タイトル: 労働運動の歴史の問題
ソース: https://web.archive.org/web/20040609042346/http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/workersmov.pdf(2023年2月19日)
備考: 訳:琴代龍明

訳者から

 以下の訳文は、コルネリウス・カストリアディスの『労働運動の経験』第一巻、「闘いの方法」(「アクラシア叢書」TUSQUETS出版)(スペイン語版)の冒頭部分を訳したものである。 訳了後すでに時間が経過していることもあって、本来なら再度訳文を検討しなければならないのだが、時間的制約もあって、旧来のまま提示することとした。不明の部分は、ひとえに訳者の浅学故である。御海容いただきたい。(琴代龍明)

フランス語版への前書き

 この同じ双書で出版されている前の2冊(「官僚社会」1、2)と同様、カストリアディスのテキストは、 誤植の訂正と著者のいくつかの書き間違い、そして、 いくつかのケースでの参照文献の更新を除いて如何なる修正も加えられずにここに再版されている。 文字によって示されている注意書きはこの版のために付け加えられたものである。

 全体的概念とその概念の展開を見るために、読者は「官僚社会、1」の中の「ロシアにおける生産関係」(アクラシア双書8)の《序文》を参照して欲しい。ここではこの本をvol.I,1と呼ぶことにする。「官僚社会、2」:官僚主義に対する革命(アクラシア双書10)はvol.I,2と呼ぶことにする。より頻繁に引用されるテキストは次のような略号を適用する。

 CFP= 《生産力の集中》 (未発表、 1948年3月;Vol.I、 1、 329-343 ペ ー ジ )

 FCP=《プロレタリア意識の現象学》(未発表、1948年3月;Vol.I、1、フランス語版115-130ページ)。

 SB=《社会主義か野蛮か》(《社会主義か野蛮か》、1、1949年3月;Vol.I、1、89-143ページ)。

 RPR=《ロシアにおける生産関係》(《社会主義か野蛮か》、2、1949年5月;Vol.I、1、145-241ページ)。

 DCIおよびII=《資本主義の力学について》(《社会主義か野蛮か》、12および13、 1953年8月および1954年1月)。

 SIPP=《帝国主義の現状とプロレタリアートの展望》(《社会主義か野蛮か》、14、1954年4月)。

 CSI、CSII、CSIII=《社会主義の内容について》(《社会主義か野蛮か》、17、 1955年7月;22、 1957年7月;23、 1958年1月)。

 RPB=《官僚制に対峙する革命的プロレタリア》( 《社会主義か野蛮か》、20、1956年12月;Vol.I、 2、 213-271ページ)。POIおよびII=《プロレタリアートと組織》(《社会主義か野蛮か》、27および28、 1959年4月および7月)。

 MRCMI、II、III=《現代資本主義における革命的運動》(《社会主義か野蛮か》、 31、 32および33、 1960年12月、 1961年4月および12月)。

 RR=《官僚主義の誕生におけるボルシェビキイデオロギーの役割》(《社会主義か野蛮か》、35、1964年1月)。

 MRT IからV=《マルクス主義と革命理論》(《社会主義か野蛮か》、36か ら40、 1964年4月から1965年6月)。

 IG=《はじめに》Vol.I、1(17-79ページ)。

はじめに

労働運動の歴史の問題

最初、私はこの本の再編集にあたって、「社会主義か野蛮か」の私の論文を労働者の要求と闘争および組織形態を扱った部分と闘士達の政治組織に関する部分に分けようと考えていた(「党の問題」)。よく考えてみると、私にはこの方法は利点よりずっと欠点が多いように思えた。 というのはこの二つの問題は私の研究において始めから常に関連をもっていたからである。 しかし、この方法はずっと前からすでに私のものではない立場を映し出し、 実体化することになるからである。 その方法は実際に事実上のみならず権利上でも分離した現実の二つの分野が実際にあるという考えを受け入れそして追認することに等しい。一つの分野では、自分の即時的な要求に気をとられている労働者がいて、 彼らは特殊な闘争形態を通じてこうした要求が満たされるのを求め、そして、この目的のために非常に限定された(本質的に組合的)目標を持つ組織の形で結集する。もう一つの分野では、物理的にではなく、もっとずっと深刻なことなのだが、 資質的に労働者とは違う政治的闘士が活躍する。そして、彼らは一貫したイデオロギーとそれに呼応する「最高の」綱領によって自分を定義し、また、自分の行動の彼ら自身が定義した効果だけに言及する考察に応じて自らを組織するのである。それでは、この両方の分野の間の関連はどの様にして得られるのだろうか。明らかに、唯一つの方法しかない。すなわち、労働者の関心は、闘士達が自らに提起するいろいろな戦術的問題のデータの一つであるという事実によってである。そして、その戦術の問題は一方で彼らの戦略的問題に挟み込まれている。別の言葉で言えば、その時根本的に闘士達にとって問題となるのは、労働者の即時的闘いが(p10)彼らの思想や政治組織にどのくらい影響されうるか、また、まさにこの「即時的」という性質が克服され、闘士達の組織の「歴史的」関心事の水準にまで高まるようにどうやって誘導されうるかを知ることである。

 

 暗黙の薄暗がりの中で君主のように君臨してはいるが、 日の光をしっかり受け止めることが出来ない他の沢山の思想と同様に、 この区別もまたひとたび明らかにされ、唐突に断言されれば、使われている基準の法外さ、支離滅裂さ、それに最後に相互に相容れないことのために驚かされる。実際にこうした区別の仕方は一連の分離を前もって仮定しているがーーー「経済的なこと」と「政治的なこと」の間の、これら二つの領域と社会生活全体の間の、「即時的な」ことと「歴史的な」ことの間のーーーそうした分離は疑いなく相対的で部分的な有効性を持っているが、しかし、絶対的にとらえると、理論的観点からも、とりわけ革命をすると言う展望からみると意味を持たない(注1:本書p287以降「収支決算、展望、任務」を参照せよ)。こうした区別は必然的にプロレタリアートをその即時的な経済的利害の単なる知覚の中に、また、唯そうした利害だけへの関心の中に閉じ込める傾向がある(たとえこの思想にレーニンが「何をなすべきか」の中で与えた、もしほっておいたなら、《労働組合主義的な》意識にしか到達出来ないであろうある労働者階級という極端な形態を与えないにしてもそうである)ーーーしかし、同時にそれはプロレタリアートを歴史上前例のないある革命的使命の受託者として述べている。ちなみに、この最後の二律背反(そして、他方で宣言されていることにも関わらず 、 一つの歴史的道理の盲目的道具という形での プロレタリアートの、それに応じたわい少化)は、マルクス主義者という肩書を力の込め具合いは違っても求めるあらゆる個人、グループ、潮流の態度をどの点まで深く示すかということを、ローザ・ルクセンブルグから現代の《評議会主義者》まで、大衆の創造的な自発性に対する自分達の信仰を断言すると同時に、革命の鎖を解き放つ資本主義の「経済的」崩壊という不可避の性質を《科学的に》証明しようとしているあらゆる人々が例示している。人がレーニン主義者の態度より自分の《主観的態度》を好むせよ、それは両方の態度が一つの同じ知的世界に属し、 そのうえ後者がこの前者の態度ほど一貫性がないことを妨げるものではない。というのも、1903年型のレーニン主義者の(官僚)論理性ははっきりしているからである。すなわち、労働者をほったらかしにしておくと、労働組合的な活動を行うことができるに過ぎない。党の活動は小数の者だけを政治的な生活に目覚めさせることが出来る。 それゆえ、大衆を貧困と失業に追い込む体制の危機によってのみ プロレタリア大衆に党の綱領こそが正しい綱領であることを理解させることが出来る。しかし、なぜ、ローザ・ルクセンブルグは資本主義的蓄積は、遅かれ早かれ、絶対的で克服できない一つの限界に突き当たることを証明する義務があると(そして、彼女のライバルの何人かは、 例えばラウラットやまたステルンベルグでさえこの限界に達する正確な日付を探す義務があると)考えるのだろうか。資本主義の「経済的」崩壊のみが、他方で限界がないと考えられている大衆の革命的な潜在性を顕在化することが出来るようにしているこの神秘的な特権とは何か。もし、資本主義下の生活が一つの新しい社会を肯定的に作り出すために労働者を準備するとすれば、そして、その新しい社会を作るということは、既存の生活のあらゆる形態の巨大な変革無しには考えられない(また、それは正しく資本主義が経済的なものに置いている至高の位置からそれを引きずり下ろすことにも等しい)のだが、労働者は既成の社会の危機のあらゆる面に敏感でいなければならない。そして、その規則正しい機能のどのような崩壊も、その原因がどのようなものであっても(経済的なものであろうと、内政あるいは外交的なものであろうと、文化的なものであろうと)大衆の革命的活動という一つの勃発の機会、つまり「好機」、を原則として与えることが出来よう(それはそれとして、このことは歴史的経験が示していることである)。その反対に、もし、どうしても我々が資本主義の「経済的」崩壊は不可避であるということを確かめなければならないのなら、 それはこの同じ大衆が、他方では我々がこの大衆が新しい世界を作るだろうし、従ってそうすることを望んでいるし、そう出来ると断言しても、この大衆はいつでもただ彼らの経済状況によって動機付けられるとわれわれがかんがえているからである。こうしてこの矛盾は異様なものになる。しかし、そのとき重要なことは、労働者について資本家が持っている(というか、持っていた)のと同じ代表権を持っているということである。(p12)実際、労働者は強制か、割増し賃金という刺激によらなければ働かないということ、 労働者は自分の経済的状態によって強いられなければ革命をしないだろうと言うのと、 厳密に言えば、同じことになる。

 こうした考察よりも遥かに重要なのは、 この一連の分離そしてとりわけ長い目でみれば全ての分離の頂点に立つ分離の根本を明らかにすることである。すなわち《即時的》なことと《歴史的》なことの分離であるーーーこれはまた、理論的政治家が自ら科学的戦略家として登場し、そして労働者の活動の表われを歴史が他ならぬ彼に解決するように託した戦術的問題の データとして扱うときに彼が勝手に名乗る立場の根拠でもある。この根拠は、歴史的発展の過去、現在、未来の真実は今後は基本的に完成された理論に属するし、そして、その理論は理論で、ある政治組織に属するという公準である。そのことから必然的に引き出されることは、《プロレタリアートの歴史的役割》は、プロレタリアートが現在すべきであり、また、これからするだろうということを理論が知っていてかつ予言していることを プロレタリアートが行うという範囲においてのみ存在するということである。ここで問題になるのは、単に、また根本的にも経済的なことの優位性という資本主義的公理(経済的なことは、 見せかけ的に科学的に理論化され予見されるものとして現れているが、むしろ特別扱いされている)ではなく、ギリシャ-西洋史すべてにおいて底流である、理論的で思弁的なものの至高性という公理である。《これやあれやのプロレタリアート、 あるいはその全体としてのプロレタリアートが、これやあれやの瞬間に目標として「思い描く」ことが出来るものが問題なのではない。プロレタリアートの「本質」、そして、プロレタリアの「あり方」の実体に従って歴史的に行うように義務づけられていることが問題なのである。》とマルクス、若きマルクスは書いている(「聖家族」)。しかし、誰がプロレタリアが《プロレタリアであること》を理論的に認識し持っているのだろうか。1845年のマルクスーーーそして、あきらかに、もっとよく1867年のマルクスがそうである。「どこに」このなさねばならないことを《行うようにプロレタリアに歴史的に義務づけている》このプロレタリアートの《存在(本質)》があるのだろうか。マルクスの頭のなかにである。その点に関して、マルクスが世界の歴史と自分達自身の思想とを混同しているという理由で冷酷に嘲笑している全ての哲学者と マルクス自身の間にどんな違いがあるのだろうか。何もない。《これこれのプロレタリアートあるいはプロレタリアートが全体として(p13)思い描くことが出来ること》、つまり《即時的なもの》という言葉を使ってみよう。すると、現象あるいは外見は、あらゆる場と同様に、ここでもまた存在あるいは本質を隠してしまう。しかし、存在あるいは本質は、必要な理論による一つの認識の必要性ーーーそれは《歴史的》要請として提出されたものだがーーーおよび対象と明らかに不可分である。 この本質にーーー例えば労働者が自らを自分達の望んでいるものの《代表》にするといった、おおかれすくなかれ偶発的で連携し、最終的には本質に従属する外見の解釈にも同様にーーーただ理論によってのみ到達できるだけである。ただ、理論だけが、これやあれやをしながら、プロレタリアートが単なる《代表》の影響下に活動しているかあるいは自分の存在(本質)にせきたてられて活動しているかを人が認識することを可能にする。 どのような瞬間に我々はそれではプロレタリアの自治や創造性について語ることができるのだろうか。如何なる瞬間においてもできない。ましてや、革命の瞬間にはなおさできない。なぜなら、この瞬間は、プロレタリアにとって、正に絶対的な存在論的必然性の瞬間であるからだ。そうした瞬間には、歴史はプロレタリアートについに自分の存在(本質)を明らかにするように強いるのであるーーープロレタリアートの存在(本質)は、自分自身はその時まで知らなかったが、しかし、他のものはプロレタリアートを見て知っていた。こう言うとき、マルクスは少なくとも自立的であるのだろうか。否。彼はヘーゲル、アリストテレス、プラトンを正に踏襲している。すなわち彼はプロレタリアの存在(エイドス)を見る(テオレイ)。その成立ちを注意深く検討する。その中に、 必然的に革命的行為 (エネルゲイア) に変わるだろう隠れた潜在力(ディナミス)を発見する。思弁的な態度を実践的に延長したものであることは自然に推論されるだろう。そして、言葉は時代で変わるので、往時の王たる哲学者は革命的学問の唱道者と結局は呼ばれることになるだろう。(注2:ルカーチとグラムシが、それぞれのやり方で、20年代にこの立場を理論化しようと務めたとき、彼らは「実践」に呼ばれた人を装って正しくそうしたのだと確認するのは興味深いことである。)3千年前そして多分もっと前から、存在(本質)、知、真実として、我々が確立することに慣れているものに、 そして結局のところ思想のほとんど克服出来ない必要性の中にさえ、意見、外部の影響、あるいは特殊な社会的及び歴史的状況の中によりも、 ずっと深く根を張っているある態度と関係を断つことは簡単なことではない。 私は敢えて私は理由を知った上でそれについて話しているのだと言うことにしよう。と言うのも、官僚制とロシア革命の退廃の批判が、(p14)私をプロレタリアの自治という考えとその直接的な帰結ーーーつまり、プロレタリア自身の外にプロレタリアートの《自覚》はないし、労働者階級はその形態がどのようなものであれ、ある《代表》を通じてその権力を行使することは出来ないという考え(例えばSB1949年3月、Vol I,1 89-143 ページ参照) ーーーに私を導いたとき、 私はしばらくの間、党(あるいは組織)について、この考えに提起された数々の制限や再解釈にもかかわらず、党をこの階級の権利の《指導》にいつも変えるという立場というものを革命的であると支持しつづけた。

 そのことは、少し前にかいた哲学的状況の単なる結果であった。《革命党》(1949年5月、本書103pに再録)についての論文の推論の結論はこうである。つまり、結局は我々は我々が言ったことを知らないのか、あるいは、我々が言っていることは真実かのどちらかであるーーーそして、 この後者の場合には、 プロレタリアートの革命へむけての向上はこの真実の効力ある実現になるであろう。 我々としてはこの真実をこの瞬間から理論的な面で練り上げているのである。 この思想を形式においてはプロレタリアの自治という考え(これはこうした条件では事実上純粋に形式的なものにかわる)と両立させることができないこと、そして、内容においては先祖伝来の生活と合理性の様式の(それ故、また革命前の理論的《真実》の)完全な変革としての革命という考えと両立させることができないことは 、 かなり早くから認識された(これは1952年7月の《プロレタリアの指導》という論文、本書119ページに再録、に書かれた《矛盾》である)。しかし、すでに指摘した理由によって、理論の本質、役割、規則の伝統的概念を(そして、従って他ならぬマルクス主義をも) 厳しく検査せずにはこの二立背反を克服することも 、 あるいはもっと正確には、免れることも不可能であった。《社会主義の内容》の第一部(1954-1955年の冬に書かれた)をきっかけにして始められたこの検証は、結果として強く促進されることになった、そして、私の考えではフランス、イギリス、 合衆国の1955年のストライキ (これらについてはもっと先で分析される) によって、 また、 ロシア、 ポーランド、 ハンガリーにおける1956年の事件(「官僚社会2:官僚制に対する革命」で出版されたテキスト参照)によって豊かにされた。 革命的闘士の組織に関して以上のことから推論されることの意味は《収支決算、展望、仕事》(1957年3月。本書287ページに再録)、CSII(1957年7月)、そして最終的にPOI(1958年夏に書かれた)の中で明快に引き出されていた。

 それ故、本書では闘士の組織に関して書かれたものも、あれやこれやの労働者の闘争の意味を分析している文章も集められている。 別の巻となって出版される新たなテキストの中で、 私はこうした問題の全体をもう一度論じるつもりである。そうはいっても、ここで取り組む必要がある決定的な先決問題がある。すなわち労働運動の歴史の問題である。

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驚くべきことにそして圧倒的に明白なことだが、 良心ある人達を悲しませるだろう簡潔な結論は、労働運動の「歴史」の問題は、今日まで、一度も真面目に提起されたことはなかったということである。 そういうものとして一般的に現わされているものは、一連の出来事の記述にすぎず、せいぜいあれやこれやの大《事件》(パリ・コンミューン、ロシア革命、1936年6月など)の分析に過ぎない。こうした出来事と事件の全体の解釈に関して、2世紀(そして)6世紀(も)前から、その度により多くの国でそしてついには全地球で起こってきたことの意味に関する質問に関して、 我々が持っている選択は限られている。スターリニストの聖人伝がある(例えば「ソ連邦共産党(ボ)の歴史」)。そこでは、歴史という機関車の天才的な機関士たちが資本主義者とそのスパイによってレールの上に積み上げられる罠や障害物にもかかわらず機関車を前進させているのが見られる。 限りなく悲しいトロツキストのメロドラマがある。その中では60年前から客観的に熟している一つのプロレタリア革命はその度毎にまさに実行される寸前にありながらーーーそしてその度毎に何で与えられたかも判らない悪いボスの《誤り》と《裏切り》によって失敗するのである。また、(P16)革命にもマルクス主義にも無関係だが、両者に対する思いやりに溢れた何人かの哲学者の交響楽的でない変奏曲もあるこうした哲学者はある時には 1923 年以来世界史が道を外れているのではないかについて自問し、 またある時は1844年の 「経済学哲学草稿」 のあるいは1857年の 「経済学批判要項」 の新たなる 《購読》 の副産物としてある一世紀の現実の歴史の真実を手にいれたがっている(ただおそらく1843年のあるノートに記されたこの真実は、 鼠たちの破壊的な批判によって永遠に壊されてしまったかも知れないし、 そうなっていたら我々は我々を取り巻いているものを前に手の施しようがないほど盲目状態のままでいるように運命付けられているかも知れない...)。最後に、またある時は、自分の校長先生のミルクと一緒に飲んだデカルト主義を再び活気付けながら、 彼らはプロレタリアートの歴史という思想を嘲笑し、そして、絶対的悪に対決する政治的-道徳的コギト(道徳的思惟作用)の作用にしか興味を持たない。そして、そのコギトの模範的な受肉がスターリン、デュクロス、ゴムルカあるいは毛なのかも知れない...。

 ここで我々は歴史という言葉をそれが持っているあらゆる深さにおいて使おうと思う。もちろん、ある特定の国、あるいはある特定の期間の《労働運動の歴史》に関する膨大な文献が存在する。わずかな例外は除いて(この例外の中にE.P.トンプソンの 「英国労働階級の生成」 という驚嘆すべき書物もある:注3)、そうした文献の全ては《事件》あるいは《エピソード》の歴史とこれまでいわれてきたものの中に入る。 そこではストライキと反乱の日付は、 戦闘の日付の代わりをーーー (注3) ゴランク社、 1963年。 改訂版1968年ペリカン (西訳:労働社会級の歴史的生成・イギリス1870-1932、3巻、バルセロナ、ライア出版、1977年)もちろん、もし我々が労働運動が特に恵まれていた《瞬間》を考えるなら、同じくこうした例外にマルクス・エンゲルスの歴史的著作、トロツキーの「ロシア革命史」、ダニエル・ゲランの「第一共和制の間の階級闘争」それにいくつかのそのほかの書物が入る。ーーーしており、指導者あるいは英雄的な闘士の名前が、国王や将軍の名前の代わりをしている。しばしば、大衆の活動に重点がおかれ、それはまあ満足なことだが、しかし、質的な観点からはほとんど変わらない。こうした類の歴史の持つ興味並びにその限界も思い出すのは時間の無駄である。また同様に、暫く前から(P17)発展してきており、そして、(一般的歴史と同様に)諸事件とプロレタリアートの運動の背後にある状況の統計学的、経済学的、社会学的、あるいは文化的分析を目指す文献もまた存在する。我々はそれを、他によい言葉が見つからないので、分析的歴史学と呼んでもよい。その興味深さは前に出した ケースにおけるよりさらに大きい 。 プロレタリアートの量的な進展、全人口に占める割合、その地理的、産業的、職業的分布、その内部的な分化とそれが被った変化、古い職業の消滅と新たな職業の登場、特に他の社会階層の生活水準と様式と比べてのその進展、習慣における変化、集団的規範、語彙、表現、要求、労働者階層およびそれにアピールする組織とイデオロギーの関係あるいは労働者階級と既存の社会の機構及び規則との関係、を知ることは明らかに重要なことである。同じようにこうした現象を互いに関連づけること、そして、こうした現象を資本主義の全体的進展および労働者の状態に最も影響するその進展の様相(技術的変化、経済的サイクル、社会組織の世俗的変化等)と関連付けることが重要である。こうした肯定的な知識がなければーーーちなみに決して忘れてはならないことであるが、 その知識は全ての肯定的知識と同様に本質的に際限のないのもであり、そして、外交儀礼の言明をはるかに越えて、その有効性に関して永遠にペンディングであるーーー人は目標に到達出来ないし、そして、この場合には、 目標はそのような知識の中にそしてそれを通して正しく姿を表すのである。

 しかし、正にどんな《目的》であろうか。またその目的を定めているものとは何か。 さしあたり慣習的な答は脇に置いておこうーーこのことには後で触れようーーそして、もし歴史家が上の質問について知らなくても、あるいは、その答が自ずから明かであるように振舞っても、歴史的研究の中にこの問題がいつでも含まれていることを確認しよう。 対象となる分野がどのようなものであっても、 歴史家というものはいつでも自分の研究の統一性を維持する一つの歴史的実体の存在を求める。 全体的問題としてもしその質問を提起し、また、それを自らに提起するのを拒むとき、彼はいつもそれを具体的な問題として出来事の中で解決する。実際(p18)その問題は自分の関わる個人的テーマの境界、そのテーマの限界とに関わるものとして、従って本質的に否定的問題として、彼にはただ現れるのである。否定的問題となぜ言うかというと、この分野に属するものは何なのか、そしてどこでそういう時代は終わるのかという問題だからである。しかし、明らかに、我々が今扱っていることの中にはもっと多くのことがある。そして、これを否定することある暗黙の立場のもう一つの顔に過ぎないし、 我々が問題にしているのはのはこのことである。

 もっと論議を深める前に別の面から考察しよう。 我々はここで労働運動の歴史の問題を扱う。 ただ行動と闘いにのみ興味があると宣言する人々には抽象的で、《哲学的で》、無益で、さらには滑稽とすらおもえるかも知れない一連の考察を展開せずには、この件を論議することはできない。おそらく、こうした人々はそのアジテーションの中にあって、せめて一瞬でも立ち止まり、そして、彼ら書き物の最小のフレーズ、つまり、頭の中にある一見最も単純で最も堅固な思想が含んでいる無邪気な形而上学の計り知れない量を検討するのが望ましいだろう。大蔵大臣達や資本家達は自分のことを《行動の人》と考え、自由主義、予算均衡あるいは金本位制についての彼らの思想は現実と実践の強固な教訓であると考えるのを好むのがすでに観察されてきた。 そして、 この教訓は教条主義者のあいまいな理論を軽蔑するのを彼らに許しているのであるーーーそして、 彼らが信奉しているものは18世紀の何人かの経済学者のあいまいな理論を何回も薄めたものでしかないということを忘れて、というより知らないでいる。同様に、次のことも指摘されてきた。最も頭の良くない学者たちでも、 その活動の基盤である哲学的問題を人が彼らに思い出させるとき、小馬鹿にしたように笑うと。それは彼らが、非常に濃い(明らかにそこでは「何 も 見 え」ない(《物 事》、《原 因》、《結 果》、《空 間》、《時 間》、《同一性》、《差異》などのような空想的な建築物でいっぱいな)形而上学的な大海に沈み込んでいるので明らかにそこでは何も見ることができないという単純な理由からである。しかし、もっと深刻なのは階級、歴史法則、革命、社会主義、生産力、国家と権力をたえず語り、そして奇妙なことに、こうした言葉の中とその言葉を使う際に思想は何ら関係ない 、 つまり、 問題なのは強固で同時に透明な不思議な事であると信じている闘士達の場合である。 そのためにその闘士は、(p19)その言葉の定義を確定した過去の理論的哲学的概念に完全にとらわれている。 それはこうした概念がどういうものであるのかも、どこからそれが生じたのかも、そしてそれゆえにそれが最終的に「どこに自分を導くか」 も知りたがらないだけに余計に隷属しているのである。いつか再び、 人類の歴史は階級闘争の歴史であると断言しようとするとき、その闘士が時々その言葉の途中でつまずいて、 次のように自問することを期待することが望ましい。すなわち、どこでそしていつ、私は歴史、人類、闘争、階級とは何かを学んだのだろうか、と。

 彼が我々に耳を傾けたと仮定しよう。 ここでは例としてローマを出そう。ローマ(《ローマの歴史》)とは何か。《ローマの歴史》について話すとき、必然的に求められるこの単位の本性と起源はどのようなものか。 紀元前5世紀から2世紀の平民の闘いとヘリオガバルス、レギオン組織と執政官の「管轄権」、キケロの演説、農奴制の発展とアドリアヌスの城壁とをどういう関係で結べるのだろうか。こうした全てはローマの歴史に《入る》。しかしどういう意味で《入る》のだろうか。もちろん、数字の2が自然数全体の中に入るのと同じ意味ではない。また、地球が太陽系に入るという意味でもない。イルマの注射の夢がフロイドに入るという意味でもすらない。外的な判断(たいていの場合それはある《学問的》伝統から単に継承されたものにすぎない)の雑多な組合せのおかげで、 よかれあしかれ歴史家は彼の日々の労働を限定することが出来るということは、まあ明白なことである。しかしまた明白なことは、それだけでは満足できないことである。ただし、その歴史家が、大学の正教授の分配、あるいは(しかしこのことはずっと難しいことであるが)図書館の整理だけに興味があるだけでない限りではあるが。

 

 こうした外的な見解について(そして、以前、我々が言及した常套的な答について)語るにしても、もしそのすばやい想起が、討論されている問題およびここでまた《科学的な》態度の中に横たわっている無意識の形而上学のいくつかの様相を明らかにすることを許さないととすれば、価値はない。この科学的態度は一般的に、《自然な》概念および日常的な概念化からとられたもので、その後者のように《物質》の無邪気な形而上学に基ずいている。とるに足らないケースを別にすれば、個々に取り出されると、決定的であるものは一つもない。(p20)ある一つの歴史的な対象の構成のために必要十分な条件を与えるいかなる組合せも存在しない。 言語の同一性はローマ世界の統一の基礎ではない。なぜなら、(その歴史を通じて言語の《統一》というものが我々に別の謎を投げかけるのに加えて) 帝国の東半分は決してラテン語化されずにその帝国の一部を構成していたからである。また、国家の(あるいはもっと一般的に言えば、《制度的の》)機構の連続性も、それではない。なぜなら、連続性はビザンチンの末まで確かめられるが、ビザンチンであってローマではないからだ。 この歴史が展開する関連ある地理的地域もそうではない。と言うのは、ローマの歴史とは「歴史的に」関連した地域としてこうした地理的地域をつくる(あるいはつくり終える)ものであり、そして、他の歴史的な過程はその後その統一を破壊する(あるいは、いずれにせよ、深くその性格を修正する)だろうからだ。もし、他方で、この統一を《原因》、《影響》、《相互作用》のつながりの統一として確立したいなら、ーーー純粋な孤立した歴史的環境という架空の ケースの前にとどまるのでない限りーーー関連の網目中で切断は、すべて必然的にある程度の独断を含むし、歴史的な対象を歴史家の単なる人工的な創造物に変えたいのでなければ、 この独断に根本的正当性を与えなければならないということをどうしてわからないだろうか。フィリップII世の時代の地中海「世界」について語ることは完全に正当である。しかし、何において、また、何故、「世界」なのか自問するのも同様に正当である。

 (p20下から20行目から)この程度の独断についての認識は、非常にしばしば、疑似批判的過激主義に至る(実証主義とプラグマチズムもまたそれに到達する)。すなわち、《事実は与えられたものの無定形の材料の中に意識によって刻まれている》。歴史家は(物理学者のように)混沌としたひとつの材料にその組織の原理が自分の理論的意識の要求から専らくるだろう一つの組織を独断的にに課するだろう。 この観点はもはや問題が自然の考察である時には支えきれない。そこでは、意識はどの様なものも、どの様な方法でも刻み込めばいいと言うものではないし、また、意識が構成する形態が必然的にそれに《相応する》材料を見つけることを保証するわけでもない。そして、問題が社会と歴史であるとき、単に馬鹿げているだけである。というのも、ここでは、当の《材料》が、すでに組織されたものそして組織されつつあるものとして現れ、(p21)構成者兼被構成者として固定されるからである。歴史家はアテネの「デモス(民衆)」の統一、ローマの人民あるいは現代のプロレタリアートの統一の真実のあるいは幻想の性格について多くのことを言ってもいい。 そのことは、 その《材料》 の中に、edoxe te boule kai to demo(古代ギリシャの評議会と古代ギリシャ民衆にとっては良いように思われてきた)、senatus populusque Romanus(ローマ人民の元老院)、また《世界は土台から変わろうとしている》 と歌う群衆のような表現を見つけるのを妨げるものではない。 もっと一般的に言えば、その分析が、いつわり、神話あるいはイデオロギーであることをたとえ示す場合でも、 自分自身への言及は、「現実そのものの中にあっては」、個人、部族、民族を構成するものである。それはそれとして、分析は単なる神話やイデオロギーで有り得るだろうか。たとえ分析の内容が神秘的で、イデオロギー的で、もっと一般的には架空のものであるにしても、ーーーそして、これはいつでもそして必然的にそうであるがーーー、彼らの存在は、このタイプの分析を越えている。と言うのは、ある部族あるいはある民族に共通に所属するものを代表する事実なくして (そして、この代表の内容がどのようなものであれ)、部族や民族は存在しないからであるーーーそれは、どんなにその内容がいつわりのものであったにせよ、その素性を示す事実なくして個人が存在しないのと同様である。しかし、アテネ人、ローマあるいはプロレタリアートの自分自身への言及は「誰の何に対する」言及であるのか。この瞬間において、合理主義哲学者と実証的学者(彼らにとって疑いなくフアン・ペレス自身にたいするフアン・ペレスの言及はいつでも明白で疑う余地のないように思えた)は、無駄な錯綜に身をうしなわないために、肩をすくめ、全体化は不当であると語り、そして、道理の実在と存在の構築を告発する。

 我々は、 もっと一般的に社会ー歴史的形成のすべての核心に存在するものを考察しよう。すなわち、それは複合体というか社会的な想像しうる意義のマグマである。その意義において、そしてそれによって、マグマは自らを組織し世界を組織するのである(注4)。一つの社会ー歴史的形成は、制度化されるとき形成さーーー(注4)MTR四章および五章を参照。現在は「社会の想像的制度」パリ、Seuil、1975に収録。ーーーれる。このことは、まず第一に(とはいってもこれだけではないが)次のことを意味する。つまり、(価値あるものとして必ずしも認識されなくても、構成メンバー全員にとって価値ある)社会的な(《現実的》ものあるいは《合理的な》ものに還元できない)想像的な意義(意味と関連)のマグマを制定する時(p22)ということである。理論的な分析は、(たとえば、最も重要な関連が、その形成のメンバーが明白に自分が位置していると思っている所には見いだせないことを指摘しながら)いま考察されている形成の、生活の表面に表れることについての一連の分解と再構成を行うことができるだろう。しかし、この分析が発見するであろう潜在的な組織の起源と決定的な瞬間として、 新たにその分析が見つけることは、やはり、想像的な意義のひとつのマグマであろう。そして、それは考察されている社会-歴史的構成によって打ち立てられるものであり、また、その歴史を通じてーーよりはっきりした形でーー修正されるのである。そして、その継続的修正こそ、その歴史の決定的次元を構成しているーーその点に関連して、その分析は「自由ではない」。つまり、別の時代、別の場所でのそうした意義を、我々にとって理解できる言葉で捉え、記述しようとする時、立ち現れる困難(これはまた、最終的には不可能になってしまう困難であるが)は、我々の再構成を《自由に》させてくれないで、まさしく、我々の構築とは独立して、それらに抵抗するものを表すのである。しかし、理論家の才能がどのようなものであろうと、材料、つまり対象物自体が、際限のない豊かさと拡大を伝統的なバリ島文化の中心的な意味に変えるのを阻むであろうーーあるいは、 神聖さというキリスト教主義を資本主義文化の主要な意味に変えることを妨げるであろうということを思い出すだけで十分である。

 いかなる哲学的あるいは認識論的技巧も、それ故、社会ー歴史的な対象物の「本質」を排除できない。いかなる技巧もローマ、アテネ、ペロポネソス戦争、封建制的ヨーロッパ社会、ロマン派音楽、ロシア革命が「存在している」(存在した)、そしてそれは存在したというだけなら、板や銀河あるいはトポロジー的ベクトル空間と同様に存在しているという事実を隠すことはできない。このことが判らないものは、社会と歴史について語ることを控え、数学、結晶学あるいは昆虫学に従事しなければならないだろう(そして、こうした分野においてさえ、注意深く理論的問題を避けながらである)。プラトンは世の中には《自分の手で掴めるもの》しかが存在しないと思っている人がいるということを語っていた。現代の人間は手を持っていない。つまり、道具と道具となる(疑似的)概念しか持っていない。その結果、彼にとっては、彼の道具が(P23)捕らえられるものしか存在しない。つまり、語の最も貧弱な意味において概念化され、 数式の形で公式化されるか表現されるものしか存在しない。現在においては、(部分的、一時的、反語的に)概念化、コンピュータ化、《構造的》図表化のいくつかの非常に貧しい規則に従うものを、唯一の現実として提示する欺瞞を断固として非難しなければならない。こうして、社会-歴史的対象物の存在そのものが提起する問題、すなわち、以下のように始まる問題に直面することになる。どういう点において、そして何故に、この無尽蔵な一連の事実は、ローマの歴史に入るのか。そして、この問題はこのように帰着する。十世紀の間、ローマとして「なされる」ことは何か。(これは次の問題と混同されてはならないが、しかし、この問題と完全に分けることもできない問題である。すなわち、ローマがどの様に他の社会-歴史的実体に対し自らを示し、そして、それらから認識されているかということである。そして、これは、もちろん我々が今日我々に時代に、ローマについて持っている、科学的あるいは哲学的認識も含んでいる。こうした認識によって創られた地平においてのみ、我々の推論は存在し、同様にそれに対する反論も存在する。しかし、この両者も我々に何かがローマとして提示される時のみ可能なのである。)同時に、我々はこう自問しなければならない。何故この問は今日まである激しい否定の対象にされてきたのかと。

 十世紀の間、ローマとしてなされる「もの」が属する実体のタイプは、いかなる言語においても名前も持たないーーーそして、本当のところをいえば、その名を持つのは容易ではなかろう。確かに、それは、架空の命名あるいは科学的「構築」の問題ではない。また、ある《ことがら》、ある《主体》、ある《概念》でもないし、単なる《主体》、集まり、あるいは、あるグループや群衆でもないーーーローマの歴史は、 ローマ人がローマの歴史を作るのと同様に、物質的、司法的、存在論的にローマ人を作っているのである。ローマ人はローマの歴史を通じて正しく彼らの「本質」に応えているーーー。また、明確な制度の一つのまとまりででもない。ーーー何故なら、こうした制度は永遠の修正の中にあって、また、このローマの歴史は特にそれ自身の中にその制度を修正するための手段を見いだすという能力の上にすばらしく立脚しており、こうすることでその継続を可能にしているのである。この実体は社会ー歴史的実体の領域にはいる。そして事実から受け継がれた思想は、その断固とした特殊性においてその領域を認識するすべを決して知らなかったし、できなかった。(P24)社会-歴史的実体が、山のような経験的決定のなかで粉砕されなかったとき、 それと無関係の形而上学の機能においてしかこれまで考えることができなかったということは、偶然の弱点ではなく、受け継がれた思想というものの顕著で特徴的な印である。というのも、この思想は、存在の三つの根元的タイプしか知らないし、知ることができないからである。すなわち、事物、主体、概念あるいは理念、そして、その集まり、組合せ、加工そして統合であるーーーそれに、社会-歴史的対象は事物、主体あるいは概念として決して理解されえないし、また、事物、主体そして概念の集まり、「普遍化」すなわち体系としても理解され無い。ここでは、この問題そのものを論議することも、この主張を完全に正当化することもできない。その教義が、 この私の主張と対立していると思われうる三人の著作家のと対比させることで明らかにしてみることにしよう。その三人とは、アリストテレス、ヘーゲル、マルクスである(注5)

 (注5)興味ある読者は、「想像的制度...」(前掲書)にある受け継がれた思想のこの特徴の検討を参照のこと。 (p 2 4)

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 ずっと前から、ーーーそして、ある意味でそれも当然だがーーー人々はアリストテレスの中に《holismo》、つまり《部分》の集まり、全体、組合せ以上の何かとしての《全て》を表す概念、の父を見てきた。これは、とりわけ、明らかに、生きているもの、つまり近代が有機体と呼んできたものを考慮するとき、また、この言葉が負わされてきたあらゆる重みとともに確認される概念である。ここで我々の関心あることに関していえば、「政治」は以下の概念を形作る。都市(ポリス)はその本性(フィサイ・プロテロン)に従ってそれを構成する個人に先んづる。この本性とはどのようなものか。アリストテレスは今一度この機会にこのことを明確にしている。本性とは、目的である(e de phsis telos estin)。では、本性すなわち都市の目的と完全な実現とは何か。《都市は生きることのために出現する、しかしそれはよく生きることのためにである》(ginomene men tou zen eneka, ousa detou eu zen)。都市は出現し、(p25)そして、それは何かの「ため」であり、 生成においてと同様その実態においてもひとつの目的を持っている。つまり、個人(人間的なそれ。さもなければ、それは《野生動物か神》である、therion e theos)は、《生成する》都市の外では生きられないし、《都市である》都市の外では良く生きられない。生成-実態(ginetai-esti)という(深い、暗黒の、そして、しようと思えば際限なく検査することのできる)対立は、それ自体はここでは我々の興味を引かない。しかし、以下の解釈は、一見議論の余地が無いように思える。すなわち、都市は、人間(そこ以外では人間としては生きられない)の生活を可能にするために存在し始め、それ故、生成の分野では、都市は論理的には「先んじて(プロテロン)」いる。都市の事実上の(あるがままの、生の)存在は、「論理的に」人間としての個人の「事実上」の存在に先んじているのである。しかし、都市は人間の良き生活を可能にする「ために《存在する》」のであり、「よき」都市の外で良く生きるのは不可能である(あるいは、少なくとも非常に困難である。そして、いつでも良く死ねるかも確かですらない)。従って、存在の領域においては、都市の「質」は、人間の生活の質にとって、「論理的」で、同時に「事実上」の前提である(少なくとも、一つの悪い都市で良く生きることが論理的に矛盾していると認められるならばではあるが)。

 そこで、この論議の即時的な意味の転換を確認することは、結果として驚くべきことだ。発生の範疇でいえば、都市は、諸個人の構成とは考えられない。すなわち、それに先行するのである。しかし、存在の範疇でいえば、都市の本質は、あらゆるものの本質と同じく、その目的によって定義される。そして、都市は、それ自体の目的ではなく、個々の人間のよき生活(良く生きるとは、当然ながら、ここでは倫理的意味であって、物質的なものではない)がその目的である。都市の存在は、ある一つの目的に関連して決定され、この目的が今度は個々の主体の実現(良く生きること)によって規定される。そして、この考察に最終的には以下の考察を従属させるべきである。すなわち、都市の真の存在を決定するのは、実実上の都市として、その都市が事実上、個人の存在の条件になっているかどうかということである。 事実上の個人が、よき都市がつくるよき秩序と同様、よく生きる個人の条件になる。都市の本質を構成しその存在の基礎付けるのは、よく生きという主題に関連した、倫理的な目的である。もっとも高い観点からみれば、都市は、人間が近代の言葉でいえば、(p26)倫理的な主体であるがゆえに、そうであるように自らを実現することが出来る「よう」に「存在」するのである。(注6)ーーー(注6)アリストテレスの本文そのものから行わざるを得ないこの乱暴な逆転が提起するこれらの問題に、ここで私は入ることはできない。ただ、この問題は疑いなく重要で、 それは思想の歴史の観点からのみそうなのではない。そして、《矛盾》という非難からこの著作家アリストテレスを守ることも(そして《読み方を知らない》という非難から私自身をまもることも)できない。次のことを指摘するだけで十分であって欲しい。すなわち、「政治学」の第1巻に託されている思想の、あのさまざまな層は、一部異質なものであるが、注意深く読めば明らかになるし、そして、私の意見では、アリストテレスは(ついでに言うとプラトンと同じように)、ポスト-ホメロス的なギリシャ世界の設立者である、「ポリス」と呼ばれるこの大きな想像上の意味と、この同じ世界の崩壊の過程との間の均衡の支えがたい立場の維持の要請のもとでこの著作を書いている。そして、この世界は一般的に言って、これやあれやの《現実の》展開を負わされ、そして、これやあれやの哲学的学派に結び付き、しかし事実上は、哲学の誕生から始まっていた。というのも、この世界は自治的な方法で探求するある一人の主体の立場の中に事実上含まれるからである。重要なのは、 ここに存在する論理と現在までその効果が永続指定るということである。 ーーーこの思想にどの様な中心的要請が作用するのだろうか。他の用語より、ある用語を「優先」するという考えの論議の余地なき、そして議論されてもこなかった性格、次には、そして考えられるうる用語の間で、一つの「秩序」、そして一つの「階層的な」秩序がいつも確立されうるという要請である。三つ目は、前の二つより明らかではないが、しかし、ずっと強力なもので、もし全てが考えられうるはずのものなら、「ただ一つの」秩序が全ての用語を包含するべきである。あるいは、他の秩序を従わせるべきであるという結論である。それ故、いろいろな秩序、そして、特に、原因の秩序と目的の秩序が現れる程度において、 あるときは一方を一方に従属させることによって、またあるときは、実際に一つの秩序しか構成しないことを証明することによって、その相違を廃止しなければならない。ヘーゲル(そしてマルクス)はこの二番目の道を行くことになろう。「アリストテレス」は最初の道をいき、最後には「目的的結果」を至上のものとして確立している。しかし、それらを隔てている距離は、一見したところよりずっとちいさい。この目的はこの場合には個人主体 (これは後に世界精神あるいは全人類によってとって変わられる。それと同時に、それはこの目的の「内容」も拡大するだろう)に内在する、「倫理的」目的として現れる。このことから、ただちにそして全ての場合に以下のことが導かれる。(P27)すなわち社会-歴史的「行為」は決してあるがままのものとしても、それ自体によっても見ることはできず、そうではなくて、いつでも「よき」(あるいは悪しき)「行為」(そして、すでにアリストテレス自身にとって、すでにそれは技術的あるいは倫理的良き行為ということであり、前者が後者に従属している)に帰着されねばならない。そして、その良き行為と、階層的規範、つまりその全てが『崇高な善』(その具体的表現と解釈は、明らかに、歴史をとおして変わるであろう)に従っている規範、に従って思考され、判断されうる。

 しかし、 我々は本当にこうしたカウディウムのあい路を通らねばならないのだろうか。社会ー歴史的なことはその定義がどうあれ、ある一つの目的とそのような関係は持たない。ローマは何かのために存在するのではない(そして、もちろんそれ自身のためにでもない)。ローマは存在し、存在した。これで全てである。結果として、もしローマが存在しなかったら、我々の世界は、現在のようではないであろうし、(我々がいっているようなものでもないであろう)。しかし、だからといって、我々はその存在の目的と自認することはできないーーーそして、アリストテレスだったら、彼は無限まで遡るのを好まなかったが、こう付け加えていたろう。このような推論は我々の存在理由を我々に続く人々、 そしてこんなふうにして際限なく次々と我々に続くであろう人々の存在に置くことになると。 個々の人間が良く生きるということが至高の倫理的および政治的目的でるという可能性はある。しかし、我々は、そもそも研究を開始する前から、 社会ー歴史的なものの存在をこの目的に帰着させることは出来ない。また、歴史においてなされることを理解しようとするという我々の意図を実際の都市とよき都市の規範との間の比較に限ることもできない。また、我々は、理由があろうとなかろうと、そのような規範に言及するという「実際的な」可能性は、それはそれで、ちょうど至高の目的としての個人的主体が良くいきるという考えがそうであるように、 実際的歴史の産物であるということも忘れることはできない。そしてもし、社会-政治的なものが、ある「一つの」目的にいつも関連づけて考えられなければならないとしたら、全ての目的が秩序だてられている「ひとつの」包括的な姿に関連付けて考えられるものでなければならないだろう。そして、これが、組織された共同体ではないかぎり、アリストテレスが知っていて、「ポリス」と名付けていたもの、 我々が村とかある特定の社会とか呼びうるものとなりえるだろう。そしてそれらは、いずれにしても(正に、もう一度、プラトン的およびアリストテレス的用語をつかうが)、その基本的な生活に関して「自足」共同体である。「政治的な」共同体は、歴史に現れるすべてのことを、自分自身の中に受け入れ、その論理と存在論の下に、(p28)それを沈めることができなければならないだろう(こうして、経済は「政治学」の中で扱われるし、扱わねばならないのである)。しかし、このことは可能ではない。自足的で政治的に統一された共同体の包括的な姿は、ーーーそれが、部族、都市、民族、帝国、全人類の「コスモポリス」であろうとーーーそのほかの全ての社会-歴史的な姿がそれに必ずしも、そして本質的に組み込まれ、従属させられている姿ではない。ディオニソス崇拝あるいは仏教、英語あるいは資本制企業、バロックあるいはルネッサンス以来の西洋科学、ロマン主義あるいは労働運動は一つの政治的共同体あるいはそういう共同体の限定された集まりの生活において、はっきり階層化され、統合可能な節目あるいはモーメントとして理解され得ない。そして、当然ながら、なおのこと、倫理的目的あるいは他の何の目的のある十分特定化された網の中で考えられるものとして理解され得ない。

 ヘーゲルは、この基本的な論理的立場を本質的に変えなかった。この偉大な思想家であるヘーゲル自身が行った拡大と、 巨大な変革にもかかわらずである。と言うのは、こうしたものは、現実には、経験の補足的な20世紀間を受け入れる資格付けをしながら、 アリストテレス的枠組みを強化しただけであるからだ。我々の問題に関して、そして、我々の観点から見て、ヘーゲルはアリストテレスの問題と答をその可能性の限界までもって行き、 アリストテレスによって定められれた論理的-存在論的枠組みの中で、 それを粉みじんに吹き飛ばすことなく、できるだけ遠くまで到達している。実際、自足的な共同体は明白に歴史化されている(そして、まさしくそうであるから、ある意味で自足的ではなくなっている)。こうして、アリストテレスの本文と文脈の中で相互に序列関係のない都市の史実の非有機的な単なる「並列」、共存、あるいは連続として現れうるものが、ここでは「組織化され」るのである。アリストテレスが提起していない問題、なぜそして「何のため」に「いろいろな」都市が存在するのかという問題は、ヘーゲルにとっては中心的な疑問に変わる。しかし、ヘーゲルはそうはしないで、正にアリストテレスの思想の要請である一つの要請に答えること、 彼自身の判断によればこの思想の一つの欠陥のように思えるものを満足すること、また、アリストテレスの思想が打ち立てた範疇に従って、それを満足しようとしている。そして、彼は歴史的連続性を階層的序列の図式に従わせ、 この序列の中に目的という理念を組入れ、「なぜ」いろいろな都市が存在するのかと言う疑問に(P29)「何かのために」という解答を通じて答えている。と言うのは、この複数性は歴史における「理性」の進歩的で弁証法的な実現のために存在するからである。また実際には、都市の形態の特殊性は乗り越えられていて、人民が歴史的なものの中心的形態になっている。しかし、このことはヘーゲルが前にしている経験主義的な資料の蓄積によるだけでなく、 アリストテレスの図式の延長と普遍化に結び付いたより深い考察によるものである。 個々の人間とその良き生活に関する倫理的な目的は、乗り越えられねばならない。と言うのは、(個人の特殊性と倫理的要因の特殊性によって)二重に制限されているが、しかし、「理性」ーーーヘーゲルが言っているように《ある目的に合致した行動》である「理性」の普遍的目的の中で維持されるためにである。理性の外側の何ものによっても限定されるべきでも、 限定されることもできないとき、 この理性は歴史の全ての表明を受け入れることができるはずである(あるいは、同じことであるが、そういう表明の存在することができる)。政治的組織、すなわち国家は、ある特権的な性格を持ち続けているにせよ、そうしたものの一つに過ぎない。(そして、もちろん、都市はある政治的組織の普遍的形態ではない)。だから、歴史のそれぞれの段階で全ての表明を統一するような仲介的な形態が必要なのである。そして、この形態が人民である(注7)。この形態は目的論的な範疇に(P30)全てを再統合することーーーーー(注7)同様に、「歴史的」、すなわち宇宙-歴史的(weltgeschichtlich)人民を問題にする必要がある。すでに知られているとおり、そういう人民はほとんどいないし、その他の人民の経験の哲学的基礎、その存在理由を見るのは難しいと言う結果になる。おそらく、「法の哲学」のある有名なパラグラフとともに、理性によって打ち立てられた現実でないあらゆるものは、うわべだけの外観であり、幻想であり間違いであるということを思い出し、また、インカ人、フン族人、アフリカ人、日本人、インドネシア人、そしてどこか他の民族の存在を幻想的でごまかしの外観の中に数える決心をしなければならないかも知れない。40年の哲学の研究の後に、フッサールが近代科学の危機とナチズムの台頭の結合によって歴史の存在(しかし、ハイデッガーもそうしなかったように社会の存在のではないが) を疑うように最終的に導かれたとき、彼が《ヨーロッパ「人の生来の目的」としてそれを理解しようと務めるようになるのに気づくのも興味深いことである。 アジアに何故はない、こうその詩人は言うだろう。これは、ある哲学に固有な何と奇妙な必要性であろうか。この哲学は、その実体の4分の1のことを(悪く)言うときにはその実体から他の4分の3を除外しながらでしかそうできないのである。ーーーーーを可能にする。歴史的生活のあらゆる表れは、歴史的な民族として、《ある民族の生活のさまざまな瞬間》に変わる。これは、考察されている《民族の精神》がその民族自身にとっても、全ての民族にとっても、見えるようにになる具体化である。そして、この瞬間は、その存在とその行動に調和し、従属させられている。この《民族の精神》、《世界精神》の瞬間は、本当はーーーこの後者だけはそうだがーーー普通の意味で使われる《主体》ではない。そうはいっても、両方とも、もっとずっと強く、すなわち、ヘーゲル的な意味では、そうである。実際、我々は《絶対的なものは主体である》ということを思いだし、そして、重要なことは主体の存在論的カテゴリーのあれやこれやの解釈ではなく、ここで全ての限界を抹消し、存在そのものに匹敵する、このカテゴリーそのものであるということを確かめねばならない。 現実と概念との間、また本質、主体と思想のあいだの対立が、一つ残らず、知覚できるものを包含するあるひとつの拡がった「全体性」の中で《排除されて》きたということは、このことが、それ自身について考察し、自分が打ち立てる目的を考慮して作用する活動的要請として考えられるということを妨げはしないーーこのことは、それはそれで、主体の定義であると同時にヘーゲル的な「理性」の定義である。(注8)ーーーーー(注8)ここで論議されていることは、それ自身の領域における正当性ではなくて、存在論的原型における主体のカテゴリーの上昇である。それ故、この批評を人間が死んだと宣言した後で、主体の死を宣言する、いま流行のいくつかの修辞学的実践と混同してはならない。ーーーーー 社会ー歴史的なものの存在は、それ故、この拡大された主体、つまり《歴史的民族》、の《生活》に関連して、そして、最終的には、「絶対-主体」、「理性」すなわち世界精神に関連して打ち立てられる。その表れは、ある目的論の連結として、あるよき序列に従った一つの階層として、考えられる。この階層構成は少なくとも二重であり、そうあらねばならない。すなわち、ある民族の瞬間瞬間の階層構成。その階層構成では、経済、法、宗教、芸術はある明確に定義された場を持っていよう。そして、この民族の階層構成。これは、人間のそれぞれの活動の縦の歴史の中で1つの良き序列を持込み、そしてその序列は、例えば、キリスト教は必然的に仏教に優るとか、近代哲学は必然的にギリシャ哲学に優るとかーーー(P31)そして、周知のように、プロシャの君主制は国家の完全な形態であるというようにさせるのである。この分野において、そして、そのほかの分野と同様にーーー遺憾ながら、 ここでそれを証明するとすれば長くなりすぎるがーーー、そして、絶えず繰り返えし言われることに反して、アリストテレス的論理は、その真の力において、その深い「ディナミス」において、ヘーゲルによって完全に維持されているだけでなく、完全に実現されている。また、この完全な実現を通して、そして、その最後に、最高作品(「形而上学」、「魂について」)のアリストテレスの中で、アポリア的なもの、最後の分割、「ロゴス」の限界、神的な観点の得難さの認識が維持しているものが、排除された(あるいは、明快な思想から追放された。そして最良のケースでも、偶然、幻想のそして誤りの規約に縮小された)ということは、このこともまた、同様にここでは我々は脇に置いておかなくてはならない。

(P31、1 7 行 目)

 マルクスは、彼は彼で、その歴史の「理論」において、ヘーゲル的な枠組みの中に留まっているーーー彼が彼の内部で企て、 行っている深い変化がたとえどのようなものであれーーーということ、これは、他の場所で私が示そうとしていたことである。(注9)マルクスが経済史あるいは政治史を「書く」時に、 少なくーーーーー(注9)MTR,I,II,III参照。現在は「社会の想像的制度」(この選集の次の出版予定のもの)に収録されている。ーーーーーとも部分的に別のことがおこるのである。それにも関わらず、マルクス主義とマルクス学の文献の1世紀の後に、 こうした歴史的分析の理論化はまだ全くなされていない。そして、たとえ、なされているにしても、マルクスのではなくて、その解釈者の理論を生み出すであろう。そして、当然のごとく、「ドイツ・イデオロギー」から彼の著作の最後まで、彼が公式化した歴史の明確な概念に正面から衝突するであろう。

 決定的なヘーゲルの図式にマルクスが深く依存していることは、 彼の世界史の全体の視点を考えるとき、そして、すでに、ある一つの世界史の彼の最初の断言において強い意味ではっきりとあらわれている。 その中心では全てが全てに連結し、貢献している。これは、ヘーゲルにとっては、これは哲学的に《根拠のあるもの》であろうと、マルクスにとって問題とはならず、その根拠がマルクスにとって見せかけのものとはならないで、 ヘーゲルから彼が受ける断言である。マルクスにとって、その基礎は、幻想であるような表明である。この歴史観の中心において、(p32)普遍的《生産様式》とそれに対応する階級の形態は《歴史的民族》の役割を果たしており、そして、人類の発展の必然的段階は「イデア」の実現のモーメントの役割を果たしている。民族の継承と《その生活の瞬間》が表す秩序に、ヘーゲルが課した、階層構成の二重の網は、マルクスによって完全に維持されている。そして、ヘーゲルが彼の時代のヨーロッパ社会の生活形態に例え展開されなかったとは言えいつもそこにあったものの完全に発展した《必然的モーメント》を見るように、それと同様に、マルクスも同じやり方で、過去の歴史の全体像の上にこうした形態を、回想的に投影するだろう。そして、こうした形態がまだ別々の形態として実現されていなかったときでさえも、 これらの基本的な相互関係は、 現在そうなるに至ったものと同一であったと断言するまでになるだろう。本当のところは彼は代数記号を変換し、「精神」を物質あるいは自然に換え、そして、ヘーゲルの弁証法を彼の足にはいたことを自慢しているのである。しかし、こうしたことの何もここで支配している論理に影響もしない。精神と物質の差異は、 もし両者が完全に指定される合理的な決定の総体として考えられるなら厳密に意味を奪われている(そして、このケースはヘーゲル的な精神であると同時にマルクス的な自然のケースでもある)。そして、数学は相反する二つの秩序の関係によって帰納される構造は、 同型のものであるということ、換言すれば、下部構造による上部構造の決定、あるいはその逆は、同じことになるということを教えている。

 受け継がれた論理学的、 存在論的図式はマルクスによって彼の理論の中心に据えられた最も《新しい》概念の機構の中で、相変わらず君臨している。こうして、 ヘーゲル主義にたいして外見上最も対立している定式化の一つは、《具体的労働》は《抽象的精神労働》の位置を占めなければならないだろうといっている。そうではあるが、「実際に」マルクスは労働をどの様に考えているのだろうか。 いろいろな概念にしたがってある物事に関するある主体の最終的な作業としてーーーあるいは、ある「思想的体系」に従って「現実的世界」に関するある「主体的世界」の最終的作業の体系としてである。《しかし、最悪の大工の頭領も、もちろん、最良の蜜蜂より優れている、すなわち(P33)、建築を実行する前に、自分の頭脳のなかでそれを計画しているということである。労働の過程の最後には、その過程を始める前に、すでに「労働者の頭」の中に存在していた結果が生まれてくるのである。すなわち、「観念的」存在をもっていた結果である。労働者は自然が彼に提供する材料を形態的に変えるだけではなく、同時に「その中で自らの目的を実現する」のである。それは、一つの法則として彼の活動の様式を支配していると彼が「知っている」目的であり、また必然的に彼の意志を従属せしめなければならない目的である。》(資本論、第1部、第5章)才気あり、情熱的な何十人もの若きマルクス主義者達は、 マルクスが単なる唯物論者では無いことを示すためにこのフレーズを引用してきた。実際、彼は、その上に合理主義者であった。結果の現れとして、《観念的に労働者の頭の中にすでに存在している》ものの「起源」の問題は、提起されることもできないし、されるべきでもない。もし、そうされるにせよ、一つの答しかを受け取ることは出来ないだろう(というのも、《反映》という概念に訴えることははっきりと馬鹿げた結果になるだろうからだ。つまり人は、馬車、ピアノ、あるいは、コンピュータが何の《反映》であるか知りたがるだろう)。結果の前提となる概念は人間によって(その度毎に、人間に課される限界の範囲内で、そしてその限界は基本的には彼らの知識の限界であるが)行われた理性的な練り上げの産物である。そして、その練り上げはその目的により合った方法を求めるためにものである。 この目的に関していえば、それが技術を越え、そして技術を支配する程度に従って、人間が想像する目的が存在するが、しかし同時に、またそして特に、いま言った目的が従属している目的が存在する。 つまり歴史的過程に内在的な目的が存在する。その実現は《生産力》の発展を通って進む。《生産様式》は、条件を考慮するなら、その度ごとに、だいたい最善でなくてはならない。もしそうでなくなった時は、おそかれ早かれ、もっと適当な他の様式(すでに前例においてまたそれによって準備された)に打倒され、とって変わられる。何のために適切なのだろうか。生産の能力の発展にとってである。社会-歴史的システム、《生産様式》は、その存在において進歩し、生産できる物事の量が増大するに連れて(そして、その起源から生産者としての人類の中に《まどろんでいる》能力が相関的に発展するにつれて)より現実性を獲得する。こうした増大は、目的、最良化の規範、それは純粋かつ単純に最上化であるのだが、それを定義する。ここで、マルクスは、(P34)資本主義の中心的な想像的意味の影響下に完全にいる。しかし、こうした想像的意味は、本物ではない (当の資本主義の イデオロギー にとってもそうでないのと同様である)。この最上化、潜在的な社会生産によって測ることの出来る社会のこの存在論的進歩は、社会が前提とし、生みだす主体の隷属化と対になっている。そして、主体はそれはそれで物に変わり、そして、自分が絶え間なく《生産する》物事の未知で敵対的な大海の中で迷うのである。しかし、これはどんなに長くても、理性の「カルバリオの道(キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へ歩いた道)」という一瞬に過ぎない。この《否定的》発展という「暗い法則(ratio abscondita」が存在し、そして、最終的に反対の《肯定的》発展を引き起こすことになる。ここで、我々はユダヤーヘーゲル的な糸を持つことになる。しかし、この最終的な転換は、ユダヤーヘーゲル的ではなく、ギリシャ的である。歴史的発展を全体に方向付ける最終的な目的は、「この」世の中での「良き生活」(eu zen)ことであり、このことは生産と労働から解放された人間を前提としている 。 生産と労働は 、 アリストテレス ならbanausoi(俗悪で隷属的である)と言うだろうし、マルクスによれば、必要性の王国に属し続けていて、 我々はこの王国を縮小は出来るがその本質的性格において排除することも変えることもできない(高貴で有り得る様な「生産的」労働は存在しない)といっている。現在、機械的な装置は単独で機を織ることが出来るので、奴隷の必要性はないーーーしかし、こうした装置には監視が必要であるかぎり、 この監視は自由が必要性に払い込まなければならない俗悪で隷属的(banausica)で、そして自由ではない活動の貢ぎ物であり続けるだろう。だが、「約束」の何かが残っており、そして、「理性」は、さんざん抜け目ないことを言っても最後は「摂理」である。自由の最後の王国は歴史的必然性によって我々にずっと保証されているーーー全てが野蛮の中に埋もれるのでない限りではあるが。

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 歴史のこの見解に、明らかに、マルクスのもう一つの大きな主題、《人類の歴史は階級闘争の歴史である》という主題は対立する。それに加えて、社会ー歴史的な行為の全ての面を覆う全世界的に真である テーゼとして提出されているが、この考えはもちろん部分的で相対的な価値しか持っていない。だが、この主題を表明するとき、マルクスはひとつの社会ー歴史的な実体を考えるために新たな道を半ば開いているのである。しかし彼は(p35)その道を最後まで辿ることはない。なぜなら、彼が受け継いで来た、そして彼の思想を支配している存在論が、それを妨げているからである。

 まず、次のことを思いだそう(注10)。2つの概念ーーー《史的唯物論》と《ーーーーー(注10)MTRII参照のことーーーーー階級闘争》ーーは、根本的に相容れないということだ。と言うのは、それらの片方を真面目に受け取る瞬間から、もう一方の内容は空になるからである。そして、かいつまんで言えば、マルクスの理論的仕事の基礎として残るのは最初のものである。階級は《生産様式》(それはそれで技術的発展の産物である)の一つの産物でしかない。階級は現実には行動せず、動かされるのである。最良のケースでも存在することに対して反応するのである。そして、必然的に幻想と盲目をもって反応するのである。 資本主義経済の理論を練り上げることはその機能が、条件として、《当事者の無自覚》を持っている、そういうシステムの客観的法則を発見することである。こうした法則は第一面に現れ、そして、研究の主題を構成し、資本家とプロレタリアの闘争を構成するものではない。階級の《客観的》定義は存在する。それは考慮されている社会、そして、この階級のあらゆる「活動」から完全に独立している社会生産関係の組織としてである。(ただし、この活動が階級の地位によって生産関係に巻き込まれている場合は除く。このことは不可欠ではない。例えば、封建領主達の場合を参照せよ)。個人の間の同等の関係。これは、生産関係における彼らの状況の同等性の結果である。そして、その生産関係とは、《彼らの意志から独立》しているーーーその意志は、「個人」の意志ではなく、「階級」の意志である。なぜなら、そうした関係は、生産力の発展状態によって決定されているからである。階級としての個人の地位を理解するには、(必要なら)生産様式を除いて、こうした個人の活動様式に何ら言及する必要はないばかりか、そのうえ、こうした様式はすべて、理論的には、この地位から厳密に推論されうる(ブルジョア家族、習慣、政治組織、イデオロギーは生産関係においてブルジョアが占めている地位によって決定されているのである)。

 同時に、だが、階級、もっと正確にはブルジョアとプロレタリアートのように、《歴史的役割を持った》「いくつかの」階級(注11)は、基本的に、歴史の舞台ーーーーー(注11)ヘーゲルの体系の中に非《歴史的》民族の問題とそれに関してやむを得ない沈黙があるのと同様に、 マルクスの体系にもどんな《歴史的役割》も割り当てられない階級の問題とそれに関するやむを得ない沈黙が存在する。ーーーーーに登場するとき、彼らが出会う状況を変革するという彼らの活動という点で根本的に考えられている。実際、このことは、さっき言ったことに関連しており、さらに言えば、聖書正典的解釈をすれば、第二の面が厳密にしかも完全に第一の面に従属してさえいる (このテキストの最初に引用した「聖家族」のくだりを始めとして、マルクスの数え切れないくだりが指示しているように)。しかし、これだけで十分ではない。そしてマルクスの歴史分析は我々をさらに遠くまで行くようにさせる。例えば、ブルジョア、 それを技術的発展のある段階の単なる受動的結果として非常に沢山の碑文的形式が紹介しているが、マルクスの具体的記述の中では、次のような尺度においてしか、事実上、歴史的に存在しない。すなわち、真の激しさをもってこの発展を担い、それを継続し、疲れを知らないでそれを拡大し、そのほかのことすべてを発展と言うものに従属させ、 その発展に反対する全ての障害物を《神聖であったものを冒涜する》に至るまでに破壊する。そして、(マルクスにとって、引用符なしに)全てが量化され、具体化され、計算され、合理化されてしまうまで。そして、全地球が歯止めのきかない開発にかけられてしまうまで。そして、人間生活の全ての面が資本の蓄積の要請にかけられて猛威を振るい、止まらないという尺度において。だから、ブルジョアジーそのものが、 自らをブルジョアとして決定づけるような生産関係を少なくとも一部分、 積極的に作りだすのであるということを認めなくてはならない。本来の問題に戻れば、ブルジョアの《誕生》、職人と商人の最初の中核の形成は重要で場所を特定しうる、いかなる技術的変革に呼応していないし、本来的な意味での封建的局面に対する労働の社会的分割の新たな展開、 そして、封建的支配の中にその時まで再吸収されていた、あるいは、その自らの存在という単純な事実によって衰退していた機能の分離と発展に呼応するものであるーーー一言でいえば、 ブルジョアの構成が急速な技術の新しい発展を条件づけたのであり、(P37)その逆ではないということを断言できる。マルクスに話を戻すと、彼がブルジョアの誕生について言うことの何も、例え彼がそれについて具体的に話しているとしても、 技術的変化には言及しておらず、《封建的支配を逃れた農奴》が行うこと、そして、それがいかにして自らを組織するかに言及しているということを我々は確認できる。 ブルジョアの歴史の別の決定的瞬間、《原初的蓄積》についての彼の記述を再読するとき、資本主義への道の根本的な条件、産業における雇用契約にとって自由に使えるものになる大量の労働力の《解放》、《家も家庭も持たないプロレタリアートの暴力的な創造》は、《単に直接的に大地主を作るにすぎない》技術的発展の外側にある過程から根本的に生じている。そして、本来の意味でのブルジョアジーさえもの外側にある過程から生じるということを確認できる 。《上昇しつつあるが、なお、完全に勝利したわけではないブルジョアジーは、なお国家権力を必要とし、それを使っている》(国家権力はこうして、まだ支配的でないひとつの階級の道具にかわる)ことを確認できる。そしてまた、最終的には、ブルジョアジーは《資本主義制度における生産の封建的制度の変化の過程を飛躍的に促進し、そして間隔を短くするために、国家権力、社会の中央集権的で組織された力》を利用するときに、ブルジョアはひとつの社会-歴史的要員である。 そしてその活動は生産関係のなかですでにブルジョアが獲得した地位(《亀の歩み》の蓄積だけで満足するようにブルジョアに本来強いるべきであったろうに) によって線引きされた枠組みを大いに越えており、そして、それは、新たな生産関係の到来を求めて働いている。しかし、その新たな生産関係の実現はブルジョアを真の資本主義的ブルジョアジー最後には変えてしまうだろうということが確認される。(とはいえ、このことは、マルクスがブルジョアを産業の進歩の《盲目的で受動的な要員》に変えるという「共産党宣言」の一節を、上記の引用を行った「資本論」第1部、第7篇のこの同じ場所で、もう一度採用する妨げにはならない)。

(p37、下から7行目から)

だから、この原初的蓄積についての記述は、生産力の状態に「内在する」必要十分条件の聖書正典的全体の集合に資本主義の誕生をわい少化しようともくろむあらゆる理論化に関してひとつの「欠損」とひとつの「過剰」を同時に表している。「欠損」と言うのは、家も家族もないプロレタリアートの創造、それは、(p38)産業資本主義への道にとって必要な条件なのであるが、この時代のブルジョア的生産様式の外側にあるの過程の結果であるからである。すなわち、この時代のブルジョア的生産様式の《内在的》論理に対しては、それは《外在的》で、偶然的である。このことから次のことが推論される。この生産様式そしていわんやそれに相応する階級の歴史的な効果は、 それとは異質な、べつの社会ー歴史的な要因の必然的協力によって定まる。しかし、また、そして、とりわけ、過剰だというのは(おそらく《亀の歩み》で蓄積し続けたであろう) 一つのブルジョアと言うものの単なる存在だけでは十分ではなく、この社会的カテゴリーは、実効的な行為をとり、すでに与えられた生産関係の中での彼らの地位が課するであろう活動を遥かに越えるひとつの行動に専念する必要がある。つまり、以前には知られていないで想像できなかったこうした関係のひとつの状態の《目的》によって動機づけられた行為と活動である。さて、正に、この過剰を通して、《おまけに》企てるその活動を通して 、 ブルジョアジー は最後にはその完全な意味において ブルジョアジーに「なる」し、すでに獲得した状況に厳密に呼応する役割を越えるとき、その《歴史的役割》の高みに昇る。もし、ブルジョアが自らを発展させ、生産力を発展させるなら、それは、その際限のない発展という《概念》に本当に「取り付かれている」からである。すなわち、その《概念》とは、明らかに現実的な何かの知覚でもないし、合理的な推論でもないという《概念》(私の用語では想像的な意味)である。ジョルダン氏が何を話しているか自分でわからずに話すことは、すでに《下部構造》に明記されている意味の全体を散文の形で翻訳したものではない。というよりむしろ、その散文の使い方だけを知っている限りは、ジョルダン氏であり続けるだろう。ある残酷な叙事詩、そして、ある怪物的な宇宙進化論の言葉を使い始めるとき、資本家に変わるであろう。その宇宙進化論においては、この《下部構造》の、それ自身による際限のない発展は、歴史上はじめて、知的に考えられ、心理的に負担を背負い、イデオロギー的に評価され、社会学的に可能な、歴史的に現実的な何かに変わるであろう。

 マルクスの記述は、それゆえ、ブルジョアの活動を生産力の状態によって完全に決定されるものとして「現実の姿で」提示しているのではなく、この状態を不完全に決定づけるものとしてブルジョアを通して「未来の姿で」提示しているのである。ブルジョアは、(P39)その「行為」が最初にいる社会ー歴史的な状況、さらには、生産関係と生産力だけでなく、この生産力の「社会的存在様式」、自らの絶え間無い変化に不可分の「歴史的一時性の様式」、そしてさらに自らの「定義」そのものも含んで、この社会ー歴史的状況を変える限りにおいてブルジョアとして「行動」するのである。この行為は、その《目的》、その《思想》、そして、生産力の限りない発展という想像上の意味にそれを関連付けることで初めてそれを全体的に理解されうる。(この意味が、少なからぬ尺度において、意識的なものでない限り、そして、意識的な尺度においてこの意味が他の目的、すなわち人間の幸福、および、「良き生」を達成するための手段として、 こうした発展を提示するあるひとつのイデオロギーに覆われたままでいる限り、 この意味は明らかにこの点に関しては何も変わらない何かである)。ブルジョアがもとからいる実際的状況に疑いもなく根づいているが、しかし、その状況をもし乗り越えなければ、その行為は、繰り返以外の何も生み出さないであろう。 あるいはせいぜいその状況の遅々とした変革ぐらいなもので、そして、資本主義につながる歴史的変化は生み出すことはないだろう。このことを我々はブルジョアがある期間の間、ある長い期間の間、あるいは永遠に、その自分の《歴史的役割》を担うに至らないという、多数の事例の中で見ることが出来る(注12)。ーーーー (注12)他の歴史的要因を持ち出しながら、いつもこの《欠陥》の言い訳がつくとしても、問題を何ら変えるものではない。この《説明》はいつでもうわべだけのものである上に、まあまあ重要なケースにおいても(例えばトロツキーの「永続革命」理論でも)、ブルジョアの活動の発展を抑制し、邪魔する要因の重要性を指摘するだけであるーーーその後にこの活動(《有利》なケースにおいて妨害されなかった活動) が社会歴史的状況の反映でもありきたりで強要された表れでもなく、 この状況の変革の要因であることを暗に認めるのである。 ーーーー

 また、明らかに中立ではない、《歴史的役割》というメタファー(隠喩)の持つ重みも見なければならない。 この社会的階層にそんな役割を割り当てるような何か作品が存在するのであろうか。そして、その著者は誰であろうか。あるいは、我々は「コメディアデラルテ」(16-18cのイタリア即興仮面喜劇)の前にむしろ居るというのだろうか。しかし、どんな伝統がその登場人物と筋書きを決めたのだろうか。あるいは、今夜は、前もって決められた台本、筋書き、登場人物無しに本当に即興劇がなされるのだろうか。前述の(p40)、相入れない2つの概念の間の正面からの対立は、ここで完全に明らかになる。次の2つにひとつである。まず、ひとつの《歴史的役割》について語ることは、単に修辞的で類語反復的で空疎な形式であり、そして、それは単に、「事後の」観察者の眼に映る世界は、もし以前の出来事が実際起こったのと違っていたら、 そして、 いろいろな社会的階層が実際に行ったのと違うことをやっていたら、現在の世界と違うであろうということを意味するだけである。あるいはーーーそして 、 これこそが明らかに マルクス が我々に理解させたがっていることだがーーーその表現はひとつのつまらなくはない意味を持ち、そして、 歴史的発展はその意味を話し手が持っているひとつの秩序に従って実現されるのであり、 社会的階層のあらゆる出来事と活動はそれらを越えるが、しかし、理論的には以前から与えられているある結果あるいはある目的の達成においてひとつの機能を持っていると断言するものであるかのどちらかである。そして、後者の場合には、像(それはそれとして、もはや像ではなくなっているが)もそれを支えている形而上学も、受け入れ難い。

 しかし、もし我々がもっと注意深く観察するなら、我々には二律背反と、マルクスが自分の目的のひとつに有利になるようにそれを導こうとする動きの必然的性格がわかるだろう。ブルジョアの社会ー歴史的存在は、マルクスにとっては一部ではあるが、 あるがままの状態としてはっきりと現れている。すなわち、 自分の状況の与えられた要因を越えるやり方でその状況に対して反発し、 そして自分が企てる変革の活動と言う点で基本的に自らを定義するひとつの社会的層の存在としてである。《自由都市》からマンチェスターへ。時計から蒸気機関へ。フランドルの村祭りからビクトリア朝の風俗へ。同業組合的独占から自由主義という宗教へ。宗教改革から自由思想へ。古代への回帰願望から17世紀のいわゆる白紙化へ。そこから、新たな古代への回帰願望へ。ブルジョアジーがおかれている状況の多様性と対立性、およびブルジョアが自分の活動について行う表現を通して、そして、それにも関わらず、それを越えてであるーーーその行動、その振舞い、その組織のタイプや形態、その価値、その思想、しかしとりわけその行動の「効果」は、何世紀にもわたって、そして数多くの国々で、最終的にはひとつの社会ー歴史的な姿を構成している。「ひとつの」である。しかし、そのような存在、そのようなまとまりは、 マルクスが知っていて彼が属している思想の枠の中で厳密には何等の規約も持っていない。(P41)それらは、脈絡のなさ、どんなに《弁証法的な》ものであろうと概念化に対する馬鹿げた挑戦の雲、というか堆積以下のものである。この存在のまとまりは、明らかに、それを構成する個人のアイデンティティーによって与えられているものではありえない。また、個人が位置している《客観的状況》の類似性によっても与えられていない。というのも、こうしたものは、時代と空間でかなり変わるからである。しかしまた、有効な生産関係によっても与えられない。というのも、この点に関して、13世紀の職人と商人、16世紀の大銀行家、19世紀の工場主を同一視することはできないからである。そして、このことはさらに、このまとまりをひとつの「形態」のまとまりとして語ることはできないということさえもを示している。もし存在するなら、この活動の「結果」の類似性から考えられるだけである。それも、もちろん結果の中に(なお無限に変化しうる)《物質的な》結果を見るのではなく、似たような《意味》を探すという条件でである。こうした結果は、ブルジョアが、ひとつの《ブルジョア的基盤》の上に世界を統一する傾向があること、すなわち、生産力の無限の発展という唯一つの絶対的必要性によって統められるひとつの組織を創るために社会的存在のあらゆるこれまでの形式を情け容赦なく排除する、 そういう性質を持つひとつの階級であることを示している。このことは、ブルジョアのまとまりは、その行為のまとまりによってブルジョアに与えられており、 その行為のまとまり方は、 実現するに至る歴史的目的のまとまりによって定義されると言うのと同じことである。しかし、カタルニヤの職人達、ハンザ同盟の船主達、フッガー家の人々、マンチェスターの綿業者達、フランス王政復古期の銀行家達に共通であったと思えなくもないひとつのまとまりがいったい何を意味しうるのであろうか。この目的の内容をどの様に定義するというのだろうか。それはどこか定義できないものでしかないのに。 なぜ定義できないかと言えば、世界の資本主義は連続的に変貌しているからである。特に、目的の主体なき目的は、最悪のケースには不合理、最良の場合でも、ひとつの擬人法、つまり言葉の乱用以外の何であると言うのか。我々は、いま完全な作り話の時代にいる。思想の確固とした大地は、我々の足の下に沈んでいる。そして、我々はどんなに大変でもそれを再び見つけることが必要である。

 つまり、ブルジョアの存在に存在論的、概念的な内実を与える必要がある。そして、これはいくつかの作業を意味する。それは、いつものように、(p42)最後にはそれを対象のカテゴリーに、他の分野ですでに周知のそして研究されている存在のタイプに帰してしまうのである。 その考えられている対象は、一種独特のものであり続けることはできないし、特殊な数々の違いの単なる総和としても、定義されえない。つまり、その対象が属しているひとつの「近縁種(genus proximum)」が必要なのである。それゆえ、既存の諸階級のひとつのクラス分け、 ブルジョアジーのような複数の対象に言及するようなひとつの概念を打ち立てることが必要である。そして、この対象とは、その根本的特徴によってのみ、 対象自身の中で確認されることができなければならない。ブルジョア、封建領主、ローマ貴族、中国の官僚達は、基本的に類似していて、比較しうるものであり、そして、その概念のもとで、そしてその階級の本質を通じてそのようなものとして考えうるはずである (注13)。その本質は、それはそれで、その他の割り当てーーーー(注13)ここで問題にしていることは、マルクスと彼の大系の枠の中における階級概念の構成を律する論理的必要性は何であるかを示すことであって 、我々が知っているように、 マルクスよりずっと前のものである階級概念の実際的歴史的起源を示すことではないことは明らかである。ーーーーられえる本質、あるいはそれらの集まりと集合に関連して、そして最終的には最初の本質への還元によって考えられうるものでありはずである。そして、最初の本質とは、事物と主体である。(思想は現実には考慮されない。というのは、マルクスは思想は、現実的なものを何とかうまく繰り返すことしかしないのだと決定したからであるーーーそれは プラトンが現実的なものはどちらかというとうまいと言うよりはへたに思想を繰り返すことしかしないと決めたのと同様である)。階級はだから生産関係の働きの中で定義され、そしてその生産関係は、結局、《物事によって媒介された人間関係》である。本質と表明との間の存在論的な関係の構造は、 本質の認識がその本質の表明を知ることを可能にするということを保障している。というのも、本質はただそれに特有の表明を根本的につくり出すだけで、その反対に、本質的に特定されていない表明は、定義上、偶発的なものである。表明が、本質によって限定されていると言うことは、 現象が法則に従うということを明らかに意味している。それから、同じ原因が、同一性の原理のおかげで、同じ結果を生み出すとき、我々は理論上、そして、我々の知識と我々の分析能力の不完全さに起因することを除外すれば、《現在の実態、これからの実態、過去の実態》を知るのである。(P43)もし、ゼウス(訳注:雷を武器にした)が避雷針のためにコケにされ、ヘルメス(訳注:盗みをする)が動産の「信用」でコケにされたとすれば、どうしてカルカス(訳注:トロイ戦争の予言者)は我々の知識でコケにされないでいられようか。階級の《存在》は、しなければならないことをするように階級に《歴史的に強いている》。この《存在》を知りつつ、我々は歴史における諸階級の活動を認識し、そして、現実的驚きからも、 そしてそれと比較できないほどずっと深刻な哲学的な驚きからも身を守るのである。この一連の対象を「全体」(それは「ひとつ」である。そして、そのなかでそれぞれの対象はその場所とその機能をもっている)の中に統合することがまだ残っている。これが《歴史的役割》というものがもつ役目、《階級の機能》というものがもつ機能である。この目的はこうしてその最終的な品格を受け、 その存在は両側から存在するもの総体にしっかりと結び付けられているのである。それは、すでにこれまでそうであった実態の中にこの対象は必要で充分な原因を持っている。そして、これからどうなるかという実態の中にその最終的な原因を持っている。そして、それは物事の結果を支配する論理とも主体の行為を支配する論理とも一致している。 だから、階級という美しい概念が打ち立てられたのであるーーー階級という概念は 、擬制の「構築物」であり、その他すべての歴史的階級に、それらが持っていないブルジョアの特徴を押し付け、そしてブルジョアからその存在(本質)とそのまとまりを形成してきたものを奪い取るという華 々しい偉業を達成している。ルカーチはマルクスが「資本論」の最後の章で階級について書かなかったことを、労働運動にとってひとつの不幸であると考えていた。おそらくそれを書くことができたかどうかを自問してみるべきであったろう。

 現実には、我々はブルジョアの存在(本質)を、その「行為」に、その社会ー歴史的活動に関連付ることによってしか理解することができない。 この活動の本質は与えられたそして十分定着された生産関係の穏やかな機能を保障することではなく、それを知っているか否かにかかわらず、それを望むか否かにかかわらず、何世紀も前から始まり、またなお終わっていない前例の無いひとつの歴史的変革を行うことである。ブルジョアジーの存在は、その行為を通じて「やってくるもの」に関連づけて理解できるに過ぎない。さて、この行為の中でそしてそれを通じておこる「こと」、そして(P44)「起こることの中で、そしてそれを通してのそれ」との関係を、我々は、他の場所には先例も、類似も、モデルももたない、絶対的に独創的で、還元できない《対象》および《関係》として、その「独自の存在」の中に、見るように至ることが必要である。そしてこの《対象》および《関係》は、すでに与えられた、あるいは構築しうる対象あるいは関係のひとつの《タイプ》に《属する》のではなく、自らが唯一の手本であるひとつの《タイプ》を、生じさせ、普遍的なものと独特なものの決定には(形式的にまた無内容にしか)従わず、その理解可能な独自の条件を、他のことから受け取らないで、生じさせるのである。実際ここには、(目的の部分的モメントが絶えず巻き込まれた意識的活動に介入するとしても)ひとつのあるいはいくつもの主体によって追求され、そして求められた《目的》も無いし、また(ほとんど全ての部分に対して《因果関係》および《動機づけ》ははっきり現れているとしても)指定可能な原因の全体の明確な《結果》もないし、また、(たとえ全てのレベルで、互いに関連する意味が常に浮き出るとしても)意味の全体の《弁証法的な》生産でもない。

 ブルジョアの行動を通じて到達するものは、 生成における社会ー歴史的なひとつの新たな世界である。そして、この世界、この生成そしてこの生成の方法そのものが、 ブルジョアが自らをブルジョアとして創造するブルジョアの創作なのである。 これはいま我々の前に現代官僚資本主義世界として現れている。そして、それに通づる、そしてその中で結ばれる(他の糸は道の途中で切れた)過去の全ての糸、および(いくつかの糸はすでに印をつけられているかも知れないし、そうではないものもある)それから出るまだ《実在しない》全ての糸を持っている。このまだ《実在しない》糸はこの近い将来織られることになるであろう。そして、その未来はそんな風にしてその糸を修正し、それらに別の糸を付け加えていくだろう。そして同時にその現実において、すなわち、その意味において仮定的に《すでに確立された》過去を遡及的に修正し続けるであろう。我々は疑いなくこの行為を、その度毎に似たような状況に置かれた人間のグループに、 そして特に社会階層に、 またもっと正確にはひとつの「一連の」社会階層に関連づけて話している。しかし、こうした状況、あるいはそれに相応する《客観的特徴》は、ここでは単に要因か、あるいは「参考点」か局部化の「点」に過ぎず、そしてひとつの概念に統一されないものである。この、我々が話している一連の社会階層を「局部化」出来るこうした特徴をあるひとつの概念(その内包をその特徴が構成することになろうが)に変えるために、(P45)その特徴がブルジョアにその統一を与える(というか、もしそう言いたければ、その特徴がブルジョアを表現する)と主張できることが必要になるであろう。さて、このことは間違っている。《生産関係》という言葉を使ったいかなる曲芸もこの言葉の庇護のもとで、13世紀の職人や商人、18世紀のマニュファクチャー業者、20世紀の多国籍企業のトップ達の状況の特徴をひとつにまとめるものとして考えることを許さないだろう。もちろん、我々が今上に挙げたばかりの階層は生産(あるいは経済)と関連したいくつかの特徴おかげで、そうしたものとして特定あるいは認識されうる。しかし、これは生産関係の「内部の」状況の同一性(あるいは類似性)ではない。それはこうした全ての階層がもつの生産「との」「関係」に関する類似性である。軍人をその階級によってそのようなものとして同一視あるいは認識することは、 彼らすべてが軍隊とある関係を持っているということを単に前提としているのであって、 彼らが軍隊で「同じ」地位にいることを前提としているのではない。さて、生産(そして経済)とのこの関係をつくり出すのはブルジョア自体である。その行為が最終的には資本主義世界を生み出すこの連続した階層は、 生産とのその関係の働きの中で場を限定され、確認されうるだろう。しかし、これは正しく、ブルジョアが我々の世界に導入するものの部分をなしている。私は、ヒンズーのカースト、古代の《階級》、封建的《身分》を、生産関係におけるその状況に言及することではそのようなものと認識することはできない (アテネあるいはローマの市民が奴隷所有者であることは、必ずしも無いし、一般的にもそうではない)。宗教的、法ー政治的等の、参照あるいは確認の点が必要である。しかし、ブルジョアの誕生以来、参照点、すなわち生産関係における立場は、事実上、妥当なものになり、そして最終的にその他全てのものを第二面に押しやっている。このことから我々は本質的な問題に行き着く。すなわち、生産関係にそれを関連付けながら、すべての社会ー歴史的形成にとって有効であるようなひとつの階級概念を定義することは、 こうした関係とともに、他の《階級》が歴史において維持している「関係のタイプ」は、ブルジョアが維持しているものに本質的に同一であると断言するに等しいーーーそのことは、純粋かつ単純に誤りである。なぜなら「ブルジョアとはその階級を通して生産との (P46) 関係が根本的関係として歴史の中で生ずる 《階級》」、その仕事が生産(「合衆国の仕事はビジネスである」)である《階級》である。また、自分自身を根本的に生産に専念し、集中したものとして定義する《階級》であるーーーこのことは確かに封建領主や、古代の市民、あるいはアジアの専制君主とその《官僚達》のケースではない。また、ブルジョアとは行為において人々とその関係をーーーさらには社会の現実、 そしてさらには、 実質的に何の残りもないむき出しの現実をーーー生産の機能の中で定義する《階級》である。このことの数多くの結果の中に、マルクスはブルジョア社会に沈み込んで、この観点、すなわち社会の中心的で決定的な仕事ととしての生産という観点からしか過去の歴史の全体を見ることが出来ないということが存在するのである。マルクスが実際にそうしているように、ここで、あの有名なヘーゲルのテーマを取り出してきて、そして、生産とのこの関係は常に根本的なものであり、 それを明確化したことがブルジョアの唯一の革新であったと言っても何の役にも立たないだろう。 資本主義時代に特有なことーーーそして、マルクスの意見では《特権》であることーーーは、正に生産力の前例無き発展「および」社会生活におけるあらゆる他の関心、尺度、価値の崩壊である。そして、そのことは生産とそのほかの社会生活の領域との、いま考慮されている(そしてその他全ての)《階級》の関係のラジカルなひとつの変革なしには実際に不可能である。つまり、「蓄積せよ、蓄積せよ...」という言葉を《巨大な特効薬》にする変革なしには不可能である。歴史における他の階級の支配が、生産力のある「状態」の結果として優位に立ってきた(このことは誤りである)ということを認めるにせよ、ブルジョアが社会全体にこうした力の「発展を押し付けたとき」優位に立ったということは明らかである。このことは、ある原理の《客観的》状況において、ブルジョアにそうするようには何ら強いていないと、我々は付け加えておこう(注14)ーーーーー(注14)事実、《競争》はブルジョアによってその発展の非常に遅い段階でつくられ、強制された。つまり、ブルジョアは競争的なところが何もない環境の中で生まれ、育っている。他のやり方で生まれるのは難しかったであろう。そして、事実、ブルジョアの起源から現在まで、真の経済的競争は、ただ例外的に、断片的にそして、短い期間においてのみ見られたのである。ーーーーー (P47)そのことは、ブルジョアの「行為」と「成長」がそれに住まい、そしてそれが体現し、《現存し》、そして、その中で読み取り可能な想像的な意味に関連づけることではじめて理解されると言うことを意味している。この意味で、絶対君主制の高官達、君主、貴族と大地主、宗教改革者、イデオローグそれに学者も含めて、商人や小さな雇用主ばっかりのかたまりと同じくらい、そして、ずっとブルジョアに《属している》ことができるし、《属してきた》のである。ブルジョアの社会ー歴史的変革は、それ自体において「可能」ではないし、ブルジョアが生み出し、そしてブルジョアをブルジョアに変えるような想像的な社会的意味の マグマの関連においてしか我々には「理解でき」ない。実際次のようなことになる。地理的な全領域において、そしてあるひとつの時代全ての間、人間の行為はその時まで(社会的に)不可能であったものを可能にし、そして、以前は不合理で理解できなかったものを論理的なものに変え、 以前認められた見解に従って意味を奪われた目的の方に方向付けられた新しい手段を用意し、 自らを組織する新たな社会的連結を発明し、そのことを通じて自らを方向付け、自らを考え、自らを正当化する明確な神話と観念を発明するのである。さて、この行為はいわゆる絶対的物理的世界の中での分子の移動に関しては当てはまらない。 その行為は《いまそうで》ないものすべてをとおしてそうなのである。つまり、対象との、しかし同時に別の個人の行為との、さらにまた、それが絶えず埋もれている集団的かつ匿名的活動との、そして、自らが目論むはっきりした目的との、 しかし同時にそしてとりわけ決して支配することのないその影響の終わりの無い鎖との、 限りなきそして一部不明確な関係をとうしてそうなのである。そういうことでもって、与えられた社会的文脈において、それを論理的あるいは不合理にしたり、有効あるいは無意味にしたり、賞賛すべきものあるいは犯罪的なものにする。この行為は、そうでないものに「関連」するすべてを通してのそうなのである。すなわち、その「意味」によってそうなのである。マルクスは、(P48)黄金がそれ自体では貨幣でないのと同様、ひとつの機械は、それ自体では資本ではないと言った。ひとつの機械は「資本主義的な」 社会および経済関係の網のなかへそれが組み込まれて初めて資本になる。これが機械の資本としての意味であり、機械の物理的そして技術的なその特性と何等関係のない行為に応じてその意味を失う (あるいは獲得する)のである。ひとつの身振り、あるいは、ひとつの一連の身振りが、決してそれ自身で労働ではないのと同じことである。 こうした意味はひとつの《全体》もひとつの《階層構成》もなしてはいないし、習慣的な論理関係(帰属あるいは内包、順序関係とその他の関係)に従わない。それらがいつも明示する唯一の関係は単なる他動的関係、つまり「関連」である。この理由によって、そして、誰も、《はっきりしたそして定義された要因》としてそれを扱うことができないために、それらを私はひとつの「マグマ」と呼ぶのである。このことはすでに問題は合理的意味ではないことを示している(合理的意味の場合には、それは論理的操作を通じて打ち立てられ、本当のことと本当でないことを問題にできるような関係を明らかにすることが出来なければならないだろう、そして(ここでは)それは意味を欠いている。すなわち、農奴-主人の関係はあるがままのものであり、《理由付けること》ことも、《論破される》こともできないのである。)また、《現実的なこと》の意味を、そうあるところのものの抽象的な表現を問題にしているのでもない。 というのは、もしそうあるものが、実際に表現されているように表現されているなら、それはまさに、その表現をとおしてである。そして結局は、どのようなものであれ、あるものが社会的に「存在する」なら、それは表現を通してであるからである。

 結局、そのことは、ブルジョアの行為が「現実」、「大切である」ことと「大切でない」ことーーーこれは、後には存在しないーーー(だいたいこうである。つまり、勘定されうるものと会計簿に入らないものである)についてのひとつの新たな定義を作ることを意味する。英語では、重要である「こと」と「重要で無いこと」(of what does matter and what does not)の、とうまく言っているように、「物質」であることと「物質でない」ことの新たな定義を作るのである。書物にではなく、人間の行動、その関係、その組織、本質の知覚、価値あることの肯定と探索ーーーそしてまた、もちろん、彼らが作り出し、利用し、消費する物の物質性の中に記された新たな定義である。この行為は、だから、新たな現実、ひとつの新たな世界、社会-歴史的な新たな存在方法の「設立」である。この設立はーーーそれはそれで、何世紀もの間展開しながら、そして、なお(p49)終わってはいないのだがーーー数え切れない二義的な設立、言葉の普通の意味での設立を支え統一する、その中でそしてそれによってこの設立は自らを編成するのである。すなわち、資本主義企業からラザレ・カルノーの軍隊まで、《法治国家》から西洋科学まで、教育大系から博物館のための芸術まで、「パラグラフ-ロボット」としての裁判官からテーラーシステムまでをである。それとの関連においてのみ、資本主義の時代に特有な制度の設立の方法も、設立された意味の内容も、制度の具体的な組織も、その歴史的特殊性の中で理解することが出来る。

 この設立は「創造」である。いかなる原因の分析も先例となる状態から《それを予言》出来ないだろうし、いかなる一連の論理的操作も、概念からそれを作り出せないだろう。明らかに、それはある特定の状態から生まれ、まだ生き生きとした過去の創造の数え切れない量を手にいれ、 そしてそれらのいくつかによって長い間支配されたままでとどまる。しかし、ブルジョアの設立する行動が前進するにつれて、 最初のうち保たれていた過去のものの意味は次第にあるいは急激に、あるいは《破滅的》(宗教改革でのキリスト教と同様)やり方で、あるいは新たな関係の網と新たな現実の中への挿入によって知覚されないで、変わってゆく。 第二のケースの最も驚くべき例は、ライプニッツがアークライトと同じ程度に、そしてゲオルグ・カントがヘンリー・フォードと同じ程度に一部をなしているひとつの運動に沿って、《合理性》に変わり、《合理化》に変わった(注15)《理性》の運命である。Cum homocalculat, fiat I.B.M.(算術人間とともにIBMができる)なのである。ブルジョアが、その行為の中でまたそれによって、世界にもたらし、押し付ける中心的な想像的な意味、すなわち、生産力の無限の発展との結合で、現代の《合理性》が考えられるような場合に、始めて理解することが出来る運命である。さて、「この」意味は全く新しいものである。何の疑いもなく、富の蓄積者および保管者は遠い昔の時代から存在しているし、我々は、(P50)アリストテレスが無限の「利殖」、獲得のための獲得を認識していたこと、それに経済的なことの堕落という意味でそれを批判していること知っている。 しかし、我々は同様にブルジョアで問題なのは、 一般的な無限の蓄積ではないことを知っている。そうではなくて、一定の総計の大部分から引出すものとしてではーーーーーー(注15)この《合理化》が合理化ではないことは、私が別の場所で示そうとしたものである。特にCSI、II、IIIまたMTRのVを参照のこと。ーーーーーーなく、規則的な発展と拡大として実現されなければならない(し、そうできる)獲得を問題にしているということを知っている。そして、 この獲得はすでに獲得されている生産力と価値を生み出すやり方の継続的な変換なしには不可能なものである。そしてまた、外の社会的な制限を全く受け入れないし、 誰かあるいは何人かの個人的活動であり続けることはできなくて、すべての社会生活の範囲を生産の無限の拡大の《論理》に従わせながら、 その変化と変革に変わらなければならないのである---そして、もちろん、道具や目的や生産そのものの組織の絶え間ない変質と変革である。こうした全てのことは、過去の歴史的状況を繰り返さないし、一般化しないし、特徴付けもしないし、同様に、過去の歴史的状況から推論も、《生産も》されないし、昔の詩人や哲学者によって予想も想像もされていなかった。

 ブルジョアの行うことは、 資本主義の制度として目に見える想像的な生産である。

 ブルジョアというこの歴史的対象から、それゆえ、我々はいわゆる《階級》概念という一般概念の中にこの対象を包括することで「何も」学ぶものはない。そんな従属は、形式的で内容がない(その《概念》は関連する点の集合あるいは局地化に過ぎないので)か、またあるいはごまかしのもの(同定できない対象の同定をもとめるがゆえに)か二つにひとつである。階級のマルクス的概念が当のブルジョアが歴史的に最初に作り上げたひとつの現実のいくつかの面の抽象でしかないだけにそれだけ、ごまかしである。マルクスの意味で《階級》としてブルジョアを考えることは、何も考えないことか、もう一度、普遍的装いをして、この対象からすでに(一部は間違って)引き出された、そして事実上その「特異性」に対応していることを見つけることかのどちらかである。

(p51)

***

 結局、我々は、以前のことをすべてその検討のための準備でしかないものとして、我々の真の疑問を考えることにしよう。労働者階級、労働運動、その歴史とは何か。《ラッダイト主義者》、「canuts」、1956年のポズナンとブタペストの労働者達、ゼネラル・ストライキの形、サンディカの機構、FAI、「wobblies(世界産業労働組合員)」、マルクス、バクーニン、山猫ストライキの間にどんな関係があるのか。 数世紀前からーーールネッサンスの初期のイタリア及びフランドルの都市の人民運動からーーー労働者階級として、 そして労働運動として「生起する」ものは何か。どの様な意味で、説明的で名目的なやり方とは違ったやり方で、「ひとつの」労働者階級、「ひとつの」労働運動について人は語ることができるのだろうか。

 ふたつの主要な考察によって、 我々はさらになお複雑な理論的状況にさし向かっている。

 第一のものは「我々にとって」労働者階級は(それはそれとして、異なったやり方であるとはいえ、資本主義あるいは現代の官僚制と同様)、ローマやインカ帝国あるいはロマン派音楽のように、単なる《歴史的対象》であるのではないということからなるものである。 労働者階級および労働運動の問題は我々が生きている社会の危機と、その中で展開される闘争の問題、その変化の問題、一言で言えば、現代の政治の問題と広範に一致する(いずれにしても、長いこと一致してきた)。我々の問題は、それ故、この《対象》の統一性や存在の仕方に関する単なる存在論的あるいは哲学的な問題ではないのである。我々はどの様なやり方でも、「プロレタリアとは何か」といった問題を、「現在において政治とは何か」といった質問から分離することはできない。だから、我々にとって、後者の質問は社会の根底的変化の展望の中でのみ考えられる。そして、この変化の計画は労働運動の中で、そしてそれによって歴史的に明らかになり、関連づけられ、定式化されてきた。

 第二のものは、我々も知っているように、この関連がマルクス主義によって、まさに、そして非常に限定的な意味で、実行されたことである。マルクス主義は次の質問ーーーある階級とは何か、そして、プロレタリアとは何かという質問ーーーへの答を持とうともくろむだけでなく、(p52)またプロレタリアにその歴史的任務として社会変革を指定し、そしてこうして、政治が今後はプロレタリアートの権力への接近と、そして、それをもって共産主義社会を建設する準備をし、それを実現する活動だけであるとして、政治全般の問題に決定的解答を与えようともくろんでいるのである。 言い替えるとこういうことである。すなわち、現実における(革命的な)政治はプロレタリアの即時的で歴史的な利害を表し、またそれに奉仕するものであると。さて、 マルクス主義そのものが労働運動にかなりの影響を与えてきたーーーそして、間接的に、それから負けないくらい大きな影響を被ってきた。両者はいくつかの国では、また、無視できない期間の間、一致して来たが、だからといって、 ただの一瞬といえども同一のものと見なされることが出来るわけではない。 両者をただひとつの同じの問題として語ることは不可能であり、もう一方のことを語らずに片方を語るのも、 プロレタリアートについてのマルクス主義的概念形成を無視したり、あるいは、プロレタリアート「の」概念形成でありたいというその目論見を受け入れることも不可能である。 そして、さらに、その概念形成を完全に拒絶することも不可能である。なぜなら、ある意味で、また、ある部分、ある瞬間には、実際にそうしたものであったからである。

 マルクスの概念形成において、プロレタリアートとは、その状況が彼らが実際にその中にいる資本主義の生産関係によって《客観的に》決定されている階級のことであるーーーつまり、もっと後でトロツキーが言うように、《即時的》階級なのである。同時に、それはその歴史的《役割》、《機能》あるいは《任務》、つまり、階級社会の廃絶と共産主義的社会の建設、によって決定される階級である。それゆえ、《対自的》階級に変わり、同時に階級としての自らを消滅させるような階級である。しかし、両方の用語に存在している関係はどのようであり、 一方から他方への移行はどのように行われるべきであろうかーーーなぜなら、1847年にも1973年にもプロレタリアートは《対自的階級》ではなかったのは明らかだから。もし、この移行が行われねばならないないなら、(p53)これが、プロレタリアートの歴史の、労働運動の真の意味になるだろうことは明白である。

 しかし、我々はこの移行が行われる「はず」であること、あるいは、すくなくとも、 プロレタリアートがその実行の可能性を含んでいることをどのようにして知るのだろうか。言い替えると、我々はマルクス主義の概念形成の内部で、労働運動の「歴史」について何を言うことが出来るのだろうか。その意味をこのように「先験的に」占有している以外に、それについて我々は「何も」言うことが出来ないと答えることは驚くべきことである。(明らかに、私は事件の説明や分析について話しているのではない。)プロレタリアートの《客観的状況》は搾取され抑圧された階級ということである。このようなものとして、それはその搾取と抑圧に対して闘うことができ、実際に闘うのである(ちなみに、この闘いが実際に持った次元、能力および内容を獲得するということは、決して「先験的」にな必要ではなかったことを指摘しておかねばならない。すなわち、搾取された階級は一時的で無力な反乱の局面に留まる可能性もあり、新しい宗教を発明する可能性もあるのである等々)。しかし、なぜ、この闘いは必然的に《即時的》闘いから《歴史的》闘いに変わらねばならないのだろうか。なぜ、存在する社会の枠を越え、新たな社会の建設にすすまなければならないのだろうかーーーまた「どんな」新たな社会だろうか。一言で言えば、なぜ、プロレタリアートは、その状況によって、革命的な階級であるか、あるいは、そうしたものに達しなければならないのか。そしてまた、どのような革命が問題なのだろうか。

 この問題に対する解答を資本主義の矛盾と倒壊の《客観的》力学(むしろメカニズム)という考えの中に探しても無駄である。この力学が純粋の虚構であることの他に、前もって資本主義の《倒壊》の次に階級のない社会が自動的に続いて出現するだろうということを保証するものは何もないのである(マルクスの言葉をとれば、それとともに《闘っている二つの階級の崩壊》を伴う可能性が十分ある)。この出現を、人間の行動、ここではだからプロレタリアのそれの仲介無しに理解することはできない。そして、我々は前の疑問に導かれる。

 また、資本蓄積過程の効果、それによって《貧困、抑圧、奴隷性、堕落、搾取が増大し、(P54)また生産の資本主義的過程そのものの機構によって、ますます数多くの、またより規律のある、より団結した、より組織された労働者階級の抵抗も増大する》(「資本論」第一部、第24章)を引合いに出すことになっても無駄であろう。 貧困や搾取に対しての闘いを越えるどのような観点での、何の目的を持った規律、団結そして組織であろうか。生産と社会のどのような組織に場所を残すための資本主義者の搾取なのだろうか。

 他ならぬマルクス主義の内部で、 こうした問題が些細なことでも解決済みのことでもないことは 、 カウツキー やレーニン のような マルクス 主義者が《否定的に》これらに答えてきたというよく知られた事実が示している。つまり、もし、その《客観的》状況を考えるなら、プロレタリアートは、革命的階級では「ない」のであって、単に改良主義者に(《労働組合主義者》)すぎない、と彼らは言う。革命的意識は、社会主義的イデオローグという、そのようなものとしてブルジョアに起源を持つイデオローグによって、 プロレタリアートの中に《外部から》導入される。我々はこの立場を急いで非難する前に、マルクス主義の中でこれに対立するもの、そしてとりわけ対立し「うるであろう」ものを考察し、立場と反対が同じ公準を共有していないかどうか、また、同じ知的世界の中で動かないかどうか自問しなければならないだろう。

 実際、一見したところでは、プロレタリアートの闘いが「明確に」表われている圧倒的な大部分が《労働組合主義的》で《改良主義的》であったし、今もそうであることを疑うのは難しい。 1年に数万に及ぶ要求を持つストライキを、 ここ1世紀のいくつかの革命や大きな政治的動員と見なすことが出来るであろう。そして、その内容や性格がどのようなものであれ、労働者のサンディカへの(あるいは《改良主義的》政党への)参加やそれらに与えられる支持は、 社会主義革命に訴える政治組織への参加よりも比類ないほどに大規模であったし、いまもそうなっている。多くの場合、労働者階級がまず、サンディカの組織の始まりであった政治組織を創ることから始めたことを理由に、そのことは反対されてきた。ひとたび創りだされたら、こうしたサンディカと相関する要求は、 ほとんど常に労働者階級の利害の重要なものを吸収してきたという限りにおいて、こうした論議は何の価値もない。レーニン主義者の説は年代記に関して述べているのではなく、労働者階級の(P55)《自然発生的な》傾向の「基本的な内容」について述べているのである。そして、これは簡単に入れ換えることが出来る。何処から、こうした党と政治的闘士が現れるのか。労働者の単なる自発性によってそれらは引き起こされたのか。首尾一貫したレーニン主義者(実際には、レーニンが、トロツキーの言っているように、後に「何をなすべきか」の立場を捨てたかどうかはさして重要ではない)は、そういう反論は彼が言ったことをむしろ確認するものだと答えるだろう。すなわち、自分自身でまた《自発的に》労働者階級は「せいぜい」労働組合主義の意識と活動にしか自己を高められないだろう。時には、それに到達することさえ出来ずに、 組織や闘士の干渉がそうなるためには必要ですらある。こうした組織や闘士は、それが永続的な組織と活動、権力の追求、社会経済の変革のプログラム、社会の全体的概念形成、イデオロギーに応じて自分の態度を明確にする限りは、政治的である(その《経験的》・社会的出身が、どのようなものであれ、また、完全に《労働者》起源であろうと)。そのようなものとして、それらは、時代の文化ーーーすなわち、ブルジョア文化の作り出したものであり、ただそういうものでしかない。ドイツのサンディカの構成における政治的組織の役割を引合いに出すことは、 何に役立つのだろうか。というのも、こうした組織の創立はマルクスやラッサールそれに彼らほどには名を知られていない人 々のような個人の決定的な影響によって記されてきたからである。こうした人々の背後には、ドイツ観念論とイギリスの政治学が存在することがすでに知られている(そして、我々はフランスの空想的社会主義を付け加えるにしても、 サン・シモンやフーリエの著作をプロレタリアの生産物に変えるのは簡単ではないように思える)。一言でいえば、革命的な理論なしには革命的政治もないーーーそして、この理論を引き起こすのは「そうしたものとしての」プロレタリアートではない。

(p55下から6行目)  そして、この概念に何が対立するのであろうか。トロツキーは、彼の最後の著作の一つでこう書いている。《科学的社会主義は共産主義的な基盤の上に社会を再構築しようというプロレタリアートの基本的で本能的な傾向の...自覚的な表現である》(注16)。解決する問題より多くの問題を提出する美しい言葉であるーーーーーー(注16)「マルクス主義の擁護」Pioneer出版。ニューヨーク、1941年、104pーーーーーー(P56)この《基本的(明らかに《単純な》ことにではなく、「水」、「火」などに関係のある用語)で本能的な傾向》の意味と起源はどのようなものだろうか。プロレタリアートは、新たな本能と傾向を種族に与えるような遺伝的突然変異から生じるのだろうか。そういう用語について争わないまでも、 ひとつの社会的カテゴリーの基本的で本能的な傾向を自覚している表現を「科学的に」明言するために、《科学的社会主義》 は何に支えられているのかと質問をするのは過度であるのだろうか。そして、もし、この傾向が資本主義社会におけるその状況に対する答と して出て来るのならば、何のためにこれが必要であり、あるいは、最終的に《共産主義的基盤の上の社会の再構築》に進む、「この」解答がみちびけるのだろうか。結局こういうことだ。誰、そして何から、こうした傾向を解読し、そして、《自覚的表現》が「解読の固有の方法」である《基本的な》ことや《本能的な》ことを、その中で認識するのだろうか。

 

 プロレタリアートの状況と活動からそれ自身の出生を示し、再生できるーーーあきらかに行えないことーーーのでないなら、 この概念はレーニン主義的概念と同じ場所に居続け、そして、同じ二律背反を表明する。レーニン主義の概念では、プロレタリアートの《歴史的利害》は当のプロレタリアートによっては理解されも、公式化もされず、ブルジョア起源の理論によって理解され、公式化されるのである。前者の概念では、《プロレタリアートの基本的で本能的な傾向》の《自覚的表現》は、その作業を待たずに頭のてっぺんから足の先まで武装して生まれてきた。両方の場合とも、怪物的に非歴史的な同じ態度を明らかにしている。すなわち、ある意味で、あらゆる資本主義の間とそれを特徴付ける労働者の闘いの間、 実際には何も起こっていないということである。あるいは、客観的状況に助けられて、党が労働者に社会主義の真実という、 始めから科学が党に到達することを許した真実を教え込むことができるのか、あるいはまた、《基本的で本能的な傾向》が、結局は昔からそれに先行しているその《自覚的表現》の水準に高まっていくのかのどちらかである。ローザでも、違うことはなかった。彼女の次のような言明に活気を与える情熱と衝動に感嘆させられる。《真に革命的な労働運動の誤りは、歴史的観点から見て、(p57)最良の「中央委員会」の無謬性よりもはるかに実り多く、より貴重である。》論争-政治的なその意図に同意しなければならないが、しかし、同時に、こうした誤りの実態、また、この無謬性の実態(かっこをつけようとつけまいと、皮肉を込めてであろうとなかろうと)について、自問しなければならない。ローザがいつも考えていたように、科学的社会主義がもし存在するなら、大衆の《誤り》のための規則は(正に、誤りの規則を除けば)存在せずに、ただ教育学の自由を持つことが出来るだけである。つまり、子供はもしその子が一人だけで解決策を見つけたとすれば、途中で何回か間違えるだろうが、よりよく学習することになるだろう。しかし、途中の道は存在するし、解決策を自分で知るのである。もし試みと誤りがあることに関して人がその過程を知っているなら、 人はそれについて語れるだけである。マルクスでも他のやり方はおこらない。《プロレタリア革命は...絶えず、それ自体を自己批判し、すでに実現されたように見えることにもどり、もう一度それをやりなおし、情け容赦なくその最初の試みの動揺、貧困そして弱さを嘲笑し...、その目的の限りない広大さを前に後退し、ついには、あらゆる後退が不可能になり、その状況が「ここがロドスだ、ここで跳べ」と叫ぶ。 》

 しかし、プロレタリア革命がそれを前にして後ずさりする、こうした数え切れない目的は、すでにそれを知っているし、また、規則正しくその理論的ロドスで跳んでいる我々の思想を後退させるものではなかった。《知識にとって、目的は一連の進歩と同じように必然的に固定されている》とすでにヘーゲルは言った。こうした条件において、プロレタリアートの歴史は、最もよい場合でも、一つの教育小説、その見習い期間の年月のお話で有り得るに過ぎない。この見習い期間の内容に関してーーーそして、これが最終的な逆説であるのだがーーー、同時に絶対的に明確で(歴史的唯物論は資本主義的生産様式を引き起こすはずである生産方法を予言する)、絶対的に不明確な(未来の社会主義の鍋のための調理法は準備されない。つまり、ボルシェビキは、一般に受け入れられた神話が明らかにしていることに反して、「社会の変革の何の計画もなしに」、権力を手に入れるだろうし、以前に提案していたのに反する方法を採用するだろうし、時流の都合で常に行動するだろうし、そして、彼らがするだろうことは、 ローザのような他のマルクス主義者から厳しく批判されるだろう)存在でなければならない。

 (P58)この二つの概念のどちらもーーーそして、一般的に、マルクス主義のどの概念もーーー労働運動の「歴史」を考える能力はない。この歴史はこれらの概念にとって、 その理解できることのそれら自らの基準に従えば、理解できないままであり続けなければならない。そして、このことはそれぞれの政治的な態度に深く関連している。かくして、例えば、その普通の経験的現実において、1世紀前からプロレタリアートは、ほとんどの場合に、あるときは改良主義的な、あるときは全体主義的官僚的(スターリニスト)な組織や《指導部》を支援してきた。トロツキスト、ルクセングルグ主義者も同様だが、もし人がレーニン主義者であるなら、現代社会で行われる勢力争いにおいて基本的な、この事実についてどう言えばよいのであろうか。しばしば行われているように、《誤り》や《裏切り》について語ることは、単に馬鹿げた結果になるだけだ。この段階で誤りや裏切りは、誤りや裏切りであることをやめるのである。改良主義であれ、スターリニズムであれ、官僚はその政治を続けるとき、《間違え》たり、誰かを《裏切ったり》するのではなく、それ自身の収支で行動するのである(そして、「彼の」観点から《間違う》ことはあるーーーこれは別の話だ)。このことを認めれば、労働者の官僚の社会学的解釈(すごく離れずに後を追う解釈)がそこで現れるのも可能である。すなわち、(資本主義下あるいは《労働者国家》の下で)特権を自ら作り出すに至った層である。そしてこの層は、この特権を《労働貴族》によって支援され、以後守っていく。しかし、このことは明らかに官僚そのもの(そして、《労働貴族》)に関係するに過ぎない。そして、疑問はこう続くのである。どうして、プロレタリアートは、自分自身の利害に無関係な利害に奉仕する政治を支持し続けるのか。ここで得られる唯一の答は、《プロレタリアートの改良主義的な幻想》に関する文章である。史的唯物論はこうして史的幻想論に変わり、人間の歴史は革命的階級の幻想の歴史に変わる。最も根本的な変革、真の《歴史》への《前史》の歩みを行い、トロツキーが言うように、社会主義を《意識的に》建設するように運命付けられた階級ーーーしかし、1世紀以上前から、執拗な幻想の犠牲であり、階級をだまし、それを裏切る《指導部》、あるいはいずれにしても、階級に敵対する利害に奉仕する《指導部》を信じることにかけては驚くべき能力を示している階級が、 実際ここにいるのだ。それで、どうして、(p59)いつの日かこれが変わらなければならないのだろうか。この文脈での唯一可能な答は次のようなものである。なぜなら、資本主義の崩壊は改良主義的幻想の客観的基盤と プロレタリアートのそのほかの基盤を崩壊させるだろうから。ここから、現代の《マルクス主義者》の不可避的なパラノイアが導かれる。 そのために彼らは3カ月毎に次の3カ月のために《重大危機》告げているのである。それで、我々は待っている間に何をしなければならないのだろうか。 論理ではこう答えざるを得ないだろう。実際的には何もしないと。しかし、論理はこうした出来事にはほとんど関係がない。 その独特の論理的概念に従えば、 本来ならトロツキーは1938年にこう書かねばならなかっただろう。すなわち、人類の危機は革命的「階級」の危機である。彼の実践に忠実に、彼はこう書いた。《人類の危機は、革命的「指導部」の危機である》。我々はここで、この点に関する全てのマルクス主義者の深刻な二重性の前にいる。 この超人的な任務を引き受けた革命的階級は、同時に、深く「責任がなく」、それに起こることも、いやそれがすることさえ、それのせいではなく、ことばの2つの意味で「イノセンテ(無実で無邪気)」である。プロレタリアートは「歴史」の立憲君主である。責任はその大臣に負わされる。つまり、旧指導部の責任であり、それが間違っていたのであり、裏切ったのであるーーーそして、我々自身の責任である。われわれはもう一度、風と潮に逆らって、新たな指導部(これは間違わないし、裏切らないーーーそのことを我々が約束する)を建設しなければならない。そして、我々は歴史(と無実のプロレタリアート)を引き受けるのである。ここから、この他ならぬ《マルクス主義》の官僚的な《代行主義》が不可避的に生じることになる。

 我々が継承した思想(そしてその最後の芽である、マルクス主義)の中で支配的な存在論的な図表を捨てる時初めて、また、たとえ我々が第一にこの社会的カテゴリーの行為を、 他の部分から生じそして前もって与えられている概念の箱に無理やり入れる代わりに、その中で、そしてそれによって現れる新たな意味を考える時初めて、 我々はただプロレタリアートとその歴史の何がしかを理解し始めることができる。 我々はプロレタリアートの活動を、ひとつの内在的目的、ひとつの《歴史的任務》から解釈する必要はない。なぜなら、この《任務》は純粋で単純なひとつの神話であるからである。その反対にーーー別の部分で我々が知っていることを忘れることなく、 しかしまた、それによって我々がひどくまどわされないようにして、それを解釈しなければならない。というのも、我々は、ここで「新しいなにか」を学ばなくてはならないし、(p60)我々は、プロレタリアートの「有効な現実」についての考察に我々の精力を費やし、 その行為の中でどのくらいひとつの傾向(あるいは、いくつかの傾向。「ひとつ」であることに我々は如何なる特権も与えていない。そして、この質問はまた開かれたままでいなければならない)を示しているか、そして、その意義はどういうものかを自問すべきだからである。また、我々はそれをプロレタリアートが置かれている《客観的条件》や生産関係における(あるいは、社会的文脈全体における)その状況に限定して、説明する必要もない。そうしたことを無視しなくてはならないというのではなく、プロレタリアートのこの活動の外側では「ほとんど何でもない」、その外側では、決定的な内容も意味も持たないということだ。一言で言えば、我々はプロレタリアートの行為を、割り当て得る目的や、あるいは、設定された理由に縮小して、「プロレタリアートを排除しながら」「考察する」ことはできないということだ。しかし、この場合、この行為を理解するためには、習慣的に使われるほとんど全てのカテゴリーを排除しなければならない。 例えば《自然発生性》という考えとその反対(カテゴリー)である。それから生じる解釈がどのようなものであれそれを排除しなければならない。 もし、《受動性》に対して《自然発生性》を置くにしても、実際は、一対の能動性ー受動性と同等のものにここで置き換えているのである。 これは主体の古い哲学、その元の領域でもすでに疑わしい、そして、どの様な場合にも「二義的」な古い哲学を単に打ち立てるに過ぎない。主体の行動は、能動性と受動性の交替としても、合成としても、理解されないし、ひとつの社会的カテゴリーの行為はなおのこと理解されない。もし、《自覚性》に対して《自然発生性》を置くなら、状況は心底から類推的である。なぜなら、明白にその活動が完全に《意識的》で《合理的》な《主体》の空想的な構成(二重に空想的である。なぜなら、ここで《自覚性》は設立された全体、つまり組織とか党とかの自覚性であるから)に関して述べるからである。それ故、我々はまた、伝統的な何らかの方法の下に、プロレタリアートと《その》組織の関係を考察することはできない。こうした組織は、レーニンが(「左翼小児病」で)主張したように、プロレタリアートの透明な表現でも純粋の道具でもないし、単に敵対的な影響を導く異物でもない。プロレタリアートはその存在に「含まれて」いる。なぜなら、非常にたびたびその設立にある役割を果たすし、その延命にはいつもある役割をはたすからだ (これが資本主義社会の存在に(p61)含まれるのと同様である。もっとも、きっと違うやり方であろうが。というのも、 プロレタリアートの目標は決して純粋に受動的ではなかったからである)。我々は他の社会層の歴史に何らかの類推的解釈を見つけることができる。しかし、この例はそれほど我々の助けにはならない。だから、我々はもしプロレタリアートの行動の中でそしてそれによって、同時に「新しい」(組織:サンディカ、政党)設立(それはそれで、ブルジョアそのものも含めて、別の層によって「真似される」だろう)とある社会的階層と《その》組織との新たな関係が作り出されたーーープロレタリアートの行動の中で、 そしてそれによってひとつの社会的階層とその階層がいる《生産関係》との、歴史に先例のない「関係」が作り出されたのと同様にーーーことを見ないならば、 我々は現代の歴史を全く理解できないだろう。

 結局、我々がプロレタリアートの《客観的状況》、その《自覚》およびその《行為》を切り離すこと、偶然性-目的性の庇護のもとでのすぐ後に続く再構成を受け入れられないのと同様に、我々は観念の《プロレタリア的》あるいは《ブルジョア的》起源に、それだけで重要性を与えることはできない。そして、なおのこと、我々は観念の起源、性格あるいは機能の間の厳格で一義的な関係の存在を考えることはできない。歴史における観念は、顕著で、明快でそしてうまく定義された意味ではない (そのような意味がどこかの領域にあると仮定してである)。それらが生き続けていて、それらを豊富にし貧困にし、それらを変えさせ、全く反対のやり方でそれらを解釈する社会-歴史的行為の中でもう一度使われる時に、 正確な起源への意味の指定はその内容について非常に部分的にのみ我 々を照らしてくれるにすぎない 。 もし、我々がブルジョアによってもたらされた、 ブルジョアが行う社会-歴史的変革に相関した想像的な意味を限定することができるなら、正しく、単なる《観念》ではなく、過去の何世紀にもわたる、そしてこの惑星を包含する実際の歴史過程におよぶ共通観念に原因があるのである。 プロレタリアートの行為はこの意味で生まれ、発展したのである。まず、ドイツの観念論やイギリスの経済学を人が語るよりずっと以前に、必然的に、《ブルジョア的》観念を取るのであるーーーというのは、必然的に「現実の設立された定義」から始めなければならないからである。(p62)これは、実際、革命的外見のイデオロギー(この最良の例を他ならぬマルクス主義が与えている)の形で保存される可能性がある。そして一方で、曖昧な活動や理論化を気にかけない活動はそのイデオロギーに深刻な反論をするかもしれないのである。この領域で、《ブルジョア的》であるものと《プロレタリア的》であるものの分離は、前もって我々に与えられるのではない。 プロレタリアートの行為だけがそれを始めるのであり、それだけが「それを維持できるのである」(そして、このようにしてのみ、《堕落》の問題は理解できるのであるーーーサンディカのことであれ10月革命のことであれ)。しかし、このことはまた我々に、《改良主義的》なものと《革命的》なものの間の区別も前もって与えられていないことを示している。というのも、やはり、我々は歴史の一般理論からも、労働者階級の《客観的》状況からも革命の概念を推論することはできず、そうではなくて、我々の責任にと危険をかけて、プロレタリアートの実際の行動から根本的な革命の意味を取り出さなければならないからである。そして、このことはすでにひとつの理論的活動ではなく、政治的活動であり、我々の思想ばかりではなく我々自身の行動も含むものであり、そして、我々はその中に我々が捉えられている状況の《循環性》を認識しなければならない。また、ここで絶対的《設立の》幻想を告発しなければならない。というのも、労働運動の歴史の革命的解釈を「打ち立てる」ことが出来るものは我々の選択ではないし(我々の選択はこの歴史から自由ではないし、また、いいかげんに歴史を説明することはできないーーーそして、「この」歴史「なしには」現在あるところのものではなかったろうーーー)またこうした解釈をこの歴史が「強制する」のでもないし(他の人達はそこに無能と失敗しか読み取れない)、また、こうした解釈は、我々の責任でその意味を引き留めるのでない限り、我々にひとつの選択を「強制する」のでもない。この指針からみて、だから、労働運動の歴史の研究の仕事を再開しなければならないだろうーーーこの仕事は広大なもので、 ここでは始める問題ですらない。いくつかの例に光を当てて、先例の考察を細かく検討するのがひたすらと役に立つ。

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(p 6 3)  いくつかの細かいことから始めよう。 我々はドイツのサンディカが政治的組織と闘士の苦労がなかったら打ち立てられていないだろうということを認めることにしよう。これらは一連のイデオローグと理論家に深く影響を受け、その中のひとりがマルクスであった。しかし、マルクスはシレジアの織工、チャーチスト、「カヌート」、《ラッダイト》達なしにーーーそして、《人間の友愛は文言ではなく真実である》と考えていた、また、《労働で鍛えられ、人間性の高貴さで輝く》顔つきの《フランス社会主義労働者》(「1844年の手稿」)なしに、マルクスであったろうか。こうした運動と経験無しに、《空想的》社会主義と決裂を行い(良しにつけ、悪しきにつけ)、そして《ブルジョアに対して現実に存在する全ての階級の中で、プロレタリアートだけが真に革命的階級を形成する》し、《労働者の解放は労働者自身の仕事である》と宣言することが出来るたあろうか。マルクス主義の中に、ドイツ観念論、イギリス経済学、フランスのものであろうとなかろうと、ユートピア社会主義さえもの継承者を(他ならぬエンゲルス以来)見る頑迷さは奇妙な頑迷と言わなければならないーーーなぜなら、 マルクスによって用いられた政治的、経済的に関連する主題の主要なことは、1790年から1840年の間に、 労働運動の誕生によって、 そして、 特にイギリス労働運動によって、つくられ、明確に定式化されているからである(注17)ーーーーーー(注17)単に2つの例をあげるだけにしよう。《労働-価値の理論》において、社会学的に重要で真実なことは、イギリスの労働者によってかなり前から知られていた。《労働の生産物の蓄積が資本ではないとしたら、私は何が資本になりうるか分からない...。 労働はとっておくか売るか以外の物を持たない、従って直ちにそこから離れる人達によって、市場にもたらされる。労働と資本のこの2つの生まれつきの違いは(すなわち、労働は常に貧乏人によって売られ、常に金持ちによって買われることと、労働は如何なる方法でも蓄積できないで、それぞれの瞬間に、売るか失うかしかありえないこと)、自分が労働と資本は、公正に、同一の法に決して従うことはできないだろうことを納得するのに十分である...。》(「1835年の『手動機織機職人陳情採択委員会』 でのマンチェスター の織工の言明 。 Thompson,l,c., の引用による 。pp328-329)。また同じく、《...労働者の状況は、雇用主の繁栄や利益に全く依存しておらず、労働者が(彼らに可能な)自分の作業に対する高い価格を「獲得する」というか、「もぎ取る」力に依存するのである...》(日刊《ゴルゴン》。1818年12月21日。Thompsonの引用による。p850)。これは、すこし誇張されている。しかし、マルクスの賃金理論より間違っていない。政治に関しては、《...労働者階級は、それに男らしく専心すれば、如何なる「他の階級」も援助を請う必要はない。というのも、彼ら自身の中に...ありあまるほどの資源を持っているからである》 (おそらくある職人によってかかれた手紙。オーウェン主義者の日刊紙 《エコノミスト》 1821年、 10月13日、 1822年3月9日;Thompson、 p863)。 1833年にオブライエンは 《貧民防衛者》に発展してきた協会の精神は《考えられる最も崇高な》目的、すなわち《自らの労働の果実の上に、生産階級の完全な支配を打ち立てる目的...》を持っていると書いた。《労働者階級は社会の完全な変革ーーー既存の秩序を完全に転覆するに等しい変革を目指す。社会の頂点にいることを望み、社会の底辺にいることを望まない。いやむしろ、頂点も、底辺もないことを望むのである》(Thompson,p883)。建設サンディカのメンバーの一人は1833年にこう書いている。《サンディカは単により高い給料や労働の縮小を獲得するためにストライキをするのではなく、最後に「給料を廃止し」、自らの主人に変わり、相互のために労働をするであろう。》そして、1834年に、日刊《先駆者》は、サンディカにとっての政治的展望を、次のように定義した。それには、職業院(House of Trades)の設立が含まれ、《それは、現在の下院に代わり、その国の商業的事項を﹇すなわち経済的事項を;C.C﹈、産業の協会を構成している職業者の意志に従って、指揮しなければならない。これは、我々が普通選挙に至ることになる上り階段であろう。 それは地方の組合から始められるだろう。そして、我々のサンディカ全体に広げられ、職業管理を含み、最後に全ての政治権力を飲み込むだろう。》(Thompson,pp912-913)

(p64)しかし、それについて人が熟慮するならば、それほど奇妙なことではないことに気付く。これが忘れられて来たのは、偶然の出来事ではない。というのも、重要であるとして考えられてきたことはいつでも、マルクス主義の疑似科学的側面(実際にはヘーゲルとリカードから受け継いでいる)であり、労働者の創造から手にいれた中核ではなかったからである。そして、この中核はそれなくしてはマルクス主義がもう一つの哲学的大系でしかなかったものであった。しかし、この創造、そしてこの運動といったものを、(P65) 我々はプロレタリアートのプロレタリアートとしての純粋な自発性のせいに出来るのだろうかーーーあるいは、その反対に、それらは厳密にその《客観的》状況の反映であり、表現であると言わねばならないのだろうか。どちらでもないし、両方でもない。この表現はここでは意味を欠いている。この時期の運動、そして、特にイギリスの運動は、フランス革命の跡にすべてが直接的に位置づけられ、また、それが引き起こした既成秩序の恐るべき衝撃によって条件付けられ、さらに、終わり無き混合とそれの結果である思想の加速度的な流布や、その内容も栄養にしていている。一方で、我々がチャーチスト運動からラディカルな《改良》運動やオーウェン主義や合法的なサンディカあるいは、 ナポレオン戦争の間にすでに増殖していた秘密のサンディカに、 また政治運動、 特に 1790年から 1798 年にイギリスで増殖した 「通信協会」に遡るとき、連続性が途切れることはない。さて、「労働者」と「職人」のこうした運動への参加は、急速に非常に重要になるに至った。しかし、残り参加者は《教養豊かな》、《ラディカル》なブルジョア(そしてまた、いくらかの「ジェントルマン」)によってもたらされた。そして、彼らは初期、またその後長く、《明確に述べられた》思想をもたらす。その中には明らかにアメリカ憲法と、とりわけ、パリで言われたり行われたりしていることの影響が、見られる。この《ブルジョア》思想は、受け入れられている(そしてどこか馬鹿げた)解釈に従えば、噂やら流布によって、同じく《ブルジョア的な》真理の哲学の直接的な影響を具体化しているものである。また、それは、イギリスでは、常に活発な多数の宗教的セクトによって耕された土地に、セクトの多様性が存在するという事実そのものによって深く影響された住民に落ちることである。そして、そのことは、この多様性が前提とすることであり、また、多様性を伴うことである。そしてまた、初期の理神論と引続く無神論への展開に寄与することになるものである(注18)。ーーーーー(注18)特にイギリスの労働運動のこの面との関係については、すでに引用したトンプソンの本を見よ。ーーー 我々は、労働運動の誕生は太陽系の凝縮無しには不可能であったと言っているのではない。(p66)我々は、次のことを明確に示すような直接的で明確な、 生身の関連とつながりを指し示しているのである。イギリスの労働運動の誕生、これは自然発生性の純粋の行為でもなく、階級の客観的状況によって条件付けられた反映でも、あるいはこの状況の結果の合理的な合成でもないのだが、この誕生は「その内容において」、この多次元のシンフォニーという、その時代の技術的経済的変革同様、ブルジョアの現実の政治活動、国際的状況とその進展、時には封建時代より前のその国の伝統、宗教運動、《ブルジョア》イデオロギーや哲学的批判が寄与しているものの外では不可能であり信じがたいということである。 こうしたあらゆるものの寄与を、確実に指摘することが出来る。しかし、いかなる瞬間にも研究された《結果》の必要十分な条件を提供する要素全体を現実に隔離し、分離し、順序づけ、再構成することはできないーーーそして、1973年の「今なお」この結果の「なんたるかが分かっていな」いのならそれだけできないのである。そしてこれは、我々に情報がないからではなく、我々がなお同じ歴史の運動 (1917年10月の 《結果》 は1918年、 1921年、 1927年、1936年、1941年、1945年、1953年、1956年に行われ続けたし、1973年中に行われ続けているのと同じように)いるかぎり、この《結果》はなお「結果になって」いないからである。

 ブルジョア思想の影響だろうか。 もちろんだ。 自由と平等は、 その最初の日から、イギリス労働運動にとって闘いの印になる。しかし、もちろん、根本的に《ブルジョア》的意味と反対の意味でである。労働者はブルジョアの文化を自分のものにするが、しかし、それをするとき、その意味を逆転する。彼らはペインやヴォルテール、ヴォルネイを読む。しかし、資本というものが蓄積された労働でしかない、あるいは、国の政治は生産者組合の連合以外のものでは有り得ないという思想に突き当たるのはこれらの著作を通じてでであろうか。他方、言葉の具体的意味で、どの様にブルジョア文化を自分のものにしたか知らなければならない。1800年から1840年に、イギリス・プロレタリアートは「自らに読み書きを教え」、読み書きを学ぶために、もともと短い夜と日曜日を削り、(p67)書物や新聞や蝋燭を買うためにわずかなサラリーを削っている。 労働者階級は自らの行為で存在する文化の手段や内容を再び手にし、それらに新しい意味を与えるのである。彼らがこのように考えることは、それはそれとして、時にはブルジョア時代より前のことである。常任の責任者、固定した代表の廃止は大衆的な労働運動が一定のレベルの闘争性と自治に到達した時以来のその典型的な傾向であるーーーたとえ 、それが代表のいつでも可能な被選挙権と取り消し権の形態をとるものでも(コンミューン、ソヴィエト、評議会、あるいはイギリスの「労組職場代表委員」)、長いことイギリスのサンディカが、官僚化する前に行っていた参加者全員の責任者輪番制でも同じことである。 この輪番は 1790 年から 1798 年のイギリスの《ジャコバン的》グループに頻繁に見られるものである。しかしまた、1792年の(労働者が構成員で優勢な)「シェフィールド通信協会」の中に、ほとんど《ソヴィエト的》な組織が見られ、それを、参加者はサクソン人の古い言葉によれば、ティスゥイングス(自由な人間の審議会)として描いているように思える。

 では、どんな労働者階級がこの期間活動しているのだろうか。我々はそれを生産関係における状況から定義できるのだろうか。断じてノーである。真の労働運動の誕生と大綿紡績工業の出現の間に伝統的に打ち立てようとする関係は、 現代の研究が明らかにしたところでは間違っていることが分かっている(注19;トンプソン前掲書、p207以降を見よ)。そうすることは、事実を歪めて、「ア・プリオリ」に図式にそれらを従わせることだ。重心が工場に達した運動は、1830年「以降」(そして、1840年とさえいえる)発展している。しかし、その思想、組織形態そしてその《階級意識》と呼べるものの大部分は、あらゆるタイプの《平民》層、とりわけ「職人」ーーーすなわち、マルクス主義の概念形成によれば潜在的な《ブルジョア》ーーーによって導かれた前の時期の闘いの直接的な継承である。

 ここで、我々は生産関係という、そこで労働者階級が典型的な資本主義体制のもとで拘束されている関係を考察しよう(p68)。ひとつの社会的階層が生産された生産手段(資本)を実際に所有していて、他のものは労働力しか持たないという事実に基づいて、マルクス主義の概念にしたがって、また、ここで我々に労働力の売買に興味をもたせる角度から、 この関係は具体化される。しかし、実際に、「売られるものは何であり、何でもってそれは買われるのだろうか」。労働力《商品》のある量がある量の金銭、つまり給料で買われるのである。しかし、この量は決められているのだろうか。外見上は、イエスである。これだけの労働時間にこれだけの給料というふうに。しかし、実際には「決してそうではない」。労働力は、どうでもいいようなひとつの商品ではない、その訳は、《その購買者にかかる費用以上のものを生産する》からばかりではなく、前もってその具体的内容を定義できないからである。このことは、形式的で空虚な意味で商品であるだけで、結局絶対的に「商品ではない」ことになる。資本家が石炭1トンを買ったときには、それから何カロリーのエネルギーが引き出せるのか分かる 。 彼にとってこれで取引は終わったわけだ。彼が1労働日を買った場合、取引は始まったばかりだ。実際の収益としてそれから引き出せるものは、 労働日の間中1秒も止まらないある闘いの結果である。技術の状態も、《経済法》も労働の1時間がどういうもので「ある」かを、つまり、この抽象概念の本当の内実を決定するには十分ではない。その決定は、その度毎にーーーそして、常に変化する方法で---資本家と労働者の闘いによって、後には労働者の「活動」によって行われるのである。このことで我々は直ちに、給料、相対的に考えたそれーーーすなわち、金銭の単位と《実際の収益の単位》の交換相場---は、決定できないことがわかる。《時給10フラン》というのは、もし我々が《時間》が意味するものを知らなければ、何の意味もない。真実なのは資本主義の答は、ある形をとろうと別の形をとろうと、とりあえず、実際の収益に給料を結び付けることからなっているというのは本当だ。 そのことは専ら闘いの地平を移動させ、一般化させさえする。闘いの地平は、今後は、ノルマの決定、時間計測、量のコントロール、ランクと《資格付与》、労働者間の労働の分配なども抱えなければならないのである。こうして最後には「すべての」労働および企業組織は(p69)おおかれすくなかれ闘いに命運がかけられている(注20;この点については特にCSIIIおよびMRCMIIおよびIIIを参照のこと)。我々が労働-商品の力という思想から自らを開放し、私がやったように(注21;RPRを見よ)、我々が生産関係の本質は指揮するものと実行するものへの分割にあると考えるとしても、結論は変わらるものではない。というのも、ここで我々が書いたことは、機能の形式的な、《公式の》定義と関係無しに、指揮の実際の過程と実行の実際の過程の境界というものは、前もってそして1回で、すべてにわたって定義されないし、定義することもできないということではなくて、 企業の中で展開される闘いに応じて常に移動するということを正に意味しているのからある。 生産の資本主義的組織に対して闘う労働者の「暗黙の」そして《非公式の》闘いは、労働者がこれに反対し、疑いなく部分的で、断片的かつ不安定ではあるが、それと同様効果がある反組織を行為の中で実現していること、それなしには、指導者に抵抗することもできないし、 その労働も決して実現することはできない反組織を実現していることを、「事実それ自体によって」意味しているのである。

 この闘いの歴史的影響は決定的であったし、今もそうである。経済的分野では、この闘いは明確な、公式の、公開の給料を求める闘いと同じくらい、そしてそれ以上に決定的であった(簡単にいうと、これは報酬の《契約決定》に関係するものであって 、 実際の決定についてはまだ何も言っていないからだ)。年金の世俗的な分配、資本蓄積のリズムと方針、雇用と失業のレベルといったものはこの結果を反映している。生産技術と生産組織の分野では、それは個々の労働者あるいは労働者グループのますます独立したシステムへと発展する方向の決定で、基本的な役割を果たしてきた(そして、現在までこの方向の決定が、基本的に失敗してきたこと、そして、この失敗を前にして、《仕事の充実》への変更の試みと《自治的なチーム》の試みが見られることは、我々が言ったことを無効にするのではなくて、確認するのである。)(p70)結局、生活空間でその影響を受けなかったものは何もない(注22)。ーーーーー(注22)経済的および全体的影響についてはMRCMI、II、IIIを見よ。 生産における闘いによるテクノロジーの進化の決定についてはCSII、IIIを見よ。東側諸国の生産での闘いについてはRPBおよびCSIIIを見よ。ーー マルクス主義は、あらゆるその変種においても、この闘いを前にして最後まで盲目であり続けた(注23)。ブルジョア的な産業社会学は、労働組織の《合理化》によって収益を増大させる方向を持つ会社の努力が失敗した理由はどのようなものかと自問せざるを得ないとき、《闘いを発見する》ことしか対策を持っていなかった。しかし、明らかに、「闘い」としてそれを認識していなかったし、それが企業の資本主義的組織に対する、また、その組織が含んでいる人間関係に対する根底的な反論を内包しているとは、 なおのこと考えてはいなかった。この盲目性は、偶然のものではない。自治的で、匿名の全体的活動、労働者の暗黙の、非公式の闘いは、伝統的な概念形成に与えられる場所を持っていないのである。実践場面では、それは、サンディカであろうと政党であろうと、公式の組織によって《利用できない》ものだし、それらによっては捉えられない、《資本化できない》ものである。理論的面では、マルクス主義の《科学》の礎石、労働力商品という考え、そして、最終的には《経済法則》そのものを破壊するのであるーーー同様に、マルクス主義の社会経済学の別の礎石、すなわち資本主義的生産は《合理的》で《科学的》組織を現しているし(P71)技術の進歩は「それ自体」最善で論理的なものであるという考え、をも腐らせるのである。(こうした結論は、直ちに学術的な経済学に広げることが出来るし、一般的には、今日までに知られているあらゆる経済理論に広げることが出来る。この種の理論はすべて、収益すなわち《労働の生産物》は、語の厳密な意味で、技術の状態と資本の量の機能であることを措定せざるをえないのであるーーーつまり、 労働者の活動は「虚偽になる」、すなわち正確に言えば、「意味を失ってる」と措定されているのである。)ーーーーー(注23)マルクスが「資本主義者の活動」(これは、《もっと濃密に労働時間の毛穴を詰め込む》ことを意味する)に属する半分を、この活動の純粋の受動的対象として労働者を登場させて、それから差し引き、分離したのはよくしられている。労働者が生産に「おいて」(そして、工場の外ではなく、サンディカ等の扇動を通して)できる抵抗は、この視覚の中では、生気のない物質のそれと違うことはない。マルクスの精神的な憤りは1行毎に現れているが、 検査の論理はひとつのことに適用されているのと同じである。『資本論』第1巻で(コントロールと監視に関して、また、給料と請負に関して)労働者の《抵抗》が述べられている2つの箇所は取り替えそうもなく失敗に近付いたものとして現れている。ーーーーー プロレタリアートの活動は、全体としては、それが「明示」された、すなわち、現されてきたかぎりにおいて、そして、白日のもとで発展してきた限りにおいて知られ、また、それとわかるだけであった。このことは、この種の闘いが、単に、より簡単に観察でき、また確認されるということだけに原因があるのでもないし、主としてそれが原因なのでもない(マルクスは資本主義経済の現れていない本質を探そうとして人生を過ごした)。この本質的な理由は、向かっている目的(語の限定された、伝統的な意味での《経済的》および《政治的》要求)によっても、また、あらわれる形態(ストライキ、デモ、投票、蜂起)によっても、明確な闘いは、ほとんどの場合、理論家がすでに打ち立てた概念とカテゴリーや、 根本的だと彼が考える設立された制度の特徴と変数や、その戦略に組み込めるが故に彼が評価する行動形態に、よかれあしかれ、相応するのである。いつも背景で作用する図式は、明らかではっきりした目的を提案し、 その目的に到達するための方法としてその活動を提出する(個人あるいは集団の)主体である。しかし、プロレタリアートの暗黙の日常闘争は、絶対的にこの視点からは理解できないーーーこれは、例えば、女性に1世紀前から、若者に25年前から、家族と社会におけるその実際の状況を修正させてきた、日常の、一般化した、直接的でない圧力が理解できないのと同様である。そして、それに関連して、明確な組織や表明は、氷山の一角しか現していないのである。

 結局、我々は、生産における労働者の日常的な暗黙の闘争のなかに、深くて本当に影響しているものを考えることになる。(P72)これは、時にはまた、多くの《山猫》ストライキのなかで、明らかになるものである。以前に、我々は、その構成要素と経済的影響を述べてきた。それにもかかわらず、それに唯一の意義を見いだしたり、主要な意義でさえ見いだすのは、馬鹿げた結果になるだろう。一方では、その排他的な動機が実際的な報酬の防衛か増大であったにしても、最も広い意味で、これは会社によって押し付けられた組織と労働条件に対する異議を意味し、 それは現実的にも理論的にもそれから離すことはできない。というのは、人は抽象的に報酬を目指すのではなく、ある仕事に関する報酬を目指すのだからだ(イギリスの労働者は、「順調な日の仕事(A Fair day痴 work)」と言っている)。第二の根拠は、この広い意味での労働条件(フランスでは《簡易便所の腐った鎖》、合衆国では「地方の苦情」という換喩の呼称のもとで、いろいろな潮流のサンディカ及びマルクス主義者達によって、長い間無視され、あるいは横柄なやり方で分類された後で、何週間か前にやっと発見された)は、そうしたものとして、はるかに報酬の問題を越えている闘いをかきたてるのである。そして、労働者が15分間のコーヒー・ブレークを獲得するために(注24;《北米自動車産業に於ける山猫ストライキ》P215およびそれ以降をここでは参照のこと)、山猫ストが吹き荒れた時、サンディカリストとマルクス主義者はこの要求を些抹な、労働者の遅れを反映したものと考えていた。実際にはサンディカリストとマルクス主義者の些抹さと遅れであった。この要求を通して、労働者は企業と社会の資本主義的組織の基盤を攻撃したのであった。 すなわち人は生産する人としての必要性と生活を巡って生産のために存在する (注25;労働条件の問題については、すぐ前の注でのべた書物の他に、MRCMの最後の部分を参照のこと)。結局、工場全体が、非公式なやり方で、《働いてへとへとになる》者も、《仕事から逃げる》者も同じく制裁するような行動の規範を生じさせる時、そして、それが同時に労働の要求と個人的な親和性に答える《非公式の》グループから常に構成され、また、再構成されるとき、言葉ではなく、行為で、生産と社会の組織の新たな原理および労働の新たな見方を、資本主義の原理と見方に対置する以外にそれは何ができるのだろうか。そして、この資本主義にとって人間は、利益の魅力という、人間を工場の機械的世界のいろいろな場所につないでおけるものによってただただ動かされる相互に反発(競争)し合っている分子の塊でしかない。

(p73、11行目)

 伝統的な概念にとって、この表現の全体は、《改良主義的》として考えられるに過ぎない。というのは、社会の中に打ち立てられた権力を明白に攻撃しないからである。そして、権力はこれとどうにか妥協できるからである。しかし、これは公式の判断であり、結局、内容の無いものである。我々にとって、この表明が他のどの活動もそうであるように、非常に根元的な一つの活動を反映しているのは明らかなことである。それは、打ち立てられた権力の外観を攻撃しないが、しかし、現実の、すなわち、数に入るものおよび重要であるものの資本主義的な定義を徐々に破壊するのである。 社会の革命的変革がこの権力の排除を含んでいるであろうことを、 我々が思い出してもほとんど価値はない。しかし、確かに、そうしたものとしてのこの排除(革命的潮流は常にこのことにとらわれてきた)は、もしもっとずっと深いレベルで修正が行われないなら、何も変えてはしないだろう。そして、この修正は一日で実現されるものでもないし、 また一つの革命的な意義をそれに与えることの出来る唯一のものなのであるーーーそして、1917年以来のあらゆる歴史的経験において、そうすることが必要だというなら、それを確認するための要素が存在するのである。

 だから、我々はプロレタリアートの社会-歴史的行為を《改良》と《革命》の抽象的概念に圧し縮めることはできない。それは強制的に「戦略的」(ゆえに官僚的)思想が押し付けるものであり、また、その思想は、それによって教育されるに任せておくかわりに、何としても、それを自分の疑似理論的図式に従う単位で計ろうとし、また、プロレタリアートの中に自分の権力の偏執にふさわしいものしか見られない。他の場所で、私はもう一度、深くて、偽善的な、戦略的視点からみて、(p74)プロレタリアートの要求や《即時的》闘いに関する伝統的振舞いの特徴となる「二重性」について語ることにしよう。一言で言えば、組織は、その推定された理論によれば、以下のことを「知っている」。つまり、この要求が満足されることは、体制の枠内では《不可能》になる。しかし、労働者に公然と「そういうこと」は、言わないでおく。もし、労働者が要求の釣り針にかかるなら、かれらはそうとは知らずに、革命的方針を結局飲み込むことになる。そして、この《満たされるのは不可能な》要求に向けて闘うなら、《体制の危機》を強めるのである)。しかしまた、我々はこの行為が生み出す意味が、どのようなものであれ、結局、概念の単純なシステムになりうるという幻想から自らを防衛しなければならない。 プロレタリアートの活動は、間もなく2世紀になろうとしているが、資本主義社会におけるその状況、そしてこの社会そのものを深く修正してきた。こうした活動の中に、我々がいましたばかりであるように、資本主義世界と深く断絶しているひとつの内容を我々は見分けることが出来る。しかし、我々はプロレタリアートの闘いの別の面ーーーその「実際の結果」にあらわれているそれ---を軽視することはできない。こうした結果は、システムの修正を生み出してきた。これは「事実、それが機能することと生き残ることを可能にしてきた」修正である。簡単に言えば、この修正は資本主義的生産の絶え間ない拡大をその内部市場の絶え間ない拡大によって条件付けてきたのであった(注26;MRCMIおよびIIを見よ)。自称革命的戦略のマキャベリズムが、 自ら探していたものと完全に反対の結果にどのようにして行き着くかを我々は観察しよう。要求闘争を、成功すればシステムの崩壊につながる可能性があるからという理由で支持することは、現実には次のこと、つまり、要求闘争の勝利を支援することは システムの生き残りを許すことに寄与するということになる。ヘーゲル-マルクス的な哲学の体制の中では、作戦行動の真の目的は、明らかに立案者が描くものではなくて、実際的には作戦行動から結果するものである。それゆえ、この場合は要求運動に内在する合理性と目的性は資本主義経済の継続的拡大と強化であろう (もし、 現実の給料が1820年の水準のままであったとしたら、資本主義経済は実際的に数え切れない回数崩壊していたであろう)。あるいはまた、この観点からすれば、労働者階級に割り振られた目的(p75)、資本主義的生産関係の唯中でのその立場に刻印された歴史的役割は、 資本主義者が即座に目的として想像し考えるあらゆることにもかかわらず、そしてそれに反して、資本主義を維持することからなっているのである。歴史の中では《理性というずるがしこさ》が活動していると考えている人々は、このためプロレタリアートは、資本主義の墓堀人ではなくて、 救世主に変わったと言う勇気を持たなければならないだろう。もし我々がプロレタリアートの革命的活動を考えるなら、ひとつの類推的結論が、ヘーゲルーマルクス主義的な枠内では優位に立つ。すなわち一言でいえば、この活動が失敗しなかったところでは結果として(一時的にーーー 56 年前から続いている一時期) 官僚の全面的な権力となったということだ。さて、もちろん、《これやあれやの革命家、あるいは全体として革命家が、プロレタリアートの目標として「表される」のではない。プロレタリアートが「現在そうであること」、そして彼自身の「存在」に従って、歴史的に行うように義務づけられていることが問題なのである。》この結論の馬鹿馬鹿しさのために、 我々はもう一度不可避的にそうした結論を導くイデオロギーの馬鹿馬鹿しさを思い出すことになる。我々には、どんなに費用を払ってもよく考えなければならない莫大な疑問があり、 それを考えることを免がれているわけではない。この疑問は、一方では、社会というプロレタリアートが生活しているものの中での彼らの「意味」、他方では我々自身の政治的意味(それなくして労働運動の歴史は、我々にとって、最良の場合でも、知識の死んだ目的でしか過ぎないだろう)が提起する疑問で、如何なる理論的構築も、如何なる《科学性》も、我々が見ることと我々がそれについて言うことを、その影響から結局、決して切り離すことができないだろう。

 プロレタリアートは、明確であろうと内在的であろうと、その行動を通して彼らがつながれている生産関係の具体的内容を決定する。これは、生産関係が彼らを決定するのと同じであり、それ以上である。このことは、ブルジョアの活動の結果である生産関係の新たな設立とは本質的に違って、《階級》の一般的属性でも、搾取された《階級》の属性でもない。この活動は、資本主義の特別で、歴史的に唯一な、特殊な要因の全体に支えられている(注27;こうした要因の検討には、CSIIおよびIIIまたMRCMIIを参照せよ)。その結果は、以下のことと同じになる。(p76)すなわち、プロレタリアートの活動は、《すべてか無か》に帰着されるものではない。そして、プロレタリアートは搾取に対して自分を防衛「できる」。なぜなら、生産組織や企業や資本主義社会の《部分的》面と日を追って闘うことができるからである。この可能性は、それはそれで、一面では、労働者をその労働の管理に実際に参加させることを、要請もし、同時に、排除もするこの組織の内在的に「矛盾する」性格に原因がある。他方では、ブルジョアによって作り出された、社会的、政治的、イデオロギー的状況に原因がある。ブルジョアは、社会の支配的位置に達する一方で、伝統的意味(これが、単に存在するだけで権力と社会階層を神聖化していた)を解消し、そして、今後は《理性》のみが至高であると主張するのである。しかし、ここで、我々が、他に言葉がないので、可能性について語るとき、我々はそのことで、ある材料を単に付け加えるだけで、何も変えはしないが、実際に実現するであろうものの、先行すべき理想的で完全に決定された存在を理解しているわけではない (サイコロ投げる前に両方とも6がでるのが可能であるように)。この歴史認識の水準では、実際的なことと可能なことの区別は、厳密に意味を失う。状況の《可能性》の「経験的な」構築は、「実際に」生み出されたことをもとにして、我々が知っていることに何も付け加えないし、何も排除しない。分析的な考慮によって必要の全くない有効性を《理想的に可能だ》として明らかにする創造は、実際に創作に他ならない。分析的考慮が行うのは、ただ、主体の活動の概念を同じように、こんな風に移し変えることだけである。そして、この主体は、いつもは、この可能性の枠を創り出す制度を作る社会-歴史的な行為で、社会の制度によって立案された前もって決定された可能性の枠の中にいるのである。こうした《支持点》の中で、プロレタリアートの行為が、もし規模を獲得できず、そして、その状況に対して搾取された階級の単なる《反応》を遥かに凌ぐ意味を創り出せないとしたら、打ち立てられた社会の中で、その行為が《その可能性の条件》を見つけるのを、今日この日、誰も見ることはできないだろう。

 このことを我々は労働者階級の「政治」運動において同じようにはっきりと見る。その起源から、(p77)イギリス同様フランスでも、労働者は《ブルジョア的》観念に支えられている。しかし、それは、その実際の意味を変え、最終的にそれを越えるためである。政治的、社会的《権利》のための闘いは、《存在する状況のおかげで》可能にならなかっただけではなく、こうした状況が闘いを《不可能に》する傾向がある。そして、この闘いはこの状況に「反対する」闘いなのだ。そのうえ、その始めから、いわば、それは他ならぬ自らの止揚によって豊かになるのである。つまり、この点からみれば、基本的な事実はこういうことである。つまり、ほとんどすぐに、プロレタリアートの活動的な層が、社会秩序それ自体に疑問を置き、それと同時にブルジョアの所有と支配を攻撃し、そして、社会の組織と同一としたい生産者の世界的な組織の方向を指し示すということだからである 。 プロレタリアート のはっきりした闘いと「相入れない」固定観念に対するすでに公式化された批判は、如何なる方法でも、一瞬たりともその政治的活動の決定的重要性を過小評価することができるということを意味するものではない。 こうしたことにおいて、そして、またそれによって、労働者のバラバラなそして根本的に不均質な概念ーーー「働く階級」、《労働者階級》ーーーは実際的に階級を構成し、何十年という期間にわたって、資本主義が客観的にそれらを《団結させる》前に、明らかに「一つの」階級と言われ、また、考えられているのである。 こうした構造は、 実際には、 実践的に1850年以前に、 イギリスとフランスで具体化した。この行動を通して、労働者は資本主義社会の「中で」階級として自らを宣言するだけでなく、この社会に「反対する」ことも宣言した。彼らはまた、明快で自覚的であろうとし、社会の根底的な再構成と階級の廃絶という明らかな目的を生じさせている。 闘いと組織の新たな形態の設立によって具体的に表現される目的である。この組織は例えば、大衆政治組織や、サンディカ(これは長い期間革命的性格を持ち、それを維持している。そして、その組織は、イギリスでは数十年の間、底辺と直接民主主義の権力の表現であり続けているーーーこのことは、いんぎんな軽蔑を込めて、レーニンが「何をなすべきか」の中で《原始的民主主義》と呼んだものである)のようなものである。そしてまた、大衆の権力の新しい制度、コンミューンやソヴィエトや労働者評議会を作る際に頂点に達する目的である。 一言で言えば、(P78)労働者階級の活動の中で、そして、それによって、革命的な社会-歴史的「計画」が誕生するのである。その時から、そして、長い間、このいろいろな局面ーーー生産における内在的な日々の闘い、経済的、政治的なはっきりした闘い、革命の計画---は、派生的で二義的な意味にあるのでなければ、《客観的》、《主観的》にもはや分けることはできない。そのことは、また、《直接的》なことと《歴史的》なことの間の絶対的な境界線を引くのを妨げている。

 歴史の中でのプロレタリアートの行為によって、 搾取された階層は生産関係に対する新たな関係に到る(そして、もちろん、他ならぬ搾取という「事実」に対する関係もである)。また、打ち立てられた社会システムとの、ある搾取された階層の新たな関係も、 この階層の闘いが決定的できる程度に応じて、システムの進展を共同決定できるようになる限り同様である。結局、そしてとりわけ、ある社会階層の社会および歴史との「そうしたものとしての」新たな関係は、この階層の活動が、社会制度と歴史の過程の根底的な変革の明らかな展望をどの程度生じさせるかによって決まるのである。我々がこうした意味を考慮する時初めて、我々は、単に経験主義的な判断基準の向こうに、歴史の全期間に渡って労働者階級として、そして労働運動として「行われてきた」ことを考えることができる。

 ここで、わき道にそれることを許してもらいたい。問題の絶対的要請である。つまり、労働運動の歴史とは何か。プロレタリアートの社会的存在と活動の表明が明らかにそして現実的に多様性と散らばりを持っているのに 、我々はひとつの歴史(そしてひとつの階級)をどのような意味で語れるのであろうかということだ。これは、ずっと前から私が取り組んでいる問題である。しかし、最初の答は不十分であった。というのは、継承された思想の枠内に留まっていたからである。こんなわけで、《プロレタリアの自覚の現象学》(注28;この本の89頁を参照のこと)は、この歴史をヘーゲル的意味での現象学として理解しようとしていた。この現象学は、考慮された行為に内在する目的とその真実を体現するが、しかし、実現されたものの中で(P79)この真実の特別で限定された瞬間を、それ故その否定をその度毎に暴くような形態を実行している展開である。そして、それはそれで、最後の実現、具体的な世界に至るまで否定し、止揚しなければならないし、全ての以前の瞬間を越えたものとして持っており、そして、周知の真実がそのようなものである限り、その意味を提示する展開である。この観点ーーーSBに書かれた労働運動の歴史の記述に同じように底流をなすものーーーからすれば、労働運動のいろいろな局面とその継承が理解できるように思われる。 こうして、例えば、《時期》、あるいは改良主義的《瞬間》という方が良いかも知れないが(というのは、もちろん、単に年代学的な進展ではないからだが)、この《時期》は、すぐに全体主義的官僚の党に変質する《革命党》の瞬間も、プロレタリアートがその解放を具体化できると信じられる形態として、しかし、一度実現されれば、そして、この実現という事実そのものによって、この解放の否定として、そして、プロレタリアートの闘いが継続する限りは、乗り越えられ、 覆されるよう宣告されたものとして登場するものだと理解することができる。 労働運動の歴史はこうして経験の弁証法になるだろう (注29)。しかし、この観点によって提出されるーーーーーー(注29)クロード・ルフォーは、彼は彼で、以下の著名な書物で、より広い意味を採用して、経験の思想を利用した。すなわち《プロレタリアの経験》、《社会主義か野蛮か》1953年3月11日。 これは、 現在は 「官僚性批判の基礎」 Droz,Geneve-Paris,1971の39-58ペ-ジに載っている。 また、 サルトルに対する彼の論文を参照。同書59-108ページ。(西訳;C・ルフォー;「官僚主義とは何か」Ruedo Iberico、1970、45-78ページ)ーーーーーー理解しやすさは、間違った理解のしやすさである。より正確に言えば、ただ理解し易いだけなのである。つまり、この理解しやすさはほとんどただ政治的活動のみのに注目している上に、目的の概念、つまりそれに内在的であろうし、また理論的思想が、抽象的な方法であるとはいえ、すでに定義できている「終局」の概念における意味でしかその統一を提起できないのである。 その止揚を示す重要な行程は計画と解釈の循環性の明確な導入であった(《サルトル、スターリニズムと労働者》後出、p145)。すなわち、政治的活動と理論の伝統的概念の批判の向こうにある活動の観念の拡大である(CSI、(p80)II、IIIおよび《収支、展望、任務》、後出、p287)。労働者組織の闘いと形態の歴史の新たな検討および労働運動の中での資本主義の意味と モデルの残留あるいは再生としての《退廃》の解釈(POI、本書第二部)。《客観的》にも《主観的》にも《革命的条件が成熟する》過程それ自体の概念の、それ故、プロレタリアートの経験の蓄積の概念の、はっきりした批判。これはMRCMで行ったが、MRCMはそうはいっても、《十分な自覚の客観的条件の蓄積》という、この自覚の《妥当性》を定義することのできるひとつの解決策が、それもたったひとつの解決策があると暗黙のうちに言っているので批判可能な概念を維持しているテキストである。しかし、実際に伝統的な概念形成との関係を断つ解答は《マルクス主義と革命理論》で行われた作業およびそこで私が公式化し、解明しようとした概念、そして、このテキストで以前に言ったことを支えている概念から、そしてそれから見て可能になったのである。ここでこうした概念のひとつを提出しておくのが都合がいい。なぜなら、以下のページの理解、革命的計画、つまり社会-歴史的計画の理解を容易にするからである。この社会-歴史的計画は主体にも、 主体の定義できる概念にも由来しないもので、その名前を挙げた運搬者は、いつでも過渡的に支えるに過ぎない。そして、それは、ある時永久に合理的に定められた目的のためになる方法を技術的につないだものではないし、既成の知識に基づき、与えられた《客観的》および《主観的》条件に基礎付けられた戦略でもない。そうではなくて、自ら展開する状況や打ち立てられる目的をやそれを実現する代理人を修正する活動によって打ち立てられ、支えられた、そして人間と社会の「自治」の概念37で統一された、 社会-歴史的世界の根本的な変革に向けられる意味の開かれた生成である。

 (p81)労働者運動とその歴史の問題ーーーそれに、影響を与えてきた政治的、イデオロギー的問題、いわゆる空想的社会主義、マルクス主義、アナキズム、が複雑に絡み合うのだがーーーは、我々にとって単純に、根本的に理論的な問題ではない。経済的《危機》がそうするであろうよりずっと強力に、現代社会を揺り動かす一般化された破壊と混乱という、全ての者にはっきりと認識され実際のシステムの代表者そのものから毎日のように認識されているものを前にして、 社会問題のあらゆる深淵を包含しないようなそして根本的な変革の展望の中にない方法でそれに焦点をあて、それ故、労働運動によって引き起こされる革命計画の継続あるいは歴史的な新たな開始としてではない方法で理解することのできる真の政治的行動も目的も存在しえないのである。革命的要求を伴いながら、自分の起源と歴史的種ーーー労働運動ーーーとの関係を明示し、解明するつもりの無いような政策はありえない。

 労働運動の歴史は、 資本主義によって創り出された社会経済的範疇に属する人間(そして、資本主義の側で闘ってきた別の人達)の活動の歴史である。そして、それを通じてこの範疇は自ら形を変えている。言葉の新しい意味で自らを《階級》と「し」(そして、そう自称し、そう考え)るーーーそれは、実際にひとつの《階級》を形成しており、我々が歴史の中にこの《階級》に類似するものをたとえ漠然とでも探すのは無駄である。それは、資本主義がそれに押し付けようと望み、そうもくろんだ受動性や、ばらばらであることや、競争を、活動性や、連帯や、労働の資本主義的集団化の意味を逆転している集産化に変える時、変化するのである。その日常活動の中で、工場の内外で、その度毎に搾取に対して抵抗するための新しい答を考えだし、資本主義と無縁なそして敵対的な原理を生み出し、 独創的な組織と闘いを創り出すのである。国境を越えて統一を目論み、「インタナショナル」と呼ばれる歌をその賛歌に変える。資本主義の恥ずべき行いに、貧困、迫害、強制収容、投獄と流血という最も強い貢ぎ物を払うのである。 その歴史の頂点の瞬間に、(p82)その全体的力を受肉化する世界的な新たな組織を創り、そして歴史の中に他の集合体にはほとんど真似のできない大胆な試みと政治的深さを持って活動する能力を示している。

 150年前から搾取の対象から歴史の決定因である社会勢力へと、 このようにその活動によって形を変えられた労働者階級もまた、 その明白なあるいは内在する闘いの直接的あるいは間接的影響によって、同じように、体制に対する恒常的な圧力や、資本家にその反発を予想し、それを考慮する必要性を押し付けることによって、同じように資本主義社会を変えてきた。しかし、この変化(その中に明らかに資本主義の《特有の》要因が集中しており、この要素をバラバラに取り扱うのは問題があるだろうが)の暫定的な《結果》は、「独創的」で「自治的な」社会歴史的勢力であるような労働運動の「消滅」であった(注30;この発展とそれを条件付けた多数の要因については、MRCMおよびRRを参照のこと)。労働者階級は、言葉の厳密な意味で、近代的資本主義を持つ国々では、 ますます数的に少数派の層に変わる傾向にある。そして、なお重要なことだが、もう階級として現れていないし、「自らもそう言っていない」。明らかなのは、我々が労働人口の殆ど全部の賃金労働人口への変化を目撃しているということである。しかし、正にもはや階級という言葉で語ることに多くの意味が無いという以外、 これにどんな意味があるのだろう。産業労働者の《客観的》状況の中よりも、一般的な賃金労働者の状況の中に、革命予定説があることは、なおのこと少ない。この点に関して、決定的なのは、記述的な社会経済的な特徴ではなくて、人間が自分の位置している社会的な場所で、社会的争いの中で、それによって生活し行動している活動なのであって、もっと正確に言えば、「社会的」争いとして「構成している」もの、彼らが編み出す組織と闘争の形態、この闘いの中で生まれる内容、そして結局、こうした---部分的で、少数で、断続的であるとは言えーーー社会の全体の問題に立ち向かうための、(p83)社会の組織と機能の任務を行う意志を断言するための人間の能力なのである。

 こうした要因を考慮すれば、 現実には伝統的な意味でプロレタリアートの特権的位置という考えを維持することも、また、賃金労働者全体にこの特徴を機械的に拡大することも、結局、賃金労働者が、萌芽状態も含めて、「階級」として行動すると主張することも出来ない。現代の資本主義社会の疎外、体制の矛盾と深い消耗、形態の無限の多様性の下でのこれに対する闘争は、首脳部の人を除いて、現代のあらゆる社会階層によってその日常的存在の中で、生きられているし、活動されている。もし、産業プロレタリアートとは異なった賃金労働者のカテゴリーを問題にするのと同様、学生と若者、女性人口の増大する部分、知識人と科学者の断片、民族的少数も同様に問題にするなら、我々はもう一度産業労働者の闘いの中で重要であったものを見つけることになる。すなわち、自らの一般化された反論を内包している、体制の抑圧的組織の特定の面に対する反論である。 労働条件に関する労働者の闘いはともかくかなり遠くまで到達したし、今もしている。しかし、学生による教育システムおよび知識の伝統的タイプと機能、あるいは、女性と若者による家父長的な家族の告発ほど遠くではない。こうしたいくつもの闘いを前にして、プロレタリアートのそれは、もし、社会、生産、労働の革命的変革の中で、それらが並外れた重要性を持っていると断言できるとするなら、 それだけがある確かな特権を持ってることになるであろうに。さて、問題はこのことではない(しかし、それは我々がそれを排除でき、あるいは無視できるという意味ではない)。 社会生活とその変革を提案する問題のあらゆる面の相互関係は、中心で至高の点、つまりその他の全ての点を支配できる点が定義されうるということを排除する。この点が存在することを受け入れること、そして、生産と労働でそれを識別することは、《一元論》と生産主義を伴う資本主義の生産主義の継続でしかないマルクスの形而上学に属する。「企業」が資本主義のもとで、社会化の特権的な立場に居たし、ある程度ではあるが、そこに居続けていることは(P84)、疑いなく幾分か確かであり、重要なことである。しかし、そのことは存在している他の社会化の立場、そしてなおもっと重要なことだが、「これから創り出されようとする立場」の重要性を減らすものではない。そして、とにかく、もし、我々が革命的社会変革の最も困難な点を考えるなら、それは社会の全体的機能を引き受ける問題、全ての社会の明確な視点の問題なのだが、ここ25年の現代資本主義を持つ国々での経験は、個人化と社会及び政治的無関心が、他のものより労働者の層の中になお一層深く入り込んだことを示している。

 この状況はまた決定的に、 自ら革命的だとする理論的-政治的概念に関して、 そして資本主義下の政治活動の問題を解決しようともくろむそのイデオロギーに関して、マルクス主義の問題を解決する。というのは、それが、単に理論的なあらゆる批判とは独立な、そして、ブルジョアの有効なイデオロギーとしてのマルクス主義の最終的な歴史的運命とは独立ですらある、 最後の「内部」批判を提供するからである。

 労働運動は長い年月の間、そして多くの国々で(いつもではないし、全ての国でではないが)マルクス主義と合流してきた。この関係は明らかに両者の進展に重要な役割を果たしてきた。そして、その度に、多数の、困難な問題を提出しているが、それについてはここでは検討しない。しかし、労働運動がマルクス主義あったわけでもないし、 マルクス主義が労働運動であった訳でもない。マルクス主義が労働運動にもたらすことのできた豊かで、肯定的なことは、評価がどこかむずかしいものである。資本主義社会の組織と機能の理解、これは、すでに見たように、19世紀の前半に労働運動の中で、実際に打ち立てられてきたのだが、 間違った科学の迷路にそれを入らせたために、マルクス主義によって、より不明瞭にさせられたのである。プロレタリアートのアイデンティティとその《自己意識》を、確かめているように、《歴史的任務》 という形而上的-神秘的ベールでマルクス主義はそれらを覆ってきた。マルクスの思想において、当のマルクス主義者自身にとって判読出来なくされ 、 判読できないある新しい方向性の急速に凍結させられた萌芽であったものは、ほとんど、それももっともなことだが、労働運動に入らなかった。その反対に(P85)はっきりと入り込んだものは、テーゼの大系、科学的ー宗教的教理問答であり、 これらはマルクス主義をプロレタリアートの中への資本主義の意味の《伝導ベルト》、最も深いレベルへの資本主義の生き残りと支配を確保する微妙な方法にしたのであった。 生産的なものと経済的なものを優位におく荘厳な理論化、 資本主義生産の技術と組織を不可避なものとする聖化、給与の不平等の正当化、科学主義、合理主義、官僚制の問題に対する機能的な盲目性、 資本主義の組織と効果をモデルにしている労働運動に対する崇拝と重要視ーーーこうしたものは、 同時にマルクス主義が資本主義的な一般概念の範疇に関して深く依存していること、また、マルクス主義が労働運動に行った忌まわしき影響、そして、官僚制の性質を持つイデオロギーであることを運命づけていたものを措定できる最も明確な テーマのいくつかでしか無い。これはマルクスの思想を《歪曲したもの》であると言えることは、何等重要ではない(たとえそれが確かであってもであるが、私が書いているのは歪曲したものではない)。これが、実際の歴史的マルクス主義であり、もうひとつのものは、最もよい場合でも、いくつかのテキストの文章の中に存在するだけなのである(注31;CSIおよびII、POI、RR、RIB、MTR、それにIGを参照せよ)。こうしたテーマーーーそして特に、全てを支配し、全てを条件付けるもの、すなわち、社会、歴史、革命についての理論的知識が存在し、言葉の全ての意味で「判断する」真実と権利の保証を持っている人々を生み出すことについてのテーマーーーは、 プロレタリアートが被害を受け続けていた資本主義社会の直接的影響を補強するのに非常に多くの貢献をしてきた。

 今日我々はこれらのテーマの社会ー歴史的意味を明らかにすることができるし、 こうしたテーマが我々が闘う世界に完全に属していることを示すことが出来る。また、我々は、マルクス主義の理論的構築物は支持されないこと、社会の機能をもたらす分かりやすさは、限定されており、最終的には偽りであること、プロレタリアートへ《歴史的使命》を割り当てることは、それが誰であれ、歴史的使命の考えが神話であるのと同様、神話であることを知っている。(p86)しかし、最も重要なのはこのことではない。あれやこれやの二義的な意味合にもはやよらずに、 構成する思想の全体的な肉体と運動に従がえば、マルクス主義は、階級社会の廃絶と共産主義的社会を建設しようと燃えている真に革命的唯一の階級であるようなプロレタリアート、 万が一いるとすれば、そういうプロレタリアートの希求と活動の《自覚的表現》として許容できるに過ぎないであろう。ところで、そのようなものでなく、そうなれないものがマルクス主義なのである。まず第一に、完全に革命的な唯一の階級としてのプロレタリアートがもはやいないからだ。 社会には少数のプロレタリアートはいるが、彼らは革命的階級と自らを宣言していない(そして、すでに《階級》とすら言っていない)。そして、既成の体制に対するその闘いは、量的にも質的にも、他の社会階層に比べて、重要性においてどっこいどっこいである。さらにまた、この闘いが含むことのできる革命的なこと、プロレタリアートあるいはその他の階層について、マルクス主義は、自覚的表現でも「ないし」、単なる表現でもない、そして、最もよい場合でも、それに対して無関心であり、そして、多くの場合、潜在的に、あるいは、はっきりと敵対的であるからである。マルクス主義は、すでに、実際に、語の強い意味でイデオロギー、偽りの本質の、偽の合理主義的建設の、そして、その本当の意味はまるで違っている社会的-歴史的実践を具体的に正当化し、 覆い隠す抽象的原理の祈りでしかない。 この実践がその搾取や完全な支配を世界人口の3分の1に押し付ける官僚制のそれである事実を無視し、小話として、あるいは、偶然なものとして考えるためには本当にマルクス主義にならねばならない。 *

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 労働運動、 それに訴えるイデオロギーそして革命の計画の間に長いこと存在していた統一、むしろ、一体化は、現実の中で、内部から溶かされている。もし、我々が、《真面目に》現在の事態と、行われていることを観察すれば、我々はこれが二世紀に渡る歴史と実践的理論的闘いのとりあえずの結果だと言わなければならない。(p87)その骨組みが全体としてひび割れを生じている世界的な社会の中で、その中では、以前は知られていなかった鋭さで、全体的問題として政治問題が現れているが 、 我々には何よりも労働者階級によってなされた革命の計画が関係がある。そうはいっても、その実行者は疎遠になり、社会的配役である群衆の間に紛れているのだが。我々は、その度毎にはっきりと、 根底的な社会-歴史的変革が巻き込んでいるものをかいまみるーーーあるいは、少なくともそう信じるーーーその度に「誰が」それを実現できるかは分からなくなるという矛盾する状況の中にいる。

 しかし、おそらく状況は、外見上のみ矛盾しているのだろう。この計画を実現することのできる「ひとつの」役割ーーー人、党、理論、あるいは《階級》も含むーーーを探すことは、社会ー歴史的発展によって作られた要請、すべての革命的活動によってその後強く要求された増幅と深化を無視することをさらに意味するだろう。革命の計画は、もし、現代社会に生きている男と女の圧倒的な大部分が、それを引き受け、その必要性とその欲求の実際的な表現にそれを変えるように至らないかぎり、意味も、現実も持たないような点まで到達したのだ。《至高の救世主はいない》し、人間の運命は何等かの特別なカテゴリーが遂行するものではない。

1973 年7月 10 日