タイトル: アナキズムとヴィーガニズムの交差性
サブタイトル: ヴィーガナーキズムVeganarchism動物解放から完全解放へ
著者名: かがわよしみ
発行日: 2026年5月
備考: ヴィーガン歴25年の著者が、アナキズム、ヴィーガニズム、そしてヴィーガナーキズムを詳しく解説します。

はじめに

昨今、「ヴィーガン」という言葉の認知度が高まってきた。大きなスーパーならば、「ヴィーガン」と書かれた加工食品が置いてあることもある。ネットショップなら、さらに多くの商品を見つけられるだろう。実際、ベジタリアン・ヴィーガン専門の食品会社(オーサワジャパンなど)が、ヴィーガン対応加工食品を販売している。

こうしたヴィーガン専用の企業以外にも、ヴィーガン対応食を取り扱う企業は増加傾向にある。例えば、大手メーカーの中にも、大塚の「ボンカレーベジ」やカゴメの「プラントベース」、ミツカン運営の「ZENB」など、ヴィーガン商品の製造に乗り出しているところが出てきている。加えて、CoCo壱番屋の「ココイチベジカレー」や、ロイヤルホストの「肉ベジ野菜カレー」など、飲食チェーン店にもヴィーガンメニューが登場するようになった [1] 。

このように、ヴィーガンは注目を集めるようになっているが、インターネットで検索すると“完全菜食主義者”と表示され、なんだか厳格で大変そうだなと感じる人もいるだろう。加えて、よく見かける“ヴィーガンの人には食べられないものがあります”という説明文も、特殊な印象を受けやすい。これでは、宗教の戒律のように受け取られてしまう。食べられない(食べてはいけない)のではなく、“食べない(食べたくない)”という選択なのであって、禁欲的に食べたいのを我慢しているわけではないのである。

一方、ヴィーガンにもさまざまなタイプがある点にも留意する必要がある。本当に厳格なヴィーガンから、なるべくヴィーガン、時々ヴィーガン等まで、その中身は様々である。同一人物でも、時によって、その間を行き来している場合もある。

こうしたヴィーガンの実践を、筆者は25年前から続けている。そのような中、十数年前に、インターネットのあるサイトで見かけた「筋の通ったアナキストなら、ヴィーガンになるのも必然(自然)」という一文が目にとまった。当時、いろいろ調べてみたが、日本語のインターネット検索での内容は、ほとんどが食事に関することで占められており、アナキストとの関連性はわからなかった。

こうした筆者の疑問を今回改めて解き明かそうと考えたのが、本論文の動機である。手がかりとして、まず日本の先行研究を探したが、アナキズムとヴィーガニズムを結びつけるものは見つけられなかった。日本ではアナキズム関連の情報が非常に少なく、海外の情報に頼らざるを得なくなったのである。

そこで次に、インターネットで検索していくと、そのものズバリのタイトルの文献を発見した。早速、イギリスから取り寄せた書籍を見ていくと、これまで知らなかった考え・論理や、アナキズムとヴィーガニズムの関係、他の運動との関わりが、アナキスト・ヴィーガン・学者・活動家のさまざまな寄稿者によって論じられるとともに、そこではアナキズムとヴィーガニズムがVeganarchism(ヴィーガナーキズム)として命名され、動物の解放とアナキズムを組み合わせた哲学と実践であると定義されていたことがわかった。さらにこの思想と実践が、Total liberation(完全なる解放)を目指していることも判明した。

このアナキズムとヴィーガニズムに関する文献調査を通して、日本では馴染みの薄いそれらの思想・哲学を知り、異なる価値観の理解を深めることにより、新たな視点で世界を見ることができるようになるのではないかと考えるようになった。また、異文化理解・多文化共生の取り組みの一助ともなるだろう。

そこで、本論文では、こうしたヴィーガナーキズムの可能性を具体的に検討していきたい。まず第1章で、アナキズムの歴史、第2章でヴィーガニズムの歴史をとらえた上で、第3章で双方のつながりの歴史と交差性、第4章で動物解放から完全解放へと考察を進め「おわりに」で、この思想全体の結論と意義を述べたい。

第一章 アナキズムの歴史

第1節 アナキストとは何か

本章では、まずアナキズムの思想とその歴史を確認しよう。

もともとアナーキーの語源は、古典ギリシア語アナルキア(anarkhia)(名詞)あるいはアナルコス(anarkhos)(形容詞)とされている。いずれも「指導者」(arkhon)と否定の接頭辞「不在・~なしに」(an)による合成語であり、「アナルキア」「アナルコス」は、紀元前5世紀頃までは指導者・指揮官あるいは執政官(アルコンarkohn)の不在という意味で用いられた。それをきっかけに、アナーキーの意味は「政治的カオス」「政府の不在」等の否定的な意味合いをもつようになった[2] 。

18世紀に入ると、カントが、「権力なき法と自由」に対してアナーキーと呼ぶようになり、比較的中立的な意味で用いるようになり、19世紀には、経済も含めた「無秩序」や「カオス」という意味まで広げられるようになった。同時に、「アナキスト」という呼称も、フランス革命期から「混乱をもたらす者」といったきわめて否定的な意味合いを帯びるようになり、政敵を非難する語として使われるようになった[3] 。

しかし、こうした捉え方を大きく転換したのが、アナキズムの代表的思想家であるピエール=ジョゼフ・プルードン(1809~1865)である。プルードンは、アナーキーを「支配者の不在」もしくは「秩序」と定義し直し、そのような理想を目指す者を「アナキスト」と呼ぶように提起した。彼は、アナーキーとアナキストという概念をとらえ直し、自らの思想的立場を「アナキスト」と称する等、ポジティブな意味にとらえ直そうとしたのである[4] 。

さらに、アナキズム思想を拡げる役割を果たしたのが、バクーニン(1814~1876)である。彼は、1860年代以降、アナーキーを国家の破壊や「下から上へ」「周辺から中心へ」といった、革命を通じて実現される理想社会のイメージとして描き直した。こうして、19世紀後半以降、アナキズムが「国家なき社会の実現」を目指す思想として広がるようになり、その思想に共感して「アナキスト」と称する人間が増えていった[5] 。

こうして、アナキストと革命の結びつきが表れるようになった。アナキストが注目された象徴例が、1886年5月に起きた「ヘイマーケット事件」である。この事件は、米国のシカゴで、労働者の集会を中止させようとした警官隊に対して爆弾が投げ込まれたとされる事件である。その際、アナキストが証拠なしに逮捕され、うち5名が死刑判決、1名は獄中で死亡、4名が公開で絞首刑に処された。これらアナキストの多くがドイツ系移民であったため、米国ではアナキストと移民・外国人、あるいは爆弾・暴力がイメージとして結びつけられることになった[6]。

また、暴力革命を支持していた人々のあいだでは、さまざまな「行動」を通じてプロパガンダを展開することで「革命の精神」を民衆に喚起できると信じられていた。そのため、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺をはじめ、国王や首相・大統領等の暗殺が発生し、アナキスト=テロリストのイメージが強化された[7]。

一方、ヨーロッパや米国でテロルが続くと、アナキストに対する国家の弾圧が強まるようになった。また、テロルがかえって労働者の支持を得られなくなる中、暴力的な行動主義ではなく、国家のない共同体こそが理想社会のモデルであるという考えもひろがるようになった[8]。

20世紀に入ると、多くのアナキストがロシア革命(1917年)やスペイン革命(1936年)に参加し、工場の自主管理や農地の集団化といった運動にも関わった。しかし、ロシアではボリシェヴィキによる弾圧、スペインではファシストへの敗北により、アナキズムの拡がりが抑圧され、彼らの思想と実践は失敗であると見なされるようになった。しかも、スペイン戦争での敗北により、アナキズム運動は終焉したとまで言われるまでになった[9]。

ところが、アナキズム思想は、20世紀後半以降、再び注目されるようになる。1970年代からはフェミニズムの影響で、男性中心だったアナキズム運動が変容し始めるとともに、エコロジーとの結びつきを強める中でラディカルな環境運動が生まれた。さらに、中央集権型社会主義体制であったソ連が崩壊した後、1990年代になると、反グローバリゼーション運動の中で再びアナキストが現れるようになった。経済のグローバル化で地球上のあらゆる個人の生が資本主義システムに支配されることに抵抗し、今・ここで、自分たちの理想を実現することを目指そうとしたのである。人類学者でアナキストのデヴィッド・グレーバー(1961―2020)は、その担い手を新しいアナキストと呼んだ[10]。

こうした新しいアナキストが共感した反グローバリゼーション運動の一つが、メキシコのチアパス州で蜂起したサパティスタ民族解放軍の抵抗である。30年近く、メキシコの周辺部で自治を行い、資本主義と異なる社会を維持しているサパティスタは、依然として現代のアナキストにとって一つのモデルと見なされている[11]。

さらに、2014年には、シリア北部ロジャヴァで、クルド人が中心となった社会革命[12]が実施された。ここでは、国家という形態をとらず、ボトムアップ型の民主的自治を実現しようとしたのが特徴的である。ここでの基礎は、ブクチンのアナキズム的自治体主義であり、中東という家父長主義が強い地域で女性の解放が追求され、多様な民族と宗教の共存の実現が目指されている。そして、これに賛同する世界中の人々がロジャヴァを支援し、義勇兵として戦闘に加わったが、この革命を準備したのは、暴力というよりもコミュニティでの長年にわたる地道な実践だった。したがって、現代のアナキストたちによる日常の小さな相互扶助活動は、前衛党主導とはちがう形で実現される革命の可能性を持っているといえる[13]。

第2節 アナキズムの概念

では、アナキズムには思想的にどのような特徴があるのだろうか。

まず、John C. Alessio [14] は、クロポトキンとマルクス/エンゲルスの論争から発展したアナキスト思想は、明らかに国家の抑圧的性質とそれに対する対応策を扱っていた[15]と述べている。

一方、Will Boisseauは、「アナキズムはアナキストの数だけ存在する、あるいは⼆⼈のアナキストにアナキズムを定義させれば3つの意⾒が⽣まれるといわれることがある[16]」と、アナキズムの多様性を述べている。また、Anthony J. Nocella II [17] によると、アナキズムは反教条主義的である一方で、共通の原則によって定義されるため、定義するのは容易ではないが、1793年に『Political Justice』 を著したウィリアム・ゴドウィン [18] によって初めて紹介され、定義づけられた。一方、マックス・シュティルナーは1844年に『The Ego and His Own 』を執筆し、個人と社会の複雑な関係を考察し、個人はコミュニティの積極的な一員である責任があり、コミュニティは協力し合う個人によって構成されると主張した [19] 。

他方、Veganarchism: Philosophy, Praxis, Self-criticismの著者であるJoseph Parampathuは、アナキスト哲学の確固たる基盤は、あらゆる疑問に明確な答えを与えることではなく、考察せざるを得ない問いを投げかける有用な理論にある。こうした問いが前提とする、その前提を問い直すことで、我々の先入観を形成する階層構造への根本的な理解に到達し、そうした先入観に縛られない新たな未来を構想できるようになると主張する[20]。

また、アナキズムは「反体制」であると称されることが多い。では体制とは何か。Brian A. Dominickによると、「圧倒的多数の人々は、政府・家族・結婚・教会・企業・学校など、私たちの生活を支配する制度によって条件付けられた方法で世界と自分自身を見ている。これらの制度は私が『体制』と呼ぶものの構成要素である。体制とは、相対的少数派の権力を永続させることのみを目的として存在する実体だ。そのエリート層の権力への渇望に支えられ、体制は必然的に抑圧によって世界の残りの部分から権力を搾取する。体制は多くの抑圧形態を用いる。そのほとんどは広く認知されているが理解されることは稀であり、ましてや反対されることはほとんどない。第一に階級差別がある。これは経済的抑圧である[21]」と述べる。

一方、松村圭一郎は、アナキズムは秩序を壊す思想ではないとする。例えば、災害などで政府に頼れなくなる事態では、秩序は上から与えられるものではなくなる。そのような場合、いかに自分たちで下からそれをつくりだせるかを考え、人類の営みから隠れた可能性を探る思想がアナキズムだと述べる[22]。

最後に、デヴィッド・グレーバーの議論を紹介しよう。彼は、コンセンサスは参加型の意思決定の実践というだけでなく、自己統治のための代替的システムを示すものだと考えている。例えば、米国で2011年に発生したオキュパイ運動では、参加者たちが総会において、透明性を保ちながら直接的に決定できる政治が実践された。そこでは、既存の代議制におけるエリート主義や企業腐敗に抗して、民主主義的な意思決定を実践することが可能であると示したとする。つまり、コンセンサス民主主義は、ひとつの反資本主義運動としての自己統治=市民による統治であり、それはアナキズムの思想的実践と通じるものであると主張したのである[23]。その意味で、アナキズムの訳語として最も適切だと思えたのは「無支配主義」であり[24]、国家や資本主義など、世の中のあらゆる支配を排し、一人一人が自らの意思で互いに助け合うことによって、自由で平等な社会を築こうという思想ということができる[25]。

第3節 アナキズムの実践

では、アナキズムは現代においてどのように展開されているのだろうか。

まず、中小零細事業主、いわゆるプチ・ブルジョワジーへの評価である。ここでなぜプチ・ブルジョアジーを取り上げたかというと、現代では様々な運動を実行できる(時間などがある)のは、プロレタリアートではなく実際にはプチ・ブルジョアジーであるという考えからである。ジェームズ・C. スコット[26]は、この点について、小売店主だけでなく、小規模自作農や熟練職人、行商人、自営の専門職、手押し車や手漕ぎ舟をもつ零細商人等を含めると、相当大きな階級になると述べる。そして、彼らは自律性に乏しく財産は微々たるものであるが、他人から指図されることなく、自らが働く日やその内容をコントロールしている。自律性と自由・自尊心の感覚への欲望は、世界中の人びとにとっての社会的希求そのものといえるととらえている[27]。その意味で、小規模自作農や小店主の多い社会は、平等性と生産手段の大衆所有制に近い社会と主張している[28]。

この点を、山田広昭は積極的にとらえ、プチ・ブルジョワジーの再評価を行っている。彼は、資本主義への対抗運動が、有機農法や産消連携など、なぜ農業に依拠して展開されるのかに着目し、それらがアグリビジネスによる資本主義的生産様式への全面的屈服への抵抗運動であると考えている[29]。

また、アナキストは、教育においても独自の思想と実践を行っている。スコットは、教育制度についてこう述べている。

なんと皮肉なことに、これを書いている私も、この本を読んでいる読者のほとんども、このラット・レース[愚かで激しい出世競争]の勝者であり、受益者である。(中略)このラット・レースに「勝利した」私たちは、敗れていれば手に入らなかったであろう機会と特権を終生享受することになる。私たちは、この勝利がもたらす肩書、優越、偉業、自尊心の感覚を将来にわたってもつことになるであろう。(中略)そして、この勝利が、経済・社会的上昇の機会を私たちに大変有利に提供する社会資本を代表していると単に考えてみよう。この生涯にわたる特権は、これらの制度が作り出した人間のおそらく5分の1が享受するに過ぎない。それでは残りの人びとはどうだろうか。競争に敗れた80パーセントの人びとはどうなるのだろうか[30]。

このように、既存の教育制度への批判を展開している。同様に、公式な学びの場の無視への批判も強調される。現状の教育では、制度化された学識が優遇される結果、教育機関の外にある重要な学びが黙殺されると同時に、不平等な権力関係が再生産されるととらえている[31]。そして、「多くの場合、教育は探究心や反逆の本能を抑制する。(中略)社会運動に新規参加する個人の多くは、この慣習的な教育パラダイムを、自ら参加しようとする活動家コミュニティに当てはめてしまう。その結果、彼らは対等な発言権と独立した行動能力を持つ積極的参加者ではなく、受動的な情報受容者となってしまう。この依存関係と階層的構造は、アナキスト的・教育的・解放主義的価値観と根本的に矛盾する[32]」と主張される。

一方、ルース・キンナは、アナキストの社会化の概念が教育の枠組み、提供、計画を形作るとして、国家の教育との違いを表1のようにまとめている[33]。

表1
:アナキストの教育 / 国家の教育
概念: 自制と社会化の教育 / 奉仕と社会化の教育
管理: コミュニティに根差した教育 / 国が運営する教育
方法: 実践にもとづいた学習 / 職業訓練
目的: コミュニティにおいてよき評価者となることを学ぶ / 社会において生産的な一員となることを学ぶ
出所:Ruth Kinna, The Government of No One, 2019/2020, 米山訳 p.103 より転載。

こうして、学校制度に対してアナキストは批判的である。学校に通うということは、学校という搾取的な文化の権威の中で、それを受け入れ服従することを学ぶこと。と認識しているのである[34]。

さらに、アナキストは、コンセンサスと自治を重視しているのも特徴的である。例えば、栗原康は、2007年、ドイツ・ハイリゲンダムサミットの様子を、つぎのように描いている。

現地には1万5000人ほど収容できるキャンプ地が3か所も用意されていた。基本カンパ制、カネがなけりゃタダでもよくて、メシもカンパで食べられる。しかも、誰でも食えるようにってんで、ビーガンフード(中略)で統一されていた[35]。

ここで重要なのは、行動を決める上で、1万5000人でも全員一致のコンセンサス(合意形成)を採用していた点である[36]。

加えて、強調されるのが、自由と自治である。例えば、Parampathuは、資本主義への対抗策の例として、ファーマズマーケットを挙げている。彼は「地域密着型の農産物直売所は、市場を資本主義から切り離すユニークな場を提供する。そこでは非効率性が生じ、大規模供給業者の採算性を損なう一方で、小規模な地元農家が経済的に成功する機会を提供する[37]」点に着目している。

あわせて、カトリーヌ・マラブーは「アナキストにとっては、『アルケーが君臨する』秩序こそが無秩序なのである。なぜなら、そのような秩序は自由なかたちで合意されたものではないからだ[38]」と主張し、現代の事例として台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンを取り上げている。タンは、インターネット上でプログラマーたちによって実験されてきたアナキズムのユートピアの保守者であり、古典的な政治的意思決定をヴァーチャル空間における参加型民主主義に置き換える実践であるととらえる[39]。

そうした点を、田中ひかるは21世紀のアナキズムの特徴ととらえている。それは、「古典的アナーキズム」とは異なり、アナーキズムというイデオロギーやそれを基盤にする組織や運動由来ではなく、ラディカルなフェミニズム運動や、「アース・ファースト!」のようなエコロジー運動を入口にしているという点である。実際、東欧・中東・東南アジアの若いアナーキストには、フェミニズム、エコロジー、「フード・ノット・ボムズ (Food Not Bombs)」、あるいは、パンク・シーン、動物の権利を擁護する運動や動物解放運動を経由してアナーキストになっている人が多い。その意味で彼らの実践は「新しいアナーキズム」ということができよう[40]。

ここで注目されるのが、アナキストのキャンプに、ヴィーガン食が登場している点である。そこで、次章ではヴィーガンに視線を移そう。

第二章 ヴィーガニズムの歴史

第1節 ヴィーガンとは何か

まず、ヴィーガンとは何かを確認しておこう。

Veganarchism: Philosophy, Praxis, Self-criticismの著者であるJoseph Parampathuは、ヴィーガンと宗教の関係について、以下のように述べている。

中世の著述家の中には、倫理的理由から肉・豆類・魚を断つピタゴラス式食事法に従う人々を描写した者もいる。ピタゴラス派は「痛みや苦しみを経験するあらゆる存在に、不必要に苦痛を与えるべきではない」と信じていた。これは17世紀の哲学者ジェレミー・ベンサムが「動物は道徳的配慮に値するか」という問いを考察した際に示した倫理的基盤と同じである。彼は「問題は、動物が理性を持つか、話せるかではなく、苦しむことができるかである」と述べた。プロテスタント教派であるセブンスデー・アドベンチスト教会は、創設当初から健康と幸福を重視し、一般的に菜食主義を実践し、多くの信徒がヴィーガン生活を送っている。ジャイナ教徒や仏教徒、そして多くの集団や文化もまた、自らの生態系世界とのつながりを価値観において重要視している[41]。

その上で、Veganという概念を作ったヴィーガン協会の説明を紹介しよう。

ヴィーガン、その動機は往々にして宗教的・精神的な理由によるものであった。より近代的な時代において、「ベジタリアン」という言葉の初期の用法(1830年代)は、動物性製品を一切摂取せず、ヴィーガンかつ主にローフード(生食)中心の食事を摂る人を指していた。この初期の「ベジタリアニズム」は、衣類や生活の他の側面にも及び、1944年にヴィーガン協会が誕生した際に確立されたヴィーガニズムの概念と比肩し得るものであった。この言葉は、1838年に神秘主義者ジェームズ・ピエールポント・グリーブズが設立した学校兼共同体「ハム・コモンにあるアルコット・ハウス・コンコルディウム」の関係者によって初めて使用されたとみられる。「vegan」という語は「vegetarian」の頭文字と末尾の文字から作られた。

ヴィーガンとは、このような流れで形成されたものである。歴史的には、1847年にベジタリアン協会が設立されたが、当時はまだ食事の中に卵と乳製品が含まれていた(現在も同様)。その後、1944年にベジタリアン協会から、非乳製品菜食主義者たちは別組織を結成すべきだという提案がなされ、エルシー・シュリグリー、ドナルド・ワトソンら5名がロンドンのホルボーンにあるアティック・クラブに集まり、新組織の設立を協議し、ヴィーガン協会が設立された。さらに、1948年には、キャサリン・ニモとロビン・アブラモウィッツがイギリスのヴィーガン協会の支援を得て、米国にもヴィーガン協会が設立された。

さらに、ヴィーガンの認知度を背景に、1986年には「ヴィーガン」という語が『オックスフォード英語辞典補遺IV』に掲載された。ここでの定義は「原則として動物由来の食品を一切摂取しない者。厳格な菜食主義者」とされている。

では、ドナルド・ワトソンは、なぜあの時代にヴィーガン協会を設立したのだろうか。彼の説明によると「おそらくそれは、戦争という吐き気を催す経験に対する適切な解毒剤であり、絶え間なく続くもう一つの大量虐殺に対して我々がもっと行動すべきだという戒めのように思えたからだろう。あるいは、これまでの菜食主義文献に驚くべき欠落があることに気づいたからかもしれない―すなわち、自然は肉食動物と菜食動物の例を数多く提供するが、乳肉食動物や乳菜食動物の例は一切提供しないという事実である。こうした集団は異常であり、人間が他の種の生殖機能を利用する能力によってのみ可能となる。これは、栄養学的にも倫理的にも正しいはずがないと私たちは考えた。審美的に間違いなく誤っており、私たちは食事の度に成人の男性が牛の乳房に吸い付いている奇妙な光景が想像できなかった」と述べている。

現在のヴィーガン協会のビジョンは「人間が他の動物を搾取しない世界」である。このビジョンの実現に向け、個人・組織・企業との有意義で平和的かつ事実に基づく対話を経て、動物と人間の苦痛、環境破壊を軽減する手段として、ヴィーガニズムが幅広く認知されることを目指している。同協会では、これまでに約500社の企業から1万8,000点以上の製品のヴィーガン商標使用を認可した。約75%は英国国外に拠点を置く企業で、商標権保有国としてはドイツが最多であり、次いでイタリア、スペインとなっている。ヴィーガン協会は、現在、商標の管理・販売を担当する常勤スタッフ6名を雇用しており、2014年6月末時点で25万6000ポンドの売上高を記録している[42]。

第2節 日本の菜食主義

一方、日本でも菜食主義が、ヴィーガンに当たると思われる。『完全菜食があなたと地球を救う ヴィーガン』の共著者の1人である垣本によると、明治の中頃にベジタリアンを日本語に訳すときに「菜食」としてしまったことから、「ベジタリアン」=野菜を食べる人、のように勘違いされて広まってきた経過があるが、真の意味は「心身が元気になる食事をする人」という意味だと述べている[43]。

他方、もう1人の共著者である大谷は、日本の菜食の歴史について、675年に天武天皇が「肉食禁止令」を発布し、獣鳥肉だけでなく魚介類をも食べることを禁じたこと、737年に聖武天皇が魚介類の摂取を許容した結果、五穀を主食に野菜や豆、海草を食べ、何かの祝慶事に魚が特別のごちそうとして供されるという食生活が定着したことを指摘している。また、中国との関係も指摘されている。9世紀に遣唐使として中国に渡った最澄や空海が帰国して起こした天台宗や真言宗には、仏典の戒律に基づく中国禅寺におけるヴィーガンの食事様式が伝えられたことから、現在でも両宗の総本山である比叡山や高野山の宿坊ではヴィーガン料理が供されている。加えて13世紀には、曹洞宗の開祖・道元は宋に留学して中国禅学を習得し、精神修養の手段としての日本の風土に合う玄米菜食のヴィーガン料理を確立し、それを「精進料理」と名づけたと整理している[44]。

しかしながら、日本の食生活は、今日では大きく変化している。厚生省『国民栄養調査』や農畜産業振興機構の資料によれば、1915年の日本人の肉の年間消費量は、一人当たり約300グラムだったが1960年には3.5キログラムとなり、2013年にはほぼ100倍の30キログラムまで増加した[45]。このような中、ヴィーガンが注目されているという指摘がなされている。西洋型ヴィーガンは、医学的・環境科学による裏付けがなされてきたが、「殺生禁断」を基にした東洋型の完全菜食は長い歴史を持っていること、パンデミックや地球温暖化、異常気象、途上国の飢餓などグローバルな問題を背景に「心身の健康と地球環境問題」を同時に解決するライフスタイルが「ヴィーガン」であることが、注目される理由であると指摘されている[46]。

第3節 ヴィーガニズムの思想・哲学

では、ヴィーガンの思想・哲学は、どのような特徴があるのだろうか。

まず、『もう肉も卵も牛乳もいらない!』の著者であるエリック・マーカスの文献から引用しよう。

多くの人がヴィーガンに転向し、健康を増進している。おそらくこうした健康増進が、精神的目覚めを伴うことが多いのだろう。こうした目覚めには長い時間がかかることがあるが、やがては食事法を変える前とは違う自分になっていることに気づくはずである。そしてこの目覚めは、誰に対しても開かれているものと、私は信じている・・・何を食べるかほど大切な選択はない。しかし多くの人は、自分が食べているものと自らの信条との関係に気づいていない・・・何を食べればどうなるかを考えるのは、かつては偉大な思想家たちだった。今日では、ほぼどんな人でも食品選択の結果を見直せるようになっている。今や目覚めの時である[47]。

こう述べるマーカスは、ヴィーガニズムの普及・啓蒙のために設立されたvegan.comを運営している。

また、Alessioは、「一般的に有機ヴィーガン食は短期的にはほとんどの人間にとって最も健康的であり、長期的には地球上のあらゆる種にとって最も健康的である[48]」と述べている。

加えて、「ヴィーガンになることへの最大の躊躇は、正しいことをする意思の欠如でも、動物虐待への無関心でもない。むしろ資本主義のようなシステムの前では、個人の力は及ばないという現実的な認識、それに加えて絶対主義や敬虔を装った禁欲的な生活様式への嫌悪感が組み合わさった結果のように思う[49]」との指摘もある。

こうしたヴィーガニズムに対しては、様々な批判もある。これに対して、From Animals to Anarchismの著者であるKevin WatkinsonとDónal O’Driscollは、食品産業における搾取を見落としている点を批判する。例えば、カカオや茶のプランテーションでは奴隷的労働があり、西側の人々が季節に関係なく食べられるトマトも、農園では非常に低い賃金で労働者を大量に搾取していると述べ[50]、ヴィーガンは動物だけでなく人間の抑圧の解放も考慮しなければならない点を強調している。

第4節 ヴィーガニズムの目的

このように、ヴィーガンの目的は、人間と動物への搾取の否定に注がれる。

例えば『ビーガンという生き方』の著者であるマーク・ホーソーンによると、私たちの道徳的矛盾として、私たちの愛する伴侶動物が、畜産場の動物のように虐待されていたらどうだろうと、次のように述べる。

窓のない畜舎に押し込まれ、自分の糞尿の上に横たわり、多くの自然な本能を否定され、体を切り刻まれ、健康を損なう飼料と医薬品の混合物で生かされ続け、最後には何マイルも彼方の屠殺場まで運ばれ、仲間の恐ろしい死を見届けた後に自身もまた殺される。かれらには一かけらの愛情も注がれず、まして誕生日の御馳走などありえない。それどころか、かれらの大半はまだ幼な子のうちに屠殺される。私たちと他の動物の関係は、控えめに言っても一貫性を欠く。けれども自身の道徳的矛盾に悩んだところで、それを認める人は比較的少ない。むしろ人々は認知的不協和に覆われながら目をつむっている―認知的不協和というのは凝った用語だが、私たちが二つの相反する思考や認知を同時に抱いたときに感じる、かすかな不快感(大抵はほんのささやき)を指す。例えば多くの人々は、喫煙がよくないと知りながら煙草を吸う。動物に関しては、その道徳的地位を認めて脱搾取派(ママ)になれば認知的不協和を和らげられるが、そうする人は(今のところ)一握りしかいない[51]。

筆者も経験済みであるが、認知的不協和の解消は重要な要素である。さらに、ホーソーンは、続けて以下のように述べる。

私たちの認知的不協和は、畜産利用される動物を超え、実験、毛皮、娯楽のために使われる動物にまでおよぶ。(中略)動物擁護団体ファウナリティクス(元・人道研究委員会)による2013年の世論調査では、回答した成人の73パーセントが人はあらゆる動物への危害を避けるべきだと信じていたことが分かった。ならばなぜ成人の73パーセントは脱搾取派(ママ)ではないのか。理由の一つは、かれらが動物の権利の問題をしっかり考えていないことにあると考えられる[52]。

こうして、「脱搾取派が失うものはただ一つ、故意の動物殺害への加担だけである。脱搾取派になれば、食べ物にごめんなさいを言う必要はなくなる[53]」と、ヴィーガンへの合流を呼びかけるのである。

ただし脱搾取には課題があるとも指摘される。特に有色人種や低所得者層にとって、最大の障壁は地元のスーパーで健康的な農産物を買うのが困難なことである[54]。また、児童労働や[55]、開発現場で土地を追われる先住民[56]、屠殺場の労働者の存在についても、無視することはできない[57]。

このような背景から、ヴィーガンの重要性が主張される。その代表例が、『なぜヴィーガンか?-倫理的に食べる-』の著者であるピーター・シンガーである。シンガーは、「今日、奴隷制への反対論は歴史的な関心事ではあっても、それ以上のものではない。(中略)動物に関する私たちの倫理がその段階に達するには、まだまだ長い道のりがある。とはいえ、ヴィーガンの世界を実現するという目標は、ヴィーガン食品がここ十年で空前の広がりを見せたこと、植物由来の代替肉の開発に何十億ドルもの投資が行われたことによって、空想ではなく可能な未来になった[58]」と述べる。そして、環境保護論者たちは、私たちが何を食べるかについての選択が環境に関わる問題であることをますます認識するようになっていること、先進国では食べ物に関して幅広い選択肢があるため、肉食を必要とする者はいないこと、肉食をした場合と同じぐらい健康に、あるいはそれ以上にヴィーガン食だけでも健康に生きていけることを主張するのである[59]。

第5節 イスラエルのヴィーガニズム

こうしたヴィーガンへの注目の中で検討すべきなのが、イスラエルの動向である。

現在、イスラエル人口の5%がヴィーガンでオヴォ・ラクト・ヴェジタリアンを加えると13%になるといわれている。同国では米国ユダヤ人活動家であるギャリー・ユーロフスキーが行った動物の権利に関する2010年の講演に、2012年になって現代ヘブライ語の字幕が付いたことをきっかけに、ヴィーガニズムに対する注目が高まり、「ヴィーガン革命」と呼ばれるほどヴィーガン人口が上昇したと言われている[60]。

しかし、ヴィーガニズムの高まりにも拘らず、一般の食肉消費は増加している。2021年の政府報告によれば、イスラエルにおける一人当たりの年間消費量は2015~2021年の6年間で50%も上昇し、19.6キログラムとなっており[61]、相反している。これは、肉を食べない人は増えたが、肉を食べる人はより多くの肉を食べていることになる。これをどう解釈すべきか。

この点について、テル・アビブ市の政策を見ていく必要がある。同市では、動物不使用の食事を推進することに対する市側の肯定的な評価がみられる。しかしながら、テル・アヴィヴ市のこの態度は、あくまで動物不使用の食事は強制ではなく個人の選択の問題で、市は個人の選択に介入しない姿勢を崩さないという両義的なものであるということが確認された。テル・アヴィヴ市の立場は、ヴィーガニズムを強制することなく、意識の向上と教育によってそれを推進するという、緩やかな介入にとどめられており、ヴィーガニズムはある種の個人的な選択の問題と見做されていることが分かる。さらに注目すべきは、近年のイスラエルにおけるヴィーガニズムの高まりが、動物の権利や動物の置かれた状況に対する意識の高まりを背景にしているにも拘らず、この時扱われているヴィーガニズムは、動物の権利や福祉の問題としての側面が抜け落ち、地球環境と持続可能性の問題と再定位されていることである[62]。動物の権利が抜け落ちている時点で、ヴィーガニズムとはいえないという見方もある。また、

イスラエル国防軍は、世界ヴィーガンデーに合わせ、2019年11月1日にヴィーガンに関する短い動画を投稿している。(中略)イスラエル国防軍のツイッターは英語版と現代ヘブライ語版があるが、現代ヘブライ語版ではこのような動画を出していないことを考えると、このヴィーガンに関する動画が、現代ヘブライ語話者であるイスラエル人に向けられたものよりは、より広いオーディエンスに向けられていることが分かる[63]。

このような対外宣伝を、Aeyal Gross[64]は、「ヴィーガンウォッシング」と名付けた[65]。このような軍隊でのヴィーガン対応アピールへの批判が同国内から出ていることも考慮すべきであろう。

では、ヴィーガンのこうした限界を乗り越える方法はあるのだろうか。次章では、その方向性としてのヴィーガナーキズムに視線を移してみよう。

第三章 ヴィーガナーキズム:双方のつながりの歴史と交差性

第1節 アナキズムとヴィーガニズムの出会い

この章では、アナキズムとヴィーガニズムがどのように繋がってきたのかを検証する。

ヴィーガナーキズムは、Animal Liberation and Social Revolutionの著者であるBrian A. Dominickが提唱したと思われる。彼は、同書の序文で「多くのヴィーガンや動物解放運動家も、アナキスト思想とその豊かな伝統に影響を受けている[66]」と述べた上で、「我々は皆、いわば“Veganarchists.”となる必要があるのだ[67]」と、ここで初めてヴィーガンとアナキストを繋げた“Veganarchists”(ヴィーガナーキスト)という造語が登場するのである。

このドミニクの研究をきっかけに、Anthony J. Nocella等の記した2015 年のAnarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberationで、Dominickの主張を拡張し、理論だけでなく実践においても展開しようとした。さらに、Will BoisseauとNathan Poirier共編のVeganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Againでは、Nocellaらの研究を相互適合性や補完性といった次元からさらに発展させた。

では、ヴィーガナーキズムとは何か。簡潔な定義は、ヴィーガニズムと、あらゆる形態の社会的に構築された階層構造に反対するアプローチを組み合わせ、人間と他の動物のための社会的正義が繁栄できる社会の構築を目指す哲学と実践である[68]。思想史的には、レフ・トルストイ、ルイーズ・ミシェル、ピョートル・クロポトキン、エリゼ・ルクリュ、ブライアン・ドミニク、ボブ・トーレスが挙げられ[69]、現代のヴィーガン運動とアナキズムの結びつきを支える最も重要な思想的接点としては、完全解放、交差性、国家への反対、環境主義、反資本主義、集団的アイデンティティ、コミュニティ構築の7つが核心であると説明される[70]。

ここで留意すべきは、動物解放と他の抑圧とがつながっていることを含意している点である。「抑圧の永続化における重要な要素として、あらゆる疎外は破壊されねばならない。屠殺場や生体解剖実験室での苦しみを無視できる限り、第三世界の農村、都市のスラム、虐待的な家庭、権威主義的な教室などの状況も無視できる。あらゆる抑圧を無視する能力は、他のあらゆる抑圧を無視する能力である[71]」と述べているからである。そして、初版から2年後に加えられた「あとがき」では、ヴィーガニズムの再定義として、「倫理的理由から、動物であれ人間であれ、知覚能力を持つ存在の苦痛に直接的・間接的に寄与する行為を、意識的に控えることです。人々がヴィーガニズムに至る主な道は二つあります:動物の権利・福祉・自由への関心、そして(畜産によって深刻な被害を受ける)自然環境への関心である。動物由来食品の摂取のみを控えるのは、単なる菜食主義にすぎない。肉食を控えることは、実践者が乳製品と卵を摂取し続けるため、『ラクト・オヴォ・ベジタリアン主義』と呼ぶのが適切である。ほとんどの菜食主義者は、その食生活がより健康的であるためそうしている。したがって、革製品や動物実験を経た製品などの消費を控える明確な理由はない72」と述べた上で、健全な経済が必然的に取り組むべき課題は、動物搾取産業の廃止であると主張している。

なお、ヴィーガニズムを実践するにあたっては、自分に無理な要求を課すと燃え尽きてしまい、他者に過度の要求を突きつけると疎外感が生じるので、無理のない取り組みを勧めている[73]。

こうした思想をもつヴィーガナーキズムのシンクタンクが、批判的動物学研究所(ICAS)[74]である。同研究所は、動物解放とアナキズムに根ざしており、国際的かつ交差性を重視し、変革的かつ全体論的な「理論から行動へ」を掲げる、活動家主導の学術シンクタンクである。「公正で平等で、包摂的かつ平和な世界の実現を目指す我々は、完全な解放とあらゆる支配・抑圧システムの解体を目的とした急進的かつ革命的な行動・理論・集団・運動を、躊躇なく検証し、説明し、連帯し、その一員となること」を使命としている 。

なぜ直接行動を支持するのかについて、John Lupinacci[75]は、「人間至上主義体制と闘う多くの活動家にとって、直接行動への献身の核心は、現在の支配的な人間中心文化が自発的に変容し、権力と特権が放棄され、地球上のあらゆる生命体の本質的価値が認められ尊重されるような自発的変革は起こり得ない[76]」という主張を行っている。

では、ヴィーガナーキストは、一体どれくらいの人口がいるのだろうか。

Aragorn Eloff等は、2010年に、英語圏アナキストのインターネットチャンネルを通じて、アナキストを対象とした非公式のオンライン調査を行っている。調査は約60問からなる詳細な質問票形式で行われ、約2500人が回答した。それによると、アナキストでかつヴィーガンの割合が、回答者の11%以上であった。中身を見ていくと、自らをアナキスト・フェミニストと認識する回答者の19.6%がヴィーガンであると回答し、グリーン・アナキストは19.4%であった。一方、いわゆるアナルコ資本主義者のヴィーガン率はわずか1.8%で、これは一般人口の割合とほぼ一致していることがわかった[77]。

また、アナキスト内でのヴィーガンのジェンダー動向においても、興味深い結果が表れた。すなわち、ヴィーガンであると答えた者のうち、男性と自認する者では7%にとどまったのに対して、女性と自認する者は16.7%、ジェンダークィア他と自認する参加者は25.7%に上った[78]。この結果からは、ジェンダーフリーの者の間でヴィーガニズムをアナキズム実践の一部とする者が多いことがうかがえる 。

第2節 アナキズムと動物解放の交差性

では、ヴィーガナーキズムは、どのような思想的特徴を有しているのだろうか。

最大の特徴は、動物解放との「交差性(Intersectionality)」の強調である。「交差性」とは、ホーソーンによると、1989年に法学者のキンバリー・クレンショーが、黒人フェミニズムを差別禁止法に応用できることを示し、形態を異にする抑圧のシステムが相互に係り合う実態を説く概念として提起したのが初めてであると指摘する。交差性という捉え方によって、アイデンティティならびにアイデンティティと権力の関係をとらえることができるからである[79]。

この交差性の概念を、食用の動物飼育に拡張したのが、Erika Cudworth[80]である。彼女は、植民地主義的関係と家父長制的関係の交差が、食用の動物飼育において特に顕著である点も考慮すべきであると主張する[81]。動物支配の交差性は、支配的な社会パラダイムに対する多面的な抵抗であるアナキズムの一部にヴィーガニズムがなることを意味するという主張である[82]。アナキズムは、様々な形態の社会的支配に対する多面的な闘争に対して比較的開かれており、支配の力関係に関する分析は「交差性」――支配の重なり合う形成や実践、相互に関連する力関係への考察――によって可能になるというのである[83]。

こうしたアナキズム運動と動物解放運動のつながりについては、From Animals to Anarchismの著者であるKevin WatkinsonとDónal O’Driscollも強調する点である。彼らは、アナキズム運動と動物解放運動には多くの共通点があり、それはどちらも支配と統制の構造を撤廃すべきだという考えに基づいているからであると述べる。ただし、動物解放の問題をアナキズムに関連づける点についての根強い抵抗感にも触れている。例えば、福祉主義者にとって、檻が単に大きく快適であればそれでよく、なぜ檻が必要なのかを真摯に問うことは決してないのに対して、動物権利運動は「なぜ檻が存在するのか?」と問いかけ、動物の福祉と動物の権利の違いを強調するからである。それに対して、彼らは、福祉・権利を乗り越えて解放への道を示すとして、抑圧の交差がなぜ生じ、現代社会によって如何に維持されているかを理解するには、社会そのもののイデオロギー的・文化的基盤を批判し、「真実」をより深く掘り下げる必要があると主張している[84]。

さらに、アナキズムと動物解放をメインに論じたのが、Anarchism and Animal Liberationの著者らである。彼らは、交差性を、二つの戦略的理由から重要であるという。第一に、運動を結びつけることで支援と協働の余地を拡大する。第二に、交差性は活動家が、自身が関与の浅い運動の目標・目的・戦術・歴史・キャンペーンについて自ら学ぶことを可能にすることである[85]。

以上の点から、ヴィーガナーキズムには動物解放に基づく種差別への批判が特徴的であるといえる。実際、Nocellaは、動物解放アナキストは、共同体が任務を遂行したり規則を発展させたりする際に考慮すべき価値を持つ存在として人間のみを視ることは「種差別的」だと主張する。種差別とは、非人間動物に対する人間種による抑圧を指し、1970年代初頭にRichard D. Ryderによって初めて提唱された概念である[86]。ヴィーガナーキズムには、交差性を通じた種差別批判まで射程に収めているといえよう。

第3節 ヴィーガンと音楽:パンクシーンとのつながり

こうしたヴィーガナーキズムの思想的特徴は、様々な分野とつながりをもっている。第一に、パンクシーンとのつながりを指摘できる。Will BoisseauとJim Donagheyは、「パンクとヴィーガニズム/動物権利は疑いなく結びついている。(中略)この結びつきの普遍性は無視できず、特にアナキズムや交差性の政治と結びつけて考えると顕著である。パンクを扱う文献は、ヴィーガン/動物権利問題全般にほとんど注目していない。パンクに関する書籍の大半は、パンクを1970年代後半の短期間の現象と捉え、その期間内でも商業的に成功したバンドのみに焦点を当てるきわめて狭く単一的な叙述となっている[87]」と述べている。

こうしたヴィーガンとパンクとのつながりについては、雑誌Last Hours(2006年)がパンク愛好者への調査を行ったPunk Rock Censusにおいて、306名の回答者のうち54.6%がヴィーガンあるいはベジタリアンであることが判明したことからもうかがえる[88]。また、動物権利とヴィーガニズムを訴えた象徴的なバンドとして、Conflictを挙げている。その他、いくつかの例を挙げながら、パンクが関わるソーシャルセンターは圧倒的にヴィーガンでありアナキスト的でもあるとし、フード・ノット・ボムズとも協力しているという。

では、なぜパンクとヴィーガニズムが結びついたのだろうか。この点については、ヴィーガニズムは主流社会において「異質なもの」と見なされるため、これを規範的価値として採用することは、カウンターカルチャーをその文化的覇権の外側に位置づける助けとなる。それは、アイデンティティの表明であり、抵抗の表明でもある。と指摘されている[89]。

一方、Len TilbürgerとChris P. Kaleは、「汚い⾔葉遣いや唾を吐く⾏為、ファッションのタブー破りなど、パンクは既存秩序への脅威であり、良識ある社会と⾳楽産業双⽅への危険と⾒なされた。⽀配階級がパンク⾰命に戦慄したとしても、その懸念はすぐに杞憂に終わった。⼀部のパンクがメジャーレーベルと契約したり、ロックの体制の⼀部になったりしたため、パンクのイメージは絵葉書の決まり⽂句となったのだ。(中略)パンクが主流へ向かうにつれ、支配階級は⼤衆がパンクに惑わされる⼼配なく安眠できた。しかし…パンクがヴィーガンになった時、状況は⼀変した[90]」と指摘する。

実際、パンク楽曲で初めて動物の権利や解放が⾔及されたのは、Crassが1979年に発表したアルバム『Stations of the Crass』に収録された「Time Out」であった。これを契機に、動物解放はアナルコ・パンクをはじめとするパンクサブジャンルの主要なテーマとなった[91]。加えて、ヴィーガニズムとパンクの結びつきは、アナキズムとの関連において最も強く⼀貫して表現され、その背景にはヒッピー運動の影響がある。Crassの前⾝は前衛芸術プロジェクトであり、彼らはバンド結成以前から菜⾷主義者で、平和主義的世界観や搾取への反対、あらゆる⽣き物への連帯感を貫いてきた[92]。

さらに、ポストヒッピー的な菜⾷主義の平和的雰囲気から、動物虐待で利益を得る者たちに対する過激な直接⾏動を体現するバンドが、先に挙げたConflictである[93]。彼らはCrassよりもはるかに「尖った」存在であり、⾁屋の窓にレンガを投げつけたり、動物を搾取するインフラを破壊したり、関連産業に経済的打撃を与えるなど、直接⾏動に及んだ。

その意味で、Conflictというパンク・バンドは、彼らが楽曲を制作した動物解放戦線(ALF)に極めて近い⽅向性を持っていた[94]。ALFは、1970 年代後半に結成された急進組織であり、創設者の1⼈であるロニー・リーは、パンクバンド「トータル・アタック」のメンバーでもあった。このように、アナキスト・パンクと動物解放活動家が結びつき、動物解放運動がアナーキスト的な⽅向へ発展したのは、パンクとの関わりが⼀部の要因であったといえる[95] 。そして、「セックス・ピストルズなど取るに⾜らない。⽀配階級が病的で危険かつ不気味と⾒なすべきは、ヴィーガン・アナキスト・パンクたちだ。彼らは資本主義国家の⾁⾷論理を破壊する意志を持ち、直接⾏動でそれを実⾏する覚悟がある[96]」とまで指摘されているのである。

第4節 ヴィーガナーキズムとアカデミズム

第二に、アカデミズムにも、ヴィーガナーキズムは影響を及ぼしている。

そのひとつが、地理学である。例えば、Richard J. White[97]は、19世紀末から20世紀初頭のアナキスト地理学者であったエリゼ・ルクリュとピーター・クロポトキンの著作を例に挙げ、「彼らの研究における種を超えた苦しみと抑圧の認識は、現代の批判的動物地理学の分野で新たな批判的対話を喚起し始めている[98]」と述べている。その上で、「学者活動家として、私は個人が活動家に対して罵倒や侮辱、脅迫を浴びせる場面を目撃してきた。他の動物権利活動家との会話や私自身の経験から、動物活動家が脅迫を受け、実際に身体的暴力を加えられ、露店がひっくり返され破壊されるといった虐待事例が驚くべき頻度で発生していることを認識している。(中略)これは、(種差別的な)現状維持に関心を持つ者たちにとって、新たな不安を煽る真実を暴露することで現場を揺るがす行為が、いかに遍在する脅威であり彼らがそれを守るためにどれほどの手段を講じるかを雄弁に物語っている[99]」と告発している。

もうひとつが、哲学である。Parampathuは、「資本主義の不自由と動物搾取産業から、あらゆる生き物に空間と敬意を与える無支配状態へどう移行すればよいのか。人間至上主義者と反種差別主義者の間の緊張に対する答えを、アナキズムだけが提供できるのだろうか。それは動物を抑圧する階層構造を排除せずに存在しうるアナキズムを想像することは、十分に可能である(恐ろしいことだが)[100]」と述べる。その上で、ヴィーガンについても言及し、「ヴィーガン生活は、種差別視点に内在する階層構造への抵抗というアナキスト的視点を体現する実践であり、動物を商品と見なす支配的な資本主義的観念を覆そうとするものである[101]」と述べた上で、「ヴィーガン生活が可能で他の闘争を妨げない地域、特に負担とならない場所においては、アナキストにとってヴィーガン主義に代わる選択肢は存在しない[102]」と言い切っている。ただし、「しかしながら、反能力差別主義を徹底するアナキストの伝統に則り、特定の人々が置かれた制約や、極度のストレスを耐え忍ぶか、あるいは命を危険に晒すことなくヴィーガン生活を営むことが現実的に不可能である人々の存在について理解を深める必要がある[103]」とも述べ、思想を広める上での留意もしている。

さらに特徴的なのが、エコロジカル・フェミニズムとの関係である。「エコ・フェミニズムは、私たちが知る世界を破壊している支配的な資本主義的父権主義イデオロギーの枠組みを超越できると約束する。所有の終焉、父権制の終焉、種差別主義の終焉は、すべて一つの闘争である。私たちはこれらの姉妹的闘争を連携して戦い、あらゆる階層構造のない世界を目指さねばならない。性的・ジェンダー的自由なくして生態学的自由は存在せず、所有制と女性嫌悪の終焉なくして動物解放はありえない[104]」と、エコロジカル・フェミニズムとヴィーガナーキズムとの親和性を主張している。そして「資本主義、種差別、その他の階層構造との闘いにおいて、中途半端な同盟者は存在しない――これらの階層構造に積極的に反対しない者は、意図的か否かを問わず、その存続を正当化する一助となる[105]」と述べている。

最後に、食の倫理である。例えば、「フードノットボムズ」との関連で、フリーガン[106]が挙げられることが多い。「フリーガンは、従来の経済への参加を最小限に抑える意図的な選択を通じて、食料・衣類・住居・その他の必需品を根本的に獲得する戦略を採用する。これにより消費者の選択が動物・環境・世界の労働者に与える影響を最小限に抑える。フリーガンは「廃棄物削減」戦術を活用する。具体的には、ダンピング・ダイビング(廃棄物漁り)や、廃棄物となるはずの物品・食品の再利用などである。こうした物品を回収することでフリーガンは、廃棄物による害を減らすと同時に再利用の利益を最大化する[107]」と肯定的に述べている。加えて、「美味しいからとか、今まで食べてきたから、などという抵抗については哲学的な反論が難しい。なぜなら、搾取的な製品への嗜好的欲求を抑えることすら面倒に感じる人間にとって、動物の命など取るに足らないものとする主観的道徳観を前提としているからだ[108]」と述べた上で、畜産だけでなく農業全体の影響を考察しなければならないとして、工業型農業を次のように批判する[109]。

耕起とは、土壌を反転させて雑草を機械的に除去し、土壌を通気させ、耕すことで有用植物の植え付けを容易にするプロセスである。しかし耕起というプロセスには多くの欠点があり、長年にわたり世代を重ねることで壊滅的な結果をもたらす可能性がある。耕された土壌は、有機物を豊富に含む表土の多くを風や浸食によって失い、植物の健全な成長に必要な炭素や窒素をより多く放出する。また、植物の健全な発達に必要な炭水化物の健全な分布が減少する。耕起と不耕起の土壌品質への影響に関する研究は次のように結論づけている:土壌肥沃度の観点から、不耕起システムは[有機物]の質を向上させるだけでなく、その量も増加させる[110]。そして、CAFO[111]の様々な問題を批判するなかで以下のように述べている[112]。肉食主義者は問う。CAFOなしに、どうやって必要量を満たす肉や乳製品を生産するのか。当然ながら我々の答えは常にこうあるべきだ——それは誤った問いだと。人間に肉や乳製品は必要ありません。動物を飼育し、肉や乳製品を得るために殺すことは、資源を配分する効率的な手段でもなければ、それらを生産するために必要な土地、水、太陽エネルギーからカロリーや栄養素を得る効率的な方法でもありません[113]。

そして返す刀で、

気候変動と生態系破壊の解決策は資本主義からは生まれない。「持続可能な資本主義」という見せかけから派生した「クリーン」エネルギー創出の試みは、根本的問題を解決せず破壊の様式を変容させるだけだ[114]。

と痛烈な批判を行っている。

第四章 ヴィーガナーキズム再考:動物解放から完全解放へ

第1節 ヴィーガニズムへの批判

ところで、ヴィーガニズムについては、この間多くの批判もなされているが、本節では、ヴィーガニズムに対するアナキスト的批判から[115]ヴィーガナーキストの回答を改めて検討したい。

まず、Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Againの共編者であるWill Boisseauは、以下の三つを挙げて考察している[116]。

第一に、ヴィーガニズムは資本主義への挑戦とはならないという批判である。それに対して、動物活動家は、ヴィーガン製品が奴隷労働や児童労働を含む最悪の形態の資本主義的搾取を⽤いて製造される可能性があることを認識している。ヴィーガン活動家は、そのジレンマを⾃覚している。そしてヴィーガナーキストは、ヴィーガニズムとは可能な限り害を最⼩限に抑えることだと信じ、それは単なる特定の⾷品の回避ではなく、思いやりと慈愛に基づくものであると考えている。

第二に、ヴィーガニズムは活動家が消費者として否応なく担う役割を通じた社会変⾰を強調する点である。この点に関しては、動物虐待は個人の偏見ではなく、構造的・経済的な力の結果であるという考えから、ヴィーガン活動家は、ヴィーガニズムを取るに⾜らない消費選択と軽視する⾒解に対し、あらゆる⽣命を商品化する資本主義への反対を強調することで応じてきた。また、個⼈の⽣活様式変化を無関係と⽚付ける代わりに、⾃らの道徳的選択と、より広範な社会変⾰をもたらす努⼒(例えばフード・ノット・ボムズ⽀部への参加など)とのバランスを図ろうとしている。

最後に、ヴィーガンがヴィーガニズムを「道徳的最低基準」として万⼈が採⽤すべきとみなす姿勢が権威主義的・エリート主義的であるという点である。⼀部のヴィーガン活動家は、⾃分たちが「道徳的優位性」を保持しており、ヴィーガニズムが⾁⾷よりも優れたライフスタイルだと信じているように見える。ヴィーガニズムが道徳的基盤であるべきという信念は、動物権利運動を分裂させ、他の社会正義問題との連携を妨げる恐れもある。何百万⼈もの⼈間の⽇常⽣活に影響を与える差別という他のフロンティアが存在する中で、動物権利が「最終フロンティア」であるという⽰唆に敵対的になるだろうことも認識している。そのためヴィーガナーキストは「上から⽬線の普遍化判断」を放棄し「⽂脈的道徳的ヴィーガニズム」という招待型アプローチを推進している。

また、「アナキズムの規範」が主に男性・ヨーロッパ⼈・⽩⼈中⼼であることを批判しながら、ヴィーガナーキズムにおいても議論を発展させてきた主体はフェミニストや有⾊⼈種であった点に注目している[117]。

さらに、「私たちは誰もが従うべき社会の⻘写真を作ろうとしているわけではない。イデオロギーの墓場に埋もれるのではなく、互いに挑み合い、議論し、考えさせられる存在でありたい[118]」と述べている。

一方、Vasile Stànescu[119]は、ヴィーガニズム運動は⽩⼈エリート主義者が⽀配する運動ととらえた上で、代替肉批判にも言及している。「動物権利団体が代替⾁製品の販売に焦点を当てている限り、彼らは誤った指標に注⽬している。もし販売数を⾒るなら、特定のヴィーガン・オプションの販売ではなく、動物性製品の販売減少である。そしてそれは、まったくもって起こっていない」という現実を突きつける。そして、⾷品企業も、脱政治化されたヴィーガニズム=「プラントベース」を利⽤しようとしているが、それは企業利益のためで、持続可能性、健康、倫理という⾒せかけのレトリックで⾃らの⾏為を隠蔽する「プラントウォッシング」にすぎない。しかし、一部のヴィーガンは、ボイコットの代わりに称賛し、⽂字通り商品を購⼊する「紙幣で投票する」⾏為を行っており、動物解放や社会正義には何も貢献しないと痛烈な批判を加えている[120]。

こうした点に対して、Nóra UgronとMaria Martelliは、改めてヴィーガナーキズムの可能性を指摘している。つまり、「他の世界を夢⾒ることは、ヴィーガンとアナキストに共通する点である。両運動はそれぞれの⽅法で現状を拒否する――前者は⼈間中⼼主義と動物⽀配に異議を唱え、後者は資本主義や権⼒階層、あらゆる権威を拒絶する。時に両者は結びつく。しかし、常にそうであるとは限らない[121]」と強調している点にも注目したい。

第2節 動物のみの解放をこえて

では、ヴィーガナーキズムという思想と実践には、今後どのような可能性があるのだろうか。

第一に、動物の解放から人間を含む全ての種の解放の可能性である。Dominickは、動物の解放について、「最終目標は、資本の廃止である。これにより、動物搾取のための大規模な装置を構築する最も深刻で不均衡なインセンティブが排除されることになる。さもなければ、文化的変化や制度化された改革でさえ、無防備な動物や容易に操作される消費者の犠牲の上に、歪んだ利益を生み出す新たな方法を模索する革新的な資本家たちによって、常に後退の危険に晒され続けるだろう[122]」と述べ、単なるベジタリアンにとどまることのリスクに言及している。そして、「革命的な経済変革は容易ではないが、その必要性が避けられないことが、私が20年にわたって急進的な動物解放思想への反資本主義の注入を提唱してきた主たる理由である[123]」と、反資本主義の必要性を彼は主張している。

同様に、Flower Bombは「ヴィーガンでありながら資本主義を⽀持することは⽭盾である。なぜなら資本主義の完全な機能には、⾃然資源の⼤規模な搾取が不可⽋であり、その結果として⽣態系全体が破壊・消滅するからだ・・・それは⼟地から得るものが還元するものを上回るという基本公式に基づいている。これは⾮⼈間動物に直接影響する全ての⽣態系に不可逆的な損害をもたらす[124]」と主張している。

また、Kevin WatkinsonとDónal O’Driscollは、「我々が自らを『動物解放主義者』と考えるとき、それは単に虐待状況から個々の動物を救出するための解放ではない。むしろ我々が語る解放とは、人間・地球・動物が支配システムから解放されることに根ざしている[125]」と、人間と自然すべての支配システムからの解放を主張している。その上で、「様々な動物権利団体による政府への訴えは、概して無駄に終わる。だからこそ、我々が最も効果を発揮した事例を思い出すべきだ。ヒルグローブ猫農場もコンソート・ビーグル犬飼育場も、直接行動を恐れない急進的運動による圧倒的圧力によって閉鎖されたのである。RSPCAやBUAVといった団体が延々と続ける『対話』や請願活動によってではない[126]」と、急進的な直接行動の必要性に言及している。

さらに、Nathan Poirier[127]も「動物解放がなければ、他の⽀配システムも破壊されない。むしろ、ひとつの抑圧形態が許容される限り、全てがそのまま残されるのだ。存在する限り、すべてはそのまま残されるだろう。これがおそらく交差性の主要な洞察である[128]」と、支配・抑圧からの解放はすべてがつながっている点が強調される。

第3節 完全な解放に向けて

では、自然と人間全体の「完全な解放」とは、どのようなものをイメージしているのだろうか。第三章では「交差性」の観点を通じて、すべての抑圧はつながっており、ひとつの抑圧が残される限り、他のすべての解放もありえないというヴィーガナーキズムの特徴を論じた。それは具体的にどのような思想なのか。本節では、歴史的背景から考察していく。

David N. Pellow[129]は、完全解放の枠組みについて、「種、生態系、人間集団を越えて抑圧と特権を結びつけ、正義と自由への理論と道筋を示唆する――これは従来の交差性理論には欠けていた要素である。したがって、完全解放の概念は、様々な階層システムの複雑さを明らかにすると同時に、無数の境界を越えた介入点、変革的変化、連帯と連合構築の可能性を示唆している。完全解放とは、何よりもまず文化的力である。その最大の力は、そのビジョンの強さと大胆さに宿っているからである。広く支持を得ることは決してないかもしれないが、完全解放の概念に体現された思想は、現在の社会秩序の根底にある中核的な運営原理と前提に対する脅威を構成するため、社会的に重要な意味を持つ[130]」と述べる。

次に、Nocellaらは「完全解放とは、交差性の実践である。交差性は、複数のアイデンティティが交差する瞬間、あるいは個人・集団・コミュニティが経験する同一の瞬間に見出される。完全解放の思想は、1960年代に多くの急進的政治組織によって提唱され、抑圧と支配に苦しむ全ての人々への完全な自由と正義を実現するための、妥協のない多面的なアプローチを形容するために用いられた[131]」と、交差性の重要性を強調している。

さらに、ホーソーンは、抑圧の繋がりとして、「動物の権利運動が主張するとおり、人間と動物に道徳的な区別はないとするならば、私たちはすべての種の解放に努めるのが当然だろう。この解放運動の鍵は、動物と人間を抑圧する支配のシステムにある。すなわち、種差別は、人種差別、性差別、同性愛差別、年齢差別、ユダヤ人差別、階級差別、体型差別、障害者差別等と本質的につながっている。これらの抑圧は同根なので、人種や性や宗教などの社会的分類による差別を許す社会が、人間以外の動物の搾取を拒むなどということはありえない[132]」と体系的に整理している。

一方、アナキズムとの関連について、John Lupinacci[133]は、「アナキズムは、人間同士の関係や人間を超えた世界との関わり方を支配する不正な権威への抵抗として生まれた。アナキズム的異議申し立ては、常に多様な形で、私たちが世界を想像する方法を再構築しようとしてきた。したがって、ALF(動物解放戦線)、ELF(地球解放戦線)、そしてあらゆる完全解放を支持する運動のようなエコ・アナキズム的学術研究や活動家プロジェクトに取り組む際、アナキズムの貢献を無視することは困難である[134]」と言及している。

この点について、Boisseauの主張が注目される。「アナキズムとヴィーガニズムの結びつきのひとつは、『完全解放』の政治学への信念である(中略)完全解放はアナキズムの理論と実践に強く影響を受け、改⾰主義的政治ではなく、根本的な⾰命的変⾰を求める[135]」と、アナキズムからヴィーガナーキズムへの展開の意義を明確にしているのである。

第4節 完全な解放の具体例:刑事司法制度と動物の権利

では「完全な解放」は、どのような形で実践できるのだろうか。

まず、人間の解放から見ていこう。ここでの焦点は、刑事司法制度である。

例えば、Nocellaは、刑務所制度の問題性に着目している。「一方の当事者が他方によって財産と認識される関係性の現代的事例が、刑務所制度である。米国をはじめとする諸国では、囚人は矯正局の財産とみなされる。憲法修正第13条が現代的な意味での奴隷制を廃止したとはいえ、米国では『正当な手続きを経て犯罪で有罪判決を受けた者』に対して、奴隷制が容認されている。その結果、受刑者は刑務所内で無料または安価な労働力として利用され、ヴィクトリアズ・シークレットやマイクロソフトなど、さまざまな企業の製品を製造している[136]」と述べ、現代奴隷制・産獄複合体としての刑務所制度批判を展開している。

そして、彼は、動物権利運動が、動物に対する不正を明らかにする上で優れた働きをしているものの、人間同士の正義の促進にはあまり成果を上げていない点を批判し、あらゆる形態の不正な抑圧や懲罰的な司法に反対するアナキストの立場の優位性を強調する。非人間動物が安価な労働力であり、しばしば国家の所有物であるのと同様に、人間の囚人もまたそうである。企業に無料の労働力を提供するだけでなく、囚人は食肉処理場や酪農場で強制労働を強いられている[137]。また、動物虐待で告発されたアフリカ系アメリカ人に対する微妙なレトリックや、先住民の狩猟伝統への非難、中国食文化の強調は、無意識の人種差別的イデオロギーに基づいているとし[138]、他の種を虐待する者を処罰するために現行の刑事司法制度を利用することは、有色人種や障害者を搾取してきた懲罰的システムを支持することに他ならないからであると断じている[139]。

加えてヴィーガナーキストが注目しているのが、精神病院である。精神病院と刑務施設は相互に連携し、定期的に施設機能と収容者の役割を交換してきた。病院も刑務所も、女性、障害者、有色人種、政治的異議申し立て者、ホームレスなど、社会から疎外された人々を収容・管理する国家機構として機能したからである[140]。

したがって、ヴィーガナーキズムの観点では、変革に向かう正義は、①あらゆる支配システムの排除、②紛争・犯罪・危害を捉える際の交差するアイデンティティ政治、③あらゆる形態の警察活動・投獄・懲罰的司法への反対が重要であるという。こうした正義は、コミュニティのエンパワーメントや、個人の尊重の促進、社会的に構築された被害者-加害者の二項対立への挑戦、安全で支援的な場を育む批判的教育の構築、相互扶助を用いた他者との協働、直接民主主義に基づく原則と価値観の奨励を基盤にしなければならないと主張されるのである[141]。

一方、動物についても、動物の権利の新たな展開が論じられることになる。

実際、畜産業では、子牛は子牛肉産業へ渡され、母牛は「使い尽くされる」まで搾乳され、屠殺場へ送られて殺され、血を抜かれ、死骸は皮を剥がれ、首を刎ねられ、四肢を切断され、規格化された薄切りにされ、セロファンに包まれ、別の場所へ出荷される。こうした行為は、Nekeisha Alayna Alexisによると、動物農業システムの本質が、男性的な権力・想像力・食欲に奉仕するための、女性の身体と生殖能力を搾取するジェンダーに基づく抑圧形態であると述べる。Alexisによると、飼育動物の福祉と家父長制への抵抗を結びつけることで、産業生産への限定的調整や「人道的」選択肢に象徴される「より静かな檻」を求める要求から、完全な解放の倫理へと移行することの必要性を訴えている[142]。

加えて、こうした搾取は、動物だけでない。グローバル・サウスの資源の搾取も含まれる。例えば、自然食品店で見かけるキヌアは、何世紀にもわたりこの「スーパーフード」を食べてきたボリビアの農村部から奪われている[143]。

したがって、完全な解放思想は、人間の解放だけでなく、動物・地球の解放もとらえなければならないことになる。つまり、ある集団の解放が別の集団を抑圧することによって達成されてはいけないという信念である。「白人が黒人の労働を搾取して自らを解放することはできない。人間が牛や豚を監禁し、屠殺しながら自由を得ることなどできない。森林を伐採し河川を堰き止めながら、この惑星で持続可能な生活を送ることは誰にもできない[144]」。必要なのは、「愛、思いやり、連帯を中心とする原始主義的政治であり、目標は、この惑星を殺している社会的・経済的システムを解体することである。さらに、人間同士だけでなく、人間と人間を超えた世界との間に、真に持続可能な共同体を創出する政治が必要である。その実現には、産業機械にスパナを投げ込んだり、ミンク農場を焼き払うだけでなく、この惑星で抑圧、苦しみ、生態系破壊と闘うあらゆる人々と共に戦う意思を持ち、手を差し伸べる姿勢が不可欠である[145]」と呼び掛けるのである。

その意味で、動物の権利運動は他の社会正義運動とは別物ではない。支配・不平等・搾取に対抗する同じ基本的な戦いの一環であり、すべての解放運動の協力と同盟を通してのみ、解放という普遍的目標は達成されるのである[146]。「動物を助けるのに余分な時間を割く必要はない。脱搾取派(ママ)になって、植物性のものを食べ、動物不使用の衣服を着て、動物実験を経た製品を避け、誰であれ他者を搾取するビジネスを応援しないようにすれば、変化を起こす主体になれる[147]」のである。「諸々の抑圧は手を携えるので、繋がり合う解放を成し遂げるには連帯を築き、すべての差別をしりぞけるほかない[148]」と強調し、「とはいえ、解放運動はまだ中途段階にある。動物の権利団体は公民権や同性愛者の権利や女性の権利を求める戦い―欲を言えばそのすべて―を積極的な行動計画に含める必要がある[149]」と交差性の観点から呼びかけている。

最後に、ヴィーガナーキズムの目標を端的に示したStànescuの文章を挙げておこう。

動物搾取の終焉、刑務所廃⽌、あらゆる形態のジェンダー抑圧の終焉、あらゆる資本主義の終焉のために闘っていると⼝にすれば、必ず「ユートピア的だ」と⾔われる。だが、こうした主張をする⼈々は、間違っている。むしろ、全く逆なのだ。「ユートピア」が実際に意味するのは、⽂字通り「どこにも場所がない」ことである。⼯場式畜産よりも多くの⼟地を消費する「⼈道的な」⾁こそが、真にユートピア的である。なぜなら、このシステムに切り替えるための物理的な余地が地球上に全く残されていないからだ。⼈間が消費するために飼育される年間 1200億頭以上の陸上動物を収容する「場所」は、⽂字通り「どこにもない」。それはユートピア的で、⽂字通り不可能だ。⼯場式畜産よりも多くのエネルギーを消費し、より多くの温室効果ガスを排出する培養⾁こそがユートピア的で、持続不可能だ。資本主義に内在する無限の指数関数的な成⻑はユートピア的であり、これもまた不可能だ。⼀部の活動家が理解していないのは、私たちが住む世界では、「急進的な」解決策だけが「現実的」であるということなのだ。資本主義的な解決策を求める者たちは夢見がちな「夢想家」であり、急進的変革を求める私たちこそが現実的な「現実主義者」なのだ[150]。

おわりに

以上、本論文では、ヴィーガナーキズムについて論じてきた。最後に、全体をまとめよう。アナキズムとは、自由で自治・平等な社会を求める無支配主義が大きな特徴である。

一方、ヴィーガニズムは、肉食を否定する動物解放運動の流れを受けてきた。こうした両者の統合が、ヴィーガナーキズムである。ヴィーガナーキズムの特徴は、あらゆる種に対する差別への批判であり、ある集団の解放が別の集団を抑圧することによって達成されてはいけないという信念である。こうした背景から、ヴィーガナーキズムは、ひとつの抑圧が残される限り、他のすべての解放もありえないという交差性の観点により、動物解放から完全解放へ向かう哲学であることが明らかになった。

また、ライフスタイルと急進派の主張の違いも明らかになった。つまり、急進派の考えは、脱政治化・再商品化されたヴィーガニズムはライフスタイル主義で、それでは動物解放につながらず、急進的なヴィーガニズムを実践すべきだと主張しているのだ。

さらに、これまでの論考と複数のアンケート調査の結果は、本論文の動機でもある「筋の通ったアナキストならヴィーガンになるのも必然(自然)」という一文に相反しないことも判明した。

加えて、グレーバーが言うように「革命が公然たる戦闘で勝利することはめったにない。革命家が勝利するときは、かれらを弾圧するために送り込まれた人間の大半が銃撃を拒否するか、端的に帰宅してしまうときなのだ[151]」と考えるとすれば、アナキズム革命の機は熟していない。なぜならアナキズムを理解している人は少なく、誤解している人も多い。それゆえ革命の日を待つのではなく、革命後の生活を実践する「今・ここで」の考えのアナキストが増えているのではないか。また、スコットは、アナキスト的な信条はアナキズムを全く知らない人々の中でも、相互性、寛容さ、そして自発的な協力関係と互酬性に対する信頼といった形で息付いている[152]」と言う。

だが、ヴィーガナーキズムは、さらに急進的な哲学である。

とはいえ、ヴィーガナーキズムは、今までずっと、種火のまま燻り続けてきた思想であり、一面に燃え広がるのは目前であると考えるのはやはり早計であろう。その理由は、言葉の壁、メディアが歪曲して伝える情報などが挙げられる。また、今の日本社会の問題もある。日本における同調圧力に加えて、ヴィーガンを実践するにあたって自炊は必須となるが、その時間もないほどに皆仕事をしているからである。したがって、最初の一歩は、「なるべくヴィーガン」でいいのではないか。なぜなら続けていけば倫理的にも考えるようになるからである[153]。また、同調圧力を回避するには「隠れヴィーガン」を薦めたい。黙って家でのみヴィーガンを実践する。外では、今まで通り皆と付き合う。そして、気が熟したら表明することを考えれば良いのである。

冒頭で述べたように、筆者はアナキズムとヴィーガニズムの実践者であり、そのことが、本論文の出発点であった。今回の論文を通じて、ヴィーガナーキズムという新たな発見と思想・実践面での探究を進めることができた。確かに、政治経済的にも、思想・宗教的にも混沌とした現実世界では、完全解放は夢物語に思えるかもしれない。しかし、社会正義のもとに、この閉塞した社会を少しでも変えたいと思う気持ちは、多くの人が持っているだろう。今後もヴィーガナーキズムを軸に、理想を追い求め、探究し続け、情報を発信しつづけたい。そして、この哲学が今後どれほどの広がりを見せるのか、これからも当事者として観察していきたいと決意しつつ、本論文を締めくくることにしたい。必要なのは、愛と、思いやりと、連帯[154]。

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[1] ただし、飲食店の中には、製造ラインや調理器具等を動物性食品と共有している場合もあり、ヴィーガンによっては避けることもある。

[2] 田中ひかる『アナキズムを読む』皓星社、2021年、p.11。

[3] 同上書、p.11。

[4] 同 p.11。

[5] 同p.163。また『可能なるアナキズム』の著者である山田広昭は、アナキズムを以下の4つの時期に区切っている。1 ロシア革命(1917年)以前、2 ロシア革命以降、3 1968年以降、4 1991年以降。

[6] 田中、前掲書、p.164。

[7] 同書、p.164。

[8] 同 p.166。

[9] 同 p.166。

[10] 同 p.172。

[11] 同 p.173。

[12] 『ただ生きるアナキズム』の著者である森元斎は、ロジャヴァ革命をさらに詳しく解説している。

[13] 田中、前掲書、p.173。

[14] John C. Alessioは社会学の名誉教授であり、二つの大学で学部長を務めた経歴を持つ。

[15] John C. Alessio, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, p.5.

[16] Will Boisseau, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, p.13.

[17] Anthony J. Nocella IIは教授であり、ハムライン法科大学院紛争解決研究所の上級研究員、批判的動物研究研究所およびセーブ・ザ・キッズの共同創設者兼事務局長を務める。

[18] なお、ゴドウィンの娘メアリーは、小説『フランケンシュタイン』を執筆、登場するモンスターは菜食主義者という説がある。

[19] Anthony J. Nocella II, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 41p.さらにカトリーヌ・マラブーも「アナキズムはかくも多様であり、アナキズム自身の権威をはじめとして何らかひとつの権威に還元することが非常に難しいと述べている(カトリーヌ・マラブー著 伊藤潤一郎,吉松覚,横田祐美子訳『泥棒!アナキズムと哲学』青土社、2024年、p.379)。

[20] Joseph Parampathu, Veganarchism Philosophy, Praxis, Self-criticism, 2020, p.13.

[21] Brian A. Dominick, Animal Liberation and Social Revolution a vegan perspective on anarchism or an anarchist perspective on veganism, 3rd ed., theanarchistlibrary.org, 1997, p.5.

[22] 松村圭一郎『くらしのアナキズム』ミシマ社、2021年、p.23。

[23] Ruth Kinna, The Government of No One, Pelican, 2019/2020(米山裕子訳『アナキズムの歴史: 支配に抗する思想と運動』河出書房新社、2020、p.240).

[24] 同上書、p.373。

[25] 同書、p.374。

[26] ジェームズ・C. スコットは、イェール大学政治学部・人類学部教授である。

[27] James C. Scott, Two Cheers for Anarchism: Six Easy Pieces on Autonomy, Dignity, and Meaningful Work and Play, Princeton Univ, 2014/2017(清水展・日下渉・中溝和弥訳『実践日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』岩波書店、2017年、p.102).

[28] 同上書、p.120。

[29] 山田広昭『可能なるアナキズム——マルセル・モースと贈与のモラル』インスクリプト(2020) p.211。

[30] James C. Scott, 前掲書、p.86.

[31] Lara Drew and Kim Socha, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, p.164.

[32] Ibid., p.172.

[33] Ruth Kinna, The Government of No One, Pelican, 2019/2020, 米山訳 p.103.

[34] John Lupinacci, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, p.181.

[35] 栗原康『アナキズム―一丸となってバラバラに生きろ―』岩波新書、2018年、p.79。

[36] 同上書 p.80。

[37] Joseph Parampathu, Veganarchism Philosophy, Praxis, Self-criticism, 2020, p.64.

[38] Catherine Malabou, Au voleur !: Anarchisme et philosophie, 2022/2024,(伊藤潤一郎・吉松覚・横田祐美子訳)『泥棒! アナキズムと哲学』青土社、2024年p.45)。

[39] 同上書 p.380。

[40] 田中ひかる著「『新しいアナーキズム』はなぜ『新しい』のか ―思想と運動の変容に関する史的考察―」『歴史研究』52号、2015年、p.67。ちなみに、「フード・ノット・ボムズ」とは、以下の三つの原則を共有するボランティア運動のことである。1. 提供される食事は常にヴィーガンまたはベジタリアンであり、制限なくすべての人に無料で提供される。2. 正式な指導者や本部は存在せず、各グループは自律的に運営され、コンセンサスによって意思決定を行う。3. 非暴力直接行動に専念し、非暴力による社会変革を目指す。

[41] Joseph Parampathu, Veganarchism Philosophy, Praxis, Self-criticism, 2020, p.85.

[42] The Vegan Society E-book documenting the history of The Vegan Society, 2014.

[43] 垣本充,大谷ゆみこ『完全菜食があなたと地球を救う ヴィーガン』ロングセラーズ、2020年、p.18。

[44] 同上書 p.58。

[45] 同書 p.61。

[46] 同 p.199。

[47] Erik Marcus. Vegan: The New Ethics of Eating, McBooks Press.2000 (酒井泰介訳『もう肉も卵も牛乳もいらない!』早川書房、2004年、p.249)。

[48] John C. Alessio, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, p.6.

[49] Brian A. Dominick, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 38p.

[50] Kevin Watkinson & Dónal O’Driscoll, “From Animals to Anarchism,” Dysophia Open Letter #3, 2014, p.17.(dysophia.org.uk).

[51] Mark Hawthorne, A Vegan Ethic: Embracing a Life of Compassion Toward All, Changemakers Books, 2016/2019(井上太一訳『ビーガンという生き方』緑風出版、2019年、p.18).

[52] 同上書 p.19。

[53] 同書 p.51。

[54] 同 p.80。

[55] 同 p.85。

[56] 同 p.86。

[57] 同 p.92。

[58] Peter Singer, Why Vegan?: Eating Ethically, Liveright Pub Corp, 2020/2023(児玉聡・林和雄訳『なぜヴィーガンか? 倫理的に食べる』晶文社、2023年、p.7).

[59] 同上書 p.120。

[60] 保井 啓志『権利の名のもとに―イスラエルにおける性的少数者の権利と動物の権利―』東京大学出版会、2025年、p.146。

[61] 同上書 p.147。

[62] 同書、p.168。

[63] 同、p.187。動画での紹介「これから、世界で一番ヴィーガンの軍隊をお見せします。イスラエル国防軍では、一万人を超えるヴィーガンの兵士がいます。これは兵土18人に1人がヴィーガンだということになります! 全ての兵士は、レザーの代わりにヴィーガンのブーツを、ウールの代わりにヴィーガンのベレー帽を、そして毎食ごとにヴィーガン食の選択肢を選ぶ自由があります。[israel Defense Forces 2019]」。

[64] テルアビブ大学法学部教授。

[65] 保井、前掲書、p.187。

[66] Brian A. Dominick, Animal Liberation and Social Revolution a vegan perspective on anarchism or an anarchist perspective on veganism, 3rd ed., theanarchistlibrary.org, 1997, 4p.

[67] Ibid., p.5.

[68] Will Boisseau, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 13p.

[69] Ibid., 18p.

[70] Will Boisseau, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 23p.

[71] Brian A. Dominick, Animal Liberation and Social Revolution p.12.

[73] Ibid., p.16.

[74] Institute for Critical Animal Studies(ICAS) https://criticalanimalstudies.org/about/ 2025/12/9参照

[75] John Lupinacciは教育学における文化研究・社会思想プログラムで教鞭を執るワシントン州立大学の助教授である。

[76] John Lupinacci, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 184p.

[77] Aragorn Eloff, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 194p.

[78] Ibid., p.195.

[79] Mark Hawthorne, A Vegan Ethic: Embracing a Life of Compassion Toward All, Changemakers Books, 2016/2019(井上太一訳『ビーガンという生き方』緑風出版、2019年、p.11).

[80] Erika Cudworthはイースト・ロンドン大学国際政治学・社会学准教授である。

[81] Erika Cudworth, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 100p.

[82] Ibid., p.103.

[83] Ibid., p.104.

[84] Kevin Watkinson & Dónal O’Driscoll, from animals to anarchism, Dysophia Open Letter #3, 2014, (dysophia.org.uk).

[85] Anthony J. Nocella II, Richard J. White and Erika Cudworth, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 10p.

[86] Anthony J. Nocella II, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 44p.

[87] Will Boisseau and Jim Donaghey, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 73p.

[88] Ibid., p.73.

[89] Ibid., p.81.

[90] Len Tilbürger and Chris P. Kale, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, Active Publishing, 2024, 207p.

[91] Ibid., p.209.

[92] Ibid., p.209.

[93] Ibid., p.209.

[94] Ibid., p.209.

[95] Ibid., p.211. [96 Ibid., p.214.

[97] Richard J. Whiteはシェフィールド・ハラム大学経済地理学上級講師、アナキスト地理学が専門。

[98] Richard J. White, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 218p.

[99] Ibid., p.224.

[100] Joseph Parampathu, Veganarchism Philosophy, Praxis, Self-criticism, 2020, 19p.

[101] Ibid., p.21.

[102] Ibid., p.22.

[103] Ibid., p.22.

[104] Ibid., p.26.

[105] Ibid., p.32.

[106] FreeganのWebサイト https://freegan.info/ 2025/12/27参照 *free + vegan = freeganである。

[107] Joseph Parampathu, Veganarchism Philosophy, Praxis, Self-criticism, 2020, p.41.

[108] Ibid., p.71.

[109] Ibid., p.75.

[110] Ibid., p.75.

[111] Concentrated animal feeding operationの略、アメリカの集中家畜飼育施設。

[112] Joseph Parampathu, Veganarchism Philosophy, Praxis, Self-criticism, 2020, p.79.

[113] Ibid., p.80.

[114] Ibid., p.81.

[115] 一般的な批判は他を参照されたし。例えば『ビジテリアン大祭』宮沢 賢治 2012 青空文庫 Kindle版。 近年発表された、百年ほど前に書かれた童話。ベジタリアン・ヴィーガンへの批判と反論が今日とほぼ同じである。

[116] Will Boisseau, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 29-31p.

[117] Ibid., p.38.

[118] Ibid., p.38.

[119] Vasile Stànescuはマーサー⼤学コミュニケーション学科の准教授兼学科⻑を務める。

[120] Vasile Stànescu, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, 218p.

[121] Nóra Ugron and Maria Martelli, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, 163p.

[122] Brian A. Dominick, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 36p.

[123] Ibid., p.36.

[124] Flower Bomb, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, 48p.

[125] Kevin Watkinson & Dónal O’Driscoll, from animals to anarchism, Dysophia open letter #3, 2014, 13p. dysophia.org.uk

[126] Ibid., p.27.

[127] Nathan Poirierはランシング・コミュニティ・カレッジの数学・社会科学講師である。

[128] Nathan Poirier, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, 197p.

[129] David N. Pellowは、ミネソタ大学のドン・マーティンデール社会学教授である。

[130] David N. Pellow, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 3p.

[131] Anthony J. Nocella II, Richard J. White and Erika Cudworth, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 13p.

[132] Mark Hawthorne, A Vegan Ethic: Embracing a Life of Compassion Toward All, Changemakers Books, 2016/2019(井上太一訳『ビーガンという生き方』緑風出版、2019年、p.71).

[133] John Lupinacciはワシントン州立大学の助教授である。

[134] John Lupinacci, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 184p.

[135] Will Boisseau, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, 23p.

[136] Anthony J. Nocella, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 49p.

[137] Ibid., p.50.

[138] Ibid., p.50.

[139] Ibid., p.49.

[140] Ibid., p.53.

[141] Ibid., p.56.

[142] Nekeisha Alayna Alexis, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 122p.

[143] Mara J. Pfeffer and Sean Parson, Anarchism and Animal Liberation: Essays on Complementary Elements of Total Liberation, McFarland Publishing, 2015, 129p.

[144] Ibid., p.136.

[145] Ibid., p.137.

[146] Mark Hawthorne, A Vegan Ethic: Embracing a Life of Compassion Toward All, Changemakers Books, 2016/2019(井上太一訳『ビーガンという生き方』緑風出版、2019年、p.11).

[147] 同上書、p.130。

[148] 同、p.131。

[149] 同、p.131。

[150] Vasile Stànescu, Veganarchism: Making Veganism and Anarchism Dangerous Again, 2024, Active Distribution Publishing, 2024, 225p.

[151] デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ著、酒井隆史訳『万物の黎明―人類史を根本からくつがえす―』光文社、2023年。

[152] James C. Scott, Two Cheers for Anarchism: Six Easy Pieces on Autonomy, Dignity, and Meaningful Work and Play, Princeton Univ, 2014/2017(清水展・日下渉・中溝和弥訳『実践日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』岩波書店、2017年、p.ix).

[153] Ruby Ramsden著、飯塚俊太郎監訳「日本のヴィーガニズム―『ゆるやかな』積極行動主義を通じた肉食国家の意識変革―」Melbourne Asia Review (https://www.melbourneasiareview.edu.au/日本のヴィーガニズム:「ゆるやかな」積極行動/ 2025/12/27参照)。

[154] 「連帯」とは、自らの政治思想を完全に共有する者を支援することではない。それは不正義と闘う者たちを支援することである―たとえ彼らの前提、方法、政治、目標が我々自身と異なろうとも。(ISM Canada 2004).