金子文子
第十二回訊問調書
大正十三年五月十四日:市ヶ谷刑務所
(冒頭省略)
1問(立松) 被告が朴と相談の上、金重漢に対して爆弾入手のことを頼んだのは、皇太子殿下のご結婚期にそれを使用する考えからであったとの前回の申立ては相違ないか。
答 (文子) そうです。
2問 被告らが金翰に対して爆弾のことを頼んだのも、やはり殿下のご結婚期を期していたのではないか。
答 私は朴が、金翰と連絡をとるために京城に行った頃には、その近い将来に坊ちゃんのご結婚式があげられるということを知っておりました。
その当時、坊ちゃんの結婚式の時日はしっかりきまっていなかったと記憶します。とにかく、その近い将来に結婚式の行列の実現される事が予想されておりました。それゆえ私はその最も好い機会の行列にまでに爆弾を間に合わせるために、朴が京城に行ったのであったと記憶しております。
3問 朴が京城に出発するに際して、被告は朴との間にご結婚式までに間に合わせることを協議したか。
答 私は朴と、ご成婚お式の際には坊ちゃんに爆弾を献上しようということで始終話し合っておりました。
それが朴の京城に出発する以前のことであったか、以後のことであったか、只今しかと記憶しておりません。とにかく私は、朴が京城に出発する頃からご結婚式に爆弾を使用することが一番好いと思っておりましたので、朴も金翰に対しては、それまでに爆弾を間に合わせてくれるようにといったはずだと思っております。
4問 朴は京城から帰って後、被告に対して金翰との間にお式までに爆弾を間に合わすように協議して来たと告げたか。
答 私は朴からそのような話があったとは聞いておりません。朴は京城から帰って来てから、私に、いよいよ金翰から爆弾を分けてもらうようにして来たと申しただけでありました。
5問 それでは朴が京城から帰ったという大正十年暮頃より、金相玉事件のために金翰から爆弾を入手することができなくなったという、大正十二年春頃までの間に、被告は朴と金翰から爆弾が来た以上はそれをお式の時に使用することを協議したか。
答 私と朴との間にはご結婚式にそれを使用しようという話は幾度もありましたが、それがその頃のことであったか、どうであったか、どうもしっかりとした記憶が残っておりません。
6問 金重漢との関係についてのときはどうか。
答 その時には明らかに私と朴との間に、行列に使うという話がありました。
7問 その爆弾を誰に投げるというのか。
答 つまり坊ちゃん一匹[1]をやっつければよいのであります。
天皇をやってもよいのでありますが、行列の機会が少ないのと天皇は病人ですから、坊ちゃんをやるのとは宣伝価値が違って甲斐がありません。それで坊ちゃんを狙ったのです。
8問 爆弾入手の上はそれを誰が投げるはずであったか。
答 むろん私も朴もそれを投げるはずでありましたが、そのほか同志の新山や崔圭悰、山本勝之にもそれを頼むつもりでありました。
それは新山と山本とはかねて肺病に悩んで死を覚悟しており、崔は
もっとも新山については、新山が金重漢と恋愛関係に陥った頃から、私らは新山の性格がこの種の直接行動をすることに適していないことを感じましたので、その以後は両人を使う計画を捨てました。
9問 被告は皇太子殿下に爆弾を投げることを唯一の目的としていたのか。
答 つまり坊ちゃん一人に爆弾を投げればよいのでありますが、もしできるなら坊ちゃんと一緒に、大臣らの政治の実権者もやっつけたいと思っておりました。
もっとも爆弾を手にいれてからその機会を狙ってまごまごしていたため、お役人につかまってしまえば、それこそ今の私の身の上のように馬鹿を見ますから、どうしても機会がなかったら今度は宣伝方面に着目して、メーデー祭の時とか、議会の開会式のような時にその爆弾を投げようと考えておりました。
10問 朴も被告と同じように、主として殿下に爆弾を投げるつもりでいたのか。
答 そうであります。
11問 被告はなぜ皇太子殿下にそのような危害を加えようとしたのか。
答 私はかねて人間の平等ということを深く考えております。人間は人間として平等であらねばなりません。そこには馬鹿もなければ利口もない。強者もなければ弱者もない。地上における自然的存在たる人間としての価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという只一つの資格によって、人間としての生活の権利を完全にかつ平等に享受すべきはずのものであると信じております。
具体的にいえば人間によってかつてなされた、なされつつある、またなされるであろうところの行動のすべては、完全に人間という基礎の上に立っての行為である。したがって自然的存在たる基礎の上に立つ、これらの地上における人間によってなされたる行動のことごとくは、人間であるという只一つの資格によって、一様に、平等に人間的行動として承認さるべきはずのものであると思います。しかしこの自然的な行為、この自然の存在自体が、いかに人為的な法律の名の下に拒否され左右されつつあるか、本来平等であるべき人間が、現実社会にあってはいかにその位置が不平等であるか、私はこの不平等を呪うのであります。
私はつい二、三年前までは、いわゆる第一階級の高貴の人々を、いわゆる平民とはどこかに違った形と質とをそなえている特殊の人種のように考えておりました。ところが新聞で写真等を見ても、いわゆる高貴のお方は少しも平民と変らせられぬ。お目が二つあって、お口が一つあって、歩く役目をする足でも、動く手でも少しも不足するところはないらしい。
いや、そのようなものの不足する畸型児はそうした階級には絶対にないことと考えていました。
この心持ち、つまり皇室階級と聞けば、そこには侵すべからざる高貴なある者の存在を直感的に連想せしむるところの心持ちが、恐らく一般民衆の心に植つけられているのでありましょう。ことばを換えていえば、日本の国家とか君主とかは、わずかにこの民衆の心持ちの命脈の上に繋がりかかっているのであります。
もともと国家とか社会とか民族とか、または君主とかいうものは一つの概念に過ぎない。ところがこの概念の君主に尊厳と権力と神聖とを付与せんがために、ねじ上げたところの代表的なるものは、この日本に現在行われているところの神授君権説であります。いやしくも日本の土地に生れた者は小学生ですらこの観念を植つけられているごとくに、天皇をもって神の子孫であるとか、あるいは君権は神の命令によって授けられたものであるとか、もしくは、天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、したがって国法は即ち神の意志であるとかいう観念を、愚直なる民衆に印象づけるために、架空的に捏造した伝説に根拠して、鏡だとか刀だとか玉だとかいう物を神の授けた物として祭り上げて、しかつめらしい礼拝を捧げて、完全に一般民衆を欺瞞している。こうした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されている
しかしこのあり得ないことがあり得たという、動かすことの出来ぬ事実は、すなわち神授君権説の仮定に過ぎないこと、これに根拠する伝説が空虚であることを、あまりに明白に証明しているではありませんか。全智全能の神の顕現であり神の意志を行うところの天皇が、現に地上に実在しているにかかわらず、その下における現社会の赤子の一部は、飢えに泣き、炭坑に窒息し、機械に挟まれて惨めに死んでいくではありませんか。この事実は取りも直さず、天皇が実は一介の肉の塊であり、いわゆる人民と全く同一であり、平等であるべきはずのものであることを証拠立てるに、あまりに充分ではありませんか。ね、お役人さんそうでしょう。
日本は連綿として絶ゆることなき天皇を戴き、世界に比類なき国体である。この国に生まれ合わせたことは、人間として唯一の誇りであるから、それを発揚するために努力せねばならぬとは、小学校時代に私の教えられたところでありました。しかし一つの血統、それは嘘か真かわかったものではないが、とにかく一つの系統の統治者を戴くということが、それほどにも大きな名誉でありましょうか。かつて私は、海に沈んで魚の餌食となったという安徳天皇とやらは、わずかに二歳で日本の統治者としての位を負っていたと聞いております。こうした無能な人間を統治者として祭り上げておくということが、果たして被統治者の誇りでありましょうか。むしろ万世一系の天皇とやらに、形式上にもせよ統治権を与えてきたということは、日本の土地に生れた人間の最大の恥辱であり、日本の民衆の無知を証明しているものであります。
天皇の現に呼吸しているそばで多くの人間が焼死したという昨年の惨事は、即ち天皇が実は愚かな肉塊に過ぎ無いことを証明すると同時に、過去における民衆の愚かなおめでたさを嘲笑しているものであります。
学校教育は、地上の自然的存在たる人間に教える最初において、
かつて
かくして自然の存在たるすべての人間の享受すべき地上の本来の生活は、よく権力へ奉仕する使命をまっとうし得るものに対してのみ許されているのでありますから、地上は今や権力という悪魔に独占され蹂躙されているのであります。
そうして地上の平等なる人間の生活を蹂躙している、権力という悪魔の代表者は天皇であり皇太子であります。私がこれまでお坊ちゃんを狙っていた理由はこの考えから出発しているのであります。
地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙している、権力の代表者たる天皇、皇太子という土塊にも等しい肉塊に対して、彼らより欺瞞された憫れなる民衆は、大袈裟にも神聖にして侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって搾取されている。
そこで私は一般民衆に対して、神聖不可侵の権威として彼らに印象されているところの天皇、皇太子なる者は、実は空虚なる一塊の肉の塊であり
私らはいずれ近いうちに爆弾を
私自身を対象とする考え、私のいわゆる虚無思想についてはすでに前回詳しく申し上げておきました。
私の計画を突きつめて考えてみれば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上における権力の倒壊が窮極の目的であり、またこの計画自体の真髄でありました。
私が坊ちゃんを狙ったのはこうした理由であります。
12問 被告の身体の都合はどうか。
答 身体の都合ですか。それはとっく前に済みました。
13問 被告は改心してはどうか。
答 私は改悛せねばならぬようなことは断じてしておりません。なるほど私の思想や行動計画は、他人の迷惑となるから悪だともいえましょうが、しかしこれと同時にそれは私自身を利するものであります。
自分の利のために計る事は決して悪ではなく、かえってそれは人間の本性であり、生きることの条件であります。もし自分のために計る事が悪であるとするなら、その責任は人間自体にあり「生きること」にあります。私にとっては自分を利することはすなわち善であると同時に自分を不利にすることはすなわち悪であります。
しかし私は善なりと信ずるがゆえに計画を行ってきたのではありません。したいからして来たに過ぎないのであります。他人が悪なりとしていかように批難しようとも、自分の道をまげ得ないと同様に、お役人が善なりとしていかように私を
私は今後もしたいことをして行きます。そのしたいことが何であるかを今から予定することはできませんが、とにかく私の生命が地上にあらん限りは「今」という時における最も「したいこと」から「したいこと」を追うて行動するだけは確かであります。
この予審訊問を受けてから一週間後、文子は、たまたま拘置所を訪れた立松に再びの面談を求めた。
[1] この予審訊問を受けてから一週間後、文子は、たまたま拘置所を訪れた立松に再びの面談を求めた。
皇太子のことを「一匹」と呼んだみずからの陳述について、醜い言葉だったことを認め、「一人」に訂正したいとわざわざ申し出たのだ。しかし、国家観・天皇観について述べた内容を撤回するつもりはなく、爆弾投擲を企図したことも相違ないと再度言明してもいる。
まさに、文子の決意と覚悟のほどがしのばれるエピソード。