#title 国家に対する闘争 #author ネストル゠マフノ #LISTtitle 国家に対する闘争 #date 1996年 #source https://note.com/bakuto_morikawa/n/n74d4a0f6bba7?magazine_key=m9b94cb01246f(2026年2月15日検索) #lang ja #pubdate 2026-02-17T19:49:20.446Z #authors Nestor Ivanovych Makhno #topics ロシア, ウクライナ, 組織, スペイン, ユダヤ, ソ連, アナキズム, ロシア革命, 綱領主義 #notes 本書は、マフノがパリに亡命した後に書かれた論考の選集です。その昔に翻訳をしていたのですが、頓挫していました。意欲が湧いてきたので、完訳します。ここでは目次を以下に示し、翻訳をアップするたびにリンクを貼ります。マフノとマフノ運動の年表については[[https://note.com/bakuto_morikawa/n/n581d5d8da73f][こちら]]を参照してください。 ** 第一章 ウクライナの十月大革命 1917年10月はロシア革命における大きな歴史的分岐点である。都会と地方の勤労者が自分達の生活とその社会的・経済的遺産を掌握する権利を自覚するようになったからだ。その遺産とは、土地の耕作・住宅・工場・鉱山・交通、そして最終的には教育である。教育はこれまで、私達の祖先からこうした財産全てを剥奪するために利用されてきた。 ただ、私達からすれば、ロシア革命の内実全てを見れば、全てを十月に集約するなど的外れである。実際、ロシア革命はそれ以前の数カ月間で計画されていた。この期間、地方の農民と都会の労働者は本質を理解していた。確かに、1917年の二月革命は勤労者にとって経済的・政治的解放のシンボルとなった。しかし、勤労者はすぐ気付いた。二月革命は、進展するにつれ、堕落した自由主義ブルジョア階級の特徴を採用するようになり、それ自体では社会改革活動プロジェクトに着手できないと判明した。そこで、勤労者は二月革命の制限を即座に振り払い、二月革命の疑似革命的側面や目標ときっぱり決別し始めたのである。 ウクライナでこの活動は二つの形を取った。当時、都会のプロレタリア階級は、アナキズムの影響力の貧弱さ・国内の現実政策と国内問題に関する情報不足を考慮し、社会革命党右派とブルジョア階級の同盟を追い出すには、革命遂行のために参加して来た戦いでボルシェヴィキを権力の座に祭り上げることがすぐにでも必要だと考えた。 一方、地方、特にウクライナのザポリージャ地域では、独裁政治も自由の精神を絶滅させられなかった。革命的勤労農民は、地主階級(pomeshchiks)と富農層(kulaks)から出来るだけ早く解放されるためには革命的直接行動が最重要かつ最も基本的な自分達の義務だと見なし、この解放こそ社会党-ブルジョア同盟に対する勝利を早めてくれる、と確信した。 だからこそ、ウクライナ農民は攻撃的になり、ブルジョア階級の武器を奪取(特に、1917年8月にペトログラードで一揆主義者コルニーロフがデモを行っている最中に)し、大地主と富農層による二度目の年次地租支払いを拒否したのだ。(実際、大地主ー富農層同盟の代理人は、この問題を裁定する憲法制定議会の召集まで政府の現状維持を固守するという名目で、農民から土地を取り上げ、地主の土地を確保しようとした。) そして、農民は立ち上がり、地主階級・富農層・修道院・国有地の不動産と家畜を奪取した。これを行う中で、農民は常に、財産を管理する地元委員会を立ち上げ、様々な村落とコミューンの間で財産を共有しようとした。 本能的アナキズムが、ウクライナの勤労農民の計画全てをはっきりと照射していた。これによって、国家権力全てに対する率直な憎しみ、つまり自分達を解放するという明確な大望に伴う感情が爆発した。実際、この大望は農民の間で非常に強いのだ。本質的に、これを一言で言えば、中央当局が送り込んだ憲兵隊や治安判事のようなブルジョア権威を真っ先に排除する、ということだった。ウクライナの多くの地方で排除が実行された。排除を現実に行う方法は数多くある。エカテリノスラフ(現在のドニプロペトロウシク)・ヘルソン・ポルタヴァ・ハルキウ・タヴリポル(Tavripol)の一部といった地域の農民は、憲兵隊を自分達の村落から追い出した。また、逮捕権を剥奪し、逮捕には農民委員会や村落集会の許可を必要にした場合すらあった。警察官は最終的にこうした委員会や集会の決定の擁護者となった。治安判事の数が仕事に応じて減っていくまでにさほど時間は掛からなかった。 農民自身が、あらゆる犯罪と争議を審判するために村落集会や特別会議の席についたことで、中央当局が指名した治安判事の司法権は全て無視されるようになった。治安判事は時として全く信頼されなくなり、多くは逃げ出したり隠れたりせざるを得なくなった。 自分達の個人的権利と社会的権利についてこのようなアプローチを取ったため、農民は必然的に、「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンが国家権力に転じるのではないかと恐れるようになった。こうした恐怖は、多分、都会のプロレタリア階級の間ではそれほどはっきりしていなかったと思われる。都会のプロレタリア階級は農民よりも社会民主主義者とボルシェヴィキに支配されていたのである。 農民にとって、地元ソヴィエトの権力とは、ソヴィエト諸機構を自治地域ユニットに転換することであり、その基盤は新社会建設のための革命的提携と労働者による社会経済の自己決定にあった。このスローガンにこの種の建設を当てはめながら、農民はスローガンを文字通りに適用し、拡充し、社会革命党右派・士官候補生(自由主義者)・君主制支持派といった反革命の不法侵入からスローガンを防衛した。 つまり、農民は十月の前にフライングしていたのだ。農民は十月以前に多くの地域で地主階級と富農層への農地使用料の支払いを拒否し、集団的にその土地と家畜を奪取し、工場と会社の掌握について何らかの協定を結ぼうと都会のプロレタリア階級に代表団を派遣した。その目的は、友愛的繋がりを作り、勤労者の新しい自由社会を共同で構築することだった。 この時点で、ボルシェヴィキと社会革命党左派は「十月大革命」という考えの実行を支持していなかった。後になって同意するものの、この時点では、これらのグループ・組織・中央委員会はこの考えを荒々しく批判しさえしていた。一方、ウクライナ農民に関する限り、「十月大革命」は、特に政治年表で与えられているその高い地位は、農民が大分前に歩んだ一章程度のようなものだった。 1917年8月には既に、ウクライナの多くの場所で革命的農民が能動的に闘争を始め、非常に好ましい条件で都会のプロレタリア階級を支援していた。十月の出来事の中で、ペトログラードやモスクワといった大都市のプロレタリア階級は、兵士や都会近隣の農民同様、アナキスト・ボルシェヴィキ・社会革命党左派の影響下にあったが、こうしたプロレタリア階級は、単に農民が行ってきたことを合法化し、もっと精密な政治的表現を与えたに過ぎない。 プロレタリア階級版十月の反響がウクライナに届いたのは1カ月半後だった。当初は様々なソヴィエトと政党の代理人が出したアピールに、次にはロシア・ソビエト共和国人民委員会議の布告に「ウクライナ農民は気後れし、任命された役職に参画していない」と書かれていた。裏の意図は明らかだった。 赤軍集団がウクライナに現れたのはこの時だった。大部分がロシアからやって来て、町を攻撃し、ウクライナ中央ラーダのコサックが管理する通信センターを破壊した。コサックは排外主義に大きく影響されていたため、ウクライナ労働者がロシアの同志と関わりを持てるということも、結局は、自身の社会的・政治的独立のために戦うべく待機していた勤労者が革命的精神全体を正しく理解できるということも、理解できなかった。 10周年に当たり、十月大革命をこのように分析すると、ウクライナで私達が達成したことは、1917年後半にペトログラードやモスクワといったロシアの大都市で行われた革命的労働者の行動と完全に調和していたと強調せねばならない。 十月の遙か以前にウクライナの片田舎で示された革命的信念と熱狂を記録する一方、私達は、十月の出来事でロシアの労働者・農民・兵士が示した決断力と活力を寸分違わず尊敬し、それに高い敬意を示す。 過去を再検討する中で、現在に目を向けないままにしておくわけには行かない。現在は様々な形で十月と結びついているからだ。また、私達は、10年を経た今もなお、十月に余すところなく示された諸思想が嘲笑されているという事実に深い苦悩を表明するしかない。嘲笑しているのは、まさにこれらの諸思想の名を借りて権力を手に入れ、ロシアを支配している奴等なのだ。 私達は、十月の勝利のために戦い、現在監獄や強制収容所でやせ衰えている全ての人々に悲痛な連帯を表明する。拷問と空腹にあえぐ彼等の苦難は私達に届いている。十月革命10周年にあたり、私達は、日々の喜びの代わりに大きな悲しみを感じざるを得ない。 革命的責務の問題として、私達は再び、ソ連国境の向こう側から批判の声を上げる: 十月革命の子供達に自由を、組織を作り思想を広める権利を返せ! ソ連には自由がなく、労働者と革命闘士の権利もなく、その最良の部分を窒息させ、死に至らしめようとしている。ソ連の敵はこれを喜び、あらゆる手段を使って革命を根絶し、それと共にソ連を殲滅しようと世界中で準備を進めているのだ。 ** 第二章 ウクライナのマフノ叛乱運動10周年に際して 知っての通り、ボルシェヴィキ指導者達は十月革命の理念に対して恥ずべき裏切りを行った。ボルシェヴィキ党とその「プロレタリア革命」当局とは、全国配置が終わると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とオーストリア皇帝カールとの不名誉な講和を締結し、その後国内で、最初はアナキズムに対する、次は社会革命党左派と社会主義全般に対するさらに嘆かわしい闘争を行った。1918年6月、私は、当時の全露ソヴィエト執行委員会の議長だったスヴェルドロフの強い勧めで、クレムリンでレーニンと会談した。私はレーニンに、グリャイポーレ地方革命防衛委員会委員長としての自分の任務を示しながら、ウクライナ中央ラーダで独墺侵略者とその同盟軍に対してウクライナ革命勢力が行っている不公平な戦いの概要を伝えた:彼はこれについて私と論じ、私が、革命と革命が内包するアナキズム思想に狂信的な農民的愛着を持っていると指摘した上で、ソヴィエト当局は都会の革命中心地で闘争を開始しているが、それはアナキズムそのもの対してではなく、アナキズムの信奉者だと公言する盗賊に対してだ、と断言した: あなたが今話してくれたような組織的革命活動を行うアナキストと、私達ボルシェヴィキ党と私自身は、共同革命戦線を構築に向けて、いつでもお互いに理解し合えるでしょう…社会の裏切り者については全く別です。彼等はプロレタリア階級と貧農に真の解放をもたらす上で紛れもない敵なのです。彼等に対する私の態度はいつまでも変わりません。私は彼等の敵対者です。 一人の優れた政治家の内で、この時レーニンが見せたほどの狡猾さと欺瞞には滅多に出会えない。この時点で既に、ボルシェヴィキ当局は、この国におけるアナキズムの信用失墜を非常に抜け目なく計画し、アナキズムに対する弾圧を画策していた。レーニンのボルシェヴィズムは、あらゆる自由な革命組織に対して既に×印を付けていた。アナキズムだけが尚もボルシェヴィズムにとって危険なままだった。というのも、アナキズムが政治的・戦術的に幅広い労働者・農民大衆を勝利に導くべく、彼等の間に組織的で厳密に一貫したやり方で活動できるようなっていたなら、アナキズムは単独で、健全なもの全てを呼び起こし、この国の革命対して完全にコミットし、闘争を通じて自由・平等・自由労働の理念を実生活の現実にできると思われていたからである。 記しておかねばならないが、社会主義者に対しても、レーニンは同じぐらい侮辱的な口調で語っていた・・・。この時期にボルシェヴィキ当局がアナキズムと社会主義を攻撃したために、海外の反革命勢力は大きな戦果をあげた。海外の反革命軍隊はウクライナの革命的領土に容易く侵入できるようになった。アナキストや社会革命党が--実際には、残余のボルシェヴィキもいた--率いていた革命闘争分遣隊は全て速攻で追い払われた。 ボルシェヴィキ指導者による恥ずべき裏切りのおかげで、反革命は、ウクライナの町と村の革命的結びつき全てを短期間で麻痺させ、大規模弾圧を実行できるようになった。このようにしてウクライナの革命は、全く予期せずに死刑執行人の絞首台の前に立たされ、発展の第一段階でかなりの制裁を受けてしまった…。 血塗られた恐怖に満ちた暗黒の日々だった。中欧の皇帝どもと結んだ合意の下、ボルシェヴィキ指導者達は、ロシア人労働者からなる充分な装備を持ち規律正しい革命分遣隊をウクライナから退避させた。当時、ウクライナ人労働者の武器は少なく、装備は悲惨で、革命の敵と対決するには力がなく、ロシア人同志の後に続いて退却せざるを得なかった。血なまぐさい小競り合いが時としてあったが、それは、武器を所持したままのロシア入国を拒否したボルシェヴィキ当局との衝突だった。グリャイポーレ地方のリバータリアン共産主義グループを中心に団結し、様々なグループと分遣隊に分散していた革命的農民もロシアに退却した。ロシアではまだ革命が進行中で、反革命侵略者と再び戦うために必要な兵力を回復する手助けをしてくれると考えたからだった…。残念ながら、革命のこの段階でさえ、ボルシェヴィキ指導部は、勤労大衆にある健全で革命的なもの全てにはっきりと敵対していると見て取れた。勤労大衆は、党の特権のため、そして背後に潜み暴走する反革命のために、組織的に中傷された。タガンログの町に近づくと、ボルシェヴィキ当局は独立革命グループと分遣隊を待ち伏せ、武器を奪おうとした。この情況のため、誇り高きグリャイポーレ革命地域の勢力は、極少人数の集団へと散り散りになり、一部は秘密裏に帰郷し、他の集団はその後に何をなすべきか決めるために同じように秘密裏にタガンログで結集した…。 タガンログで、私はヴェルテルニコフと共に(現地の同志グループから)会議の開催を依頼された。そして、会議が開催された。決議は簡潔ながら要点をついていた。参加者の誰一人として退却を続けようという者はいなかったのである。私・ヴェルテルニコフ・その他3人の同志を除き、他の全員が前線に再び加わり、農民の間で最大限注意深く目立たないようにして働き続けることになった。4人の同志と私はこの会議で以下のように委任された。モスクワ・ペトログラード・クロンシュタットで2~3カ月ほど過ごし、これら革命の中心地で革命の進展に精通し、7月1日までにウクライナに戻り、単に戦うだけでなく勝利するという明確な意図を持って、会議で決められた地域で自由革命防衛大隊を編成する。 同志の中で予定通りウクライナに戻れたのは私だけだった。ウクライナでは、独墺軍とその手先であるヘーチマン、スコロパードシクィイが政治と経済を勝手気ままに動かしていた。私は昔の同志をほとんど見つけられなかった。同志達の大部分が殺されたり、獄中で処刑を待ったりしていたのだ。私は、タガンログ会議で私に委ねられた仕事を実行しなければならないと深く確信し、この地域の農民と接触し、その中から闘争に専心する気がある人を選び出そうとした。私は、以前に私の考え方を理解してもらう機会を持った多くの農民男女と会合を開いた。彼等の助けを借り、独墺軍の逮捕や銃撃を逃れ、尚も反撃を決意していた同志達を何とか探し出した。私達はロシアから同志が戻ってくるのを待たなかった。また、村落での滞在は、占領軍とその同盟軍による絶え間ない襲撃・捜索作戦を受けやすく、最も能動的な同志達が逮捕・処刑される危険もたびたびあったが、それにも怯まなかった。そして、ヘーチマン・その封建的農地体制・その援護者の独墺軍に対する革命的農民大衆蜂起の途を整えるべく組織を素早く立ち上げ、稼働できたのである。当時、私達が使っていた言葉は次のようなものだった: 農民・労働者・労働するインテリゲンチャ諸君!資本と国家に対する闘争で最も信頼できる武器は革命の復活と拡大である。これを支援しよう!諸君の生涯で労働者の自由社会を創造し強化する、これが我々の共通目標である。これを支援しよう!諸君の組織を作り、諸君の隊列からパルチザン型の革命戦闘分遣隊・大隊を編成し、反乱を起こして、ヘーチマンと独墺帝国を--我々に対して獰猛な反革命軍を送り込んだ奴等を--襲撃せよ。そして、どんな犠牲を払っても、革命と自由を死刑にする奴等を打倒しよう…! 勤労大衆は私達に耳を傾け、理解してくれた。グリャイポーレから遙か遠くの村落や小村から代表団がやって来て、私達と会い、アナキスト゠グループに加入しようとした。そして、メンバーの一人が代表団と共に村に戻って議論し、蜂起の下地を作った。当時、私は一人で旅をするか、3~4人の同志と共に旅をしたものだった。私はこうした村落や地区の農民達と秘密会議を開催した。この地方の農民は、骨の折れる根気強いプロパガンダと組織作り活動を2カ月にわたり行った。そして、私達グリャイポーレ゠リバータリアン共産主義グループは、労働者の大群が私達の指揮に従う用意が整っていると気付いた。その中にいる多くの武装叛逆者達は、ヘーチマンと独墺ユンカーによる経済的・政治的好き勝手に終止符を打つと決意していたのだった。 私は覚えている。ある時、私達が既に編成したユニットの代表団が、私に連絡しようとしてこの地域を一週間旅していた。私はブルジョア階級と独墺司令部に憎まれている男だった。私としてもまた、2~3人の同志と共に村から村へと旅して組織化活動を行っていたのである。彼等は何とか私と連絡を取り、彼等を派遣した人々の代理として、革命の敵に対する全面的武装蜂起の開始を、もっと好都合だと判断される時期まで先延ばしにしないよう頼んできた。彼等は私に告げた: (前略)ネストル゠イワノヴィッチ、グリャイポーレに戻って、住民を蜂起させてくれ!住民が蜂起したら、全ての村落・地区・地方が後に続くだろう。アジテーター同志の一団と共に行った君の熱烈な活動によって、既にグリャイポーレの郷ではヘーチマンと独墺軍に対する革命的叛乱の気運が稀にみるほど高まっている。君達はここ数週間、自分の生命を最大の危険にさらしながら、言葉によるアジテーションで蜂起の準備をしようと村落を旅しているが、それよりも、グリャイポーレ叛乱軍が君の召喚状を発する方が、我々が準備万端整えている蜂起の仕事にとってもっと有益だろう。 私は、自分達のグループと私個人に対するこのような信頼と賛辞に揺り動かされはしなかった。革命的虚栄心など全くなしに、私は、同じ行動規範を友人達に、そして私達が影響を及ぼしている大衆に教え込もうとした。これは、反革命執行人によって一時的に頓挫していた革命を成し遂げるべく私達が現実へ呼び覚ました明晰さと知力を保持するという問題だった。 私はロシアの革命中心地を旅した。手に入れた経験と情報によって、私は多くのことに気付いた。こうした理由から、グリャイポーレのリバータリアン共産主義グループの友人達と共に、革命の敵に対する農民蜂起組織作りに専念した。自分達の役割を低く見積もり、自分達の運命に課せられている本当の仕事を忘れてしまわないよう細心の注意を払った。だから、農民から蜂起を開始すべきだと再三しつこく要求されても、私は、蜂起の主導者・長という立場から繰り返し次のように述べた: 諸君の地域で、全勢力が組織的に諸君のグループと充分結び付いているのか?地域が離れていても、蜂起は同時期にあらゆる場所で勃発しなければならないと理解しているのか?
理解しているのなら、我々の武装闘争を開始する上で最も有益な方法を再考するのは時間の無駄ではない。特に、敵と同じ技術的手段を持てるようになるには相当の時間が掛かるため、実際に我々が最初の一撃を加える際には、多くの小銃と大砲、そして小銃と大砲それぞれに20個のカートリッジと砲弾を確保していなければならない。
これが上手くいけば、我々の満足は2倍になる。そこから、政治的に・組織的に・戦闘条件的にもっと大きな決定を迅速に下せるようになるからだ。最初に成功すれば、その後、我々のパルチザン分遣隊全てがあらゆる方面から敵に襲い掛かり、少なくともウクライナのドニエプル川下流域とドネツ盆地地方で独墺司令官とヘーチマン政府を完全に混乱させるだろう。そうすれば、夏の間に、事態が我々にとってもっと有利に展開し、我々の闘争をさらに強化できるようになるはずだ。
これらは、革命と私達の運動理念にとって極度に困難な時代に、私達アナキスト農民が勤労大衆に話した言葉である。ここで次の疑問が投げかけられるかもしれない。大衆が弾圧者に対する蜂起を最初に呼び掛けた時に、私達は何故、大衆に対する自分達の影響力についてそれほどまで、おそらくは必要以上に、慎重だったのか?次のようにも問われよう。革命的アナキズムの嵐には裏の政治的動機などなく、この嵐が解き放った諸要素が大衆に注入されていたというのに、何故、叛逆の精神が自然に私達を押し流している中で、大衆の先頭に立たなかったのか?今では奇妙に思えるかもしれないが、私達の態度を決めたのは、もっぱら時代情況、特にリバータリアン運動では滅多に重要視されない情況だった。実際、活動的な革命的前衛にとって大きな試練の時代だった。蜂起の準備を綿密に行わねばならなかったからだ。グリャイポーレ゠リバータリアン共産主義グループはこうした前衛の一つだった。様々な出来事が私達に次の問題を提起した。怒れる勤労大衆の運動を主導する全責任を引き受けるべきか、それとも、政党の--既成の綱領を持ち、同時にモスクワの「革命的」ボルシェヴィキ政府と直接接触できる--誰かにその役割を譲り渡すべきなのか? この問題は、私達のグループの存在を難しくした。特に、こうした慌しい時代に、規律正しい革命軍組織を否定するアナキズムの抽象概念を発動するなどあり得ないからだ。そんなことをすれば、アナキストは革命活動で孤立し、アナキストが原則的に果たすべき創造的・生産的な役割の存在そのもののために立ち往生してしまうだろう。革命的情熱・直接的経験が私達に反革命の挫折に尽力するようにさせていた。それでも私達は、アナキズム教義の根本原理の正しさに不変の信念を持つアナキストとして活動したいと熱望した。しかし、私達はアナキズム運動内部に蔓延する組織解体をよく分かっていた。これが重大な損害をもたらし、ボルシェヴィキと社会革命党左派の術中にはまってしまった。また、私達は実感していた。この常習的解体はアナキズム教義の建設的側面以上にもっと確固として大部分のアナキストに根付いており、その結果、組織解体はアナキズム運動の主要な特徴となっている。だから、大衆の理解も大衆からの支持も得られない。大衆は無意味な闘争で闇雲に死ぬ気など毛頭ないのだ。 私達はこの問題に対して考え得る最良の解決策を取った。仲間のアナキズム信奉者達がアナキズム教義にそぐわないと見なしてこの前衛主義的姿勢に文句を言うかもしれないが、それに耳を貸さず、蜂起を直接組織したのである。このようにして、実際に、私達の大義に大きな損害を与えていた些末な戯言を始末し、その代わり、完全勝利に向けた闘争貫徹に集中したのだった。ただ、そのために、革命的アナキズムは、同時代の諸革命において適切にその役割を演じ、積極的任務を果たそうとするのなら、人員の訓練をどのようにするのか・勤労大衆が方向性を模索している革命初期にどのようなダイナミックな役割を果たすのかといった組織の性質に関わる莫大な要請事項に取り組まねばならなかった。 私達農民アナキストは、町や都市のアナキスト集団は原子化し、半合法的に存在していると認識していた。町や都市で、ボルシェヴィキはアナキスト集団を崩壊させようと襲撃したり、ボルシェヴィキ当局の補助者へと転じさせたりしていた。私達は田舎で活動し、民衆が確実にアナキズム運動に耳を傾け、町から最良で最も健全なものを全て取り込めるようにした。そのことで、ヘーチマンとその独墺スポンサーに対する叛逆の旗を掲げられるようにしたのである。 このことを心に留めて、私達のグループは、アナキズムの基本原則を少しも譲歩せず、この地方の勤労農民を教育した。これによって武装闘争が急増し、叛乱運動の政治綱領が起草され、すぐにあらゆる場所で「バチコ゠マフノ革命部隊」として知られるようになった。 このグループと私自身の影響力は非常に強力で生産的だったため、アナキズムに敵対する政治勢力、特に社会主義系政治政党は、叛乱大衆の精神にアナキズムへの敵対的態度を蔓延させられなかった。叛乱大衆は、彼等のスローガンを気に留めず、実際、その弁士の演説すらも耳を貸さなかったのである。大衆は、資本とその下僕の国家に対して労働者の自由と独立を説くマフノの言葉・グリャイポーレ゠リバータリアン共産主義農民グループメンバーの言葉を受け入れ、その採納こそブルジョア資本主義社会という有害組織を自由な勤労者組織で置き換える闘争の基盤だと見なした。 この目的の名の下で農民大衆は強力な武装勢力を創設し、グリャイポーレ゠リバータリアン゠グループが編成した参謀の命令下に置き、その後に恒久的に維持した。こうした経済的・心理的繋がりはその後も決して壊れず、勤労者は暗黒時代にあっても惜しみなく運動に集結し、労働力と食料を提供し続けた。 このようにしてグリャイポーレ地方は、その自主組織からあらゆる国家主義傾向が追放され、瞬く間に別天地になった。それまで何の制約もなく放縦を尽くしていた独墺の野蛮な大群は、粉砕され、武装解除され、その武器はこの運動が接収した。 その結果、こうした軍隊はこの地方から大慌てで逃げ出し始めた。ヘーチマンのスコロパードシクィイの部下について言えば、絞首刑にされた者もいれば、追放された者もいた。ボルシェヴィキ政府はすぐにこの誇るべき地域の存在を知り、この叛乱運動の背後で鼓舞していたアナキストの存在を理解した。この時点で、ボルシェヴィキの新聞は、トップページにマフノの名前を堂々と載せ、マフノの指導下で行われた運動の成功を連日報道していた。 叛乱運動は着実に前進した。ウクライナ各地で独墺軍を撃退し、ヘーチマンの部下を次々に追い出すと、次には、デニーキン主義の反動とウクライナ゠ディレクトーリヤ--「ペトリューロフシチナ」として知られている--が現れた。これに対抗して、叛乱運動は、アナキスト農民の支持の下、これまで通り速やかに全勢力を配備した。アナキスト農民は、革命の最も献身的な息子達だったのだ。こうした新たな敵に対して広大な前線を構築し、英雄的な軍事作戦が実行された。革命のために、勤労者の新たな自由社会のために。 こうした背景の中で、アナキスト農民はウクライナ勤労者の叛乱運動を組織し、後にマフノ叛乱運動(マフノフシチナ)へと発展したのだ。マフノフシチナの敵や、時にはその「友人達」とされる人々もが、図々しく、この草の根運動にイデオロギーはなく、その原理的・政治的創造性は外部からもたらされたとする御伽噺を広めている。こんな御伽噺に出会った人も、この概略--不完全であるにせよ--に照らしてみれば、こうした主張には何の根拠もないと結論する立場になるだろう。 この運動の指導者達も、最初から最後までこの運動を支えていた勤労農民大衆も、ちゃんと分かっていた。叛乱運動を組織していたのはグリャイポーレ゠リバータリアン共産主義グループだった。叛乱運動は、革命的言葉遣いにも、町でよく見かける無秩序な傾向・無責任なメンタリティにも惑わされなかった人々が持つアナキズムの希求を常に大事にしていた。カレトニク兄弟・アレクシス゠マルチェンコ・セメニュタ兄弟・ドマシェンコ兄弟・マフノ兄弟・リュティ・ズイチェンコ・コロステレフ・トライヤン・ダニーロフ・タイケンコ・モスチェンコ・A゠チュベンコ、その他多くの人々のような叛乱運動を触発・組織した人々は皆アナキストだった。彼等の多くが、1906年~1907年に農民の中で活動し、実際、この運動の先駆者だった。彼等こそが、運動内部の人々と共に、政治思想だけでなく、軍事的・戦略的組織という点でも、この運動を支えていた。彼等の考えに最も近いアナキスト組織からの援助が切望されていたものの、大変遺憾ながら、一度も組織的な形で提供されはしなかった。革命の敵に対する軍事作戦を初めてから9カ月間、本来友人達であるはずの都会のアナキストからこのアナキズム運動に何の連絡もなかった。その後、敵の手から解放してくれたという個人的恩義をこの運動に感じた人々を中心に、やっと数名が主として個人の立場で参加した。 マフノ叛乱運動に組織的に参加してくれたのは、マケイエフ同志とA゠チェルニャコフ同志が指揮していたイヴァノヴォヴォズネセンスクのリバータリアン共産主義グループだけだった。このグループは必要かつ重要な支援を提供してくれたものの、残念ながら一時的なものに過ぎず、そのメンバーの大部分はしばらくすると疎遠になっていった。 こうした不公平で苛酷で(政治的にも歴史的にも)有意義な闘争を行っていた辛い時期全体で、マフノ叛乱運動は全ての食糧を叛乱地域内の資源だけで賄っていた。私は確信している。これこそ、この運動が革命的立場を断固として固守でき、始終周囲を取り巻かれていたために戦いに終わりはなかったものの、アナキズムと社会革命以外の道を歩まなかった本質的理由だったのだ。 マフノ叛乱運動はアナキズム思想を遵守し、都会と田舎の勤労者が自由社会を構築しようと活動する自主独往性を国家とその支持者に妨害させなかったため、もちろん、国家主義政治政党からの支援など期待できなかった。一方、町のアナキスト組織にはこうした支援を期待する権利を持っていたが、残念ながら支援は一度も来なかった。当時、大部分のアナキストには組織解体の慣習があまりにも深く根付いていたため、彼等は、田舎で何が起こっているのか理解できなくなっていた。概して、都会のアナキストは、農民の間に広くアナキズム精神が行き渡っていると気付きも理解もできなかった。その結果、農民アナキストの影響力を都会の労働者組織に及ぼせなかった。この怠慢に気付いていたため、マフノ叛乱運動に都会のアナキスト組織の欠点をありがたがる謂れはなかった。この評価から、革命活動に関してマフノ叛乱運動が採用した立場の正しさを信頼するようになった。この立場を断固として守れたからこそ、独自の資源にしか頼れなくとも、長年にわたり戦うことが可能になったのである。それによって、面倒でも困難でもあったが、革命的義務を果たしていたものの、マフノ叛乱運動は一つだけ重大な過ちを犯した。ボルシェヴィズムと手を組み、ヴラーンゲリと協商に対する共同作戦を展開してしまったのだ。この盟約が続いている間、革命の成功にとって実践的にも心理的にも確かに貴重だったが、マフノ叛乱運動はボルシェヴィキの革命主義について誤解しており、彼等の裏切りを防ぐ処置を講じるのが遅れてしまった。ボルシェヴィキは裏切り、彼等の全「兵士」を使ってマフノ叛乱運動を攻撃した。そして、かなり大変だったものの、一時的にマフノ叛乱運動を打ち負かしたのである。 ** 第三章 革命の防衛について 在外ロシア人アナキスト集団が発行した「アナキスト総同盟綱領案」について多くの地方の同志達の間で議論が交わされている。この文脈で、私は、幾つかの筋から革命の防衛という問題に特化した文章を書いてほしいと頼まれた。私は最大限真面目にこれを扱うつもりだが、その前に、これは「綱領案」の中心的問題ではないと同志達に伝える義務があると思う。「綱領案」の核心は、私達リバータリアン共産主義者の隊列に最大限一貫した団結を確立する必要である。実行前に必ずこの部分を修正し、完成させて頂きたい。さもなくば、勢力を結集しようと奮闘しない限り、私達の運動は、確実に、界隈をうろつく自由主義者と日和見主義者の影響に屈服してしまうだろう。こうした輩は、さすがにあからさまな相場師・政治的山師ではないにせよ、せいぜい無駄話を続けるだけで、私達の大いなる目的を達成すべく現場で戦えはしない。私達の闘争の正しさを本能的に信じ、革命を通じて可能な限り幅広い自由と独立を達成しようとしている人々と共に歩んで初めて目的を達成できる。それによって新生活と新社会が構築され、遂に個々人が一般善のために自分の創造的活力を無制限に行使できるようになるのだ。 革命の防衛という特定の問題に関して、私は、ロシア革命中のウクライナで私が直接経験したウクライナ勤労者の革命運動による不完全ながらも断固たる闘争に基づいて回答する。この経験から私は以下の3点を学んだ。第一に、革命の防衛は反革命に対する攻撃と直接結び付いている。第二に、革命の発展と強度は常に反革命の抵抗に規定される。第三に、上記2点の当然の帰結、つまり、革命活動は、武装革命分遣隊が採用する政治内容・構造・組織方法と密接に関係している。革命分遣隊は膨大な戦線で従来型の反革命軍と対決しなければならないのである。 敵との戦いの中で、ロシア革命は当初、ボルシェヴィキの指導による様々な赤衛分遣隊の編成で始まった。すぐさまこれらは敵の軍隊--具体的に言えばドイツ・オーストリア・ハンガリーの遠征軍--の圧力に耐えられないと判明した。理由は単純だった。ほとんどの場合、これらの分遣隊は何の全般的作戦指針なしに軍事行動をしていたからだ。だから、ボルシェヴィキは1918年春に赤軍の編成に転じたのである。 当時、私達はウクライナ勤労者から成る「自由大隊」結成を呼び掛けていた。すぐさま、この組織はあらゆる種類の内部挑発を乗り越えられないと判明した。政治的・社会的に適切な審査をせず、武器を持って戦いたいと思っているというだけで志願者を全員受け入れたからだ。だから、この組織が設立した武装集団は裏切りによって敵に引き渡され、外国の反革命と戦うという歴史的使命を貫徹できなくなってしまった。 しかし、「自由大隊」組織--革命防衛の第一線にいる戦闘部隊と言えよう--が最初に躓いた後も、私達は狼狽えなかった。この組織構成を幾分見直し、諸大隊を、混成型の--歩兵隊と騎兵隊で構成される--軽快なパルチザン分遣隊で補完した。こうした分遣隊の任務は、敵の戦線の遙か後方で軍事行動を行うことだった。この組織が威力を発揮したのは、1918年の晩夏から秋に、独墺遠征部隊とその同盟であるヘーチマン、スコロパードシクィイの軍団に対して作戦を行っている最中だった。 ウクライナ勤労者は、この編成を頑なに守って革命の防衛を組織し、反革命がウクライナの革命に投げた輪縄をその手中からもぎ取った。その上、革命の防衛に満足せず、できる限り徹底的に革命を貫徹したのである。[1] 国内の反革命が国中に広がると、反革命は、武器や弾薬だけでなく、軍隊という形でも他国から支援を受けるようになった。それをよそに、我が革命防衛組織も規模を拡大し、同時に、必要に応じて新たな組織構成を取り、もっと適切な戦闘方法を採用した。 当時、最も危険な反革命戦線には、デニーキン将軍の軍隊が配備されていると分かっていた。しかし、マフノ叛乱運動は5~6カ月の間、彼の軍隊に屈しなかった。デニーキン配下の最も有能な司令官の多くが、敵から奪った武器しか持たない私達の部隊に手ひどく痛めつけられた。私達の組織は大きな貢献をした。戦闘部隊の自律性を踏みにじらずに連隊と旅団に再編し、一人の共同作戦参謀が調整したのである。参謀を設置できたのは、前線で敵と対峙している革命的勤労大衆だけでなく、前線の背後にいる革命的勤労大衆もが単一の軍事司令部が必要だと充分理解してくれたからに他ならない。さらに、勤労者達は、尚もグリャイポーレから来た無政府共産主義農民グループの影響下にあり、全ての人が新社会建設の平等に参加する権利を与えられるよう取り計らっていた。それはあらゆる領域への参加であり、そこには、新社会の利益を防衛する義務も含まれていたのである。 従って、デニーキン戦線はリバータリアン革命の存続を脅かしたが、住民全体が活発な関心を持ってこの革命を見守り、革命的勤労者は革命の防衛に関する私達の組織的見解を基に団結し、この見解を自分達のものにし、負傷者や疲弊者を安堵させるべく新しい戦士を定期的に流入させてマフノ叛乱軍を強化したのだった。 他の場所で、私達は、闘争の現実的必要に迫られて、全戦闘部隊の管理を分担する軍事的・組織的参謀を設立するようになった。革命的アナキストは武装革命闘争を戦略的に概観するこうした参謀の必要性を拒絶しているが、この観点に私自身が同意できないのは、この実践のためである。私は確信している。あらゆる革命的アナキストは、ウクライナの内戦で私が遭遇したのと同じ状況にいれば、当然、私達と同じことをせざるを得ないに違いない。来るべき本物の社会革命の過程で、こうした組織的諸原則に反駁するアナキストがいるとしたら、私達の運動には空虚なお喋りか役立たずの有害分子しかいないことになる。こうした輩は直ちに拒絶されるだろう。 革命の防衛という問題を解決する上で、アナキストは常にリバータリアン共産主義の社会的特徴に目を向けねばならない。大衆革命運動に直面したら、私達はその運動を組織する必要を認め、それにふさわしい手段を授けねばならない。そして、全身全霊で身を投じねばならない。さもなくば、私達は夢想家で理想主義者なのだから、勤労者の闘争、特に、国家社会主義者に従っている勤労者の闘争を邪魔してはならない。アナキズムは革命的社会運動であり、そうであり続ける。疑う余地などない。だからこそ、私は、今も今後も常に、充分しっかりした組織を持つことを支持している。そして、革命となれば、大隊・連隊・旅団・師団を設立し、ある時点で、組織監督参謀という形の単一地方指揮権の下で一つの共同軍勢へと融合するのである。参謀の任務は、武装反革命軍に対して全ての前線で行われている戦いを勝利に導くべく、闘争の要件と諸条件に応じた連合的軍事作戦計画の立案と地方軍勢の行動調整である。 革命の防衛は簡単な問題ではない:革命的大衆の多大な組織的献身が必要となるかもしれない。アナキストはこのことを自覚し、この任務で大衆を支援すべく準備しなければならない。 ** 第四章 ウクライナの民族問題について一言 1917年の革命で帝政専制政治が廃絶された後、それまでロシア国家の暴力的軛の下で服従していた民族の間に新しく自由な関係が生じる可能性が労働者世界の地平に現れた。完全な民族自決--ロシア国家との完全決別を含むほどの--という概念がこうした民族の間で自然に生まれた。ウクライナ住民の間に様々な信条を持つグループが何十も出現した。それぞれが独自の見解を持ち、独自の党派的利益に従って民族自決の理念を解釈した。ただ、全体として見れば、ウクライナの勤労大衆はこうしたグループに同調せず、参加しなかった。 それから7年以上が過ぎた。民族自決概念に関するウクライナ勤労者の方針は発展し、その理解は拡大した。今や、彼等はこの概念に同意し、自身のライフスタイルで頻繁に誇示するようになった。例えば、革命前にタブーとされていた自身の言語を使用する権利・自身の文化に対する権利を主張した。また、独自の生活様式と特有の習慣に従って生活する権利も主張した。独立したウクライナ国家を建設しようと、ある種の国家主義紳士連中は、ウクライナの自然な姿全てを我が物にしたいと心底思っている。一方、ボルシェヴィキは、全権があっても、これに対して戦う力はない。しかし、こうした国家主義紳士連中は幅広い勤労大衆を掌握できていないようで、ましてや抑圧的なボルシェヴィキ党に闘争を仕掛けられるほどの大衆動員もできそうにない。ウクライナ勤労者は、その健全な本能とボルシェヴィキの軛の下での悲惨な生活によって、国家全般の危険性を記憶している。だからこそ彼等は排外主義傾向を遠ざけ、自身の社会的大志と混同せず、むしろ独自の解放の途を模索しているのである。 全てのウクライナ革命家、特にリバータリアン共産主義者が今後ウクライナ勤労者の中で一貫して活動しようとするなら、ここにこそ重要な思考の糧がある。 ただ、この国の現実は大きく変わっており、1918年から1920年と同じ方針では活動できない。当時、ウクライナ労働者は、あらゆるブルジョア傭兵--デニーキン・ペトリューラ・ヴーランゲリ--を崩壊させる上で重要な役割を担った。しかし、彼等は、革命の最果てでボルシェヴィキに屈辱的なまでに裏切られ、搾取されるなど夢にも思っていなかった。 これらは、私達が帝政秩序の復興に対して戦った時期だった。当時、この闘争に参加すべく姿を現した「飛び入り」全員を綿密に調べ審査する時間などなかった。革命に対する信念のため、こうした「飛び入り」の気質に疑念を持てず、彼等に対して湧き起こる疑問「彼等を友人として見なすべきか、それとも敵として見なすべきか?」を考えられなくなっていた。当時、勤労者は反革命に対抗して行動しており、彼等が気に掛けていたのは、革命を防衛すべく恐れを知らず死に立ち向かっていた最前線の仲間だけだったのである。 その後、ウクライナ勤労者の心理は大きく変わった。彼等には自分達の大義に対するこうした「飛び入り」について充分過ぎるほど精通する時間があり、それ以降、革命で勝ち取ったこと--少なくとも、その名残--をもっと批判的に見なすようになった。勤労者はこうした「飛び入り」の背後に完全な敵を認めている。たとえ彼等がウクライナ化し、社会主義の旗を振ろうとも、現実には、労働の搾取を増やすやり方で活動しているのを目にしているからだ。勤労者ははっきりと念頭に置いている。こうした社会主義者・貪欲な搾取者のカーストこそが、自分達の革命的利益全てを奪ったのだ。つまり、彼等に言わせれば、ボルシェヴィキの巧妙な誤魔化し全ての背後には独墺による占領と似たものが隠されているのである。 この偽装占領は「飛び入り」に対する一種の排外主義的反発を大衆に引き起こしている。ボルシェヴィキ紳士連中は、ただモスクワからウクライナを統治しているのではなく、ウクライナ人の手先の背後に隠れて統治している。ウクライナ大衆の中で憎悪が大きくなっているがゆえに、この方針を採っているのである。ウクライナ勤労者は、ボルシェヴィキ独裁の本質そのもののために、独裁を転覆する方法・真に自由な新社会に向けて前進する方法を模索している。ボルシェヴィキも成功に安住しているわけではなく、あらゆる犠牲を払ってでもウクライナの現実に順応しようとしている。1923年、彼等は迷える羊のようになった。それ以来、彼等は戦術を修正し、直ちにウクライナの現実を把握しようとしている。さらに、彼等は直ちにボルシェヴィズムの運命を民族主義の運命と結び付け、それに従って「ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法」に特定条項を付け加え、ソ連を構成するあらゆる民族に十全な民族自決権を、実際、分離独立権を与えた。もちろん、全て単なる見せかけだ。ボルシェヴィキのこのような態度はどのように発展するのだろうか?今後数年間が示してくれるだろう。ウクライナの現実に対するアナキストのアプローチはこうした新しい要因--民族主義的ボルシェヴィズムの「飛び入り」に対するウクライナの勤労者の憎悪--にしかるべき注意を払わねばならない。私達の見積もりでは、今日、アナキストの主要課題は、あらゆる悪の根元は、「飛び入り」の権威ではなく、全ての権威一般だと大衆に説明することである。ここ数年が、この主張に大きな重みを与えてくれるだろう。ウクライナでは、ありとあらゆる権威が次々に現れているが、結局のところどれもサヤの中の豆のように区別が付かないからだ。私達は、「飛び入り」の国家権力と「独立」国家権力は結局ほぼ同じであり、勤労者はどちらからも何も得られないと示さねばならない。勤労者は別なところに注意を向けねばならない。つまり、国家機構の巣窟を破壊し、社会的・経済的自治を行う労農機関で置き換えるのである。 いずれにせよ、民族問題を提起する際に、ウクライナの最新動向を見過ごしてはならない。今やウクライナ語が話され、新しい民族主義傾向のおかげで、余所者であっても大半が地元の言葉を話している。これは、私達の心の中に留め続けねばならない民族的事柄である。だがその一方で、現在まで、ウクライナ農民のごく少数しかアナキストに耳を傾けてくれなかった。アナキストがとりわけ町に集中し、しかもウクライナの田舎の国語を使わなかったからだ。 ウクライナの生活はあらゆる可能性でいっぱいだ。特に、大衆革命運動の可能性を秘めている。アナキストは、この運動に影響を与える、実際、その助言者になる最高の機会を手にしている。それには、現実生活の多様性を正しく理解し、勤労者に敵対する勢力(潜伏しているかもしれない)に対して、ひたむきで直接的で公然の闘争を開始する立場を支持しなければならない。この任務を達成するには、大規模で強力なウクライナ人アナキスト組織が必要である。ウクライナのアナキストはこのことを真面目に考え、今すぐ実行しなければならない。 ** 第五章 万国のユダヤ人へ ユダヤ人市民諸君!フランスのリバータリアン新聞『ル゠リベルテール』に寄稿した最初の「ユダヤ人に訴う」で、私は一般のユダヤ人に問うた。一般のユダヤ人というのは、ヤノフスキーのような「アナキスト」だけでなく、ブルジョアも社会主義者も含め、私をユダヤ人に対するポグロム実行者と述べ、私が指導していたウクライナ農民・労働者のリバータリアン運動を反ユダヤとレッテル貼りした全ての人だ。無意味な無駄口を叩く代わりに具体的な事実を詳しく教えてほしい。いつ、どこで、私や前述の運動がそのような行為を犯したというのだ? 私は期待していた。一般のユダヤ人は、ウクライナでユダヤ人大量虐殺を行った悪党どもについて真相を文明世界に暴こうと熱望する人々のように、私の「訴え」に答えてくれるだろう。あるいは実際に、私とマフノ叛乱運動に関わる恥ずべき逸話を、かなり信頼できるデータ(私もそこに含まれているのだから)に基づかせ、世論に売り込もうとしてくれるだろう。 これまでのところ、ユダヤ人がそのような証拠を提出したとは聞いていない。これまで、私と私が率いた叛乱運動に関して報道機関一般(ある種のユダヤ人アナキスト機関誌も含む)に掲載されたのは、最も恥知らずな嘘の産物、ある種の政治的異端者とその傭人が持つ俗悪さの産物だけである。さらに言えば、ユダヤ人労働者で構成される革命的戦闘部隊は叛乱運動で極めて重要な役割を果たしていたのだ。私は中傷家の卑劣さなど歯牙にもかけていない。その存在そのものを常に一蹴しているからだ。ジョセフ゠ケッセルによる『マフノとそのユダヤ女』と題した茶番小説について私が一言も述べていない点に気づくなら、ユダヤ人市民諸君もはっきり分かるだろう。この小説は、私自身ならびに私が組織的にも理論的にも関係した運動に関するデマに基づいている。この茶番は、その核心で、ボルシェヴィキに媚び諂うおべっか使い、ゲラシメンコ大佐(最近、ボルシェヴィキ軍事組織のためにスパイ行為をしたとしてチェコの裁判所で有罪判決を受けた)の文章を引用している。 この小説は、アルバトフというブルジョア記者の記事も基にしている。彼は「小人芸人」の一団に対するあらゆる暴力を恥ずかしげもなく私のせいにする。無論、最初から最後まで作り話だ。 全くの虚偽で埋め尽くされた小説の中で、ケッセルは本当に悍ましい観点で私を描こうとする。少なくとも、ゲラシメンコとアルバトフから借用した一節では、出典を示すべきだ!この小説で主たる役割を果たしているのがこの誤謬だが、出典に整合性がない以上、私にできる反応は沈黙しかなかった。 私は、様々なユダヤ人協会が発する中傷について全く異なる見解を持っている。ユダヤ人協会は同宗信徒に対し、自分達はウクライナのユダヤ人住民に対して行われた極度に卑劣な不当行為を入念に調べてその加害者を非難しようとしている、という印象を植え付けたがっている。 少しばかり前に、ユダヤ人協会の一つ(なお、ここの本部はボルシェヴィキ王国にある)が本を出版した。写真入りの本で、ウクライナとベラルーシでユダヤ系住民に行われた残虐行為を書いている。この本の基になった資料を集めたのは「同志」オストロフスキーだが、明らかに出所はボルシェヴィキである。この「歴史的」文書には、ボルシェヴィキご自慢の第一赤軍騎兵隊が、1920年5月にコーカサス山脈を出発して途中でウクライナを通った時に行った反ユダヤ人ポグロムには全く触れていない。逆に、この同じ文書は確かに数多くのポグロムについて述べ、それと共にマフノ叛乱兵の写真を載せている。ただ、写真では叛乱兵がそこで何をしているのかはっきりせず、実際のところ、マフノ叛乱軍でさえない。髑髏が描かれた黒旗を背景に「活動中のマフノ叛乱軍」と称している写真があるだけだ。この写真はポグロムとは何の関係もなく、とりわけマフノ叛乱軍は全く写っていないのである。 私自身とマフノ叛乱軍を標的にしたもっと重大な虚偽は、アレクサンドロフスクの街路を示した写真である。これは、1919年夏にマフノ叛乱軍によるポグロム後に荒廃した状態だという。出版に責任あるユダヤ人協会がこんな粗雑な嘘を付くなど許しがたい。ウクライナでは誰もが知っている。当該時点で、マフノ叛乱軍はこの地方から遙か遠くにいた。ウクライナ西部に後退していたのだ。実際に、アレクサンドロフスクは、1919年2月から6月はボルシェヴィキ統治下にあり、秋になるまでにデニーキンの手中に落ちていた。 ボルシェヴィキに傾倒したユダヤ人協会は、こうした文書を使って私とマフノ叛乱運動に甚大な被害を与えている。反ユダヤ人ポグロムの罪で(スポンサーのために)私達を審問しようと証拠文書を探したが見つからず、露骨な証拠捏造に手を染めた。こんな証拠など私とも叛乱運動とも何の関係もない。この卑劣なやり口がさらにはっきりするのは、一枚の複製写真である。「マフノ、『平和を好む』市民」と示しているが、実際、私の見知らぬ人物なのだ。 こうした全てのことから、私は国際ユダヤ人コミュニティに自ら語り掛け、ボルシェヴィキ支配下にある幾つかのユダヤ人協会の卑劣さと嘘に目を向けてもらわねばならないと思った。これらの協会は私個人と私が率いた叛乱運動に反ユダヤ人ポグロムの罪を着せている。ユダヤ人の国際世論はこうした悪名高き主張の中身を綿密に調査しなければならない。このようなナンセンスの吹聴は、ウクライナのユダヤ系住民が耐え忍んできたことの真相を万人の目に明らかにする最善の方法ではない。こうした嘘は歴史を完全に誤認させるだけだ。この事実を忘れてはならない。 ** 第六章 マフノ叛乱運動と反ユダヤ主義 過去およそ7年にわたり、マフノ叛乱革命運動の敵はこの運動について非常に多くの嘘をつきまくっている。こうした輩は一度たりとも赤面しないのだと驚く人もいよう。むしろ特徴と言えるのだが、私自身とマフノ叛乱に--実際、私達の運動全体に--こうした恥知らずの嘘を向けることで、全く異なる社会-政治陣営の人々が団結できるようになっているのである。その中には、あらゆる信条のジャーナリスト達、叛乱運動の邪魔をする著述家・学者・素人、一匹狼や空論家がおり、時として前衛的な革命思想の先駆者だと堂々と自称している。ヤノフスキーのような『労働者の自由な声』紙[2]のアナキストとされる人物を思い浮かべる人もいるだろう。こうした輩は、あらゆる信条・あらゆるタイプの人間であり、私達を知りもしないのに、時として自分の主張すらも全く信用していないのに、厚かましくも私達について嘘を付く。虚偽の締めくくりは当てこすりときた。怒鳴り散らす根拠を立証しようとせず、未来永劫私達を罵り続ける。実際、このヒステリーをほんの少しでも正当化できる根拠はあるのだろうか?少しばかり前、私達マフノ叛乱運動は、たった一つの証拠も資料確認もなしに、ポグロム実行者だと言われた。こうした厚顔無恥な嘘全てのために、私は、フランスとロシアのリバータリアン新聞の計らいで、世界中のユダヤ人に呼び掛け、こうした愚行全ての出典を詳しく説明するよう依頼した。それによって、ポグロムに関する具体的詳細を--私が率いたウクライナ勤労者革命運動がポグロムでどのような扇動や教唆を実行した(もしくは開始した)のかを--提供してもらおうとしたのだ。 パリの有名な「『フォーブール』クラブ」だけが私の「万国のユダヤ人に訴う」に返事をくれた。クラブの幹事達は新聞を通じて、1927年6月23日の会議で討論の際に以下の問題を論じると知らせた:「マフノ『将軍』はユダヤ人の友人だったのか、それとも虐殺に加担したのか?」そして、私達のフランス人同志ルコワンがマフノを擁護するスピーチを行うと付け加えていた。 言うまでもなく、この「フォーブール」の討論開催を知ると、すぐに私はこのクラブのポルデ会長に接触し、手紙を送り、ルコワンを辞退させて私自身にクラブで話す機会を頂きたいと依頼した。前向きな返事をもらい、1927年6月23日、私は集会に姿を現した。 しかし、このクラブの討論は特殊なやり方で行われ、私に関わる件が扱われたのは議事進行の終盤近くだった。私が発言できたのは午後11時頃と非常に遅く、この問題にとことん踏み込めなかった。ウクライナにおける反ユダヤ主義の歴史的性質・源流・パターンを取り上げてこの問題に触れるだけで精一杯だったのである。 多分、私の敵は、私の手に負えないこの要因、そして何よりも私がこの要因のために動きを封じられていた事実を利用するだろう。実際私は、フランス警察の規則によって、同じ考えを持つフランス人同志との連絡を禁じられていた。そのため、私は独自の公開会議を開催してこうした誹謗への反駁を行えなかった。また、厚かましくも嘘を付き、私がパリで「裁判にかけられた」と話している人もいた。嘘の上塗りだ。敵はこの嘘を取り入れた。ロシアとウクライナで過去30年以上苦しんできたユダヤ人の権利と独立を偽善的に擁護している輩がこの嘘を利用しているのだ。 こうした嘘は少しでも事実と一致し得るのだろうか?ウクライナのユダヤ人勤労者は皆、他のあらゆるウクライナ勤労者同様、私が長年指導者だった運動が、本物の革命的労働者運動だったとよく分かっている。この運動が、騙され・搾取され・抑圧されていた勤労者達の実践組織を、人種を理由に分断しようとしたことなど一度たりともなかった。全く逆だ。この運動は、抑圧者達、特に骨の髄まで反ユダヤのデニーキン軍に対して行動を起こせる強力な革命的同盟へと彼等を団結させようとした。この運動は、一度たりとも、ポグロムを任務として実行しなかったし、それを唆しもしなかった。それ以上に、ウクライナの(マフノ叛乱)革命運動の前衛には多くのユダヤ人勤労者がいたのだ。例えば、グリャイポーレ歩兵連隊には二百人のユダヤ人勤労者だけで構成される歩兵中隊があった。また、司令官も含め砲兵と守備隊全員がユダヤ人の4連装砲兵隊もあった。そして、マフノ叛乱運動には、個人的な理由から、混成の革命戦闘部隊に入りたがった多くのユダヤ人勤労者がいた。誰もが皆、自由な戦士であり、志願兵だった。心から勤労者の共同活動のために戦っていた。こうした無名の戦士達は経済組織の中に代表者を置き、軍全体に食料を再補給していた。グリャイポーレ地方のユダヤ人の入植地と村落に行けば、これら全てが証明されるだろう。 こうしたユダヤ人叛乱勤労者は皆、長期間--数日とか数カ月ではなく丸々数年間--私の指揮下にあった。誰もが、私・参謀・軍全体が反ユダヤ主義とそれが生み出すポグロムに関してどのように行動していたのか目撃している。 私達の側に見られたポグロムや強奪の計画は全て、蕾のうちに摘み取られた。こうした行為で有罪となった者は皆、その悪事のために例外なく即座に射殺された。例えば、次のような場合である。1919年5月、ノヴォ-ウスペノウカから来た叛乱農民数名が、後衛で少し休むために前線を離れる際に、ユダヤ人居留地の近くに2体の腐乱死体を見つけた。彼等は、ユダヤ人入植地のメンバーが殺した叛乱兵の死体だと考え、入植地に怒りをぶちまけ、住民を30人ほど殺した。同日、私の参謀はこの入植地に調査委員会を派遣し、虐殺犯の痕跡を見つけた。私はすぐに彼等を逮捕すべくこの村に特別派遣隊を送り込んだ。ユダヤ人入植地襲撃の責任を負うべき者は6人おり、そのうち一人は地区のボルシェヴィキ人民委員だった。全員1919年5月13日に銃殺された。 1919年7月にも同じことが起こった。私はデニーキンとトロツキーの集中攻撃を受けていた。トロツキーは当時、党に「マフノ叛乱運動拡大の可能性が大きくなるぐらいなら、ウクライナをそっくりそのままデニーキンに服従させる方がましだ」と断言していたのだ。そして、私はドニエプル川の右岸に渡らざるを得なくなっていた。これは、私が著名なグリゴーリエフ、ヘルソン地方コサックの長と会った時だった。私と叛乱運動について広まっているバカげた噂に騙され、グリゴーリエフは、デニーキンとボルシェヴィキに対する共同キャンペーンの実施を視野に、私と私の参謀と同盟を結ぼうとしたのだった。 私は会談開催に条件を付けた。コサックの長(オタマーン)グリゴーリエフは、エリザヴェトフラードのユダヤ人に対して、2~3度ポグロムを行ったと報じられていたが、私には自分でそれらを確認する時間がなかった。そのため、2週間以内にグリゴーリエフが私の参謀とウクライナ(マフノ派)革命叛乱軍ソヴィエトに、ポグロムに関する全ての報道には根拠がないと証明する文書を示すよう求めたのである。 この条件によってグリゴーリエフは考えざるを得なくなった。そして、有能な兵士・戦略家の彼は承諾した。彼は、自分がポグロム実行者ではないと証明しようと、自分の従者に社会革命党ウクライナ支部代表がいることを自慢した。そして、彼を革命の敵だと非難した「アピール」を参謀の名で発したと私を非難し、自分の誠意を示すために、グリゴーリエフは自分に随行していた政党代表者達を紹介したのである。それは、ウクライナ社会革命党のニコライ=コポルニツキー・ウクライナ社会民主党のセリアンスキー(別名ゴロベッツ)とコリウズニーだった。 これは、私が主力戦闘分遣隊と共にエリザヴェトフラード郊外にいた時の出来事である。私は、この機会を利用して、コサックの長グリゴーリエフがこの町を占領していた時に何を行ったのか自分で確認しようとした。これが革命家としての私の責務だと判断したのである。同時期、途中で捕まえたデニーキン軍のスパイが、グリゴーリエフは、ヘルソン地方の労働者が知らないうちに、ボルシェヴィキに対する共同軍事行動に向けた結束強化のためにデニーキン軍本部と自分の運動との調整をしようとしていると私に告げていた。 エリザヴェトフラードと近隣村落の住民だけでなく、グリゴーリエフの部隊にいる遊撃兵からの話では、グリゴーリエフが町を占領する度にユダヤ人が虐殺されていたという。彼の立会いの下、彼の命令で、その遊撃兵は約2000人のユダヤ人を殺した。その中には若い盛りのユダヤ人青年がおり、その多くがアナキスト・ボルシェヴィキ・社会主義の青年組織メンバーだった。中には、刑務所から連れだされて虐殺された者もいた。 こうしたこと全てを知ってすぐ私は、ヘルソンのオタマーン --「社会主義革命家」(詐称)--グリゴーリエフを、デニーキン軍のスパイ・公然のポグロム実行者・その支持者達がユダヤ人に対して行っている行為に対する直接の犯人だ、と断言した。 1919年7月27日のセンツォヴォ会談で、グリゴーリエフは、彼の正体を直ちに糾弾され、衆人環視の中その場で処刑された。この処刑とその理由は次のように発表された。「ポグロム実行者グリゴーリエフはマフノ叛乱の指導者達(バトコ=マフノ・セミョーン=カレトニク・アレクシス=チュベンコ)によって処刑された。マフノ叛乱運動はこの行為について歴史の前で全責任を負う。」この声明は叛乱軍ソヴィエトのメンバーと、ニコライ=コポルニツキーを含む社会革命党の出席者(原註:社会民主党のセリアンスキーとコリウズニーはグリゴーリエフ処刑後に完全に姿を消した)によって承認された。 私は、ポグロム実行者やその準備に追われている人に対してこの種の扱いを常に用意していた。そして、叛乱軍自身の兵隊であろうと外部の者であろうと、略奪者達も容赦しなかった。例えば、1920年8月、私達は、レフチェンコとマトヤンシャの指揮下にあるペトリューラ派民族主義の傾向を持つ2つの分遣隊を包囲していた。彼等は私達に使者を送り、私達の兵士として合流したいと言ってきた。参謀と私は彼等を受け入れ、入隊に同意した。だが、これらの分遣隊の民族主義分子が略奪と露骨な反ユダヤ主義に関与していたと気付き、直ちにポルタヴァ地方のアヴェレスキという村で即座に彼等を射殺した。数日後、彼等の指揮官だったマトヤンシャも(ポルタヴァ地方の)ジンコウという町で挑発的行動を取ったために銃殺された。彼の分遣隊は武器を剥奪され、兵士の多くが解雇された。 これは1920年12月に赤軍で再現された。私達はブジョーンヌイ騎兵軍団の猛攻撃に耐え、アレクサンドロフスク地区のペトロヴォという村の近くで彼の軍の第11師団[3]を撃退し、この師団の司令部全体と参謀全員は第14騎兵師団によって捕虜にされた。第11師団の捕虜の多くが、(彼等の言葉によれば)独裁的な人民政治委員と戦うために叛乱軍に参加したいと言ってきた。ヘルソン地方を横断し、住民の半数以上がユダヤ人のドブロヴェリチカという村に着くと、元ブジョーンヌイ軍・元ペトリューラ軍の騎兵の一部が、マフノ派が「ユダ公」に敵意を持っているという元部隊に広まっていた噂に基づいて行動し、ユダヤ人村民の住宅を略奪し始めた。老練のマフノ軍叛乱兵がこれに気付くとすぐさま全員を逮捕し、その場で射殺した。 このように、マフノ叛乱運動は、存在している間中、ポグロム実行者の反ユダヤ主義に対して容赦ない方針を取っていた。この叛乱運動が、ウクライナにおける本物の革命的勤労者運動だったからだ。 ネストル=マフノ ** 第七章 クロンシュタット叛乱を偲んで 3月7日は、この日クロンシュタットで起こった出来事に何らかの形で関わったいわゆる「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の勤労者にとって痛ましい日である。万国の労働者にとっても同じぐらい痛ましい記念日だ。というのも、クロンシュタットの自由な労働者・水兵が、ロシア革命を死に至らしめようと大忙しの赤色死刑執行人「ロシア共産党」とその手先「ソヴィエト」政府に何を要求したのか、記憶が蘇るからである。 クロンシュタットはこうした国家主義絞首刑執行人に対して、革命を実行したのは勤労者なのだから、町と田舎の勤労者に属していた全てを勤労者に返せ、と主張した。クロンシュタットの人々は、十月革命の根幹を実際に行うよう主張したのだ: 労働者と農民、アナキストと社会革命党左派に、自由選挙のソヴィエトを・言論の自由を・出版の自由を。 ロシア共産党はこれを国内における自分達の独占的立場に対する法外な挑戦と見なした。そして、革命家と労働者の友人という仮面の背後に臆病な死刑執行人の顔を隠しながら、クロンシュタットの自由な水兵と労働者を反革命分子だと発表し、何万人もの従順な警官と奴隷達--チェーカー支持者・クルサンティ(アレクサンドル=スキルダ註:赤軍士官候補生)・党員など--をクロンシュタットに送り込み、優れた闘士・革命家――クロンシュタットの人々――を虐殺しようとした。クロンシュタットの人々は革命的大衆を前に何ら疾しいことはなかった。彼等の唯一の罪は、勤労者の権利と革命を踏みにじっているロシア共産党の嘘と臆病に憤慨したことだったのだ。 1921年3月7日午後6時45分、砲火の嵐がクロンシュタットに対して吹き荒れた。当然であり必然であったように、クロンシュタットは反撃した。自分達の要求のためだけでなく、自分達の革命的権利から闘争しているこの国の勤労者のために、反撃した。この権利をボルシェヴィキ当局は独断的に蹂躙しているのだ。 奴隷化されたロシア全土が彼等の反撃に共鳴した。ロシアは、彼等の高潔で英雄的な闘争を支持する用意ができていたものの、残念ながら、実行する力がなかった。この国の自由な精神と自由意志を破壊すべく特別に編成された赤軍とチェーカーの抑圧的分遣隊によって、すでに武装解除され、絶えず搾取され、隷属状態にあったからだ。 クロンシュタット支持者が被った損害・分別なき赤軍集団の損害を見積もるのは難しい。しかし、一万人以上が死んだのは確実であろう。死者の大部分は労働者と農民、ペテンの党がより良い未来を約束して騙し、その権力掌握に利用した人々だった。彼等は、この国の経済生活・政治生活に党が全権を及ぼす支配力を広げ、確固たるものにするために、党利党略を追及するためだけに、長年利用されていたのだ。 ボルシェヴィキの寡頭政治に対してクロンシュタットが擁護したのは、ロシア革命で労働者と農民が行った最上の闘争だった。まさにこの理由から、寡頭政治の独裁者達は、軍が勝利を収めた直後にクロンシュタットを抹殺し、生き残りをロシア帝政とブルジョア政権から引き継いだ地下牢と小要塞に閉じこめたのである。このように理解すれば、3月7日という日は、万国の労働者にとって深刻に痛ましい記念日だと見なさざるを得ない。従って、戦闘で非業の死を遂げたクロンシュタットの革命家とボルシェヴィキの監獄に残されて痩せ衰えていった生存者達の痛々しい記憶をこの日に再び蘇らせねばならないのは、ロシアの勤労者だけに限らない。この問題は不満を述べて解決するようなものではない。3月7日の記念とは別に、万国の労働者は至る所で集会を開催し、クロンシュタットで革命的労働者と水兵に対してロシア共産党が犯した暴挙に抗議し、ボルシェヴィキの刑務所で苦しんでいる生存者とフィンランドの強制収容所に抑留されている生存者の解放を要求せねばならない。 ** 第八章 平等の理念とボルシェヴィキ ロシア共産党第14回大会は平等の概念を全面的に非難した。大会に先立ち、ジノヴィエフは、ウストリャーロフとブハーリンに対する論戦でこの理念に言及した。彼はその時、現代哲学全体が平等の理念に支えられている、と宣言した。この大会でカリーニンは、この主張に対して力強くはっきりと反対し、平等へのいかなる言及も有害にならざるを得ず、容認してはならない、という立場を取った。その理由は以下の通りである: 平等について農民と話せるだろうか?できない。論外だ。できるなら、農民は労働者と同じ権利を要求しようとし、プロレタリア階級独裁とは完全に矛盾する。同様に、労働者と平等を語れるだろうか?できない。これも論外だ。例えば、共産党員と非党員とが同じ仕事をしていても、前者は後者の2倍賃金をもらっているという違いがある。平等を是認すれば、非党員が共産党員に支払われているのと同じ給料を要求できるようになる。同志諸君、これを受け入れられるだろうか?受け入れられないのだ。では、共産党員の間で平等を要求できるだろうか?これもできない。党員もまた、権利の面でも、物質的情況の面でも、それぞれ違う立場にいるからだ。 カリーニンはこうした考察に基づき、ジノヴィエフが「平等」という言葉を使ったのは煽動的で有害でしかないと断定した。ジノヴィエフは、これに対する返答の中で、大会に対して、自分は平等について述べたが、それは全く異なる意味だった、と述べた。彼としては、「社会主義的平等」、つまり、多少なりとも遠い将来に認められる平等を念頭に置いていた。世界革命が行われる時までは、そしてそれが何時なのか分からない以上、当面の間、いかなる平等もあり得ないのだった。特に、権利の平等はあり得なかった。非常に危険な「民主的」逸脱の方向に自分達を引きずり込む恐れがあるからだ。 大会の決議文には平等の概念をこのように理解すると明記されなかった。しかし、本質的に、大会で衝突した二つの立場は平等の理念を容認できないと見なす点で一致していた。 以前、さほど昔ではないが、ボルシェヴィキは全く異なる言葉を使っていた。ロシア大革命の最中、ボルシェヴィキの活動は平等の旗印の下で行われた。労働者・農民と協力し、ブルジョア階級を転覆するためである。労働者・農民の犠牲の上に、ボルシェヴィキはこの国に対する政治的権限を増大させた。こうした旗印の下で、ボルシェヴィキの皇帝どもは、旧ロシア--以後「ソヴィエト社会主義共和国連邦」として知られる--の勤労者の生活と自由を8年間に渡り支配し、この「連邦」の労働者(彼等が弾圧した)だけでなく、他国の労働者(彼等が未だ統制していない)も次のように説得しようとした。つまり、自分達が政治的敵対者を迫害し、牢獄に放置したり追放したりし、殺害する場合、それはもっぱら革命の名において、敵が破壊しようとしている革命の平等主義的基盤(彼等の言い分では彼等が革命に注入したとされる)の名において行われるのだ、と。 アナキストの血が流れされてから間もなく8年になる。アナキストは、権力を掌握した輩の暴力や傲慢の前に、有名な虚偽のイデオロギーと全くの無責任の前に、卑屈に頭を下げなかった。 血に飢えていたとしか言いようがないボルシェヴィキの神々の犯罪行為によって、革命の最良の成果は失われてしまった。アナキストは革命諸理念の最も忠実な主唱者だった。アナキストは賄賂で諸理念を裏切りはしなかった。革命の指針を誠実に守る中で、こうした革命の子供達はボルシェヴィキの神々の狂気をかわし、苦境を抜け出す途を見つけようとした。勤労者の真の自由・本物の平等に向かう道を切り開くためだ。 ボルシェヴィキの有力者にはすぐに分かった。こうした革命の子供達の大志は、自分達の狂気に、そして何よりも、没落するブルジョア階級から自分達が巧みに引き継いだ特権に破滅的結果をもたらし、その後、自分達の利益を危険にする程まで大きくなるだろう。こうした理由から彼等は革命家に死刑を宣告した。奴隷の精神を持つ人々が彼等を支え、血が流された。過去8年間、血は流れ続けている。何の名の下に?と問うかもしれない。勤労者の自由と平等の名の下に、とボルシェヴィキは言いながら、何千という無名の革命家・社会革命の闘士達を「山賊」・「反革命家」とレッテル貼りし、殲滅し続ける。 この恥知らずの虚言を使って、ボルシェヴィキはロシアの現状を、特に自分達の社会主義構築が破綻していることを、世界中の勤労者の目から隠してきた。だが、そんなことは見る人が見ればすぐに分かるのだ。 アナキストはロシア革命でボルシェヴィキが行った犯罪に注意するようすぐさま万国の勤労者に警告した。ボルシェヴィズムは、中央集権国家の理念を体現し、革命的勤労者の自由な精神にとって不倶戴天の敵だと露呈している。先例のない手段に訴えて、革命の発展を妨害し、革命の最も優れた面の名誉を汚している。うまく偽装して、労働者が注視しても真の顔を隠し、労働者の利益の擁護者に成りすましている。統治から8年経った今になって、徐々に国際ブルジョア階級にすり寄り、革命の仮面を脱ぎ捨て、強欲な搾取者の顔を労働者の世界に晒し始めている。 ボルシェヴィキは、実践的にも理論的にも平等の理念を捨てた。今や平等理念の表明そのものを危険視している。これは充分理解できる。ボルシェヴィキの支配全てが平等と真逆の概念に依存しているからだ。悲鳴をあげるほど激しい不平等に依存しており、その恐怖と弊害全てが労働者の背後で大きくなっている。万国の勤労者が必然的結論を導き出し、その結果、ボルシェヴィキと断絶すると期待しよう。ボルシェヴィキは、奴隷制理念の主唱者・労働者の圧制者なのだ。 ** 第九章 「プロレタリア」権力の途 もうだいぶ前になるが、前衛的な社会主義知識人階級が、ブルジョア階級に対する歴史的なプロレタリア階級闘争の目的を多少とも完成された形ででっち上げた。プロレタリア階級は知識人階級によるこの定式化を丸呑みし、知識人階級の指導の下に多くの闘争に参加した。これが知識人階級の勝利だったことは否定できない。知識人階級は、プロレタリア階級を完全解放に導くという目標を定め、ブルジョア権力・国家を破壊し、「プロレタリア」国家・権力で置き換えようとしている。 至極当然ながら、知識人階級もプロレタリア階級自身も、ブルジョア国家が行った害悪全てをできるだけ広く人々に暴露する活動と調査を怠っていたわけではない。だからこそ、彼等は、全ての問題を解決するとされる「プロレタリア」権力という概念を労働者大衆の間に育成・発展できたのである。この見地によれば、プロレタリア階級は、自身の階級権力と国家によって、自身と他の階級をブルジョア階級から解放し、人間関係に自由と平等主義の原則を導入できる唯一の既存手段を行使するようになる。私達アナキストには、こうした「プロレタリア」権力の運命に関わる予言は常に重大な誤りだと映っていた。かつて同志たちはこの概念に絶えず反旗を翻し、「プロレタリア」権力と国家全般とを区別している点・「プロレタリア」権力に全く異質な使命を負わせている点で、国家主義者は間違っていると明示した。 しかし、国家社会主義者は権威主義の伝統に忠実であり続け、その見解を武器にしてロシア大革命--社会的意味という点で歴史に比類なき深く広範な革命--を奪取した。私達アナキストについて言えば、私達は「プロレタリア」権力の運命に関する誤った予言に反対し、論争の中で国家主義者に示した。ブルジョアだろうがプロレタリアだろうが、いかなる国家も本質的に人々を搾取・抑圧するだけであり、私達一人一人にある人間精神、平等とそれを下支えする連帯とを求めた人間精神の自然な性質を破壊するのだ。この主張によって国家社会主義者は私達をさらに酷く憎むようになった。今、ロシアにおける「プロレタリア」権力の存在と実践は、私達の分析の正しさを裏付けている。プロレタリア階級が、革命の初期から、さらに言えば彼等がその導入を手助けしたときから、正しく認識できていたように、「プロレタリア」国家はその真の性質を徐々に現し、そのプロレタリア性は単なる作り話だと証明された。この変質過程で「プロレタリア」権力は純然たる国家権力と同じだと証明されたのだ。この事実に今や議論の余地はなく、この事実によって、これまで狡猾に隠蔽していた素顔をさらけ出すようになっている。その実践こそが「プロレタリア」権力の目標とロシア大革命の目標に何の共通点がないと充分証明している。長年の偽善の中で、ロシア革命の目的を自身の目標に平和的に従属させられず、本質--革命の肉体にできた化膿した巨大潰瘍--を暴露する恐れのある全ての人と対決しなければならなくなった。例外なく全ての人を、主に独立して自由に活動しようとする人々を、死に至らしめ破滅させる臆病と裏切りだ。人は自問するかもしれない。何故このような事態になったのだろうか?マルクスとレーニンによれば、「プロレタリア」権力はブルジョア権力とは似ても似つかないものになるはずだった。プロレタリア階級の前衛の一部にもこうした事態の責任の一端があるのではないか? 多くのアナキストは、プロレタリア階級は社会主義知識人のカーストにいわば騙されていたのであって、プロレタリア階級に責任はないと考えがちだ。社会主義知識人は、恐らく、一連の純粋な社会歴史的現象の中で国家の修正は必然であるという論理から、ブルジョア階級の権力を自分達自身の権力で置き換えようと熱望しているのだろう。資本主義ブルジョア階級の世界に対するプロレタリア階級の闘争を社会主義知識人が永続的に指導しようとしているのは、こうした理由からだとされている。 私の知る限り、このような主張は全く正確でも、事実として適切でもない。ロシア革命の経験は、これについて豊富な客観的データを示している。この経験は反駁の余地がないほど示している。革命の最中にプロレタリア階級は全く均質ではなかった。だから、都会のプロレタリア階級は、多くの町で階級の敵--ブルジョア階級--の権力打倒に加担しようとも、1917年の二月革命と十月革命の途上で一時躊躇したのだ。都会のプロレタリア階級の多くがその同胞の一部--十月革命の利益を直接作った人々--と同盟を組み始めたのは、一定期間経ってから、十月革命が二月革命よりも軍事的勝利を収めてからだった。やがて、こうした都会のプロレタリア階級の一部は革命の利益を自力で防衛しなくなっただけでなく、権力を握ったボルシェヴィキ党に大急ぎで転向した。それが充分魅力的だったため、極度にこの党に媚び諂うようになり、政治的・経済的・司法的に階級特権に対するある種の嗜好が培われた。こうした階級特権で腹一杯になると、これら一部のプロレタリア階級はその「プロレタリア階級国家」をも同じぐらい愛するようになった。当たり前だが、ボルシェヴィキ社会民主党はこの傾向を持つ者を完全に支援し、育成した。プロレタリア階級の実践的闘争を利用して、プロレタリア階級の大部分を従わせ、ボルシェヴィキの名で国家権力を乗っ取るという計画を党が実行する大きな機会を提供してくれるからだ。この過程で、ボルシェヴィキ社会民主党は、群衆から目立つために「ボルシェヴィキ共産」党と名乗り、恥ずかしげもなく最も厚かましいデマに訴え、どんな計略も使い、必要となれば躊躇せずに他の政治集団の綱領を転用した。全ては、プロレタリア階級を縛り付け(党はこの階級に惜しげない支援を約束していたが、実際に追求していたのは党の目的だけだった)、都合良く利用するというたった一つの目的のためである。この意味で、党は知識人カーストの歴史的野望を最も十全に具現化していた。つまり、権力の座にあるブルジョア階級の後釜に座り、いかなる犠牲を払っても権力を行使するという野望である。プロレタリア階級の多くはこの観点に敢然と立ち向かえなかった。実際、全く逆だった。党の行為を自分達と同一視し、共犯者になってしまったのだ。 それでも、こうしたプロレタリア階級は、数世代にわたり次のように教育されていた。プロレタリア階級がブルジョア階級から解放されるのは、独自組織構築の活路を開くべくブルジョア階級の権力を粉砕し、その国家組織を破壊した時だけである。それにもかかわらず、これらのプロレタリア階級はボルシェヴィキ共産党が「プロレタリア権力」を組織し、「その」階級国家を樹立する手助けをしたのだ。 ほどなく、そこに至る途と用いられた手段によって一部のプロレタリア階級は、転覆されたブルジョア階級とあらゆる点で同化した。どんな些細なことにも厚かましく横柄になり、何の躊躇いもなく最も凶暴な暴力を行使し、民衆と革命を強制的に支配するようになったのである。 言うまでもなく、この暴力は党の知識人カーストの習慣だった。長年、暴力の行使を教え込まれ、暴力に酔いしれるようになっていたからだった。プロレタリア階級の大部分--過去の物言わぬ奴隷--は、仲間に対する暴力に全く馴染みがない。プロレタリアの一部は、「階級国家」の建設に忙しく、革命組織が厚かましくも「プロレタリア権力」の問題に異議を唱えるやいなや、個人の自由に、そしてあらゆる革命組織の言論と表現の自由に対して、暴力を使って嫌悪的に行動するよう仕向けられていた。一部のプロレタリアは、ボルシェヴィキ共産党指導部の下、没落したブルジョア階級の暴君がいなくなって空席となった地位に身を隠そうと奔走した。自分達が専制的な支配階級になる番であり、この目的を達成するために、自分達の計画に反対する全ての人に対して何の躊躇もなく無差別に身の毛もよだつ暴力を行使した。同時に、この行動は「革命の防衛」を巧妙に隠れ蓑にしていた。 こうした暴力は、とりわけロシア革命の組織に向けられた。プロレタリア階級の一部とボルシェヴィキ共産党の狭い利益を独占するためであり、他の労働者階級を完全に支配するためである。これは単にプロレタリア階級が一時的に道を誤ったのだとは見なし得ない。またしても、全ての国家権力がいかに図々しくその正体を現しているかよく分かる。「プロレタリアの」という形容詞がついたところで全く何も変わらないのだ。 私の理解では、こうした理由から、この経験を直接していない外国の同志たちは皆、ロシア革命のあらゆる段階を注意深く検証しなければならないと思う。特に、ボルシェヴィキ共産党と共産党に従ったプロレタリアの一部がそこで果たした役割を調べねばならない。そうすれば、ボルシェヴィキとその支持者の恥ずべきデマに照らし、「プロレタリア権力」の活用可能性について同じ過ちを避けるようになるだろう。 また、同様に真実だが、ボルシェヴィキの欺瞞に対して現在あらゆる同志が行っている運動は、この「プロレタリア権力」に代わり幅広い大衆に委ねるものについて、信頼に足る情報の裏付けの下で展開されねばならない。大衆はスローガンを気にはしているものの、優れたスローガンだけでは不充分である。この闘争は具体的情況に基づいて行われ、重大かつ喫緊の問題を絶えず提起する。勤労大衆が自身の完全解放を求める上で、どのような社会的行動を取り、どの方法を使うべきなのか? こうした疑問には、できるだけ直接的に、最大限明晰に答えねばならない。資本主義ブルジョア世界に対して積極的闘争を行う場合だけでなく、私達のアナキズム運動にとっても、必要不可欠である。なぜなら、私達の思想が闘争の開始と結果に影響を与えるからだ。プロレタリア階級はロシアの同志が行った過ちを繰り返してはならない。いかなる政党の指揮棒の下であろうと--それが「プロレタリア」と自称していようとも--「プロレタリア権力」の組織化に忙殺されてはならず、万人の必要を満たし、あらゆる国家当局から革命を防衛することに専念しなければならない。 ** 第十章 「ソヴィエト」権力:その現在と未来 多くの人々、特に左翼政治家が「ソヴィエト」権力を他とは異なる国家権力だと見なしがちなのは確かだ。ただ、この違いを最高のバラ色で描いている: 彼らは言う。「ソヴィエト権力は労働者と農民の権力であり、故に、その先に偉大な未来が待っている。」 これほどバカげた主張はない。「ソヴィエト」権力は他の権力と大して変わらない。現在のところ、あらゆる一般的な国家権力と同じぐらい不安定で不条理を抱えている。ある面では、他の権力よりもさらに不条理である。「ソヴィエト」権力は、ロシアの政治的支配を完遂し、経済資源の比類なき支配者になった。そして、下劣な搾取情況に満足せず、内側からこみ上げる欺瞞的な精神的「完成」の感情を感じ、この感情をロシアの革命的勤労大衆に広めようとしている。これが、そのプロレタリア「精神」を革命的ではなくし、一層厚かましいものにした。つまり、騙された民衆に対して、自らが精神的主人だと押しつけようとしているのである。この点で、「ソヴィエト」権力はあらゆる国家権力が持つ際限なき無責任な厚かましさに忠実である。公然の秘密だが、この政権の「完成」なるものは、その助言者たるボルシェヴィキ共産党の完成に過ぎない。これら全ては勤労大衆に対する見え透いた嘘・卑劣な二枚舌・犯罪的厚かましさに他ならない。ロシア大革命を成し遂げたのは、勤労大衆の名においてであり、勤労大衆のおかげだった。目下、勤労大衆は当局に鞭打たれている。党の特権と少数のプロレタリア階級の利益のためだ。党の支配下にいた少数のプロレタリア階級は、ロシア大革命を「プロレタリア」国家・「プロレタリア階級」独裁という何も知らない人を魅了する名称と同一視できると信じていた。少数派は、それにも拘わらず、この党が付けた馬勒に引きずられるがままになっている。少数派は沈黙し、この件について一言も口にせず、裏切って捏造された過去の成果と現在進行中のでっち上げについて手短に説明される権利を奪われている。こうしたでっち上げは、プロレタリア階級の同志達、盲目でいることを・物言わぬ手先になることを拒否し、プロレタリアを装った党の嘘を飲み込めない人達に対して行われているのだ。 それでも、勤労者に対するボルシェヴィキ当局のこうした行為は「精神的」教育の領域では別な形で現れるのではないかと思うかもしれない。そうならざるを得ないだろう。その証拠に、ソ連の労働者に革命的意識が持続し、これが政権にとって深刻な不安の源泉となっており、ボルシェヴィキ党はそれを綱領の型にはめて造った政治意識で置き換えようとしている。 この要因が、ボルシェヴィキ当局がさらに多くの困難に直面している理由、そして愚かにもその経済的・政治的独裁を労働者の精神的支配で仕上げようとしている理由を説明してくれる。言うまでもなく、政権の現在の苦境が将来の見通しを大きく決定する。つまり、明らかに好ましい現在がなければ、将来が不確実性で満ちるのだ。事実、現在の情勢は、数百万人の労働者にとって明らかに好ましくないため、ボルシェヴィキ-共産党秩序に対して血なまぐさい蜂起と革命がいつ勃発してもおかしくないと予想できる。当然、あらゆる革命家はソ連労働者の蜂起主義的革命精神を支援するはずである。しかし、この支援を反革命家と勤労者の敵の食い物にさせはならない。したがって、この支援は、党員と従僕の特権のために設けられた現在の無意味で無責任な秩序の破壊だけを目的にしなければならない。 この政権の狂気を排除し、搾取されている労働者にとって不可欠な諸原則で置き換えねばならない。各人の、つまり、本物の解放に関わる全ての人の、連帯・自由・平等な意見に基づかせるのである。この問題は、あらゆるロシア人革命家に関わっている。私の考えでは、亡命中であろうとソ連国内に居ようと、誰もが第一にこの問題に関わらねばならない。革命的傾向を持つあらゆるプロレタリアも知識人も同様である。さらに付け加えるなら、ボルシェヴィキ政権の敵対者や政治的逃亡者も、それが真に革命的な考えによるのであれば、皆関わらねばならない。 これが私の見る「ソヴィエト権力」の現在と未来、そしてあらゆる党派のロシア革命家が「ソヴィエト権力」に対して採らねばならない立場である。私の観点では、革命家がこの問題を別な形で提起するなどあり得ない。革命家は理解しなければならない。ボルシェヴィキ権力と戦うのであれば、ボルシェヴィキが権力奪取のために利用し明言していた価値観を最大限誇示しなければならない。ボルシェヴィキは、何の誠意もないくせに、この価値観を擁護すると未だに公言して憚らないのだ。 さもなくば、革命家の闘争は、ボルシェヴィキ-共産党に騙され抑圧され搾取されている数百万の勤労者の大義にとって、革命がどのような犠牲を払おうとも欺瞞と抑圧の悪循環から抜け出す手助けをすべき労働者の大義にとって、反革命とは言わないまでも、少なくとも何の役にも立たないと判明するだろう。[4] ** 第十一章 国家に対する闘争 近代国家は、勤労者の社会生活における恣意性と暴力に基づく権威型組織である。この事実は「ブルジョア」国家にも「プロレタリア」国家にも当てはまる。国家は圧制的な中央集権主義に依存し、多数に対して少数が行使する直接的暴力から生じる。制度の合法性を強要し、押しつけるために、国家は、銃と金だけでなく、心理的圧力という強力な武器にも訴える。こうした武器の助けを借りて、ちっぽけな政治家集団が社会全体に、とりわけ勤労大衆に、心理的抑圧を強要し、国家が設けた奴隷制から注意を逸らすよう仕向けるのである。 従って、どう考えても、近代国家の組織暴力と闘うのなら、この任務の規模にふさわしい強力な武器を配備しなければならない。 これまでのところ、革命的労働者階級はリバータリアン思想に合致した様々な社会活動を使って抑圧者と搾取者--国家と資本--の権力に対抗したが、これでは勤労者が完全勝利を収めるには不充分だった。 歴史は示している。労働者は資本を打ち負かしたものの、その後、勝利は労働者の手から滑り落ちた。それは、何らかの国家権力が出現し、勤労者に勝つために民間資本の利益と国家資本主義の利益を融合したからである。 ロシア革命の経験は、この点に関する私達の欠点をあからさまに露呈している。私達はこれを忘れず、むしろ欠点の明確な同定に専念しなければならない。 私達の隊列は混乱に悩まされていたものの、ロシア革命で私達が行った国家に対する闘争は卓越していたと認められよう。かの忌まわしい制度の破壊に関する限り、何よりも卓越していたのだ。 しかし、逆に、私達の闘争は勤労者の自由社会とその社会構造を構築する領域では不充分だった。これらは、国家とその抑圧的諸制度の庇護が届かないところで確実に繁栄していたかもしれない。 私達、リバータリアン共産主義者やアナルコサンジカリストは、ロシア革命の帰結を予測できず、新しい社会活動形態の立案を急ぎ間に合わせられなかった。この事実のために、多くのグループと組織は、革命闘争の最前線でまたしても政治的・社会的戦略方針をまたもや逡巡してしまった。 将来、革命的情況が生じた際に同じ過ちを再び繰り返さないようにするため、そして組織方針のまとまりと一貫性を保持するために、私達はまず私達の側の全勢力を一つの能動的集団に融合しなければならない。そして、すぐさま経済的・社会的・地域的・領土的単位に関する建設的概念を定義しなければならない。これによって、その要点(自由ソヴィエト群)が概説され、特に、国家に対する闘争における基本的な革命的使命の大まかな輪郭を描けるようになる。現代生活とロシア革命にはこれが必要なのだ。 労働者大衆と農民大衆の隊列に溶け込み、運動の勝利にも敗北にも積極的に参加した人々は、疑いもなく、私達の結論に、もっと具体的に言えば、国家に対する私達の闘争は国家の完全根絶まで継続しなければならないという認識に、到達するはずだ。同時に、彼等は、この闘争において最も骨の折れる役割を担うのは武装革命軍だと認めるだろう。 武装革命軍の活動と社会的・経済的構成単位との結びつきが肝要である。そこでは、労働者が革命初日から組織を作り、あらゆる国家主義構造の手が届かない、完全な自治生活組織を導入できるようになるだろう。 この瞬間から、アナキストは革命のこうした側面に注目しなければならない。アナキストは確信しなければならない。武装革命軍が大規模な軍隊や多くの地域の武装分遣隊へ組織されれば、国家の在任者と擁護者を打倒し、その結果、革命を支持する勤労大衆に必要な諸条件がもたらされるはずである。そうなれば、勤労大衆は過去との繋がりを全て断ち切り、新たな社会経済的存在を構築するプロセスの最終的内容に目を向けるようになるだろう。 しかし、国家は、いくつかの地域の飛び地にすがりつき、勤労者の新生活の道程に様々な障害物を置き、人間の完全解放に基づく新しい関係の成長・調和のとれた発展のペースを遅らせようとするだろう。 国家の最終的で完全な清算が実現するのは、勤労者の闘争が可能な限り最もリバータリアンの方針に沿って方向付けられる時だけ、勤労者が自分達自身で自分達の社会活動の構造を決定する時だけである。こうした構造は、社会的・経済的に自主独往の諸機関、自由な「反権威主義」諸ソヴィエトという形態を取らねばならない。革命的労働者とその前衛--アナキスト--は、こうしたソヴィエトの性質と構造を分析し、その革命的機能を事前に特定しなければならない。この点にかかっているのだ。自由社会を建設するために自分達の責任で国家の清算を達成しようとする人々の隊列に建設的進化とアナキズム思想の発展が生じるかどうかは、主としてここにかかっているのだ。 ** 第十二章 5月1日:勤労者の生活と闘争における新時代の象徴 社会主義の世界では、5月1日は労働者の祝日とされている。これは誤った記述だが、勤労者の生活に深く浸透しているため、多くの国々で実際にこの日はそのように祝われている。実際には、5月1日は勤労者の祝日などではない。違うのだ。労働者はこの日、作業場や田野にいてはならない。この日、全世界の勤労者は、それぞれの村落や町に集まり、大衆集会を開催しなければならない。この日を国家社会主義者、特にボルシェヴィキが思っているように記念するためではなく、むしろ、彼等の強度を評価し、暴力と虚偽に根ざす腐敗した卑怯な奴隷所有秩序に対する直接的武装闘争の可能性を見極める日にするためである。既に暦の一部になっているこの歴史的な日は、全ての勤労者が集まりやすく、現在と未来の本質的事柄に関わる万事を共同で議論するだけでなく、自分達の集団的意志を表明するのにも好都合である。 40年以上前、シカゴとその近隣の米国人労働者達が5月1日に集会を開催した。集会で彼等は多くの社会主義弁士の演説を聞いた。特に、アナキスト弁士に耳を傾けた。と言うのも、労働者達はリバータリアン思想を貪欲に吸収し、公然とアナキストの側に立っていたからである。 この日、こうした米国人労働者達は、組織を作り、有産者の国家と資本による非道な秩序に抗議を表明しようとした。これは、スパイズやパーソンズといった米国人リバータリアン達が話していたことだった。この時点で、この抗議集会は資本の手先による挑発で中断され、非武装の労働者達の虐殺、それに続くスパイズとパーソンズ等同志達の逮捕・殺害で幕を閉じた。 シカゴとその地域の労働者達は、メーデーの祝日を祝うために集まったのではない。自分達の生活と闘争の諸問題を共同で解決するために集まったのである。 今日も、勤労者がブルジョア階級とそれに繋がる社会民主主義(メンシェヴィキだろうがボルシェヴィキだろうが、違いはない)の指導から解放された場所ならばどこでも、もしくは解放されようとしている場所であっても、勤労者は5月1日を、自分達の問題に関心を持ち、自分達の解放という問題を考えるために集まる機会だと見なしている。こうした大志を通じて彼等はシカゴの殉教者の記憶に連帯と敬意を表明する。だから、彼等は、5月1日は自分達の祝日ではあり得ないと思っているのだ。「プロの社会主義者」はこの日を労働者の祭典と描く傾向があるが、この主張とは裏腹に、意識的労働者にとって5月1日はそのような類のものではない。 5月1日は勤労者の生活と闘争における新たな時代の象徴である。この時代、勤労者は毎年、ブルジョア階級に対して新しく一層厳しい断固たる戦いを行う。自分達からもぎ取られた自由と主体性のために、自分達の社会理想のために。 ** 第十三章 アナキズムと現代 アナキズムは、単に人間の社会生活を扱う教義ではない。これは、政治学の辞書に載っている狭義の意味で、時として会合などでアナキズムを宣伝する演説者もこのように述べる。だが、アナキズムは同時に、円熟した個人としての人の存在全てを包含する教義でもある。 その総合的世界像を精緻化する中で、アナキズムは非常に具体的な課題を自らに課してきた。現在も今後も、ブルジョア資本主義の科学と技術が提起すると思われる雑多な障害物を排除しつつ、世界を全体として包含するのである。その目的は、世界の存在に関する可能な限り網羅的な説明の提供・人間に立ちはだかるあらゆる問題の最善の解決である。このアプローチの手助けにより、人は自分に本来内在する--少なくとも、私はそう仮定している--アナキズムの意識を、その一部が常に出現し続けるほどまで自分のものにできるようになるはずである。 個人の意志を基本として、人間はリバータリアン教義を現実生活に体現できるようになり、自分の胸中から服従精神を全て追放する途を明らかにできるようになる。 アナキズムは限界なく発展する。アナキズムは、自身を閉じ込め、固定しかねない堤防を認めない。人間存在と同じように、その熱望と目的に決定的公式などないのである。 私の考えでは、アナキズムの理論的前提に定義されているように、万人が完全な自由を享受する権利だけが、人間が発達し続けながら、程度の差こそあれ、完全に開花するための手段になり得る。人為的に押しつけられている服従精神を人間から追放しながら、アナキズムは、その後に目標全ての達成に向けて前進する人間社会の基調思想となる。 現在、アナキズムはなおも理論的に脆弱だと見なされている。さらに、頻繁に誤って解釈されていると主張する人々もいる。しかし、アナキズムの支持者たちはアナキズムについて多くを語る。その多くは、絶えずアナキズムを口にし、積極的に闘い、アナキズムがうまくいったためしがないと時折不満を述べている(この最後の不満について言えば、この態度は、現代社会での足場を手に入れる上でアナキズムに不可欠な社会的手段の研究を通じて考案できていないためだと思う)。 私達一人一人は、真剣な集団活動という形で全ての活動的アナキストの結束が必要だと認めている。従って、こうした同盟に反対だと宣言する者が私達の隊列にいるならば、かなりの驚きである。解決すべき問題は、唯一、こうしたアナキスト同盟がどのような組織形態を取り得るのかということだけだ。 個人的に私は、全アナキスト勢力の集団的規律と方向性の一致という原則に基づいて構築される組織を最も適切で最も必要だとして受け入れたい。つまり、加盟した全ての組織が社会的・革命的目標を共有するだけでなく、目標達成の手段についても合意し、相互に連携するのである。 地域組織の活動は、可能な限り地域の諸条件に合致するよう調整される。ただ、そうした活動は、必ず、全国を網羅するアナキスト同盟の全般的組織実践傾向に合致していなければならない。 政党だろうが何だろうが、この同盟がどう自称するかは二次的な問題に過ぎない。肝心なのは、全てのアナキスト勢力が敵に対して統一した共通の実践に集中しなければならない、という点にある。勤労者の権利を求めた闘争・社会革命の実行・アナキズム社会の樹立を推進するために! ** 第十四章 私達の組織 万国の労働者階級が目下過ごしている時代は、革命的アナキストに求めている。最も重要な問題を明らかにしようとするなら、革命的アナキストはその想像力とエネルギーを最大限発揮しなければならない。 ロシア革命に積極的に関わり、信念を貫いた同志達は、確固たる組織の欠如が私達の運動に害を及ぼしていと感じているだろう。こうした同志達は、現在行われている同盟の追求で際立った貢献をするのにふさわしい立場にいる。こうした同志達も気づいていないわけではないと思う。アナキズムは、ロシアとウクライナの革命的勤労大衆の間で叛乱を惹起した要因だった。アナキズムが至る所で彼等を扇動し、闘争に参加させていたのだ。しかし、革命の敵に対してその資源を結集できる厳密なアナキスト大組織がなかったため、組織的役割を担うだけの力がなかった。革命におけるリバータリアンの推進力は、この悲惨な結果に悩まされている。 ロシアとウクライナのアナキストがこの欠点を理解しているならば、この現象の再発を許してはならない。過去の教訓はあまりにも痛ましい。この教訓を心に留めながら、何よりもまず、自分達の勢力を結集して模範によって教示しなければならない。どのようにして?社会革命が始まろうとしている時だけでなく、その後にも、アナキズムの使命を達成できる組織を結成するのである。こうした組織は、あらゆる革命的アナキズム勢力を団結させ、社会革命とアナキズム社会を実現する闘争への大衆の準備に躊躇なく着手しなければならない。 私達の大多数はこうした組織の必要性に気づいているが、残念ながら、必須となる献身と一貫性を持って組織作りに取り組む覚悟をしているのは極少数だと言わざるを得ない。 現時点で、欧州全土で様々な出来事が加速している。汎ボルシェヴィキの網にかかったかもしれないが、ロシアでもそうだ。私達が再びこうした出来事に積極的に参加するよう求められる日もそう遠くはない。適切な組織がなければ、再び呼び掛けに応じたところで、私達は無力で、様々な出来事が国家主義システムの渦中に吸い込まれてしまうのを防げないだろう。 人間生活がある場所ならどこであろうと、アナキズムは具体的な存在になる。一方、個人がアナキズムに接しやすくなるには、宣伝者と闘士を擁する場があるだけでよい。現代の奴隷精神と誠実に完全に断絶し、その断絶過程で獰猛な迫害を頭上にもたらすものとの繋がりを断ち切る人々がいる場があればよいのだ。こうした闘士達は無私無欲にその信念に仕えようとしている。発展の途中で予想外の局面の発見を恐れず、必要であれば、事態が進行する中でそれらを吸収する。このようにして、闘士達はアナキズム精神が服従の精神に打ち勝つよう立ち働くのである。これらから二つのテーゼが出現する。 - 一つ目。アナキズムは雑多な表現と形態を取りつつも、その本質において完全な統一性を保持する。 - 二つ目。アナキズムは本来革命的であり、敵に対して革命的闘争様式しか採用できない。 革命的闘争を行う中で、アナキズムは政府を転覆し、その法律を放棄するだけでなく、政府の価値観も、そしてその「慣習」と「道徳」を産み出した社会も扱う。これによって、抑圧された側の人々が徐々にアナキズムを理解・吸収できるようになる。 これら全てによって、私達は断固として確信するようになっている。アナキズムはもはや、孤立して活動している少数のちっぽけな集団だけが賛同する狭い傍流の思考範囲に閉じ籠もってはいられない。アナキズムが、闘争する人間集団のメンタリティに与える自然な影響力は、明々白々だ。この影響力を意識的な形で融合させるのなら、今後、アナキズムは新しいアプローチを身につけ、今ここで社会実践アプローチを取り入れ始めねばならない。 ** 第十五章 革命的規律について 何人かの同志が私に次のような質問をしてきた。あなたは革命的規律をどのように考えているのか?この質問に答えよう。 私にとって革命的規律とは、全ての人に等しく課せられ、厳密に規定された集団活動の文脈で定められる個人の自己規律を意味する。 これが集団の成員が責任を負うべき政策路線でなければならない。これによって実践と理論が正確に一致するのである。 組織内の規律がなければ、重要な革命活動を全く行えなくなる。規律なしに革命的前衛は存在できない。何故なら、こうした場合、前衛の実践は全くの混乱に陥り、目下の課題を特定できず、大衆が前衛に期待する主唱者としての役割も果たせなくなるからだ。 私は一貫した革命的実践の観察と経験を背景にこの問題を想定している。私の基盤にはロシア革命の経験がある。ロシア革命は多くの点で本質的にリバータリアンの内実を含んでいた。 アナキストが組織的条件の中で密接に連携をとり、その活動において明確に規定された規律を厳密に遵守していたなら、このような大敗北に見舞われはしなかったろう。しかし、「あらゆる信条と傾向を持つ」アナキストは(特定の集団においてさえも)明確な行動方針を持った一つの均質的集団にならなかったが故に、まさにこの理由のために、革命的情況が課した政治的・戦略的精査に耐えられなかった。組織の崩壊がアナキストを政治的無能者に変え、アナキストは二種類に分かれた。第一は、ブルジョア財産の組織的占領に身を投じ、そこに家を建て、快適に暮らした人々である。こうした人々を私は「観光客」と呼んでいる。様々なアナキストが町から町へと駆けずり回り、途中で当面の住処を見つけようと当て込み、快適で安楽に生活すべく暇に任せてできるだけ長くぶらぶらしていた。 第二の種類は、アナキズムとの現実的繋がりを全て断ち切った人々である(ただ、ソ連内部に留まった人々の中には、革命的アナキズムの唯一の代表者だと偽っている者も少数いる)。そして、革命家としての資質に忠実であり続けたアナキスト達がボルシェヴィキの裏切りを非難し、ボルシェヴィキ当局に銃殺された時でさえも、ボルシェヴィキが提示したポジションに堂々と飛びついたのである。 こうした事実を鑑みれば、私が現在仲間内で出会う無頓着と怠慢に平然としていられない理由を容易く理解できるだろう。 一つには、この態度が革命の中でアナキストが正当な地位を占められるような一貫したリバータリアン集団の創設を阻害しているからであり、もう一つには、私達が洗練された言葉と壮大な理念を何とか作り上げても、行動の時が来ると消え失せてしまう情況を導いているからだ。 だから、私は友愛的規律の原則に立脚したリバータリアン組織について語っているのである。こうした組織は、現存する革命的アナキズム諸勢力間に不可欠な理解を導き、資本に対する労働の闘争で正当な地位を占める手助けをするだろう。 このようにして初めて、リバータリアン思想は大衆の支持を獲得し、弱体化しないですむようになる。頭が空っぽで無責任なお喋り屋だけがこうした組織創設に尻込みするのだ。 組織的責任と規律に議論の余地はない。これらは社会的アナキズムを実践する旅の道連れなのである。 ** 第十六章 革命的アナキズム入門 アナキズムは、人間が自由に生き、建設的に働くことを意味する。人間の自然で健全な願望に逆らう全てのものを破壊するという意味だ。 アナキズムは、人間生活を規制すべく人為的に作られた政策から生まれた単なる理論的教義ではない。それは、いかなる人為的基準も超え、健全に現れるあらゆる生命の姿から導き出される教義である。 アナキズムの社会的・政治的様相は、自由で反権威主義的な社会、全成員間の自由・平等・連帯を基本原理として掲げる社会である。 アナキズムにおいて、権利とは個人の責任を意味する。それは、個々人にも全体にも、何時何処であれ、自由と社会正義を真に保障する責任である。そしてこの理解からこそ共産主義が生まれる。 アナキズムは人間に生来備わっている。共産主義はその論理的帰結である。 こうした主張がアナキズムの根本的公理となるには、科学的分析と具体的事実による支持という形で理論的に裏付けられねばならない。しかし、ゴドウィン・プルードン・バクーニン・ヨハン゠モスト・クロポトキン・マラテスタ・セバスチャン゠フォール等、数多くの偉大なリバータリアン理論家達は、いずれにせよ、その教義を厳格で限定的な枠組みに押し込めることを嫌っていたようだ。むしろ正反対だった。アナキズムの科学的教義は人間には決して過去の栄誉に安住しない性質が内在することを証明しようとする志向を持つ、と言えるかもしれない。科学的アナキズムに唯一不変なものは、あらゆる足枷を拒否し、人間が仲間を搾取するあらゆる企てを拒否するという自然な傾向だけである。人間社会に現に存在する隷属の足枷(社会主義ではこれが廃止されなかったし、廃止できない)の代わりに、アナキズムは自由を植え付け、そして自由を行使する人間の不可譲の権利を据える。 革命的アナキストとして、私は革命中にウクライナ民衆の生活を分かち合った。革命活動を通じて、民衆はリバータリアン理念の生き生きした魅力に本能的に引き寄せられ、同様に、そのために悲劇的代償を支払った。私も屈することなく、この集団的闘争の苛烈な試練を同じく味わったが、その時々の要請を理解し、言葉にすることができない自分の無力さを痛感することが多かった。とは言え、大抵はすぐに冷静さを取り戻し、個人と人類全体の自由と独立のために戦う大衆は、私と同志達が呼びかけていた闘争の目標を驚くほど自然に受け止めていたのだとはっきり悟ったのである。 実際の闘争経験は、アナキズムは生きた実践を通して人を教育するという私の確信を一層強めた。アナキズムは、生そのものと同じぐらい革命的な教義であり、その現れの多様さと力強さは人間の創造的営みに匹敵し、実際、それと密接に結び付いている。 革命的アナキストとして、そして、私が僅かであってもこの名との繋がりを保つ限り、私は屈辱を受けてきた同胞である君を、アナキズム理念を実現するための闘争に参加するよう呼び出す。と言うのも、自由・平等・連帯を求めた闘争を通じて初めて、人はアナキズムの理解に至るからだ。 そう、アナキズムは人間の内に自然に備わっている。歴史的に、それは人間を(人為的に身に付けた)奴隷根性から解放し、奴隷制がどんな形を取ろうとも、それに対抗する自覚的闘士になるよう導いてきた。この意味においてアナキズムは革命的なのである。 省察によって自分の奴隷状態を自覚するようになればなるほど、人はより強く憤り、自由・決断・行動というアナキズム精神がその人の中で育つ。これは、男女を問わず、「アナキズム」という言葉をそれまで一度も聞いたことがない者であっても、全ての個人に当てはまる真実である。 人間の本性はアナキズムである。自分を束縛しようとする全てに抗う。私の見解では、これを、人間が本来持つ本質を、科学的術語で十全に表現したのがアナキズムである。アナキズムは人間の生の理念として、人類の進化において有意義な役割を担う。抑圧された側と同様、抑圧する側も、少しずつだがこの役割を意識し始めている。だから、抑圧者は何としてもこの理念を曲解しようと躍起になり、抑圧される側はこの理念を達成しやすくしようと努める。 近代文明が発展すると共に、奴隷も主人も同様に、アナキズム理念の理解を育んでいく。 主人の側はこれまで、人間が自らの尊厳に対するあらゆる侵害に抗議しようとする自然な傾向全てを麻痺させ、妨げるという目的を追及してきたが、独立した科学的精神を沈黙させられなかった。この精神によって、人間の真の出自が暴かれ、かつて「人間の創造主」と見なされていた神の存在が否定された。その結果、必然的に、地上における「神の定め」は人為的なものであり、それによって人間の間に屈辱的な関係が生じていることを反論の余地なく示すことが容易になった。 こうした出来事全てがアナキズム思想の意識的発展に大いに貢献してきた。同じぐらい確かだが、同時に、自由主義や「科学的」と称する社会主義、その一派であるボルシェヴィズム共産主義といった人為的概念も現れるに至った。しかし、こうした人為的概念は、現代社会の心理に、少なくともその大部分に多大な影響を及ぼし、古典的反動に対しても個人の人格に対しても勝利を収めたにもかかわらず、結局は坂道を転げ落ち、旧世界に馴染み深い形態に戻りつつある。 自由人は自覚に至り、その意識を自らの周囲に表現する。彼は必然的に、そして永遠に、人類の恥ずべき過去の全てを、さらには欺瞞・専断的暴力・堕落が内包してきた一切を葬り去ることになる。そしてまた、こうした人為的教義も同様に葬り去るだろう。 この瞬間から個人は、彼の誕生以来ずっと地上の神々が銃剣・ルーブル・「正義」・偽善的科学--魔法使いの弟子達の科学--という残忍な力によって彼を包んできた嘘と臆病の甲羅から少しずつもがき抜け出し始める。 こうした汚辱から脱却する中で、個人は一個の人間としての完全性を獲得し、世界の全体像に目を開くようになる。そして真っ先に気付くのは、自分がこれまで臆病と悲惨に満ちた奴隷の存在だったということだ。自分を奴隷にしていた過去の生は、自分が生まれた時に備えていた清らかで純粋で価値ある全てを悉く抹殺し、彼をただ鳴くだけの羊へと、あるいは自分や他人の中にある良いものを踏みにじり、破壊する愚劣な主人に変えてしまっていた。 この時点で初めて人は自然本来の自由に目覚める。この自由は、それに逆らうものを悉く灰に帰してしまうほどであり、人はこの自由の前に全ての人間や事物から独立する。個人の自律的で創造的な活動を通じて発現・成長する自然の純粋さと魅惑的な美を汚すもの全てから独立するのである。個人はここで初めて真に我に返り、自分の恥ずべき過去を永遠に断罪する。これまで自分の個人的・社会的生活は隷属的支配の重荷で、そして部分的には科学のシャーマンどもに励まされ欺かれる中で、諦念に縛られていた。こうしたあらゆる精神的繋がりを断ち切るのだ。 これ以降、人は高尚な倫理的目標--シャーマンにならず、シャーマンになろうともせず、他者を支配する権力を持った予言者にもならず、もはや他者が自分に権力を振るうことを容認しない--に向け、年を追う毎に、かつては世代から世代へと徐々にしか進まなかったほどの大きな進歩を成し遂げるのである。 天上と地上の神々、それらが課してきた一切の道徳的・社会的規範から解放された人間は、人間による人間の搾取、その本性の歪曲に対して声を上げ、実際に抵抗する。その人間性はその完成と完全性に向けて絶えず前進しようと身を捧げる。この叛逆者は自分自身を、そして抑圧され堕落させられた同胞の境遇を自覚し、そこから自分の心と理性を表現するようになる。彼は革命的アナキスト、自由・完成・完全性を自らのためにも人類のためにも渇望し得る唯一者となる。歴史的に暴力によって体現されてきた奴隷制と社会的愚行、すなわち国家を踏み躙る。この殺人者にして組織的盗賊に対抗すべく、自由人は仲間達と共に組織を作り、苦しくも壮大な創造の途上で得られるあらゆる共通の成果について、本物の共産主義的方針を強化し、それを擁護するのである。 こうしたグループのメンバーになることで、個々人は支配的社会による犯罪的庇護から自由になっていく。その自由の度合いは、自らをどれほど再発見するか--すなわち、労働者・農民・学生・知識人、これまでいかなる者だったにせよ、他者への卑屈な隷属を全て拒むかどうか--に応じて決まる。こうして彼等は、愚鈍な主人どもに身を売る駄馬・奴隷・官僚・下僕といった境遇から抜け出す。 個人として、人は、人生に関する虚妄の思考を拒否し、その考えを灰燼に帰すことで、真正の人格を取り戻し、本来の権利を回復する。この拒絶と肯定という二重の営みを通じて、個人は革命的アナキスト・意識的共産主義者となるのである。 人間存在の理想として、アナキズムは各人に自覚的に示される。思考は本来自由で創造的な存在を希求し、それがやがて幸福という社会理想へと導くからだ。現代において、アナキズム社会、調和した人間社会は、もはや幻想とは思えない。しかし、その理論の精緻化や実践的計画と同様、具体的構想もまだほとんど姿を見せていない。 個人にも社会にも関わる、人間の新しい生活と創造的発展の教義として、アナキズム思想そのものの理念は、人間性に宿る不滅の真実と、現代社会の不正を示す反駁し得ぬ証拠--まさしく恒久的な社会の禍害--に基づいている。アナキズムの実現は、その擁護者であるアナキストを、既存社会の公式制度に対して半ば、あるいは完全に非合法視される立場に置くことになる。実際、アナキズムが完全に合法と認められる国はない。これは、現代社会が公僕であり主人でもある国家に深く染め抜かれているからだ。常に人類に寄生し、その生活を「スライス」に切り分けて生きてきた輩の集団は、自らを国家と同一視してきた。個人であれ、無数の大衆であれ、自分が寄生集団のなすがままになっていると気付く。実際、こうした集団は「支配者・主人」と称する単なる搾取者・抑圧者に過ぎないのだ。 こうした略奪者どもはアナキズムという偉大な思想を全く好まない。こうした輩は、右翼政府だろうが左翼政府だろうが、ブルジョア社会主義者だろうが国家主義的社会主義者だろうが、現代世界を蹂躙し、奴隷にする。こうした略奪者どもの違いを要約すれば次の通りである。前者は自らをブルジョア階級と公言している分、偽善は幾分少ない。一方、後者、国家主義的社会主義者のあらゆる派閥、特にその中でも「共産主義者」の名を不当に冠した集産主義者ども--つまりボルシェヴィキ--は偽善的に「友愛と平等」のスローガンを隠れ蓑にする。ボルシェヴィキは現代社会の支配体制や人々の奴隷化を何千回でも塗り替え、自らの政策に合わせて幾度も名称を付け替えることを厭わない。しかし、支配と奴隷制の間にある本質的矛盾をその愚かな政策に合わせて不自然に折り合いを付けようとすることはあっても、現代社会の性質を一片たりとも変えることはない。彼等はそれが克服不可能な矛盾であることを知りつつ、ただ一つの真に人間的な理想――無政府共産主義――が現実世界に現れるのを阻止するために、それに固執するのである。 国家主義的社会主義者と共産主義者は、その滑稽な政策に従い、人間が社会的に自らを解放することを「許す」と決めたという。しかし、その自由を社会生活の中で実際に発揮することはできない。さらに、人間が完全に精神的に解放され、自らの意志と自然の法則のみに従って行動する自由を得ることについて、彼等も一応は触れるものの、彼等にとっては全く問題外である。こうした理由から、彼等はブルジョア階級と手を組み、その忌まわしい監視の下で、人間の解放が決して実現されないようにしている。いずれにせよ、政治権力が与える「解放」の実態を我々は充分すぎるほど知っている。 ブルジョア階級は、勤労者を奴隷であり続ける運命の者として語ることを当然だと考える。ブルジョアは決して、人類全体にとって真に有用で美しく、利益となるものを生産する可能性を持つ本物の労働を奨励しない。工業と農業で莫大な資本資源を自由に使えるにもかかわらず、ブルジョアは新たな社会的在り方の原理を打ち立てることはできないと主張する。彼にとって現在は満足すべきものに思える。なぜなら、皇帝・大統領・政府・事実上全ての知識人や学者といった権力者が皆、彼にひれ伏すからだ。そして、こうした権力者達は新社会の奴隷を支配下に置くのである。ブルジョアは自分に忠実な召使い達に向かって叫ぶ。「召使い!奴隷には奴等に相応しい僅かな手当を与え、お前達の分は忠実な奉仕に見合っただけ取っておけ。そして残りは我々のために取っておけ!」このような情況で、彼等にとって人生が美しくないはずがないのだ!--「いや、我々は君の言うことには同意しない!」と国家主義的社会主義者と共産主義者は反論する。そこで彼等は労働者に目を向け、政党に組織し、叛乱を煽動しつつ、次のように説き勧める: 国家権力からブルジョア階級を追い出し、それを我々国家主義的社会主義者と共産主義者に委ねよ。そうすれば、我々は君達を守り、解放しよう。 寄生階級や特権階級以上に、国家権力の宿敵たる勤労者は、その憎しみを爆発させ、叛乱を起こし、革命を遂行し、国家権力を破壊し、それを振りかざす輩を追放する。そして、無邪気さからか、警戒心が欠如しているからか、社会主義者達に国家権力を握らせてしまう。ロシアでは、まさにこのようにしてボルシェヴィキ共産党に権力を掌握させた。やがて、こうした臆病なイエズス会的陰謀家・自由の虐殺者たる怪物どもは、武器を持たぬ民衆をも絞め殺し・撃ち殺し・踏み潰す作業に取り掛かった。彼等の所業は、ブルジョア階級がかつて行ったことと同じか、むしろそれ以上に残虐だった。彼等は、集団的にも個人的にも、独立精神を打ち砕き、人間から自由の精神と創造への意志を根こそぎ撲滅し、打倒された王座の代わりに座を占めた悪漢どもの精神的奴隷・肉体的下僕として人間を残そうとした。そして、躊躇うことなく、殺し屋を差し向け、大衆を跪かせ、反抗的な者を抹殺したのだ。 人はロシアの社会主義権力の鎖の重みにうめいている。他の国々でも、ブルジョア階級と結託した社会主義者の軛の下で--もしくはブルジョア階級単独の軛の下で--人々がうめいている。どこでも、個人としても集団としても、人は国家権力とその政治的・経済的狂気の圧政下でうめいている。人の苦しみに関心を持っていても、同時に躊躇わずに行動する者はほとんどいない。なぜなら、古かろうが新しかろうが、処刑人は精神的・肉体的に非常に頑強だからだ。彼等は莫大で有用な資源を動員して、自らの支配を支え、立ちはだかる者を一人残らず押し潰すことができるからだ。 自分の生活・自由・幸福の権利を守ろうと切望して、人は自らの創造的決意を示すために暴力の渦へと身を投じる。戦いの結果が不確かな情況で、時として人は、処刑人が首に縄をかけるまさにその瞬間に、武器を下ろすことがある。この時に彼がただ毅然とした視線を向けるだけで、処刑人震え上がり、重苦しい軛は再び問い直されるだろうに。しかし残念ながら、人は大抵、処刑人が自らの人生全体に縄をかけようとする瞬間でさえ、目を閉じてしまうのである。 抑圧の鎖から自らを解き放ち、人類に対して行われているあらゆる恐怖を目にした人だけが、自分の自由と隣人の自由は、その生命と同じように不可侵であり、隣人は同胞なのだと確信できる。もしその人が自らの自由を勝ち取り、守り、全ての抑圧者と処刑人(その臆病な職業を放棄しない限り)を撲滅する覚悟があるなら、ブルジョア権力を同じく抑圧的な別の権力--社会主義・共産主義・労働者(ボルシェヴィキ)--で置き換えることを現代社会の諸悪に対する闘争の目標とはしない。むしろ、個人の責任を基盤とし、万人に真の自由と社会的公正に根差した平等を保障する、真に自由な社会の実現を目指す。この人こそが真の革命的アナキストなのだ。彼は恐れることなく、処刑人たる国家の所業を見据え、必要ならばその裁定にも耳を傾け、次のように宣言して自らの意見を表明するだろう: いや、そんな必要はない!叛乱せよ、抑圧された同胞諸君!あらゆる国家権力に対して敢然と立ち上がれ!ブルジョア階級の権力を破壊しても、社会主義者やボルシェヴィキ共産主義者の権力で置き換えるな。あらゆる国家権力を廃絶し、その擁護者を追放せよ。彼等の中に友は決していない。 国家主義的社会主義者や共産主義者の権力は、ブルジョア階級の権力と寸分違わず有害である。とりわけ、権力が人間の血と生命を使って実験を行う時には、一層有害である。そこまで来れば、ブルジョア階級権力の前提条件に密かに立ち戻るまでにさほど時間は掛からない。最悪の手段に頼ることも何ら躊躇わず、他のどんな権力よりも嘘を付き、欺くようになる。社会主義や国家共産主義といった理念は無用になり、もはやそれを利用しない。その代わり、権力にしがみつくために役立つものなら、どんなものにも手を伸ばす。要するに、支配を永続させるために新たな手段を用いるだけでなく、ブルジョア階級よりもさらに卑劣になる。ブルジョア階級は人前で革命家を吊るすが、ボルシェヴィキ共産主義は陰で人を殺害し、絞殺する。 ブルジョア階級と国家主義的社会主義者や共産主義者を互いに徹底的に争わせた政治革命は、いかなるものであれ、私がここまで述べてきたことの好例である。特に、1917年2月と10月のロシア革命がその典型である。ロシア帝国を打倒した後、勤労大衆は政治的にまだ半ばしか解放されていないと感じ、解放を完全なものにしようと望んだ。彼等は、大地主と聖職者から没収した土地を、実際にそこで働いていた人々、あるいは他者の労働を搾取せずにそこで働こうとする人々へ引き渡そうとした。都市では、工場・作業場・印刷所・その他の社会的事業が、そこで働く人々に掌握された。こうした町と村落の間に友愛的関係を築こうとする健全で熱狂的な活動に没頭するあまり、勤労者達は、キーウ・ハルキウ・ペトログラードで新政府が樹立されつつあることに気付かなかったのである。 階級組織を通じて、人々は新しい自由な社会の基盤を築こうと切望していた。新しい社会は、干渉されずに発展するなら、勤労者達が愚かで有害だと見なしたもの--つまり、社会に巣くうあらゆる寄生階級と、他者に振るわれるあらゆる権力--を社会から一掃するはずだった。 このアプローチはウクライナ・ウラル・シベリアで確かな前進を遂げた。ティフリス(トビリシ)・キーウ・ペトログラード・モスクワで、瀕死の当局のまさに中枢で同様の傾向が現れた。しかし、いついかなる場所でも、国家主義的社会主義者と共産主義者は支持者を数多く抱え、さらに雇われの殺し屋まで擁していた。当時も、今も尚、同じである。殺し屋の中には、残念ながら、多くの労働者もいた。こうした雇われの殺し屋に支えられ、ボルシェヴィキ共産党は人々の取り組みを完全に葬り去ったのである。そのやり方は、中世の異端審問所ですら舌を巻くほど凄惨なものだったのだ! 我々は、あらゆる国家権力の性質を知っていたため、社会主義やボルシェヴィキの指導者にこう言ってやった: 恥を知れ!諸君は抑圧されている人々に対するブルジョア階級の残忍さを、あれほど書き立て、語ってきたではないか。諸君は自らの解放を求めて戦う勤労者の革命的純粋さと献身をあれほど熱心に擁護してきたではないか。ところが今、権力を手にすると、諸君はこれまで批判してきたのと同じブルジョアの臆病な下僕に成り果てるか、その方法に頼って自らがブルジョア階級になってしまった。ブルジョア階級が呆れ返り、諸君を笑い物にしているではないか。 さらに、ボルシェヴィズム共産主義の経験を通じて、ブルジョア階級は近年、「科学的」と謳われた国家主義的社会主義の幻想がブルジョアの手法に、いや実際には自らの存在そのものに頼らずには成り立たないと悟った。そのことをブルジョア階級は痛感し、模倣者達を嘲笑する。社会主義体制になったところで、労働者大衆に対する搾取と組織的暴力は、堕落した怠惰な生活様式や寄生的存在を取り除くことはできず、搾取は、単に名前を変えただけで、かえって拡大・倍加する。我々の現前の現実がこの事実を裏付けている。ボルシェヴィキの強欲さ、民衆のあらゆる革命的利益の独占、革命に対抗すべく動員されたボルシェヴィキの警察・裁判所・刑務所・看守の大群を見れば充分だろう。「赤」軍は今尚力ずくで新兵を補充し続けている!そこには、かつてと同じ階級の人々もいる。名前がどう変わろうとも、以前よりも無責任で横暴なのだ。 自由主義・社会主義・国家共産主義は、いずれも同じ系譜に属する3つの潮流であり、人間に対して権力を及ぼすために、それぞれ異なる手法に訴えている。そしてこれらの潮流は、人間が、人類全体に通用する社会理想に根ざした新しく健全で真の原則を考案することによって、自由と自立に向けて十全に成長するのを妨げようとしているのである。 叛逆せよ!革命的アナキストは抑圧された人々に激しく訴える。立ち上がり、内なる支配と外からの権力を全て根絶せよ。そして、他者を支配する新たな権力の樹立にも決して与するな。自由であれ。あらゆる侵犯から他者の自由を守れ! 人間社会では権力がとりわけ崇められている。そして、それを崇めるのは、自らの労働と健全な生き方によって実際に生きたことのない者達・もはやそうして生きていない者達・そうして生きる気のない者達である。国家権力はいかなる社会にも喜び・幸福・満足をもたらすことはない。この種の権力は寄生階級が作り出した。決断力・知性・腕力のいずれかを駆使した自らの労働を通じて人間生活に有用で善きもの全てを生産している人々に対して、暴力--大抵は殺人的なまでの--を思うままに振るい、略奪するためだけに作り出されたのだ。 ブルジョア権力を名乗ろうが、社会主義を標榜しようが、ボルシェヴィキ共産党を称しようが、労農権力を掲げようが、権力は結局全て同じだ。社会全体に対するのと同様、健全で幸福な個人にとっても寸分違わず有害である。全ての国家権力の本質は何処でも全く同じである。個人の自由を根こそぎ破壊し、精神的には奴隷に、肉体的には下僕に変えてしまい、遂には最も卑しい仕事に使役する傾向を持つ。無害な権力などない。 抑圧されている同胞諸君、自分の内からあらゆる権力を追い出せ。自分に対しても、遠くの同胞にも近くの同胞にも、どんな権力の樹立も許すな! 本当に健全で喜びに満ちた個人や集団の生活は、人工的な枠組みや成文法の中に閉じ込めようとする権力と政策の助けによっては決して築かれることはない。いや、それは、個人の自由とその自立した創造的活動を基盤として、破壊と構築の諸段階を切り拓きながら初めて形作られるのだ。 全ての個人の自由はリバータリアン社会の基盤である。こうした社会は、分権化を通じて全体性を獲得し、共通の目標である無政府共産主義を実現するのだ。 無政府共産主義社会について考える時、我々はそれを壮麗で、人間関係が調和した社会として思い描く。この社会は、自由な個人が関心・必要・嗜好に応じて親和グループを形成することに大きく依拠し、万人に平等な社会正義を保障し、さらに連合と連邦へと結び付いていく。 無政府共産主義社会は、万人の自由な生に根差し、誰にも侵しえぬ無限の発展の権利を基盤とする。そして、社会を階層や階級へと分断し、人間が同胞を抑圧し暴力を振るう源となり、進歩と完成を妨げてきた一切の不正と害悪を取り除く社会でもある。 無政府共産主義社会は、自らの労働・意思・知性を通じて、万人の生活をより美しく、より輝かしいものにすることを目指している。自然と完全に調和する中で、無政府共産主義は、結果として、全面的に充足し・独立し・創造的で絶対的に自由な人間生活を基盤とする社会となるのである。故に、その担い手達は自由で輝かしい存在として生きているかのように見えるのである。 労働・普遍的な友愛関係・生への愛・美を自由に創造する情熱、これら全ての価値観が無政府共産主義者の生と活動に活力を与える。国家主義的社会主義者や共産主義者が膨大な数を雇っているような刑務所・処刑人・スパイ・挑発者など一切必要ない。原理原則として、無政府共産主義者には雇われの盗賊や殺し屋など不要である。というのも、その最たる例にして究極の首領は結局のところ国家そのものだからだ。抑圧されし同胞諸君!熟慮と組織的行動を通じてこの社会の建設に備えよ。ただし、忘れてはならない。君の組織は、その社会的活動をする上で強固で一貫していなければならない。君の解放の絶対的敵は国家である。国家が最も端的にその姿を現すのは、次の5つの象徴的存在の結集としてである。財産所有者・兵士・裁判官・聖職者・これら全てに仕える知識人だ。ほとんどの場合、最後に挙げた知識人こそが、他の4つの主人が人類を罰し、個人的生活と社会的生活のあらゆる側面を規制する「正当な」権限を持つのだと論証しようとする。そして、その過程で自然法の本来の意味を歪め、「歴史的・司法的」なる法を成文化する。そんなものは雇われ事務員どもによる犯罪的な産物に他ならない。 敵は非常に強い。それは何世紀にもわたって強奪と暴力を生業としてきたからだ。その経験を蓄積し、内部の危機も克服し、今や新たな姿をまとっている。というのも、長き眠りから人間を目覚めさせた新しい科学の登場によって、絶滅の脅威に立たされたからである。この新しい科学は人間を偏見から解放し、自己を発見して人生における自らの真の居場所を見出す力を与えている。たとえ、「5者」同盟が送り出した魔術師の弟子どもが人間の進歩を妨げようと様々な活動をしようとも。 敵の一部はこのように外観を変化させてきた。抑圧されし同胞よ、こうした変化は、例えば、国家の知識人めいた改革者どもの議場から発するあらゆるものに見て取れるだろう。革命におけるこうした大変革の典型例を我々は既に見てきた。我々は直に目撃したのだ。「5者」同盟、すなわち我々の敵である国家は、当初、地上から完全に消え去ったかのように見えたのである。 現実には、我々の敵は単にその外見を変えただけだった。敵は、我々に対して犯罪的な陰謀を企む新たな同盟者を得た。ロシア・ウクライナ・ジョージア、そして多くの中央アジア諸民族におけるボルシェヴィキ共産党の実例は、この点で非常に教訓的である。自分の解放を求めて戦う者にとって、この教訓は絶対に忘れられない。何故なら、悪夢のような犯罪性が彼の中に刻み込まれるからである。 抑圧の被害者が己を縛る悪と戦う際に頼れる唯一かつ最も確実な武器は、社会革命、つまり人間進化へと向かう深遠なる飛躍である。 社会革命は自発的に起こるが、組織は革命の進行を円滑にし、革命に対抗して築かれた城壁に亀裂が生じることを容易にし、革命の到来を加速させる。革命的アナキストは、まさに今この時に、これらの方針に従って奮闘する。抑圧の犠牲者は皆、自らを重く圧迫する頚木に気づき、この屈辱が人類の生命力を奪っていることを自覚し、アナキストを支援すべきである。人間は皆、自分の責任を自覚し、それを全うするために「5者」同盟から生じるあらゆる処刑人や寄生階級を社会から追放しなければならない。そうすれば、人類は自由に呼吸できるのである。 万人、とりわけ革命的アナキスト--自由・連帯・平等の理念のために闘争を喚起する開拓者として--は、社会革命が創造的に展開するためには、それに見合う手段が、中でも不断の組織的資源が必要だと心に留めておかねばならない。特に、自発的爆発の中で奴隷制が根こそぎ引き剥がされ、自由が植え付けられ、自由で無制限に発展する人間の権利全てが肯定される時期にはそうなのである。この時こそ、内なる自由と周囲の自由に目覚めた個々人と大衆は、社会革命の成果に基づいて果敢に行動しようとするだろう。そして、この革命にはそのような組織的資源が最も必要となる。例えば、革命的アナキストはロシア革命で特に傑出した役割を果たしたが、必要な行動手段を持っておらず、自らの歴史的使命を最後までやり通すことができなかった。そればかりか、あの革命は我々に以下の真実を証明したのだった。奴隷性の束縛を振り払えば、大衆は新たな奴隷性を創造する意図を持たない。逆に、革命の最中、大衆は、自らのリバータリアン本能に応えるだけでなく、敵が攻撃を仕掛けて来た場合に革命の成果を防衛できるような、新しい形の自由連合を模索するのだ。 このプロセスが実際に作用しているのを見て、我々は常に、最も有益で最も貴重な連合はコミューン連合以外にあり得ないという結論に導かれた。生活そのものから社会資源が湧き出る連合、つまり、自由ソヴィエトである。同じ信念に基づき、革命的アナキストは無私の行為に身を投じ、抑圧された人々に自由連合を求めた闘争へ参加するよう呼び掛けるのである。彼は確信している。本質的で創造的な組織的指針が示されねばならないだけでなく、敵の勢力から新しい生活様式を防衛するために必要な手段を備えねばならない。これまでの経験からすれば、大衆自身が現場で直接、断固としてこれを追求し、支えねばならないのである。 革命を推し進める過程で、自らに生まれつき備わったアナキズムの衝動に導かれ、人類大衆は自由連合を求める。自由集会は常に彼等の共感を呼ぶ。革命的アナキストはこの方針を可能な限り具体化する手助けしなければならない。例えば、コミューン自由連合の経済的課題は、生産・消費者協同組合の創設により十全に具現化されねばならず、自由ソヴィエトがそれを支援するだろう。革命が外へ波及している間に、自由ソヴィエトの尽力により、大衆が社会的遺産の全て--土地・森林・作業場・工場・鉄道・海上輸送等--を手に入れる。そして、利益・親和性・共通理念に基づいて団結しながら、最も多様な形で自らの必要と願望に適うよう社会生活を再構築するのである。 言うまでもなく、これは熾烈な戦いになる。膨大な数の命が失われるだろう。自由な人類と旧世界との決定的な戦いだからだ。躊躇したり感傷に浸ったりする余裕はない。生きるか死ぬかの闘争なのだ!いずれにせよ、自らの権利と人類の権利を重んじる者であれば、今は強いられて荷役獣であり奴隷であるとしても、それを望まない限り、このように認識しなければならない。 健全な推論と自己愛・他者愛が生活の中で優勢になる時、人間は自らの存在の真の創造者となるだろう。 組織せよ、抑圧された同胞よ。畑や仕事場から、学校と大学の机から全ての人を召集せよ。学者や知識人全般に呼びかけるのを忘れてはならない。彼等が書斎を出て、君達の困難な道程を助けるようにするのだ。10人の知識人の内9人が君達の呼びかけに応えないかもしれない。応えたとしても、君達の目を眩ませようとする意図があるかもしれない。彼等は「5者」同盟の忠実な召使いだということを忘れてはならない。そうだとしても、10人の内1人は君達の友人となり、他の9人の策動を打ち破る手助けをしてくれるだろう。身体的暴力に関して言えば、支配し法律を作る者達の野蛮な暴力は、君達自身の暴力によって撃退する他はない。 組織せよ。全ての同胞を呼び集め、この運動に加わらせよ。そして、全ての統治者どもに対し、人間の生活を規制するというその卑劣な職務を、自らの意志で直ちに放棄するよう強く迫れ。もし奴等が拒むなら、蜂起せよ。警察や民兵、その他「5者」同盟の番犬どもを武装解除せよ。必要な限り、あらゆる統治者を拘束せよ。連中の法律は引き裂き、焼き払え!処刑人どもを殲滅した後には、牢獄を打ち壊し、あらゆる国家権力を地上から抹殺するのだ! 軍隊には多くの雇われ殺し屋と暗殺者がいるが、同時に君の友人である徴集兵もいる。彼等に味方になるよう呼びかければ、君を助けにやってきて、傭兵を制圧する手助けをしてくれるだろう。 同志諸君、諸君が1つの大家族として結集すれば、我々は啓蒙と知識の途を歩み、暗闇を後にして、人類共通の理想へと大きく歩みを進めるだろう。それは自由で友愛に満ち、誰ももはや奴隷とならず、誰からも屈辱を受けることのない社会である。 敵の野蛮な暴力には、結束した叛乱革命軍の力で応じよう。混乱と専横には、正義を基盤とし、個人の責任に立脚し、万人の自由と社会正義を真に保証する新たな生活を築くことで応じよう。 血に飢えた「5者」同盟の犯罪者どもだけが、新生活への途に加わることを拒むだろう。彼等は、自らの特権にしがみつくために我々に抗う。これはすなわち、自分自身への死刑執行状に署名することに他ならないのだ。 闘争へのこの明確にして断固たる信念よ、永遠なれ!我らが闘争の行き着く先は、人類全体の調和という理想である。アナキズム社会、万歳! ** 第十七章 スペインのアナキストへの公開書簡 同志カルボとペスターニャへ 友人達と同志達に、そして彼等を通じて全てのスペイン労働者に、私の激励を伝えて下さい。既に開始されている革命的プロセスの中でスペイン労働者がその決意を揺るがさないように、また、リバータリアンの方針に沿って起草された実践的構想を中心とする団結を急ぐように、と。どんな犠牲を払ってでも、大衆の革命的行動のペースを緩めてはなりません。むしろ、私達は大急ぎで大衆を手助けし、愚にもつかない布告で革命を妨害・攪乱している共和国政府代行者に対し、(他に方法がなければ、他の手段がなければ、力ずくで)そのような有害な活動を止めさせねばなりません。 スペインの勤労者--労働者・農民・勤労インテリゲンチャ--は団結し、土地・工場・完全自由の奪取にブルジョア階級が反対できなくなる状況を作り出すべく、最大限の革命的エネルギーを発揮しなければなりません。そうすれば、事態はさらに拡大し、元に戻せなくなるでしょう。 極めて重要なのですが、スペインの勤労者にこのことを把握してもらう努力を惜しんではなりません。そして、理解してもらうのです。無為無策のまま立派な決議文を可決しただけであれば、この正念場を逃し、決議文は無に帰し、知らぬ間に革命の敵の手中で弄ばれるのと同じ情況になる。彼等に主導権を握られ、回復する時間を与え、そして、進行中の革命を鎮圧できるようにさせてしまう。 そのためにはリバータリアン勢力の団結が必要です。特に必要なのが、CNTと連合し、内部でアナキストが根気強く懸命に働く農民大同盟の結成という形での団結です。 労働者がその場で経済的・社会的自主独往を行う機関--自由ソヴィエト--と、革命的社会対策を保護する武装分遣隊を設立する支援も重要です。一旦労働者が正気を取り戻し、自分達を奴隷状態に貶めている全ての鉄鎖を破壊すると、これらの設立が必然的に課せられてきます。このようにして初めて、また、このような広汎な社会的行動方法によって初めて、革命的労働者は、好機を逃さず、革命の進路を逸らそうとする新しい搾取システムの企てを攻撃できるようになります。私の考えでは、FAIとCNTはこの問題を真剣に受け止め、この目的のために、全ての村と町で行動グループ招集できるようにしておかねばならない。同様に、勤労者運動の戦略的・組織的・理論的革命指導部の手綱を握ることも恐れてはならない。言うまでもなく、ここで政治政党一般、特にボルシェヴィキ共産党との団結は避けねばなりません。私が思うに、ボルシェヴィキ共産党に相当するスペインの政党はロシアの指導者達を見事に模倣するでしょう。彼等は、謀略家のレーニンやスターリンの足跡を辿るでしょう。革命の利益を全て独占すると躊躇わず主張する。スペインに自分達の党の権力を確立するためです。この目標の帰結はロシアの恥ずべき実例でお馴染みでしょう。あらゆる自由な革命的傾向、あらゆる独立した勤労者組織を沈黙させる。実際、彼等は、自分達が単独で権力を握り、革命における全ての自由と権利を統制する立場にいると自認している。だから、必ずや同盟諸組織と革命の大義そのものを裏切るのです。 スペイン革命は世界中の労働者の大義である。この事業において、こんな党との共通点など絶対にない。この党は、国全体の独裁という名目で、恥ずかしげもなく労働者を騙し、最悪の専制君主・民衆の自由と権利の敵として登場するために革命的利益全てを奪う。 あなた方は、ロシアの先例からこれとの関わりを避けねばなりません。ボルシェヴィキ共産主義の惨禍がスペインの革命的大地に決して根付かないように! スペイン全土の労働者・農民・勤労知識人の同盟、万歳! アナキズムの旗の下で解放的利益をいや増す新世界に向けて邁進するスペイン革命万歳! 友愛の念を込めて。 ネストル゠マフノ 1931年4月29日 ** 第十八章 1931年のスペイン革命の歴史と社会党左派・社会党右派・アナキストが果たした役割について 革命勃発に際してはいつも--その性質がいかなるものであれ--最も重要な点は、労働者と農民からなる広範な大衆が参加していることである。ところが、その指導者達は、団結した集団であれ散在する少数の人物であれ、労働者の目から見て特別な権威を享受しているが故に、大衆の上に身を置き、大衆と歩調を合わせず、大衆の信頼も得ず、ただ何か特別な出来事が起こるのを待ち構えたり、さらに悪いことに、「唯一の」進むべき途を押し付けて大衆を従わせようとしたりする。こうした場合、革命は充分徹底的に発展せず、解決すべき諸問題を解決することも、それを正しく定式化することさえもできなくなる。その結果、革命の敵を打倒して喫緊の必要を満たす新たな社会行動方法を考案することができなくなる。大衆は上述した曖昧な指示を受け入れざるを得なくなり、その結果、革命は致命的な迷走に陥る。最終的に革命は、それが標的とした敵の攻撃で消滅してしまうか、方針を転換して逆行し、内部にいる敵の利益に従う形で収束することになってしまう。 多くの場合、こうした問題全てが、これまで欧州やその他の場所で起こった革命中に決定的役割を果たしてきた。そして同じことがスペインでも起こっている。確かに1931年のスペイン革命は、その極めて固有の特徴のために、他の多くの革命とは一線を画している。この革命は、都市や農村で革命的旋風が巻き起こって始まったのではなく、投票箱から生じたのである。だが、進展するに連れ、左翼分子の行動のおかげで、当初それを繋ぎ止めていた錨を断ち切り、勤労者による解放的社会行動という広大な領域へと突入していった。それにもかかわらず、革命は結局、権威主義分子に有利な形で終わり、労働者と多くの革命家達の運命は、彼等が成し遂げた成果と同様に、悲劇的なものとなった。この不幸な結末の責任は主としてスペインの左翼政治勢力にある。しかし、その責任は権威主義的社会主義者だけでなく、反権威主義的社会主義者、つまり我々の同志である無政府共産主義者やアナルコサンジカリストにも帰せられる。 右翼的国家社会主義者(訳註:当時のスペイン社会党右派)の責任は、アルカラ゠サモラのブルジョア政党と最初から結び付いていたことにある。確かに、この政党の草の根闘士、特に労働者は、この政策に耳を傾けようとはしなかった。彼等は特に、この党の「お偉方」が、革命を犠牲にする代償を払ってでも、共同権力の掌握を目指してブルジョア階級と密かに交渉していることに気づいていなかったのである。社会党の労働者達が他の労働者から党の政策について問いただされ、自分達が何も答えられないと気付いて初めて、指導者達がブルジョアの前で偽善的な態度を示し、まるでクジャクのように誇らしげに振る舞っていたと分かり、労働者だけで権力を奪取する覚悟を示して、その代表者達に少しばかりの恐怖を与えたのだった。社会党指導者の革命に対する二枚舌は一層明確になった。他の社会革命組織が示していたように、労働者の熱望に応える振りをした。しかし、革命の進展に関しては、労働者の精神と理解に徹底的な混乱を植え付けた。そして結局は、その闘争の最良かつ最も戦闘的な特徴を損ない、君主主義者と国王に対して完全で熱狂的な勝利を収められるはずだった全てを失わせたのである。 スペインの勤労者は、新しく自由な形の社会生活を営む時がやって来たと本能的に感じていた。社会党右派の「お偉方」は表向き自分達もこれを喜んでいるかのように装ったが、実際には密かにこうした熱望を裏切ろうと画策していた。その過程で、彼等は革命の最初の歩みに甚大な打撃を与えたのである。 ボルシェヴィキ共産党--いわば国家社会主義者の中でも「左よりさらに左」を自称する人々--の罪は、労働者の真の解放という大義のために何も行なわず、もっぱら、自らの下劣で狭量な党派的利益のためにのみ行動したことにある。彼等は革命を手段と見なし、プロレタリア階級の頭に最も扇動的な空約束を好き放題詰め込み、権威主義の渦の中に彼等を吸い込みながら、彼等を丸ごと利用して国を支配する座へ薄汚い党の独裁を押し上げたのだ。自らの扇動的策略が勤労者には通用しないと分かると、彼等は少数の冒険主義分子を教唆したり騙したりして、暴力的デモを組織し、無防備な労働者を巻き込んだ。だが、こうしたデモも成功しなかった。現場に近づきもしない輩が仕組んだ通り、敗北の度に大量の血が流されたのである。これら全ては、社会党右派とアルカラ゠サモラとブルジョア階級の同盟を強めただけだった。「独裁者になりたがっている」左翼に対してだけでなく、革命全般に反対する同盟をも強化したのである。ボルシェヴィキ「共産党」は、ロシアの党と同じマルクス-レーニン主義学派に属している。資本に対抗し、プロレタリア階級解放のために闘い、彼等が強制する「カウディウムの屈辱」を拒む者にとって、彼等はイエズス会のような偽善者であり、裏切り者でしかないのだ。1931年のスペイン革命の最中、彼等は公然と裏切りを働くだけの力はなく--今もそれほど強くはない--それでも幾つかの挑発を仕掛け、中傷を広めることに成功した。それも、ブルジョア階級に対してではなく、むしろ左翼の政治的敵対者に対してだった。この事実は、革命がブルジョア思想とブルジョア指導者を追い払うのに困難を極めた理由をある程度説明してくれる。革命は同時にこうした「左翼の」裏切り者が広めた士気沮喪とも戦わねばならなかったのだ。こうした裏切り者どもは、自らの独裁のために活動しているのであって、本物の社会的自由--搾取というやっかいな過去と徹底的に決別し、新しい世界に向けて今まさに歩み出そうとしている全ての人々の連帯と見解の対等性を融合する自由--のためにではない。 スペインの無政府共産主義者とアナルコサンジカリストは事態の形成に特別の責任を負っている。というのも、彼等はこの革命で能動的役割を果たすに当たり、自らの基本原則から逸脱し、確かに自由主義ブルジョア階級から主導権を奪い取ろうとしたものの、結局はその寄生階級の地盤の上に留まり続けてしまったからである。第一に、彼等は時代の要請に全く注意を払わず、第二に、ブルジョア階級が自らにとって厄介な者を封じ込め、排除するために利用できる資源の規模を過小評価していたのである。 アナキスト達が自らの信念を実践に移し、ブルジョア的な共和政革命を社会革命に転じることを妨げたのは何だったのか? 第一に、具体的で詳細な綱領が欠けていたため、彼等は行動の統一を確立できなかった。革命の時期において運動が拡大し、周囲の全てに影響を及ぼすかどうかを決めるのはこの統一なのである。 第二に、スペインの同志達は、他の多くの同志達同様、アナキズムを放浪する自由の教会のように見なしていた…。この態度のため彼等は度々、望ましい時期と場所に姿を現すことができなかった。勤労者の日常的闘争と、より大局的な闘争とを結び付ける義務を担う経済・社会組織に不可欠な実践的組織構造に到達しなかったのである。そのため今回も、革命の時期にアナキズムに課される歴史的任務を達成できなかった。この国の労働者の間で大きな威信を得ていたにもかかわらず、スペインの無政府共産主義者とアナルコサンジカリストは、革命に共感しつつもプチブル的展望との間で揺れ動く大衆の精神を革命へと傾けられなかった。本来なら大衆を革命の拡大と防衛のための活動家へと転じさせるべきだった。ところが、比較的自由な雰囲気に囲まれていると感じたアナキスト達は、数多くのプチブル同様、際限のない議論に没頭してしまった。口頭でも文章でも、彼等はあらゆるテーマについて絶対的自由を説き、信念を語る集会を幾度も開いた。しかしその間に、王に取って代わった者達が自らの権力を固めるべく全力を尽くしていたという事実を見落としていたのである。 絶好の機会であり、情況も好ましかったことを考えれば極めて重要だったのだが、残念ながら、この点については適切な時に何一つ行われなかった。この時点で、スペインのアナキストは、革命をもう一歩身近にする戦略を実際に定める本物の好機を--スペインの他の革命集団よりも遥かに多く--手にしていた。CNTは目覚ましい勢いでその組合員を増やしていた。労働する全ての者にとって、CNTは、勤労者の長年の願いを遂に声として届けてくれる代弁者・フォーラムとなったのである。 我々の運動がこうした能動的役割をさらに発揮するためには、ブルジョア階級とその権力を打倒し、革命運動に対するその影響力を完全に撲滅しなければならなかった。これは、1931年という革命的年にスペインの同志がこうした方針に沿って何等成果を挙げられなかったという意味なのだろうか?勿論違う。彼等は、政治革命を社会革命に転化すべく全力を傾けていた。彼等は英雄的に、そのために必要な犠牲を引き受けてきた。そして、革命が窒息させられた現在も、アナキストの多くは過酷な弾圧に耐えている。しかし、こうした犠牲全ては、適切な目標のために払われたものでない限り、徒労に終わった。繰り返すが、その理由は、アナキズムに確固たる綱領が一切存在しないことにある。そして、アナキストの活動が、これまでも今も、理論的統一・単一の共通目標によって規定され、理論に裏打ちされた戦術的統一から生じたものではなく、徹底的な四散状態の中で行われてきたからである。スペインのアナキストが自らの活動を達成できなかったのは、まさにこの具体的理由に依る。その結果、最も薄弱な信念を持つ人々が、自らの「責任感の高まり」の名の下に、有名な「三〇人宣言」を--全く悪いタイミングで--発表することになったのだ。最も決然たる大胆不敵な闘士達、自らの理念を広めるだけでなく、理念のために死ぬことさえ厭わない人々は、汚れた地下牢の中に閉じ込められたり、遠い岸辺へ、敵国へと自分達を追放する船倉の中で苦しめられたりしている。 大まかに言えば、歴史上稀にしか訪れない決定的瞬間において、革命活動にとって致命的な不作為・過失・欠点をスペイン左翼諸集団が犯したのだ。これこそがスペイン革命を現在の難局へと追い込んだのである。従って、この情況の責任はこれら全ての諸集団にある。 ブルジョア階級の下僕を演じる以上のことは何一つできず、しかも他の革命家を自らの下僕に仕立て上げようとしている国家主義的社会主義者どもが、このことから如何なる結論を導き出すのか私には分からない。革命的アナキストに関する限り、将来(スペインであれ他の場所であれ)同じ過ちを繰り返さないための思考の糧がここにあると私は信じる。すなわち、革命の前哨地に立たされながら、敵たるブルジョア階級と権威主義的社会主義者による激しい総攻撃に対し、大衆の革命的成果を防衛するために必要な資源を利用できないままでいるという事態に陥らぬための思考の糧である。 言うまでもなく、革命的アナキストはボルシェヴィキの方法に依拠してはならない。だが、時にその誘惑に駆られる者もおり、果てはボルシェヴィキ国家との「密接な繋がり」を確立するよう求める者すらいる(アルシーノフなる「新奇論者」が最近主張している)。革命的アナキストがボルシェヴィズムに求めるべきものなど何もない。革命的アナキストは独自の実に豊かな革命理論を持っている。それが定める任務は、勤労者階級の人生と闘争において、ボルシェヴィキのそれとは全く相容れない。汎ボルシェヴィズムの目標と革命的アナキズムの目標は一致し得ない。ボルシェヴィズムはルーブルと銃剣を使ってソ連の勤労者の生活に獰猛に押し入り、意図的に彼等の権利を無視し、自ら思索することも、自らの幸福と世界中の勤労者の幸福を自分で考えることもできない従順な奴隷へと変えている。 運動の大義にどれほど献身していようとも、個人であれ集団であれ、何の支援もなく前述の任務を実行できるアナキストはいない。これまでの全ての試みがこれを証明している。理由は明白だ。いかなる個人も集団も、援助なしには国内的にも国際的にも自分達の運動を団結させられない。こうした巨大かつ重大な任務を果たし得るのは国際的なアナキストの協議機関だけである。これこそ今からほぼ7年前、ベルリンでルドルフ゠ロッカーとアレキサンダー゠バークマンに私が語ったことである。私は今、より断固としてこれを再び言おう。多くのアナキストが公然と認めているように、実際的な方策を案出しようとして一連の徒労を重ねた結果、我々の時代と資源で形作られ、それらと調和する綱領に到達する道はこれ以外にない。理論と実践の双方で最も能動的かつ献身的な闘士を含む準備会議を招集し、国際アナキスト大会に備えて徹底的に討議されるべきテーゼを策定する。大会を経て、これらのテーゼは発展し、完成する。そして大会後には、これらのテーゼは明確な綱領となり、我々の運動の確固たる基準、万国で妥当性を持つ指標となるだろう。こうして、改良主義や混迷による逸脱から我々の運動を救い出し、現代革命の前衛となるために必要な影響力を運動に与えるのである。 確かに、これは容易い事業ではない。しかし、それを成し遂げられる者、そして成し遂げようとする者の決意と連帯こそが、この事業を大いに前進させる。さあ、この事業を始めよう!我々の運動は、これによって必ず利益を得るのだから! 全てのアナキスト闘士が共有する友愛の希望よ、万歳!この壮大な事業--我々の運動の努力と我々が希求し闘争する社会革命の実現を目にすることができるように! 一九三一年、フランス ** 第十九章 アレクサンドル゠スキルダによる書誌的あとがき [1] 原註:当時、ボルシェヴィキの軍事部隊はウクライナにいなかった。最初のボルシェヴィキ戦闘部隊がロシアから到着したのはずっと後になってからだ。到着後、彼等は私達と並行して前線を占領した。ウクライナ勤労者は自治的に、とりわけ国家主義の監督なしに、組織されていたが、ボルシェヴィキ部隊は一見してウクライナ勤労者に協力しようとしている風だった。しかし、実際には、自分達に有利になるよう勤労者をバラバラにして抹殺すべく裏工作を始めた。ボルシェヴィキはこの目標を達成するために何でも行った。軍用品と砲弾の形で支援を提供すると約束していたのに、その支援を直接妨害しさえしたのだ。まさにその時、私達は、戦線全体で広範な攻撃を行っていた。攻撃の成功は大砲と機関銃の火力に掛かっていた。実際、圧倒的に弾薬が足りなかったのだ。 [2] 訳註:ニューヨークで出版されていたイディッシュ語アナキズム新聞 [3] 訳註:英語原文サイト・The Anarchist Library・Marxist.orgでは「XIVth」と書かれているが転記ミス。原書は「XIth」 [4] アレクサンドル=スキルダによる註:この論説は、反スターリニスト・反トロツキストのソヴィエト逃亡者集団が出版した。彼等は、1917年の自由ソヴィエト権力・1921年のクロンシュタット反乱者の要求への回帰を論拠に、ボルシェヴィキ政権とは距離を置いている。この雑誌の主導者はグリゴリー=ベセドフスキーだった。彼はウクライナの前ソヴィエト外交官で、パリのソ連大使館を衝撃的に辞め、スターリニスト政権の腐敗の糾弾に身を捧げた。1930年にパリで出版された彼の著書『Oui, J'accuse!』を参照していただきたい。