タイトル: 社会主義下での人間の魂
著者名: Oscar Wilde
トピック: 権力, 個人主義
発行日: 1891
ソース: https://web.archive.org/web/20050326201432/http://a.sanpal.co.jp/anarchism/mt/archives/000048.html(2023年4月20日検索)
備考: 森川莫人 訳

社会主義の成立がもたらすと思われる主要な効果は、疑いもなく、次の事実である 。社会主義は、他者のために生きなければならないという何とも卑しむべきことか ら私たちを解放してくれるであろう。これは、現状では、ほとんど全ての人に非常 に重く課せられている。事実、誰もこのことから逃げることなどできないのだ。

今も昔も、今世紀において、ダーウィンのような偉大な科学者・キーツのような偉 大な詩人・M=ルナンのような優れた批判精神・フローベルのような至高の芸術家 は、孤立し、他者の騒々しい要求から身を遠ざけ続け、プラトンの表現を借りれば 「壁の庇護の下に」立ち、そのことで、自分の中にあるものの完成・自身の比類な き進歩・全世界の比類なき永続的進歩を実現できたのだった。だが、それは例外で ある。大多数の人々は、自身の生を、不健康で誇張された利他主義のために台無し にしている--確かに自分を無理矢理台無しにさせられているのだ。人々は自分自 身が恐ろしいほどの貧困に取り囲まれ、恐ろしいほどの醜さに取り囲まれ、恐ろし いほどの飢餓状態に取り囲まれているのを分かっている。必然的に、人々はこのこ と全てに強く心を動かされる。人の感情は知性よりも急速に喚起される。そして、 批判の働きに関する文章で以前指摘したように、思慮を持って同情することよりも 、苦悩を持って同情することの方がずっと簡単なのだ。従って、見事ではあるが見 当違いな意図を持って、自分が悪だと見なしていることを治療するという課題に、 非常に真面目に、非常に感傷的に取り組むのである。だが、その治療は病気を直し はしない。長引かせるだけなのだ。実際、その治療こそが病気の一部なのである。

例えば、彼らは貧困という問題を、貧困者を生かしておくことで解決しようとする 。もしくは、非常に進歩した学派の場合は、貧困者を楽しませることで解決しよう とする。

だが、そんなことは解決策ではない。問題を悪化させているのだ。真の目的は 、貧困を不可能にする、これを基に社会を再構築することなのだ。そして、こ の目的の実行を本当に妨げてきたのは、利他的美徳なのである。最悪の奴隷所有者 が自分の奴隷に対しては優しかったように、システムに苦しめられている人々がシ ステムの恐怖を実感しないようにし、それを沈思していた人々が理解していたよう に、英国の現状では、最も有害なことを行っている人々は、最良のことを行おうと している人々なのだ。ついに、我々は、問題を本当に研究し、生を知っている人々 --イースト=エンドに住んでいる教養ある人々--が現れて、地域社会に、慈善 事業やら慈悲やらといった利他的衝動を抑制するように懇願しているという見世物 を手に入れた。彼らがそのようにしているのは、慈善事業が堕落し、混乱している からである。彼らは全く正しい。慈善事業は数多くの罪を創り出すのだ。

同時に、述べねばならないことがある。私有財産という制度から生じた恐ろしい邪 悪を軽減するために私有財産を使うなど背徳行為なのだ。背徳であり、不公正なの だ。

もちろん、社会主義の下ではこのこと全ては変わるだろう。悪臭漂う洞穴やぼろ切 れで生活し、絶対的に吐き気を催す信じがたい環境のただ中で不健康で空腹で萎び た子供たちを育てる人などいなくなるであろう。社会の安全は、現在もそうだが、 天候の状態に左右されはしない。霜が降りたところで、10万もの人々が失業するこ となどないし、むかつくような惨めさで街路を歩き回ることもないし、慈善の施し を求めて町内で愚痴をこぼしたり、一切れのパン(a hunch of bread)や薄汚い宿 泊所を確保しようと忌まわしい保護施設の戸口に集まることもない。社会の成員各 々は、その社会の全般的な繁栄と幸福を共有し、霜が降りてくるようなときにも、 事実上、何かいっそう悪いことにはならないだろう。

一方、社会主義それ自体は、それが個人主義を導くという理由だけで、貴重な ものとなるだろう。

社会主義とか共産主義とかそれを何と呼ぼうと構わないが、私有財産を公的財産に 変換し、競争を協働に置き換えることで、徹底的に健康な有機体が持つ適正条件に 社会を復元し、地域社会の成員個々人の物質的幸福を確保する。事実、生命にその 適切な基盤と適切な環境を提供するのである。だが、生命の十全なる発達が最高の 完成形態に達するためには、さらに何かが必要である。個人主義が必要なのだ。社 会主義が権威主義だった場合・政府が--現在、政治権力を持っているように-- 経済力で武装した場合・一言で言えば、産業的暴政を手にしてしまった場合には、 人間の最終状態は、原初の状態よりも悪くなってしまう。現在、私有財産が存在す るがために、非常に多くの人々は、非常に限られた量の個人主義しか発達させるこ とができていない。そうした人々とは、生活のために仕事をしなくてもよい人か、 本当に自分の性にあった、快楽を自分に与えてくれる活動領域を選ぶことができる 人かどちらかである。その人は、詩人・哲学者・科学者・文化人--つまり、本当 の人間、自己実現している人間なのであり、その人の中に全ての人間性が部分的に 実現しているのである。一方、全く自分の私有財産を持たず、本当の餓死の瀬戸際 にいつもいる数多くの人々が、役畜の行う労働に無理矢理従事させられ、自分の性 に全く合わない仕事を行い、困窮という断固たる不合理の下劣な暴政によって強制 させられている。そうした人々は、貧乏で、彼らには、礼節の優美さもなければ、 魅力ある話術もなければ、文明も、文化も、洗練された快楽も、生の楽しみもない 。その集団的力から、人間は多くの物質的繁栄を得ているのである。だが、人間が 獲得しているのは物質的成果だけであって、貧困にあえぐ人は、その人自身、絶対 的に無価値なのだ。その人は、極々小さな力の原子にすぎず、その力は、自分自身 を大切にすることからはほど遠く、自分を破壊するのである。事実、非常に服従的 になっている人の場合ように、その人を破壊することを望んでいるのだ。

もちろん、私有財産という諸条件下で生み出された個人主義が、いつも、素晴らし くないとか優れていないとかいうわけではないし、標準的にそうだというわけでさ えもない、と言うこともできる。文化と魅力を持っていなくても、貧困者も多くの 美徳を持っている、と言うこともできる。こうした言明はどちらも、全く真実だと 言って良かろう。私有財産の所有は、極度に士気喪失させることが非常に多い。社 会主義がこの制度を廃絶したいと思っている理由の一つは、もちろんこれなのであ る。事実、財産は本当に邪魔者なのだ。数年前、人々は国を歩き回り、財産には義 務がある、と言っていた。人々はそのことを何度も述べており、あまりにも単調に 繰り返されるため、とうとう教会が同じことを言い始めたのだった。今では、あら ゆる説教壇からこの言葉が聞こえてくる。財産には義務があるというだけでなく、 あまりにも多くの義務があり過ぎて、莫大な財産を所有することは退屈なのである 。それは、絶え間ない損害賠償請求であり、仕事に対する絶え間ない注目であり、 絶え間ない苦悩なのだ。財産が単なる快楽ならば、耐えることもできよう。だが、 その義務が財産を耐え難いものにしているのだ。金持ちのためにも、財産を廃絶さ せねばならぬ。貧困の美徳を認めることは容易かろう。だが、それ以上に気の毒に 思われているのだ。貧困者は慈善をありがたく思っている、とよく言われる。確か に、そう思っているものもいる。だが、貧困者の中でも最良の人々は、一度た りともありがたいなどと思っていないのだ。そうした人々は、恩知らずで、不 満を持ち、服従せず、反抗的なのだ。彼らがそういう人々であることは全く正しい 。彼らは慈善を次のように感じているのだ。ばかばかしいほど不適切な部分的損害 賠償様式、もしくは、感傷的失業手当であり、一部の感傷的な人々が自分たちの私 生活を圧制しようとする厚かましい試みを伴っているものだ、と。何故、彼らが、 金持ちのテーブルからこぼれ落ちたパン屑をありがたがらねばならないのか?彼ら は食卓に座るべきなのだ。彼らはそのことを理解し始めているのだ。不満を述べる ことに関して言えば、こうした情況について、こうした下劣な生活様式について不 満を述べない人など、完全な畜生であろう。歴史を読んだことのある人間の目には 、不服従は人間が持つ根元的な美徳なのだ。進歩がなされるのは不服従を通じてで ある。不服従と叛逆を通じてなのだ。貧困者は倹約的だとして褒め称えられること がある。だが、貧困者に倹約するよう勧めることは、グロテスクであり侮辱してい ることでもある。餓死しそうな人に減食を勧めるようなものなのだ。都市労働者や 田舎の労働者が倹約を実践するなど、完全なる背徳行為であろう。人間は、自分が 餌の足りない動物のように生きることができると示す用意などすべきではない。人 はそのように生きることを辞退すべきであり、盗みを働くか、多くの人々の一種の 窃盗だと見なされている相場に手を出す(go on the rates)べきなのだ。物乞い については、奪うよりも乞う方が安全ではあるが、乞うよりも奪う方が洗練されて いる。いや、違う。恩知らずで、金使いが荒く、不満を述べ、叛逆をしている貧困 者は、真の人格なのであり、自分の中に多くのことを持っているのだろう。少なく とも、健全な抵抗者なのだ。有徳の貧困者に関して言えば、もちろん、人は、貧困 者を可哀想に思いこそすれ、賛美することなどできないであろう。貧困者は、敵と 私的契約を結び、酷く不味いポタージュを得るために生得権を売り渡しているのだ 。彼らは、驚くべき阿呆に違いない。人が、ある種の美しく知的な生活を実現する ために、そうした諸条件下にいることができるというのなら、その人が私的財産を 守り、その蓄積を認めている法律を受け入れることを、私は全く理解できる。だが 、ある人の生がそうした法律によって台無しにされ、忌まわしいものにされていて も、その人が法律の継続を受け入れることができるなど、私にはほとんど信じがた いのだ。

だが、このことを説明するのはさほど難しくはない。単に次のことによるのだ。貧 窮と貧困は、あまりにも絶対的に下劣であり、人間の本性を混乱させる効果を持っ ているため、いかなる階級も自身が苦しんでいることに本当に気づいてはいないの である。そうした人々は他者にそのことを指摘してもらわねばならないのだが、多 くの場合、指摘されたことを全く信用しないものである。扇動者たちに対して多く の雇用主が述べることは、疑いもなく真実である。扇動者たちは、地域社会の全く 不満のない階級になり果てている人々に干渉し、お節介を焼き、そうした人々の中 に不満の種を蒔いている。これが、扇動者が全く絶対的に必要な理由なのだ。我々 の不完全な状態において、扇動者抜きには、文明に向かう前進などないであろう。 米国で奴隷はいなくなったが、それは一部の奴隷の行動の結果でも、奴隷は自由に なるべきだという奴隷の側の明確な願望の結果でさえもない。全く持って、ボスト ンなどにいる扇動者たちが行った甚だしい非合法活動を通じてなくなったのだ。そ の扇動者たちは、奴隷などではなかったし、奴隷の所有者でもなかったし、その問 題に実際に何か関わりがあったわけでもなかった。松明を灯したのは、全てのこと を始めたのは、疑いもなく奴隷廃絶論者たちだった。彼らが奴隷自身から全く少し の支援も受けていなかっただけでなく、賛同すら受けていなかったことは興味深い 。戦争の終わりに、奴隷たちは自分たちが自由だと気づき、自分があまりにも自由 すぎて、餓死することも自由だと分かったため、奴隷の多くが新しい状態を苦々し く悔やんでいたのだった。思索者にとって、フランス革命全体における最も悲劇的 な事実は、マリー=アントワネットが女王であるが故に殺されたことではなく、バ ンデーのひもじい農民が、封建制度という憎むべき大義のために自主的に死にに行 ったことであった。

従って、権威主義的社会主義などあり得ないことは明らかである。なぜなら、現行 システム下で、非常に多くの人々が一定量の自由と表現と幸福のある生活を送るこ とができる一方、産業バラックシステム下、つまり経済的暴政システム下では、誰 も、多少なりともそうした自由すら持つことができないからだ。我々の地域社会の 一部が事実上奴隷状態にあることは、残念でならない。だが、全地域社会を奴隷に することでこの問題を解決しようとするなど、子供じみている。全ての人間は、自 分自身の仕事を自由に選ぶことができなければならない。いかなる強制も、その人 に対して及ぼされてはならない。強制が存在すれば、その仕事は自分にとって良い ものではなくなるだろう。それ自体で良いものではなくなるだろう。他者にとって 良いものではなくなるだろう。私は、仕事という言葉を使っているが、単に、あら ゆる種類の活動のことを意味しているのである。

査察官が毎朝全ての家を訪れて、全ての市民が起床しているかどうか、8時間の肉 体労働を行っているかどうか調べるべきだ、などと社会主義者が現在真面目に考え ているとは思えない。人間は、そんな段階を越えてきたし、非常に恣意的なやり方 で、犯罪者と呼ぶことにした人々ためにある種の生活形態を取っておいてある。だ が、私は告白せねばなるまい。私が出会った社会主義的諸観点の多くは、実際の強 制ではないにせよ、権威という考えで汚されているように思う。もちろん、権威と 強制など以ての外である。全ての連合は、全く自発的なものでなければならない。 人間が魅力的になるのは、自発的連合においてのみなのだ。

だが、次のように問う人々もいるだろう。現在個人主義の発達は多かれ少なかれ私 有財産に依存しているわけだが、そうした私有財産の廃絶によって、個人主義はど のような恩恵を受けるのだろうか?答えは非常に簡単である。既存諸条件下では、 バイロン・シェリー・ブロウニング・ヴィクトル=ユゴー・ボードリヤールなど自 分自身の私的財産を持っている少数の人々は、その人格を多かれ少なかれ完全なも のに実現できていた。これは真実である。こうした人々の一人として、一日たりと も雇われ仕事をしたことなどなかった。彼らは、貧困から解放されていたのだった 。莫大な強みを持っていたのだった。問題は、そうした強みが取り去られねばなら ないとすれば、それは個人主義のためになるのかどうか、ということである。取り 去られたと仮定してみよう。個人主義には何が生じるだろうか?どのように恩恵を 受けるのだろうか?

次のように恩恵を受けるであろう。この新しい諸条件下で、個人主義は、現在より もさらに自由に、さらに洗練され、さらに活発になるであろう。私は、上記した詩 人たちのような偉大なる想像の上で実現する個人主義について述べているのではな く、人間一般に潜在し可能性を持っている現実の個人主義について述べているのだ 。私有財産の承認は、人間をその人が所有しているものと混同することにより、現 実に個人主義に悪影響を与え、個人主義の輝きを奪ってきた。個人主義を完全に道 に迷わせてしまったのだ。その目的は、利益を得ることであって、成長ではなかっ た。故に、人間は、大切なことは所有であると考え、存在することが大切なのだと は分からなかったのである。人間の本当の完成は、その人が何を持っているか にではなく、その人がどのような人であるのかに存しているのだ。私有財産は 、真の個人主義を破壊し、誤った個人主義を作り出した。地域社会の一部は、飢餓 状態にさせられ、個人になれなくなった。地域社会の他の部分は、誤った道を取ら せ、苦しめさせられることで、個人になれなくなったのだ。事実、人間の人格が余 りにも完全にその財産に吸収されているため、英国の法律は常に、人間の財産に対 する攻撃を、その人格に対する攻撃よりも遙かに重大に扱うものなのだ。そして、 財産は、未だに、完全なる市民権を持っているかどうかの試験なのである。金を稼 ぐために必要な産業も、非常に堕落している。我々のもののような地域社会では、 財産が莫大な名声・社会的地位・名誉・尊敬・称号などの心地よい事柄を与えてく れるが、自然に野心的な人は、この財産を蓄積することを自分の目的とし、自分が 欲する以上の・使用できる以上の・享受できる以上の・知っている以上もの財産を 手に入れたずっと後までも、怠く単調に財産を蓄積し続けるのである。この人は、 財産を守るために過労死するだろう。実際、財産が運んでくれる莫大な利益を考え れば、驚くには当たらない。人間を無理矢理型にはめてしまうこうした基盤を基に 社会が構築されねばならないなど悲しむべきことだ。そうした中では、人間が、自 分の中に持っている素晴らしく、非常に魅力的で、愉快なことを自由に発達させる などできないのである。実際、人間は、生活が持つ真の快楽・喜びを見逃してしま うのだ。同時に、既存諸条件の下で人は非常に不安定である。人は、自分がコント ロールできない事柄に翻弄されて、自分の生活の中で絶えず、莫大に裕福な商人に なる可能性を--実際多くの場合そうなのだが--持っている。風が予想外に強く 吹いたり、天気が突然変わったり、何か些細なことが起こったりすると、その人の 船は沈没するかもしれず、その人の予想は当てが外れるかもしれない。そして、自 分の社会的地位が全く失われ、貧乏になったことを知るのである。である以上、人 を傷つけることができるのはその人自身でしかないのだ。人から盗むことができる ものなど何もない筈なのである。人間が本当に持っているものと言えば、自分自身 の内にあるものなのだ。自分の外にあるものは、何ら重要性を持っているはずがな いのである。

私有財産の廃絶と共に、我々は本物の美しく健康な個人主義を手にすることとなる 。自分の人生を、物事や物事のシンボルを蓄積するために無駄に費やす人など何処 にもいなくなるだろう。人は生きるであろう。生きることは、世界でもまれなこと なのである。大部分の人は存在しているだけである。我々は、芸術が持つ想像的水 準を除いて、十全なる人格表出を見たことがあるのか、これが問題なのだ。実際の ところ、一度もない。モムセンによれば、皇帝は全く完全な人間だったそうだ。だ が、皇帝は何と悲劇的に精神的不安を抱えていたことか!権威を行使する人間がい るところならば何処でも、権威に抵抗する人間がいるものだ。皇帝は全く完全だっ たが、彼の完全さが、危険な道を歩ませることになった。マルクス=アウレリウスは、 完全な人間だった、とレナンは述べている。そう、偉大なる皇帝は完全な人間だっ た。だが、彼に課せられた終わりのない要求は、どれほど耐えられないものだった のか!彼は、帝国の重荷の下でふらついていたのだ。彼は、一人の人間がタイタン とあまりにも莫大な宝(orb)の重さに耐えるにはどれほど不適切なのか意識して いたのだった。完全な人間、ということで私が意味しているのは、完全な条件下で 発達した人、傷ついたり心配したり不具になったり危篤状態にいない人のことであ る。大多数の人物は、反逆者にならざるを得なかった。その長所の半分は、摩 擦の中で消耗させられたのだった。例えば、バイロンの人格は英国の愚行・偽 善・実利主義との闘争で非常に消耗させられたのだった。こうした闘争が常に長所 を強めるわけではない。多くの場合、短所を悪化させるのである。バイロンは、彼 が私たちに与えてくれる可能性があったことを私たちに与えることはできなかった 。シェリーはもう少しましに逃げていた。バイロン同様、彼もできるだけ早く英国 を脱出した。だが、彼はそれほど有名なわけではなかった。英国が、彼を本当に偉 大な詩人だと少しでも考えていたなら、あらゆる手段を尽くして彼を襲い、その生 を可能な限り耐え難いものにしたであろう。しかし、彼は社会で重要な人物ではな く、ある程度まで、それを理由に逃げたわけだ。それでもなお、シェリーの中には 、叛逆の兆候が非常に強く出ることがある。完全な人格の兆候は、叛逆ではなく、 平和である。

真の人格を目にすれば、それは素晴らしいものであろう。それは自然に単純に花の ように、もしくは木が生長するように育つであろう。議論をすることも論争するこ ともないであろう。物事を証明などしないであろう。全てを知っているであろう。 しかしなおも、知識に忙殺されはしないであろう。知恵を持っているであろう。そ の価値は、物質的物事で測られはしないだろう。何も所有しないであろう。それで もなお、全てを所有しているであろう。何を取られようとも、所有し続け、非常に 裕福であろう。他人に干渉することはないであろうし、自分のようになるよう求め ることもしないであろう。他者が異なっているという理由で、他者を愛するであろ う。それでもなお、他者に干渉せず、皆を支援するであろう。丁度美しいものが、 あるがままで私たちを助けているように。人間の人格は非常に素晴らしいものとな ろう。子供の人格と同じぐらい素晴らしいものとなるであろう。