タイトル: インドネシアにおけるアナーキー
著者名: Anonymous
発行日: 2010
ソース: https://web.archive.org/web/20120127052158/http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/846/(2023年2月18日検索)
備考: このインタビューは、“Von Jakarta bis Johannesburg – Anarchismus weltweit”(Sebastian KalichaおよびGabriel Kuhn編、Unrast Verlag社より2010年に刊行)というドイツ語の本に収録された。[この日本語訳では、ドイツ語版は参照していません。[ ]内は訳注です。](ONLINEアナキズムより)

インドネシアでのアナキズムの歴史について教えてもらえますか?

MT: 私の友人たちから聞いた話や、私が学んできたことから知っている限りでは、インドネシアでのアナキズムは1998年頃に、パンク・ミュージックの到来とともに始まりました。当時はアナキズムといえばパンクの同義語で、そのコミュニティーの中の一部の人々が、アナーキーな思想と価値を深く掘り下げるようになりました。その時以来アナキストの論説は、パンク/ハードコアのコミュニティーの中の個々人や、コレクティブの間で発展しはじめました。そしてのちには活動家たち、学生たち、労働者たちのようなより幅広い諸集団の範囲へと、本質的に多様な背景をもつ大衆へと広がっていきました。

アナキズムの論説が広がっていく間に、この話題をめぐって多くの議論が起こるようになり、アナーキーはより深く討論されたり、分析されたり批評されたりするようになりました(そしてこの流れは今日まで続いていて、より広い多様な分析の場をもつようになっています)。次の段階は、それを実践に移すことでした。たとえば、アナーキーな原則と価値(脱中心的で脱ヒエラルキー的であること、そしてコンセンサス)をもったコレクティブを形成することでした。それらのコレクティブには多くの問題があったとはいえ、このようなコレクティブのモデルは何か違ったものに見え、(政治的な領域でも非政治的な領域でも)ヒエラルキー的、中央集権的、そして権威主義的な形態や構造を通して、常に支配的であろうとするグループのモデルとは反対のものに見えたかもしれません。

フード・ノット・ボムズ=Food Not Bombsのような行動は、ここでのアナーキーの実践から早くに現れた直接行動の一つとみなすことができます。一方ではジンや、ニュースレター、パンフレットなど他の出版物の発行がありました。はじめは、ジンのテーマや論点は主にパンク/ハードコアに関連するものでしたが、時が経って流れが発展するにつれて、フェミニズム、アナーキーな価値、反資本主義、世界的および社会的な抵抗、アナキズムの変種、環境および動物の運動、政治的なニュース、そしてその他、のようなテーマや論点が現れるようになりました。アナーキーの前進は、インターネットのアクセスの増大する諸水準によっても助けられています。インターネットというメディアは、私たちの友人たちによって、アナキストの論説についての情報を普及させるために使われています。

PM: 私がまず最初に言わなければならないと思うのは、インドネシアの人々は英語という言語に慣れてはおらず、したがってインターネットが広がりはじめた当時でも、アナキズムとは何かということを理論的に理解していたのは、アナルコ・パンクの第一世代全体の中の一握りの人々にすぎなかったということです。しかし、その頃に荒れ狂っていた経済的、政治的そして社会的な状況のせいもあって、何かをしたいという衝動が形成されました。私たちは誰なのか、ということについて理解したいという渇望は、第一世代のほとんど半数をPRD(Partai Rakyat Demokratik、つまり人民民主党=People’s Democratic Party)というレーニン主義者の政党に向かわせました。私たち自身の言語では、多くのものを参照できなかったために、私たちの選択肢は多くはありませんでした。バクーニン=Bakunin、エマ・ゴールドマン=Emma Goldman、ルドルフ・ロッカー=Rudolf Rockerによって書かれた、いくつかのアナキストのパンフレットがありました。それらは何人かのアナキストの友人たちによって訳されて、広く配布されていました。しかし、それらはあまり助けにはなりませんでした。古典的な思想家が書いたことは、私たち自身の場所と時代についての私たちの理解とはほとんどつながらないからです。たとえば、その当時のインドネシアの歴史は、たった二人の大統領[スカルノとスハルト]しか経験していなかったのですから、政府の悪というものについて、私たちは本当にどのように理解することができたでしょうか? 私たちはポスト植民地の国家であり、国家とは当然に悪であるという確信とともに、するべきことがたくさんあります。

2001年頃、一人また一人と燃え尽きて党を離れました。しかし私たちの多くは、することが可能なように見える唯一のこととは、まさにレーニンが言った方法であるという理解をもったままでした:一つの旗じるしの下での革命、過渡期の政府、そしてあれやこれやの騒動。私たちはまたアナキストとして、国家もやはり組織立った敵であると信じはじめたために、多くの人々から異常者として扱われました。他の人々はインドネシアという国家がより大きな権力をもち、国際的に発言力をもつことを要求しますが、私たちは国家と全ての役人たちもまた、私たちの敵であると宣言します。そして今度は、第一世代の活動と混乱の結果として、自らをアナキストであると認める第二世代が生まれました。この第二世代は急速に、アナキズムについてのより深い理解をもち、そしてレーニン主義との違いを指摘できます。あるいは私に言わせれば、この世代は第一世代の失敗から学んでいます。

今日の状況はどうですか? インドネシアでのアナキズムの主なグループと潮流は何ですか?

JC: 私が知る限りでは、インドネシアには優勢なグループはありません。ただいくつかのコレクティブがあり、さまざまな背景をもった個々人がいて、傾向の異なる幅のあるアナキズムを追い求めています。この方法論の違いから討論が起こることも少なくありませんが、しかしこの討論は、それにかかわるコレクティブや個々人の間に敵意をもたらしはしません。異なる背景やさまざまなアナキズムをもつこれらのコレクティブや個々人が、同じプロジェクトに参加するようなる機会さえ、いろいろあります。メーデー2007と2008はその例です。いろいろな都市のいくつかのコレクティブと個々人が、メーデー2007という行事の計画に加わることになりました。参加したコレクティブは:Affinitas(ジョグジャカルタ=Yogyakartaのコレクティブ)、Jaringan Otonomis[自治/自律ネットワーク](ジャカルタのコレクティブ)、Apokalips(バンドン=Bandungのコレクティブ)そしてJaringan Autonomus Kota[都市自治/自律ネットワーク](サラティガ=Salatigaのコレクティブ)。これらのコレクティブとは別に、バリ=Baliやスマラン=Semarangなどいろいろな都市の個々人も参加し、またジャカルタのパンクのコレクティブの人々も加わりました。参加したコレクティブと個々人は、自分たちのことをJaringan Anti-Otoritarian(反権威主義ネットワーク)と名付けることにしました。メーデー2007では、行動に参加した人の数は100人余りに及び、その全てが黒い服を着ていました。その時にJaringan Anti-Otoritarianが持ち込もうとしていたメッセージとは、メーデーの再定義でした。というのも当時のメーデーとは、左派のグループと個々人が支配する行事だったからです。その日のJaringan Anti-Otoritarianの行動は成功したと言うことができます。当時は存在していないと思われていたアナキストの運動が、それから注目を浴びるようになりました。

メーデー2007の後、アナキストの運動は燃え上がりはじめました。異なる都市で、いくつかの新しいグループが現れました。アナキストたちはまた、たとえば原子力発電所の建設に抗議する行動などに、より一層参加するようになりました。

メーデー2008が近づいてくると、異なる都市のコレクティブと個々人の間の調整が再び活発になりました。この調整は二つの経路を通して行われました:インターネット経由と、顔と顔を合わせる集まりを通してです。この時期には参加する人の数が増大しました。残念ながらこの頃には、Apokalips(バンドンのコレクティブ)とSindikat Melawan[抵抗する組合](サラティガのコレクティブ)が、いろいろな理由のために活動から抜けました。調整は混乱したように見えましたが、Affinitas(ジョグジャカルタのコレクティブ)やジャカルタのコレクティブ、それに異なる町の何人かの個々人たちは、それでもなんとか行動をやり抜こうとしました。前年のように、メーデー2008の行動はジャカルタで行われました。パンカーたちを含めて200人もの人々が参加しました。企業による虐待/酷使という問題に焦点を当て、バクリー・ビル=Bakrie Buildingを行動の標的にしました。財界の権力者であり政治家であるアブリザル・バクリー=Aburizal Bakrie[バクリー財閥のかつての総帥、メーデー2008の当時はユドヨノ政権の国民福祉担当調整相、2009年にゴルカルの党首となる]が所有するこの建物は、さまざまな企業のオフィスになっています。一部の参加者たちがバクリー・ビルを破損し、それから間もなく警察が来て鎮圧を始めました。何人かの参加者たちが力づくで逮捕されました(もっとも、そのうち何人かは、他の参加者たちによってうまく解放されました)。できる限りの抵抗をした後で、参加者たちはデモを続けましたが、あいにく警察が大人数で戻ってきました。そして行動に参加した人々は全員逮捕されました。

メーデー2008以後、拡大していたアナキストの運動は衰えはじめました。いくつかのコレクティブが崩壊したりもしました。しかしそのことは、アナキズムが死んだことを意味してはいませんでした。新しいコレクティブと個々人、また、すでに長らくインドネシアのアナキストの運動に関わってきた人々が、ネットワークを作りはじめ、そしてさまざまな場所で、企業の手によって苦しめられている人々とともに行動するようになりました。今日までに少なくない数のアナキストたちが、企業や国家に対する人民の闘争に参加しています。一部のアナキストたちは、警察の部署[交番?]を攻撃したりショッピング・センターに損害を与えるなど、より好戦的な行動さえとりはじめています。

MT: JCさんの答えの中で、グループのダイナミズムについての表現が多く出てきたので、私も現在の状況についてより多く答えようと思います。

今日のアナキズムの状況は、まだ進行中の過程であるということができます。そして私が思うには、それは二つの分野に分けることができます。一つは論説と理論の分野であり、もう一つは実践です。

論説と理論の分野では、近頃では、議論され分析される話題は資本主義から始まって、仕事、セキュリティー文化、文明化、哲学、メディア、消費者主義、宗教、ジェンダー、企業、自由な連合の形態、日々の生活とインドネシアという文脈でのアナーキーに関連することなど、ますます広い範囲に及んでいます。この議論は直接的にも(授業、映画上映、定期的な議論、グループの議論、開かれた/公的な議論)、あるいは間接的にも(メーリングリスト、Eメール、本、雑誌、パンフレット、ジン、ニュースレター、ウェブサイト、ブログ)行われています。けれども、私は現時点では企業、資本主義、社会的な抵抗、そして直接行動が、アナキストの世界で熱い話題になってきていると感じます。私は一人の女性として、女性たち、身体、セクシュアリティー、セクシュアル・オリエンテーション、そして個人的な関係性をめぐる問題が、十分に議論されていないと理解しています。そのために私は、この問題をさまざまな方法で、多様なメディア(直接行動、批評、著作、芸術作品)を通して提起しようと努めています。そして今、私は反逆する性器についての小説を準備しています。フィクションを通じて私のメッセージがより簡単に受け入れられ、理解されることを望んでいます。

また最近では、女性たちによる似たような種類の著作が増えており、「サストゥラ・ルンディル=sastra lendir[粘液の文学]」として知られてきているところです。それらは性的な自由(女性たちのセクシュアリティー、レズビアンおよびゲイ)に関するものですが、まだその背後にある関係性や価値、たとえば権力、支配、統制などには焦点が合わせられていません。

実践の水準について言うなら、近頃ではますます多くの友人たちが、フード・ノット・ボムズ、スキル・シェア、街頭キャンペーン、そしてデモ(企業の虐待/酷使、警察の暴力、消費者主義、資本主義などについての)、さまざまなこと(自由な学校、読書空間、インフォショップのような)をめざすコレクティブの設立、DIY祭り、アナキストのアプローチに従って、企業による虐待/酷使を受けた人々とともに組織を作ること、そしてまたサボタージュのような、アナーキーな価値に基づいた直接行動を行っています。アナキストたちの存在とその論説および活動は、より大きなグループからますます「注目」されるようになっていると言えます。そしてもちろんそのために、とくに抵抗運動を支配する権威主義的な左派の世界(マルクス・レーニン・毛沢東・チャベス主義者の活動家のグループ)で、多くのダイナミズムと討論が発生しています。この「左派」の世界の中には、アナキストの理論、哲学および行動についての誤りと誤解が数多く存在しています。私にはそのことが理解できます。というのも、左派のグループはいつでも、イデオロギーを自らの「政治的な闘争の道具」としか見ていないからです。一方でアナキストたちは、イデオロギーとは何かとても哲学的なもので、個人的(何か私たち自身の中に内面化されたもの)なものであるために、個人的な、関係性もしくは日々の生活の中で、あるいは社会的なそして政治的な闘争の中でも、それぞれの文脈の範囲内にそれを適用することができるということを理解しています。同時に私は、アナキストの論説について知りたいというもっと広い範囲に及ぶ欲望が、他の個々人やグループから出てきていると感じます。このことは質問の増加や、アナーキーの思想に引かれるようになった友人たちから見て取ることができます。

アナキストの活動に女性たちが参加することは、まだ大変少ないです。私が「闘争」を始めて以来おおよそ10年の間、このことは私にとってやっかいな問題でありつづけています。私は女の友人たちを支援し励まそうと、非常にしばしば努力してきたつもりですが、いつも途中で止まり、そして彼女たちの大部分は「監獄」に帰ることを選びます。彼女たちは結婚して家族を作ることを選ぶか、あるいは働くことを選ぶか、あるいは女性のNGOで働くことを選びます。私が住んでいる社会では、家父長制的で性差別的な価値や実践が、まだとても強い影響力をもっており、ほとんどあらゆる文脈(家族、恋人たちの関係性、友情、コミュニティー、組織、学校、仕事、社会、宗教など)の中に現れており、たぶんそのことが、状況がこうなっていることの一つの理由のようです。インドネシアでは女性たちのラディカルな運動の歴史が、ほんの少ししかありません。PKI(Partai Komunis Indonesia、インドネシア共産党)の時代を通じて、一つの運動が存在していました。それはPKIに含まれていた女性たちの組織で、グルワニ=GERWANI(Gerakan Wanita Indonesia、インドネシア女性運動)として知られています[グルワニはPKIと密接な関係にあったが、独立した組織だったとされる]。この運動は1965年から66年に、国家がPKIの口を封じる間に破壊されました[1965年のクーデター(9月30日事件=G30S)の後、その首謀者と見なされた共産党が徹底的に弾圧されたことを指す。十万人単位の人々が殺されたといわれるが、詳細は現在でも不明]。PKIまたはコミュニズムに関連するあらゆることは、すでにインドネシアの社会に深いトラウマを残しています。そしてこのことはまた、権力側のプロパガンダの道具や脅迫として、あらゆる形態の人民の闘争を鎮圧するために使われてきています。「おまえは1965年に起きたことが、もう一度起きてほしいとは思っていないだろうな?」 この時以来、女性たちの運動やラディカルな個人の女性たちはほとんど存在せず、近頃「女性たちの運動」と呼ばれているものは、大部分、女性たちのNGOや左派の組織に集中しています。それらは妥協を繰り返しており、国家のコンセプトを促進する立場にあります。

誤解:またアナーキーを信じて、それぞれの生活の中でそれを生きている友人たちの中にも、しばしば討論や意見の違いがあり、その友人たちはまだ、自らを組織してグループを作ることがうまくできず、毎日の関係性の中で、アナキストの価値や原則についての誤解がまだ存在している(たとえばヒエラルキー、支配や性差別がまだ存在する)とも私は思います。しかし、私はまたこのことを、私たちが学ぶ過程の一部であると理解することもできます。

情報や文献に接近する方法の不足:そのこととは別に、アナキストの情報源や文献はまだ非常に少なく、利用することが困難だと私は思います。利用できる情報の大部分は英語(または他の言語)のものであり、あるいはウェブサイトから入手できますが、しかしインターネットへのアクセスも、本や英語という言語へのアクセスも、まだ私たちの社会では広く行き渡ってはいません。多かれ少なかれInstitut-A InfohouseとCommunity Centerは、アナキストの文献にアクセスするための空間が必要だという、その理由のために始められました。

今日のアナキストたちにインスピレーションを与える歴史上の運動が、インドネシアには何かありますか? たとえその運動が、自らのことを「アナキスト」だと認めてはいなかったとしても。

JC: いくつかの運動が存在しています。それらは決して、自らをアナキストとは認めてはいませんが、それにもかかわらず本当にインスピレーションを与えます。ブロラ=Bloraやパティ=Patiなどでは、アナキストたちはSedulur Sikep運動(サミン=Saminの人々として知られる)[日本では「サミン運動」として知られる]からインスピレーションを受けています。社会的な対抗運動で、オランダの植民地だった時代から存在しているものです。けれどもこれは、かつて地域的な規模で活発になっていただけです。インドネシアの社会的かつ政治的な運動からは、インスピレーションを得られないと感じるアナキストたちもたくさんいます。さまざまな理由から一部のアナキストたちは、インドネシアでの闘争の歴史を掘り下げようと真剣に試みています。それらの闘争は、はっきりとアナキストとは自認していないものの、やはりアナキスト的な特徴をもっています。

MT: 私はSedulur Sikep(サミン)運動とその哲学について、より完全な形で答えてみたいと思います。

Sedulur Sikepの教えは、Samin Surosentiko(1859-1914)[日本では主にサミン・スロンティコ=Samin Surontikoとして知られる]によって広められました。それは19世紀、植民地だった時代のインドネシアで、オランダの植民地的な文化と、資本主義を拒絶するための概念として出現しました。この運動は何よりもまず、中部ジャワ州のブロラのKlopoduwurの周辺で成長しました。1890年にSedulur Sikep運動は、東部ジャワ州のボジョネゴロ=Bojonegolo県のランドゥブラトゥン=Randublatung郡の、森林の中の二つの村で発展し、他の村々へと急速に普及しました。その範囲はジャワ島の北岸から、北および南Kendeng山系の森林に及びました。今日の地図で言えば、東部ジャワ州と中部ジャワ州の境界に当たる地方一帯で、オランダの権力に抵抗する闘争が起こりました。オランダは当時、チーク材のプランテーション/大農園として使うために土地を押収していました。

Sedulur Sikepの教えは、オランダの植民地政庁とその独断的な行為の結果として、あるいはそれへの反応として出現しました。闘争は物理的な対決の形態をとらず、かわりに、政府が人々に課している全ての規則と義務に、たとえば税金を払わないということによって、挑戦することを宣言しました。何ごとにも挑戦するという態度を通して、独自の社会的な秩序、慣習法および伝統を自主的に作りあげました。

Sedulur Sikepの一つの原則は、「kulo ndiko sami, kowe aku podho」(私とあなたは平等である、だから全ての人々は平等であるかもしれない)でした。これは肌の色、民族性または宗教/信念に基づいて区別をしない平等の原則です。どんな人間であれ、他の何者かより高い位置を占めるとか、より多くの権利や義務をもつことはありません。全てのことがらにおいて、人々は独力で、あるいは自発的な協力によってものごとを選り分けるべきだとサミンは考えました。

Sedulur Sikepは実践的な哲学であり、何か不可能であることを創造しようとはしませんでした。Sedulur Sikepの目標は、全ての人間のために実際的な自由をもたらすということでした。少数派よりも多数派が、何かの権利を多くもつことはなく、逆もまた同様です。一人一人の人間が、お金や支払いなしに大地の豊かさを得るという同じ権利をもち、ある人が生産するものはその人の所有物となり、そして他のどんな人も、あるいは一緒に行動する人々も、その人が同意することなしには、そのような何らかの所有物を手に入れる権利をもたず、誰でも自分が生産したものを、自分がそうしたいと思えば交換することができ、人々が何を書けるか、食べたり飲んだりできるかには、それが他の人々の権利を妨げない限り、何の制限もないと考えられます。

Sedulur Sikepは土地の賃貸借を拒否し、その土地に住んでいる者なら誰でも、その土地を使うことが許されるとし、独占の形態である特許権と著作権を拒否し、税金は自発的なものでなければならないとして人々への課税を拒絶し、子供たちを公式の教育課程に送らず、自然と環境は尊敬されるべき母であると考えていたために、それを賢明に扱いました。

Sedulur Sikepの教えの鍵となる点は、次のとおりです:
・宗教は生活のための武器あるいは元金となりえる。Sedulur Sikepは宗教と区別されない、ということが理解されなければならない。そしてこのために、Sedulur Sikepの支持者たちは、決して宗教を否認したり憎んだりはしない。最も重要なことは、人々が自らの生活の中でどのようにふるまうかである。婚礼は政府や宗教的な機構が関与することなく、直接的に実行されていた。なぜなら支持者たちの宗教は、国家によって承認されていなかったからである。
・他の人々をいらいらさせないこと、喧嘩をしないこと、羨まないこと、そして他の人々の所有物を手に入れようとしないこと。
・賢明な行動を選択すること、そして傲慢にならないこと。
・生きている人間は、自分自身の人生の理解を発展させなければならない。なぜなら我々の人生は、我々の魂と同じものであり、そして我々は永遠に、一つのそれだけをもっているからである。Sedulur Sikepによれば、ある人が死んだ時その魂は死なず、ただその服を脱ぐだけである。
・話をする時に我々は、我々の口から出てくるものに気を配るべきである。それは正直で、他の人々に敬意を示すものでなければならない。Sedulur Sikepにとって、商業は「不誠実」という要素を含んでいるため、商業は禁止されていた。また寄付も、お金という形態のものは受け取られなかった。

PM: 悲しいことに、スハルトの体制のもとでは、体制側の立場に適さないと見なされた歴史的な素材は、どれもうまく排除されています。オーストラリアの歴史家であるアントン・ルーカス=Anton Lucasは、インドネシアの独立宣言の時代[1945年以後]にインドネシアで起きた、興味深い社会的な大変動について書きました。それは私が思うには、はっきりとアナキスト的ではありませんが、上流階級に対して自律的に立ち上がっています。植民地の軍隊に対して、またインドネシア共和国に対してです。パプアの先住民の運動もまた、興味深いと私は思います。私は2000年頃に、その指導者たちの一人に会いました。そしてそれから数年後に、彼のものの見方、インドネシアの人々についての彼の批評が、平等主義の(しかし原始的な)社会とヒエラルキー的な現代社会の間の衝突について、私に思い起こさせるということを私は理解しました。私たち自身の歴史を見出すために、最初にするべきことは本当に難しい仕事ですが、それをしなければならないと私は思います。

インドネシアはあまりにも巨大な国であり、多くの文化的および宗教的な伝統をもっています。インドネシアのどの地方で、そして国内のどのコミュニティーの中で、アナキストたちを見出すことができますか?

JC: 私はジャワ島に住んでおり、そしてこの間ずっと、私はやはりジャワ島にいるアナキストたち(と言っても、その全員を知っているわけでもありませんが)とともに、たいていは活動しています。そしてまれには、他の島々のアナキストたちと行動します(そしてこれは、ただ通信の文脈においてだけです。ある計画のためにともに働くという段階には、私たちはまだ達していません)。

MT: インドネシアではジャワ島は政府、情報、教育などの「心臓」であり、そのことは国の他の地域で、これらへのアクセスが不均衡になることの原因となっています。国家は意図的にこの状態を創出し、ジャワ島の外部の人々を「ばか」なままにしておき、その土地を、国家と企業による大規模な開発の対象としています。

私はジャカルタ(ジャワ島の西部)に住んでおり、以下の島々のアナキストたち(個々人またはコレクティブ)を知っています。
・ジャワ島(ジャカルタ、バンドン、ジョグジャカルタ、スマラン、パティ、ブロラ、スラバヤ=Surabaya、レンバン=Rembang、ランドゥブラトゥン=Randublatung、サラティガ、ポロン=Porong)
・スマトラ島(パレンバン=Palembang、プカンバル=Pukanbaru、メダン=Medan、アチェ=Aceh)
・カリマンタン島(バリクパパン=Balikpapan)
・スラウェシ島(マカッサル=Makassar、マナド=Manado、ゴロンタロ=Gorontalo)
・バリ島
とはいえ、このリストの中の人々やコレクティブの一部には、私はまだ個人的に会ったことがありません。

PM: アナーキーとは基本的な人間的性格だと私は信じます。だからこの信念において、いくらかアナキストの価値を見出すことのできるコミュニティーが、いくつか存在すると私は考えます。たとえそれらのコミュニティーが、自らをアナキストとは呼ばないとしてもです。そのあるものは、宗教的な伝統さえ受け入れているかもしれません。それらは普通、主流の合法的な宗教とは異なっているものです。

アナキストの運動の中で、宗教は全く何の役割ももっていないのですか? たとえば、アナキズムとムスリムの伝統の間に、類似点は見出されていませんか? それとも、全てのアナキストたちは反宗教なのですか?

JC: 私は不可知論者であるアナキストです。私のアナキストの友人たちの多くは、ほとんど私と同じ考え方をもっています。しかしたとえば、スーフィー運動からインスピレーションを受けているアナキストたちも、何人か存在します。私にとっては、宗教とは強制的でヒエラルキー的な機構であり、この理由のためにそれを拒絶するだけでなく、破壊することもやはり必要です。宗教は精神性と同じものではありません。私は反宗教であるとはいえ、理性を賛美して精神性を否定する、そのような現代の人々の一人ではありません。

MT: 私はアナキズムについて知る前に、家族の中での、そしてより広い社会の中での個人的な経験のために、宗教には従わないという選択をしました。

何人かの友人たちから、宗教についての見方や態度のことを最初に聞いて以来、私はずっと、インドネシアでの宗教的な機構による強い支配や、統制について危機感をもっています。けれどもアナキストの世界では、多くの友人たちがまだ「宗教をもっている」か、あるいは宗教の否定について広い心をもつほどには、まだ十分に勇敢ではありません。自分の家族や宗教的な環境に、なおも敬意を示すことができるように、バランスをとろうとしているのが普通です。

インドネシアはムスリムの住民たちの数が、世界で最も多い国になっているという文脈の中で、これらの価値は私たちの中へと厳格に植えつけられ、私たちに強制され、私たちに伝えられており私たちを統制しています。家族の水準から始まって、社会や国家にいたるまでです。けれども私たちの多くは、これらの点について議論してきており、宗教とは支配と統制の源泉であって、破壊されなければならないと考えています。一部のアナキストたちはこの問題をより深く掘り下げ、アナキストの視点からイスラムを批評しています。

PM: アナキストの運動について話すなら、その中では、宗教は何の役割も果たしていないと言うことができます。しかし私の友人たちの一人は、ムスリムであってアナキストでもあります。そしてやはり、彼はアナキズムとムスリムの伝統との間に、何らかの類似点を探し出すことができます。彼は編集者として、ある出版社で働いていますが、そこではムスリムの本の出版をより多く手掛けています。

インドネシアの全てのアナキストたちの間には、強いつながりがありますか?

PM: これを「強いつながり」と呼ぶことができるかどうか、私にはわかりませんが、しかしやはり、インドネシアのほとんど全てのアナキストたち(自らをアナキストであると認めている者)は、お互いのことを知っています。

MT: 私はあると言うことができます。たぶん私たちは、自分たちは少数派であると感じているために、私たちの間のつながりは本当に強いです。私たちのそれぞれがお互いを支援するという感覚があり、他の友人たちの活動について知りたいという欲望が存在します。けれども、インドネシアの人々の地理的な、そして財政的な状況のために、落ち合って顔と顔を合わせてコミュニケーションをとることは本当に難しいです。私たちは普段、インターネットか電話を通して連絡をとり合います。

過去数十年間にわたって、インドネシアで起きている独立闘争:東ティモール、西パプア、アチェ、そして他の地域のものについて、アナキストたちはどんな立場をとりますか?

PM: 私はインドネシアのどんなアナキストをも代表して話すことはできません。しかしいくつかの水準で、私はそれらの闘争を支援することができると個人的に思います。私はまた、ティモール・レステ=Timor Leste[東ティモール](人々はイースト・ティモールではなく、ティモール・レステと言うのを好みます)が独立した国家になり、堕落した政府ができる前に、その解放のための闘争に関わっていました。

MT: インドネシアのあらゆる地域が、それぞれ固有の問題をかかえていることを理解する必要があります。だからこそアナキストたちは、何よりもまず、自分自身の場所で直面する問題に対して、常にそれにふさわしいやり方で行動を起こしたり抵抗したりするでしょう。私たちは代表者たちを関わらせるという方法を避けます(左派のグループの大部分とは対照的に)。そしてそのために常に、自分たちがたまたまいるその場所で、私たちは運動と行動を打ち立てます。と言うのはまた、アナキストの友人が、それらの地域に住んでいないためでもあります(実際にはアチェには友人が一人います。しかし彼はまた、ほんのつい最近そこに着いたばかりなので、それほど多くのことはできていません)。

しかし、私たちはそれにもかかわらず、それらの場所で何が起きているのかに気づいており、国家権力と戦う全ての形態の闘争と、全ての自律的な闘争を支持しています。けれども、インドネシアから自らを解放し、新しい国を形成する(制度は同一であり、新顔たちが政府と権力を握る)ための人民の闘争をそれらの場所に見るなら、そこには矛盾が存在します。そのようなことは、たとえば東ティモールの場合に見ることができます。

一方で、私たちはまた異なる視点から、とくに国家権力、軍事主義および環境の搾取という文脈から、それらの問題を議論してもいます。

政治的な反対勢力の迫害に関する限り、インドネシアという国家は恐ろしい遺産をもっています。アナキストたちはこのことによって、歴史的にどのような影響を受けてきていますか? 今日の状況はどうですか?

JC: 今日のインドネシアは、新秩序[かつてのスハルトによる独裁体制]の時代のインドネシアとは、全く別のインドネシアだというわけでもありません。私が言いたいのはつまり、今日にあっても、権力に服従することを拒否する者たちは、まだ迫害されているということです。近頃ではインドネシアの指導者たちは、前任者たちの失敗から学んでおり、よりうまく弾圧を組織しています。新秩序の時代であれば、反対勢力は粗雑なやり方によって滅ぼされましたが、そのようなことはもうありません。今日インドネシアで権力をもつ者たちは、暴力による支配はしないという誤った印象を広め、平和とセキュリティーの幻想をとことんまで押し出しています。そのために多くの人々は、さらに政府を支持するようになり、またたとえそうでなくても、ただ指導者たちに同意しないだけになります。大部分の人々は、ヒエラルキーや権力そのものは正当だと考えています。

MT: 私たちのうち何人かは、すでに国家によるテロ、脅迫、襲撃および逮捕のような弾圧的な行動に、直面しなければならなくなっています。JCさんの答えを受けて言えば、私たちはこの状況への警戒を続けながら、国家が打ち出す幻想に影響されないように努力しています。私たちはまた、セキュリティーと安全の問題に対して、より多く注意を払おうと努力してもいます。そのために「セキュリティー文化」を、私たちの全ての活動の中で、重要な考察と見なされるべき何かとして打ち立てようとしはじめています。そしてこれらの状況に立ち向かうために、方法と戦略を発展させているところです。しかし、まだほんの少しの人々しかこの問題に関心をもっていない、ということを指摘するのも重要なことです。

PM: 近頃では政府は、実際にはまだ以前と同じことをしますが、しかしそれを円滑に行っています。政府が声明を公然と、暴力的に発表することはもうありません。しかしそのことは、問題と見なされたものを解決するために暴力を使わない、ということを意味してはいません。数ヶ月前に、リアウ=Riau(スマトラ島)のある村が、軍のヘリコプターによって激しく爆撃されて焼かれました。その村の農民たちが、国のパーム油の会社に土地を手渡したいとは思わなかったからです。スラウェシ島では何人かの農民たちが、同じような事情で撃たれました。ジャワ島のいくつかの村々でもそうです。しかし、国家が統制しているメディアは、そのことを全く報道しませんでした。私と何人かの友人たちは、普段からひどいニュースを自主的に広報しています。

国際的なつながりについてはどうですか? 東南アジアの中で、そしてより遠く離れた世界で、他のアナキストたちと強い関係をもっていますか?

PM: 公式にはもっていません。しかし何人かの友人たちについて言えば、やはりもっています。

MT: 私個人について言えば、インドネシアの外側のアナキストたちとの間にいくつかのつながりがあります。そしてInstitut-Aは、はじめから国際的なネットワークの助力と、連帯のおかげで存在することができました。私たちはさまざまなコレクティブとのつながりを作ることによって、ここでの私たちの存在と、活動についての情報を広めようと試みています。

情報を分け合うこととネットワークを作ることの重要性に、私たちは気づいています。しして現実に、情報を分け合うためにどんな道具を使うことができるかを、私たちは知っています。ただ言語という制約のために、もしくは時間がないか、たくさんの資料を翻訳することに適した心的状態にないために、時々行き詰るだけです。集中的に翻訳をしていくための能力と欲望をもつ者は、私たちの中で多くはありません。

インドネシアと東南アジアでのアナキズムの未来の可能性を、どのように考えていますか?

PM: 私は東南アジアでのアナキズムについてよく知らないため、そのことについて話すことはできません。ネットワークが重要だということは知っていますが、今のところ、私はただインドネシアにもっと焦点を当てたいと思います。というのも、するべきことが非常に数多くあるのに、本当にそれをしているインドネシアのアナキストは、ここでは非常に数少ないからです。

JC: 今までに起きてきたことの進行中の過程を見ると、アナキストによって満たすことのできる空間が、インドネシアにはたくさん存在すると私は思います。かつてマルクス・レーニン主義者だった少なくない数の人々が、全ての形態の権力は堕落し抑圧的になる、と考えはじめています。企業の犠牲者となってきた人々もまた、政府は常に企業の味方にしかならず、したがってただ政府に助けを求めるのではなく、何かより強い行動をとる必要があると感じはじめています。

MT: 私はとくに、これほど多くの問題をかかえたインドネシアという文脈の中で、非常に肯定的に考えています。ますます多くの多様な人々とグループが、自分たちの闘争の形態は行き詰ってきていると感じはじめており、アナーキーは何か、非常に論理的なものとして見られるようになっています。にもかかわらずこの全てのことは、長い過程と骨の折れる仕事を必要とするでしょう。私たちの間に、協力と堅い連帯を築き上げなければなりません。今日私たちが蒔いて撒き散らすアナーキーの種が、あらゆる場所で成長しはじめるのを見ることになるだろうと、私は信じています・・・。

原文(英語):
http://hidupbiasa.blogspot.com/2010/11/anarchy-in-indonesia.html

「Institut-A-Infohouse & Community Center」のサイト(写真あり):
http://instituta.webs.com/

インドネシア語のアナ/反権威主義のサイト:
http://anarchoi.gudbug.com/
http://kontinum.org/
http://www.katalis.tk/

「メーデー2008」の写真:
http://news.infoshop.org/article.php?story=2008050604370826