タイトル: 「権力のアナーキー」とは何か
著者名: S・G
発行日: 2018年4月28日
ソース: http://hapaxxxx.blogspot.com/2018/04/blog-post_28.html(2023年4月16日検索)

『身体の使用』の最終章でアガンベンは革命による「構成的権力」ではなく「脱構成的可能態」にこそ新たな政治があるとする。だがアナーキズムの伝統(と20世紀の思想)はこれを定義しようとして成功してこなかった、とアガンベンは書く。「権力はアナーキーの包摂的排除をつうじて構成されるのであってみれば、真のアナーキーは万人の目にはっきりとわかるようにあばき出して見せることと一致する。アナーキーとは私たちが権力のアナーキーを把捉し破棄するにいたるときにのみ思考可能になるものなのだ」。この「権力のアナーキー」に魅せられたのがここでも幾度かとりあげてきた加速主義者であり、加速主義の意味はこの事態を徴候的に教えてくれるということ以外にはないだろう。ドゥルーズ=ガタリにとってアナーキーは「外部性の形式」としての戦争機械であり、「内部性の形式」である国家装置がその対極にあり、ある局面をへて国家は戦争機械を領有する(注)。「権力のアナーキー」とはこの国家によって領有された戦争機械の効果のことである。戦争機械の破壊性と国家の原—暴力は厳密に区別されなければならない。国家による戦争機械の領有は戦争機械に極限的な暴力という特性を付加し、これが「権力のアナーキー」を規定する。すべては戦争機械と国家の抗争であるならアガンベンとは逆にこういわなければならない。権力のアナーキーはアナーキーを把捉した時にのみ思考可能になるものだ、と。これは「破局」を「世界の死」をもってなきものとすることだと言い換えられるだろう。


(注)シベルタン=ブランの『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』は国家と戦争機械の錯綜した構図を精緻に描いた重要な著作だが、著者のマルクス主義がその破壊性を脆弱にしているように思われる。その端的なあらわれは「マイナリティ」を「プロレタリアの再解釈」としてしか評価できないことだ。この点ではラプジャードのマイナリティ論の方がはるかに破壊的である。