マリリサ・フィオリーナ
自由と孤独
アナーキーはあらゆる権威の拒絶である、それは愛情と孤独である。――L. フェレ―
ひとりでいるために、集団的生活のくびきから解放される。ここに真実に自由に生きる――慣習、依存、他者からの強奪から自由に生きる――もっとも合理的なシステムが存在する。個人を真に自由にするのは、ただ孤独のみである。
日々、私たちは偽善の犠牲者となり、ブルジョアのエチケットルールを暗唱する。「ありがとう……失礼……すみません」。他者はおせじをいう。批判する。他者が私たちを決定する。他者が私たちの弱さに寄生する。他者が私たちを騙す。他者が私たちから奪う。他者、つねに他者が、私たちの人生を乗っとる。
私たちを愛し、憎悪し、裏切り、思考を、言葉を、人生を奪うのは他者である。孤独、自己充足、勇気のよりよき島に心理的肉体的に逃れるために、彼らから離れるのは合理的なことだ。勇気だって? 困難だから勇気なのだ。ほんとうにひとりで暮らすことはできない。自分の感情を表現する、自己実現する、行動を単純化するためにでさえ、他者とのつながりは必要だ。
弱く、心理的に脆弱でさえある個人には、友情、愛情、団結がないことは耐えられない。そして、あきらかに、孤独の生活は単調に見える。というのも、やはり私たちの感情、冒険は、他者から生じ、他者とのなかで発展していくからである。
ほかの孤独がある。隠者の孤独よりも、たぶんもっと理解されやすい、自然に受容されやすいものが。自己をもう他者の一員と感じないとき、他者の生活様式に参加しないとき、他者に依存しない、他者を排除する、切り離された世界をつくるとき。もはや彼らの愛を、慈悲を、偽善を受けいれないとき――孤独は自由になり、反逆になり、社会に対する公然の挑戦となる。
アナーキスト個人は孤独である。その人生は他者の課すルールの外にある。近くにいて楽しく、話を聞かせることの楽しい個人を彼は選ぶ。その他の人間は、まるで存在しないか、あるいは敵のようにあつかう。個人主義者は社会の壁を超えて生きる――しかし追い出されたからではない……。彼らは肉体的というより、精神的に、逃亡者なのであり、彼らの孤独は愛されている。そして彼らの自由思想の実現なのである。