Title: ナショナリズムと「民族問題」
Author: Murray Bookchin
Date: 1994
Source: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/nationalism.html(2023年2月18日検索)
Notes: この論考は、1994年に「Democracy and Nature」誌(2004年から「The International Journal of Inclusive Democracy」)の第二巻第二号に掲載された。本テキストの原文(英文)はhttp://www.democracynature.org/dn/vol2/bookchin_nationalism.htmで読むことができる。「nation」や「nationality」という言葉を日本語に翻訳し難かったが、文脈に応じて適宜「国」「民族」「国民性」「国籍」「愛国心」といった言葉を当てた。尚、原文においてバクーニンの引用について原註の番号が混乱している部分があったため、修正している。(訳者)(Anarchy In Japanより)


左翼(左翼をどのように定義しようとも)が直面している最も悩ましい問題の一つは、社会発展において、そして、文化的アイデンティティと政治主権を大衆が求めている中で、ナショナリズムが果たす役割である。19世紀の左翼にとって、ナショナリズムは主として欧州の問題だと見なされ、資本主義の中心地における様々な国民国家の連結という問題だった。反帝国主義闘争は、そして恐らくは反資本主義闘争も、仮にあったとしても二次的なものに過ぎず、20世紀になって問題となったのである。

だからといって、19世紀の左翼が帝国主義による植民地世界の略奪行為を好ましく思っていたというわけではない。今世紀の変わり目、真面目な急進主義思想家は、私が知る限り、植民地の自決運動を鎮圧しようとする帝国主義権力を喜ぶべきことだと見なしはしなかった。左翼は、世界の「野蛮な」地域に「進歩」をもたらすという欧州権力の傲慢な主張を一蹴し、通常は非難していた。帝国主義に関するマルクスの見解は曖昧だったかもしれないが、帝国主義者の手によって原住民族が被っている苦痛を心から嫌悪しないことは一度もなかった。そして、アナキストは欧州が世界にとって文明の光になるという主張にほとんどいつも敵対していた。

しかし、左翼が19世紀終わりの帝国主義者の文明要求を普遍的に軽蔑していたかどうかということになれば、左翼は概してナショナリズムを議論の余地のある問題だと見なしていた。「民族問題」--こうした議論が投げかけられるときに伝統的に使われた言葉を使えば--は、確かに戦術が関係している限り、真面目な論争の主題だった。ただ、一般的に合意されていたことだが、左翼主義者は、国民国家創設に至るナショナリズムを、集産主義・共産主義社会における人間の未来の究極的制度として見なしてはいなかった。実際、第一次世界大戦前と両大戦間の左翼が合意していた単一原則は、人は異なる文化・民族・ジェンダー集団のどれに属していようとも共通の人間性を持っており、協働の能力・物質的資源を共有する意志・強烈な共感の感覚を持った理性的人間として自由社会の中でお互いを補い合う親和力を持っている、という信念だった。ボルシェヴィキ革命まで、そしてそれ以降さえも、社会民主主義者・社会主義者・アナキストが一様に共有していたアンセム「インターナショナル」は感動的な叫びで終わっていた。「インターナショナル、われらがもの」(訳注:原文を直訳すれば、「インターナショナルは、人類である」)。左翼は国際プロレタリア階級を近代社会変革の歴史的動作主として選び出した。それは、階級としての特異性や発展しつつある資本主義社会の一要素としての特殊性に基づいていたのではなく、階級社会廃絶のために普遍性を確立する必要に基づいていた--つまり、プロレタリア階級は、奴隷状態それ自体を廃絶することによって賃金奴隷を排除する必要性に突き動かされた階級だった。資本主義は、人間搾取という歴史的「社会問題」をその最終形態・最高次の形態へと持ち込んだ。普遍的責任感と共に「いざ闘わんいざ!」(訳註:原文を直訳すれば、「これは最終闘争だ!」)と「インターナショナル」は鳴り響く--野蛮な階級利権に関わる「先史時代」から、完全に解放された人間性という「真の歴史」へと移行する可能性を覆さない限り、いかなる革命運動もこの響きを無視し得なかった。

この見解は、最低でも、戦前と両大戦間の左翼が、特に様々な社会主義傾向を持つ左翼が、共有していた。アナキストは歴史的に国家--特に優れたヒエラルキー型強制機関--の廃絶を最優先だとしていたが、これは、直接、国民国家とナショナリズム全般の侮蔑となった。ナショナリズムが人間を地域的・文化的・経済的に分断するからだけでなく、近代国家の勃興に付随し、近代国家をイデオロギー的に正当化していたからでもある。

ここでは、19世紀と20世紀前半3分の1に国際主義の伝統が左翼に対して非常に重要な役割を果たしていたこと、そして、この伝統が非常に問題のある「問題」--特にローザ=ルクセンブルグとレーニンの著作において--へと変異したことを取り上げる。これは、少なからぬ重要性をはらんだ「問題」である。この重要性を認識するためには、20世紀が終わりに近づく--獰猛な偏見を持ったナショナリズムが左翼の国際主義伝統を転覆している--につれ、今日このことを取り巻く完全な混乱について考えるだけでよい。ジェンダーアイデンティティと性的好みの差異は言うに及ばず、最も些細な言語的・疑似部族主義的違いを含めた人間間の人種的・宗教的・伝統文化的違いにつけ込むナショナリズムの勃興は、人間性の文明化であり、ニコス=カザンザキスが「その男ゾルバ」で指摘していたような、血なまぐさい闘争において人々が指で作った十字の印の数で自分と隣人が互いの内蔵を取り出すかどうかを決めるといった時代への退却なのだ。

特に厄介なのは、左翼が常にナショナリズムを退行的要求として見なしていないことである。現在のような近代左翼は、「民族解放」スローガンを無批判に受け入れていることが余りにも多すぎる。このスローガンは、「インターナショナル」で声にされた基本的理念などお構いなしに、その階層の中に反響している。部族的「アイデンティティ」の要求は、グループの特別な性格を甲高く強調し、有権者を獲得する。これは、「インターナショナル」と左翼の伝統的国際主義の精神を否定する活動である。ナショナリズムの意味、そして、ナショナリズムと国家主義との関係の性質は、特に今日、様々な問題を惹起している。左翼が「民族解放」のアピールと離れた理念を失っているからである。

今日の左翼主義者が初期の国際主義左翼の存在記憶全てを--動物のような背景から人間が歴史的に出現し、民族性・ジェンダー・年齢の違いといった生物学的事実から市民性・平等・共通人間性という普遍的感覚に基づく真の社会的親和性に向けて数千年掛けて発展してきたことは言うまでもなく--失っているのなら、啓蒙運動によって理性に与えられた大きな役割が深刻な疑念状態にあっても不思議ではない。ナショナリズムのあらゆる通俗的変異形に抵抗し、望むらくはそれらを乗り越えることのできる人間的結び付きの形態--それが再構成された左翼・新しい政治・社会的リバータリアニズム・復活した人道主義・相補性倫理といった形態を取ろうと取るまいと--がなければ、核戦争・増大する生態系危機・もっと一般的には史上最も破壊的な時期に匹敵する文化的野蛮状態が我々を圧倒する遙か以前に、我々が正当に文明と呼べること、実際、人間精神それ自体が消滅したとしても不思議ではない。そして、今日のナショナリズムの成長を考えれば、ナショナリズムの性質を検証し、様々な形態の左翼が長年にわたり解釈してきたいわゆる「民族問題」を理解することほど重要な試みはないだろう。

歴史的概観

人間発達のレベルは、大部分、人間がその共通結束を認識する範囲で評価できる。実際、個人的自由の大部分を構成しているのは、友人・パートナー・仲間・姻戚を生物学的差異とは無関係に選ぶことができる能力である。我々を人間にしているのは、高い水準の一般化で判断を下し、変化しやすい社会制度へと提携し、協力して仕事をし、非常に象徴的なコミュニケーションシステムを発達させる能力だけでなく、ユマニタスに関する共通知識なのである。ゲーテの印象的な言葉--啓蒙運動の精神に非常に特有の--は人間性の基準として今も付きまとっている。「愛国的憎しみが消え失せ、人が国家をある程度まで越えて立ち、隣人の幸福と悲哀を自分に起こったことであるかのように感じる文化レベルが存在する。」[1]

ゲーテが本物の人間性の基準をここで確立した--確かに「自民族」への共感よりももっと多くのことを人間に求めることができる--とするならば、この基準によれば初期の人類は人間以下だった。今日のエコロジー運動にいる変人分子は「更新世の霊性に戻る」ことを求めているが、恐らく、現実にその「霊性」は除霊されていることに気付くだろう。有史以前の時代の特徴は群的・部族的社会組織だったと思われるが、人類は、「霊的」にせよ何にせよ、まず第一に近親者の成員であり、第二に群の成員であり、究極的には部族の成員だった。自身の家族グループを越えた何かの成員であるかどうかを決めるのは、親族的繋がりの延長だった。一定部族の民族は現実の血縁もしくは架空の血縁によってお互いが社会的に結び付けられていた。この「血の誓約」が、ジェンダーや年齢のような他の「生物学的事実」と共に、自身の権利・義務・部族社会における人のアイデンティティを定義していた。

それ以上に、多くの--多分大部分の--群や部族グループは、自分達と「血の誓約」を共有している人だけを人間だと見なしていた。実際、多くの場合、一つの部族は自分達を「唯一民(the People)」だと述べていた。自分達だけが人類であるという主張を表明した名前である。現実にもしくは神話的に血の繋がりを持った部族の魔法円の外にいる他の民族は、「異邦人」であり、従って、ある意味で人間ではなかった。「血の誓約」と自分達を指名する際の「唯一民」という名の使用は、共通の言語的・文化的特性を持っている民族の間でさえ、自分達が人間であり「唯一民」であるという全く同じ排他的主張をしている部族同士を対立させることが多かった。

実際、部族社会は、その成員ではない人に対して極度に用心深かった。多くの地域で、異邦人が領地の境界を横切る際、先に進む前にその領地権を主張する部族の長老や巫女からの招待を従順に辛抱強く待たねばならなかった。疑似宗教的美徳だと一般に考えられている手厚いもてなしなどなく、通常、信頼や善意の儀式的行為が一時的滞在場所と食べ物よりも上位に置かれているために、異邦人は部族の領地で生命を危険にさらしていたのだった。現代の握手は、それ自体、自分の右手には武器がないことを象徴的に表現することに起源を持っているかも知れない。

今日欧米の白人中産階級の間で表面上平和的な「エコロジカルな先住民族」が高いほとんどカルト宗教的な地位を享受しているが、有史以前の祖先達とその後の先住民コミュニティに戦争はつきものであった。狩猟採取集団が自分達のいつもの領地で獲物を乱獲すると、頻繁に起こったことだが、彼等は近隣集団の地域を大喜びで襲撃することが多く、その資源を自分達のものだと主張しようとした。一般に、戦士社会の勃興後、戦争は経済的だけでなく文化的な性格をも獲得した。従って、言語的・文化的に同族のイロコイ一族がヒューロンインディアンを大量虐殺に近いほど殲滅させたことが目撃されているように、勝利者は、現実の「敵」や自分が選んだ「敵」を打ち負かしたというだけではなく実質的に殲滅したのである。

古代中東とオリエントにあった主要帝国が多くの民族的・文化的集団を征服し、制圧し、従属させると、その結果、異邦民族は専制君主国の絶望的臣民にさせられた。先住民の家父長制を腐食した唯一の重要要因は、都市の勃興だった。古代都市の勃興は、アテネのような民主制であろうと、ローマのような共和制であろうと、徹底的に新しい社会傾向に特徴付けられる。部族的・村落的世界を構成している家族志向で家父長的一族とは逆に、西洋都市は今や住居の近さと共通の経済的利益を中心として次第に構造化されていった。キケロが呼んだように人道主義的な社会的・文化的結び付きという「第二自然」が、生物学的・血族的結び付きという「第一自然」に基づく旧来の社会組織形態に置き換わり始めた。旧来の社会組織形態では、人間の社会的役割と義務とは、自分達の選択に関係していたのではなく、家族・氏族・ジェンダーなどで固定されていた。

語源的には、「政治」(politics)はギリシャ語のpolitikaに由来し、積極的に関与する市民を暗示している。市民は、コミュニティやポリスの政策を形成し、大抵、公的サービスの過程でそれらの政策を日常的に実行する。公式的市民権にはこうした政治への参加が必要だったが、民主制アテネのようなポレイス(諸ポリス)は訪問者に対して開放的であり、特に、他の民族コミュニティの熟練職人と知識を持つ商人に対しては開放的だった。有名な追悼演説で、ペリクレスは宣言した。「我々は世界に我が都市を開放する。敵の両目は時として我々の寛容さのおかげで得をするかもしれないが、異質な行為のために外国人から学習や観察の機会を剥奪することはない。制度や政策よりも市民が持つ本来の精神を頼りにしているからだ。教育という点で、幼少期から痛々しい規律によって男らしさを求める所(スパルタ)もあるが、アテネでは、我々はまさしく自分が好きなように生きるとともに、それでもなお、あらゆる正当な危険に直面する用意ができているのだ。」 [2]

ペリクレス時代、アテネの寛容性は、確かに、市民の共通祖先という非常に架空の概念によって--以前ほどではなかったが--なおも制限されていた。しかし、プラトンの弁証法的名著「共和国」が、セファロスの自宅で行われた対話として示されているという事実を無視することはできない。セファロスの家族は居住外国人であり、アテネの外国人の大部分が生活していた港湾地域ピレウスに住んでいた。しかし、この対話それ自体で、市民と異邦人とのやり取りは、いかなる身分的考慮によっても制約されてはいない。

ローマ皇帝のカラカラは、当時、帝国の自由民全てを、法律上平等な権利を持つローマ「市民」にした。そのことで、言語・民族・伝統・居住地の違いにも関わらず、人間関係を普遍化させた。キリスト教は、その欠点にも関わらず、神の目には全ての人の魂は平等だと讃えていた。この天上の「平等主義」は、開放的な中世都市と結び付き、人類を互いに分断していた家系・民族・伝統といった最後の属性を理論的に排除した。

現実には、こうした属性がなおも維持されていたことは言うまでもない。そして、様々な民族がその村落・地元・都市さえもに対する家父長的忠誠を保持し、普遍的ユマニタスという薄っぺらなローマ--特にキリスト教--理念に対抗した。統一された中世世界は、法律上、無数の男爵や貴族の主権領地に寸断され、領主や地域に対する地元民衆の責務が教区化され、文化的・倫理的に近しい民族が他の地域の民族と対立することが多かった。カトリック教会は、こうした偏狭な主権領地に反対した。それは教義上の理由だけでなく、キリスト教王国全体にローマ法王の権威を拡充できるようにするためでもあった。世俗権力に関して言えば、英国のヘンリー二世のような気まぐれだが強力な君主は、成功の程度は様々ながらも、敵対する貴族を鎮圧しながら、大きな領地に対して「王の平和」を押し付けようとした。つまり、法王と国王は、絶え間なく拡大する封建的世界の統制をめぐってお互いに闘っていたにも関わらず、偏狭性を排除すべく歩調を合わせて活動していたのである。

しかし、本物の市民は、中世に欧州の多くの場所で古典的政治活動に深く関与していた。中世都市民主主義の自由市民は本質的に名匠達だった。ギルド--つまり充分に連接した同業者仲間--の仕事は、経済的であると同時に道徳的だった。実際、本物の道徳経済の構造的基盤を形成していた。ギルドは、地元市場を「規制」し、「適正価格」を決定し、会員の商品の質が確実に高くなるよう請け負った。それだけでなく、ギルドは自身の旗を持つ別格の存在として市の祭や宗教行事に参加し、資金援助をし、公共建築物を建設する手助けをし、死亡した会員の家族の生活を保護し、慈善事業へのお金を集め、自分が属している地域を防衛するために義勇軍として参加した。最良の場合、その都市は、逃亡した農奴に自由を与え、旅行者の安全に責任を持ち、市民の自由を固守した。町の人々は、金持ちと貧乏人・権力者と無力者・略奪貴族に対抗して君主制を支持する「ナショナリスト」へと最終的に分化していったが、これら全ては複雑なドラマを作り上げており、ここで論じることはできない。

様々な時代と場所で、国家でも偏狭な男爵領でもない連合形態を創造した都市が存在した。ハンザ都市同盟のように数世紀も続く都市間連邦、スイスのような州連邦、もっと一時的ではあったが、19世紀初頭のスペインのコムニェロ運動のような自由都市連合を実現する試みもあった。何らかの形態の中央集権が欧州の永続的主権国を苦心して作り上げ始めたのは、17世紀--特にクロムウェルの英国とルイ十四世のフランス--になってからだった。

強調しよう。国民国家は国家なのである。主権国だというだけではない。国民国家創設とは、中央集権型の専門的官僚装置に権力を与えるという意味である。これが組織暴力--特に軍隊と警察という形態の--を社会的に独占する。国家は、全権を持った行政官を使って地元や地方の自律性を阻止する。共和政体国家では立法府が使われ、そのメンバーは一定数の「有権者」を代表するよう選挙で選ばれたり指名されたりする。自主管理型地元地域の市民は、適正量の税金を支払い、国家の「サービス」を受給する無名の個人の集合体に消え失せてしまう。国民国家において「政治」は一群の交換関係に移譲され、通常、有権者は商品とサービスに関わる「政治」市場で自分が代価を支払ったものを手に入れようとする。部族主義の一形態としてのナショナリズムは、共通の言語的・民族的・文化的親和性を持つ民族の忠誠心を提供することで、国家を大きく強化する。実際、一見して民族間に包括的な生物学的・伝統的共通性があるかのように見える基盤を与えることで国家を正当化している。イングランドを創ったのはイングランド人ではなく、イングランドの君主達と中央集権型支配者達だった。丁度、フランスの王達とその官僚達がフランス国をでっち上げたのと同じである。

実際、国家建設が15世紀に新たな活力を獲得し始めるまで、欧州の国民国家は珍しいものであり続けていた。言語的共通性に最低限基づいた中央集権型権威が西欧と米国でナショナリズムを育み始めたときでさえ、ナショナリズムの運命は非常におぼつかなかった。連邦主義は19世紀後半まで国民国家に対する実行可能な代案であり続けていた。1871年に、パリコミューンは、新しく創設された第三共和制に反対する連邦二重権力を形成するようフランスの全コミューンに呼びかけた。結局、この複雑な闘争で勝利を収めたのは国民国家であり、実際に、国家主義はナショナリズムと断固として結び付いていた。20世紀の始まりまでに、これら二つは互いを実質的に区別できなくなっていたのだった。

ナショナリズムと左翼

共産主義的で共同的な社会を構築する活動についてナショナリズムが提起した数多くの歴史的・倫理的問題を左翼の急進的理論家と活動家が扱うやり方は千差万別だった。歴史的に、初期の左翼主義者はナショナリズムを自由で公正な社会の出現を阻む一つの問題として探求しようとしたが、これは様々なアナキスト理論家に由来していた。ピエール-ヨセフ=ブルードンは、人間の連帯という理念を一度も疑問視したことはないようである。ただ、彼は、他者の権利が侵害されないことが確実となっているならば、文化的特異性を持ち、いかなる種類の「社会契約」からも脱退しさえする権利を一民族に与えることを一度も否定したことはなかった。プルードンは奴隷を嫌悪した--彼は皮肉たっぷりに、米国南部は「聖書を手に、奴隷を育成している」が、米国北部は「既にプロレタリア階級を創造している」と述べていた [3] --が、1861年~1865年の南北戦争中に連邦から脱退する権利を南部連合国に対して公式に認めていた。

もっと一般的に言えば、自身の連邦主義・相互主義の見解のために、プルードンは、ポーランド・ハンガリー・イタリアのナショナリズム運動と敵対することになった。彼の反ナショナリズムは、幾分、自身のフランス贔屓で希釈されている。フランス社会主義者のジャン=ジョレスが記しているように、プルードンはフランス国境もしくは国境近くに強力な国民国家が形成されることを恐れていた。しかし、彼は彼なりに啓蒙運動の産物でもあった。1862年に彼は次のように宣言していた。「私は、人間の権利よりも自分の祖国への献身を優先するつもりはない。フランス政府がいかなる人民に対してであれ不公正に行動するならば、私は深く嘆き悲しみ、できる限りあらゆる方法を使って抗議する。フランスが指導者の悪行を罰するならば、私は頭を垂れ、魂の奥底から『Merito haec patimur』と述べる。--我々はこうした苦難を被ってしかるべきだったのだ。」[4]

彼のフランス愛国主義にも関わらず、「人間の権利」はプルードンの精神で最も重要なものであり続けていた。また、彼が、インドと中国が、彼の言葉で言えば、「野蛮人のなすがままに」[5] されているという事実に気付いていないわけではなかった。彼はゲルツェンに書いていた。「フランスのエゴイズム・自由の憎悪・ポーランド人とイタリア人に対する軽率が、私に愛国心というありふれた言葉をあざけり、疑うようにさせているとでも思うのか?この言葉は、あまりにも広く使われ、あまりにも多くの悪党を創り、非常に多くの正直な市民がずいぶん多くのナンセンスを話している。後生だから(中略)そんなにすぐに腹を立てないで欲しい。腹を立てるなら、私は君の友達であるガリバルディについて6ヶ月間述べ続けてきたことを君に言わねばならなくなる。『心は広いが、頭は空っぽだ』と。」 [6]

ミハイル=バクーニンの国際主義はプルードン同様断固たるものだった。ただ、彼の見解もある種の曖昧さに特徴付けられている。「全ての人に普遍的で共通していることだけを人間的原則と呼ぶことができる」と彼は国際主義の調子で書いていた。「愛国心は人間を分断する。従って、これは原則ではない。」 [7] 実際、「愛国心という虚構の原則を全民衆の情熱の極致だと掲げることほど、バカげていることはなく、同時に、民衆にとって有害で致命的なものはない。」結局、バクーニンにとって重要だったのは「愛国心は普遍的な人間原理ではない」ということだった。彼はさらに進めて次のように記している。「我々は、あらゆる国家的利益よりも人間の普遍的正義を上に置かねばならない。そして、愛国心という誤った原理をきっぱりと放棄しなければならない。これは、フランス・ロシア・プロシアが自由という最高原理を破壊する目的で最近発明したのだ。」

しかし、バクーニンは同時に宣言していた。愛国心は「歴史的・地元地域的事実である。全ての現実的で無害な事実同様、一般的承認を求める権利を有する。」それだけでなく、これは「尊重」に値する「自然な事実」でもある。これは彼独特の言い回しの傾向だったかもしれず、この傾向のために彼は自分が「常に、あらゆる抑圧された祖国の誠実なる愛国者」だと表明したと思われる。ただ、彼は、全ての愛国心が「独自の性質に従って存続する」権利は尊重されねばならないと主張した。何故なら、「権利」とは「単に、自由の一般原理の必然的帰結」だからである。

バクーニンの意見の鋭さを、この一見して自己矛盾に見えることのただ中で見過ごしてはならない。彼は一般原理を人間的なものとして定義していた。この原理は反社会的事実や「生物学的」事実を制限したり部分的に侵害したりするが、良かれ悪しかれ当然のこととして認めねばならない。ナショナリストであることは人間以下であることであるが、同時に、個人が明確な文化的伝統・環境・精神状態の産物である以上、避けられない。「愛国心」という単なる事実を曇らせるのは、より高次の普遍的原理である。この原理において、人間が自身を同じ種の成員として認め、「国民的」特殊性よりも共通性を促そうとするのである。

こうした人道的原理は、一般にアナキストに非常に重大に受け入れられることとなり、近代最大のアナキズム運動であるスペインのアナキストは、ひときわ重大に受け止めていた。1880年代初頭から1936年~1939年の血なまぐさい内戦まで、スペインのアナキズム運動は国家主義とナショナリズムだけでなく、あらゆる形態の地方主義にも反対した。カタロニアで莫大な支持を得たものの、スペインのアナキストは、民族解放よりも社会解放というより高次な人間的原理を常に提起していた。スペイン内部のナショナリズム傾向に敵対し、そのためにバスク人・カタロニア人・アンダルシア人・ガリシア人を互いに分断することも多く、特に、この国の少数派に対して文化的優越性を享受していたカスティリア人とは袂を分かっていた。実際、イベリアアナキスト連盟(FAI)の名に現れているように「スペイン人」よりも「イベリア人」という言葉の方が、半島の連帯に対する関与だけでなく、スペインとポルトガルの地方的・民族的区別に対する中立性を表現する役目を果たしていた。スペインのアナキストは、他の主要急進主義傾向よりも、エスペラント語を「普遍的」人間言語として育み、「世界的同胞愛」はその運動の永続的理念であり続けていた--現在に至るまで大部分のアナキズム運動が歴史的にそうだったように。

1914年まで、19世紀のナショナリズムの増大にも関わらず、マルクス主義者と第二インターナショナルも同様の信念を持っていた。マルクスとエンゲルスの観点では、世界のプロレタリア階級は国を持たなかった。確かに階級として団結しながら、あらゆる形態の階級社会を廃絶することになっていた。「共産党宣言」は熱狂的アピールで終わっている。「万国の労働者、団結せよ!」この著作(バクーニンがロシア語に翻訳した)の本論で、著者は宣言していた。「諸国のプロレタリア階級が自国で闘争する際、(共産主義者は)国籍とは無関係に、全プロレタリア階級共通の利益を指摘し、前面に押し出す。」 [8] そして、さらに述べる。「労働者は国を持たない。持たぬものを彼等から奪うことはできない。」[9]

マルクスとエンゲルスが「民族解放」闘争に差し出した支持は、本質的に戦略的なものだった。幅広い社会原理からではなく、主として地政学的・経済的関心からだった。例えば、彼等はポーランドがロシアから独立することを精力的に支持した。これは、その当時、欧州大陸で最高の反革命権力だったロシア帝国を弱体化させたかったからである。さらに、彼等は統一ドイツを見たいと思っていた。中央集権型の強力な国民国家が、エンゲルスが1882年にカール=カウツキー宛ての書簡で「欧州ブルジョア階級の通常政体」と呼んでいたことを提供してくれると思われたからである。

しかし、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」で使っていた国際主義的言い回しとアナキズム理論家やアナキズム運動の国際主義とが明らかに類似しているからといって、これら二つの社会主義に存在する重要な差異を隠すことはできない--この差異こそが議論において重要な役割を果たし、これら二種類の社会主義を分断することとなった。アナキストはあらゆる点で倫理的社会主義者であり、「人間の兄弟愛」と「友愛」という普遍的原理を掲げていた [10] が、マルクスの「科学的社会主義」はこの原理を単なる「抽象」だとして軽視していた。後年、自由と虐げられた人々について大雑把に話をする時でさえ、マルクスとエンゲルスは、「作業者」や「労働者」のような一見して「不正確な」言葉が「科学」としての社会主義を暗に否定していると考えた。その代わり、もっと科学的に厳密な言葉だと彼等が考えた「プロレタリア階級」--剰余価値を生成する人々のことを明確に示す--を選んで使っていた。

実際、プルードン--資本主義の蔓延と産業革命前の農民・職人のプロレタリア化は破滅的だと考えていた--のようなアナキズム理論家とは逆に、マルクスとエンゲルスは、市場経済を繁栄させうる大規模な中央集権型国民国家の形成だけでなく、こうした発展をも熱狂的に歓迎した。彼等はこれらを、経済発展を促す上で必須だというだけでなく、資本主義を促すことが社会主義の前提条件を創り出す上で不可欠だと見なしていた。プロレタリア階級の国際主義を支持していたものの、彼等はナショナリズムそれ自体の「抽象的」糾弾だと自分達が見なしたことを中傷したり、単に「道徳主義的」だとして軽蔑したりしていた。マルクスとエンゲルスにとって階級連帯のための国際主義は必須であり続けていたが、彼等の見解は、19世紀の中央集権型国民国家にとって資本主義経済の拡張が必要だという自分達の言質と暗に食い違っていた。彼等の考えでは、資本の拡大を・「生産力」の進歩を・産業化前の民族のプロレタリア化を進展させるか、抑制するかによって、国民国家は良くも悪くもなる。基本的に、彼等は、インド・中国・アフリカ諸国といった非資本主義世界の民族主義感情を不信感を持って眺めていた。前資本主義形態は資本主義の拡大を妨げるかも知れないというわけだった。皮肉なことに、アイルランドはこのアプローチの例外だったようだ。マルクス・エンゲルス・マルクス主義運動全体はアイルランドの民族解放権を認めていた。その理由の大部分は感情的なものであり、また、世界市場を支配していた英国帝国主義に問題を引き起こすと思われたからだった。概して、社会主義社会が確立できるようになるまで、マルクス主義者は、欧州における大規模で非常に中央集権的な国民国家の形成を「歴史的進歩」だと見なしていた。

彼等の道具的地政学を考えれば、年を経るに連れて、マルクスとエンゲルスがビスマルクのドイツ統一計画を本質的に支持するようになったことは驚くべきことではない。ビスマルクの方法とビスマルクがその利益を代弁していた地主階級を彼等は明らかに嫌っていた。しかし、私はそれを余りに真面目に受け取ってはならないと思う。彼等はドイツがデンマークを併合することを歓迎し、チェコとスラブのような小規模欧州民族のオーストリア-ハンガリー帝国への統合、そしてイタリアの国民国家への統一を呼びかけた。これらは市場範囲と欧州大陸での資本主義の支配権を拡大するためだった。

マルクスとエンゲルスが1870年の普仏戦争で--ドイツ社会民主党にいる彼等の近しい支持者、ヴィルヘルム=リープクネヒトとアウグスト=ベーベルが反対していたにも関わらず--少なくとも、ビスマルク軍がフランス国境を越えて1871年にパリを包囲するまでビスマルクの軍隊を支持していたことも驚くべきことではない。皮肉なことに、第一次世界大戦の勃発に際し、欧州のマルクス主義者はマルクスとエンゲルスの主張を呼び覚まし、反戦派の同志たちと分かれ、それぞれの国の軍隊活動を支持することとなった。戦争賛成のドイツ社会民主党員はカイゼルをロシアの「アジア的」野蛮主義に対抗する防波堤だ--マルクスとエンゲルス自身の見解と合致しているように思える--として支持した。一方、フランス社会党員は(英国にいてその後にロシアに移ったクロポトキンと同様に)、「プロシア軍国主義」に反対した自国の大革命の伝統を呼び覚ました。

ローザ=ルクセンブルグは献身的マルクス主義者というよりもアナキズムに近かったという主張が広くなされているが、実際には、彼女はアナキズム形態の社会主義が持つ動機に精力的に反対しており、一般に思われている以上に教条的マルクス主義者だった。ポーランドの民族主義とピウスツキのポーランド社会党(ポーランドの民族独立を要求していた)に対する彼女の反対は、ナショナリズム全般に対する彼女の敵意と同様、実際に見事であり勇敢であった。これは、原理的に「人間の同胞愛」に対するアナキズム的信念にではなく、伝統的マルクス主義の主張に基づいていた--つまり、マルクスとエンゲルスの願望を拡大し、たとえ新たなねじれを付け加えることになろうとも、東欧の民族性を犠牲にして統一した市場と中央集権国家を求めることに基づいていたのである。

世紀の変わり目になると、新たな考慮事項が表面化するようになり、ルクセンブルグは自分の見解を修正せざるを得なくなった。当時の多くの社会民主主義理論家のように、ルクセンブルグは資本主義が進歩的段階から大きな反動的段階へと進んだという確信を共有していた。資本主義は今や、もはや歴史的に進歩する経済秩序ではなく、反動だった。テクノロジーを進歩させ、階級意識や革命的プロレタリア階級さえをも生み出すと思われていた「歴史的」機能を実現したからだった。レーニンはこの帰結を自身の有名な著作「帝国主義:資本主義の最高段階」において体系化した。

従って、レーニンもルクセンブルグも第一次世界大戦を帝国主義だと論理的に批判し、協商国と同盟国を支持した全ての社会主義者と決別し、彼等を「社会的愛国者」だと嘲った。レーニンが明らかにルクセンブルグと違っていたのは(中央集権型党組織を彼が支持していたという有名な問題はさておき)、帝国主義の時代に「民族問題」を資本主義に対してどのように--厳密に「現実的な」立場から--利用できるかについてだった。レーニンにとって、ツァーリズムのロシアを含め、経済発展途上の植民地諸国における宗主国からの解放を求めた民族闘争は、今や、資本の権力の土台を崩す役目を果たす限り、本質的に進歩的だった。つまり、民族解放闘争に対するレーニンの支持は、ルクセンブルグを含めた他のマルクス主義者の支持と同じぐらい本質的に実利的だった。「諸民族の牢獄」と適切に見なされていた帝国主義ロシアに対し、レーニンは、いかなる条件下でも離脱し、自身の国民国家を形成する無条件の権利を非ロシア民族が持つことを擁護した。その一方で、彼は次のように主張した。ロシアの植民地諸国にいる非ロシアの社会民主党員は、ロシアの社会民主党がプロレタリア革命を達成した場合には、「母国」とのある種の国家連合を支持しなければならないだろう、と。

したがって、レーニンの前提もルクセンブルグの前提も非常に似通っていたが、これら二人のマルクス主義者は、「民族問題」とそれを解決する矯正方法について全く異なる結論に達した。レーニンはポーランドが自身の国民国家を樹立する権利を求めたが、ルクセンブルグは、それは経済的に不可能であり退行的だと反対した。レーニンは、ポーランド独立に関するマルクスとエンゲルスの支持を共有した。その理由は全く異なっていたものの、実利的であるという点は同じだった。彼は、ロシア内戦中、ロシアを離脱する権利に関する自分の立場を守らなかった。これは、グルジアを扱うやり方に最も甚だしく現れた。グルジアは、ソヴィエト政権がボルシェヴィズムの国内変種を無理矢理受け入れさせるまで、メンシェヴィキを支持していた非常に独特な国だった。グルジア共産党が国家を指揮した後、自身の晩年の数年間になって初めて、レーニンは、グルジアのをロシアに従属させようというスターリンの試みに反対した。メンシェヴィキ賛同のグルジア民衆にとって、これは何の関わりもない、主として党内の闘争に過ぎなかった。レーニンは、この--そして他の--政策や組織実践に関してスターリンと闘うだけ充分長くは生きなかった。

民族問題に対する二つのアプローチ

このため、第一次世界大戦後の「民族問題」に関するマルクス主義・マルクス-レーニン主義の議論は非常に複雑な遺産を残し、1920年代と1930年代の旧左翼だけでなく、1960年代の新左翼の政策に影響を与えた。ここで明確にしなければならないのは、アナキストとマルクス主義者がナショナリズム一般を見る際の全く異なる前提である。アナキズムの大部分は、その変種のいくつかを除き、ナショナリズムを助長している国民国家に反対する上で、人道主義的で、基本的に倫理的な理由を示した。もっと詳しく言えば、アナキストがこのようにしていたのは、民族的区別が国家の形成を導き、人間の団結を覆し、社会を偏狭にし、人間の条件が持つ普遍性よりも文化的特異性を助長することが多いからだった。「社会主義科学」としてのマルクス主義は、このような倫理的「抽象」を避けていた。

国家と中央集権化に対するアナキズムの反対とは逆に、マルクス主義者は中央集権国家を支持していただけでなく、資本主義と市場経済の「歴史的な進歩的」性質を主張した。国内市場として、そして、地元と地方の統治権が創り出していた国内の交易障害物全てを取り除く手段として、中央集権国家が必要だった。マルクス主義者は一般に、抑圧された人々の民族的情熱を政治戦略の問題と見なし、より大きな倫理的考慮事項とは無関係に、厳密に実利的な考慮事項のために、支持すべきだとか反対すべきだとか述べていた。

このように、ナショナリズムに対しては左翼の中に全く異なる二つのアプローチが現れていた。アナキストの倫理的反民族主義は、文化的区別を正当に承認し、国民国家形成には常に反対しながら、人間の団結を擁護した。一方、マルクス主義者は、主として前資本主義文化という民族主義の要求について、様々な実利的・地政学的理由で支持したり反対したりしていた。この違いに例外がないわけではない。第一次世界大戦前のオーストリア-ハンガリー帝国にいた社会主義者は、雑多な民族が戦前の帝国を構成していたために、かなり多国籍だった。彼等は、この帝国のドイツ語圏指導者と、社会主義者の大多数だったスラブ系メンバーとの間に連邦的関係を求めた。これはアナキズムの見解に近かった。「プロレタリア革命」が実際に成功したときにレーニンが自分の規定を固守したほどにも、彼等が自身の理念を現実に受け入れたかどうかは分からない。元々の帝国は1918年に消滅し、当時呼ばれていた「オーストリア-ハンガリーマルクス主義」が持つ明らかなリバータリアニズムは、両大戦間の時代に疑わしくなってしまった。名誉のために付言すれば、1934年2月にヴィエナで、オーストリアの社会主義者は、他の運動--スペイン人は例外である--とは異なり、血なまぐさい市街戦で原始ファシズムの発展に抵抗した。この運動は、1945年に復活したが、その革命的活力を回復することはなかった。

ナショナリズムと第二次世界大戦

両大戦間の時代の左翼--いわゆる旧左翼--は、急速に近づいている対ナチスドイツ戦争を1914年~1918年の「大戦」の継続だと見なした。反スターリン主義のマルクス主義者は、これを束の間の戦闘であり、1917年~1921年以上に遙かに徹底的なプロレタリア革命で終わりになるだろうと予測した。重要なことだが、トロツキーはこの予測に正統派マルクス主義それ自体に対する自分の支持を賭けていた。彼は提案した。戦争がこの結果で終わらなかった場合、正統派マルクス主義のほとんど全ての前提を検証し、抜本的に見直さねばならないだろう、と。1940年に彼は死んだため、自分でそうした再評価をできなくなった。だが、戦争が国際プロレタリア革命で終結しなかったにも関わらず、トロツキーの支持者は、トロツキーが示唆した徹底的再検証を行おうとはしなかった。

しかし、この再検証は非常に必要だった。第二次世界大戦は、欧州のプロレタリア革命で終わらなかっただけではなかった。革命的プロレタリア社会主義の時代全てを終わりにし、パリの労働者階級がバリケードを築き「社会共和国」を支持して赤旗を掲げた1848年6月に出現した階級志向型国際主義を終わらせたのである。第二次世界大戦後にプロレタリア革命を成功させるなどとはほど遠く、欧州の労働者階級は戦争中に国際主義をうわべだけでも示すことすらできなかった。一世代前の父親達と異なり、交戦中の軍隊が親交を結ぶこともなく、空爆と火砲によって都市が莫大に破壊されたにも関わらず、市民が戦争遂行に対して政治・軍事指導者達にあからさまな敵意を示すこともなかった。ドイツ軍は西欧の連合軍に対して絶望的に闘い、ヒットラーの地下壕を最後まで守る覚悟をしていた。

結局、増大する階級区別意識と欧州の戦争とは、民族主義に移行した。一部は、お膝元であるドイツの占領に対する反応であり、また、もっと重要なのだが、あからさまな人種差別主義に等しいほどの粗野な外国人恐怖症が復活した結果としてだった。特にフランス・イタリア・ギリシャにおいて戦後しばらくして階級志向型運動が僅かばかり実際に出現したが、冷戦下でソヴィエトの利益に仕えるようスターリン主義者によって容易く操作されてしまった。従って、第二次世界大戦は第一次世界大戦よりも長く続いたにも関わらず、その結果は1917年~1921年の政治的・社会的水準に達することはなかった。実際、第二次世界大戦から出現した世界資本主義は、史上どの時代よりも強力だった。主として経済・社会事象に国家が莫大に介入したためである。

「民族解放」闘争

こうした発展を踏まえても、真面目な急進主義理論家は、トロツキーが企図したようにマルクス主義理論を再検証できなかった。そのため、旧左翼は急速に没落し、プロレタリア階級はもはや資本主義を転覆する「覇権的」階級ではないということが一般的に認識され、資本主義の「全般的危機」はなく、戦後の出来事においてソヴィエト連邦が国際主義の役割を果たせなかったのである。

その代わりに前面に出てきたのが「第三世界」諸国の民族解放闘争であり、東欧諸国における散発的な反ソヴィエトの勃発--大部分がスターリン主義の全体主義によって握りつぶされてしまったが--であった。こうした例で、左翼は、多くの場合、民族闘争を全般的「反帝国主義」活動であり、帝国主義からの「自律」--植民地世界の大衆民主主義を犠牲にしたとしても--を正当化する国家形成だと受け止めていた。

マルクスとエンゲルスが戦略的理由から民族闘争を支持することが多かったが、20世紀の新旧左翼は、共に、そうした闘争への支持を思慮のない信念条項へと高めることが多かった。マルクス主義型運動の戦略的「民族主義」は、多くの場合、「民族解放」運動がどのような社会生み出す見込みが高いのか、という問いを排除した。このようなことを19世紀のアナキズムのような倫理的社会主義はしなかった。1920年代から1930年代の旧左翼にとって最も重大な関心事は、特筆すべき適例を挙げれば、中国国民党を打ち負かした際に毛沢東がどのような種類の社会を中国に樹立するのかを問うこと--実際にそうではなかったにせよ、そうあるはずだった--であり、1960年代の新左翼は、他の重要な実例を引用すれば、バチスタの追放後にカストロがキューバでどのような種類の社会を樹立するのかを問うことであったはずだった。

しかし、20世紀を通じて、植民地諸国における「第三世界」民族解放運動が、社会主義についてお決まりの公言をし、そして、高度に中央集権型の、残忍ですらある、権威主義国家を樹立する方向に進んでも、左翼は敵の帝国主義に対する有効な闘争だと歓迎することが多かったのだった。「民族解放」が進むに連れ、民族主義は大規模な社会変革を進めることを思い止まることが多く、社会変革の必要性を無視しさえした。権威主義的な社会主義形態の明言は「民族解放」運動に利用されてきた。スターリンが社会主義イデオロギーを利用して自分の独裁を強化したのと同じやり方である。実際、マルクス-レーニン主義は、帝国主義権力に対する「民族解放」闘争を動員し、外国の左翼急進主義者の支持を得るために非常に効果的な原理だと判明している。外国の左翼急進主義者は、「民族解放」運動を、その真の社会的内容を観察せずに、主として反帝国主義闘争だと見なしていた。

つまり、大衆主義的で、多くの場合アナキズムでさえある諸傾向が欧米新左翼に生じたにも関わらず、その本質的な国際的焦点は、欧米圏外での「民族解放」闘争の無批判な支持に向かっていった。こうした闘争が何処を指揮し、その指導部が権威主義的性格を持っていることなどどうでも良かったのだ。1960年代が進んでいくに連れ、この途方もなく混乱した運動は、実際に、発端となっていたアナキズムの雰囲気と普遍主義的雰囲気を徐々に減らしていった。毛沢東の実践が新左翼の中で「主義」へと高められた後、多くの若い急進主義者は「毛沢東主義」を遠慮なく採用し、新左翼全体に惨憺たる結果をもたらした。1969年までに、新左翼は毛沢東主義者とフィデル=カストロ崇拝者にほぼ乗っ取られた。中国の田園地方で毛沢東主義者が行っていた活動を無批判に賞賛した「翻身 Fanshen」のような明らかに誤解されやすい本が、1960年代後半に賞賛され、多くの急進主義集団が、自分達が毛沢東主義組織実践だと受け取ったことを採用した。新左翼の注目の焦点が第三世界の「民族解放」闘争に大きく当たっていたが故に、1969年のチェコスロバキアに対するロシアの侵攻は若い左翼主義者の真面目な抗議行動を生み出すことはなかった。少なくとも合州国ではそうだったと私は個人的に証言できる。

1960年代は、左翼の中に別種の民族主義形態の出現を見た。次第に、熱狂的な民族的愛国主義グループが出現し始め、最終的に、白人の方が優越しているという欧米の主張を、それと同じぐらい反動的な、非白人の方が優越しているという主張へと反転させた。人種政治が、ユマニタスの潜在的普遍主義ではなく、排他主義へ退化したことを認めながらも、新左翼は、その理論的ピラミッドの頂点に黒人・植民地原住民族・全体主義的植民地諸国さえをも置き、白人・欧米人・ブルジョア民主主義諸国との関係の中で、それらに指揮的・「覇権的」立場を与えた。1970年代に、ある種のフェミニストがこの排他主義戦略を採用し、男性に対する女性の「優越性」を賞賛し始めた。実際、女性が持っているとされる神秘的「力」や非合理主義を、全ての男性の領域だとされる世俗的合理性と科学的探求よりも肯定し始めたのだった。「白人男性」という言葉は、明らかに軽蔑的な表現となり、支配階級とヒエラルキーによってその人が搾取され・支配されているかどうかに関わらず、全ての欧米男性に普遍的に適用された。

非常に偏狭な「アイデンティティ=ポリティックス」が出現し始め、多くの新左翼を圧倒しさえし始めた。私ならばこれを新しい「マイクロナショナリズム」と命名する。こうした「アイデンティティ」運動のある種の傾向は家父長制のような非常に伝統的な抑圧形態の諸傾向によく似ているが、それだけでなく、「アイデンティティ=ポリティックス」は、「インターナショナル」が持つリバータリアンの、そして一般的なマルクス主義さえもの、メッセージから退却し、真の人道主義的共産主義社会における「マイクロナショナリズム」的差異全てから脱却している。今日、「急進主義意識」として受け入れられていることは、ジェンダーや民族性のような生物学的な人間区別の強調に次第に移っている--19世紀のアナキスト著述家が宣言し、「共産党宣言」にさえも公言されている人間の普遍性を促す必要性の強調ではない。

新しい国際主義に向けて

こうした左翼の思考退化と今日生じている諸問題をどのように評価すればよいのだろうか?私はここまでナショナリズムを人間の社会進化というより大きな歴史的文脈に置こうとしてきた。人間社会は、部族の内部連帯から、徐々に拡大する都市生活・中世における大きな一神論宗教が促した普遍主義へ、最終的に19世紀における理性・世俗主義・協働・民主主義に根差した人間的親和性という理念へ進化していった。我々は確信を持って言うことができる。こうしたアナキズム・リバータリアン社会主義の「人間の同胞愛」という概念--確かに「インターナショナル」に表現されている--以下の事を志向する運動はいかなるものであれ、人間以下なのだ。実際、20世紀終わりの観点からすれば、我々には、19世紀の国際主義が要求していた以上の事を求める義務がある。文化的差異が相利共生的に人間の団結それ自体を強化する働きをする相補性倫理を定式化する義務がある。要するに、それは、人間の状態を新しい「国民性」と国民国家の増加へと分断・分解するのではなく、人間の状態を豊かにし、その前進を促す活気に溢れた諸文化の新しいモザイクとなるのである。

文化的多様性と人間の団結という理念とを、新社会がどのようなものであるべきかという倫理概念--人間性という点で普遍主義的、全ての生活レベルにおける人間関係という点で協働的、社会関係の理念において平等主義的--と結合させる急進的社会展望の必要性も同じぐらい重要である。「民族問題」に対するほとんど全てのマルクス主義的姿勢は、その階級見解が国際主義ではあるものの、道具的だった。その姿勢を主導していたのはご都合主義と日和見主義であり、さらに悪いことに、民主主義・市民権・自由という理念を「抽象的」であり、恐らくは「非科学的」概念だと見なすことが多かった。傑出したマルクス主義者は、マルクスやエンゲルスであろうとルクセンブルグであろうとレーニンであろうと、国民国家にあらゆる強制力と中央集権的特徴を与えることを受け入れた。こうしたマルクス主義者は連邦主義を必須だとは見なさず、例えば、ルクセンブルグの著作では、連邦主義は、互いに連邦することになる自治体の徹底的な社会的・政治的・経済的民主化が必要だというアナキズムの強調にしかるべき敬意を払わずに、この政治思想が持つあらゆる可能性を不毛なものだとして、自分の時代に存在するもの(特に、スイスのカントン連邦の苦難)としてだけ受け止めている。ほとんど例外なく、マルクス主義者は国民国家と国家中央集権化それ自体を真剣に批判してこなかった。これは、あらゆる「集産主義的」成果はさておき、少なくとも、理性的社会を確立しようという試みを最初から失敗させる怠慢なのだ。

強調させていただきたい。文化的自由と多様性をナショナリズムと混同してはならない。特定民族が自身の文化的能力を十全に発達させる自由を持つべきだということ、これは単に権利だというだけでなく、必須でもある。様々な文化の堂々たるモザイクが、近代資本主義が創り出した莫大な文化剥奪均質化世界に置き換わらなければ、世界は殺風景な場所になってしまう。さらに、文化的差異が偏狭化され、「文化的差異」のように見えることがジェンダー・人種・肉体の優越性という生物学主義的概念に根元を持っているならば、世界は完全に分断され、民族は慢性的に相互対立することになろう。歴史的に、領土境界線に沿った諸民族の国民的連結が確かに社会的領域を生み出したという感覚がある。この社会領域は、都市が部族よりも大きな人間的親和性を促す傾向を持つのと同じように、明らかに異邦人に対してもっと開放的であるため、親族社会の基盤となる狭い親族関係よりもっと幅広かった。しかし、部族的親和性も領土境界も、豊かでありながら調和的な文化的差異を持つ共通性という十全な感覚を確立する人間の潜在的可能性の実現を果たさなかった。精神風景の中だけでなく、この惑星の地図上にも、国境の存在場所はない。

この種の倫理的見解に影響されておらず、文化的多様性にしかるべき敬意を払う社会主義が、新旧左翼が共にあまりにも頻繁にこれまで行ってきたように、民族解放闘争の潜在的結果を無視することなどできない。民族解放闘争を帝国主義を「弱める」単なる手段として道具的目的で支援することもできない。確かに、そのような社会主義は、私の見解では、国民国家の蔓延を促すことなどできず、断固たる民族的統一体の増大も促すことなどできない。皮肉なことに、多くの「民族」解放闘争は、政治的に独立した国家主義体制を創り出す効果を持つ。しかし、このような体制は、一般的に鈍感な旧来の帝国主義的資本主義よりも国際資本主義諸勢力に操作されやすいのだ。大抵、「第三世界」諸国は、第二次世界大戦の終結以来、植民地の足枷を脱却してこなかった。単に、飼い慣らされ、民族自決という外観程度のものを持って、国際資本主義諸勢力の影響を非常に受けやすくなってしまっただけだった。それ以上に、「民族主権」という神話を利用し、自分達の周囲にある隣接領域を強奪する外国人恐怖症的野望を助長している。西アフリカでンクルマ体制下ガーナがトーゴ民族に対して弾圧を行い、ミロセビッチはボスニアからムスリムを「浄化」しようとした。同様に退行的なのは、こうしたナショナリズムは民族の過去にある最も邪悪なことを喚起する--あらゆる形態の宗教原理主義・伝統的な「外国人」憎悪・国内の酷い社会的経済的不平等を圧倒する「民族的団結」・最もよくあるのが、完全な人権無視である。文化的統一体としての「国民」は、圧倒的で抑圧的な国家機構にその座を奪われている。人種差別主義は「民族解放」闘争と手に手を取って進むことが多い。現在中東・インド・コーカサス・東欧で最も痛烈に目にしている「民族浄化」と領土獲得戦争がその例だ。たった一世代前ならば「民族解放」闘争だと見なすことのできたナショナリズムは、今日では、ソヴィエト帝国の崩壊直後から、社会的悪夢・野蛮に復する破滅の原因に過ぎないのだとさらにハッキリ見えてきている。

乱暴に述べて見よう。ナショナリズムは、啓蒙運動がだいぶ前に克服しようとした退行的先祖返りである。抑圧された民族がふりほどこうとしてきた帝国の最悪の特徴を注入しているのがナショナリズムなのだ。ナショナリズムは、植民地権力が押し付けてきたものと同じぐらい抑圧的な国家機構を再生産することが多いだけでなく、文化的・宗教的・民族的・外国人恐怖症的特性で国家機構を強化している。こうした特性は、多くの場合、地方や自国内さえもの憎悪と半帝国主義を促すために利用される。本物の民衆民主主義がない中で、当然の如く反帝国主義的な闘争の後遺症として、帝国主義それ自体が強化されることが非常に多い。大国が、一見して植民地を剥奪されたように見えても、以前の植民地だった国家を他の国家に敵対させることができるほどである。これは、アフリカ・中東・インド亜大陸を荒廃させている対立に見られる。付言すれば、これらの地域で核戦争が起こる可能性は、世界の他の場所で何年も前に経験した時よりも高い。イスラエルの核爆弾に対抗すべくイスラムが開発している核爆弾や、インドの核爆弾に対抗すべくパキスタンが開発している核爆弾--これら全ては、南側のためにならないし、北側との対立のためにもならない。実際、前植民地は以前の帝国主義支配者との同盟を積極的に求める傾向があり、これは、今や、北側に対抗する南側の団結というよりも、北と南の外交上の駆け引きが持つ典型的特徴となっている。

ナショナリズムは、常に、人間と人間を分断する病理であった--伝統的マルクス主義者ならばこの概念を「抽象的」だと見なすかも知れないが。ナショナリズムを、部族的地方根性への回帰・コミューン間の戦争の火種に過ぎないと見なすことなどできない。「第三世界」と東欧において新しい国家を生み出してきた「民族解放」闘争が、帝国主義の拡大を損なったり、十全に民主的な国家に帰結したりしたこともない。スターリン主義帝国から「解放された」民族が共産党支配下よりも抑圧されていないからといって、ほとんど全ての国民国家が助長している外国人恐怖症がないとか、資本主義と資本主義メディアが生み出す文化的均質化がないなどと信じ込まされてはならない。

確かに、隷属されている民族が自律的統一体として自身を確立する権利に反対できる左翼リバータリアンはいない--それがリバータリアン自治体連合論に基づく連邦であれ、ヒエラルキー型階級不平等に基づく国民国家としでであれ。しかし、抑圧者に対抗することは、以前は植民地化されていた国民国家が行うこと全てを支持するよう呼びかけることと同じではない。倫理的に言えば、一方が誤りを犯しているときにそれに反対できないのであれば、同じ誤りを犯している他方をも支持していることになる。陳腐だが簡潔な格言--「敵の敵は友ではない」--は、抑圧された人々に特に当てはまる。こうした人々は全体主義者・宗教的狂信者・「民族浄化者」に操作されてしまう可能性がある。本物の倫理は、正真正銘の人道主義の潜在的可能性から判断され、それを前提としているように、リバータリアン社会主義、つまりアナキズムは、社会的事柄の中に理性の声が聞こえるようにするのであれば、その倫理的誠実さを保持しなければならない。1960年代に、東南アジアで米帝国主義に反対し、同時にハノイの共産主義政権への支持を拒否した人々は、そして、カストロの全体主義を支持せずにキューバへの米国の介入に反対した人々は、こうした闘争が持つ権威主義的・国家主義的目標を考慮せずに「民族解放」闘争を支持することで主として合州国に対する叛乱を行った新左翼主義者よりも高い道徳基盤に立脚していた。確かに、こうした新左翼主義者は、積極的に支援している権威主義者と一体感を持ちながらも、結局は、自分の解放思想に倫理基盤がないために困惑を深めていた。実際、今日、ナショナリズムと国家主義に基づく解放思想は、世界中で内ゲバ殺戮という恐るべき血の収穫を生み出してきた。東ドイツのような最近「解放された」国家でさえ、ナショナリズムはファシスト運動の勃興に暴力的表現を見出している。ドイツのナショナリズムは、亡命希望者の移民制限・ジプシーのようなナチズム犠牲者を含めた「外国人」に対する暴力などを企図している。つまり、マルクス主義が元々助長していたナショナリズムに対する道具的見解は、道徳破産の状況において、社会民主党のような多くの「左翼主義」傾向を置き去りにしているのである。

付言すれば、倫理的に、態度を示さねばならない社会的諸問題がある--例えば、白人と黒人の人種差別主義・家父長制と家母長制・帝国主義と「第三世界」全体主義。倫理的社会主義が社会主義それ自体の廃墟から出現するとすれば、人種差別主義・ジェンダー抑圧・支配それ自体に断固として反対することは常に最優先事項でなければならない。しかし、同時に、左翼主義者がいかなる立場もとり得ないような諸問題--一つの立場を選ぶことが、基本的に不合理な社会が押し進める代案の中で活動し、幾つかの不合理性や悪の中でも他よりもましなものを選ぶことになるような--が時として生じる世界の中に我々は住んでいる。こうした選択を全て拒否し、一つの悪に対して小さな悪を対立させることは結局最悪の悪弊の出現を支持することになると宣言したからといって、それは政治的無力さの兆候ではない。ドイツの社会民主党は、1920年代に次から次へと「小さな悪」を助長することで、自由主義から保守までを、そして反動をも支持することとなり、最終的にはヒトラーに権力をもたらした。不合理な社会では、慣例的知恵と道具主義は不合理性の増大をもたらすことができるだけであり、美徳を聖皿として利用し、それ自身の立場と社会とにおける基本的矛盾を隠蔽してしまう。

「生命・消化・呼吸のプロセスのように」、愛国心は、「その権利が否定されて初めて、自身に関与するする権利を持つ」とバクーニンは述べていた。これは、当時としては充分洞察力のある言明だった。現代における野蛮なナショナリズムの急増とさらに多くの国民国家を創設しようというナショナリストの怒号にまみれた欲求とを踏まえ、私は次のことを付け加えねばならない。「愛国心」は消化不良の一形態であり、社会がこの病気のためにこれ以上荒廃しないようその原因を吐き出さねばならないのだ。

代案を求めて

ナショナリズムが回帰的だとするなら、それに対していかなる理性的・人道主義的代案を倫理的社会は提供できるのだろうか?自由社会に国民国家の場所はない--国であろうと国家であろうと。集団的アイデンティティを求める衝動を特定民族がどれほど強く持っていようとも、理性と倫理的行動への関心とが、ペリクレス時代のアテネのポリスさえをも越える高い水準で、都市や町の普遍性・直接民主主義の政治文化を復元するよう我々に強いてくる。アイデンティティは、コミュニティによって適切に置き換えられねばならない--人間規模で、非ヒエラルキーで、リバータリアンで、個人のジェンダー・民族特性・性的アイデンティティ・能力・個人的傾向には関わりなく万人に開かれている共通の親和性によって。こうしたコミュニティ生活を復活させることができるのは、私がリバータリアン自治体連合論と呼んできた新しい政治だけである。つまり、そこに住む人々が自主管理できるよう自治体を民主化し、こうした自治体の連邦を形成して国民国家に対する対抗権力になるのである。

分権型社会において民主化された自治体が経済的・文化的偏狭に陥る危険は非常にあり得る。これを排除できるのは物質的相互依存に基づく生き生きとした自治体連邦しかない。コミュニティ生活の「自給自足」--たとえ現在可能であっても--は、本物の草の根民主主義を保障しない。自治体要素間のやり取り・協力・相互扶助の媒体としての自治体連邦は、一方の極にある強力な国民国家、そして他方の極にある偏狭な町や都市、これら両者に対する唯一の代替案を提示する。連邦諸機関への自治体代理人が更迭・交代・弛まぬ公的規制の対象となる十全に民主的な連邦は、地元地域の自由を地方レベルに拡大し、地元の排他性へと内向きにならずに様々な町が持つ文化的多様性が花開くことができるよう、地元と地方との繊細な均衡を可能にする。実際、有益な文化的特性は、同時に、物質的生活手段を形成する商品とサービスの交換と共に、様々な連邦内・連邦間でいわば「売買される」ことになろう。

同様に、「財産」は自治体化される。国有化(国家権力を経済権力で強化するだけ)でも集産化(私的企業の権利を「集産的」形態に焼き直しただけ)でも私有(競争市場経済の再出現を促す)でもない。自治体化された経済は、人の独占利権・職業利権・専門利権にではなく、コミュニティにいる人のニーズと市民権に完全に基づく用益権システムに近いものとなろう。自治体市民集会が経済政策を管理する場所で、生産手段と生活手段を管理したり、「所有」したりする人は誰一人としていない。地方資源を管理する連邦手段が全体の経済行動を調整する場所で、偏狭な利権は、より大きな人間的利益ともっと民主的な利益に関わる経済的配慮に道を譲ることが多くなろう。自治体と自治体連邦が扱う問題は経済的自己利益の範疇ではなくなる。人間のニーズを満たす際の民主的手続きと単純な公平さに焦点が当たることになろう。

人々が自分のライフスタイルを選択できるようにし、民主主義政治に十全に参加する自由時間を持てるようにするテクノロジー資源は、私がここで概説したリバータリアンで連邦的に組織された社会に絶対に必要だと認めようではないか。最良の倫理的意志であっても、ある種の寡頭政治を生み出しかねない。生活手段に対するアクセスの差異は、人生に幸福をもたらすものを他の市民よりも多く手にするエリートを導く。同様に、エコ神秘主義者とディープエコロジストが助長している禁欲主義は狡猾な反動である。これは、自分自身のライフスタイルを選択する自由--思慮のない消費者になることに対して既存社会に存在する唯一の代案--を無視しているだけでなく、人間的自由それ自体を「自然」の命令というほとんど神秘主義の概念に服従させている。最も極端な例を挙げれば、「更新世時代に戻る」、新石器時代に戻る、採取生活に戻るといった処方箋を出しているのだ。自由な生態調和社会--権威主義のエコロジーエリートや「自由市場」が調節する社会とは異なる--は、リバータリアン自治体連合論の生態調和的連邦形態という点からしか位置づけられない。自由コミューンが国に置き換わり、連邦的組織形態が国家に置き換わったとき、人間はナショナリズムから抜け出すであろう。

March 5, 1993

[1] [原註1] Goethe, quoted in Bertram D. Wolfe, Three Who Made a Revolution: A Biographical History, 3rd rev. ed. (New York: The Dial Press, 1961), p. 578.

[2] [原註2] Thucydides, The Peloponnesian War, book 2, chapter 4.

[3] [原註3] Pierre-Joseph Proudhon, letter to Dulieu, December 30, 1860; in Correspondence, vol. 10, pp. 275-76; republished in Stewart Edwards, ed., Selected Writings of Pierre-Joseph Proudhon, trans. Elizabeth Frazer (Garden City, N.Y.: Anchor Books, 1969), p. 185.

[4] [原註4] Pierre-Joseph Proudhon, La Federation et l'unite en Italie (1862), pp. 122-25, in Edwards, Selected Writings, pp. 188-89.

[5] [原註5] Proudhon, letter to Dulieu, December 30, 1860, in Correspondence, vol. 10 (Paris, 1875), pp. 275-76; republished in Edwards, Selected Writings, p. 185.

[6] [原註6] Proudhon, letter to Alexander Herzen, April 21, 1861, in Correspondence, vol. 11, pp. 22-24; in Edwards, Selected Writings, p. 191.

[7] [原註7] バクーニンの引用は全て、P. Maximoff, ed., The Political Philosophy of Bakunin: Scientific Anarchism (New York: Free Press of Glencoe; London: Collier-Macmillan Ltd., 1953), pp. 324-35 からである。強調は筆者。

[8] [原註8] Karl Marx and Friedrich Engels, "Manifesto of the Communist Party," Selected Works, vol. 1 (Moscow: Progress Publishers, 1969), p. 120.

[9] [原註9] Ibid., p. 124.

[10] [原註10] こうした言葉にはジェンダー性--バクーニンが生きていた時代の産物--があるが、明らかに人間性全般を表していると解釈できよう。