タイトル: コミュナリズム
サブタイトル: 解放的代案
発行日: 2020年
ソース: https://note.com/bakuto_morikawa/m/m18ff73019e3b(2024年3月15日検索)

現存するものは必ず存在するはずだという信念は、あらゆる先見的思考を腐食する酸である。

--マレイ゠ブクチン

イントロダクション

コミュナリズムは、生態調和の方針に従って社会を再構築しようとする包括的理論・実践を示す総合的な言葉である。コミュナリズムは全ての環境問題は、社会問題に根源を持つという根本的前提に基づく。世界規模の気候変動だけでなく、広範囲に及ぶ公害・森林破壊・種の絶滅といった諸問題は全て、人為的な原因による。こうした諸問題を全体として吟味すれば、人間社会が世界規模で環境を単純化していると分かる。実際、これが、さらに単純化された無機的世界を構築して、進化の成果を台無しにしているのだ。[1]

コミュナリズムは、一連の客観的社会倫理を持っている。それは、選択の増加・動的な安定性・多様性といった進化の最も発展的な傾向を反映している。こうした生態系の傾向を背景に、コミュナリズムは、不公正・支配・ヒエラルキーに対抗して行動する。これらはどれも「自然」でもなけれは、回避できない社会的特徴でもない。

こうした考えは、歴史的枠組みの中でも有効である。この枠組みの認識からすれば、社会は必ずしも私達が現在生きている不合理を維持してきたわけではない。コミュナリズムの主張では、自由の理念は歴史を通じてヒエラルキーと支配の発展に対立して拡大してきた。こうした解放的活動を踏まえ、いかなる形のヒエラルキーもない生態調和社会という再構築ヴィジョンを提示するのである。

このパンフレットでは、主として、この再構築ヴィジョンに焦点を当てて論じる。同時に、私達が現在いるところから私達が成し遂げたいと思う社会への橋渡しを可能にする、教育的・政治的プロセスに携わるための実践的道筋を探求する。コミュナリズムの哲学的・人類学的土台についてもっと学びたいと思っている読者は、以下の「資料」セクションを参照していただきたい。

生態調和倫理

コミュナリズムは、進化の発展的傾向を反映する一連の社会倫理を持っている。客観的倫理--つまり、私達の想像力が持つ曖昧さの外部に根差し、誰にでも認識できる倫理--が重要である。それが、不公正に対抗するための諸原則を、そして、いかなる支配もない真の自由社会に向けた私達の活動を導く諸原則を提供してくれるからである。

まず、「自然」が何を意味するのか定義してみよう。自然は、それ自体が数百万年にわたり発展してきた歴史である。この累積的発展は過去を包含し、絶え間なく、より幅広い--しかし、統合された--種の多様化へと向かう。人間の出現は、自然に対して新しい領域を導入した。社会的自然である。この種は、本能的行動を超越し、内省的な思考・行動を行う能力を持つ。これは、自然界における他の精神の進化と比べて著しい発展だった。この自由に伴って、人間以外の生物と社会的自然双方に有益なやり方で貢献する能力も、ヒエラルキー型の諸関係で見られるような自然のプロセスに逆らう能力も出現している。[2]

多くの人々は、ヒエラルキーは人間以外の自然に存在すると信じているが、この信念は誤りである。ヒエラルキーは制度化された命令-服従システムである。制度は一連の社会関係であり、本能に決定されているのでも特異的なものでもない。制度は解放的にも非人間的にもなり得る。制度は組織され、ある程度安定し、可変的であり、数世代にわたって継続する。ヒエラルキーを創ったのは人間である。よって、社会の外にヒエラルキーはない。私達が「女王」蜂だと考えているものは支配者などではなく、生物学的本能で純粋に行動している動物なのである。私達はライオンを「ジャングルの王」と呼んでいるが、生態系における立場は地面を動く小さな蟻と変わらない。人間は、ヒエラルキー概念を自然に投影してきた。それが人間自身の諸関係の序列を定義し、統制するシステムだからである。[3]

必要なのは、人間以外の自然に実際に存在していることを反映した社会倫理の究明である。多様性は本質的価値である。有機体の間に選択の環境的背景を創り出すからだ。動物が選択を行う能力は、種が神経学的・生理学的に発達すればするほど拡大する。同様に、選択は、生態系にいる様々な種の間で行われる相互作用が数の上でも複雑さという点でも増大すると、さらに知覚可能になる。ある動物が行う決定がどれほど原始的であろうとも、自律的方向付けの能力は、人間以外の自然それ自体にある発生期の自由を示している。精神と自由の進化と共に、主観性・個性・創造性・理性が進化する。さらに、現代の進化生物学者は、ピョトール゠クロポトキンの主張を支持している。共生は、一般的に競争と言われているものと同じぐらい、もしくはそれ以上に、不可欠な進化の構成要素なのだ。つまり、この評価から得られるのは、参加型協力的な進化の観点であって、闘争的な「生存競争」に焦点を当てたヴィクトリア朝の見解ではない。[4]

こうした論拠に基づけば、生態調和社会は、非ヒエラルキー型になり、多様性を増加させ、自由の可能性を拡充し、個々人の参加を促し、個々人が各々の主観性と理性的能力を発達させる機会を提供することになろう。こうした社会は、これらの目標を達成する技術基盤を人々に提供しなければならない。同時に、構築される環境は、人間以外の自然との調和的バランスを実現するような形で物理的に組織されねばならない。そして最後に、社会生活の様々な活動に個々人が十全に参加できるよう権能を与える政治システムが存在しなければならないのである。[5]

ヒエラルキー

既に述べたように、ヒエラルキーは制度化された社会関係から成り立っている。ヒエラルキー型の諸関係は、同時に、ピラミッド型のメンタリティを伴う。そこでは、相違が対立的に位置付けられる。初期の人間社会では、年齢やジェンダーのような人間間のあらゆる生物学的相違は、集団の団結と生存を促すよう組織されていた。時間の経過と共に、ゆっくりと不規則な過程を経て、人間関係は変化し、性差別主義・人種差別主義・同性愛嫌悪・能力主義などの現在私達が知っている苛酷なヒエラルキー諸形態へと制度化された。[6]

ヒエラルキーが最初に出現したのは、かなり温和な老人支配からだった。そこでは、地域社会の長老が若者に対して意思決定を行っていた。男性と女性の関係は区別されていたが、補完的な形だった。これが集団全体の調和を維持していた。こうした役割バランスが変わり始めたのは、男性の市民領域が拡大し、女性の家庭領域に侵入してきた時だった。この社会的文脈は父親中心性(patricentricity)として知られている。時間の経過と共に、人口増加のような他の要因によって男性の地位が高まり、部族間会戦の拡大と戦争の蔓延を導いた。社会が階級へと階層化されると、王の身分と君主政治が形成された。人種差別イデオロギーが成長し、支持者を獲得していった。欧州人が、生物学的人種という架空の信念を広め、人はその人種グループに応じて本質的特徴を持つと主張したのである。この信念が白人と有色人の重層化した秩序を導き、白人は非白人よりも優れており、非白人を犠牲にして利益を手に入れるとされた。[7]

この略史は、現代社会で私達がどのような情況にいるか理解するための文脈を示している。ヒエラルキーの破壊的効果は、戦争・大量虐殺・奴隷制といった事例に明々白々である。しかし、ヒエラルキーは当たり前のようにして、さりげなく私達の生活に染み込み、相互の人間関係や人間以外の自然との関係を破壊している。ヒエラルキー社会での個人の経験は、抑圧と特権の混合で形作られかねない。確かに、ある種の集団にいる人は、他者よりも大きな特権を行使している。ヒエラルキーを強化するのは、他者の生活を統制する力を持つ人々からなる特権的集団である。

さらに、ヒエラルキー型のメンタリティは、人が環境諸問題について考えるやり方に影響を与えてきた。ヒエラルキーと支配の勃興は、環境は人間界とは異質であり、人間は環境を支配できる、という考えの基になった。自然を支配するという考えに拍車をかけているのが、自然界は静的物体で、人間が飼い慣らし征服できるという誤った認識である。現代で良く知られているイデオロギーの多くは、リバタリアニズムからマルクス主義まで、自由を実現するには環境の支配が必要だと論じていた。しかし、環境支配の社会的起源を認識し、こうしたヒエラルキー型階級構造を変革しない限り、現代の諸問題は増加し、自由は不可能となるだろう。[8]

強調しなければならない。ヒエラルキーは、共生と多様性に向かう自然の傾向と対極にある。ヒエラルキーは昔から常に存在しているわけではなく、突然湧き出たわけでもない。歴史を通じて、社会が協力の方向に向かい得た時点がいくつかあった。その時点で、人々は自由を実現しようと戦い、死んでいった。ヒエラルキーは、何千年もの間に断続的に発達し、国民国家・現代資本主義・大規模な環境破壊と共にその絶頂期に到達したのである。

資本主義

資本主義はヒエラルキー型経済システムであり、絶え間ない拡大・搾取・富の集中的所有を必然的に伴う。資本主義の原動力は競争市場で、市場経済の本質的目的は商品を売って利益を得ることである。商品が環境や社会全体に広範な影響を与えるかどうかに関係なく、利益は実現されねばならない。さもなくば、資本家は破産してしまう。他の企業よりも競争で優位に立つために、資本家はあらゆる社会的制約を排除し、蓄積した利益の大部分をテクノロジーに再投資して、生産力を増加させねばならない。そのことで、スケールメリットによって生産コストを低く抑えるのである。そして、共食い現象が緩やかに進み、様々な企業が失敗し、結局、成功した少数の企業に富が集中することになる。

もっと広い観点から見れば、経済全体が市場で売れる以上に多くの商品を生産すると、利益を生み出す販路が見当たらなくなり、このシステムは危機に陥る。その後、投資金が枯渇し、労働者は解雇され、ひいては、在庫の余剰商品を購入する資金すら少なくなる。この問題を緩和するために、国家は最終手段として消費者の役割を担い、経済の永続的成長を保証する。市場が課す「成長か死か」の至上命題のため、道徳的説得では経済成長を阻止できない。人間のニーズや環境への影響などお構いなしに、拡大し続けなければならない。つまり、資本主義は本来的に悪性腫瘍だと見なさねばならないのだ。資本主義は、生物圏を単純化し、破壊するまで成長し続け、あらゆる自然プロセスをテクノクラシー的に完全統制せずには生命そのものが存在できないほどになるだろう。[9]

さらに、資本主義の下で、人は採算性に応じて報酬を得る。経済的決定は、土地・金・機械・技術的知識を管理する個々人の手に委ねられる。当事者それぞれが、売り上げを維持するために必要なことを行わねばならない。さもなくば、破産や失業に陥ってしまう。販売という市場の至上命令のために、生活の全側面が最終的に値札に帰してしまう。このシステムは非民主的なだけでなく、凡庸化し、人間性を剥奪する。地域社会の諸関係はビジネス諸関係に還元され、その結果、社会全体の方向性が、競争・利己主義・派手な消費にしか向かなくなる。第二次世界大戦以降、資本主義は、自動車への依存・原子化した郊外区画の蔓延・ショッピングモール・大規模小売店・テレビと電子機器が提供する軽薄なエンターテイメントを通じて、孤立した個人主義を促してきた。日常生活は陳腐になり、社会的絆の発展が生み出す糧を断ち切られた退屈な人達が企業に集まる。さらに、私達は皆、生まれた時から企業の絶え間ない広告プロパガンダにさらされ、壊れたり陳腐になったりするように作られた無価値のガラクタを自分の自尊心に欠かせないものだと考えるよう仕向けられている。[10]

また、資本主義は都市環境にも破壊的な影響を与えている。産業資本主義勃興以前、都市は、特定可能で人間的規模の地域社会から成り立っていた。こうした特定可能な境界は都会化によって消去され、その景観と人間関係の質を粉砕するメガシティが創り出された。スプロール現象・交通渋滞・区画整理・騒音・化学物質による汚染・公共空間の欠如、これらの荒涼たる現実全てが、人々がいわれなく被っている日常的情況なのだ。都市そのものは、公選された役職者による法人企業のように管理・運営されている。そこでは、税金と公共事業の最大化が「純利益」である。人々は、近所に誰がいるか知らず、自宅外の出来事を把握できるような繋がりもない。身近な環境との直接の関わりがないからだ。確かに、情報は受け取っている。しかし、それは「ニュース」を通じてメディアが広めるもので、お互いを恐れるような考え方を導入し、社会の諸問題を誤解させ、消費を促し、パッケージ化された生活方法を売り込む。メガロポリスが拡大し続けるに従い、薬物乱用やアルコール依存症・暴力・精神疾患・低い自尊心・ストレスといった深刻な問題が全て増加し、生活に悪影響を与えているのである。[11]

国家

国家は時間と共に様々な形態を取ってきた。このパンフレットでその全てを網羅して論じることはできないため、ここでは、国民国家について論じる。国民国家は長く複雑なプロセスを経て西洋文明から出現した。この近代国家を論じる際には、「政治」との曖昧な関係を明確にしておかねばならない。多くの人の心の中で、政治は腐敗と同義になっているが、これは実際には言葉を誤用している。政治が最初に始まったのは古代ギリシャだった。ギリシャ市民は、集団的プロセスを創り、そこに参加して、自分達の地域社会をどのように運営するか決めた。逆に、今日、私達が一般に政治と呼んでいるものは、「国政術」と呼ばねばならない。国政術は、市民に対して権力を行使する実践である。この権力を持つのは、職業政治家と官僚であり、これを支援しているのが、軍隊・シークレットサービス・警察・刑務所産業複合体などである。

国家は社会的強制力を組織したシステムである。その基礎には、私達は全く無能な存在で、社会的意思決定に参加させられない、という信念がある。このシステムの下で生活すると、人の唯一無二で多様なアイデンティティは、「納税者」「投票者」「有権者」へと還元される。市民は、生活に関わる社会的・政治的事柄に見識を持って能動的に参加する者ではなく、受動的なサービス受給者にされてしまう。教育・医療・住宅など重要問題に関する意思決定は、市民の手から切り離され、市民の日常生活とは無縁の官僚・立法者からなる冷徹な網状組織に委ねられる。

このシステムでは人々が代議士に投票できるようになっているが、裕福なエリートが選挙キャンペーンに資金を出しており、選挙は単なる部分的・表面的に重要な諸問題を扱うだけで、政治家はいつも選挙公約を破棄するものだとすぐに分かる。政治家はプロであり、その経歴は権力獲得に左右される。政治家は、自分の意思とは無関係に、すぐさま思い知る。自分の経歴を維持・成長させるには、代表するはずだった人々ではなく、経済的利権のために働かねばならないのだ。

代議制政治とそれを維持する官僚制は、民衆の民主的力と根本的に対立している。国家がどのような権力を得ようとも、それは民衆権力を犠牲にする。民衆が手に入れる権力は、いかなるものであれ、国家を犠牲にする。つまり、国家に変革を求めて大規模なアピールをしたところで、無駄なのだ。こうしたアピールは、国家が自らの権力を強化する上で覆されるだけなのだから。確かに、必要で有益な改良もある。しかし、こうした微々たる改良を行わせる活動だけをしていれば、社会的・環境的諸問題の根本的原因は持続し、悪化し、大きくなり、激化するであろう。

顔を突き合わせた集会で民衆が提起し、議論し、決定したものでない限り、いかなる政策も民主的に正当ではない。代議士は、「アマチュア」、一般人ほども社会的意思決定に対処できない。一般人は、幅広い観点を示し、日常生活経験について詳しい知識を持つ。国家権力の下で暮らす限り、私達は、自分達の生活を十全に管理することも、自分達のニーズを全て満たすことも、抑圧から完全に自由になることもできないのだ。[12]

歴史の中の自由

自由の概念は、歴史の中で、十全な形で明言され完成した理念として現れてはいない。その代わり、自由は、民衆の草の根運動によって、そして支配の経験へ対抗しようとする有力な思想を通じて、時間をかけて発達し、拡大した。そのため、自由の歴史を十全に評価するには、こうした前進の中に現代の観点からすれば極めて欠けている部分があったとしても、社会的背景に照らしてその貢献を認めなければならない。*

歴史として記録されている中に初めて自由が現れたのは、「アマルギ」という言葉である。アマルギは、シュメール人農民が農民蜂起の最中に達成しようとした希望の国のことである。こうした農民にとって、自由が意味していたのは、ユートピアだった過去への回帰、ヒエラルキーの出現で共同体の連帯が壊され抑圧される以前の時代に戻りたいという強い願望だった。[13]

「国家」のセクションで既に述べたように、ギリシャ人は、貴族政治の獰猛な権力を防止すべく、政治を本当の意味で発明した。ギリシャの市民権は、今日の観点からすれば明らかに排斥的だったが、この考えは、外部の権威の仲介なしに、自分達の生活を自分達で運営できると立証した。ギリシャの政治生活は、単なる地域主義の観点に留まらず、逆に、諸都市の同盟--つまり、連邦--を形成し、外に向けて拡大した。そこに包括的な国家構造はなかった。中世の諸都市--当時の呼び名ではコミューン--も、国家統制を持たず、多くの場合、地元の民主主義や共和国として組織されていた。これらのコミューンは、欧州の広い地域で連邦として結合していた。[14]

中世の後には、米国革命が展開した。この革命は、地元地域のタウンミーティング民主主義に基づき、精巧な委員会システムによって植民地全体を調整した。タウンミーティングはニューイングランド地方で始まり、革命の進展と共に南はサウスカロライナまで広がった。こうした民主的諸機関の形は、独立したばかりの様々な植民地が分権化に向かう可能性を持っていた。[15]

啓蒙運動が最大の影響力を持っていたのはこの時代だった。資本主義の粗野な道具主義に転覆されてしまったものの、啓蒙運動が自由に対して成した貢献の重要性を看過してはならない。啓蒙運動と共に、理性に対するダイナミックな観点が現れた。その重点は、演繹法の直線的論理ではなく、存在や概念の潜在的可能性を明るみに出すことに置かれた。人は、信仰・迷信・服従に頼るのではなく、自分の理性的能力に頼ることができると思われた。さらに、民衆による統治を確信し、万人の物質的幸福は可能だと考えられたのである。[16]

18世紀の終わりに、啓蒙運動の影響はフランス社会の底辺にまで到達した。わずか4年で、パリは絶対王政から直接民主制に転換した。この直接民主制は、サンキュロットとして知られる労働者階級住民が参加する地区集会で構成されていた。もっと広範囲わたるサンキュロットは、国家を排除し、コミューン連合として組織を作るようフランス全土に呼びかけた。この主張は、自由主義反動派に転覆される前に、文字通り、実現一歩手前まで到達していた。[17]

政治的平等というフランス革命の理念は、経済的平等に関する思想の爆発を引き起こした。社会主義もアナキズムも、この革命後に出現した。反権威主義社会主義者は、資本主義の非人間的効果を持たない、物質が豊富にある世界を求めた。アナキストは、国家の強制なしに、個々人は理性的で倫理的な意思決定をできると強調した。ユートピア理論家は、審美的都市地域と自然界が調和する愉快な社会を求めた。最終的に、国際主義者は、世界中の労働者に、人種・民族・国籍を問わず、共に組織を作り、資本主義支配から自由になろうと呼びかけたのだった。[18]

1848年のフランス革命の最中、赤旗がパリに掲げられ、社会民主共和国が宣言された。この革命は史上初めての労働者蜂起だった。パリの労働者は、職人型の社会主義を希求したものの、その活動は自由主義反動派に阻止された。一世代後、1871年のパリコミューンの最中、当局はこの都市から逃げるしかなくなり、パリをパリ市民の直接管理に委ねざるを得なくなった。短命ではあったが、パリコミューンは重大だった。パリコミューンは同時に、国家統制のない民主的都市連合へとフランス全土を再構築しようとしていたからである。[19]

ロシア革命は、ボルシェヴィキの統制によって転覆される前、国内の都市部と農村部双方での草の根民主主義運動を特徴としていた。当初、ソヴィエトは、労働者と兵士で構成され、様々な市民的諸問題を扱う民主的な地区機関だった。農村部では、村落が村内の事柄を管理し、必要に応じて土地を再分配し始めた。多くの人が、ソヴィエトと農村コミューンをロシアの政治的構造として切望していた。レーニンが権力を握った後、ウクライナの人民主義者とクロンシュタット水兵が蜂起した。どちらも、ボルシェヴィキの統制を排除し、民主的ソヴィエトと村落コミューンを再確立しようとした。[20]

多くの点で、スペイン革命は史上最も深遠な革命だった。当時、スペインの産業労働者の大多数は、アナキズムに影響を受けた労働組合CNTの組合員だった。CNTはサンジカリズムだった。つまり、労働者による産業の民主的管理を求めていたのである。革命そのものは、1936年にファシスト軍の将校が主導した蜂起への反応で始まった。バルセロナでは、労働者が軍を撃退し、この都市を自分達の管理下に置いた。都市全体で労働者が仕事場を収用し、集団的に運営・管理し始めた。スペインの農村部では、農民が自分達の村落を制圧し、民主的集産体として仕事をできるよう農場を組織し始めた。多くの村落で、貨幣が完全に廃絶され、人々は必要に応じて受け取った。労働者と農民の集会は、広域委員会システムによってネットワーク化された。これが本質的に国家の権威に置き換わったのである。スペインの革命家は、公然と、可能な範囲で万人が貢献し、必要に応じて万人が受け取るという道徳的社会変革を希求したのである。[21]

第二次世界大戦後、国家権力と資本主義が拡大したが、それは自由への新たな貢献のきっかけとなった。対抗文化運動・公民権運動・反戦運動・フェミニズム運動・エコロジー運動・学生運動・ゲイ解放運動・住民運動が、ヒエラルキー社会そのものへ立ち向かった。黒人解放運動と女性解放運動は、はっきり示していた。人々は非経済的理由で差別され、社会的に孤立している。自由を確立する活動は、政治的・経済的平等に限定されるべきではなく、さらに推し進めてヒエラルキーの完全排除に進まねばならないのだ。近年、反グローバリゼーション運動は中央集権に反対する闘争を継続し、オキュパイ(占拠)運動は自治体レベルで組織された民衆集会を通じて不公正への不満に取り組もうとしていた。[22]

*このセクションは、主として、西洋社会でなされた自由への貢献を取り上げている。間違いなく、支配の形態の中には、人種差別主義や帝国主義のように、欧州諸国が世界規模で広めたものがある。こうした現実を許すわけにいかないのだから、欧州で発展した解放的理念も信頼できないとするのは、一方的であろう。他の社会でもそうだが、欧州の支配は、欧州に住む大多数の人に対して、内向きにも拡大していた。自由という理念は、支配そのものとの弁証法的緊張関係の中で発展する。社会主義・アナキズム・ユートピアといった概念は、民衆が絶対主義と階級搾取を打ち破ろうとした結果、欧州で出現した。付言すれば、西洋以外の革命は、ほとんどナショナリズム的なものに限られているが、それは、西洋の帝国主義者を追放するという歴史的必要性のためだった。逆に、西洋の革命の多くは、ナショナリズムを超え、世界全体に普遍的理念--民主主義や社会主義といった理念--を広める歴史的特権を持っていたのである。[23]

社会的自由

歴史を振り返れば、社会のために私達が達成できることには、ますます大きな可能性があると分かる。現在と未来に存在する潜在的可能性を見るためには、過去の人々が自由の理念をどのように拡大してきたのか知ることが重要である。コミュナリズムが示す自由の概念は、本質的に二つ要素、積極的自由と消極的自由から成る。自由には、搾取からの自由と、人間として自分が持つ個人的可能性を実現するための自由がある。従って、自由を十全に実現するために、生態調和社会は、経済的・倫理的・性的といったあらゆる搾取に反対しなければならない。生態調和社会は、人の苦難を最小限にし、誰もが創造的可能性を実現できるよう希求しなければならない。[24]

社会的危機・生態系危機の克服には、個性の再生を含まねばならない。現代の個人主義は、社会的義務からの自由と定義され、競争と利己主義を促す疎外的な自我観念である。[25] 逆に、コミュナリズムの主張では、包括的で成熟した自己は、身近な地域社会へ権能を持って参加し、地域社会の成員と協力関係を結ぶことで初めて生じる。直接参加は、自分が関わる社会的出来事の洞察とその出来事に対する一定の制御力をその人に与える。また、直接参加は、私達の相互依存関係を明らかにし、連帯を求める社会的欲求を充足させる。さらに、参加は、自分の技能と経験をもっと大きな集団と共有できるようにする公的空間を個々人に与える。相違を認めて称賛することがより強力な団結を導くと社会が認識すると共に、多様性の新たな理解が出現するだろう。[26] 究極的に、社会は、マレイ゠ブクチンが述べたように「社会と共同体の福利についての合理的、人道的、そして高潔な見解によって導かれる」タイプの自我を支持しなければならない。[27]

権能を持った個々人からなる社会には、同時に、搾取的市場からの自由と、倫理に基づいた経済に参加するための自由がなければならない。コミュナリズムは、「脱希少性」(欲望充足)社会を確立するための技術的障害は全くないと主張する。今日、資本主義は物品の人工的希少性を創り出し、同時に、マスメディアを利用して私達の精神に人工的欲望を作り出している。際限なき欲望という考えを破棄し、万人と環境の福祉の増進に注力する。このように替えることで欲望充足社会は可能になる。モノが溢れている状態は、創造的・文化的潜在能力を引き出すという目的を念頭に、個人の欲望が意識的に満たされる生活に替わるだろう。例を挙げれば、現代のテクノロジーは、万人に充分な物品を生産しつつ、人間の苦役を減らす可能性を持っているのだ。だからと言って、禁欲的自制生活しろと述べているのではない。逆である。市場が誘導する大量消費主義を除去すれば、進歩的テクノロジーを使って、倫理的社会文脈の中で個々人の審美的・知的・感覚的願望を実現する物質的基盤を提供できるようになるだろう。[28]

社会的自由をもっと十全に理解するために、正義と自由の概念を区別しておこう。正義は、万人を一様なものとして扱うことで平等を達成しようとし、その人の貢献に応じて見返りを与える。しかし、個々人は、病弱・障がい・高齢といった多くの理由で異なっている。正義は不用意に不平等を創り出してしまう。貢献に見返りをしても、個人の欲望を補償できないからだ。逆に、自由は、個人の困窮や苦しみを気遣う倫理に基づかねばならず、そうした苦難を除去しようと努めるはずである。だから、本物の自由は、不平等を認識し補償することで、平等を創り出すのである。[29]

コミュナリズムは、個人の主観的経験、そして、思慮深く行動する能力を重視する。配慮と協力の倫理を通じて個人の潜在能力を全て実現するよう関わることが、支配そのものを廃絶する基盤となる。私達の解放には、私達自身の精神の再構築が含まれねばならない。相違をピラミッド型に階層化する見解は生態調和的見解に取って代わられる。そして、個々人の相違は人生経験全体の芳醇化・美化に貢献するものとして奨励され、称賛されるのである。[30]

この社会的文脈が、抑圧のない社会を生み出すだろう。白人至上主義はなくなり、有色の人々と白人とは、同一で共通の社会的権力を持つ。民族的・文化的多様性は残るべきだが、別々な「人種」という概念はなくなる。伝統的なジェンダー役割は、もはや男女にとって普通ではなくなり、自分の関心と強みに応じて、それぞれの行動と役割を自由に選ぶ。人は、道徳的懲罰や政治的干渉抜きに、自由に自分のジェンダー゠アイデンティティと性的関係を選ぶ権能を与えられる。誰もが必要に応じて供与されれば、階級主義と経済的地位は生じ得なくなる。能力的障がいのある人たちも差別されなくなり、可能な限り、その情熱を実現できるよう供与される。子供の主観的体験は重んじられ、父権主義的支配も改められ、親は成人期に向けて子供の発達を促すようになる。そして、何と言っても、人々の主観的体験を強調することで、レイプや肉体的・心理的・性的虐待に積極的に反対する文化がもたらされるだろう。

**直接民主主義

コミュナリズムは、人々に、能動的市民権が持つ様々な役割を通じて自分達の生活を管理するよう呼びかける。ここでの市民権は、国会議員に手紙を書いたり請願したりするという意味ではない。そうではなく、社会立法の決定に直接参加する権能を全ての人が持つという意味である。市民的美徳の発達と万人の福祉への献身を通じて、自我と民主的地域社会は相互に強化し合う。従って、人は、ある決定が自分自身にどのように影響するのかだけでなく、他者にどのように影響するのかも考慮して、社会的意思決定に参加するだろう。[31]

こうした理由から、コミュナリストは、その地方で唯一の政策策定機関として地区や町レベルで直接民主的立法議会を創設するよう主張している。こうした議会は、定期的に開催され、明確な議会規則に従い、個々人に発言権を与えると共に、許容範囲の時間内で会議を行わねばならない。また、全ての市民が会議の議題を発議できるようになる。参加そのものによって得られる教育と経験から、その人の参加に対する自信が自然に生まれるはずである。さらに、社会全体が満場一致で合意して決定がなされるなどあり得ないと認識しておかねばならない。ある種の多数決は当然なだけでなく、むしろ望ましいのである。多数派の決定に対する公的な異議は、歓迎され、奨励されねばならない。反対意見は新しい考えを生み出す力として機能するからだ。大多数が支持しない意見を持つ人達は、理性的対話を通じて自分の立場を常に擁護する自由を持ち続ける。それぞれの議会の細目と規則は、注意深く作成された規約に基づいて民主的に確立されねばならない。[32]

地元での直接民主主義を主張しているからと言って、全ての市民が会議に出席する必要があるとか、すべきだとかいう意味ではない。出席率すら重要ではない。平時には、出席者が非常に少ないと思っておいた方が良い。論争の的となる議題がある場合には、もっと多くの人が出席すると思われる。ここで重要なのは、全ての人が好きな時に自由に参加できるようにすることである。[33]

直接民主主義の実現可能性を考えるにあたり留意すべき重要な点は、政策決定と政策執行の分離である。全ての政策は市民の議会だけが決定すべきである。こうした政策の執行は、独自の政策決定権限を持たない代理人が行う。その代わり、代理人に与えられる行動と権限の範囲を示す指令が公布される。全ての代理人は、与えられた指令に従わなかった場合、議会で直ちに更迭される。行政執行代理人は、選挙で選ばれることもあれば、意識的にランダムに選ばれることすらあるだろう。社会的行政の職業化や集権化を防止するためである。政策決定とその執行の分離は重要である。いかなる時も、地域社会の政策を執行するよう選ばれた代理人が社会的政策を独自に決め始めると、権力が市民の手から離れ、その結果、新しい国家の土台を作ることになってしまうのだ。[34]

議会政策をさらに理解するために、二つの別々な事例を考えてみよう。一つ目として、特定の行為を行わないよう人を制限する政策があり得る。例えば、特定の森林地区で木の伐採を禁じる政策が承認されるかもしれない。もう一つ、人に特定の行為を許可する政策があり得る。一例は、河川の上に橋を建設することを議会が決めた場合である。技術者チームに様々な橋梁提案書を作る任務が与えられ、議会に選んでもらうことになるだろう。様々な提案書を全ての人が理解できるよう明確な言葉で説明するのは技術者の責任だが、どの計画を実行するかの決定は議会が行うのである。[35]

確かに、政策が違反される場合もあろう。ただ、こうしたことが生じるのは、現在の社会よりも遥かに少ないはずである。現在の政策は、非人間的権力構造と苛酷な貧富の格差を維持するために存在しているからだ。それでもなお、政策違反が疑われる場合には、嫌疑者に知られている人々からなる民衆審査団が調査を行わねばならない。ある人が地域社会に対して物理的な危険をもたらすと明らかになった場合、その人は、生活向上機能を持つ快適な治療センターに拘束され、カウンセリング・ケア・生産活動を提供されるだろう。刑務所や監獄は一切あってはならない。この拘束の重点は、当該個人が元気に社会復帰することに置かれねばならない。

直接民主主義に関わる重要要素がもう一つある。直接民主主義は社会の大規模地域にわたる統治を排除しない。実際、このシステムは、中央集権国家を必要とせずとも、地方レベルに、地球規模にさえも拡大できる。これを行うために、様々な都市と町は、地元レベルで行政を扱うのとほぼ同じやり方で、指令を受けた行政執行代理人団を形成するだろう。こうした自治体間協力の形態を連邦と呼ぶ。連邦の政策も市民によって直接決められるが、この場合に限り住民投票を使う。住民投票の結果は、投票総数の過半数を得て決定される。それぞれの都市は、こうした市民全体の決定に従わねばならない。その結果、市民は広域的な権力を持つことになり、一つの自治体が環境被害や人権侵害を引き起こさないようにするのである。市民に対して権力を持つ中間的機関を創り出さずとも、連邦を通じて全ての市民に社会を運営する集団的権力が与えられるのだ。[36]

自治体間の対立を解消する際には、非暴力の戦術を重視すべきである。必要ならば、仲介や仲裁が対立中の地域外から提供されねばならない。社会全体で権力と富の不平等を廃絶した以上、おそらく、こうした対立は稀になるだろう。自治体が物理的に自衛しなければならない情況が生じた場合、防衛組織の中心は、ヒエラルキー型のプロの軍隊とは対照的に、民衆集会が統括する民主的民兵となるだろう。

解放的テクノロジー

テクノロジーは、この惑星を恐るべき規模で搾取し、単純化するために使われてきた。しかし、この責任はテクノロジーそのものにあるのではない。というよりも、責任は、テクノロジーがヒエラルキー型で強欲な社会文脈の中で設計され、使われてきた事実にある。生態調和社会では、テクノロジーは、人間にとって解放的役割を担うように方向付けられるだろう。これは、同時に、人間以外の自然の完全性と生物多様性を促す。この方向付けから、テクノロジーは苦役と単調な仕事を削減するために使われ、全ての人にとって必要な仕事の量を最小限にするために労力節約技術が適用されるだろう。[37]

オートメーションは大きな注目を浴びるだろうが、私達は、完全に自動化され、人間が生産に関わらないロボット化された環境を支持してはいないと強調しておかねばならない。こうしたテクノロジーが分権化され、地域社会の直接管理下に置けるようになる、これが重要なのである。ロボット工学とオートメーションを使って、万人の必要物を供与できるという事実は、こうした技術をどの程度まで利用するのかの選択を人々に与える。生態調和社会は、市民的関与を通じて人格形成をし、自分が選んだ芸術的・職業的活動に力を注ぐという目的のために人々の時間を解放するだろう。実際、仕事そのものは、個々人が自分の選んだゆったりしたペースで自分の創造的可能性を実現できるような楽しい活動になるだろう。人々は、精神労働と肉体労働・屋内作業と屋外作業・共同作業と単独作業の間の、工芸と農業の間の、都市と農村部の間の複雑なバランスを発見する機会を与えられるだろう。こうした可能性をさらに追及するために、ここでは、製造業・鉱業・農業・エネルギーの分野についてテクノロジーの可能性を簡単に解説する。[38]

・製造業

3Dコンピュータデザインとコンピュータが制御する機械の発展によって、製造業の実質的に全ての領域は、完全に自動化され、現地生産できる規模になった。金属加工と木工の工程一つ一つは、精密切断・成型加工・接合を含めて全て、比較的小さな機械で扱え、現地の施設内で行える。また、自動加工は、あらゆる形のガラス・プラスチック・衣類を誰もがデザインできるようにし、現地生産できるようにしている。この性能に加え、製品の組立を指示するコンピュータファイルに基づけば、どんな製品でも自動で組み立てられる。例えば、世界中の誰でもベビーカーの設計・組立ファイルをダウンロードでき、全ての部品--多分、金属・プラスチック・木・布の組み合わせ--を直接製造し、完全に組み立てられるだろう。全て、人手はかからないのである。[39]

生産機械のドキュメントは、インターネットで自由に利用できるようになるべきである。そのことで、世界中で技術的・機械的な知識の迅速な伝達が可能になる。ドキュメントには、材料リスト・コンピュータ設計ファイル・取扱説明ビデオ、そしてシステム変更情報・ディスカッション゠フォーラム・ウィキといったコラボレーション゠ウェアも含められるだろう。さらに、簡単に質問に答えたり、テクニックを実演したりするために、ビデオ会議による支援の提供も可能であろう。

産業インフラのメンテナンスも自動化できるだろう。コンピュータ制御システムへデータを送るセンサーを使えば、機械の部品・作業の流れ・パフォーマンス変化量を監視できる。また、必要に応じて機械をロボットで分解し、各部品を一連の診断テストにかけることもできる。診断の結果、故障が判明した場合には、人間の手を煩わせることなく、臨機応変に交換部品が製造され、取り付けられるだろう。

・鉱業

解放的目的のためにコンピュータが制御する機械を使っても、新たな金属生産の削減は実際に可能だと考えるべきである。毎年、大量の金属がごみ処分場に捨てられている。ある報告書によれば、大手アルミニウム企業のエネルギー部門責任者は、ごみ処分場には鉱石採掘で生産できる以上のアルミニウムがあると推計している。もっと踏み込んで、彼は、銅と金についても同じことが言えるだろう、と述べている。[40] さらに、生体調和社会は、必然的に、徹底的に作り直された建造環境になるはずである。都会の巨大症と自家用車の君臨は終わりになる。建造環境は、利潤ではなく生活のための生産を指向する経済と共に、生態学の教訓に従って再構築される。この環境で、金属は豊富にあり、新たな金属生産は必要ない、もしくはそれほどいらないとはっきり分かるだろう。

しかし、新たな金属抽出がある程度必要になっても、さほどの労苦もなく、破壊的ではないやり方で抽出できる。2010年の段階で、鉄鉱石は、鉱山から港まで完全に自動で運ばれている。操作は全てコンピュータ゠オペレーターが遠隔地から行っている。[41] この自動化アプローチと組み合わせることができるのが、生物学的手法による金属抽出である。このプロセスはバイオマイニングと呼ばれ、微生物を使って鉱石から金属を浸出する。バイオマイニング技術の発展は重要である。使うエネルギーは少なく、インフラを築く必要もなく、純度の高い鉱石だけでなく低い鉱石にも使え、労働量も最小限で済む。さらに、従来のやり方では無機的だった工程に自然を持ち込むことで、自然界との協力関係の必要をより明確にする手助けをしてくれる。[42]

アルミニウムの生産は多くの形で環境に悪影響を与える。標準的な工程では、数々の有毒な副産物が生じ、莫大な電力を消費する。アルミニウムの生産を続けるなら、別な方法を確立しなければならない。最近の研究では、バイオマイニングはアルミニウムにも使え、エネルギー消費と二酸化炭素排出を劇的に減らし、同時に、他の望ましくない副産物を削減するという結論が出ている。[43] 純度の低い鉱物をバイオマイニングで処理できるという事実は、粘土(ケイ酸アルミニウム)から直接アルミニウムを生産する道を開く。この手法を使えば、アルミニウム生産は徹底的に分権化され得るだろう。世界中の人が、地元の豊富な資源を使って独自にアルミニウムを生産できるのである。[44]

・農業

先進技術は、有機的な形で農業に適用できる。周辺の生物多様性を増やし、農作業の楽しさを高めてくれる。有用な農業機械の典型例はトラクターである。様々な道具を取り付けて使えば、トラクターは、重いものを持ち上げて運ぶ・土を掘る・耕す・除草する・種を蒔く・オーガードリルで穴をあける・堆肥を混ぜるといった多くの役立つ仕事を行ってくれる。同様に、自動ロボット農業器具も小規模農場で使え、栄養価の高い美味しい食べ物を育て、土壌の改善もできる。

農業の自動化にパーマカルチャーの諸原則と先進ソフトウェアシステムを組み合わせると、農場は、苦役から自由になり、複雑なポリカルチャーで構成され、食料生産の場所であると同時に美的遊び場にもなる。パーマカルチャーは、情報集約的生態調和農業である。生物多様性の増大を目的として、諸要素が注意深く設計される。農場の要素一つ一つが複数の機能を果たし、隣接する他の諸要素と相互に利益をもたらし合う場所に置かれる。さらに、土壌を肥沃にするために、自然な植物推移を促す。パーマカルチャー゠デザインの一例は、豆・トウモロコシ・カボチャを近くで一緒に栽培する「三姉妹」混植テクニックである。トウモロコシは豆の蔓が成長する構造を提供し、豆は土壌に窒素を固定し、カボチャは地被植物として湿気を保持して雑草の繁殖を防ぐ。パーマカルチャーを行う場所は、益虫や益鳥を引き付ける植物を利用するよう設計される。これが生物学的害虫防除の方法である。最後に、多年生植物を栽培し、耕作をマルチングに置き換えることを強く強調する。このことで、人が行う仕事と土壌攪乱が最小限に抑えられるのである。[45]

コンピュータを使ったパーマカルチャー(CAP)ソフトウエアは、生態調和農業計画の作成を支援できる。ゾーニング・集約的ポリカルチャー・生産量推計のモデルを作り、無駄をなくすための地元材料の完全利用を調整する指針となる。農業従事者は、家族であれ集団であれ、モデルを作るために必要な情報をソフトウエアに入力しなければならない。この情報は、気候・地形(訳註:原文ではtypographyと書かれているが、topographyの誤記だと思われる)・地元の水文学などで構成されるだろう。ソフトウエアは、人々が改変できるデータベースにアクセスする。そこには、植物群落(コンパニオン)・その適切な間隔・発芽と収穫の時期・水と日光の要件など多くの特性に関する情報が蓄積されている。この情報によって、CAPソフトウエアは、栽培する植物の配置、土壌・日当たり・水はけに応じた最適な場所、予想される食料・薬・動物性食品の量、どの植物がどの程度バイオ燃料・バイオプラスチック・マルチに変わり得るのかを詳しく示したモデルを作り出すだろう。モデルとなる計画を手にすれば、農業従事者は、民主的プロセスを経てモデルを修正し、容認できる計画を決められるようになる。最終確定した計画は、その後、情況と参加者の選択に応じて毎年修正される。さらに、これらの計画は、当該地域周辺の農場と連携し、その活動を調和させ、分権的で生態調和的な地域農業を実現できるようになるだろう。

裏庭で行うのとは対照的に、一定規模の農場で集約的にコンパニオンプランツを栽培するのは手間がかかる。ここで小規模で自律的なフィールドロボットの助力が役立つ。フィールドロボットは、移植・除草・マルチの拡張・収穫といった多くの有用な作業を行える。点滴灌漑システムや有機肥料散布を管理するなら、自動監視システムを導入すればよい。鶏や家鴨を特定の場所に囲って昆虫を食べさせるためにもロボットシステムを使える。自動化された温室は、種蒔きと苗の育成にも活用できる。それとは別に、自動化された温室では、大量の魚・野菜・バイオ燃料をもたらす先進的アクアポニックス゠システムも実施できるだろう。こうしたテクノロジーは、従来型の農業機械の自動化と共に、最小限必要な労力で豊富な食べ物を供給し、同時に土壌を改善し、地元の生物多様性を高められるのである。[46]

・エネルギー

生態調和社会のエネルギーを化石燃料に依存してはならない。その代わり、地元で生産される多様な再生可能資源で構成されるべきである。再生可能エネルギーの生産方法は、良く知られている太陽光パネル・風車・バイオ燃料だけでなく、集約型太陽光エネルギーシステム・水素燃料電池・熱分解(パイロリシス)もある。[47]

例えば、熱分解は、バイオマスを様々な量の炭・合成ガス・バイオ原油に変換する。合成ガスは、高効率の水素燃料電池を使って電気に直接変換でき、排気も非常に少ない。このプロセスで排出される二酸化炭素は、熱分解プロセスで使われるバイオマスが元々蓄えていたもので、生産サイクル全体はカーボンニュートラルになる。

熱分解で作られる炭は、それが持つ生態系への利点から、一般にバイオ炭と呼ばれている。バイオ炭を土壌に加えると、栄養素の保持を促し、その結果、土壌の肥沃度を高める。バイオ炭は非常に分解しにくいため、バイオ炭に含まれる炭素は全て、数千年間実質的に、大気中へ放出されない。バイオ炭に変換されるバイオマスは、成長過程で大気中の二酸化炭素を消費するため、このエネルギー生産方法は、カーボンネガティヴ゠プロセスの一環であり、さらには、有益な土壌添加剤も生み出すのである。つまり、バイオ炭は、大気中の高レベルの二酸化炭素を減少させる大きな可能性を持っているのだ。[48]

このパンフレットでは網羅できないが、テクノロジーへの解放的アプローチを適用できる経済領域はもっと多い。これまで記した分析が示しているように、分権化された生態調和社会を確立するために不可欠な必須テクノロジーと生態調和エネルギー資源は、現在存在し、手の届くところにあるのだ。

倫理的経済

生態調和経済は、社会政策同様、市民の直接管理下に置かれねばならない。実際、経済的生産の手段--土地と設備--は議会の領域に置かれ、地域の経済統合は連邦を通じて達成される。議会が行う経済的決定の範囲には、とりわけ、その年に様々な物品をどれほど生産すべきか、そして、どのテクノロジーを使用可能と見なすべきかが含まれる。物品の生産方法・サービスの提供方法の詳細は、農場・作業場・病院といった仕事場で業務やメンテナンスに時間を割いている人々が決めて実行すべきである。議会は何をすべきかを決め、仕事場はどのように行うべきかを決めるのである。[49]

倫理的経済は、競争市場の中で商品を割り当てるのではなく、協力して計画する経済である。先進的ソフトウエアシステムは、民主的経済計画に大いに役立つだろう。製造されるあらゆる物品--他に類のない手作りものは除く--の情報がこのシステムに入力されるだろう。この入力事項には、物品の資材要件と製造手順を詳しく書いたドキュメントが添付される。それに加え、生産に使われた具体的労働時間数・希望量に対する地元の生産能力の現状・生産に必要なエネルギー量・製造による社会と生態系への影響の質的査定といったアセスメントも盛り込まれる。年次経済計画会議で、集団単位としての当該自治体はどの品目--公共建築物のような--が必要なのか提案し、決定する。さらに、個人や世帯は、その年に予想される消費計画を提出しなければならないだろう。最初はゼロから行うが、その後は毎年修正できるようになる。この計画は、必要な物品の詳細ではなく、そのカテゴリーを--何足の靴、何キロの果物といったように--量で表す。ソフトウエアは、地元で何を生産できるのか・どの品物を連邦内の他の場所から入手しなければならないのか・どれほどの労力が必要になるのかを評価するために、全ての人の情報を集める。そして、品質に関して使用者が提出したメモを箇条書きにして報告書を編纂する。利潤ではなく欲望のために生産する経済、そして消費主義ではなく創造性と協力を指向する社会では、要求される総消費量が生産能力を下回る見込みが高い。それにも拘わらず、要求が過剰だと分かったときには、生産過剰分を明らかにし、人々にそれに応じて自分達の計画を修正するよう求めることができる。このプロセスは、実行可能な集団的計画が選ばれるまで、繰り返し行われるだろう。[50]

コンピュータモデルを使った経済計画は、個々の生産領域で必要な労働力を推計するはずである。作業可能な人達は、民主的議会の目標を達成するための助力を求められる。人は自分が選んだ必要作業を行う時間を任意に決めて構わない。必要な作業課題を完遂するためのボランティア活動の時間は、自ずと決まるはずである。その作業をしようとする人達は、議会の意志決定に参加したと思われる(少なくとも、参加する自由を持っていた)からである。さらに、その人達は、協力的コミュニティの一員であり、お互いに顔見知りであろう。充分な数のボランティアが現れない情況は、強制的ではないやり方で解決できる。最初に、議会は、進展情況を考慮し、当該の目標が今も望まれているのか再評価する。望まれていると議会が結論を下した場合、人々に進んで手助けするよう再度依頼できる。このやり方でも上手く行かない場合、この活動に付随する宴会や祝賀会を企画して、活動がもっと魅力的になるようにする。さもなくば、この計画は、最終的に、充分な援助者が現れるまでキャンセルされる。

テクノロジーの解放的利用で製造業の徹底的分権化が可能になるが、自治体は様々な物品--原料も、様々な農産物や製品も--について常に他の自治体と相互依存関係を保持するだろう。こうした地域社会は、通貨取引というブルジョア構想を行わなくてよい。その代わり、必要な物品--最小限の肉体労働で生産される物品--を受け取った地域社会は、手作りの贈答品で返礼したり、時折使節団を送って音楽を演奏したり宴会を催したりして、感謝の意を表明し、互恵関係を築くだろう。

社会的自由というコミュナリズムの概念を踏まえ、生態調和社会での物品の分配は、生産への貢献ではなく、欲望に応じて行われねばならない。地元議会や連邦の能力の範囲内で、個々人の物質的要求は、その人が決定した欲望に応じて満たされねばならない。買いだめと派手な消費は消滅するだろう。誰もが他の人と同じ物品を持ち得るからだ。もっと重要なことだが、人々は、広告主による心理的操作から自由になり、共同社会の協力・連帯・創造的表現を指向する文化に浸りきって生活するだろう。個々人は、バランスの良い成熟した自己--自分の生活を管理し、自分の欲望を満たしてくれるテクノロジーの知識を持ち、生物多様性の重要性を強く意識し、思いやりある地域社会の認知された一員--を体現するだろう。この経済は、志願労働システムに基づいて民主的に管理され、欲望に応じて人々に供与するため、完全に倫理的だと見なされるはずである。[51]

都会の分権化

直接民主主義・連邦政治・倫理的経済・解放的テクノロジーの活用を中心に編成される非ヒエラルキー社会の潜在的可能性を実現することが、生態調和の方針に沿った構築環境の徹底的変換を可能にする。この変換は、必然的に、構築環境の様相を個々人が充分理解でき・接近できる規模に小さくする。この規模ならば、地域社会の成員として直接会って互いに知り合える。同時に、この規模ならば、地域の資源基盤を凌駕せずに自然のバランスを確立できる。当然、現在無秩序に広がっている都会と郊外の集塊は解体されねばならず、人々はもっと均等に分散して移住するようになる。現在、様々な機械が都会の広大なコンクリートを拡大するために使われている。このまさに同じ機械が、コンクリートを引き裂き、巨大な商業ビルを取り壊し、大量の有用物質を救い出すために利用できるのだ。[52]

未来の諸都市が実際にどのぐらいの規模に制限されるかは、民衆議会自身に委ねられる。ただ、近い将来の可能性を把握するために、この問題を考えることは有用である。エベネザー゠ハワードはその「田園都市」構想の中で人口制限を3万人としており、これは適切な上限だと思われる。[53] この制限を超えると地元の資源に大損失をもたらしかねず、個々の住民にとって全体として理解しにくいものになるだろう。3万人規模の都市でも全市民がお互いに個人レベルで知り合うのは難しいが、都市を多くの地区へ分割すれば、それぞれの地区は小さな町が持つ共同体的包摂に近くなる。こうした地区そのものは、住民が千人以下でなければならず、それぞれが独自の民主的議会を持たねばならない。[54] 地区議会は都市全体を統治する自治体連邦へと結合する。集塊の形成を避けるために、この規模の諸都市は各地に広がらねばならない。こうした都市はそれぞれ、タウンシップ(郡区)として知られる分権型自治体構成の中心的存在になるだろう。郡区では、比較的大きな都市を多くの小規模都市・町・村落が取り囲み、その全体を農地と林地が取り囲む。この配置によって、町と田舎の調和的バランスを取れるようになる。[55] 郡区内の自治体は、それ自体で郡区連邦を形成するが、一地方の郡区全てが結合して地方連邦を形成する場合もあり得る。

全ての市民が、地区・自治体・郡区・地方の計画立案に能動的に参加できる。その際、3D建築・工学モデリングを組み込んだGIS(地理情報システム)型都市計画ソフトウエアシステムを共同で活用する。[56] 市民は、郡区連邦や地方連邦全体への生産設備の分配・輸送ロジスティックスの解決策・構築環境そのものの美的景観について、様々な計画を提起し、議論できる。これらの決定は将来の議会に委ねねばならないが、ここでも生態調和型都市計画が組み込むべき諸原則を評価しておくことが有益である。例えば、人間規模に近づけるために、最大規模の都市であっても、人々が自転車や徒歩で田園地方に容易く行けるように設計されねばならない。農地と市街地を指状にし、市内までそれぞれの指をがっちり組み合わせ、網目のようにすれば、田園地方そのものは都市と一体的に結合できる。都市の諸地区は、互いを容易く特定できなければならず、その境を認識するための明確な境界線を持っていなければならない。地区の境界線が都市を形作り、それぞれの地区に独自の明確な特徴を与える。町・村落・都市は、公的活動の中核を比較的少数の重要スポットとして配置しなければならない。そのことで、社会的交流を促す生き生きとした集いの場を創造するのである。こうした活動センターは、ワークショップ・レクリエーションやスポーツのグランド・キッチンとダイニングホール・公共の建物が多様に混在する場所になるだろう。このエリアは創造性を呼び起こす場になり、芸術・音楽・演劇が一般の生活に根付くに違いない。全ての公共空間は、あらゆる年代の人々に快適な形で作られねばならない。また、あらゆるアイデンティの人々の包摂にも重点が置かれねばならない。さらに、公共空間は、一年を通じて、風雅な美しさと食べ物を楽しめるよう美化されねばならない。ペットの同伴が常時可能か取り決めをすることになるかもしれない。水域と森林地帯に住民が簡単にアクセスできるようにしなければならない。様々な世帯構成が可能になり、カップル・拡大家族・コレクティヴ・一人暮らしを希望する人それぞれの場所を提供できるようになる。[57] 自治体内では様々な交通手段を提供できるようになる。例えば、公共路面電車システム・電動アシスト自転車・様々な種類の軽量電気自動車・重量物を運ぶためのトラックの共同利用である。可能な限り交通渋滞を最小限に抑えることに大きな重点が置かれねばならない。自治体が適切に設計され、規模が制限されていれば、交通渋滞の最小化はさほど難しくないはずである。農業地域は、必要に応じてトラックを配備し、物品の輸送や受け取りをするために鉄道と接続できるようになる。最終的に、郡区自治体と地方エリアは、エネルギー効率が良く--お望みなら無人運転もできる--モノレールシステムで結び付けられるだろう。

現代社会から来るべき社会へ

現代社会からこれまで詳述した自由社会へ移行するためには、紛れもなく、これらの理念を民衆の大多数が納得し、支持しなければならない。そのためには、これまで示した再構築ヴィジョンを中核として組織される運動を構築しなければならない。確かに、運動発展の詳細は参加する人々が決め、その人達が直面する情況を考慮して決まる。ただ、既存システムをどうすれば転覆できるのかについて全般的なヴィジョンを示すために、一つの行動プログラムの輪郭を描いておくことは役に立つ。このプログラムの提案が、社会的自由の価値観を中軸として行動する触媒になってほしいと願う。さらに、この綱領は最初の土台となる考えである。これを基に人々は独自の考えと創造的手法を発達させられる。理念--ヒエラルキーへの完全反対のような--を必要に応じて主張するが、以下で詳しく述べるプログラムが社会変革に向けて厳格に適用されるべきアプローチだと述べるつもりはない。逆に、これは、社会再構築をどのように達成できるのか探求する思弁的演習である。

この運動は、人々が直面している抑圧の具体的問題を全て扱おうとしなければならない。しかし、こうした諸問題をそれぞれ孤立して扱うべきではない。抑圧と特権の横断性を意識することが重要なのだ。この意識が人々の多様な経験の複雑さ・転覆すべき無数の抑圧・特権について鋭敏な知識を与え、この知識が特権そのものへの対抗に活用される。私達が直面している現実を十全に扱うためには、単一争点の活動を、目の前にある全ての争点を扱うもっと幅広いキャンペーンに統合しなければならない。従って、様々な争点の多様性を扱い、人間全体の全般的利益のために行動する統合運動を求めねばならない。この運動は、社会的・経済的状態という点で可能な限り多様なものになるべきである。そのことで、幅広い経験と観点を示せるようになるのである。[58]

コミュナリズム思想を推進する最初の手法はリーフレットやパンフレットの配布である。その目的は、この思想をできるだけ明確に説明することである。支持者が見つかれば、小規模な研究会を作って、思想を深堀するのが賢明であろう。研究会が思想を自分達で明言できる自信を持ち始めたら、コミュナリズムの公的な宣伝を拡大し、定期的にニューズレターの発行を始める。その中で、コミュナリズムの観点から、地元の諸問題を生態調和社会という長期的ヴィジョンに結びつけながら、それら諸問題の解決策を提案する。リーフレットもそうだが、ニューズレターの配布によって、仲間のコミュナリストは質問と懸念に対応する立場になり、コミュナリストにとっても会話の相手にとっても相互に教育的な演習となる。もう一つの教育方法は、連続講演会を開催したり、社会正義の諸問題に焦点を当てたグループと話したりすることである。さらにもう一つの重要なアプローチは、地元の公職選挙への立候補である。選挙活動は、自治体政府の構造を直接民主主義に転換するというグループの確固たる意図を明確にした綱領に基づいて行われる。民衆教育の行為として、コミュナリストの選挙運動は、対面で行われねばならない。強調しておかねばならないが、安易に多くの支持者を得る目的で選挙活動を行ってはならない。人々が推進されている思想についてまだ教育されていないのなら、大差での敗北が望ましい。多くの支持者を手に入れるために遠大な目標を捨ててしまえば、コミュナリストの政治運動は必ずや、無益で、士気をくじかれ、堕落してしまうだろう。全く同じように、反国家主義ヴィジョンに誠実であり続けるために、自治体を越えた公職選挙運動は絶対に避けるべきである。教育された個々人が--プロパガンダにのせられた大量の投票者ではなく--萌芽期の運動を受け入れ、参加するようになるのが望ましい。[59]

支持が増え始めると、支持の元になる地区へと焦点を移せるようになる。まず、地区のコミュニティ゠テクノロジー゠プロジェクトの開始に注力する。コミュニティ゠テクノロジー゠プロジェクトは、人々が集まって協働活動を行うという点でコミュニティ゠ガーデンに似ている。[60] こうしたプロジェクトは、比較的低コストで、技術的に扱いやすい実例を使って、テクノロジーの解放的可能性を実証する。最初に始めるべきオープンソースのプロジェクトには、RepRap(3Dプリンター)・Shapeoko(コンピュータ制御製粉機)・Lasersaur(コンピュータ制御レーザーカッター)・Liberator(圧縮アースブロック゠プレス機)がある。[61] これらは、分権型の製造作業はすぐにも可能だと人々に示す際に優れた実例となる。インターネットには他にも多くの非常に有益なオープンソース゠ハードウエア゠プロジェクトがある。同時に、パーマカルチャーを実証する場所を作り、コンパニオン゠プランティングやホリスティック゠サイトデザインのような重要概念を教えることもできる。

コニュニティ゠テクノロジー゠プロジェクトと同時に、地区のアセスメントを行えば、その地区が直面している諸問題と可能性双方の知識を得られる。最初に行う重要な作業は、当該地区の社会構成を知ることである。例えば、どの家が持ち家で賃貸なのか・昔から住んでいる人は誰か・リーダーになる人は誰か・失業水準はどのぐらいかなどを調べる。こうしたことから住民は地区の歴史と過去の政治的闘争を学ぼうとする。もう一つの作業として、地区の中でどのような資源を利用できるのか明らかにするために戸別の調査を行う。どのような問題が住民にとって重要か・どのようなスキルを住民が持っているか・住民の趣味は何か・どのような道具や設備があるのかを知っておけば、いつか有用になるかもしれない。また、その場所を共同使用にする機会を見つける目的で、空き家や近所の区画を誰が所有しているのか調べる。同時に、住民に資料を配布し、人々が中央集権型権力に統制されないよう直接人々に権能を与えることがグループの意図なのだと説明することもできる。もう一つの重要な演習は、当該地区がどれほど食料とエネルギーを生産する可能性を持ち、独自の製品を製造する潜在的能力をどれほど持っているのか査定することである。[62] 可能な限り、全ての地区アセスメントプロセスは文書化され、インターネットで自由に入手できるようにすべきである。そうすれば、他の人達がこうした活動を再現し、それに基づいて事を進められるようになる。こうした豊富な情報を手にすれば、コミュナリストは最小限綱領を作るために当該住民達と共に活動できる。最小限綱領は、当面の課題を扱うことに焦点を当てた一連の要求である。改良主義にならないようにするために、最小限綱領は長期的ヴィジョン、つまりコミュナリスト゠プロジェクトの最大限綱領とどのように結びついているのか示さねばならない。[63]

こうした最初の活動の後、地区住民の中には、コミュナリズム思想全般に精通するようになり、民衆が自身の生活を直接統治する呼びかけに魅入られる人も現れるだろう。この意識水準に届くと、コミュナリストは自己権能の行為として地区住民に集会へ参加するよう呼びかけ始める。こうした集会は当該地区に実際に住んでいる人々に向けて開かれるべきであり、地区の外に住み、この地域から利益をむさぼり取っている地主やビジネスオーナーにではない。この点に注意しなければならない。こうした民衆集会は、市役所から発表される望ましくない計画から身を守るために時折集まるのではなく、定期的に開催され、必要に応じて臨時会議を召集しなければならない。情況に対する実質的影響力が実際どれほど萌芽的であろうと、継続中の集会に参加することで、地区の人々は、自分達を管理している抑圧的諸制度を転覆する上で極度に重要な歩みを進めている--自治を始めているのだ。この時点で、こうした集会は現実の法的権限を持っていないが、それでもなお、地域社会の中で道義的力として作用でき、最小限綱領の要求に対応するよう市役所に圧力をかけられる。地区がある程度まで自治をし始めている以上、集会は、市役所の権力と平行して、実質的に権力の源になる。二重権力である。民衆集会が出現すると、コミュナリストは、二重権力構造として集会がどれほど重要なのか集会参加者に教えることに注力しなければならない。この活動によって、市民は、社会的自由の理想に至るプロセスに自分が能動的に参加していると考えるようになるだろう。民衆集会が独自に行使できる権力は、必然的に、市役所を犠牲にする。この発展は、単一の地区に留めてはならず、逆に、国中の数多くの地区を--国際的にすら--網羅しなければならない。そのことで、様々な地区が国家そのものに対する二重権力構造として集団的に機能するのである。[64]

民衆集会は、今なお新しく、その力は小さいが、民衆が直面する諸問題の一部に対処する方策を講じることができる。市役所に対して圧力を加えるだけでなく、様々なコミュニティ゠プロジェクトによって協働文化の構築にも着手できる。同時に、都会の巨大症と生の商品化が提供する匿名で疎外された断片的生活様式を打倒しようとする。こうしたプロジェクトの実例は、育児コレクティヴやフリースクールであり、警察に関与させずに紛争を解決する方法すらもそうだ。さらに、コミュニティ゠キッチンとダイニングホールを開設すれば、個々人と家族を夕食の準備という労働から、そしてファストフード文化が提供する不健康な選択肢から自由にできるだろう。ここは、レストランに配置された独立テーブルとは全く異なる社会的環境であり、人々が集まり、近所の様々な人達と自由に会話するだろう。[65] このような生活の質の改善によって、住宅開発業者の投機的な目は地区に向くだろう。手遅れになる前に、先制してジェントリフィケーションを阻止しなければならない。これと闘うツールには、借家人組合の結成・地元の土地区画整理委員会への働きかけ・不動産市場から当該地所を取り除くためのコミュニティ゠ランド゠トラストがある。[66]

民衆集会は、コミュニティ゠テクノロジー゠プロジェクトや社会的プロジェクトの資金調達方法を非常に慎重に検討した方が良い。運動の長期目標に同調していない提供元から資金を調達すると、この提供元が資金提供者としての力を利用して、自身の改良主義計略に運動を吸収しようとするだろう。別な方法として、市税の支出方法を決める直接管理権を民衆集会に与えるよう要求することでも資金調達を実現できる。自治体によるこうした資金拠出は「参加型予算」と呼ばれているものに該当する。参加型予算は改良主義者が様々なやり方で実施しているが、二重権力としての民衆集会に資金提供する目的で市税の直接民主主義的管理権を手に入れることは、集会の政治的・経済的力を拡大する上で重要な一歩を示すだろう。[67]

民衆集会は参加型予算で獲得した資金を使って地区所有のマイクロファクトリーを設立できる。そこでは、それぞれの地区の中から労働者を雇って運営し、労働者に生活賃金が支払われる。マイクロファクトリーは、小型自動機械とデジタル製造テクニックを可能な限り使って、様々な商品を製造できる小規模な工場である。マイクロファクトリーは、地区がある程度経済的に自立できるようになるだろう。民衆集会は、都市内や地方内にある他の集会と協力して、それぞれのマイクロファクトリーがどの商品に力を入れるべきか決めなければならない。そのことで、作業の不要な重複を避けて、経済的力を最大限活用できるようになる。居住者は、企業の小売店ではなく、地区で製造した商品を買うよう奨励される。上手くいけば、マイクロファクトリーは民衆集会に副次的収益をもたらし、その経済的力をさらに強めてくれるだろう。[68]

市役所が、既存権力構造を犠牲にして自治体予算を使う権限を地区集会に僅かでも認めるとは思えない。この目標を実現するために、民衆集会は市役所内で政治権力を獲得しなければならない。地区集会は、コミュナリズムの綱領に沿って地元の公職選挙に候補者を擁立すべきである。この綱領は、地区の最小限綱領を生態調和社会という最大限綱領に結び付ける。教育キャンペーンの部分で既に述べたように、こうしたキャンペーンは、既存社会の諸制度を徹底的に変換するという長期的ヴィジョンを支持する人々の支援を得ることだけを目的としなければならない。そうでなければ、運動全体が改良主義になり、革命勢力としての独自の可能性を駄目にしてしまうだろう。候補者は、集会そのものの代弁者と見なされ、集会に対して完全に説明責任を持ち続けねばならない。一旦当選すれば、その責務として、民衆集会の権限強化の助けとなるよう全力を尽くすだろう。参加型予算を最大限実施しなければならない。高い累進課税を実施しなければならない。民衆集会の目標を妨げる規制やお役所仕事を排除しなければならない。企業の規制を増大させねばならない。地区内の私有地管理権を集会そのものへ移さねばならない。[69]

そうすれば、新たに権能を持った民衆集会は、その最小限要求の多くを実現できるはずである。このシナリオは、既存国家装置と比べて、二重権力としてのコミュナリズム運動の役割を非常に大きくする。この情況は必然的に国家との緊張関係を創り出す。集会運動の強さは国家がこの運動を統制する能力を犠牲にして実現するという事実のために、国家は存続できなくなる。この緊張関係は、歓迎されるべきであり、それ以上に、助長されねばならない。集会は権限を拡大するあらゆる活動を行わねばならない。さもなくば、国家は如才なく集会を強奪するだろう。権限を拡大するために、集会は、その最大限要求を達成する作業を行わねばならない。現在のヒエラルキー社会から完全に解放された生態調和社会への移行期となるべき活動段階に突入するのである。市憲章を変更し、市役所などの代議制権力の承認なしに民衆集会が独自に自治体政策を決定する権限を持てるようにする。講じるべき最も重要な措置の一つがこれだ。次に、法人資産を収用し、市の地区集会連邦下に置けば、この権限をさらに拡大できる。こうした資産に関係する特許と著作権は廃絶される。全ての知識は、インターネット上で自由に入手できるようにしなければならない。そのことで、世界中の人々が、新しいエコテクノロジー革命の導入に貢献できるようになる。これは現在のエコテクノロジーをはるかに超えた解放的可能性を持つ。同様に、全ての銀行は収用され、あらゆる負債は全て免除される。空きビルと地主の所有地を没収し、全ての人に住宅を提供できるようにして、家賃という無駄で搾取的な負担を廃絶する。[70]

この移行プログラムが持つ挑発的行為の実施により、社会は革命的情況に突入するだろう。留意しておかねばならないが、権力エリートがこの発展を受動的に受け入れることはない。どこかの段階で、暴力的攻撃が生じるだろう。上手くいけば、多くの人々が軍隊から離脱し、社会的自由の大義に参加しているだろう。いずれにせよ、コミュナリズム運動が生き残り、国家と資本主義システムを打倒するためには、国家による暴力の独占を排除しなければならない。この行動には、民衆集会の完全管理下にある防衛的市民民兵ネットワークの創造が必要である。[71]

革命を完成させるためには、貨幣システムを廃絶しなければならない。集会レベル・様々な連邦レベルで条例を作り、新たな直接民主主義社会の仕組みを明確に定義しなければならない。こうした諸構造の準備が整うと、都会の分権化とテクノロジーの解放的利用の達成に必要なあらゆる取り組みが、それぞれの連邦代理人を通じて様々な集会間で調整できるようになる。

[1] (以下原註)ここで論じる思想は、総じて、マレイ゠ブクチンの著作に基づいている。コミュナリズムの入門書としては、以下を参照していただきたい:
・ Bookchin, Murray, Social Ecology and Communalism (Oakland, CA and Edinburgh: AK Press, 2007)

[2] Bookchin, Murray, Remaking Society (Boston: South End Press, 1990) - p.24-39 (「エコロジーと社会」、藤堂麻里子・戸田清・萩原なつ子 共訳、白水社、1996年、31~52ページ)
・Heller, Chaia, The Ecology of Everyday Life (Montreal, New York, and London: Black Rose Books, 1999) - p.124-140

[3] Bookchin, Murray, The Ecology of Freedom. 3rd ed. (Oakland, CA and Edinburgh: AK Press, 2005) - p.80-108

[4] The Ecology of Freedom - p.459.
ここで、ブクチンはウィリアム゠トレイガーの「Symbiosis」(New York: Van Nostrand Reinhold Co., 1970), p.vii を引用している。
・ Kropotkin, Peter, Mutual Aid. 3rd ed. (London: Freedom Press, 1987) (「相互扶助論」、大杉栄 訳、同時代社、1996年)
この主題に関する最近のメディア報道については、blogs.scientificamerican.com を参照。

[5] Bookchin, Murray, The Philosophy of Social Ecology (Montreal and New York: Black Rose Books, 1990) - p.106-131

[6] The Ecology of Freedom - p.80-129
・Remaking Society - p.30-53(「エコロジーと社会」、39~70ページ)

[7] The Ecology of Freedom - p.130-214
・Remaking Society - p.54-94(「エコロジーと社会」、70~124ページ)

[8] Remaking Society - p.44-46, 154(「エコロジーと社会」、57~60ページ、205ページ)

[9] Dowd, Doug, The Twisted Dream. 2nd ed. (Cambridge, MA: Winthrop Publishers, Inc, 1977)

[10] The Ecology of Freedom - p.209-212

[11] Bookchin, Murray, The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship (San Francisco: Sierra Book Club, 1987) - p.1-14
後に、以下のように書名を変えて復刊している:
・Urbanization without Cities (1992)
・From Urbanization to Cities (1996)

[12] Biehl, Janet, The Politics of Social Ecology (Montreal: Black Rose Books, 1998) - p.1-10, 88
近代国民国家の歴史については以下を参照:
・The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship

[13] The Ecology of Freedom - p.244-245
・Remaking Society - p.102-103(「エコロジーと社会」、135ページ)

[14] The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship

[15] Bookchin, Murray, The Third Revolution. Vol. 1 (London and Washington: Cassell, 1996) - p.143-246

[16] Remaking Society - p.165-167(「エコロジーと社会」、219~222ページ)

[17] The Third Revolution. Vol. 1 - p.247-369

[18] Cole, G.D.H. A History of Socialist Thought: The Forerunners, 1789 - 1850. Vol. 1 (London: MacMillan & Co LTD, 1953)
・Bookchin, Murray, The Third Revolution. Vol. 2 (London and Washington: Cassell, 1998) - p.2-28

[19] The Third Revolution. Vol. 2 - p.192-251

[20] Bookchin, Murray, The Third Revolution. Vol. 3 (London and New York: Continuum, 2004)

[21] Bookchin, Murray, The Third Revolution. Vol. 4 (London and New York: Continuum, 2005) - p.95-260

[22] Remaking Society - p.152-158(「エコロジーと社会」、201~210ページ)
・Bookchin, Murray, Toward an Ecological Society (Montreal: Black Rose Books, 1980) - p.11-31
・Bookchin, Murray, Post-Scarcity Anarchism (Palo Alto, CA: Ramparts Press, 1971) - p.31-54

[23] The Third Revolution. Vol. 1 - p.16-19

[24] The Ecology of Freedom - p.218-219, 351-352

[25] Toward an Ecological Society - p.147, 253
・The Ecology of Freedom - p.418, 433

[26] Toward an Ecological Society - p.47, 187
・The Ecology of Freedom - p.168, 413
・The Politics of Social Ecology - p.83-86

[27] Remaking Society - p.120(「エコロジーと社会」、藤堂麻里子・戸田清・萩原なつ子 共訳、白水社、1996年、159ページ)

[28] Post-Scarcity Anarchism - p.10-11, 134-136
・Toward an Ecological Society - p.25, 36-37
・The Ecology of Freedom - p.136-140

[29] Toward an Ecological Society - p.64-65
・The Ecology of Freedom - p.73-75
・Remaking Society - p.96-100(「エコロジーと社会」、125~132ページ)

[30] Post-Scarcity Anarchism - p.82
・Toward an Ecological Society - p.60
・The Ecology of Freedom - p.397-401

[31] Toward an Ecological Society - p.47, 238, 253-254
・The Politics of Social Ecology - p.86-88

[32] The Politics of Social Ecology - p.56-59, 131

[33] The Ecology of Freedom - p.435
・The Politics of Social Ecology - p.157-158

[34] The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship - p.246-247

[35] The Politics of Social Ecology - p.105-107

[36] Bookchin, Murray - "The Meaning of Confederalism"
・The Politics of Social Ecology - p.95-109
(邦訳は、連邦主義の意味。だいぶ前に私が訳したもので、読み直すと手を入れたくなるのですが、そのままリンクを貼っておきます。)

[37] 以下でテクノロジーの役割について優れた考察がなされている:
・The Ecology of Freedom - p.302-355

[38] Remaking Society - p.196(「エコロジーと社会」、261~262ページ)
・The Ecology of Freedom - p.427-30
・Post-Scarcity Anarchism - ‘Toward a Liberatory Technology’ p.83-139 を参照

[39] このテクノロジーの実例は、以下の通り(全てYouTube):
・鋳造用金型を扱うロボットアーム
・ロボットによるアーク溶接
・コンピュータ制御旋盤
・ロボット木工所
・自動化されたポータブル製材所
・自動化されたガラス製造機械
・コンピュータ制御織機
・ロボットプログラミングソフト
・ロボットプログラミングソフト(2)
・エンジン組み立て用ロボットアーム
・自動化された倉庫

[40] http://www.fastcompany.com/magazine/107/landfill.html

[41] http://www.riotinto.com/media/5157_7037.asp (リンク切れ)
http://www.steelguru.com/raw_material_news/Rio_Tinto_Mine_of_the_Future_programme_tests_advanced_technologies/209531.html (リンク切れ)

[42] http://opensourceecology.org/w/images/4/43/Biomining_-Carmen_Tailings-Com.pdf (リンク切れ)
http://opensourceecology.org/w/images/d/df/Biomining_-_A_Useful_Approach_Toward_Metal_Extraction.pdf (リンク切れ)
http://wiki.biomine.skelleftea.se/wiki/index.php/Main_Page

[43] http://opensourceecology.org/w/images/c/c9/Halman.pdf (リンク切れ)

[44] http://opensourceecology.org/open-source-aluminum/

[45] Mollison, Bill, Introduction to Permaculture. 2nd ed. (Tyalgum, NSW, Australia: Tagari Publications, 1994)
・Hememway, Toby, Gaia’s Garden (White River Junction, VT: Chelsea Green Publishing, 2000)

[46] このテクノロジーの実例は以下の通り:
・小規模農業フィールドロボット(YouTube)
・小規模農業フィールドロボット(2)
・イチゴを収穫するロボットアーム(リンク切れ)
・自動移植機(YouTube)(要ログイン)
・温室用自動移植機(YouTube)
・ココナッツを収穫するために木に登るロボット(YouTube)
・自動化された鶏舎(YouTube)
・ドライバーのいない農業トラクター(YouTube)
・ロボットによる除草(YouTube)
・自動搾乳機(YouTube)
・アクアポニックス゠システムがたった3エーカー(12140.57㎡)で毎年百万ポンド(453592.3㎏)の食料を創り出す(YouTube)

[47] このテクノロジーの実例は以下の通り:
・集約型太陽光発電(YouTube)(再生できない)
・太陽光エネルギーの夜間蓄電
・熱分解
・大型風力発電機データシート(トップページにリダイレクトされる)
・ブルーム水素燃料電池データシート(リンク切れ)
・ブルーム燃料電池のプレゼン(YouTube)

[48] バイオ炭の情報(リンク切れ)
・熱分解処理装置(リンク切れ)

[49] ブクチンはこの経済を「道徳的経済」と呼んでいた。しかし、私達は、ブクチン自身が行った倫理と道徳の区別を鑑みれば、「倫理的経済」と呼ぶ方が適切だと考えている。ブクチンにとって、道徳は地域社会による合理的分析に基づかない規範である。逆に、倫理は、善悪の問題を合理的に探求し、議論する。
・The Ecology of Freedom - p.72-73
・Bookchin, Murray, The Modern Crisis (Philadelphia: New Society Publishers 1986) - 'Market Economy or Moral Economy?' p.77-98 を参照。
・The Politics of Social Ecology - p.111-120

[50] これらの考えはマイケル゠アルバートとロビン゠ハーネルから一部拝借している。彼等は「参加型経済」という民主的経済計画システムを提唱し、開発した。
・Albert, Michael, Parecon: Life After Capitalism (London and New York: Verson 2003) - p.118-147

[51] Remaking Society - p.96-100(「エコロジーと社会」、126~132ページ)

[52] Toward an Ecological Society - p.186-188

[53] Howard, Ebenezer, Garden Cities of To-Morrow (Cambridge, MA: MIT Press 1965) - p.54(「新訳 明日の田園都市」、山形浩生 訳、鹿島出版会、2016年、84ページ)

[54] この数字は、クリストファー゠アレグザンダーからのものである。彼は、人口規模が1500人を超えると、人々は効果的に自治できなくなると主張した。さらに、理想的な住民規模は500人だと述べていた。
・Alexander, Christopher, A Pattern Language (New York: Oxford University Press) - p.4, 81(「パタン・ランゲージ-環境設計の手引き」、平田 翰那 訳、鹿島出版会、1984年、3~4ページ、44ページ)

[55] ニューイングランド地方の郡区モデルの歴史的概説については以下を参照:
・Mumford, Lewis, The City in History (New York: Harcourt, Brace & World, Inc, 1961) - p.332(「歴史の都市 明日の都市」、生田勉 訳、新潮社、1969年)

[56] 現在の都市計画ソフトウエアの例は、CityEngineを参照:
http://www.procedural.com/cityengine/features/2010.html (リンク切れ)
http://www.youtube.com/watch?v=lXVIuoPlMpY(要ログイン)

[57] これらの考えは主として「パタン・ランゲージ」からのものである。

[58] Remaking Society - p.165-174(「エコロジーと社会」、219ページ~231ページ)

[59] The Politics of Social Ecology - p.53-62, 121-130

[60] 1970年代にワシントンDCで行われたコミュニティ゠テクノロジー゠プロジェクトに関する興味深い概説は、以下を参照:
・Hess, Karl, Community Technology (New York: Harper & Row Publishers, 1979)

[61] RepRap(3Dプリンター)
・Shapeoko(コンピュータ制御製粉機)(リンク切れ)
・Lasersaur(コンピュータ制御レーザーカッター)(リンク切れ)
・Liberator(圧縮アースブロック゠プレス機)
・Global Village Construction Set も参照

[62] Morris, David and Hess, Karl, Neighborhood Power (Boston: Beacon Press, 1975) - p.16-45

[63] The Politics of Social Ecology - p.73-75

[64] The Politics of Social Ecology - p.81
このアプローチが持つ歴史的遺産と現代での可能性については以下を参照:
・The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship

[65] Neighborhood Power - p.34-37, 46
・The Politics of Social Ecology - p.55

[66] Neighborhood Power - p.83-96
・Chodorkoff, Dan, "Occupy Your Neighborhood"

[67] Legard, Sveinung, "Democratizing the Municipality, The Promise of Participatory Budgeting" (「自治体の民主化--参加型予算の展望」、森川莫人訳、『アナキズム』第十号、2008年、152~170ページ)

[68] 同様の考えについては OpenSourceEcology が提案している RepLab を参照。

[69] The Politics of Social Ecology - p.63-72

[70] The Politics of Social Ecology - p.121-130

[71] The Politics of Social Ecology - p.167-168