ルーカス゠クリストドゥルー
自閉症とアナーキー:自己診断はコミュニティ診断
人間は単純な生き物ではありません。私達の行動を他の動物と比べて見ると、私達は完全に錯乱していると結論を下すかもしれません。そう、私達は錯乱しているのでしょう。理由はどうあれ、人類は概して動物的存在から大きく離れています。私達は匂いと味の世界と同じように自分の頭の中でも生きています。本能よりも共通言語と文化に基づいて物事を決定します。
これらのことから、(自閉症やADHDなどの)自己診断は実際には一種のコミュニティ゠プロセスと捉えるべきであり、コミュニティが多ければ多いほど良いとお話ししようと思います。これら全ては私のアナキズムの視点からお伝えするのですが、私の主張は人間の解放を望む人なら誰でも理解できるはずです。
メンタルヘルス治療--これも単純なプロセスではありません!ご承知の通りです。だから、これを読んでいるのですね。前回の記事 (拙訳はこちら)で、医師は自身の文化的規範と偏見に基づいて、治療を求める人々を解釈すると述べました。主要な研究がこのことをハッキリと示しています。
さらに言えば、医師は常に患者をよく理解していません。患者を本当に分かり得ないからです。オーケー、この主張を反証する例を考えてみましょうか。学校を卒業してからずっと小さなコミュニティに住んでいる医師を想像してください。コミュニティでは、いつも同じ200~400人の人々が一緒に食事をし、お祝いし、働いている。自分の所に来る人を生まれた時から知っている。誰かが苦痛を訴えて来るたびに、この例の医療専門家は、自分の知っているその人の本当の姿に照らしてこの情報を考えられます。その生活に何かあったのだろうか?苦痛を理解する上で何か独特な解釈をしているのだろうか?そうだとしても、私達は、この医師が多くの間違えをすると予想します。地元の家父長的規範のせいで女性をあまり真剣に処置しないかもしれません。村唯一の専門家として自分の立場を守ろうと思うあまり、患者自身や地元の賢者の知識を無視するかもしれません。それでも、この架空の医師は、患者と共に人生を歩んでいるため、円熟した人として患者を広く深く理解できるでしょう。
ここで、逆のシナリオを想像してみます。専門教育を受け、孤立した人を診た経験しかない医師が、人々の経験を理解するよう求められています。確かに、人の靴を脱がせて爪先が緑に変色しているのを見て、抗真菌剤を確実に処方するにはこれで充分かもしれません。しかし、自閉症などのメンタルヘルス問題のような複雑な心理-社会的苦悩について話しているのであれば、間違いを犯す可能性は明らかに計り知れないほど高くなります。
では、別な例も考えてみます。人々があなたの事を知っていて、自閉症についても知っています。議論するコミュニティです。情報をゆっくり解析し、共通のパターンを見つけます。
完璧ではありませんが、専門的医療と同じように、それなりの利点と欠点があります。さて、この種のコミュニティ゠サポートが医療制度のリソース(もっと良い場合には医療制度の100倍に相当するリソース)を手にしていたらどうでしょう。
さて、先ほどの発言に戻りましょう。
何故、自己診断が唯一妥当なのでしょうか?
何故なら、満足いく・希望を持てる・貢献できる生活に診断を役立てるためには、自己解放の旅路の一部として、そしてコミュニティの解放の一部として、診断を受け入れねばならないからです。思考実験として、診断を受けて、何の援助も得られず、診断プロセスから何の洞察も得られない人を想像してみましょう。この人はレッテルを貼られただけで何も得られません。誰もがこうした人を知っています。特に自閉症の診断を受けた成人、特に女性がそうです。診断は、人生を良い方向に変えるきっかけにならない限り、本質的に意味がありません。同様に、逆も想像できます。医師と看護師による一連の評価を受けず、公式のレッテルも貼られず、それでも自分を自閉症やADHDなどと自認することで、苦痛を軽減し、生活に変化をもたらして、自分の運命をコントロールできるようになっている人です。
というわけで、私は2つの記事で2つの点を指摘しました。まず、自己診断は(唯一の)妥当な診断です。そして第2に、自己診断は(それが最良の場合)実際にはコミュニティ診断です。
3つ目の記事では、本物の自閉症コミュニティは階級コミュニティだと述べる予定です。