#title 気候変動の政治とは何か #subtitle 『人新世の「資本論」』を拒絶するために #author 長谷川大 #LISTtitle 気候変動の政治とは何か #date 2021年6月10日 #source https://hapaxxxx.blogspot.com/2021/06/blog-post.html(2023年4月16日検索) #lang ja #pubdate 2023-04-15T18:33:37 #authors はせがわだい #topics 気候変動, コミュニズム, アナキズム, 斎藤幸平 #notes 以下は「アナキズム」15号(2021年6月1日)に長谷川大の筆名で掲載されたテクストである。(HAPAXより) 気候変動の政治とは何か 『人新世の「資本論」』を拒絶するために 地下運動研究会
 現在のコロナ禍が気候変動に起因していることに端的にあらわれているようにもはや気象は決定的な主題としてわれわれの前に登場している。ここで問われているのはいままでの思考、政治などすべてを根底から転換することである。江川隆男によればこれは〈大地〉→〈海洋〉→〈大気〉という流れに対する〈大気〉→〈海洋〉→〈大地〉という逆行への転換である(「哲学とは何か–パンデミックと来るべき民衆へ向けて」、『HAPAX』13号)。  大地から大気へ——これはまた大地の上に形成されてきたこの「文明」の崩壊を引きうけるということに他ならない。そして「文明」の崩壊が開始されているのは誰の目にもあきらかである。3・11はこの列島におけるその決定的な告知であった。 ------  「錯乱の最終期限を迎えた人間は『地質学的な力』を僭称するにいたった。人間は惑星の生命の一段階に人類の名を付与するほどになった。『アントロポセーン』を語りだしたのである。最後にきて人間はまたしても主役の座を独占する。たとえ、ありとあらゆるもの(略)を荒廃させてきた罪状を認めざるをえなくなろうとも。(略)だが、驚くべきことに、世界の悲惨な関係性がもたらした惨状それ自体にたいしても、人間はあいかわらず悲惨なやり方でかかわるのをやめはしない」。(不可視委員会『われわれの友へ』)  斎藤幸平の『人新世の「資本論」』が左派とリベラルの賞賛を集めていることはこの国における「錯乱の最終期限」の人間的「悲惨」の象徴である。  ここで斎藤は「平等と持続可能性」の思想家として新たなマルクス像を提起する。その理論の枠組みは80年代に隆盛したエコロジー・マルクス主義を想起させるもので、本人が自負するほどには目新しいものに思えないのだが、そこはいま問わない。この書の主題は気候変動への回答として脱成長とマルクス主義を総合した「脱成長コミュニズム」を提起することであり、その結論では以下のように記されている。  「民主主義の刷新はかつてないほど重要になっている。気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせないからである。/本書では、〈コモン〉、つまり、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基盤になると唱えてきた。だが、それは国家の力を拒絶することを意味しない。むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かでさえある。国家を拒否するアナーキズムは、気候危機に対処できない」(強調は引用者による)  かくもアナキズムが侮蔑されている以上、この「アナキズム」の読者に斎藤を支持する者がいないことを信じたい。この引用にしめされるようにこの「脱成長コミュニズム」の核心は管理であり、その本質をなすのは統治の思想である。斎藤は彼のコミュニズムの基礎にアナキズム的な「信頼と相互扶助」をすえる。しかし「アナキズム」読者ならご存じのとおり、それらは「国家の力」の無化をこそめざすものであったはずである。 --------  斎藤がこの「脱成長コミュニズム」が乗り越えるべきものとして「気候毛沢東主義」と「野蛮状態」をあげるとき、その意図はいっそう明快になる。「野蛮状態」とは、「気候変動が進行」して「飢餓や貧困に苦しむ人々は叛乱を起こ」すこと、そして「大衆の叛逆によって、強権的な統治体制は崩壊し、世界は渾沌に陥る。人々は自分の生存だけを考えて行動する『万人の万人に対する闘争』というホッブスの『自然状態』に逆戻りする」ことらしい。  つまるところ斎藤は「文明」の崩壊を、そして蜂起を怖れ、これを予防するために「脱成長コミュニズム」を提唱している。「文明」の崩壊をひきうけると宣言することは、斎藤にとっては「野蛮」以外ではないだろう。たしかに「文明」の終焉のあとには「自然」が露呈する。「文明」を崩壊させるものこそ「自然」だからだ。だが「自然」は「野蛮」なのか。斎藤は「野蛮」という名のもとに残忍な暴力性が制覇する状態を想定しているようだが、その意味で「野蛮」なのは国家ではないのか。  そもそも「野蛮」とは何か。斎藤が前提とする「文明」対「野蛮」の構図こそ、この本で繰り返し斎藤が退けようとするヨーロッパ中心主義そのものではないのか。そしてそこでこそ「国家」は問い直されなければならないし、それこそが現下の課題である。  コロナ禍は世界的な規模で統治形態を変容させた。トランプや安倍らのファシズムはいったん後退し、かわってポスト社会主義的な権威主義が前景化しつつある。これらは斎藤の図式では「気候ファシズム」から「気候毛沢東主義」への転換として描かれるだろう。しかし現在の統治の変容は気候変動を前にした国家という暴力の質的な転換としてとらえなければならない。  そしてこれへの抵抗もまた転換している。2019年の香港、黄色いベスト、2020年のジョージ・フロイド叛乱、現在のミャンマーは「大気のコミュニズム」の予兆なのだ。  先に見たように斎藤はアナキズムとコミュニズムを敵対的に描き出すが、アナーキーはコミュニズムにとっての前提をなす。アナーキーとは定義上、アルケー=あらゆる根拠、起源に対する拒絶であり、コミュニズムはそこからはじまるからだ。われわれが求めなければならないのはこの世界の「断絶」であって、絶対に「持続可能性」などではない。