オリゲネスによれば、祈りとはそれじたい、不可能を可能にすることである。資本主義ニヒリズムにとりつかれた加速主義者たちが欠いているのはこの祈りである。キリスト教的「大聖堂」へのかれらの忌避感は、いくらかは共有しえなくもない。だが、祈りとは「会堂や大通りの角」ではなく「奥まった自分の部屋」で(マタイ)、同時に「絶えず」(Ⅰテサロニケ)なされるべきという二重性に裏打ちされていたのではなかったか。祈りは大聖堂をすでに出ている。祈りこそが離脱である。かつての千年王国主義者たちもまた、しばしばこの点を見失っていたようだ。父・子・聖霊という時代の段階的移行を唱えたフィオーレのヨアキムの影響下にあったかれらは、もろもろのコミューンの形成をつうじて離脱を先取りしようとしたが、それを現在時に到来する出来事として把握することはできなかった。先取りすべきものとして言挙げすることで、それをけっきょくは先送りしてしまうという錯誤。その行く果ては、目的=終末に殉じるための位階的な組織化と動員、つまりは国家化でしかない。だが、孤独のなかで遂げられる祈りは、国家化の絶えざる中断である。神学者ジャック・エリュールが、無邪気に民主主義を奉じるリベラルや、資本主義を至上の敵とするマルキストの不徹底な思考を棄ててたどりついたように。われわれは祈りのアナーキーに根ざさなければならない。