タイトル: アナーキーと組織:左翼への手紙
著者名: Murray Bookchin
発行日: 1969
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/ecology/bookchin03.html(2023年4月19日検索)
備考: このエッセイは、元々、ヒューイ=ニュートンによるアナキスト的組織形態への攻撃に対して返答するために書かれ、New Left Notes1969年1月15日号に掲載された。原文は、"Anarchy and Organization: A Letter to the Left"で読むことが出来る。(訳者)(Anarchy In Japan より)

アナキストは革命活動を促進するための組織を信頼していないという神話が昔からある。この神話は、数ヶ月前の「L'Express」誌におけるインタビューでマーキューズによってその墓場から甦り、「New Left Notes」誌が先頃の「全国会議特集」に転載することを決めたヒューイ=ニュートンの「自己防衛の擁護」という論文によって再び繰り返された。

「組織」か「非組織」かという問題を論じることは馬鹿げている。この問題が真面目なアナキストの間で論争になったことなどない。多分、古典的自由主義とアナーキーの極端な変形にそのイデオロギー上の根源を持つ独りぼっちの「個人主義者達」は例外であろう。そう、アナキストは組織--国内組織と国際組織--を信頼しているのだ。アナキストの組織は、ルーズで非常に権力分散型の集団から、非常に協同的な形態で機能していたスペインのFAIのような何千もの人を抱えた「前衛的」運動まで幅広いのである。

未解決となっている本当の問題は、組織か非組織かではなく、いかなる種類の組織なのか、である。様々なアナキスト組織に共通していることは、それらが、上から巧に設計されたのではなく、有機的に下から発達しているということである。アナキスト組織は、創造的な革命的ライフスタイルを、創造的な革命理論と組み合わせている社会運動なのだ。政治政党のように、その生活の中心が周囲の円熟したブルジョア環境と区別がつかなくなってもいなければ、そのイデオロギーが厳格な「試験済みのプログラム」へと還元されもいないのだ。アナキスト組織は自分達が確立しようとしている解放社会が出来るだけ人間的になるように熟慮しようとしている。ヒエラルキー・階級・権威という現在普及しているシステムを卑劣にコピーしようとしているのではないのだ。 アナキスト組織は、兄弟姉妹のように親密な集団の周りに創られる。その協働して活動する能力は、独創力・自発的に辿り着いた確信・深い私的参画に基づいているのである。従順な構成員によってその肉が付けられ、数多くの何でも知っている「指導者」によって上から操作された官僚制度的機関ではないのである。

自由を確立するために自分達が行わねばならないことは「単に個々人が自分自身を表現する」ことだと信じている「アナキスト」についてヒューイは語っているのだが、私にはヒューイが誰のことを論じているのか分からない。ティム=ラーリーのことだろうか?アレン=ギンスバーグのことだろうか?ビートルズのことだろうか?私の知っている革命的無政府共産主義者--私は充分それを代表するだけの人を数多く知っている--でないことは確かだ。また、ヒューイがその事実を、フランスにおける5月-6月暴動から得ていたのでもないことは明らかだ。フランス「左翼」の「共産党とその他の進歩的諸政党」は、ヒューイが信じているように単に「民衆の後からついて行った」だけではなかったのだ。 これらの「規律正しい」、「中央集権化された」組織は、あらゆる手段を使って、革命の邪魔をし、伝統的議会制の方向へ革命を引き戻そうとしていたのだった。「規律正しく」、「中央集権化された」トロツキスト組織FERや毛沢東主義の諸団体ですら、5月に起きた初めての路上闘争の直前まで、革命的学生達は「極右」・「冒険主義者」・「ロマンチック」だとして反対していたのだ。明らかに、「規律正しく」、「中央集権化された」フランス「左翼」組織の大部分は、これらの出来事の後から乱暴についていたのであり、「共産党と進歩的諸政党」の場合は、恥知らずなことに、学生達と労働者達を裏切ってシステムに味方したのだった。

興味深いことに、ヒューイは、フランスのスターリニスト三文文士どもが「民衆の後をついて行った」だけだったと非難している一方で、アナキストとダニー=コーン=ベンディットは民衆を「無理やりドゴールに戻らせて」いたと述べている。私は5月-6月暴動の後短期間フランスを訪れた。私はどれほどダニー=コーン=ベンディット・3月22日運動・アナキストが、ドゴール政権を交代させるために、断固として集会諸形態と活動委員会を「構造的プログラム」(実際、それは単なる「プログラム」以上のものだった)に発展させようとしていたのかを何の苦もなく立証することが出来る。私は、どのようにして彼らが労働者に工場を掌握しつづけさせ、農民との直接的経済接触を確立しようとしたのか、とどのつまりは、どのようにして彼らがフランスの政治経済構造を創造的で実行可能な革命構造と取り替えようとしていたのか、を非常に明確に示すことも出来るだろう。このことを行う中で、彼らは、数多くのトロツキストや毛沢東主義のセクトを含んだ「規律正しい」、「中央集権化された」フランス「左翼」諸政党から繰り返し妨害を受けていたのだった。

論破する必要のあるもう一つの神話がある--社会革命はしっかりと訓練を受けた幹部によってなされ、高度に中央集権化された統率力によって導かれるという神話である。全ての偉大な社会革命は、根深い歴史的諸力と矛盾の作用であり、革命家とその組織はそれに対してほんの少しの貢献しかせず、完全に判断を誤っている場合が大部分なのである。諸革命それ自体は、自発的に勃発するのだ。「栄光ある政党」は、通常これらの出来事の後をついてくる--そして、蜂起が成功すると、徴用し・操作し・蜂起をほとんど常に歪めてしまうために割り込んでくるのである。ここで、革命がその本当の危機的段階に達するのである。「栄光ある政党」は、「革命を保護する」というその神聖なる使命の中で新たなヒエラルキー・威嚇・権力を再び作り出すだろうか?それとも、ヒエラルキー・優越的支配・権力それ自体の解消と共に、革命の中に解消していくだろうか?もし、革命組織が、触媒が完了するように、革命によって作り出された民衆構造へと一旦その機能を解消するように計画されていなければ、革命組織の構造はそれが作り出そうとしているリバータリアン社会とは似ても似つかなくなる。そのために、将来の革命的諸構造へと消えうせることになるかもしれない--そして、その組織は、過去の諸構造を革命へと持ちこむ媒介役となるのだ。それは、「衰える」どころか、それ自体の存続のために全くの古臭い条件のまま永続する自己永続的有機体、国家の機械となるのである。

しっかりと「中央集権化され」、「規律正しい」政党が革命の成功を促すという主張は、現実というよりも全くの神話なのである。ボルシェヴィキは、1917年10月から1921年3月の派閥的闘争によって分裂し・分断し・穴だらけになってしまった。皮肉なことに、レーニンが自分の党を完全に中央集権化し、規律を正したのは、最後の白軍がロシアから追放された後になってのことだったのだ。遥かに現実的なことは、終わりのない裏切りが、社会民主党や共産党のようなヒエラルキー的で、「規律正しく」、高度に「中央集権化された」「左翼」政党によって工作されている、ということなのだ。

彼らは、転覆しようとしている正にそのシステムを構造上モデルにしている全ての組織(その美辞麗句がどれほど革命的だったにせよ、その目標がどれほど良い意図から生じてきたものだったにせよ)は、ブルジョア諸関係によって吸収され、堕落させられるようになる、という事実にほとんど必ずといっていいほど従っていた。外見上効果的に見えることがその最大の失敗の源泉となるのである。

委員会・調整・高い自己懲戒の基準だけにしか解決できない重大な諸問題は生じる。アナキストにとって、委員会は、その存在を必要とするような実際的課題に限定されるべきであり、一旦その機能が終了すると解散しなければならない。調整と自己懲戒は、革命家の高い道徳的・知的能力の力で自発的に確立されねばならない。これを追求しないなど、心のないロボット・権威主義的規律の怪物・操作エージェントを「革命家」として受け入れることである。幾許かでも自由だと見なし得るいかなる社会に対しても、このようなエージェントの人格と見解は全く正反対、実際アンチテーゼなのだ。

真面目なアナキストならば、「帝国主義的構造を組織的集団によって一掃する必要性」に関するヒューイの弁護に反対しはしまい。可能ならば、我々は共に活動しなければならない。我々は、今日、世界の帝国主義の中心地である合衆国において、経済とテクノロジーが発展しているということも理解しなければならない。それは、昔、マルクスが国家の必要性を正当化するために信じていた諸問題全てを、ほとんど一夜にして取り除くことが出来るほどのものなのだ。未だに石炭・粗悪な機械・長時間にわたる過酷な労働・物資の不足に基づいていたテクノロジーの時代に根源を持っている理論的立場から、現代の潜在的な物資の豊かさと人工頭脳化された生産の経済を扱うなど致命的な誤りであろう。我々は毛沢東の中国やカストロのキューバから物事を学ぼうとするのを止める時代にいるのだ--そして、我々は、我々の正に眼下にある注目すべき経済的現実を見る時代にあるのだ。それは、一旦北米のブルジョア巨像を倒すことが出来、その諸資源を人間性に貢献するように使うことが出来れば、全ての人間が享受出来るほどのものなのだ。