タイトル: Queerな生を奪い返せ!
サブタイトル: Reclaim Your Queer Fucking Life
トピック: LGBTQ+, クィア
発行日: 2021-12
ソース: https://cryptpad.fr/file/#/2/file/Cs1X3hKKWnwusrf3oRNehxpy/
備考: Part of Reclamation: A Queer Zine from Brighton."The zine is free to read, share and distribute." 訳:anarchist_neko。日本語訳はhttps://anarchistneko.wordpress.com/2022/06/11/reclaim_your_queer_fucking_life/にて2022/06/11に公開された。

      1.存在は抵抗

        訳註

      2.クソみたいな現状について

        訳註

      3. Queer Unity

        訳註

      4. 再奪取

      インスピレーションとなった作品

      その他の文献:

社会の堕落をqueerの責任にする人は多くいる。これは、まったく誇らしいことだ。われわれがこの文明とその根底に流れる倫理観をぐちゃぐちゃに破壊しようとしていると信じている人もいる。これは、まったく正しいことだ。われわれは、非道徳的で、退廃的で、気持ち悪い/革命的な[1]者らであるとされがちである。だが、ああ、われわれの底力を、彼人らはまだ知らない。

— Mary Nardini Gang (2009)

  • [1] 気持ち悪い/革命的な:原文revolting。

1.存在は抵抗

われわれはQueerである。それは、LGBTQIA+のどれか一つの属性を切り出してきたものであるというでも、なんらかの安定した束縛的なアイデンティティをもつということでもない。Queerは決して単一の点ではない。常に流動し、変容し、拡張し続ける。海とともに満干し、焔とともに破裂して煌めき、風とともにうなり渦巻くものである。個々の総和以上の力を示すものである。L、G、B、T、Q、I、Aの総称としてのqueerという語は今や広まった。しかし、我らのいうQueer(大文字Qであることに注意せよ)はこれとは異なり、その抵抗の力で定義される — 〈普通らしさ normalcy〉に反する全てへの戦いの中で鍛え上げられた、その力に。〈普通らしさ〉とは、白人至上主義であり、資本主義であり、alloシスヘテ規範[1]であり、父権主義であり、単数愛者的であり、able-bodied [2]である。Queerとは、これ以外の全ての在り方を表す 。

Queer は、緊張のなかにある。白人中心的でヘテロ規範で単数愛者的な父権主義という偏在する思想に反するものとしてのみでなく、周縁化され、他者化され、抑圧されたすべての人の団結として、Queerは定義される。Queerとは、異常で、奇妙で、危険とされているものである。これにはセクシャリティとジェンダーに関わる概念も含まれるが、これらに限られるわけではない。Queerは、われわれの欲望や欲求以上をも表す。Queerとは、ヘテロセクシャルな資本主義的世界に反するすべてのものの団結であり、〈普通〉による支配を徹底的に拒絶するものであるのだ。

―Mary Nardini Gang (2014)

Queerは、急に出てきたわけではない。われわれ以前にも、Queer達は生き、愛し、夢を見、戦い、そしてこの思想を守りながら殺されてきた。もっとも、そう言葉にするだけでは何も変わらない。われわれがアナキスト的で、ユートピア的で、武闘派的で、退廃的な政治運動を選ぶのは、それ以外の政治思想との希望のない戦いを、常に強いられてきたからである。ネオリベラリズムのなかでの〈受容〉は、クィアなセックスワーカーや路上で眠る10代のtranny[3]、fag[4]狩りサバイバー達、ヤク中のdyke[5]、AIDSを経験しているpunk、fatなドラァグクィーン、Aジェンダーの囚人にとって、何の意味があろうか。生活費を払えず、ホモフォビックなかぞくに追い出されて学校を中退せざるを得なかったから就職もできないときに、プライド広告は暖を与えてくれるのか。Brightonでは虹色に塗られたパトカーが走るが、何年も苦しみ、懇願し、妥協し、様々な犠牲を払ったすえにようやく搾取の対象にしてくださる<普通らしさ>に抵抗すれば、無償でHRTを違法提供していたとして逮捕されるのだ。

Queerな人々は、故意に下層階級にされ続けている。白人でニューロティピカルで、alloシスヘテで単数愛者でない人を下層階級にすることは、まさしく資本主義国家のミッション・ステートメントであるのだから。われわれが周縁化、困窮、そして死の脅威をダモクレスの剣のように頭上にぶらさげられながら、安定した住居や医療、金、安全などにアクセスできなくされているのは、偶然ではない。これは、〈普通らしさ〉がつくりだしている人工的な制限なのだ。「きっと大丈夫だから……」という悪魔のささやきも、これとなんら変わらない。このクソみたいな世界で、どうすれば大丈夫になんかなるんだよ。

革命家がまず最初に学ぶべきことは、自身に未来はないということです

— Huey P. Newton (1973)

われわれの生きている社会は、Queerであるわれわれを殺したがっている。Queerと〈普通らしさ〉は、われわれの産声より以前から対立していた。だが、われわれの死を求める世界と戦うQueerという力を、われわれは自身の自主性を通じてつくりだし続けてもいる。

実際、わたしの耐えられる以上に多くの人が、すでに殺された。悪意、透明化、意地悪、無知、同化、無関心によって、われわれの親、きょうだい、親の親、先生、尊敬する人、ヒーロー、指導者、パートナー、子のひととなり得た人たちが、すでに殺されてきた。彼人らが命をかけて求め続けたユートピアに、実現の可能性すらないうちに。

われわれは彼人らの遺志を継いでいる、などという言葉では不十分であろう。これは、まさにわれわれの歴史のなのだ。白人至上主義で、資本主義でalloシスヘテ規範で、父権主義で単数愛者的な世界を破壊し尽くすことは、Queerとしてのわれわれの責務であり、名誉であるのだ。何百、何千、何百万もの殺されてきたQueerらの名前を、死んだ警官の額に刻み込め。彼人らの名の元、木を植え、絵を描き、愛し合え。Queerと〈普通らしさ〉の間の闘争は、ただ経済的、思想的、社会的な対立によるものではない。これは、歴史的なものでもあるのだ。

われわれはQueerである。それは、Queerである以外の選択肢など、一度も与えられてこなかったから。われわれは存在し続ける、ゆえにわれわれは抵抗し続ける。これは、ただのスローガンでもお題目でもない。われわれの閧の声だ。

訳註
  • [1] alloシスヘテ規範:alloロマンティック(≒Aromanticでない)・alloセクシャル(≒Asexualでない)規範、シスジェンダー規範、ヘテロロマンティック・ヘテロセクシャル規範。

  • [2] able-bodied:≒disabilityを経験していない人。

  • [3] fag(got):男性同性愛者。通常、差別語。

  • [4] tranny:トランスの方。通常、差別語。

  • [5] dyke:特に「ブッチ」寄りのレズビアン。通常、差別語。

2.クソみたいな現状について

〈普通らしさ〉に基づいた社会は、主に〈抹殺〉と〈同化〉の二つの装置で、Queerな人々やコミュニティを抑圧する。

〈抹殺〉は、残酷に唸る剣である。これは、暴力を独占する国家やその他の存在による虐殺的なファシズムである。生命を救うために必要な医療にアクセスできるまでにかかる、約10年のことである。無数の人を病死させることである。Faggot [1]がヤることやクロスドレスすることを、違法化することである。セクション28 [2]である。これは、WHRC宣言 [3]である。TERFや「ジェンダー・クリティカル・フェミニスト」とやらがまき散らす陰謀論的なファシズムのことである。生殖器やデッドネーム、セクシャリティについて、無神経に攻撃的に聞いてきた全員のことである。トランスパーソンをジェンダー化された監獄に入れ、誤った代名詞を用いた墓に埋め、デッドネームを連呼して死を悼むことである。これらを特産品とする国家へ強制送還することである。

Queerであるということ。〈普通らしさ〉に反逆すること。それは、〈抹殺〉を図られる行動をとるということである。おまえを路上で殺してくるかもしれない。養子を育てる権利を奪ってくるかもしれない。いずれにせよ、やつらはクソみたいに怖れているのだ、おまえにかぞくをもたれることを、遺志を継がれることを、コミュニティをもたれることを。おまえの死後もなお思想や主張の残ることに、恐怖しているのだ。

われわれの身体は暴力の対象にされる。自己防衛すれば罰として監獄に入れられる。これらはともに、おまえからすべてを奪い、あらゆるQueerらしさを〈抹殺〉するための戦略に過ぎない。そのためにはどんな手段も厭われないのだ。「利潤」と「秩序」のため、われわれは焼かれ、刺され、撃たれ、飢えさせられ、墓標もなき穴に投げ込まれる。やつらは、おまえの自律性と安全を徹底的に拒絶したいのだ。おまえのQueerらしさを、徹底的に拒絶したいのだ。

目覚めよ!現代社会はスケープゴートを生み出す装置の上に成り立っている。われらは気づかぬまま、自らを生け贄の子山羊にするため肥やし続けている。 われらの敵は、常にわれら自身であったのだ!社会の底辺にされた者たちよ、のけ者たちよ!社会が窮地に立たされたとき、また贄にされるのがわれらであることを思い出せ。我らは消耗品ではない!

— SPIT! (2017)

一方、〈同化〉は、われわれ自身をわれわれの敵にするものである。〈普通らしさ〉は、Queerらしさを〈抹殺〉主義者らのお口に合うように馴らし、管理し、牙を抜くことで、われわれの生存を許す。ふざけんなよ、クソが。

われわれに与えられるのは婚姻の権利、すなわち単数婚と資本主義的な家族制度におちつく機会である。充分に搾取可能で、かつ他者を充分に搾取さえしていれば、RuPaulのようにドラァグカルチャーを骨抜きにして、メディア企業のトロフィーになってスポンサー様の利潤に貢献し、空いた時間にフラッキングで稼ぐビジネスチャンスもいただける。政治家になり、Lloyd Russell-Moyle [4]のように、地球を燃え尽くしている中道派たちに助力する権利もいただける。あるいはPeter TatchellのようなNGO代表になり、われわれを踏みにじる軍人らに、金をもらいながら [5]「やめていただきとう存じます」などと丁寧にお願いし申しあげることもできる — — みせかけだけの政治も、ここまで酷いものはない。Kathleen Stock [6]のように、Queerの分断を図りながら、他のクィアの成功の道を閉ざし、シスレズビアンとアライのごく一部を〈抹殺〉主義者に取り込む機会もいただける。

公文書では、代名詞の選択肢もいただける、ただしshe/heである限りにおいて。Xie [7]が運転免許を取ることは、蔑まれ続けている。軍人になり、帝国主義の駒になることも出来る。これが社会的受容のシンボルらしい。意味不明だろ。

われわれに与えられるのは、レインボー・ウォッシュされた企業主義である。これは、alloシスヘテによってつくられた、Queerの象徴と闘争を利潤に変える装置でしかない。Club and Bar Revengeにはレインボーフラッグやピンク・トライアングルが飾られているが、そこでハラスメントを受け、同意なく触られ、暴行され、薬を盛られたQueerには、なんの意味がある。最低賃金をもらいながら働くfaggotには、なんの意味があるんだよ。Faggotやtranny [8]は「パリピ」だからと興味本位で集まるstraggot [9]など、海に放り投げられるが良い。貪欲なポップ・カルチャーに支えられた全ての「プライド」商品は、Queerな人々の賃金労働、人格、そして身体を飼い馴らし、従化させる寄生虫でしかない。われわれに与えられるのは、国家が支援し、警察が先導するパレードである。われわれの表現は管理され、集団としての自律性という急進的な考えは無力化される。そうやって国家はQueerの歴史によって利潤を得ながら、同時に、われわれを〈抹殺〉する<普通らしさ>を再生産・複製する。名ばかりに”queer”な支配階級は、ただそのための力でしかない — — 根本的な社会政策を阻止するというおまけ付きで。

投票はわれらを救わない。寛容はわれらを救わない。受容はわれらを救わない。〈同化〉もわれらを救わない。これらは、Queerをゆっくりと、しかし確実に〈抹殺〉していくのだ。

Queerなマイノリティが必要とするものに基づいて計画を立てよ。同化の政治を拒絶し、寛容を懇願するのをやめよ。セクシャリティとジェンダーの多様性を歓迎せよ。社会システムの変化を求めよ。「民主主義」の神聖化を徹底的に終わらせ、司法を真に民主化せよ。われわれの感情的・性的欲求を、われわれの言葉で定義せよ。虚偽の平等ではなく、無視してはならない差異を重視せよ。

— Carlos Motta (2011)

社会はおまえを殺そうとしている。殺せないのならば、おまえをおまえにするその全てを奪おうとしている。自由のための闘争の歴史をかき消し、先人達が命を失った戦場に小便をかけ、コミュニティを骨抜きにしている。われわれを咀嚼し、死と退廃と飢餓と喪失の文化の中に吐き出している。Queerであるということは、〈抹殺〉と〈同化〉の二つの装置に、こころ、魂、そして身体の全てで、徹底的に拒絶し刃向かうということなのだ。

訳註
  • [1] faggot:男性同性愛者。通常、差別語。

  • [2] セクション28:1988年に、サッチャー政権下のイングランドとウェールズで導入された、「同性愛の促進」を禁ずる地方自治法28条の通称。

  • [3] WHRC宣言:Women’s Human Rights Campaignによる、「女性の〈セックス〉に基づく権利に関する宣言」。トランス差別的な内容が問題となった。

  • [4] Lloyd Russell-Moyle: Brighton Kemptown代表の労働党ラッセル=モイル議員。HIV陽性であったことを公表していることでも有名。

  • [5] われわれを踏みにじる軍人らに、金をもらいながら:原文 “being paid by the boots”。詳細不明。

  • [6] Kathleen Stock:サセックス大学の元教授。Gender Critical Feministを自称する。2021年、学生の講義を発端に辞職した。

  • [7] Xie:neopronouns(新代名詞)のひとつ。

  • [8] tranny:トランスの方。通常、差別語。

  • [9] straggot:faggotをもじった、「ストレート」の人に対する侮蔑語。

3. Queer Unity

クィア・アナキストとして受け継がれたものを、再発見せねばならない。われわれは〈普通らしさ〉の構造を破壊し、これより疎外されてきた我らの立場に基づき、〈普通らしさ〉を解体する場を作らねばならない。これを用いて同化主義者らの思潮のみならず資本主義もの破壊を、始めねばならない。この場は、この世界の完全なる打破を生み出す社会的な力のための道具となりうる。われわれの身体は、この社会の秩序と対立するように生まれてきた。この対立を深め、広げねばならないのだ。

— Mary Nardini Gang (2014)

クソと戦うために手にする武器をQueer Unityと呼んでいる。Queerな抵抗の主体であること、Queerな謀反者であること。それがQueer Unityの実践であり、原則である。〈普通らしさ〉とそれの用いる全てのヒエラルキーに挑戦せよ。「抑圧?クソくらえ作戦」だ。それはあらゆる〈同化〉への完全な拒絶であり、全ての〈抹殺〉へのエンパワーを通じた自己防衛だ。それは反ファシズムであり、反資本主義であり、反人種主義であり、過激なフェミニズムであり、廃止論だ。同じ抑圧者らに苦しめられるコミュニティの一部とであることを、喜んで受け入れることだ。解放のための全ての闘争と共に立ち上がって、地図上の、そして心の中の、あらゆる壁を取り払うことだ。これらの壁は、〈普通らしさ〉が我らを分断させるための武器にすぎない。Queer Unityには、国家などない。豚[1]もいない。fag殺しもいない。TERFもファシストもいない。法律はわれらを止められない。虐殺のための終わりなき戦いは、〈普通らしさ〉というメカニズムや構造によってつくられ、維持されている。その中にいる限り、これを打破することはできない。被抑圧者ら同士の連帯と、〈同化〉への抵抗、非暴力、平等な連合、尊厳によって、これは破壊される。Queer Unityは、われわれを窒息させ絶望させるヒエラルキーを解体するために必要な対抗の力であるのだ。

我々の戦略は、我々のジェンダーと同じく多様である。我々のアクティビズムは我らのセックスのように燃え上がる。我々の抵抗は我らの欲望のように限界を知らない。我らのこころを縛る植民地を爆破し、我らを縛るために苦心する者らへ抵抗を続けるによって、創造と快楽の新たな地平を開けるのだ。我らの愛は破壊と退廃と、解放と多様性のための被抑圧者らの実践である。国家の許す陽炎でなく、愛の革命を。ホモトピアを。

— Homotopia (2006)

Queer Unityは、Queerの解放のための多様な道具である。あるときは豚さんのパトカーを割るレンガであり、あるときは我らの家やコミュニティを、そして新たな世界を、作り出すレンガである。Queer Unityは食糧やマスク、包帯、ホルモンを共有する。集産的に存在するための場所を提供し合い、そこで共に休みもする。被逮捕者を解放し、体を盾にして互いを守る。そして互いのために料理する。身体、精神、創造性、性、そして魂を養うための場所と時間を提供し合う。そして、これらのことに、互いの許可を得ることも[2]も、何かの条件を満たすことも、不要である。我らは売り物になどならない。てめえらの機械の歯車になどならない。我らの身体は、〈普通らしさ〉の怒りに満ちた復讐など、恐れはしない。我らの文化、決まり事、創造性を、てめぇらのトロフィーになどさせない。請うことも、議論することも、何かを犠牲にしたり、妥協したりすることもない。Queer Unityは、てめえらの言い分など知らない。

Queer Unityは、我らの腹を満たし、目を覚まさせる無限の可能性である。〈普通らしさ〉の鎖より解き放された世界で自律性が導く先の全てのものである。それまでは、既に解放されたかのように生き、同時にそうする権利を奪う全てとの闘争を喜んで引き受けることである。それは血に濡れたわれわれ自身の手で産ませた、罪と犯罪の時代である。それは工事現場を燃やして夕飯を温めることである。国会議事堂でセックスパーティーを主催することである。〈普通らしさ〉が喉へと伸ばしてきた全ての腕に釘バットをふることである。社会的秩序、階級構造、国家とそのブリキの兵隊さんたちの崩壊を、踊って喜ぶことである。「性差」を取りまく全ての会話を破壊させることである。セクシャル・ヘルスと性的同意を最低限の共通ラインにすることである。逮捕されたQueerな人々に手紙を書き、共に立つことである。誰かを家に送り、相互扶助のための組織に属し、互いを守り合うことである。〈普通らしさ〉に合わないことを、恥じぬことである。革命心を取り戻し、クソみたいな国家やキリスト教から解き放された愛の同盟を一生続けることである。現在進行形の、解放のための闘争の歴史を知ることである。Queer Unityはストリート・トランスヴェスタイト・アクション・レボリューショナリーズのMarsha P. JohnsonとSylvia Riveraである。二人は、ラディカルな相互扶助に基づく「ハウスカルチャー」で、1970年代ニューヨークのBlackやBrownのQueerコミュニティを栄えさせた。横につながるQueerな反資本主義的な空間をつくり、確固たる構造や定義、境界線を拒否することである。死者の名誉を守ることである。互いを逮捕から守ることである。直接行動である。自身を、共同体を、パートナー(たち)を愛することである。Queer Unityとは、〈普通らしさ〉が力を持たぬ自由な世界への希望と共に生きることである。そうすることを通じて、自分自身や愛する人たちのためにより良い世界を作り続けているのだ。その世界は、資本主義や〈同化〉を図る政策に頼らない。搾取や暴力を生の一部として引き受けることになる改革も必要もない。それはきっと美しい世界であろう。Queer Unityとは、ファシストの顔面をぶん殴ることであり、恋人が拳についた血を流してくれることであり、友人が夕飯を奪ってきてくれることであり、共に戦う未来のために祝杯をあげることである。流動的で、可燃性で、過激。世界を燃やしながら、共に守り合おう。

世界を根底から変えられるかのように行動せねばならない。常にそうせねばならない。

— Angela Davis (1972)

訳註
  • [1] 豚(pig):警察

  • [2] 許可: 後述の通り、性的な同意は当然の前提であろう。

4. 再奪取

「Brighton, Pride を取り戻せ(Reclaim Pride Brighton)」は、Queer なコミュニティ同士の連帯の表示として始まった。ロンドンのハイバリー・フィールズにて行われたプライドを取り戻せマーチは、集団的で、堂々とクィアなプロテストであった。わたしたちはBrightonのQueerコミュニティより、連帯を示すために参加した。参加しなかった皆も、Wi Spaにおける事件ののち警察とProud Boys の暴力の被害に遭うロサンゼルスのクィアな反ファシストたちへの連帯を示していた。それを踏まえて、Brightonでも同様のマーチを行なった。Queer Unityを我々の出来る最善の方法で示すため、大声で叫ぶQueerな集団としてできる限りにゴミにクソした。恐れず、誰にも邪魔されずに歩き、自律的に存在する力を我々自身に与えた。わたしたちの示す抵抗に、国家も資本も関係なかった。プライドとは歴史的にも行動でしかなく、またそうであるべきであるから。中心となるのは5人程度しかいなかったが、数週間のうちに、皆の知るようにプライドを〈同化〉主義者らの資本にした構造の外に、運動を形成した。わたしたちには公式のリーダーはいなかった。わたしたちは公的な組織を何も呼ばず、どことも協力関係をむすばなかった。わたしたちはただ、全国のBrighton出身者でしかなく、ただ存在のために愛と抵抗のコミュニティを形成した者たちに過ぎなかった。そこには政治家や資本主義者、反革命的な改良主義者、報道者らの居場所はなかった。わたしたちはわたしたちのルールにのみ従った。なぜならそれをやめた瞬間、わたしたちの解放の夢は飲み込まれ、吐き返されるから。

これはラディカルな行動です!これはプロテストです!わたしたちは丁寧に改良を求める為、ここに集まったわけではありません。わたしたちは警察や政府、企業のために、集まったわけではありません。わたしたたちは彼人らではなく、わたしたち自身に、自分たちが誰であるかを示しに来たのです。わたしたちはコミュニティと再接続しようとしているのです。なぜなら、虐待されるたび、ハラスメントに遭うたび、辱められる時、このように共に立ち上がれるのならば、誰もわたしたちに触れることなどできないから。[…]これが解放の意味です、これがプライドというものの意味です。では、コミュニティとはどういうものでしょうか?そうです、このようなものです!

— 「Brighton, Pride を取り戻せ」マーチでのスピーカー(2021)

「Brighton, Pride を取り戻せ」にて生じたユーフォリアは、わたしたちが日々再現しようと腐心するそれへとなった。プライドは、単にある日の午後にプロテストしたり祝ったりするのに必要なものではない。それは、我々の生活のあらゆる場面に必要なものである—Alloシスヘテロ規範の家父長制、資本主義、そしてわたしたちの生活を縛るその他の全てのヒエラルキーのもとでの生活の。プライドは、Queer Unityの具現化である。わたしたち自身の解放のためのもがきとしてとる行為の。だからわたしたちは月々、食料や水、生理用品、代名詞の書いたバッジ、本、衣類、そしてそれ以上を配る、相互扶助を運営している。だからわたしたちは、TERFやファシスト、国家、資本主義団体へのカウンターでもに参加し、これを組織する。だからわたしたちの街は、わたしたちのポスターやステッカーであふれている。だからわたしたちは、どこへも行かない。そして、これらの公的な行動が非暴力的ではあるものの、Queer Unityは実践として、自衛と解放のための暴力を求める。これはただ、暴力に基づいたこのシステムは、いかなる手段をもってしても解体し、廃止されねばならない、と言うことでしかない。プライドとは、〈普通らしさ〉に対して、国家や抑圧的なヒエラルキー、〈抹殺〉と〈同化〉、その全てをぶん殴り返すと言うことだ。これはもちろん、公共の場で犯罪を犯すと言うことではない。どのような運動にとっても、多様な戦略を持つことや、密やかな行動、そして匿名性は大切なものだ。わたしたちの取る立場としては、やがて反体制的な解放のための闘争を行う意識とコミュニティの創設こそが、目的である。だが、わたしたちはまだ運動を始めたばかりで、完璧からは程遠い。このような計画は、献身、流動性、そして批判との対話が必須だ。まだそこまで遠いかもしれないが、わたしたちが、あるいはわたしたちの後を継ぐものがそこまである日たどり着くことを考えると、クソほど興奮する。

これはalloシスヘテロのアライの皆様がうなずきながら理解してもらうために書いているのではない。これは、Queerのために書かれたものである。これは、身体、感情、社会的役割の自律性を暴力で支配されてきた世界中の人のためのものである。これは、お前ら自身の悲惨で、逸脱した、逃避者としての歴史へ呼びかけ、売られること、傷つけられること、自分自身以外に支配されることを否定することを呼びかけるものである。これは、全てを奪い返すことを呼びかけるものである。

わたしたちは、Queerのただ小さなグループにすぎない。わたしたちはQueer Unityである。わたしたちは愛であり、怒りであり、連帯である。わたしたちは、ぶん殴り返す。プライドを奪い返す。愛し、互いを支え合っている。抑圧と抹殺の上に成り立つ社会の退廃を願っている。そして、わたしたちはこのことを誇っている。わたしたちの原理に従い、それの実践を通じて実現することに献身している。我々の活動は、まだ始まったばかりだ。さあ、お前らも、始めるがいい。

インスピレーションとなった作品

その他の文献: