Title: 皇帝は裸ではないのか?
Subtitle: トニー=ネグリとマイケル=ハート著「帝国」:アナキストの視点からの書評
Author: Andrew Flood
Date: 2002
Source: https://web.archive.org/web/20060720092357/http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/emperor.pdf (2023年2月18日検索)
Notes: 訳:森川莫人

二〇〇〇年の「帝国」の出版は、左翼学問サークルで、自由主義のプレスにまで波及することもあるほどの集中的な論議を生み出した。著者であるイタリアの「アウトノミア系マルクス主義」(autonomous Marxism)の主要な理論家の一人、 アントニオ=ネグリ と、 それまでは世に知られていなかった文学教授、マイケル=ハートはこのことを喜んでいるだろう。著者らが「帝国」をカール=マルクスの「資本論」に匹敵するプロジェクトの出発点として考えていることは明らかだ。 マルクス主義者Slavoj Zizekは、「帝国」を『現代の共産党宣言』と呼んでいる。


 「帝国」を「資本論」と同じぐらい有効だと考えようと考えまいと、この本は確かにインパクトを持っている。ウェブサイトは、あらゆる政治スペクトルからの「帝国」書評で埋められている。正統派マルクス主義者が歯軋りしている一方で、 Lyndon la Roucheを取り巻く右翼陰謀理論家はこの書物を「左翼と右翼」を団結させるグローバリゼーション 計画の存在の確認だ [1] と見なしている。九月十一日以降、多くの合州国の自由主義的書評と保守派の書評 [2] が、ネグリの「テロリストの過去」について事細かに書き立てていた (ネグリ は赤い旅団に対する イデオロギー 的影響力を持っていたため、イタリアで自宅監禁されている )。こうした人々は、イスラム原理主義を、プレ(前)モダンではなくポストモダンだとネグリとハートが記述していること、そして、あたかもネグリとハートの記述があの攻撃を正当化することを意図していたかのようにして 、イスラム原理主義は帝国に対する抵抗の一形態だという彼らの主張を大喜びで利用しているのである。「帝国」は出版後にすぐさま売り切れ、私が持っているペーパーバック版(二〇〇一年十月に購入)は第7版である。

 「帝国」は、シアトルでの抗議行動については全く触れておらず、ナオミ=クラインのように、新しい運動がそれ自体で人 々の注目を集めるようになる前に、その運動を「解説」するためにうまく利用できる本を書くという幸運に著者らは恵まれたのではないか、と思っている人もいる 。ある程度まで、「帝国」は「No Logo」よりもこのことに値するであろう 。なぜならば、 ネグリは 「Ya Basta!」 周辺の運動派閥に対する主たる「歴史的」影響力の一つだからだ。

 「資本論」のマルクスのように、ハートとネグリは、自分たちが書いた大部分は オリジナルではない、と認めている。事実、本書の大部分で、結果的に本書を導いた哲学的諸出典に関する議論が取り上げられているのである 。「資本論」同様、本書の長所は、様々な数多くの分野の諸理論と議論を統一された全体へとまとめ上げている点にある 。ハートとネグリが、自分たちの『議論は、哲学的でも歴史的でもあり、文化的でも経済的でもあり 、政治的でも人類学的でもあるように意図している』と述べているように [3]

 また、本書は、マルクス主義をもう一度革命的 プロジェクトに関連づけようという試みでもある 。多くの場合、これはマルクス とレーニン の著作領域の根本的再解釈によっている。この大部分もやはりオリジナルではない。ネグリの以前の著作、特に「マルクスを超えたマルクス」を英語で読もうとした人なら、ネグリの主要プロジェクトの一つはマルクスを歴史的マルクス主義から救い出すことだ、ということに気づいていることだろう。

 例えば、ネグリは、ある章の一部を、レーニンの「帝国主義」はどれほど間違っていると思われようとも、レーニンは、彼が反対していると思われるものについて 『理論的諸前提を、彼独自のものとして仮定していた』ため、実際には、「帝国主義」は正しいのだ、ということを説明することに費やしているのである [4] 。さて、このことは、マルクス主義というレッテルにほとんど宗教的な愛着を持っている人には有用かも知れないが、アナキストにとっては本書を読む大きな障害なのである。だが、ありがたいことにこの点は「帝国」の一部であり、実際、その主たる欠点なのだが 、それは単に一部でしかない。「帝国」はそれ以外に多くのことを含んでいるのである。

 アナキストが本書から何を得ることができるのかについては、後に詳細に見ていくことにする 。ここでは、まず、「帝国」が実際に何を論じているのかを見ていくことにしよう。まず最初に述べねばならない批判は 、本書は読みやすい本では決してない、ということだ。実際、その大部分が、ほとんど理解できないものだ。「帝国」は、資格を持った少数だけが理解できるようにほとんど企図された エリート主義の学術論文スタイルで書かれている。本書が扱っている主題と幅広い範囲が、どうしても、本書を難しいものにするのであろうが、著者らは、難解さを楽しんでもいる。非常に単純な例を挙げれば、いたるところで、レーニンからの引用が適切な解釈も解説もなしに使われているのである。

 これは特に不快な点である 。なぜなら、彼らは、明快なやり方で文章を書く能力を充分に持っているからだ 。実際、著者らの最も強力な議論は、最も明快な言葉で表現されているものだと大いに思われるのである 。著者らが最も弱い主題に関わっているときには 、実際に何を述べられているのかを理解することはますます難しくなるのである。このエリート主義学術学会スタイルは、イタリアのアウトノミア 系の伝統の一部でもあり、 このことが彼らが自律(オートノミー)という言葉をアナキストが使うときと同じ意味合いでどれほど使っていないのかを例示している。我々は、国家と政党政治から自律した労働者階級組織を構築しようとしている。彼らは、資本からのみ自律した労働者階級を意図していた。アウトノミアの目には、資本主義に対する闘争に必要な戦略の変化を読むことができる唯一の階級 、知的エリートによって労働者は指導される必要がある、というわけなのだ。

 他のレーニン主義評論家ですら、『出現しつつある政党の高度にエリート主義的見解』だとして攻撃している [5] 。攻撃している当の組織(英国SWP)の記録を考えれば、この攻撃は、アウトノミア系マルクス主義の影響に嫉妬している以外の何ものにも基づいていないと思うことはたやすいが。だが、もちろん、アウトノミアの見解は、一九一八年のレーニンの主張と非常に一致している。つまり、『啓蒙されていない社会主義者や、工場で奴隷のように働かなければならず、社会主義者になる時間も機会も持たないために、社会主義者になれない(中略)多くの人々がいる』(注6)というのである。アウトノミア系マルクス主義者は、イタリアの「左翼共産主義」が持つ芳醇な歴史の一部なのであり 、共産党の改良主義とは決別したにも関わらず 、その権威主義的政治とはほんの一部しか、もしくは全く決別していなかったのである。

 背後にある政治についてはもう充分だろう。「帝国」は何を言おうとしているのだろうか ? 最初のパラグラフは全般的な主張がどのようなものかを教えてくれる。『帝国は、世界規模のマーケットと共に(中略)我々の正なる目前で具体化しており、世界規模の生産回路が世界規模の秩序 、構造と支配に関する新しい論理ーーつまり 、新しい形態の主権を出現させているのである 。』ネグリとハートは、帝国は支配階級の未来の計画や一部の支配階級の陰謀ーーだと示してはいない。その代わり、彼らは帝国は、既に存在するようになっていると主張しているのである。

 最初から、ネグリとハートは、帝国を帝国主義の新しい段階だとは論じていないことをを実感することが大切である。彼らによれば、帝国主義はすべからく国境に関することなのであり、地球の特定部分に対する帝国主義国家の主権性の拡張だった。同様に、彼らは、帝国は合州国に統制されているプロセスだとか、合州国に集中しているといった考えも拒否している。むしろ、次のように論じているのである。帝国は、『公然と拡張しつつある帝国国境内部にある地球の全領域を進歩的に統合する権力分散型で脱領土化した支配道具 』なのである [7]

 ここでの考えは、帝国の命令中枢になっているいかなる単一の制度・国家・場所もない、というものである。むしろ、国連のような公式的権力を持つものや、企業・軍隊とともに、世界経済フォーラムのようにそれほど公式的ではない権力を持つもの、 もっと小規模なものでは民衆が地球規模 ネットワークの権力分配を創り出すためにやり取りしてきた世界まで、あらゆる多種多様な地球規模の諸団体があるというのである。このネットワークには、中心がなく、国に基づいているのではなく、むしろ地球規模で拡散されている 、というわけである。

 インターネットは、この種の権力分配のはっきりとした アナロジーである。インターネットを統制する一つの機関は存在しないが、統制は明らかに存在しており 、その将来に関して様々な決定がなされ、現実に、挙国一致内閣 (national government)・サービス=プロバイダー・サイバーセンサー=ソフトウェアを通じて統制が行使されている 。学校は、特定のウェブサイトへのアクセスを制限し、雇用者は労働者の電子メールを監視し、親や時には図書館司書がサイバーセンサー=ソフトウェアを使ってある種の情報には アクセスできないようにしている。

 だが、「帝国」が合州国に特権的立場を与えている部分が一つある。それは、帝国形成の一部である立憲 プロセスである。最初の数章は、国際法という公式的レベルと、こうした諸団体を中心とした議論と ロビー活動という非公式レベルの双方で、どのようにこのことが操作されているのかを論じている。ハートとネグリは、合州国憲法を、この議論の歴史的先例でありモデルだであると見なしている。例えば、彼らは、元々の憲法に対するジェファーソン大統領の貢献は、権力のネットワーク分配を実際に目的としていた、と主張しているのである。

 国連などの諸団体は、本当は世界規模的なのではなく 、昔の帝国主義的諸強国によって支配されているという反論をするのはたやすい [9] 。頂点にいる諸強国は、国連安全保障委員会で拒否権を持ち 、安保理抜きには、国連はいかなる有効な行動もできないのである 。世界銀行のこれまでの総裁は皆合州国市民であり 、合州国はIMFで拒否権を持っている唯一の国である。ハートとネグリは、このことについて、この偏向こそが帝国の形成を前進させているのだ 、と述べることで回答している『国連の多義的な経験の中で、司法上の帝国概念が形成され始めていた』 [10] 。例えば、イラクに対する国連制裁の偏向や 、イスラエルに対して有効な行動をとることができていないことに対して、よりよい(そしてもっと強力な)国際連盟を必要としている 、という多くの左翼の反論を目にすることなど、珍しいことではない。

 ハートとネグリの主張の中核は、国家帝国主義の利権にそって軍事介入が行われることはなく、むしろ、普遍的価値観によって正当化された地球規模の警察行為としてそれが行われる、というものである [11] 。彼らは、軍事介入は『合州国によって一方的に命令 』 [12] される、と認めているが、『合州国世界警察は帝国主義的利益ではなく 、帝国の利益で行動しているのである 』と主張している [13] 。著者らの主張によれば、このことは、合州国に課せられた役割であり、『たとえそれが気が進まないものであったとしても、米軍は平和と秩序の名においてこの要求に応えねばならないであろう。』というのである [14]

 米軍の介入がもはや単に「合州国の国家的利益」(つまり、合州国資本の利益)のために行われているのではなく、むしろ帝国の利益のためになされる、というのがここでの考えなわけだ。本書の問題の一つは、その主張の全てについて全く経験的証拠を提示していないことだが、この点こそ、正に証拠が必要とされる部分なのである。 ハートとネグリ の議論は、一九九一年の湾岸戦争から導き出されている 。だが、湾岸戦争を何気なく眺めたとしても、莫大な米軍介入と共に、政治的介入が、契約を再建し、軍事兵器を売り、その「同盟国」ではなく合州国に原油が流れるように油田を修正することで、この戦争から利益を確実に得られるように企図されて行われたことが分かるのである。

 一方、一九九四年のルワンダでの虐殺の最中、その恐るべき規模の大量虐殺にも関わらず、合州国には介入しようという強迫観念などなかったのだった。そのときに行われた介入は、昔ながらの帝国主義的なものであった 。『フランスとベルギーが自国市民を助け出すために軍隊を送った一九九四年四月九日〜十日』には、何万人もの人々が既に殺されていた。『米国一般人も空輸で救出された。ルワンダ人は救出されず、西洋諸国政府がその大使館 ・領事館などで雇ったルワンダ人さえも助けられていない。』[15]

ハートとネグリは、ボスニア(ここでも再び、合州国・ドイツ・フランス・英国がこの地域に対する様々な「国家利権」をめぐって政治闘争を行っていると指摘できる )を引用しているが、ルワンダには何の言及もしていない。このことは、帝国が押しつけた ・ 授与した一連の普遍的権利に向かって我々が動いていた、という主張を確かにナンセンスなものにしてはいないだろうか? 著者らは、自分たちのモデルに関するこのはっきりした矛盾を単に無視しているのである。

 多くの「帝国」ファンは九月十一日の事件に対して、当初、このことは、帝国警察の行動と帝国に対する分散型抵抗とのある種の闘争のほとんど完璧な実例だ、と反応していた。だが、アフガン戦争は、「脱中央化した」アルカイーダではなく、爆撃照準器に四角く映っている アフガン政府(タリバーン)との国内戦争へとほとんどすぐさま変化したのだった 。この書評を書いている時点で 、この戦争は、秩序を維持するために帝国主義の(帝国のではなく)軍隊に大きく依存した地元政府を使った、おきまりの植民地スタイルの占領へと変わってきている。キューバのグアンタナモ湾にいる捕虜の扱いは、普遍的価値観(捕虜の扱いに関する)の論議を短期間だが引き起こした。この戦争は、ジョージ=ブッシュ=ジュニアと米軍によって、つまり「帝国」がそうした価値観を押しつけてくれると期待できる力によって 、急速に特徴づけられたのだった。

 イラクとイラン、そして多分北朝鮮も、に対する計画的攻撃を一方とし、イスラエルに対する合州国の支援を他方とする欧州の帝国主義諸権力と合州国とのもっと広範な政治騒ぎも、合州国の「国家利権」だけに命令された軍事介入 パターンを示している。軍事以外の例は、ジョージ=ブッシュ が大統領就任演説で述べた温室効果 ガスに関する京都議定書の一方主義的(unilateralist)な破棄に見られる。この場合、ブッシュは、次のような理由付けを使って、合州国の国家利権を非常に公然と主張していたのである。『我々は、我々の経済を害することは何も行わないだろう 。米国に住んでいる人々こそが最優先だからだ。』[16]

 このこと全ては、軍事政策を含めた合州国の政策は、帝国にとって何が最良かではなく、合州国資本にとって何が最良か、によって今でも決定されていることを示しているのである。だからといって「帝国」の主張が役に立たない 、などと述べているのではない 。「帝国」は、真に地球規模の資本主義がどのように存在できているのか、そして、多分、どのようにして存在するようになっているのか 、に関する納得のいく概略を提供している。だが、帝国の存在を現在仮定しているにも関わらず、多くのことが説明されないままになっているのだ。

 ここまで私が扱ってきたことの多くは、この書物の前書きに非常にうまく要約されている。幸運なことに、前書きは本書の中で最も理解しやすい部分でもあるのである。だが、「帝国」は資本主義が新しい形態に進化することだけを記述しているわけではない。社会がどのようにして機能 (不全)し、どのようにして変換できるのかに関する包括的観点を提供しながら、ポストモダンの「壮大な物語になるというもっと大きな目的を持っているのである 。ここで、私は、ポストモダニズムに関する専門的意見なりなんなりを述べようとしているのではない。ポストモダニズムへの私の進出は限られたものだが、それは、頑張って吸収しなければならない学問的専門用語の全くの負担によって挫かれてしまったからだ。したがって、 以下の分析は用心して読んでいただきたい! 

 ポストモダニズム に対する アナキスト の観点からの最もはっきりとした批判は、それが革命プログラム・労働者階級の中心性・啓蒙・科学的真理などなどを拒絶しているため 、革命家が何ものをも構築せず、どこにも向かわないままにさせておいていることにある。ポストモダニズムは、時として、資本主義下での生活と伝統的左翼双方に対する強力な批判を提供するかも知れないが、いかなる代替案をも示さずに人を取り残すのである。ネグリとハートはそうした代替案の一つを「帝国」で描こうとしている。

 そして、これこそが物事をややこしくしているのである。ポストモダニズムの政治的著作にアプローチしようとした人なら分かるだろうが、それが書かれている正にその言葉こそが、この思想を理解し難くしている。この不可解な表現形態は、そこに示されている本当の考えが余り多くないという事実を隠すためなのではないか、という強い疑念を持て取り残されてしまう。だが、ともかく何とかして、本書を覗いてみよう。

 脱中央化された権力という考えから生じる最も明らかな問題は、資本が維持している労働者階級に対する統制はどうなるのか、である。結局、アメリカ大陸の征服と奴隷貿易から、資本主義の安定性を保証しながら独立を許可するという 「民族解放」を牽制した闘争まで、強力な帝国主義的権力が資本主義の発達において本質的な役割を演じているのだ。

 「帝国」は、このことがどのようになされるだろうかということを説明するために 、本質的に、フーコーの思想に向かう。フーコーは、我々は学校・軍隊・工場・刑務所において規律が押しつけられている 「懲罰社会 」 (disciplinary society)から、規律がいたる所に、生の全側面に存在し、人々によって内面化されている 「統制の社会」へと移行してきている、と論じていた [17] 。彼は、バイオパワーという表現を使い、『内部から社会生活を懲戒している権力の一形態である』と論じていた。

 実際、内部からの社会生活の懲戒という基本的考えは 、多くのリバータリアン共産主義者には慣れ親しんだものであろう。モーリス=ブリントンの「不合理の政治学」(一九七〇)は、ドイツの共産主義者ヴィルヘルム=ライヒ の著作を利用し、何故労働者の中には、自分自身の客観的利益に反して 、ファシズムやボルシェビズムなどの権威主義的イデオロギーを支持しているものがいるのか 、について分析していた 。彼らはこのことを、懲戒という権威主義的概念を労働者が内面化していたという事実に帰している。我々は、ファシストやボルシェビキの秘密警察だけでなく 、自分たちがさらされている全てのことから形成された思想によって内部から主として統制されているのである。

 ライヒは、フーコーが後期に行ったように 、この懲戒プロセスの核心に性的抑圧を置いており、 次のように述べていた。『性の抑圧の目標は、権威主義的秩序に適合し 、いかなる不幸と堕落があってもそれに服従する個人を生み出す、ということである。(中略)その結果が、自由の恐怖と、保守反動的メンタリティなのだ。性的抑圧は、大多数を受動的で非政治的にさせるこの プロセスを通じてだけでなく、権威主義的秩序を積極的に支持することに対する関心を自分の構造の中に創り出すことで 、政治的反動を支援しているのだ 。』 [18]

 「帝国」における議論は、他の二人のフーコー主義者、ドゥルーズとガタリの著作からも生じている。「帝国」では、彼らは『唯物論を更新してはいるが 、社会的存在の生産という問題に確固たる基礎を持っている バイオパワーに関する適切なポスト構造主義的理解を我々に示している。』と述べられている [19] 。ハートとネグリも、アウトノミア系マルクス主義者がバイオ政治的プロセスの中での生産の重要性を確立した、と論じているのである。

 このことは、「社会工場」理論に基づいて組み立てられている。そこでは、労働者階級は単に、正統派マルクス主義の産業労働者だけから成り立っているのではなく 、その労働や潜在的労働が産業都市 (もしくは社会工場)を創造し、維持している人 々全てから成り立っているのである 。 この中には、主婦・学生・失業者も含まれている。「帝国」は、資本主義が生み出していることは 、商品だけでなく、主観性もである、と主張している。この考えは、それ自体で全くオリジナルではなく、結局のところは、マルクスでさえもが、いかなる時代でもその主要思想は 、支配階級の思想だったと述べていたのである。「帝国」が行おうとしていることは 、資本主義の生産過程の中核にあるこうした主観性を生み出す メカニズムのいくつかを説明することなのである。

 この主観性の生産を「帝国」の中心に据えているため 、彼らは、労働者階級つまり産業労働者という古い中心は 、『知的労働力・精神的労働力・通信労働力』に取って代わられた、と論じている [20] 。この主張は、合州国でさえも、コンピュータ=プログラマー よりもトラック運転手の方が多くいるということを指摘することで批判されてきた [21] 。だが、「帝国」は、この批判に対して、既存の産業職は情報テクノロジーに支配されている、と指摘することで反撃している。デトロイトの車工場は、消滅せずに、メキシコに移ったが、このメキシコに本部をおいた産業は一九六 〇年代のデトロイトを単に改造したものではない。むしろ、最新テクノロジーを使うことで、流れ作業労働者にだけでなく 、情報関係労働者にも依存した労働 プロセス を生み出しているのである。

 彼らはこの議論を押し進めて 、労働者階級の中心性は シフトした、と述べている。彼らは、「労働者階級」というカテゴリーを時代遅れだとして、本質的に却下している [22] 。彼らは プロレタリア 階級を成長しているものとして見なしているが、その論法では、群衆というカテゴリーを使う方向にシフトしているのである。群衆が何を意味しているのか明確に定義してはいないが 、その定義は、アイルランドのトロツキスト左翼分派でさえもが、今では労働者階級と言わず 、「労働者」と言っているのと似たようなことを意味しているように思えるのだ。この新しい言葉が必要だとするのは 、マルクス主義の加工品、特に、マルクスが労働者階級を農民とルンペンプロレタリアート と区別して定義し、それらに敵対することを選んだやり方なのである 。産業労働者階級は現在ではマルクスが著作を著した時よりも大きなものとなっているかも知れないが、産業労働者階級は、闘争の前衛におけるプロレタリア階級の数多くの切片の家の一つでしかないものなのだ。

 このことが、本書の大きな欠点の一つに我 々を引き戻す。本書が到達している良い結論の多く 、例えば、民族解放闘争はいかなる前進も提供しないなどは 、一七〇年前にアナキストが到達していた結論なのだ 。同様に、アナキストは労働者階級を「群衆」と再定義する必要など感じはしない 。なぜなら、我々は、マルクスが排除しようとしていた社会分子を含めた労働者階級を論じていたからだ 。最初から、アナキストは、農民と「ルンペンプロレタリア 階級」と呼ばれるもの双方を、何か外部のものだとかそれに敵対するものだとかというのではなく、労働者階級の一部として 、時には労働者階級の前衛の一部としてさえ扱っていたのだ。

 多分、アナキズムは、現在では、「一日に二回だけ正確な時を示す、動かない時計」になり果てているのかも知れない。だが、こうした主張が一八七 〇年代の第一インターナショナルを分裂させたとき、マルクス主義は誤った道を選択したことを証明しているのだと主張したい。だとすれば、「帝国」の複雑怪奇な議論の多くは 、著者らがマルクス主義の伝統に立脚することを選んだからだこそ、必要なのである。

 書評の多くが、実際に、ハートとネグリをアナキストだと呼んでいる。だが、本当は、彼らは、一つのポイントについてアナキズムの主張と明確な類似性を扱おうとしているだけである。それは、『強制収容所・監獄・ゲットーなどを国家に無理矢理生み出させた 』『巨大な政府』の終焉を喜んでいるときだけなのだ。ここで、彼らの結論が明らかに アナキズムに接近している部分で 、彼らは、次のように逃げているのである。『我々が生産的な協同組合ネットワークで構成されているメンタリティ、つまり、生産的に構築されている人間性という観点から、「自由という共通の名前 」を通じて構成されている メンタリティ について語っていないのであれば(Thrasymacus・カリクレス・プラトンの不死の対話者がそうだったように)、我々はアナキストであろう。』 [24]

 この一文は 、 著者らの主張と言葉が曖昧になればなるほど、その論点がどれほど弱くなるのかの良い例でもある 。ギリシア哲学を参照していることを脇においたとしても 、ハートとネグリ が何を述べているのかを解くことは非常に難しい。彼らは、アナキストは唯物論者ではないという馬鹿げた示唆をしているように思えるが 、自分の知識をこのような無知な立場に立って証明しようと莫大な長さをかけている著者らなど信用しがたいのである。

 ポジティブな面を見てみれば、アウトノミア系マルクス主義の興味深く、実際最も清新な側面の一つは 、資本と労働者階級との関係について伝統的左翼分析を覆していることである。(they turn the traditional left analysis of the relation-ship between capital and the working class on its head)アウトノミアの伝統では、資本に対して変革を起こさせるのは、労働者階級闘争の成功にある 。それ自体では、資本はほとんどいかなる創造的力も持っていない 、と彼らは論じている。彼らは自分たちの事例を大げさに話すことが多いものだが、いつも資本主義的近代化の犠牲になっているとされている労働者階級とは反対に 、労働者階級闘争によって無理矢理近代化された資本という全体像には非常に勇気づけられるものがある。

 ここで、ハートとネグリは、帝国の発展は、労働者階級が資本に押しつけたものだ 、と論じている。彼らは、帝国の発展が伝統的労働者階級組織を弱体化させているやり方 (例えば、国家的基盤で資本主義を制限する労働組合の能力を剥奪する)に執着することは容易い 、と認識している。だが、彼らは、もっと重要なことは、第一世界と第三世界との障壁を破壊することにより、資本が労働者階級を分断させていた最も強力な武器のいくつかを失ったあらゆる場所で 、双方がお互いに平行して存在するようになる 、ということだ、と主張する。 そして、 英国における階級関係について セシール=ローズの『内戦を避けたいのなら 、帝国主義者にならねばならない。』 [25] を引用しているのである。

 したがって、帝国が帝国主義の終焉を意味しているのであれば、それは同時に、第三世界労働者を使って第一世界労働者階級の諸部門を買い占めるという資本主義の能力の終焉をも意味していることになる 。だが、本書の他の場所と同様 、このことも、経験的証拠でバックアップできなければならない主張である。大規模都市では、次第に、第三世界と第一世界がお互いに数ヤードと離れずに存在するようになっていることは否定できない。 ワシントン DC は、 世界で最も金持ちの国家の首都であるというだけでなく 、ホームレスと貧困によっても同じぐらい有名なのだ 。メキシコ=シティなど多くの「第三世界」諸都市を訪ねたことがある人は、大多数の人々がいるスラム街と絶望的貧困のそばに存在する少数者の明白な富とガラスの摩天楼に打ちのめされる 。だが、西洋の労働者とその他の場所にいる労働者との賃金格差は 、今だに莫大なのである。

 以上述べたことは、「帝国」の興味深い部分のいくつかを簡単に見渡しただけである 。だが、既に述べたように、本書は非常に密な書物である 。ハートとネグリは「帝国」の最初で、本書は初めから最後まで通読しなければならないように意図されたものではなく 、あちこちを拾い読みすることでその利益を伝えるように意図されている 、と書いている。最後に、「帝国」の最も弱い部分、つまり、我々が前進できるやり方を示している部分に移ろう 。まず最初に、ハートとネグリは、ここでの自分たちの示唆は弱いものだが 、この段階ではやむを得ないものだと思っていることに注意をしておこう。彼らは、新しく成功する反対運動はそれ自身の戦略を定義しなければならないだろう 、と述べている。再びマルクスに戻りながら、彼らは、次のように指摘しているのである 。『マルクスには、その思索のある点で、飛躍をし、資本主義社会に対する有効な代替案として 、具体的な言葉で共産主義を把握するために、パリ=コミューンが必要だった。』 [26]

 このことは、著者らのポジティブなプログラムにおける弱さを充分に説明してはいない 。パリ=コミューン以前のマルクスの著作を歴史的に比較している部分さえも 、欠点だらけなのだ。パリ=コミューン (一八七一年)は、マルクスをして、革命組織と国家に関するその考えを再考せしめた。だが、初期のアナキスト運動は、パリ=コミューンが取る形態を予言していたのだ。

 アナキストは一八六八年に書いていた 。『コミューンの組織に関しては、固定的なバリケードの連合が存在し、革命的コミューン評議会がそれぞれのバリケードから一人か二人・街路や区画毎に一人の代表者を出すことによって運営されるであろう。こうした代表者は、委託権限に拘束され、いつでも説明責任を持ち、いつでも取り消し可能な形で選ばれる。全ての地方・コミューン・結社に対してアピールが示され、首都が示した実例に従い 、手始めに革命的方向性にそって組織を再構築し、合意した集会場所に対して代表者 (こうした代表者は皆、 委託権限と説明責任に拘束され 、 いつでもリコール可能になっている ) を派遣するようそれらを招待する。そのことで、同じ諸原則を促進するために暴動結社 ・コミューン・地方の連合が見られるようになり 、反動を打ち負かすことのできる革命的力を組織するのである。』 [27]

 このことは副次的問題のように思われるかもしれないが 、「帝国」を読んでいるときに、我々の運動の主張と非常に関連した結論に到達していたときでさえも 、アナキスト運動の歴史と著作者が無視されていることは、衝撃的である。多分、このことは、アナキズムが、非常に多くのマルクス主義教授先生方が求めている学問的 スターダムを求めてもいなかったし、達成することもなかったからなのだろう。だが、「帝国」を読んでいるアナキストにとっては、こうした省略はいつも苛立ちの源としてしか述べられはしないのだ。

 さらに重要なことだが 、上記した例は、初期のアナキスト同様、我々も、ハートとネグリが主張している未来の闘争形態について、もっとまともな「教養ある推測」を行うことができる、ということを示しているのだ 。国境管理に対する欧州と北米の闘争からメキシコのサパティスタまで、読みとることのできるある種の ヒント が存在している 。 グローバリゼーション運動の出現、その戦闘的行動・直接民主主義・多様性の強調と共に、有望な組織方法が明確になり始めているのである。「帝国」は、このこと全てがシアトルの後に非常にはっきりする以前に書かれたのかも知れないが 、シアトル以前であったとしても 、莫大な文書が、新しい運動、特にサパティスタが取っていた諸形態について書かれていたのだ。ハートとネグリの政治的背景を考えれば 、彼らはこの議論に気がついていたはずであり、彼らがそのことに触れていないのは興味深い。

そのことを脇に置いておけば、「帝国」の長所は、それが、あちこちにあるいわゆる代替案のいくつかを、特に古いスタイルの国家資本主義へと回帰しようとしている反 グローバリゼーションや脱グローバリゼーション の考えを、拒絶していることにある。この書評を書いている時点で、大企業グローバリゼーションに対抗する運動の改良主義的諸力は 、ブラジルはポルト=アレグレの世界社会フォーラムにおいて、正にそうした脱グローバリゼーションを望ましいと論じている。ハートとネグリは、逆に、我々は『帝国を裏側に突き抜けさせ』ねばならない、と論じているのだ [28]

 この点で、その欠点にも関わらず、「帝国」は、グローバリゼーション周辺の運動の、非アナキスト的派閥との関係で演じる重要な役割を持っているのであろう。こうした派閥の多くは、初期のマルクス主義世代の諸理論に依存している 。それは、国民国家での解決策と保護主義の時代への回帰を志向していると思われる。この考えを推し進めている学者どもは、 仲間の学者からの修正案は受け入れようとするだろうが、「我々の運動」を破滅させる「窓ガラス粉砕者」として非難しようとしている人 々からの修正案は受け入れはしまい。九月二六日のプラハにおける対抗サミットに対する私の寄稿文は、アナキストの主張の方向性を証明している。『(中略)グローバリゼーション の真の力は、(二〇〇〇年プラの)IMF/WBサミットの火曜日に結集しているのではない。むしろ、今日、ここに(対抗サミットに)結集しているのだ。火曜日、サミットは封鎖されるであろう。我々がグローバルな運動なのだ。 我々は、 民衆の権利のために戦うのであって、資本のためにではない。正気を持っている人ならば、このことは、さらに根元的であるはずだ。「グローバルな自由貿易」という考えを最も推し進めている正にその政府こそが、その国境にそって莫大なフェンスを築き、自由な民衆運動を妨げるために何万人もの雇われ暴漢どもを雇っているのである。』 [29]

 ローカリゼーションへの回帰を却下するなら、どのような代替案を彼らは押し進めているのだろうか?彼らの代替案は尋常ならない選択を最初の出発点としている。セント=アウグスチヌスと初期のローマキリスト教会である。彼らは、初期のキリスト教会がローマ帝国を、転覆するのではなく、変換したやり方と対比させているのである 。ハートとネグリは、初期の教会同様、我々は群衆を組織する中心となる予言的宣言文を必要としている、と論じている [30] 。アウグスチヌス同様に、彼らは、我々はユートピアを構築することについて語る必要があるが、我々のユートピアは地上において即時的なものでしかない 、と述べている。彼らは、ローマ帝国における初期のキリスト教プロジェクトを賞賛し、今日の帝国に対して意図された教訓をはっきり持っているとして、次のように述べている。『限定された共同体は帝国的支配に対する代替案に成功することも、それを提供することもできなかった。普遍的なカトリック共同体だけが、全民衆を一つにし、共通の旅程における単一言語のみがこのことを達成できたのだった。』

 ほとんど全ての正統派 マルクス主義書評が、この宗教的比喩に対して卒中を起こしそうになることだろう、という事実に著者らはくすくす笑っているのではないか、と疑念を持つ人もいることだろう。本書の最後のパラグラフには、わざと左翼を挑発するように意図されたとしか思えないものが載っている。アッシジの聖フランシスの伝説が掲げられ、『共産主義戦闘性の将来を照らしたまえ 』 [31] と述べているのだ。この引用のような素晴らしい結末が左翼の書評で繰り返し抜擢されているのだ !

 アナキストが喜んで受け入れるモデルは、世界産業労働者(IWW)である。『ウォブリーは、アジテーションを通じて、労働者間の連合を下から構築していた 。そして、労働者の組織を作るときに、ユートピア思想と革命的知識を生ぜしめたのだった。』 [32] ここで、再び、彼らがリバータリアン史の理解について真の弱さを示していると思われる 。IWWは全世界での組織を作りたいと思っているが、『実際は、今のところはメキシコでしか組織されていなかった。』 [33] 実際には、IWWは南アフリカ・オーストラリア・チリを含めたいくつかの国々でも組織を作っていたのだ [34] 。それらの国々では、合州国で到達したものに匹敵するほどの規模と影響力を持っていたのだった。そして、IWWがそうした有効なモデルならば、著者らが、現在IWWが何を行っているのかについて論じていないのはおかしなことである。多分、著者らは、IWWがいくつかの国々にまだ存在していることに気がついておらず、その歴史的過去のみを見ているのではないだろうか?

 そして、ハートとネグリは、対抗帝国を求めた闘争で中心となる『叛逆への意志』を特定することに話題を向けている。著者らは、帝国に対する反抗は、帝国と正面から対決することによってではなく、帝国から差し引くことによって、最も有効なものになるであろう、と見なしている。このことの中心に、著者らは、『脱走、出国、放浪生活』を特定している。ボブ=ブラックが同じことを言っているのを耳にしているとすれば、それは多分、ボブ=ブラックの著作には、一九七〇年代の終盤のイタリアでのアウトノミアによって擁護されていた労働の拒絶に基づいているものがあるからであろう 。著者らが示唆する闘争方法の セクションは非常に奇妙である。例えば、目に見えるボディ=ピアシングは、重要な戦略の始まりを示しており、それは、我々が『家族生活・工場の規律・伝統的性生活の規則などに適応できない体 』を創造するときにはじめて効果的になるだろう、というのである。

しかし、他の示唆された方法については、さらなる調査が必要である。著者らは労働の可動性が資本主義に対抗する武器になっていたことが多い、と指摘している [37] 。著者らは、移住は、無理矢理移住させられた人 々にとっては惨めさを意味しているものだ、と認めている。だが、例えばある地域での低い賃金から逃げ出すとき 、人々は資本主義に抵抗しているのだ、と述べているのである 。地球規模の資本主義は特定地域が低い労働 コストを持っている地球規模の世界を求めているが、その地域の人々が逃げ出してしまえば、資本主義はその安い労働力を得ることができなくなる、というわけだ。

 このことは、移民管理をなくすることを求めた現在の闘争にもっと明確な焦点を与えている。もしくは少なくとも、そうした闘争に対する有効な代替的見解を提供しているのである。例えば、フォートレス=ヨーロッパ(要塞化された欧州)は、低所得条件・低生活条件に労働者を捕らえておこうとする目的を持っている。人々を叩き出すのではなく人 々を捕まえておく壁なのである。

 近年起こった明快な実例を考えてみよう。そこでは、労働者の可動性が革命的示唆を持っていたのだった。ベルリンの壁(労働者の可動性に対する障害物だ )を、そして次に、国家資本主義の東欧諸国を崩壊せしめたプロセスは、何千という東ドイツ労働者のプラハへの逃亡と、西欧への出立、国境が封鎖された場合には様 々な大使館構内の占拠によって引き起こされたのだった。今日、キューバも同じ理由で移民を厳しく管理してきている。

 「帝国」は新しい世界を構築するための三つの鍵となる要求を提案している。地球市民の権利と『全員に対する社会的賃金と収入の保証』である。このことに加えて、手始めに生産手段に適用される再承認の権利、知識・情報・コミュニケーションに対する自由なアクセスと管理がある。

 こられら三つの中で、私が驚いたのは、地球市民権の要求が、直接に地球規模だけでなく地域的でもある問題を既に創り出している、ということである。国境管理のない自由移動の権利は、地球全土にわたり強烈に争われている。アイルランドで、我々は、第一世界内部で、全員に身分証明書を求めた闘争と、入国獲得を求めたフォートレス=ヨーロッパ の国境での闘争に親しんでいる。世界中のほとんど全ての国境で、資本が人々の移動を管理し、人々の移動から利益を得ようとさえしている限り、この闘争は何度も創り出されるのである。メキシコ北部国境においては、移住者を妨害するのは合州国の側だが、グアテマラと接する南部国境では、メキシコの「移民警察」パトロールがあらゆる裏道にいるのである。

 本書の「何をなすべきか」のセクションでは、未来社会がどのような形態をとるのかを実際に扱ってはいないことに誰もが気づくであろう。この問題を回避するのは 、マルクス主義者の伝統の一部でもあるが、著者らが ユートビア 的ヴィジョン と予言的宣言の構築を呼びかけていることを考えれば、本書では少し奇妙なことである。このことは、最初に述べた、既存抵抗諸運動に関する議論が完全に欠如していることと同じ弱点なのである。

 私は、ここでの問題はやはり、「帝国」を生ぜしめ、ネグリがすがりついているレーニン主義の持つ政治的伝統なのではないか、と思う。権力を持ったレーニンは、ロシア革命の「ユートピア的実験」がその幼児期に破壊されたことを目にしていた。工場の自主管理は、『革命が、社会主義のために、大衆が労働プロセスの指導者の単一意志に疑問を持たずに服従することを要求する (中略)単一意志への躊躇なき服従 』 [38] によって置き換えられたのだった。「帝国」からは、帝国後の社会の意志決定構造がどのようなものになるのかを述べることは難しい。だが、二十世紀社会主義の失敗の後に、このことは、新しい「ユートピア的」未来像を構築するときに鍵となる問題なのである。

 「帝国」は読むに値する本だろうか ?この疑問に対する私の答えは、実際に、誰がそれを問うているのかによって異なるであろう。アナキストに対しては、私は、時間がなく、ポストモダニズムの訳の分からぬ言葉に慣れ親しんでいないのであれば、好奇心を満足させるためにあちこちと飛ばし読みする程度の重要性しかない 、と答えるであろう。「帝国」に書かれていることの多くは、既に様々なアナキズム文書にはよく見られるものであり 、非常に多くの場合、アナキズム文書の方がずっと理解しやすい形で表明されているものなのである。

 暇がそれほどない人は、単に、前書き・幕間(intermezzo)・最終章を読むだけでよい。全体のページの十二%で、その思想の八〇%を分かるであろう。全般に、「帝国」は、最初は新しい思想が十全に詰め込まれているように見えるが、熟考してみれば、「皇帝は裸だ」という考えが浮かぶのである。結局、珠玉の洞察は、莫大な数の訳の分からぬ言葉の中に埋め込まれているのだ。

 私は、「帝国」の本当の有用性は、何らかの理由で真面目にアナキスト文書を読まない多くの人々が手にする立派な学問的マルクス主義としてのものであろう、と思う。むしろ、グローバリゼーション 運動に積極的に参加している人々が述べていることには多くの ナンセンスがあり、その多くが正統派マルクス主義に基づいているのである 。「帝国」はその欠点にも関わらず、正統派マルクス主義ではなく、そうした人々を、自分の基本的諸前提の多くに挑戦させる効果を持っているはずである。このことで、そうした人々が、リバータリアン的で、反国家で、反資本主義の陣営にやって来たときにだけ、良いことだと言うことができるのである。

アンドリュー=フラッド (二〇〇二年三月)


以下の注において、ページ数だけが書かれているものは、「帝国」(マイケル=ハート とアントニオ=ネグリ著、ハーバード大学出版、第七版、二〇〇一年からのものである。

[1] 例えば、"Toni Negri, Profile of A Terrorist Ideologue" in Executive Intelligence Review, August 2001 を参照。

[2] これらのことを最も真面目に論じているのは 、 "The Snake", by Alan Wolfe, written for The New Republic である。他の論文は、多くの場合何も出典の言及をせずに、 このレビュー から盗用している !

[3] 前書き XVI

[4] page 229

[5] Jack Fuller, "The new workerism: the politics of the Italian autonomists", International Socialist, Spring 1980, 次のホームページに転載されている:http:// www.isj1text.fsnet.co.uk/pubs/isj92/fuller.htm

[7] 前書き XII

[9] 例えば、著者らの "Globalisation: the end of the age of imperialism?", Workers Solidarity No 58, 1999, http:// struggle.ws/ws99/imperialism58.html を参照。

[10] page 6

[11] page 18

[12] page 37

[13] page 180

[14] page 181

[15] PBS Online special on Rwanda, http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/evil/etc/slaughter.html

[16] Financial Times の Biz/Ed サイトで引用されている。 http://www.bized.ac.uk/case/case_studies/case005- fulltext.htm

[17] page 23

[18] W. Reich, The Mass Psychology of Fascism, Orgone Institute Press, New York, 1946, pp. 25-26

[19] page 28

[20] page 53

[21] Left Business Observer Feb 2001 のレビューを http://www.leftbusinessobserver.com/Empire.html で参照。

[22] page 56

[24] page 350

[25] page 232

[26] page 206

[27] 原注: "Program and Object of the Secret Revolutionary Organisation of the International Brotherhood" (1868) as published in "God and the State", No Gods, No Masters Vol 1, p155

[28] page 206

[29] この演説は、 世界銀行会議の閉鎖に成功する数日前に行われたプラハ対抗サミットで行った。ここで、この演説を引用したのは、この演説が広く流布されているにも関わらず、私は、自分たちは「反グローバリゼーション」 ではないという考えに反対の アナキストと出会ったことがないからだ。 全文は、 http://struggle.ws/andrew/prague1.htmlで読むことができる。

[30] page 61

[31] page 413

[32] page 412 [33]page 208

[34] チリのIWW史については 、 チリ人アナキストが、 Peter De Shazo著、 "Urban Workers and Labour Unions in Chile 1903 to 1927" を私に推薦してくれた。

[37] このことは、 奴隷貿易が何百万という人 々を、 航海中だけでなく目的地においても彼らをその場所に保持しておくためのあらゆる種類の合法的 ・身体的制限をもって、アフリカ大陸からアメリカ大陸へ強制的に移住させたときに 、鏡面像のなかの (in mirror image) 資本主義の始まりから示されていたのだった 。 南アフリカ で可決した法律(pass laws)も、黒人労働者を管理するだけでなく、その労働コストを低くし続けるようデザインされた資本主義戦略だと思われる。

[38] M. Brinton "The Bolsheviks and workers control" page 41 (邦訳が三一新書にある)で引用されている。