1986(昭和61)年6月1日発行
ピョートル・アレクセーヴィチ・クロポトキン, 大杉栄訳
共産食堂
「明日ある大都市をして、包囲またはそれに類する何等かの災禍に襲わしめよ。諸君は共産主義の思想がたちまちにして実現されんとするのを見るだろう。『パン』の問題、すなわちすべての人に食物を供給する問題が、その都市の緊急問題となって、ある個人の勤労に対する報酬などという問題は影をひそめてしまうだろう。各人の必要は、食料品の共同貯蓄に対して、各人の分け前を要求する権利となるだろう。」
これ、経済学者等が「人はその勤労に従って報われる」という紳士閥的定則をくりかえしつつある間、無政府主義者が年来主張し来たったところである。
今や西欧諸国は禍乱の時期に遭遇しつつある。そしてわれわれは、共産主義的組織観に向う第一歩として共産食堂の観念がいかに急速に各所に瀰漫しつつあるかを見る。
パリにおいて、御者と自動車運転手との労働組合は、
「もしわれわれの組合に属していない人の細君が、彼女とその子供等のために食事を求めに来たら、われわれはそれを拒むべきであろうか。」これはポポットの組織者等が、それを開始した当日、自ら問うた問題であった。そして彼等の解答は明らかにつぎのごとくであった。「むろん拒んではならぬ。イヤかえって歓迎しなければならない。われわれのなし得ることは、自由食事を求むるそれらの人々がカタリでないという何等かの証明を得ることである。」かくしてその結果、自由食事の半分は日々全然組合とは無関係の人々に与えられている。
「それなら炊出小屋じゃないか。しかしもし何かの理由の下に家でその家族等とともに食事したいと申出るものがあったらどうするか。家まで食事を運んでやるのか。」かつてある批評家等がわれわれに言った。そしてわれわれが、共産食堂は食事を分配する方法を容易に見出すであろうと答えた時、彼等えせ識者等は、この「無政府主義者の空想」をせせら笑った。
しかるにパリのルドワイエンという著名な一料理店において、すでにこれが実行されており、そしてその飲食店が従軍者等の細君達の台所となっているということを、今日われわれはエミル・プウジエの署名の下に『
普通の料理店での常食品よりなる――すなわちスープと野菜と肉との、しかもいずれも最上の品の――二千四百人分あまりの食事が、日々供えられまたは分配されている。この料理店の中に特別室があって、それは仕事を携えて来る婦人等のために取り除けられてある。それらの婦人達は、あらゆるものが出征した愛する人達を思い出させる種となるその家にあるよりも、そこに来ることを望んでいるのだ。
「けれどもそれは第二の問題である。われわれの主な目的はできるだけ多数の人々に食事の保障を与えるにある」と組織者等は言っている。でこの目的を達するために家庭に食事を送ることが始められた。
日々供えられる二千四百人分あまりの食事は、そのうちわずか百人分ばかりがこの料理屋の中で食事され、他はみな外へ持ち出される。パリの第八、九、十一、十三、十六、十七、十八、二十の諸区および郊外の二ヵ所にまで、自動車で食事を分配して歩く。各々六十人分の常食品を入れた大きな牛乳罐があって、自動車は迅速にそれを分配して歩く。
組織者等は言う。この料理屋のみでも日々二万人分の食糧を供給することができる。「ただ請求せよ、宿所書きを送れ」と。
この事実は、紳士閥の新聞記者等が種々の批判と冷評とを浴せかけた共産主義の教訓を、
かくしてわれわれの同志は各所に共産食堂を始め出した。ホワイトチャペルのユダヤおよびロシアの同志、ロンドンの中央部にある仏独の同志は、すでにそのきわめて乏しき資力をもってこの種の食堂を組織した。なお同様の運動が、恐らくは各地方にも起りつつある。そして恰当な共産食堂が漸次その活動の範囲――職業紹介所、図書館等にまで――を確かに拡張することであろう。
されば多数の同志等が、互いに接触して行く手段を、また建設的事業においても無政府主義者が実際的であり得ること、および自ら実際的であると称するものよりも――何となれば彼等はあらゆる革命的思想を抑圧する――よほど実際的であり得ることを労働者に示す手段を、この共産食堂のうちに求めているのもまさに当然である。
共産主義的思想の最善の伝道法は、すでに食物のこの供給によってなされている。なお引き続いて住居や被服の共産制度も、近く実現されるであろう。
『フリイドム』九月号より――