タイトル: 代議制政府と普通選挙権について
著者名: Mikhail Bakunin
発行日: 1870年9月
ソース: https://note.com/bakuto_morikawa/n/ne5f01c8c1249(2023年10月16日)

バクーニンは、労働者のブルジョア政治参加に反対だった。参加によって、プロレタリア階級が腐食され、支配者集団が永続すると恐れたからだ。代議制政府に対する彼の反対は、労働者による議会行動を望ましいとするマルクス主義政党と論争している中で鮮明になった。ただ、普通選挙に対する彼の反対は、ブルジョア民主国家を強化する限りにおいてであって、選挙プロセスからの棄権を融通の利かない信仰箇条にまで高めはしなかった。ある種の例外的情況下で、彼は、特定の限定された目的のためであれば、進歩的政治政党との一時的同盟を推奨した。友人で元弁護士のイタリア人アナキスト、カルロ゠ガンブッツィに宛てた手紙で、バクーニンは彼にナポリ選出の代議士候補者になるようアドバイスしていた:

驚かれるかもしれませんね。断固たる情熱的な政治棄権者である私が、友人達(原註:同胞団のメンバー)に代議士になるようアドバイスしているのですから--情況が変わっているからなのです。第一に、私の友人達は皆、あなたご自身こそ最も確実なのですが、私達の理念と原則にしっかり鼓舞されていますから、それらを忘れたり、歪めたり、放棄したり、旧式の政治的習慣に退却したりする危険が全くありません。第二に、時代はとても深刻になっており、万国の自由が脅威にさらされる危険が恐るべきものになっているため、善意ある人は誰もが救いの手を差し伸べねばなりません。特に、私達の友人達は、様々な出来事に最大の影響を行使できる立場にいなければならないのです。

フランソワ゠ムニョス著、バクーニンと自由 (Paris: Pauvert; 1965)、226ページで引用

もう一人のイタリア人アナキスト、チェルソ゠チェレッティへの手紙は、1871年のパリコミューン陥落後に欧州全土で起こった反動の時期に書かれた。バクーニンは、スペインは革命的情況が存在する唯一の国だと記し、スペインに広がる特殊な情況を踏まえ、進歩的政治政党と一時的に協力するようアドバイスしたと述べていた:

スペインの様々な場所から受け取った手紙に依れば、社会主義労働者達は非常に上手く組織されています。労働者だけでなく、アンダルシアの農民の間にも社会主義思想が(幸運にも)首尾良く広がっていて、こうした農民達も来るべき革命で非常に能動的な役割を演じる用意をしています。私達のアイデンティティを維持しつつも、現時点では、政党を援助し、その後に、この革命に明確な社会主義の特徴を与えようと努めねばなりません。(中略)スペインで革命が勝利を収めれば、自然に、革命は加速し、欧州全土に広がるでしょう…

フランソワ゠ムニョス著、前掲書、175ページ


あらゆる国家は、その起源や形態がどのようなものであれ、必然的に専制政治を導く。現代社会はこの事実を充分確信している。国家から若干の自由をもぎ取っている現代の諸国は、大急ぎでその支配者を(支配者が革命から出現し、全民衆に選出された時であっても)最大限厳格な統制下に置こうとしている。彼等が自分達の自由を守るために当てにしているのは、公的権威・抑圧的権威を付与された人々に、民衆の意志による本物の効果的な統制を行使することである。代議制政府下で暮らす全ての国で、自由が現実のものになるのは、この統制が本物で有効な場合だけである。従って、そうした統制が架空のものであれば、民衆の自由も同じように完全な虚構となる。

欧州のどこにも民衆が政府を真に統制している場所などないことは容易く証明されよう。しかし、ここではスイスに限定して、スイス政府に対する民衆統制がどのように行使されているのか見てみよう。この点でスイスに対して真であることは、他の国々に対してもっと真実なはずである。1830年頃、スイスの最も進歩的な州は、普通選挙権を制定して自分達の自由を守ろうとした。この運動には確固たる基盤があった。特権を持つ市民が立法議会を選び、都市と田舎の間に・貴族と平民の間に不平等な投票権が存在し続ける限り、そうした議会が任命した役人と役人が制定した法律とが、有力貴族による国の永続的支配を止めるなどあり得ない。従って、この体制を廃絶し、民衆の主権を重んじる体制で置き換えること、つまり、普通選挙権が必要だったのだ。

普通選挙が確立されれば、民衆の政治的自由が保証されると一般に期待されていた。しかし、これは大きな幻想だったと判明した。実際には、普通選挙権は急進主義政党の崩壊、少なくとも破廉恥な堕落を引き起こした。これは、今日紛れもなく明らかである。急進主義者(自由主義者)は民衆を騙そうとはしていなかったものの、自分達自身を騙したのだ。普通選挙権を使って民衆に自由を与えると約束した時、彼等は全く誠実だった。彼等はこの信念に燃え、大衆を扇動し、それまで確立していた貴族政府を転覆できた。今日、彼等は権力行使によって士気を挫かれ、自分自身への信頼と理想に対する信念を失っている。これが、彼等の憂鬱の深さ・彼等の腐敗の深刻さを説明してくれる。

実際、普通選挙権という理念は、一見すると非常に合理的で単純なものに思える。立法権力と執行権力が民衆選挙から直接生まれるなら、こうした権力は民衆の意志を誠実に反映するのではないだろうか?そして、この民衆の意志が自由と全面的幸福以外の何かを生み出すなどあり得ようか?

民衆の普通選挙で選ばれた執行機関と立法機関は、民衆の意志を代表しているはずだ、もしくは可能な限り代弁してくれるだろう。代議制政府という制度全体がこの虚構に基づく計り知れないほどの詐欺である。民衆は本能的に二つのことを追い求める。最大限の繁栄、そしてそれと共に、自分なりの生活を営み・選択し・行動する最大限の自由である。民衆は、その経済的利益について最良の組織を求め、それと共に、あらゆる政治権力・政治組織の全面的不在を求める。何故なら、あらゆる政治組織は民衆の自由を確実に無にするからだ。これこそがあらゆる民衆運動のダイナミックな大志である。

しかし、統治者の野望は、民衆の大志と真逆である。統治者は、法を制定・施行する人々を支配する。その民主的心情や意図がどのようなものであれ、統治者は、その高い地位のおかげで、君主が臣民を見下すように、社会を見下す。しかし、君主と臣民の平等などあり得ない。一方には、高い地位が必然的に引き起こす優越感がある。他方には、統治者が執行・行政権力の行使者として優越的立場にいることから生じる劣等感がある。政治権力は支配を意味する。支配があるところで、住民の多くは、支配者による支配の対象であり続けねばならない。そして、臣民は当然、支配者を憎むようになり、支配者は当然、もっと抑圧的な手段を使って民衆を制圧し、民衆の自由をさらに減じる。これこそ、人間社会が始まって以来の政治権力の性質なのだ。これは同時に、何故・如何にして、最も赤い民主主義者・最も声高な急進主義者だった人々が、一旦権力を握ると、最も穏健な保守派になるのかを説明してくれる。このような転向は通常、一種の反逆行為だと誤解されている。しかし、主たる原因は立場と観点の必然的変化にある。決して忘れてはならない。制度上の地位とそれに伴う特権が、単なる個人的憎しみや敵意よりも遥かに強力な動因なのだ。もし明日、労働者だけで構成される政府が普通選挙で選ばれたとしても、こうした労働者達、今は最も献身的な民主主義者達・社会主義者達は、明日には最も決然たる貴族政治主義者に、公然にせよ秘密裏にせよ権威原則の崇拝者・搾取者・弾圧者になってしまうだろう。

スイスでは、他国と同様、その政治的諸機関がどれほど平等主義的であろうとも、支配しているのはブルジョア階級であり、農民を含む労働者大衆は、ブルジョア階級が作った法律に従わねばならない。民衆は、政府機能に参加する時間も、必要知識もない。ブルジョア階級にはどちらもある。従って、権利としてではなく、事実として、ブルジョア階級だけが統治の特権を持つ。だから、スイスにおける政治的平等は、他国全てと同様、稚拙な作り話、絶対的な詐欺なのである。

今日、ブルジョア階級は、その経済的・政治的特権のおかげで、民衆から遙か遠くにいるのだから、その統治と法律が真に民衆の感情・考え・意志を表現できるわけがない。不可能だ。日常経験は証明している。立法だけでなくその他あらゆる政府部門において、ブルジョア階級は民衆の正当な利益にではなく自身の利益増進に主眼を置く。確かに、あらゆる地区の役人と議員は、直接的に・間接的に、民衆が選んでいる。確かに、選挙の日になれば、公職を求める高慢なブルジョアであっても、自分の陛下たる「主権者国民様」のご機嫌をとらざるを得ない。主権を持つ民衆の下に、畏まってやって来て、皆様にお仕えする以外に何の望みもございませんと公言する。公職を求めている人々にとって、これはすぐに終わる不愉快な雑用であり、だからこそ辛抱強く耐える。選挙の翌日、誰もが自分の仕事に精を出す。民衆は改めて苦役に戻り、ブルジョア階級は利潤と政治的悪巧みに奔走する。彼等は、次の選挙になるまで会うこともなければ、互いに挨拶を交わすこともない。そして、この茶番が繰り返される。民衆が統制する代議制制度が民衆の自由を唯一保証するというのなら、明らかに、この自由もまた完全な偽物なのだ。

この制度の明らかな欠陥を矯正するために、チューリッヒ州の急進的民主主義者は住民投票、民衆による直接立法を導入した。住民投票も無駄な矯正法である。新たな詐欺である。議員が作った提議や関係者団体が推進する法案に賢明な投票をするためには、そうした法案を徹底的に研究する時間と必要な知識を持たねばならない…。住民投票が意味を持つのは、提出された法案が全ての人に極めて重大な影響を及ぼし、全ての人を奮起させ、関係する諸問題が全ての人々に明確に理解されているという非常に希な場合だけだ。しかし、ほとんどの提出法案は非常に特殊で、非常に複雑で、究極的に人々にどのような影響を与えることになるのか理解できるのは政治的専門家だけである。もちろん、民衆は提出法案を理解しようともせず、注意すら向けようともせず、贔屓の弁士に促されるまま盲目的に投票する。

代議制制度が住民投票によっても改善されないのならば、もはや民衆による統制などはない。自治の仮面を被った代議制政府の下で、真の自由など幻想である。経済的困窮状態のために、民衆は無知であり、自分達に密接に影響する事柄しか意識しない。民衆は自分達の日常的事柄をどうすべきか分かっている。自分が精通した事柄から離れると、混乱し、自信がなくなり、政治的に当惑してしまう。共同体の事柄については、健全で実際的な常識を持っている。自分達の中で誰が最も有能な役人なのか熟知しており、選び方も分かっている。こうした情況下であれば、有効な統制は充分可能である。公的仕事が市民の監視下で行われ、市民の日常生活と極めて直接的に関係しているからだ。だから、自治体選挙は常に民衆の真の態度と意志を最も良く反映するのである。(原註:この文脈から、明示してはいないものの、バクーニンは、顔をつき合わせた民主主義が現実的なのは、住民が数十万人・数百万人いる大都市ではなく、小規模や中規模の地域社会だと述べていると推察できる。)州政府と郡政府は、直接選挙されていたとしても、もはや民衆を代表しているとは言い難い。多くの場合、民衆は関連する政治的・司法的・行政的法案を熟知してはいない。そうした法案は自分達と直接関係する事柄ではなく、自分達の管理の及ばないところにある。地方自治体と地方政府の責任者達は民衆から遙かに離れた別な環境に住み、民衆は彼等についてほとんど何も知らない。民衆は指導者の性格を個人的に知らず、公的な演説でしか指導者のことを判断できない。こうした演説は、民衆を騙して自分を支援させようとする嘘で固められている。地方と地元の問題に対する民衆管理が極度に難しいのなら、連邦政府や中央政府を民衆が統制するなど全く不可能である。

公共問題と法律の大部分は、特に地元地域と地元団体の福祉と物質的利益を扱う場合は、民衆に知識や関心・介入がなければ、民衆には理解できないやり方で決定される。民衆は全く気付かないまま、破滅的な政策に深く関わってしまう。民衆には、こうした法律全てを研究した経験も、研究する時間もない。従って、自分達が選んだ代表者に全てを委ねる。代表者達は、当然、民衆の繁栄よりも自分達の階級利益を促進する。代表者の最大の才能は、その苦々しい法案に砂糖をまぶし、民衆の口に合うようにして与えることである。代議制政府は、偽善と永久虚偽の制度なのだ。その成功は、民衆の愚かさと世論の腐敗にかかっている。

そうであれば、我々、革命的社会主義者は普通選挙権を望まないのだろうか?制限選挙権や独裁者を望むのだろうか?全く違う。我々の主張はこうだ。普通選挙権は、それ自体を単独で考察し、経済的・社会的不平等に基づく社会に適用すると、民衆を陥れる詐欺と罠以外の何物でもない。ブルジョア民主主義者の忌まわしい虚偽、自由主義と正義のマントの下で所有階級による永続的民衆支配を強固にし、民衆の自由を失わせる絶対確実な方法である。普通選挙権を使ったところで、民衆の経済的・社会的平等は獲得できない。普通選挙権は、常に、必然的に、民衆に敵対する道具であり、ブルジョア階級による事実上の独裁を支えているのである。