#title 集計するのは誰か? #author パンカデミック #LISTtitle 集計するのは誰か? #date 2021 #source https://note.com/bakuto_morikawa/n/nf204e0d2396b(2023年4月23日検索) #lang ja #pubdate 2023-04-23T16:33:25 #authors punkacademic #topics 新型コロナウイルス, 国家, アナキズム, ピョートル・アレクセーヴィチ・クロポトキン, イギリス, ピエール・ジョゼフ・プルードン #notes 原文:[[https://freedomnews.org.uk/2021/09/01/who-counts/][https://freedomnews.org.uk/2021/09/01/who-counts/]]
原文掲載日:2021年9月1日
著者:パンカデミック
訳者註:
プルードンの引用部分について、仏語を原典とする邦訳書から引用しようとしたのですが、この小論で引用されている英訳と齟齬があったので、ネット上に公開されている[[https://fr.theanarchistlibrary.org/library/pierre-joseph-proudhon-idee-generale-de-la-revolution][仏語原典]]と英訳双方を参照してみました。英訳は、いくつか単語が飛ばされている部分があり、また、原典の「parqué」と「recensé」はどちらも「enrolled」と、「réglementé」と「coté」はどちらも「numbered」と訳されています。本来ならば、邦訳書の文章をそのまま転記すべきだと思うのですが、それだと、この小論の文脈には合わないので、上記の単語については、意味内容として英語に合致するように改訳しました。その部分については、仏語と英語の双方を併記しています。
また、最後の段落にある「ウイルス新世」ですが、当該の本を読んでいないものの、[[https://link.springer.com/chapter/10.1007%252F978-3-030-57714-8_2][要約]]があったので、参照しました。 「自由」が回復すると共に、新型コロナウイルスの死亡者数がメディアのバックグラウンドノイズへと消えつつある。この政治的時期に、誰が集計しているのだろうか? ピエールーヨセフ゠プルードンの 理念としての政府に対する有名な非難--アナキズムを端的に紹介する際、どこでも常に引用されている--は、集計すること、そして誰がそれを行うのかについての省察を含んでいる。 「統治される」ということは、その資格も知識も徳も……持たない奴らの手で、監視され、検査され、スパイされ、指導され、法律を押しつけられ、規制され、枠をはめられ、洗脳され、説教され、統制され、評価され、測定され、検閲され、命令されることだ。「統治される」ということは、活動の一つ一つ、取引の一つ一つ、変更の一つ一つについて、記録され、登録され、名簿に載せられ(recensé, enrolled)、料金を決められ、印紙を貼られ、測定され、番号を振られ(coté, numbered)、賦課され、免許され、許可され、認可され、推薦され、説諭され、妨害され、改善させられ、矯正され、懲罰されることだ。(十九世紀における革命の一般理念、「プルードンI」、陸井四郎・本田烈 共訳、三一書房、1971年、316ページ、一部改訳) プルードンが示しているように、集計の行為、人に番号を付けることは、政府の本質的特徴である。彼が論じているように、これは、人々から人間性を奪い、その個性を剥ぎ取り、相互交換可能なものにし、その結果消費可能にする。プルードンは、自分の苦い経験から国家の番号付与がどのように使われるのか知っていた。彼の弟は、フランス軍の「名簿に載せられ」「番号を振られた」個人で、従軍中に死んだ。プルードンの政治的急進主義はこの時から始まった。今日多くの人が--多くのアナキストではないが--例えば国勢調査の起源や国勢調査が使われかねない目的をさほど熱心に考えていないものの、プルードンの一節は、理屈抜きに、それを読む全ての人に影響を与えている。番号を振られる人・振られない人を決めるのは誰なのか、そして、番号付与が人間の尊厳を個人から剥奪する場合、こうした決定にはどのような相対的・絶対的価値の問題が含まれるのかという疑問を提起しているからだ。ただ、プルードンは、政府の集計する権利を非難していたものの、これが意味する平等主義に応えて生きられなかった。反ユダヤ主義で女性を蔑視していたからだ。だが、アナキズムの格言を言い換えれば、彼の集計禁止命令は、他の誰の統治とも同じぐらい、プルードンの統治から私達を守ってくれるだろう。 紛争の時代には、国勢調査と政府の統計・人口統計的情報が召集名簿と徴兵制に反映され、戦闘に参加できる人・できない人を分類していた。アナキストが知っているように、政治理論家の心にある国家の恒久的正当化--国家は国民の安全を守るために存在しているという--は、この集計行為関して全く逆である。逆に、番号を振られた匿名の人は国家の安全を守るために奉仕する。そして次に、国家が資本と財産の権利を守るのである。世界が耐えている新型コロナウイルスの時期に、政府と政府機関が生み出す数字が至る所にある。その主要なものは、死者数・感染者数・慢性疾患者数だ。ここでの問題は、単に誰が集計されているのかだけでなく、誰が集計されていないのかとなる。もちろん、数字それ自体は詳しい話を伝えない。パンデミックの始まり以来、英国の(その他の場所も)死者数報告には注意書きが伴っており、それは二つの数字を区別している。一つは死亡者数、もう一つは「基礎疾患」のある人の数である。当初からあったこれら二つの数字の乖離を、政府は--大衆の多くも--「リアルな」数字だと見なそうとしていた。基礎疾患者の命の価値は低くて当然だと考えているのである。これが示しているように、パンデミックの最中だろうがそうでなかろうが、障がい者・慢性疾患者を排除する広範な優生学的前提が政治の中心にあるのだ。 ネオリベラル資本主義の時代には、幸福--ネオリベラルの意味では、クロポトキンの「万人の幸福!」というスローガンは茶番になる--すら定量化される。当然、政府側が行う社会科学の研究では定量的アプローチが好まれる。これがデータで、これらが事実だというわけだ。政府は徐々に、人文科学、そして教育分野における批判的調査の領域を非難するようになっている。少なくとも、その理由の一部は、主観的なもの・個人的なもの・質的なもの・人間的なものを放棄しない点にある。これらは唯一無二で、数字に還元されると本質を失ってしまうのだ。「『事実』だけが人生で必要なのだ」とディケンズのグラッドグラインド氏は述べていた(「ハード・タイムズ」、山村元彦・竹村義和・田中孝信 共訳、英宝社、2000年、5ページ)。しかし、もちろん、必要なのは、権力に合致する「正しい」事実である。これが、民衆全体で決めたわけでもない国家の意思を正当化する。数字は確かに嘘をつく。特に、数字が作られている時には。特に、誰を集計して誰を集計しないか決める人が、特定の人達の命を他の人達より重んじている時には。 基礎疾患(腎臓病)を持ち、ある意味で--死亡者数に現れると、なかったことにされかねない「基礎疾患」という例の第二の数字という点で--自分が数に入っていると知りながらパンデミックを過ごした人として、私は、集計すること・しないことの残酷な現実を個人的レベルで痛感した。この意味で私は数に入っている。消耗品と見なされかねないからだ。私は、他の人と同じように生きる人生を持つ人間というもう一つの有意義な意味で数に入っていない。これが、実際、私の特権を示している。集計すること・しないことのこうした現実は、世界の民衆の大多数と無縁ではない。例えば、海外での西洋の介入によって殺された人々の家族がそうだ。イラクとアフガニスタン、リビアとシリアで 防衛大臣がお気に入りの「死者数」は単なる推計だった。また、安全な場所に行こうとしてチャンネル諸島や地中海で溺れる難民(「移民」として人間性を奪われている)もそうだ。 これらは、今まさに起こっている実例である。しかし、ナチス国家はニュルンベルク法の下で人々を集計し、ホロコーストを容易に進めた。この恐怖は、今も、このような集計すること・しないことが何を導きかねないのか根源的に警告し続けている。ユダヤ人は根絶用の番号を振られていたという点でしか数に入れられていなかった。ナチスは彼等を、ロマ民族・同性愛者・ポーランド人・スラヴ人・障がい者・アフリカ系ドイツ人と共に、人間以下だと見なした。ナチスは、彼等を人間の数に入れていなかった。今日、私達が知っている数字は、他の数千人と共に収容所で殺されたユダヤ人の数、600万である。私達は忘れていない。収容所で生き残った人々の腕には数字の入れ墨が彫られていた。ナチス国家は、彼等の人間性を剥奪しようとした(そして失敗した)のだ。 私がこの短い省察を書こうと思ったのには二つの理由がある。その一つが、これが国家の本質を映し出しているからだ。国家は非人間的存在であり、人間を消費用資源へ容易く還元しようとする。クロポトキンが『国家・その歴史的役割』の最後で述べていたように、選択肢は二つある。 個人の生活や地方自治を解体、人間のあらゆる活動分野に入り込みながら、戦争、権力者間の内輪もめ、しょっちゅう専制君主を変えている宮廷革命のほか、こうした発展の必然的な帰結として死すらもたらす国家。この国家を選ぶ
逆にこれを破壊して、もう一度あらゆる活動の場で、生き生きとした個人やグループの自由発議、自由合意の原理に基づく新しい生活をはじめるかのどちらかだ。(黒色戦線社、1981年、69ページ)
(ABC with Danny and Jim という優れたポッドキャストでこの一節に目を向けさせてくれたルース゠キンナに感謝します) パンデミックの最中、私達の多くが数字の政治を、集計される人とされない人を選ぶのは誰か、何の目的で集計するのかを痛感してきた。しかし、左翼がパンデミックの公開議論でよく言っているように、パンデミックの優生学的構想--影響を受けやすいと思われている人は集計されず、国家は国民の保護をできるだけ最小限に留めて、逆に資本の生き残りを優先させる--は、気候崩壊と共に今後ますます何が生じていくのかを予見している。「フリーダム」は最近、「エクスティンクション゠リベリオン」についていくつか記事を掲載している。この文章を書いている時点で、「エクスティンクション゠リベリオン」は英国で再び抗議行動の波を引き起こしている。ネオナショナリズムが英国の政治制度に深く根差しているため、この島の出身ではない人は、集計されないだろう--もちろん、資本主義の観点で英国が共通利益を共有している裕福な国々から来た人々は除いて。英国には歴史的に莫大な量の二酸化炭素排出の責任があり、それぞれの故国を脅かしているという事実にも拘らず、彼等は数に入れられない。新型コロナウイルスのパンデミックは、国家の「通常の」行動とその集計アプローチの例外ではなかった。むしろ、ジョン゠プレストンとリアノン゠ファース が言う「ウイルス新世」(ウイルスのパンデミックによる崩壊プロセス)を生き延びるだけで、これがもっと鮮明に見えてくる。ホセ゠ペイラツが 以前述べていた ように、「国家は、誰もが感染するウイルスである。」目の前にある現在と将来の闘争と共に、このウイルスに抵抗する一つの方法は、このウイルスが誰を集計するか決めさせないよう拒否することである。