平を放散するの権を有せしめば、斯る忌むべく恐るべき血なまぐさき歴史を染成すには至らなかったであろう、吾人は露国革命の史を読む毎に、深く自ら戒め且つ自ら奮う所以の者多きを感ずるのである。

(「直言」二巻三号)