タイトル: 教育はアナーキー
著者名: Scott Buckler
トピック: アナキズム, 教育
発行日: 2024年
ソース: https://note.com/bakuto_morikawa/n/n918332cb6b90(2024年1月15日検索)

教師は教師として生まれるのではない。自分の教師に感化されて教師になる。それほど健全ではないと見なされている職業と「最古の職業」の称号を争っているものの、他者の教育が種としての生存を保証してきた。技術と知識を伝えなければ、人間は絶滅していただろう。若い世代は火を点けられず、毒のある実と菌類を見分けられず、恐らくは、鋭いギザギザの歯を持つフワフワの生き物に近づけなかっただろう。

だが、生存に必要な技術を教えるカリキュラムを定めるために教育委員会を設立し、学習目標を立て、継続的に監視・追跡・評価され、外部機関に従うといったことをしていたとは思えない。結局、怪我をさせたり、毒を盛ったり、重傷を負わせたり、殺したりしかねないものを切り抜けて生き延びたか、生き延びなかったかのどちらかだった。これは、H゠G゠ウェルズの主張「文明とは教育と破滅の競争である」を想起させる。

しかし、現在の社会と将来の世界にとって、今の個々の教育システムはどれほど適切で、機能的なのだろうか?今年入学する5歳の生徒が2089年に定年を迎える時に世界はどうなっているのだろうか?現在の教育システムは彼等の将来にとって適切なのだろうか?この混乱した世界で教育への投資だけが文明の発展を手助けできる。次の文が何を意味するか分かるはずだ。「アナーキーは秩序である」この強力な言葉はベルガリーグが1850年に書いた『アナキスト宣言』にある。

教育の批判には古くからの伝統があるが、次のラルフ゠タイラーの疑問に要約できる。何を、誰に、どのような方法が最善で、何故、教えねばならないのか?残念ながら、こうした疑問は、そうあるべきほどにも頻繁に・声高に、問われてはいない。実際、「何故」を職員会議で問うたり、教育基準局の調査官に問うたりすると、不服従と見なされかねない。教育システムに内在するヒエラルキー構造のためである。それならば、教育システムを改善するために誠実でオープンな対話を促すにはどうすればよいのだろうか?[1]

アナキズムによる教育批判

アナーキーは固定した教義ではない。幾つかの共通テーマはあるにせよ、個人と同じように唯一無二の観点である。教育も同じである。そうするよう言われたから、近くの学校がそうしているからという理由で、何も考えずに他者に従い、特定の観点に従ってはいないだろうか?教育の中で、私達は新しい考え・政策・手続きを批判する能力を失っているのではないだろうか?批判的に疑問を投げかけず、どんな変化が押し付けられようとも、それらに対応するだけで、積極的に変化を引き起こそうとしない。こんな職業にどんな問題があるのだろうか?

強調しておかねばならないが、アナキストは社会に反抗するのではなく、むしろ、下に向けて押し付けられた権威に反抗する。政府型の社会は、強制と欺瞞によって統治しつつ、権威主義的で命令的で管理的で腐敗した不変の構造を意図的に確立している。本質的に、アナキズムは、様々な集団生活を改善するための社会変革の発展に関わっている。ジョージ゠ウッドコックが主張しているように、教育は社会の変革を促進する中核的原動力である。事実、アナキストにとって教育は常に特別な位置を占めてきた。教育は、社会変革の種子を蒔き、最終的に全面的社会変革を促進できる分野なのだ。

ニイル゠ポストマンとチャールズ゠ウェインガートナーは、学校システムを下手な運転の何百万ポンドもするスポーツカーに例えた。もの凄いスピードで走っているのに、運転手はバックミラーを見続けている。彼等は表明した。教育システムが将来的な社会ニーズに対応せずに、絶え間なく加速しているため、教育が向かうべき方向は忘れ去られているようだ。この車に載っている人達には選択肢や主体性はなく、何年も経ってから解放されるまで、ただただしがみ付くしかない。ポストマンとウェインガートナーは次のように述べている。教育システムは急速に変化する世界で生き残るために必要なスキルを生徒が発達させる手助けをすべきであり、同時に、教育システム内にいる人々は本物の生存戦略として自分の中にガラクタ検知器を発達させなければならない。ポストマンとウェインガートナーがこれを書いたのは1969年だ。それから55年経った今、どれほど当てはまるだろうか?

教育の腐敗

では、何故、教育システムは腐敗するようになったのだろうか?

端的に言えば、金・権力・政治が答えである。高等教育の大規模な拡大を見て、皮肉屋は次のように解釈するかもしれない。大学は、自分達の巨大な施設を養うために消費者から金を巻き上げているのであって、生徒の実際の知的潜在能力を求めていないし、育成しようともしていない。その結果、学位は、市況に左右される一種の通貨へと進化している。これが、ジョージ゠リッツァーが作りデニス゠ヘイズが拡張した概念、高等教育の「マクドナルド化」を生んでいる。このアプローチでは、大学がフランチャイズを運営し、価値効率・計算可能性・予測性・管理というビジネスモデルを使って自分達のブランドを世界規模で提供する。ヘイズによれば、こうしたマック大学は、マック経営者が管理し、マック授業をマック学生に教え、オリジナリティもクリエイティヴィティもないマック小論文を書かせる。百年以上前、レフ゠トルストイは、教育システムは学生の学ぶ喜びを食い物にして好奇心を麻痺させているのではないか、と疑問を呈していた。ただ、ヘイズは、マクドナルドで自分が支払っただけのものを手にして幸せになっている多くの消費者のように、幸せな学生も多くいるかもしれないと認めている。義務教育分野では、私立の中学・高校チェーン、つまりマック学校の普及も同じだと言えるかもしれない。アナキスト教育者のフランシスコ゠フェレル゠イ゠グアルディアは、教育を売買春にしてはならないと書いて警鐘を鳴らしていたが、現状はどうだろうか?

さらに、多くの著者が、教育システムは社会的不平等の現実を維持する統制方法だと論じてきた(特に、フランシスコ゠フェレル・ポール゠グッドマン・ルース゠キンナ・コリン゠ウォード)。実際、この主張は目新しいものではない。プラトンでさえ、国家には指導者よりも多くの追従者が必要だと主張していた。こうした官僚制に対抗すべく、ポストマンとウェインガートナーは、学校は「破壊的」存在になるべきだと示していた。「反官僚主義の官僚組織」として機能し、教育システムを常に疑問視し、ひいては学生に態度・信念・思い込みを覆すために「何故」を問いかけさせるのである。

つまり、現在地から教育システムを根本的に変えるには、学生と教師に、「何故?」と問う心構えをさせつつ、ガラクタ検知器を装備させる努力をしなければならないのだ。

教育的アナキスト

イヴァン゠イリイチ・ジョン゠テイラー゠ガットー・ガイ゠クラクストンといった複数のアナキストと教育者がアナキズム理念を共有している。レスリー゠ポールが1925年に創設した「ウッドクラフト゠フォーク」もそうだ。ウッドクラフト゠フォークの目的は、「若者が社会に積極的に参加できるよう教育し、権限を与え、能動的市民活動を通じて自分達と他者の生活を改善すること」である。これらは全てアナーキーの特徴である。同じ志を持つ人々が集まり、改善をもたらすために協働する。さらに二人のアナキスト教育者を挙げれば、アレクサンダー゠サザーランド゠ニイルとフランシスコ゠フェレル゠イ゠グアルディアである。

ニイルはスコットランドの学校教師で、その哲学の中核は民主的統治を通じた子供と職員の自由の実現だった。元々ニイルはドレスデンにノイ゠シューレ゠ヘレラウ(インターナショナル゠スクール)の設立に寄与した。そのカリキュラムは、動きを使った音楽表現・リズム・構造で構成される多感覚システム、リトミックを中心としていた。しかし、彼を有名にしたのはサマーヒルである。サマーヒルは、1923年にドーセット州ライム゠レギスに設立され、1927年にサフォーク州レイストンに移転した。サマーヒルの目的は、生徒が成長する選択肢と機会を提供し、自分のペースで勉強し、自分の興味を受け入れながら民主主義の感覚を身に付けられるようにすることである。さらに、押し付けの強制的な評価とは逆に、生徒自身が自分の目標を定められるようになることも目的の一つである。また、大人の判断や介入なしに、生徒があらゆる感情・感性を受け入れられるようにしている。

サマーヒルはアナキスト学校の一例と思われているが、ジュディス゠スイッサはやや否定的である。スイッサの主な論拠は、ニイルが精神分析理論に傾倒し、その理論から、個人が自由の感覚を確立する、つまり、生徒を自身の限界から解き放つとしている点にある。これは、硬直した社会からの自由というアナキズム理念に反している。その結果、生徒は協力的価値観を育成せずに自身の価値観を発達できるようになる。サマーヒルを訪問した後、スイッサは批判を展開し、生徒が幸せに成長しつつも、完全に自己中心的になると想像できると述べた。

フランシスコ゠フェレル゠イ゠グアルディアは1901年にバルセロナで別な学校を設立した。「エスコラ゠モデルナ」(つまり「近代学校」)である。設立趣意書でフェレルは述べていた。「私は生徒に単純な真実だけを教えます。生徒の頭に独断的教義を詰め込みはしません。どんな小さなことも一片の事実も隠しはしません。私が生徒に教えるのは、何を考えるかではなく、どう考えるかです。」成長途上にある生徒の全人的性質を受け入れながら、フェレルは、真の教育者は自分の意志や考えを生徒に押し付けはしない、と主張した。逆に、生徒は学習に対する自主性の感覚を持ち、偏見なく自由に取り組まねばならない。

エスコラ゠モデルナは、書物による学習ではなく、「実践による学習」を強調した。フェレルは次のように書いている。「自分達が一つの村にいると仮定しよう。学校の入り口から数ヤードのところには草が萌え、花が咲き、教室の窓ガラスに向かって虫がブンブン音を立てているのに、生徒達は自然史を本で学んでいるのだ!」

エスコラ゠モデルナで本を使う時には、フェレルは反教条的な本を探し、一流の知識人に教科書を書いてくれるよう頼んだ。フランス人アナキスト、ジャン゠グラーヴが書いた『ノノの冒険』もその一つで、革命思想が「連帯」「自治」といった場所で冒険を繰り返す10歳の少年についてのファンタジー物語に展開されていた。

フェレルは、自分の学校は未来のアナキズム社会の萌芽だと考えていたが、残念ながら、こうした観点はスペイン与党の保守党と対立していた。スペインの王政復古期(1874~1931年)は政治的にも経済的にも社会的にも激動と不安定に満ち、アントニオ゠マウラ首相の在任中に「ラ゠セトマナ゠トラジカ」、悲劇の一週間(1909年7月25日から8月2日)が起こった。この一週間で、社会主義者・共産主義者・共和主義者・フリーメーソン・アナキストといった様々なグループがスペイン軍と暴力的対立を繰り広げた。

この暴動によってマウラは首相を解任されたが、フェレルも不運だった。騒乱煽動者の一人と見なされ、事態は暗転した。フェレルは学校で爆弾製造を教えていたと告発された。フェレルはそれ以前にも1906年の「モラル事件」への関与で告発されていた。この事件はスペイン国王アルフォンソ12世と花嫁のビクトリア゠ユージェニーを結婚式当日に殺害しようとしたもので、学校の司書マテオ゠モラルが花束の中に隠した爆弾を投げたのである。フェレルは襲撃計画に関わっていたが、証拠不充分で無罪となった。

フェレルがモラル事件に関与したとされた結果、また、悲劇の一週間の最中に逮捕されたため、リドフォード法[2] のような見せしめ裁判によって、フェレルは死刑を宣告された。1909年10月13日、銃殺刑に処せられる前の最後の言葉はこうだった。「友よ、よく狙え。君達に責任はない。私は無実だ。近代学校万歳!」

闘いの呼び掛け

では、アナキスト教育者の未来はどこにあるのだろうか?発展しつつある分野として、トランスパーソナル心理学のテーマを取り入れたトランスパーソナル教育がある。トランスパーソナル心理学は、心理的変容をもたらすための超越的体験の研究であり、自己拡大・全人的統合・個人と社会の変容を特徴としている。特に、トランスパーソナル教育とは、個人が自分自身にしかない本物の性質を見つけられるようにする変容プロセスである。これは、サンフランシスコのミレニアム゠スクールのような環境で証明されている。そのヴィジョンは以下の通りである:

私達が想像する世界では、成功は、私達の行動すべてにおいて知恵・愛・意識的活動を実践しているかどうかで定義されます。私達は、生徒一人ひとりの内なる天才が世界にポジティブな影響を及ぼす無限の可能性を秘めていると信じています。その結果が統合型の学究カリキュラムであり、ダイナミックで生き生きした村を通じて体験し、生徒達はそれぞれ独自の学習の旅を積極的に創り出していきます。

ミレニアム゠スクール

教育の進化、教育の革命:教育的アナキストであることを称える時が来た。現代の銃殺隊は銃弾の雨ではなくP45に頼るだろう。あなたは教育システムにどこまで挑戦する覚悟があるだろうか?

参考文献

-

Ferrer, F. (1913). The Origin and Ideals of the Modern School (trans. Joseph McCabe). London: Watts & Co.(邦訳書はこちら)

-

Gatto, J.T. (2017). Dumbing Us Down: The Hidden Curriculum of Compulsory Schooling (25th anniversary edition). Gabriola Island, Canada: New Society Publishers.

-

Hayes, D. (2017). Beyond McDonaldization: Visions of Higher Education. Abingdon: Routledge.

-

Illich, I. (1970/2013). Deschooling Society. London: Marion Boyars.(邦訳書はこちら)

-

Postman, N. and Weingartner, C. (1969). Teaching as a Subversive Activity. New York: Dell Publishing Co., Inc.

-

Ritzer, H. (2008). The McDonaldization of Society (5th edn). Thousand Oaks, CA: Pine Forge Press.(邦訳書はこちら)

-

Suissa, J. (2006). Anarchism and Education: A Philosophical Perspective. London: Routledge.

-

Ward, C. (2004). Anarchism: A Very Short Introduction. Oxford: Oxford University Press.

-

Woodcock, G. (ed.) (1977). The Anarchist Reader. London: Fontana Press.

[1] (原註) 記しておかねばならないが、私が「教育システム」と呼んでいるのは、学校という政府機構と「学校教育」と呼ばれるものである。教育システムは教育とは違う。教育とは、何を学ばねばならないかではなく、何を学びたいかだとも言えよう。

[2] (原註) リドフォード法は、1510年にプリマス選出の国会議員リチャード゠ストロードが「この王国で最も凶悪で伝染性がある忌まわしい場所」と評したリドフォード城で行われた不正を指す言葉である。1644年、ウィリアム゠ブラウンは詩を書いた。「私はリドフォード法について何度も耳にした/朝、彼等はどのように吊るされ、引き出されるのだろう/そして、裁きの席に着く/最初はとても不思議だった/後に理由を知った/笑うに値しない。」