タイトル: 獄中記
トピック: アナキズム, 投獄
発行日: 1919年
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/library.html(2024年3月14日検索)

      市ヶ谷の巻

        前科割り

        僕の前科

        とんだ木賃宿

        奥さんも御一緒に

        初陣

        野口男三郎君

        出歯亀君

        強盗殺人君

      巣鴨の巻

        ちょいと眼鏡の旦那

        旧友に会う

        二十五年目の出獄

        びっこの少年

        獄中からの手紙

        鬼界ヶ島の俊寛

      千葉の巻

        うんと鰯が食えるぜ

        下駄の緒の心造り

        三度減食を食う

        もう半年はいっていたい

        鱈腹食う夢を見て下痢をする

        危く大逆事件に引込まれようとする

        出獄して唖になる

        牢ばいりは止められない

市ヶ谷の巻

前科割り

東京監獄の未決監に、「前科割り」と云うあだ名の老看守がいる。

被告人共は裁判所へ呼び出されるたびに、一と馬車(此頃は自動車になったが)に乗る十二三人づつ一と組になって、薄暗い広い廊下のあちこちに一列にならべさせられる。そして其処で、手錠をはめられたり腰縄をかけられたりして、護送看守部長の点呼を受ける。「前科割り」の老看守は一と組の被告人に普通二人づつつく此の護送看守の一人なのだ。いつ頃から此の護送の役目についたのか、又いつ頃から此の「前科割り」のあだ名を貰ったのか、それは知らない。しかし、少なくとももう三十年位は、監獄の飯を食っているに違いない。年は六十にとどいたか、まだか、位のところだろう。

被告人共が廊下に呼び集められた時、此の老看守は自分の受持の組は勿論、十組あまりのほかの組の列までも見廻って、其の受持看守から「索引」を借りて、それと皆んなの顔とを見くらべて歩く。「索引」と云うのは被告人の原籍、身分、罪名、人相などを書きつけた云わばまあカアドだ。

「お前は何処かで見た事があるな。」

しばらく其のせいの高い大きなからだをせかせかと小股で運ばせながら、無事に幾組かを見廻って来た老看守は、ふと僕の隣りの男の前に立ちどまった。そして其の色の黒い、醜い、しかし無邪気なにこにこ顔の、如何にも人の好さそうな細い眼で、じろじろと其の男の顔をみつめながら云った。

「そうだ、お前は大阪にいた事があるな。」

老看守はびっくりした顔付きして黙っている其の男に言葉をついだ。

「いや、旦那、冗談云っちゃ困りますよ。わたしゃこんど始めてこんなところへ来たんですから。」

其の男は老看守の人の好さそうなのにつけこんだらしい馴れ馴れしい調子で、手錠をはめられた手を窮屈そうにもみ手をしながら答えた。

「うそを云え。」

老看守はちっとも睨みのきかない、直ぐにほほえみの見える、例の細い眼をちょっと光らせて見て、

「そうだ、たしかに大阪だ。それから甲府にも一度はいった事があるな。」

と又独りでうなづいた。

「違いますよ、旦那、全く始めてなんですよ。」

其の男はやはり切(しき)りともみ手をしながら腰をかがめていた。

「なあに、白らっぱくれても駄目だ。それから其の間に一度巣鴨にいた事があるな。」

老看守は其の男の云う事なぞは碌に聞かずに、自分の云うだけの事を続けて行く。其の男も、もうもみ手はよして、図星を指されたかのように黙っていた。

「それからもう一度何処かへはいったな。」

「へえ。」

とうとう其の男は恐れ入って了った。

「何処だ?」

「千葉でございます。」

窃盗か何かでつかまって、警察、警視庁、検事局と、いづれも初犯で通して来た其の男は、とうとうこれで前科四犯ときまって了った。そして、

「実際あの旦那にかかっちゃ、とても遣りきれませんよ。」と、さっきから不思議そうに此の問答を聞いていた僕にささやいて云った。

僕の前科

本年の三月に僕がちょっと東京監獄へ行った時にも、やはり此の老看守は、其の十二年前のやはり三月に僕が始めて見た時と同じように、まだ此の前科割りを続けていた。

「やあ、又来たな。こんどは何だ。大分暫く目だな。」

老看守は其の益々黒く、益々醜くなった、しかし相変らず人の好さそうな顔をにこにこさせていた。

僕は今、此の老看守に向った時の懐しいしかし恐れ入った心持で、僕自身の前科割りをする。

と云っても、実は本当にはよく覚えていないんだ。つい三四ヶ月前にも、米騒動や新聞の事でたびたび検事局へ呼び出されていろいろ糺問されたが、其の時にもやはり自分の前科の事は満足に返事が出来なかった。そしてとうとう、

「あなたの方の調べには間違いなく詳しく載ってるんでしょうから。」

と云うような事で、検事にそれを読みあげて貰って、

「まあ、そんなものなんでしょう。」

と曖昧に済まして了った。ところが、あとでよく考えて見ると、検事の調べにも少々間違いがあったようだ。何んでも前科が一つ減っていたように思う。

当時の新聞雑誌でも調べて見れば直ぐに判然するのだろうが、それも面倒だから、今はただ記憶のままに罪名と刑期とだけを掲げて置く。何年何月の幾日にはいって、何年何月の幾日に出たのかは、一つも覚えていない。監獄での自分の名の「襟番号」ですらも、一番最初の九七七と云うたった一つしか覚えていない。これは僕ばかりぢゃない。ためしに堺(利彦)にでも山川(均)にでも山口(孤剣)にでも、其他僕等の仲間で前科の三四犯もある誰れにでも聞いて見るがいい。皆んなきっと碌な返事は出来やしない。それから次ぎに列べた最初の新聞紙条例違犯(今は新聞紙法違犯と変った)の刑期も、ほんのうろ覚えではっきりは覚えていない。

一、新聞紙条例違犯(秩序紊乱) 三ヶ月

二、新聞紙条例違犯(朝憲紊乱) 五ヶ月

三、治安警察法違犯(屋上演説事件) 一月半

四、凶徒聚集罪 (電車事件) 二ヶ年

五、官吏抗拒罪 (赤旗事件) 二年半

治安警察法違犯

これで見ると、前科は五犯、刑期の延長は六年近くになるが、実際は三年と少ししか勤めていない。先日ちょっと日本に立ち寄った革命の婆さん、プレシュコフスキイの三十年に較べれば、其の僅かに一割だ。堺も山川も山口も前科は僕と同じ位だが、刑期は山口や山川の方が一二年多い筈だ。僕なんぞは仲間のうちではずっと後輩の方なんだ。

初陣は二十二の春、日本社会党(今はこんなものはない)の発起で電車値上(片道三銭から五銭になろうとした時)反対の市民大会を開いた時の凶徒聚集事件だが、三月に未決監にはいって其の年の六月に保釈で出た。そして其のほかの四つの事件は、此の凶徒聚集事件が片づくまでの、二年余りの保釈中の出来事なんだ。一から三までの三事件九ヶ月半の刑期も此の保釈中に勤めあげた。

斯うして二ヶ月かせいぜい六ヶ月の日の目を見ては、出たりはいったりしている間に、とうとう二十四の夏錦輝館で例の無政府共産の赤旗をふり廻して捕縛され、それと同時に電車事件の方の片もついたのであった。そして当時の有りがたい旧刑法のお蔭で、新聞紙条例違犯の二件を除く他の三件は併合罪として重きによって処断すると云う事で、電車事件の二ヶ年も又既に勤めあげた屋上演説事件の一月半もすべて赤旗事件の二ヶ年半の中に通算されて了った。云わばまあゼロになっちゃったんだ。

検事局では地団太ふんでくやしがったそうだ。そうだろう。保釈中に三度も牢にはいっているのに、保釈中だと云う事をすっかり忘れていたんだ。しかし僕の方ではお蔭さまで大儲けをした。が、其の年の十月から今の新刑法になって、同時に幾つ犯罪があっても一つ一つ厳重に処罰する事になったから、もう二度とこんないい儲けはあるまい。

それで二十七の年の暮れ、丁度幸徳等の逆徒共が死刑になる一ヶ月ばかり前に、暫く目で又日の目を見て、それ以来今日までまる七年の間ずっと謹慎している。

だから、僕の獄中生活と云うのは、二十二の春から二十七の暮までの、ちょいちょい間を置いた六年間の事だ。そして僕が分別盛りの三十四の今日まだ、危険人物なぞと云う物騒な名を歌われているのは、二十二の春から二十四の夏までの、血気に逸った若気のあやまちからの事だ。

とんだ木賃宿

尤も、其後一度ふとした事からちょっと東京監獄へ行った事がある。しかしそれは決して血気の逸りでも又若気のあやまちでもない、現に御役人ですら「どうも相済みません」と云って謝まって帰してくれた程だ。それは本年の事で、事情はざっと斯うだ。

三月一日の晩、上野の或る仲間の家で同志の小集があった。その帰りに、もう遅くなってとても亀戸までの電車はなし、和田の古巣の涙橋の木賃宿にでも泊って見ようかと云う事になって、僕の家に同居していた和田久板の二人と一緒に、三輪から日本堤をてくって行った。此の和田も久板も今は初陣の新聞紙法違犯で東京監獄にはいっているが、本年の二科会に出た林倭衛の「H氏の肖像」と云うのは此の久板の肖像だ。

吉原の大門前を通りかかると、大勢人だかりがしてわいわい騒いでいる。一人の労働者風の男が酔っぱらって過って或る酒場の窓ガラスを毀したと云うので、土地の地廻り共と巡査とが其の男を捕えて弁償しろの拘引するのと責めつけているのだった。 其の男はみすぼらしい風態をして、よろよろよろけながら切りに謝まっていた。僕はそれを見かねて仲へはいった。そして其の男を五六歩わきへ連れて行って、事情を聞いて、其処に集まっている皆んなに云った。

「此の男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それで済む筈だ。一体、何にか事のある毎に一々そこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上には成るべく御厄介をかけない事だ。大がいの事は、斯うして、そこに居合わした人間だけで片はつくんだ。」

酒場の男共もそれで承知した。地廻り共も承知した。見物の弥次馬共も承知した。しかしただ一人承知の出来なかったのは巡査だ。

「貴様は社会主義だな。」

始めから僕に脹れっ面をしていた巡査は、いきなり僕に食ってかかった。

「そうだ。それがどうしたんだ。」

僕も巡査に食ってかかった。

「社会主義か、よし、それぢゃ拘引する。一緒に来い。」

「それゃ面白い。何処へでも行こう。」

僕は巡査の手をふり払って、其の先きに立って直ぐ眼の前の日本堤署へ飛びこんだ。当直の警部補はいきなり巡査に命じて、僕等のあとを追って来た他の二人までも一緒に留置場へ押しこんで了った。

これが当時の新聞に「大杉栄等検挙さる」とか云う事々しい見だしで、僕等が酔っぱらって吉原へ繰りこんで、巡査が酔いどれを拘引しようとする邪魔をしたとか、其の酔いどれを小脇にかかえて逃げ出したとか、いい加減な嘘っぱちをならべ立てた事件の簡単な事実だ。

そして翌朝になって、警部が出て来て切りにゆうべの粗忽を謝まって、「どうぞ黙って帰ってくれ」と朝飯まで御馳走して置きながら、いざ帰ろうとすると、こんどは署長が出て来て、どうした事か再び又もとの留置所へ戻されて了った。

斯くして僕等は、職務執行妨害と云う名の下に、警察に二晩、警視庁に一晩、東京監獄に五晩、とんだ木賃宿のお客となって、

「どうも相済みません。どうぞこれで御帰りを願います。」

と云う御挨拶で帰された。

元来僕は、酒は殆ど一滴も飲めない、女郎買いなぞは生れて一度もした事のない、そして女房と腕押しをしてもいつも負ける位の実に品行方正な意気地なしなのだ。

奥さんも御一緒に

それから、これは本年の夏、一週間ばかり大阪の米一揆を見物して帰って来ると、

「ちょっと警察まで。」

と云う事で、其の足で板橋署へ連れて行かれて、十日ばかりの間「検束」と云う名義で警察に泊め置かれた。

しかしそれも、何にも僕が大阪で悪い事をしたと云う訳でもなく、又東京へ帰って何にかやるだろうと云う疑いからでもなく、ただ昔が昔だから暴徒と間違われて巡査や兵隊のサアベルにかかっちゃ可哀相だと云うお上の御深切からの事であったそうだ。立派な座敷に通されて、三度三度署長が食事の註文をききに来て、そして毎日遊びに来る女をつかまえて、

「どうです、奥さん。こんなところで甚だ恐縮ですが、決して御心配はいりませんから、あなたも御一緒にお泊まりなすっちゃ。」

などと真顔に云っていた位だから多分僕もそうと信じ切っている。当時の新聞に、僕が大阪で路傍演説をしたとか拘引されたとか、ちょいちょい書いてあったそうだが、それは皆んなまるで根も葉もない新聞屋さん達のいたづらだ。

其他、斯う云う種類のお上の御深切から出た「検束」ならちょっとは数え切れない程あるが、それは何にも僕の悪事でもなければ善事でもない。

とにかく、僕の事と云うと何処ででも何事にでも誤解だらけで困るので、先づこれだけの弁解をうんとして置く。

初陣

「さあ、はいれ。」

ガチャガチャとすばらしい大きな音をさせて、錠をはづして戸を開けた看守の命令通りに、僕は今渡されて来た布団とお膳箱とをかかえて中へはいった。

「その箱は棚の上へあげろ。よし。それから布団は枕をこっちにして二枚折に畳むんだ。よし。あとは又あした教えてやる。直ぐ寝ろ。」

看守は簡単に云い終ると、ガタンガタンガチャガチャと、室ぢゅうと云うよりも寧ろ家ぢゅう震え響くような恐ろしい音をさせて戸を閉めて了った。

「これが当分僕のうちになるんだな。」

と思いながら僕は突っ立ったまま先づあたりを見廻した。三畳敷ばかりの小綺麗な室だ。まだ新しい縁なしの畳が二枚敷かれて、入口と反対の側の窓下になるあと一枚分は板敷になっている。其の右の方の半分のところには、隅っこに水道栓と鉄製の洗面台とがあって、其の下に箒と塵取と雑巾とが掛かっていて、雑巾桶らしいものが置いてある。左の方の半分は板が二枚になっていて、其の真ん中に丁度指をさしこむ位の穴がある。何んだろうと思って、其の板をあげて見ると、一尺程下に人造石が敷いてあって、其の真ん中に小さなとり手のついた長さ一尺程の細長い木の蓋が置いてある。それを取りのけるとプウンとデシンらしい強い臭がする。便所だ。早速中へはいって小便をした。下には空っぽの桶が置いてあるらしくジャジャと音がする。板をもと通りに直して水道栓をひねって手を洗う。窓は背伸びして漸く目のところが届く高さに、幅三尺高さ四尺位についている。ガラス越しに見たそとは星一つない真暗な夜だった。室の四方は二尺位づつの間を置いた三寸角の柱の間に厚板が打ちつけられている。そして高い天井の上からは五燭の電灯が室ぢゅうをあかあかと照らしていた。

「これなら上等だ。コンフォルテブル・エンド・コンヴェニエント・シンプル・ライフ!」

と僕は独りごとを云いながら、室の左側の棚の下に横へてある手拭掛けの棒に手拭をかけて、さっき着かえさせられて来た青い着物の青い紐の帯をしめ直して、床の中にもぐりこもうとした。

「が皆んなは何処にいるんだろう。」

僕は四五日前の市民大会当日に拘引された十人ばかりの同志の事を思った。そして入口の戸の上の方についている「のぞき穴」からそっと廊下を見た。さっきもそう思いながら左右をきょろきょろ見て来た廊下だ。二間ばかり隔てた向う側にあの恐ろしい音を立てる閂様の白く磨き澄まされた大きな鉄の錠を鼻にして、其の上の「のぞき穴」を目にして、そして下の方の五寸四方ばかりの「食器口」の窓を口にした巨人の顔のような戸が、幾つも幾つも並んで見える。其の目からは室の中からの光りが薄暗い廊下にもれて、其の曲りくねった鼻柱はきらきらと白光りしている。しかし、厚い三寸板の戸の内側を広く外側を細く削った此の「のぞき穴」は、そとからうちを見るには便宜だろうが、うちからそとを窺くにはまづかったので、こんどは蹲(しゃ)がんで、そっと「食器口」の戸を爪で開けて見た。例の巨人の顔は前よりも多く、此の建物の端から端までのが皆んな見えた。しかし其の二十幾つかの顔のどの目からも予期していた本当の人間の目は出て来なかった。そして皆んなこっちを睨んでいるように見える巨人の顔が少々薄気味悪くなり出した。

「もう皆んな寝たんだろう。僕も寝よう。皆んなの事は又あしたの事だ。」

僕はそっと又爪で戸を閉めて、急いで寝床の中へもぐりこんだ。綿入一枚、襦袢一枚の寒さに慄えてもいたのだ。

すると、室の右側の壁板に、

「コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。」

と音がする。僕は飛び上がった。そしてやはり同じように、コツコツ、コツコツ、コツコツと握拳で板を叩いた。ロシアの同志が、獄中で、此のノックで話をする事はかねて本を読んでいた。僕はきっと誰れか同志が隣りの室にいて、僕に話しかけるのだと思った。

「あなたは大杉さんでしょう?」

しかし其の声は、聞き覚えのない、子供らしい声だった。

「え、そうです。君は?」

僕も其の声を真似た低い声で問い返した。知らない声の男だ。それだのに今はいって来たばかりの僕の名を知っている。僕はそれが不思議でならなかった。

「私は何んでもないんですがね。ただお隣りから言つかって来たんですよ。皆んなが、あなたの来るのを毎日待っていたんですって。そいで、今新入りがあったもんですから、きっとあなただろうと云うんで、ちょっと聞いてくれって頼まれたんですよ。」

「君のお隣りの人って誰?」

僕は事の益々意外なのに驚いた。

「〇〇さんと云う焼打事件の人なんですがね。其の人と山口さんが向い同士で、毎日お湯や運動で一緒になるもんですから、あなたの事を山口さんに頼まれていたんです。」

「其の山口とはちょっと話しが出来ないかね。」

「え、少し待って下さい。お隣りへ話して見ますから。今丁度看守が休憩で出て行ったところなんですから。」

暫くすると、食器口を開けて見ろと云うので、急いで開けて見ると、向う側の丁度前から三つ目の食器口に眼鏡をかけた山口の顔が半分見える。

「やあ、来たな、堺さんはどうした? 無事か?」

「無事だ。きのうちょっ警視庁へ呼ばれたが、何んでもなかったようだ。」

「それゃ、よかった。ほかには、君のほかに誰れか来たか。」

「いや、僕だけだ。」

と僕は答えて、ひょいと顔を引っこめた山口を「おい、おい」と又呼び出した。

「ほかのものは皆んな何処にいるんだ、西川(光二郎)は?」

「シッ、シッ。」

山口はちょっと顔を出して、斯う警戒しながら、又顔を引っこまして了った。コトンコトンと遠くの方から靴音がした。僕は急いで又寝床の中へもぐりこんだ。靴音はつい枕許まで近く聞えて来たが、又だんだん遠くのもと来た方へ消えて行った。

「コツコツ、コツコツ、コツコツ。」

と又隣りで壁を叩く音がした。そして此の隣りの男を仲介にして、其の隣りの〇〇と云う男と、暫く話しした。西川は他の二三のものと二階に、そして此処にも僕と同じ側にもう一人いる事が分った。

僕はもう面白くて堪らなかった。きのうの夕方拘引されてから、始めての入獄をただ好奇心一っぱいにこんどはどんな処でどんな目に遭うのだろうとそれを楽しみに、警察から警視庁、警視庁から検事局、検事局から監獄と、一歩一歩引かれるままに引かれて来たのが、これで十分に満足させられて、落ちつく先のきまった安易さや、仲間のものと直ぐ目と鼻の間に接近している心強さなどで、一枚の布団に柏餅になって寝る窮屈さや寒さも忘れて、一二度寝返りをしたかと思ううちに直ぐに眠って了った。

野口男三郎君

翌日は雨が降って、そとへ出て運動が出来ないので、朝飯を済ますと直ぐに、三四人づつ廊下で散歩させられた。

僕は例の食器口を開けて、皆んなが廊下の廻りを廻って歩くのを見ていた。山口と一緒のゆうべ隣りの男を仲介にして話した男とも目礼した。そしてもう一人の同志と一緒にいるのが、当時有名な事件だった寧斎殺しの野口男三郎だと云う事は、其の組が散歩に出ると直ぐ隣りの男から知った。男三郎も、其の連れから僕の事を聞いたと見えて、僕と顔を合せると直ぐに目礼した。

男三郎とはこれが縁になって、其後二年余りして彼れが死刑になるまでの間、碌に口もきいた事はないのだが大ぶ親しく交わった。其の間に僕は、出たりはいったりして二三度暫くここに滞在し、其他にも巣鴨の既決監から余罪で幾度か裁判所へ引き出されるたびに一晩は必ずここに泊らされた。そして殊に既決囚になっている不自由な身の時には、随分男三郎の厄介になった。男三郎自身の手から或は雑役と云う看守の小使のようになって働いている囚人の手を経て、幾度か半紙やパンを例の食器口から受取った。僕もそとへ出たたびに何にかの本を差入れてやった。

男三郎は獄中の被告人仲間の間でも頗る不評判だった。典獄はじめいろんな役人共に切りに胡麻をすって、其のお蔭で大ぶ可愛がられて、死刑の執行が延び延びになっているのも其のためだなぞと云う話だった。面会所のそばの、自分の番の来るのを待っている間入れて置かれる、一室二尺四方ばかりの俗にシャモ箱と云う小さな板囲の中には、「極悪男三郎速かに斬るべし」と云うような義憤の文句が、あちこちの壁に爪で書かれていた。

僕なぞと親しくしたのも、一つは、自分を世間に吹聴して貰いたいからであったかも知れない。現にそんな意味の手紙を一二度獄中で貰った。其の連れになっていた同志にもいつもそんな意味の事を云っていたそうだ。

要するに極く気の弱い男なんだ。其の女の寧斎の娘の事や子供の事なぞを話す時には、いつも本当に涙ぐんでいた。子供の写真は片時も離した事がないと云って、一度それを見せた事もあった。又、これは自分が画いた女と子供の絵だと云って、雑誌の口絵にでもありそうな彩色した絵を見せた事もあった。どうしても何にかの口絵をすき写ししたものに違いなかった。しかし絵具はどうして手に入れたろう。余程の苦心をして何にかから搾り取って寄せ集めでもしたものに違いない。が、何んの為めにそれだけの苦心をしたのだろう。しかもそれは、自分の女や子供の絵ではなく、全く似てもつかない他人の顔なのだ。

寧斎殺しの方は証拠不十分で無罪になったとか云って非常に喜んでいた事があった。又、本当か嘘か知らないが、薬屋殺しの方は別に共犯者があって其の男が手を下したのだが、うまく無事に助かっているので、其の男が毎日の食事の差入や弁護士の世話をしてくれているのだとも話していた。そして或時なぞは、何にか其の男の事を非常に怒って、法廷ですっかり打ちあけてやるのだなどといきごんでいた事もあった。

其後赤旗事件で又未決監にはいった時、或日そとの運動場で散歩していると、男三郎が二階の窓から顔を出して、半紙に何にか書いたものを見せている、それには、

「ケンコウヲイノル。」

と片仮名で大きく書いてあった。僕は黙って頷いて見せた。男三郎もいつものようににやにやと寂しそうに微笑みながら、二三度お辞儀をするように頷いて、暫く僕の方を見ていた。

其の翌日か、翌々日か、とうとう男三郎がやられたと云ううわさが獄中にひろがった。

出歯亀君

出歯亀にもやはりここで会った。大して目立つ程の出歯でもなかったようだ。いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑いながら、ちょこちょこ走りに歩いていた。そして皆んなから、

「やい、出歯亀。」

なぞとからかわれながら、やはりにこにこ笑っていた。刑のきまった時にも、

「やい、出歯亀、何年食った?」

と看守に聞かれて、

「へえ、無期で。えへへへ。」

と笑っていた。

強盗殺人君

それから、やはりここで、運動や湯の時に一緒になって親しい獄友になった三人の男がある。

一人は以前にも強盗殺人で死刑の宣告を受けて、終身懲役に減刑されて北海道へやられている間に逃亡して、又強盗殺人で捕まって再び死刑の宣告を受けた四十幾つかの太った大男だった。もう一人は、やはり四十幾つかの上方者らしい優男で、これは紙幣偽造で京都から控訴か上告かして来ているのだった。そして最後のもう一人は、六十幾つかの白髪豊かな品のいい老人で、詐偽取財で僕よりも後にはいって来て、僕等の仲間にはいったのだった。

強盗殺人君はよく北海道から逃亡した時の話をした。一ヶ月ばかり山奥にかくれて、手当り次第に木の芽だの根だのを食っていたのだそうだが、

「何んだって食えないものはないよ、君。」

と入監以来どうしても剃刀を当てさせないで生えるがままに生えさせている粗髯を撫でながら、小さな目をくるくるさせていた。

そして、

「どうせ、いつ首を絞められんだか分らないんだから・・・・。」

と云って、出来るだけ我が儘を云って、少しでもそれが容れられないと荒れ狂うようにして乱暴した。湯も皆なよりは長くはいった。運動も長くやった。お蔭様で僕等の組のものはいろいろと助かった。此の男の前では、どんな鬼看守でも、急に仏様になった。看守が何にか手荒らな事を囚人や被告人に云うかするかすれば、此の男は仁王立ちになって、ほかの看守がなだめに来るまで怒鳴りつづけ暴ばれつづけた。其の代り少しうまくおだてあげられると、猫のようにおとなしくなって、子供のように甘えていた。

或時なぞは、窓のそとを通る女看守が、其の連れて来た女の被告人か拘留囚かがちょっと網笠をあげて男共のいる窓の方を見たとか云って、うしろから突きとばすようにして叱っているのを見つけた彼れは、終日、

「伊藤の鬼婆あ、鬼婆あ、鬼婆あ!」

と声をからして怒鳴りつづけていた。看守の名と云っては、誰れ一人のも覚えていない今、此の伊藤と云う名だけは今でもまだ僕の耳に響き渡って聞える。何んでも、もう大ぶ年をとった、背の高い女だった。其の時には、丁度僕も、雑巾桶を踏台にして女共の通るのを眺めていた。

仲間のものには極く人の好い此の強盗殺人君が、たった一度、紙幣偽造君を怒鳴りつけた事がある。偽造君は長い間満州地方で淫売屋をしていたのだそうだ。そして其の度々変えた女房と云うのは皆んな内地で身受けした芸者だったそうだ。偽造君はそれらの細君にもやはり商売をさせていたのだ。

「貴様はひどい奴だな。自分の女房に淫売をさせるなんて。此の馬鹿ッ。」

と殺人君は運動場の真ん中で、恐ろしい勢で偽造君に食ってかかった。それを漸くの事で僕と詐欺老人とで和めすかした。

「俺は強盗もした。火つけもした。人殺しもした。しかし自分の女房に淫売をさせるなぞと云う悪い事はした事がない。君はそれでちっとも悪いとは思わんのか。気持が悪い事はないのか。」

漸く静まった彼れは、こんどはいつものように「君」と呼びかけて、偽造君におとなしく詰問した。

「いや、実際僕はちっとも悪い気もせず、又悪いとも思っちゃいない。まるで当り前のようにして今までそうやって来たんだ。それに僕の女房はいつでも一番沢山儲けさしてくれたんだ。」

偽造君はまだ蒼い顔をして、おづおつしながら、しかし正直に白状した。品はいいがしかし何処か助平らしい、いつも十六七の女を妾にしていると云う詐欺老人は「アハハハ」と大きな口を開いて嬉しそうに笑った。殺人君は呆れた奴等だなと云うような憤然とした顔はしながら、それでも矢張りしまいには詐欺老人と一緒になってにこにこ笑っていた。

偽造君と詐欺老人は仲善く一緒に歩いていた。二人は「花」の賭け金の額を自慢し合ったり、自分の犯罪のうまく行った時の儲け話などをしていた。偽造君は前にロシア紙幣の偽造をして、随分大儲けをした事があるんだそうだ。詐欺老人のは大抵印紙の消印を消して売るのらしかった。そして老人は「こんど出たら君がやったような写真で偽造をして見ようか。」

と云いながら、切りに偽造君に、写真でやる詳しい方法の説明を聞いていた。

僕は折々差入の卵やパンを殺人君に分けてやって、其の無邪気な気焔を聞くのを楽しみにしていた。

殺人君は宣告後三年か四年か無事でいて、多分証拠が十分でなかったのだろうと思うが、其後又死一等を減ぜられて北海道へやられたそうだ。

巣鴨の巻

ちょいと眼鏡の旦那

巣鴨行きと云えば、世間では、電車は別として多少気の触れた人間の事を指すが、僕等の間では監獄行きの事になる、だが此の僕等と云う奴等は世間から随分気違い扱いされてもいるのだから、どっちにしても要するに同じ事になるのだろうが。

此の巣鴨へは都合三度行った。と云っても実は二度で、最初は新聞紙条例違犯で食っているうちに、二度目の新聞紙条例違犯がきまって、前のが満期になると直ぐ引続いてあとのを勤めた。次ぎが治安警察法違犯。

多分鍛冶橋のだろうと思うが、古い謂わゆる牢屋が打ち壊されて、石と煉瓦との新しい監獄がここに出来た時、其の古い牢屋の古木で古い牢屋其儘の建物が一つここの一隅に建てられた、と云う話しだ。そして此の建物はめくらだとかびっこだとか、足腰のろくに利かない老人だとかの、片輪者や半病人をいれる半病監みたようなものになっていた。僕は二度とも此の建物の中の広い一室をあてがわれた。

始め東京監獄からここに移されて、冷たい暗い一室の中にほうり込まれた時には、実は少々心細かった。春ももう夏近い暖かい太陽のぽかぽかと照る正午近い頃だった。それだのに、室へはいると急に冷たい空気にからだぢゅうをぞっと打たれる。四方の真白に塗った煉瓦の壁や、入口の大きな鉄板の扉は、見るからにひいやりとさせる。試みにそれに手をあてて見ると、そこからぞくぞくと冷たさが身にしみて来る。それに、窓が伸びあがってもとどかない上の方に小さく開いているので、薄暗くて陰気だ。座席として板の間に敷いてある一枚のうすべりまでが、べとべとと湿っているような気がする。

命ぜられたまま、扉に近く扉の方に向いて此のうすべりの上に座っていたが、其の扉は上下が鉄板で其の間が鉄の格子になっていて、しかも僕の室の直ぐ真ん前に看守がテエブルを控えて突っ立っているので、絶えず監視されているという不愉快が、其の看守の大して意地悪るそうでもない平凡な顔をまでも妙に不愉快にさせる。「石の家は人の心を冷たくする」と云うロシアの諺が思い出されて、ちょいちょい窃み見するようにして僕の方を見る其の看守を、此の男はきっと冷たい心を持っているに違いないなぞと思わせる。

やがて、暫く廊下でガタガタ騒がしい音がすると思っていると、看守が扉を開けて「出ろ」と云うので出て見ると、二十人ばかりの囚人が向い合って二列にコンクリートの上のうすべりに座って、両手を膝に置いて膳に向っている。僕も其の端に座った。

「礼!」

始めての僕にはちょっと何んの意味だか分らない、大きな声の号令がかかった。皆んなは膝に手を置いたままの形で首を下げた。僕はぼんやりして皆んなのする事を見ていた。

「喫飯!」

又何んの事だか分らない。ただぱあんと云うのだけがはっきりと響く、大きな声の号令がかかった。皆んなは急いで茶碗と箸とを手に持った。そしてめいめい別な大きな茶碗の中に円錐形の大きな塊に盛りあげられている飯を、大急ぎに、餓鬼道の亡者と云うのはこんなものだろうと思われるように、掻きこみ始めた。どんぶりから茶碗へ飯を移す、それを口に掻きこむ、呑みこむ、又掻きこむ、呑みこむ。其の早さは本当に文字通りの瞬く間だ。僕は呆気にとられて見ていた。

「何千何百何十番!」

看守が又大きな声で怒鳴った。僕はびっくりして其の方を向いた。

「何にをぼんやりしてるんだ。早く飯を食わんか。」

看守はぼくに怒鳴っているんだ。僕は自分の襟をうつむいて見て、其の何千何百何十番と云うのが自分のきょうからの名前だと云う事に始めて気がついた。そして急いで茶碗をとりあげた。が、僕が其の円錐形の塊の五分の一位を漸くもぐもぐと飲みこんだ頃には、もう皆んなは最初のように其の膝に手を置いてかしこまっていた。

其後も終始見た事ではあるが、囚人等の飯を食うのの早いのは実に驚く程だ。まるで歯なぞと云うものは入用のないように、ただ掻きこんでは呑みこむ。

「どうも仕方がないんです。いくらからだに毒だからと云っても、どうしてもああなんです。しかし其の云い分を聞くと、随分無茶な事ではあるが、多少の同情はされるのです。よく噛んでいた日にゃ、直ぐに消化(こな)れて腹が空って仕方がないと云うんですな。」

坊さんは坊さんらしく、或時教誨師と其の話をしたら、眉を顰めながらにこにこしていた。

僕は此の上もぐもぐやるのも、きちんと正座して待っている皆んなに相済まず、自分でも少々きまりは悪し、それにもみ沢山の南京米四分麦六分と云う謂わゆる四分六飯に大ぶ閉口もしていたのだから、其のまま箸をおいた。

皆んなはめいめいの室に帰された。いい加減心細くなっていた僕は、此の喫飯で、又例の好奇心満足主義に帰った。そして僕等の仲間たちで其の数年前に始めてここへはいった堺の話のように、はいって直ぐ身体検査をされる時、裸体のまま四ん這いになって尻の穴をのぞかれたり、歩くのに両手を腰にしっかりとつけて決して振っちゃいけないと云うような事が、今ではもう廃止されているのが却って物足りなく思えた。

其の翌朝、僕は先きに云った半病人や片輪者の連中の中へ移された。今までいたところは、新入りや、翌日放免になるものや、又は懲罰的に独房監禁されたものなどの一時的にいる、特別の建物であったのだ。

石川三四郎と山口とは既に、矢張り新聞紙条例違犯で、其の一室を占領していた。山口、石川、僕と云う順で、僕は其の隣りの室へ入れられた。十畳か十二畳も敷けようと思われる広い室だ。前後が例の牢屋風の格子になっていて、後の格子には大きな障子がはまっていて、その障子を開けるとそとには直ぐそばに大きな桐の木が枝を広げていた。前の格子は、三尺ばかりの土間を隔てて、矢張り障子と相対していた。此の障子の向うにも矢張り桐の木が見えた。室の左右は板戸を隔てて他と同じような室と続いていた。土間には看守がぶらぶらしている。

「はあ、此の格子だな、例のは。」

と僕は、土間に近い一隅にうすべりを一枚敷いて、其の格子の眼の前に座った時、堺の話を思い出した。堺が前にはいった時にも矢張りここに入れられたのだ。そして堺は教科書事件の先生や役人と一緒に同居した。小人で閑居していればそんな不善はしないのだろうが、大勢でいると飛んだ不善な考えを起すものと見える。皆んなは此の格子を女郎屋の格子に見立て、又髯っ面の自分等を髯女郎(インテレクチュアル・プロスティテュト)の洒落でもあるまいがとにかく女郎に見立て、そして怪しからん事には看守をひやかし客に見立てて「もしもし眼鏡の旦那、ちょいとお寄りなさいな」と云うような悪ふざけをして遊んだそうな。

僕も此髯女郎になってからはすっかり気が軽くなった。室は明るい。そとは可なり自由に眺められる。障子は妙にアト・ホオムな感じを抱かせる。直ぐ隣りには仲間がいる。看守も相手が片輪者や老人の事だから特に仏様を選んであるらしい。

旧友に会う

其の室へ移されてから一時間ばかりしてからの事だ。ふいと、僕の室の前に突っ立って、切(しき)りと僕の顔を見つめている囚人がある。僕も見覚えのある顔だとは思いながら、ちょっと思い出せずに其の顔を見ていた。

「やあ!」

と漸く僕は思い出して声をかけた。

「うん、やっぱり君か。さっきから幾度も幾度も通るたんびに、どうも似た顔だと思って声をかけようと思ったんだが。一体どうして 斯んなところへ来たんだ。」

其の男は悲痛な顔をして不思議そうに尋ねた。しかし僕としては、僕自身がこんなところへ来るのは少しも不思議な事ではなく、却ってこんなところで其の男と会う方が余程不思議であったのだ。

「僕のは新聞の事なんだが、君こそどうして来たんだ。」

「いや、実に面目次第もない。君はいよいよ本物になったのだろうけど。」

其の男は自分の罪名を聞かれると、急に真赤になって、斯う云いながら、

「失敬、又会おう。」

と逃げるようにして行ってしまった。

彼れと僕とは嘗て同じような理由で陸軍の幼年校を退学させられた仲間だった。彼れは仙台の幼年校、僕は名古屋の幼年校ではあったがもう半年ばかりで卒業と云う時になって、殆ど同時に退校を命ぜられた。そして二人とも直ぐ東京に出て来て偶然出遇った。彼れには猶一緒に仙台を逐い出された二人の仲間があった。其の一人は小学校以来の僕の幼な友達だった。斯くして四人の幼年校落武者が落ち合った。そしてそこへ又、大阪や東京の落武者が寄り集まって、八九人の仲間が出来た。皆んなは退校処分という恥辱を雪ぐ為めに、互に助け合ってうんと勉強する誓いを立てた。皆んなは直ぐにあちこちの中学校の五年へはいった。が、彼れともう一人の仲間とが中途で誓いを破って遊びを始めた。皆んなは憤慨して数回忠告した。そして遂に絶交を宣告した。翌年他の仲間の皆んなはそれぞれ専門学校の入学試験に通過した。しかし其の二人だけは何処でどうしているのか分らなかった。皆んなは絶交を悔いていた。

丁度それから四五年目にになるのだ。僕の入獄は彼れから見れば「いよいよ本物になったのだ」ろうが、彼れ自身の入獄は当時の絶交と思い合わして「実に面目次第も」なかった事に違いない。しかし僕としては、僕等が彼れに申渡した其の絶交が、今になって猶更に悔いられるのであった。

彼れは早稲田辺で或る不良少年団の団長みたような事をしていたのだそうだ。そして其の団員の強盗と云う程でもないほんの悪戯から、彼れは強盗教唆と云う恐しい罪名が負わせられたのだそうだ。そして嘗て仙台陸軍地方幼年学校の一秀才であった彼れは、今此の巣鴨監獄で、他の囚人に食事を運んだり仕事の材料を運んだりする雑役を勤めているのであった。

彼れは僕が二度目に来て満期近くなるまで、此の建物の中に雑役をしていた。何処でどうして手に入れて来るのか知らないが、或時なぞは、殆ど毎日のように氷砂糖の塊を持って来てくれた。そして毎月一度面会に来る女房を何処でどうして知って来るのか、「君、奥さんが来てるよ、もう直ぐ看守が呼びに来るだろうから用意して待っていたまえ」なぞと知らしてくれたりした。

或日急に彼れの姿が見えなくなった。其の日の夜或る看守の手を経て「あす仮出獄で出る、君が出れば直ぐ会いに行く」と言った紙きれを受取ったが、それっきり彼れとはまだ一度も会わない。

二十五年目の出獄

此の男と一緒に矢張り雑役をしていた、もう六十を越した一老人があった。矢張り僕が二度目の満期になる少し前に放免になったのだが、何んでも二十五年目とか六年目とかで日の目を見るのだと云っていた。

「電車なんてものはどんなものだか、いくら話に聞いても考えても分りませんや。何しろ電灯だって初めてここで知ったんですからな。」

或時彼れは夢見るような目つきで電灯を見あげながら云った。

看守がそばにいて、一緒になって話しする時には、彼れはよくいろんな事を話した。しかしそうでない時には、雑役としての用以外には、殆ど一言もきかない。自分の監房にいる時でも矢張りそうだ。皆んなが看守のすきを窺っていろんな悪戯やお饒舌をする時にも、彼れだけは一人黙ってふり仮名つきの何にかの本を読んでいた。話しかけられても返事をしない。雑役としての用をする時にも、余程意地の悪い看守よりも、もっと一刻者だった。

「おい君、こんなきたない着物ぢゃしょうがないぢゃないか。もっと新しいのを持って来てくれたまえ。」

僕は一度此の老人に其の持って来た着物の不足を云った。

「贅沢云うな。」

老人は斯う云い棄てて隣りの室の方へ行った。

「おい、君、君!」

と僕は少し大きな声で呼び帰そうとした。看守はそれを聞きつけてやって来た。そして一応僕の苦情を聞いて、

「新しいのを一枚持って来てやれ。」

と老人に云いつけた。老人はぶつくさ云いながら又取りに行った。

これは此の老人の一刻者らしいいい例ではないが、とにかく総てが此の調子だった。他の囚人の苦情なぞは一切取りいれない。毎日半枚づつ配ってくれる落紙ですら、腹工合が悪いからもう一枚くれと云っても、決して余計にくれた事はない。時には、いいから何んとかしてやれなどと云う看守に、獄則を楯にして食ってかかる事すらあったが、此の獄則を守る点では、先きにも云ったようにまるで裏表のない、獄則其者の権化と云ってもいい位だった。数年前の規則其儘に、歩く時には手を少しも振らないように、五本の指をぴんとのばして腰にしっかりと押しつけていた。賞標の白い四角な片も三つ程腕につけていた。

最初殺人で死刑の宣告を受けたのを、終身に減刑され、其後又何にかの機会に減刑又減刑されて、遂に放免になったのだそうだ。一刻者は最初からの、しかし正直者と云う程の意味で一刻者であったらしいが、入獄以来其の一刻から出た犯罪を後悔すると共に、其の一刻をただ獄則厳守の事にのみ集中させて、益々妙な一刻者になったものらしい。

びっこの少年

隣りの室には十人ばかり片輪者が同居していた。其の中に七十幾つかの老人と、森の中にでもいればどうしてもチンパンジイとしか思えないような顔つきの若い大男と、尻が妙に出っぱってびっこをひいて歩く少年とがいた。チンパンジイは盲と云う程でもないが両眼ともよく見えなかったらしい。高い眉の下にひどく窪んだ細い眼をいつもしょぼしょぼさせていた。此の男は僕がいる間に一度ちょっと出て又直ぐはいって来た。皆んなほんのこそこそ盗棒らしかった。

此の少年はひょうきん者で、一日皆んなを笑わせては騒いでいた。誰かがブッと屁を放る。すると此の少年は、「うん、うん、よしよし」なぞと、赤ん坊でもなだめすかすような事を云う。一日に幾度とちょっとは数え切れない程皆んなはよく屁をひった。そして其のたんびに此の少年はこんな事を云っては皆んなを笑わしていた。隣りで聞いている僕も時々吹き出した。

仕事がいやになると皆んなはよく便所へはいって一と休みした。

「いつまで便所にはいってるんだ。」

時々は看守も二三度廻って来てまた同じ人間が便所にしゃがんでいるので小言を云う。すると少年は「どうも難産で」と云いながら「うん、うん」と唸って見せる。皆んなはどっと笑う。看守も仕方なしに「いい加減にして出ろ」と云い棄てて行ってしまう。

此の隣りの笑い声で、どれ程僕は、長い日の無聊を慰められたか知れない。

獄中からの手紙

僕の生活は、毎朝起きると先づ此の広い室のふき掃除をして、あとは一日机に向って読み書き考えてさえいればいいのだった。

本は字書の外五六冊づつ手許に置く事が出来た。そしてそれを毎週一回新しいのと代えて貰う事が出来た。ペンとインキとノオトとは特別に差入を許された。

其の頃の生活を当時の気持其儘に見る為めに、獄中から出した手紙の二三を次ぎに採録して見る。いづれも最初の時のものだ。

「暑くなったね。それでも僕等のいる十一監と云う所は獄中で一番冷しい所なのだそうだ。煉瓦の壁、鉄板の扉、三尺の窓の他の監房とは違って、丁度室の東西がすべて三寸角の柱の格子になっていて、其の上両面とも直接に外界に接しているのだから、風さえあれば兎も角も冷しいわけだ。それに十二畳ばかりの広い室を独占して、八畳づりの蚊帳の中に起きて見つ寝て見つなどと古く洒落ているのだもの。平民の子としては寧ろ贅沢な住居だ。着物も殊に新しいのを二枚もらって、其の一枚を寝巻にしている。時に洗濯もしてもらう。

「老子の最後から二章目の章の終りに、甘其食、美其衣、安其所、楽其俗、隣国相望む、鶏犬声相聞、民至老死不相往来と云う。其の消極的無政府の社会が描かれてある。最初の一字の甘しとしだけが些か覚束ないように思うけれど、先づ僕等の今の生活と云えば、正にこんなものだろうか。妙なもので、此頃は監獄にいるのだと云う意識が、或る特別の場合の外は殆んど無くなったように思う。」(堺宛)

此の蚊帳で思い出すが、或る夜、暑苦しくて眠れないので、土間をぶらぶらしている看守に話しかけた。

「少し位暑くたって君等はいいよ。僕はさっきから蚊帳の中に寝ている君等を見ながらつくづく思ったんだ。斯うして格子を間にして君等の方を見ていると、実際どっちが本当の囚人だか分らなくなって来るよ。」

看守は笑いながらではあるが、しみじみとこぼして云った。

それから暫くして幸徳に宛てた手紙を出した。

「暑かった夏も過ぎた。朝夕は冷しすぎる程になった。そして僕は『少し肥えたようだね』などと看守君にからかわれている。

「此頃読書をするのに甚だ面白い事がある。本を読む。バクニン、クロポトキン、ルクリュス、マラテスタ、其他どのアナアキストでも、先づ巻頭には天文を述べてある。次ぎに動植物を説いてある。そして最後に人生社会を論じている。やがて読書にあきる。顔を上げてそとを眺める。先づ目に入るものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、更に下っては向うの監舎の屋根。丁度今読んだばかりの事を其儘実地に復習するようなものだ。そして僕は、僕の自然に対する智識の甚だ浅いのに、いつもいつも恥ぢ入る。これからは大いに此の自然を研究して見ようと思う。

「読めば読む程、考えれば考える程どうしても此の自然は論理だ。論理は自然の中に完全に実現されている。そして此の論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じく又完全に実現せられねばならぬ。

「僕は又、此の自然に対する研究心と共に、人類学や人間史に強く僕の心を引かれて来た。こんな風に、一方にはそれからそれへと泉のように学究心が湧いて来ると同時に、(中略)

「兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したら直ぐ多年宿望のクロの自伝をやりたいと思っている。今其の熟読中だ。」

それからもう出獄近くなって山川に宛てた手紙を出した。其の中に法廷に出ると云うは、あとの方の新聞紙条例違犯の公判の時の事だ。

「きのう東京監獄から帰って来た。先づ監房にはいって机の前に座る。本当にうちへ帰ったような気がする。

「僕は法廷に出るのが大嫌いだ。殊に裁判官と問答するのはいやでいやで堪らぬ。いっその事、露西亜のように裁判しないで直ぐ西伯利(シベリア)へ逐いやると云うようなのが、却って赤裸々で面白いようにも思う。貴婦人よりは淫売婦の方がいい。

「裁判が済めば先づ東京監獄へ送られる。門をはいるや否や、いつも僕は南京虫の事を思って戦慄する。一夜のうちに少なくとも二三十ヶ所は噛まれるのだもの。痛くてかゆくて、寸時も眠れるものぢゃない。僕が二三日して巣鴨に帰ると、獄友諸君から切りに痩せた痩せたと云うお見舞を受ける。

「ただ東京監獄で面白かったのは鳩だ。丁度飯頃になると、窓のそとでばたばた羽だたきをさせながら、妙な声をして呼び立てる。試みに飯を一かたまり投(ほう)ってやる。十数羽の鳩があわただしく下りて来て、瞬く間に平らげて了う。又投ってやる。面白いもんだから幾度も幾度も続けざまに投ってやる。飯を皆な投って了って汁ばかりで朝飯を済ました事もある。あとで腹がへって困ったが、あんな面白い事はなかった。

「巣鴨に帰る。『大変早かったね。裁判はどうだった』などと看守君はいろいろ心配して尋ねてくれる。何んだか気も落ちつく。本当にうちへ帰ったような気がする。

「しかし此のうちにいるのも、もう僅かの間となった。久しいイナクティブな生活にもあきた。早く出たい。そして大いに活動したい。此の活動に就いては大ぶ考えた事もある。決心した事もある。出たらゆっくり諸君と語ろう。同志諸君によろしく。」

鬼界ヶ島の俊寛

出て一ヶ月ばかりして、こんどは堺や山川や其他三人の仲間と一緒に、例の屋上演説事件で又入れられた。既決になると、其他三人と云うのが東京監獄に残されて、堺と山川と僕とが巣鴨へ送られた。

「やあ、又来たな。」

と看守や獄友諸君は歓迎してくれる。

「又やられたよ。しかしこんどは、まだ碌に監獄の気の抜けないうちに来たのだから、万事に馴れていて好都合だ。」

僕は当時吾々の機関であった日本平民新聞の編輯者で、其後幸徳等と一緒に死刑になった森近運平に宛ててこんな冒頭の手紙を書いて送った。

山口は何にかの病気で病監にはいっていた。山川はたしかほかの建物へやられたように思う。石川、僕、堺と云う順で、相ならんでいた。

堺はもう格子につかまって「ちょいとお髯の旦那」をやる当年の勇気も無くなっていたが、石川と僕とは盛んに隣り合っていたづらをした。運動の時にそとで釘を拾って来て、二人の室の間の壁に穴をあけた。本やノオトに飽きると其の穴から呼び出しをかける。石川が話している間は僕は耳をあてている。僕が話しをする間は石川が耳をあてる。ところがこれがなかなかうまく行かない。時々二人で口をあて合ったり耳をあて合ったりする事がある。どうしたのかと思って、耳をはづしてのぞいて見ると、向うでも耳をあてて待っている。ちょっと議論めいた事になると、お互いに「こんどは俺がしゃべるんだからお前は聞け」と云い合って、小さな穴を通して唾を飛ばし合う。時とすると、「暫くそこで見ておれ」と云って、室の真ん中へ行って踊って見せたりする。

こんな事をしてふざけながらも、石川は二千枚近い西洋社会運動史を書いていた。これは後に出版されて発売禁止になった。堺と僕とは当時堺の編輯で平民科学という題で出していた叢書を翻訳していた。山川も矢張りそれをやっていた。

そして丁度此の翻訳が一冊づつ出来あがった頃に堺と山川と僕とは満期になった。「可哀相だが丁度鬼界ヶ島の俊寛と云う格だな。しかしもう少しだ。辛抱しろ。」

堺と僕とは石川に斯う云いながら、

「おい、俊寛、左様なら。」

とからかって其の建物を出た。

千葉の巻

うんと鰯が食えるぜ

が、又半年も経つか経たぬ間に、こんどは例の赤旗事件で官吏抗拒治安警察法違犯と云う念入りの罪名で、其の事件の現場から東京監獄へ送られた。同勢十二名、内女四名。堺、山川、荒畑なぞも此の中にいた。女では、巡査の証言のまづかった為めにうまく無罪にはなったが、後幸徳と一緒に雑誌を創めて新聞紙法違犯に問われ、更に又幸徳と一緒に死刑になった、彼の菅野須賀子もいた。

と同時に、二年前に保釈出獄した電車事件の連中も、一審で無罪になったのを検事控訴の二審で又無罪になり、更に検事の上告で大審院から仙台控訴院に再審を命ぜられ、そこで初めて有罪になったのをこんどはこちらから上告して大審院で審議中であったのだが、急に保釈を取消されて矢張り東京監獄に入監された。此の連中が西川、山口などの七八名。僕は此の両方の事件に跨がっていた。

東京監獄は仲間で大にぎやかになった。しかし、やがて女を除く皆んなが有罪にきまった時、東京監獄ではこれだけの人数を一人一人独房に置くだけの余裕も設備もなかった。僕等は一種の悪伝染病患者のようなもので、他の囚人と一緒に同居させる事も出来ず、又仲間同士を一緒に置く事は更に其の病毒を猛烈にする恐れがある。そこで皆んなは、最新式の建築と設備とを以て模範監獄の称のある、日本では唯一の独房制度の千葉監獄に移されることになった。

千葉は東京に較べて冬は温度が五度高いと云うのに、監獄は其の千葉の町よりももう五度高いと云う程の、そして夏もそれに相応して冷しい、千葉北方郊外の高燥な好位置に建てられていた。

「あれが皆んなの行くとこなんだ。」

汽車が千葉近くなった時、輸送指揮官の看守長が、丁度甥共を初めて自分のうちへ連れて行く伯父さんのような調子で、(実際此の看守長は最後まで僕等にはいい伯父さんだった)いろいろ其の自分のうちの自慢をしながら、左側の窓からそとを指さして云った。皆んなは頸をのばして見た。遥か向うに、小春日和の秋の陽を受けて赤煉瓦の高い塀をまわりに燦然として輝く輪奐の美が見えた。何にも彼もあの着物と同じ柿色に塗りたてた建物の色彩は、雨の日や曇った日には妙に陰鬱な感じを起させるが、陽を受けると鮮やかな軽快な心持を抱かせる。

「鰯がうんと食えるそうだぜ。」

僕は直ぐそばにいた荒畑に、きのう雑役の囚人から聞いた其儘を受け売りした。幾回かの入獄に、僕等はまだ、塩鱈と塩鮭との外の何等の魚類をも口にした事がなかったのだ。で、此の話を聞いた僕には、それが唯一の楽しい期待になっていたのだ。

「それゃいいな。早く行って食いたいな。」

荒畑も、そばにいた他の二三人も、嬉しそうに微笑んだ。

下駄の緒の心造り

着いて見ると、成程建物は新築したばかりでてかてか光っている。室は四畳半敷き位の、南向きの、明るい小綺麗な室だ。何によりも先づ窓が低くて大きい。東京のちょっとした病院の室よりも余程気持がいい。

が、第一に先づ役人の利口でないのに驚かされた。着くと直ぐ、皆んな一列にならべさせられて、受持の看守部長の訓示を受けた。

「こんどは皆んな刑期が長いのだから、よく獄則を守って、二年のものは一年、一年のものは半年で出られるように、自分で心掛けるんだ。」

と云うような意味の事を繰返し繰返し聞かされた。僕等はあざ笑った。こんなだましが僕等にきくと思っているんだ。又、よし本当に好意でそう云ってくれたものとしても、僕等に仮出獄なぞと云う謂わゆる恩典があるものと思うのも余りに間が抜けている。まるで僕等を知らないんだ。それだけならまだいい。此の訓示が済んで、一行八人(電車事件の方は一足先きに来た)が別々に隣り合った室へ入れられた時、こんどは受持の看守が、

「つまらん事で大ぶ食ったもんだな。一度はいると大ぶ貰えると云う話しだが、こんどは皆んな幾らづつ貰ったんだ。」

と云う情ないお言葉だ。政党か何にかの壮士扱いだ。さすがの堺を初め皆んなは顔見合わせて苦笑するの外はなかった。ただ、ふだんは神経質に爪ばかり噛っているように見えたのが、入獄以来其の快活な半面を切りに発揮し出した荒畑が、「アハハア」と大きな声を出して笑った。看守はけげんな顔をしていた。

上典獄を始め下看守に至るまでが殆ど総て此の調子なのだからやり切れない。

それに、第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と胡麻塩、と来たのだから益々堪らない。

加うるにこんどは今迄の禁錮と違って、懲役と云うのだから、一定の仕事を課せられる。しかも其の仕事が、東京監獄では極く楽で綺麗な経木あみであったのが、南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の心をなうのであった。手があれる。だけなら未だしも下手をやると赤むけになる。埃が出る。可なり骨が折れる。それを昼の間十時間位やって、其の上に又夜業を二三時間やらされる。始めの一日でうんざりして了った。

三度減食を食う

三日目か四日目の事だ。毎日の此の仕事に疲れ果てて、少しでも仕事の手を休めていると、うとうとと眠って了う。座りながら幾度か眠っては覚め、眠っては覚めしているうちに、とうとう例の胡麻塩の昼飯後の三十分か一時間かの休憩時間に、いつの間にか居眠りのまま横に倒れて了った。

「こら、起きろ!」

と云う声にびっくりして目を覚ますと、僕は自分のそばに畳んである布団の上に半身を横たえて寝ていた。

「横着な奴だ。はいる早々もう真っ昼間から寝たりなんぞしやがって。貴様は監獄の規則なんぞ何んとも思ってないんだな。」

看守は、貴様のような壮士が何んだと腹を見せて、威丈高になって怒鳴りつづけた。

暫くして典獄室へ呼びつけられた。僕はみちみち、甚だ意気地のないことだが馴れない仕事に疲れてつい、と有りのままの弁解をするつもりで行った。ところが典獄室にはいって一礼するかしないうちに、

「貴様は社会主義者だな。それで監獄の規則まで無視しようと云うんだろう。減食三日を仰せつける。以後獄則を犯して見ろ。減食位ぢゃないぞ。」

と恐ろしい勢で怒鳴りつけられた。

「ええ、何んでもどうぞ。」

と僕は、外国語学校の一学友の、海軍中将だとか云う親爺の、有名な気短屋で怒鳴屋だと云うのを思い出しながら、(典獄は此の学友の親爺と云ってもいい位によく似ていた)其のせりふめいた怒鳴り方の可笑しさを噛み殺して答えた。

「何に!」

と典獄は椅子の上に上半身をのばして正面を切ったが、こちらが黙って笑顔をしているので、

「もういいから連れて帰れ。」

と、こんどは僕のうしろに不動の姿勢を取って突っ立っている看守に怒鳴りつけた。僕は幼年学校仕込みの「廻れ右」をわざと角々しくやって、典獄室を出た。これは幼年学校時代の叱られる時のいつもの癖であったが、此の時は皮肉でも何んでもなく、思わず古い癖が出たのだった。

幼年学校時代の癖と云えば、もう一つ、妙な癖を屋張り此の監獄で発見した。

これは其後余程経ってからの事だが、矢張り何にか叱られて、看守長室へ呼ばれた事があった。其の看守長はせいの低い小太りで猫背の濃い口髯の、そしていつも顔中髯だらけにして其中から意地の悪るそうな細い眼を光らしている男だった。僕等は此の男を「熊」と呼んでいた。

はいると、いきなり、

「そこへ座れ。」

と顎で指さした。見ると、足下にはうすべりが二枚に折って敷かれている。僕は黙って知らん顔をしていた。煉瓦造りの西洋館の中で椅子テエブルを置いて、しかも向うは靴をはいて其の椅子に腰掛けながら、こちらには土下座をしろと云うのだ。僕は殆どあきれ返った。

「なぜ座らんか。」

「いやだから座らない。」

「何にがいやだ。」

「立っていたって話しが出来るぢゃないか。」

「理窟は云わんでもいいから座れ。」

「君も座るんなら僕も座ろう。」

と云うような押問答の末に、さっきから其の濃い眉をびくびくさせていた看守長は、決然として起ちあがった。

「命令だ! 座れ!」

僕は此の命令と云う声が僕の耳をつんざいた時に、其の瞬間に、僕のからだ全体が「ハッ」と恐れ入る何者かに打たれた事を感じた。そしてそれを感じると同時に、其の瞬間の僕自身に対する反抗心がむらむらと起って来た。

「命令が何んだ。座らせるなら座らせて見ろ。」

さっきまでの冷笑的の態度が急に挑戦の態度に変った。そして此の時も矢張り、前の典獄室に於けると同じように、其儘自分の室へ帰された。叱られる筈の事には一言も及ばないうちに。

此の命令だと云う一言に縮みあがるのは、数千年の奴隷生活に馴れた遺伝のせいもあろうが、僕には矢張り大部分は幼年学校時代の精神的遺物であろうと思われる。 僕は元来極く弱い人間だ。若し強そうに見える事があれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられる程自分の見え坊を傷つけられる事はない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分にも見せたい。強がりたい。時とすると此の見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする。

こんど犯則があれば減食位では済まんぞと云う筈のが、其後三日間と五日間との二度減食処分を受けた。一度は荒畑と運動場で話ししたのを見つかって二人ともやられた。もう一度のは何にをしたのだったか今ちょっと思い出せない。

荒畑も僕と同じようによく叱られていたが、或晩あまり月がいいので窓下へ行って眺めていると、

「そんなところで何をぼんやりしている。・・・何に、月を見てるのだ? 月なんぞ見て何んになる? 馬鹿!」

とやられたと云って、あとで其の話をして大笑いした事があった。

もう半年はいっていたい

要するに僕等は監獄にはいってこれ程の扱いを受けるのは始めてだった。しかし僕等は、先方の扱い如何に拘わらず、一年なり二年なりの長い刑期を何んとかして僕等自身に最も有益に送らなければならない。

僕は其の方法に就いて二週間ばかり頭を悩ました。方法と云っても読書と思索の外にはない。要はただ其の読書と思索の方向をきめる事だ。

元来僕は一犯一語と云う原則を立てていた。それは一犯毎に一外国語をやると云う意味だ。最初の未決監の時にはエスペラントをやった。次ぎの巣鴨ではイタリー語をやった。二度目の巣鴨ではドイツ語をちっと噛った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。で、刑期も長い事だから、これがいい加減ものになったら、次ぎにはロシア語をやってみよう。そして出るまでにはスペイン語もちょっと噛って見たい。と先づきめた。今までの経験によると、ほぼ三ヶ月目に初歩を終えて、六ヶ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年づつとしてもこれだけはやられよう。午前中は語学の時間ときめる。

斯う云うと、僕は大ぶえらい博言学者のように聞えるが、実際又此の予定通りにやり果して大威張りで出て来たのだが、其後すっかり怠け且つ此の監獄学校へも行かなくなったので、今ではまるで何にも彼も片なしになって了った。

それから、以前から社会学を自分の専門にしたい希望があったので、それを此の二ヶ年半に稍々本物にしたいときめた。が、それも今迄の社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みでやりたい。それには、先づ社会を組織する人間の根本的性質を知る為めに、人類学殊に比較人類学に進みたい。そして後に、此の二つの科学の上に築かれた社会学に到達して見たい。と今考えると誠にお恥かしい次第だが、ほんの素人考えに考えた。それには、あの本も読みたい、この本も読みたい、と数え立ててそれを読みあげる日数を算えて見ると、どうしても二ヶ年半では足りない。少くとももう半年は欲しい。

斯うなると、今まで随分長いと思っていた二ヶ年半が急に物足りなくなって、どうかしてもう半年増やして貰えないものかなあ、なぞと本気で考えるようになる。

仕事はある。しかしそれは馴れさえすれば何んとでもなる。一日幾百足と云う規定ではあるが、其の半分か、四分の一か、或はもっと少なくってもいい。何んと云われてもこれ以上は出来ませんと頑張ればいい。皆んなで相談して窃かに或る程度にきめれば更に妙だ。現に此の相談は殆ど最初から、自然に出来あがっている。とにかく、出来るだけ仕事の時間を盗んで、勉強する事だ。

斯うきめて以来は滅茶苦茶に本を読んだ。仕事の方は馴れるに従って益々早くやれるようになる。それに、下等の南京麻ではない上等の日本麻をやらしてくれる。愈々益々仕事はし易い。しかし仕事の分量は最初から少しも増やさない。ただもう看守のすきを窺っては本を読む。

斯くして僕は、嘗て貪るようにして掻き集めた主義の知識を殆ど全く投げ棄てて、自分の頭の最初からの改造を企てた。

鱈腹食う夢を見て下痢をする

一方に学究心が盛んになると共に、僕は僕の食慾の昂進、と云うよりも寧ろ食っ気のあまりにもさもしい意地ぎたなさに驚かされた。

最初の東京監獄の時は弁当の差入れがあるのだから別としても、其の次ぎの巣鴨の時にも、二度目の巣鴨の時にも、刑期の短かかったせいかそれ程でもなかったが、こんどは自分ながら呆れる程にそれがひどくなった。好き嫌いの随分はげしかったのが、何んでも口に入れるようになったのは結構だとしても、以前には必ず半分か三分の一か残った、あのまづかった四分六の飯を本当に文字通り一粒も残さずに平げて了う。おはちの隅にくっついているのも、おしゃもにくっついているのも、落ちこぼれたのでさえも、一々丁寧にほじくり取り、撫で取り、拾い取る。ちゃんと型に入れて、一食何合何勺ときまっている飯の塊りを、きょうのは大きいとか小さいとか云って窃に喜び又は呟く。看守が汁をよそってくれるのに、ひしゃくを桶の底にガタガタあてるかどうかを、耳をそばだて眼を円くして注意する。底にあてればはいって来る実が多いのだ。それも茶碗を食器箱の蓋に乗せてよそって貰うのだが、其の蓋の中にこぼれた汁も、蓋を傾けてすすって了う。特に残汁と云って、一と廻り廻った残りを又順番によそって歩くことがある。其の番の来るのがどれ程待ち遠しいか知れない。

小説なぞを読んでいて、何にか御馳走の話が出かかって来れば、急いでペエジをはぐって、其の話を飛ばして了う。とても読むには堪えないのだ。そうかと思うと、本を読んでいる時でも、何んでもない事がふと食物と連想される。

折々何にか食う夢を見る。堺もよく其の夢を見たそうだが、堺のはいつも山海の珍味と云ったような御馳走が現われて、いざ箸をとろうとすると何にかの故障で食えなくなるのだそうだ。堺はひどくそれを残念がっていた。然るに僕のは、しるこ屋の前を通る、いろんな色の餅菓子やあんころ餅などが店先にならべてある、堪らなくなって飛び込む、片っ端から平らげて行く、満腹どころか満のどにまでもつめこんでうんうん苦しがる、と云うような頗る下等な夢だ。そして妙な事には、苦しがって散々もがいたあげく、ふと眼をさますと腹具合が変だ。急いで便所へ行くと一瀉千里の勢で跳ね飛ばす。そうでなくても翌朝起きてからきっと下痢をする。まるで嘘のような話だ。

然らば色慾の力はどうかと云うに、是れ亦頗る妙だ。先きの東京監獄や巣鴨監獄では時々妙な気も起きたが、ここへ来てからまるでそんな事がない。

僕は子供の時には、性慾を絶った仙人とか高僧とか云うものは非常に偉いものと思っていたが、稍々長じてからは、そんな人間があるとすれば老耄の廃人位に考えていた。しかしそれはどちらも誤っていた。僕のような夢にまで鱈腹食って覚めてから下痢をすると云う程の浅ましい凡夫でも、時と場合とによれば、境遇次第で、何んの苦心も修養も煩悶もなく、直ちに聖人君子となれるのだ。或る夜などは、自分が不能者になったのかと思って少々心配し出して、わざといろんな場面を回想若しくは想像して見た。が、遂に其の回想や想像が一つとして生きて来ない。僕は殆んど絶望した。

危く大逆事件に引込まれようとする

一ヶ年の刑期のものはとうに出た。一ヶ年半のものも出た。二ヶ年の堺と山川ももう残り少なくなった。そこへ突然検事が来て、今お前等の仲間の間に或る大事件が起っているが知っているかと云う御尋ねだ。何にか途方もない大きな事件が起きて、幸徳を始め大勢拘引されたと云う事は薄々聞いていた。其の知っただけの事を、又どうしてそれを知ったのか、監獄の取締上一応聞いて置きたいと云うのだ。うろん臭いのでいい加減に答えて置いた。

すると数日経って、不意に、恐ろしく厳重な警戒の下に東京監獄へ送られた。そして検事局へ呼び出されて、こんどは本式に、謂わゆる大逆事件との関係を取調べられた。

「此の事件は四五年前からの計画のものだ。お前等が知らんと云う筈はない。現にお前等も其の計画に加わっていたと云う事は、他の被告等の自白によっても明らかだ。」

とくどくどと嚇されたりすかされたりするのだが、何分何にも知らない事はやはり知らないと答える外はない。

監獄では典獄を始めどの看守でも、切りに、気の毒そうに同情してくる。

「こんな事件にひっかかったんでは、とても助かりっこはない。本当に気の毒だな。」

と明らさまに慰めてくれる看守すらある。皆んなで僕等を大逆事件の共犯者扱いするのだ。

最初はそれを少々可笑しく思っていたが、此の同情が重なるに従ってだんだん不安になり出して来た。監獄の役人がこれ程まで思っているのだから、或は実際検事局で僕等を其の共犯者にして了ってあるのぢゃあるまいか、と疑われ出して来た。まさかと打消しては見るが、どうしても打ち消し得ない或者が看守等の顔色に見える。そうなったところで仕方がない、とあきらめても見るが、そうなったのかならぬのか明らかにならぬうちは、矢張り不安になる。

やがて堺は無事に満期出獄した。それで此の不安は大部分おさまった。しかしまた役人等の僕に体する態度には少しも変りがない。僕自身ももう満期が近づいたのだから、出獄の準備をしなければならぬと思って、二ヶ月に一回づつしか許されない手紙や面会の臨時を願い出ても、典獄や看守長はそんな事をしても無駄だと云わんばかりの事を云って、一向とり合ってくれない。ただ気の毒そうな顔色ばかり見せている。どうかすると僕一人があの中に入れられるのかな、と疑えば疑えない事もない。が、其後少しも検事の調べがないのだから、と又それを打消しても見る。

其の間に僕は大逆事件の被告等の殆んど皆んなを見た。丁度僕の室は湯へ行く出入口のすぐそばで、其の入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前に控えていた。で、すきさえあれば、窓から其の廊下を注意していた。皆んな深いあみ笠をかぶっているのだが、知っているものは風格好でも知れるし、知らないものでも其の警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。

或日幸徳の通るのを見た。「おい、秋水! 秋水!」

と二三度声をかけて見たが、そう大きな声を出す訳にも行かず、(何んと云う馬鹿なな遠慮をしたものだろうと今では後悔している)それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行って了った。

とうとう満期の日が来た。意外なのを喜ぶ看守等に送られて、東京監獄の門を出た。そとでは六七人の仲間が待っていた。皆んなで手を握り合った。

出獄して唖になる

僕は出た一日は盛んに獄中の事なぞのお饒舌をしたが、翌日からはまるで唖のようになった。殆んど口がきけない。二年余りの間殆んど無言の行をしたせいか、出獄して不意に生活の変った刺激のせいか、とにかくもとからの吃が急にひどくなって、吃りとも云えない程ひどい吃りになった。

で、其後まる一ヶ月間位は殆んど筆談で通した。うちにいるんでも、そとへ出掛けるんでも、ノオトと鉛筆を離した事がない。

「耳は聞えるんですか。」

とよく聞かれたが、勿論耳には何んの障りもない。それでも知らない人は、僕がノオトに何にか書いて突き出すので、向うでも同じように其のノオトに返事を書いて寄越したりした。

これは僕ばかりではない。其後不敬事件で一年ばかりはいった仲間の一人も、やはり吃りであったが、出た翌日から殆んど唖になって了った。そして矢張り僕と同じように、一ヶ月ばかりの間筆談で暮らしていた。

牢ばいりは止められない

又少々さもしい話になるが、出る少し前には、出たら何にを食おう、彼を食おうの計画で夢中になる。しかし出て見ると、殆んど何にを食っても極りなくうまい。

先づあの白い飯だ。茶碗を取り上げると、其の白い色が後光のように眼をさす。口に入れる。歯が、丁度羽布団の上へでも横になった時のように、気持よく柔らかいものの中にうまると同時に、強烈な甘い汁が舌のさきへほとばしるように注ぐ。此の白い飯だけで沢山だ、ほかにはもう何んにも要らない。

「あれを思いだしちゃ、とても牢ばいりはやめられないな。」

前科者同士がよく出獄当時の思出話しをしながら、斯う云っては笑う。実際日本飯の本当の味なぞは、前科者ででもなければ到底味えない。