ピョートル・アレクセーヴィチ・クロポトキン, 大杉栄

青年に訴う

AUX JEUNES GENS

1986

      

      

      

      

      

      

      

      

      

      一〇

      一一

『青年に訴う』は、クロポトキン自身も言っているごとく、クロのもっともお得意のものだ。そして二十余りの諸外国語に翻訳されて、クロの著作の中でももっとも広く読まれている。

僕はかつてそれを、もう十三、四年前のことだが、『日刊平民新聞』に訳載した。そしてその最後の一章のために、秩序紊乱という名の下に、二た月か三月牢に入れられた。

その留守中に、クロから故幸徳に手紙が来て、「自分の著書の中でももっともモデレェトな(温健な)あんなもののために、その自由を犠牲にした若い同志に」云々とあった。

その後三、四年して、僕の翻訳はアメリカにいる同志の団体の社会革命党から出版され、その幾百部かは日本にもはいって来た。

こんどはそれを全部書きかえたのだ。

週刊『労働運動』に連載した時には、ほとんど無事であったのだが、一まとめにするとなると無残にやられてしまった。

仕方がない。あきらめられぬとあきらめるんだ。

大杉栄


私がいま話そうとするのは青年諸君にだ。だから老人ども――勿論それは頭と心との老人ども――は、こんな本はうっちゃって、無駄に眼を疲らすようなことはしないがいい。

私は諸君を、十八歳か二十歳かに近いものとし、徒弟もしくは学業を終えて、今やまさに実生活にはいろうとするものと仮定する。世間がしきりに諸君に注入しようとした、いろんな迷信から脱け出た頭を持っているものとする。悪魔などを恐れないものとする。牧師どもの長ったらしい御説法などを聞きに行かないものとする。さらにまた、頽廃しかかった社会の悲しむべき産物であるところの、猿のような顔をして短かいズボンをはいて歩道を練って行くところの、そしてまたこんな年齢で、すでに何事をおいてもの快楽の情慾しか持たないところの、かののらくら息子ではないとする。それとは反対に、私は、諸君をごく真面目な心を持っているものとする。そして、それだから私は諸君に話しかけるのだ。

私は諸君の前に横たわっている第一の問題を知っている。「俺は何になるんだろう。」諸君は幾度かこう自問したことであろう。実際、若い時にはみんなよく分っている。数年の間――しかもそれは社会の出費の下に、このことはよく注意しておくがいい――ある職業またはある科学を研究して来たのは、それによって自分を掠奪の機械にしようがためでないと。されば、他日自分の知力や才能を、今日貧窮と無知との中にうごめいている人達の解放を助けることに充てよう、という理想を少しも持たないのは、よほど堕落した、よほど悪徳に腐敗されたものでなければならない。

諸君はそういう理想を持ったに違いない。しからば、諸君、諸君はその理想が現実となるために何をしようとするか。

私は諸君がどんな身分の下に生れたか知らない。しかし、たぶん、運命に可愛がられて、科学の研究をして、医者なり弁護士なりあるいは学者なりになろうとするのだろう。諸君は広大な知識と熟練した才能とをひっさげて実生活にはいるのだ。あるいはまた、諸君は正直な職人で、科学上の知識は学校で教わったごく少々のことに限られているだろうが、今日の労働者がどんなにつらい労働生活を送っているかを親しく見る便宜を持つ人達であるだろう。

私はまずこの第一の仮定にとどまって、つぎに第二の仮定にもどることにする。すなわち諸君が科学的教育を受けたものとする。そして、まず諸君が医者になろうとするものと仮定する。

明日、労働服を着た一人の男が病婦を診てくれと言って諸君を迎いに来たとする。その男は、両側に住んでいる人達が通行人の頭の上でほとんど手を触れ合うことができるほどの狭い路地の中に、諸君を導いて行く。諸君は腐った空気の中を、カンテラのふらふらと揺らめく光をたよりに、二階、三階、四階、五階と登って行く。そして薄暗い冷たい室の中に、汚ないぼろ布団に包まれて、毀れ寝台の上に横たわっている病婦を見る。その側には、子供等がぼろ着物の中にふるえながら、大きな眼を開いて諸君を見つめている。

聞いて見ると、この病婦の夫は、これまで何の仕事をしても毎日十二、三時間ずつ働いて来た稼人であったのだ。しかるに、この三日ばかり前から仕事がない。この仕事がないということは年々定期にやって来るのだ。しかし以前ならば、夫が失業をしても女房が日傭に出て、あるいは諸君等のシャツを洗ったりなどして、ともかくも日に十五銭ぐらいは取って来たものであるが、今はその肝心の女房がこの通りに二ヵ月も前から病床についたままなので、貧窮はますますこの家族の上に遠慮なく蔽いかぶさって来たのである。

医者諸君、この病気の原因は栄養不良と新しい空気の欠乏とによる貧血病であることを一目見て知った諸君は、この病人に向って何と言うか。毎日うまいビフテキを食べろと言うか。郊外に出て少し運動をしろと言うか。もっと乾燥した、空気の流通のいい室に移れと言うか。馬鹿な! それができるくらいなら、諸君の忠告を待たないでもとうの昔にやっているのだ。

もし諸君が善良な心を持っていて、同情のありそうな顔つきをして、そして親切に話しかけるならば、この家族のものらはなおいろいろと諸君に話すであろう。諸君の胸を張り裂くように、いま壁の向う側に苦しい咳をしているのは、火慰斗かけの女であるとか。一階下の室では、子供が皆な熱病を煩っているとか。地下室にいる洗濯婆さんは、生涯浮世の春を知らないで過しているとか。向う側の室の人はもっとみじめな生活をしているとか。

これらの病人に向って諸君は何と言うか。いい食物をとれと言うか。転地療養をしろと言うか。もっと静かな労働をしろと言うか。諸君はそう言いたくも、ついにそれを口から出すことができないで、張り裂けるような胸を抱いて、唇に呪詛を浮べてそしてその家を立ち去るであろう。

その翌日、諸君はなおきのうの、犬小屋の中に住まう病人について考えている。すると諸君の仲間が、きのう使いが馬車で迎えに来て、ある立派な家へ貴婦人を診に行ったと話しする。この貴婦人というのは、毎日毎日化粧と訪問と舞踏と夫婦喧嘩とに夜の目も寝ずに騒ぎ廻ったために、ついによわり込んだのだそうである。諸君の仲間は女に注意して、もっと静かな生活をして、もっと淡白な食物をとり、新鮮な空気の下に散歩して、そして幾分かの必要な仕事ができるようになるために室内体操をするがいいと言って来た。

一方は生涯のあいだ十分に食べることもできず、十分に休息することもできなかったために死し、一方は生涯のあいだ労働の何たるかも知らないで過したためによわり込んだ。

もし諸君が、境遇次第どうにでもなるというような、そうしてとうてい見るに忍びない事実を見ても、ただ軽い溜息をもらして一杯のビールに気を紛らそうというような懦弱きわまる性質のものであったら、永いあいだにはこれらのコントラストに馴れてしまって、その上に諸君の動物性はますます諸君を助けて、ついにはもう、自分が貧民の列にはいらないように、どうかして自分だけは道楽者のあいだに身をおくように、とのこの一事をのみ思い煩うものとなってしまうであろう。

もし諸君が「人間」であるならば、もし諸君の感情が諸君のからだの中で意志の活動となるならば、また諸君の動物性がまだまったく諸君の霊能を殺し尽していないならば、諸君は必ず家に帰って、つぎのように言うであろう。

「いや、こんなことは確かに不正なことである。こんな状態は決して永く存続させるべきものではない。病気を治すばかりでは役に立たない。病気の予防をするのが肝心だ。生活状態が少し向上して、人間の知識が少し発達すれば、病人の数や病気の数の半分は、容易に統計表の中から取り除かるべきものである。薬などはどうでもいい。新しい空気を吸い、いい食物を食い、そしてもっと静かな労働をするのが一番の必要だ。これができなければ医者という職業は詐偽である。瞞着である」と。

ここにおいて諸君は、社会主義を了解するであろう。そしてさらに詳細にこれを知りたくなるであろう。そして、もし愛他主義という言葉が諸君にとって無意義なものでないならば、また自然科学の厳重な帰納法を社会問題の研究の上に応用してゆくならば、諸君はついにわれわれの戦列に加わって、われわれとともに革命のために働く人となるであろう。

しかし諸君はあるいはこう言うかも知れない。「実務などは無駄だ。われわれは天文学者や、物理学者や、化学者のように、純粋科学に献身する。それならば、少なくとも将来子孫のために、必ずその効果をもたらすであろう。」

しからば諸君は科学の中に何を求めるのか。まずそれをきめてかかろう。

自然の神秘を研究したり、われわれの知能を働かせたりして、われわれの得るところのものは、実に快楽――勿論それは広大なものであろうが――に過ぎないのだろうか。それならば私は諸君に尋ねる。その生涯を愉快に送るために科学を研究する学者は、やはり同じようにその生活の中にただ直接の快楽だけを求めて、それを酒の中に見出した酔漢と、どう違うのだろう。

なるほど学者はその快楽の源泉をよりうまく選んだ。この源泉は、より強い、そしてより永続きする快楽を与える。しかし、要するにただそれだけのことだ。いずれも、酔漢も学者も、自分一身の快楽という同じ利己的目的を持っているのだ。しかし諸君は、決して、そんな利己主義者の生活を望んでいるのじゃあるまい。科学のために働くのは人類のために働くのだと思っているのだろう。そしてまた、そう思ったからこそ、科学の研究を選んだんだろう。美しい妄想だ。初めて科学に献身した時、誰か一時はこの妄想を抱かなかったものがあろう。

しかしながら諸君、もし諸君が本当に人類のため研究をして行くというのならば、すぐに恐ろしい障害が諸君の前に現れて来る。なぜなら、諸君が少しでも正しい心を持っているなら、諸君はすぐに気がつく筈だ。今日の社会では、科学は一贅沢品に過ぎない。少数の人々にはその生活を愉快にさせる。しかし人類のほとんど全体にとっては絶対に寄りつけもしない。

現に、科学がその立派な宇宙観的諸概念をたててから、すでに百年あまりになる。しかるに、この概念を持っているものの数、あるいは本当に科学的な批評的精神を得ているものの数は、どれだけあるだろう。それは幾億万の人々がまだ野蛮人にも等しい偏見と迷信とを抱いて、したがってまた、いつも宗教的詐欺師どもの玩弄品になっている間に、わずかに数千の人人に過ぎない。

また、科学が生理的や精神的の衛生についての合理的基礎をつくるために、何をしたかを、ただ一瞥でもして見るがいい。科学はわれわれに言う。われわれの身体の健康を保つためには、われわれはどう生活しなければならないか、群衆の衛生をはかるにはどうしなければならないかと。科学はまたわれわれに知識的および道徳的幸福の方法を教える。しかし、この二つの道のために成就された広大な研究は、まったくただわれわれの書物の中に死文となっているだけじゃないか。

それはまたなぜか。

それは、今日では、科学は少数特権者のためにだけつくられているからだ。社会を賃金奴隷と資本所有者との二つの階級に分ける社会的不平等が、合理的生活をさせる諸条件についてのいっさいの教えを、人類の十分の九のものにとっての嘲弄のようにしてしまったからだ。

私はまだ幾らでも例をひいて話しすることができる。しかし私はくどくどしくは言わない。諸君はただ、ほこりで黒くなった窓ガラスがようやく白日の光を書物の上に通すような、かのファウストの書斎から出るがいい。そして諸君のまわりを見るがいい。諸君は歩一歩ごとにこの思想を確かめる証拠を自分で見出すであろう。

今日はもう科学上の真理や発見を蓄積する時ではない。何よりもまず、科学によって得られた真理を広めて、それを実生活に適用して、万人共有のものにすることが肝要なのだ。すべての人が、全人類がそれを自分のものにし、自分の生活に適用するようになることが肝心なのだ。科学は贅沢品でなくて、すべての人の生活の基礎にならなければならないのだ。正義がそれをそういうふうに望むのだ。

私はなお進んで言う。これは科学そのものの利益からいっても、そうしなければならないのだ。科学は、新しい真理を受けいれるように準備された社会があって、初めて本当の進歩をする。熱の機械的起原論は、今日ヒルンやクロオシアスが言っているのとほとんど同じ言葉で、すでに十八世紀に唱えられていたのだが、物理学の知識が十分広まった、それを受けいれることのできる社会ができるまで、八十年のあいだ学士会院の記録の中に埋もれていた。また、種の変化についてのエラスムス、ダーウィンの考えが、その孫の口に賛成されて、輿論の圧迫をうけつつついに学士会院の学者達に承認されるまでには、実に三世代もかかっている。学者もやはり詩人や美術家と同じように、自分等がそこに活動し教訓する、その社会の産物なのだ。

しかし、もし諸君がこういった思想に徹したなら、何よりもまず学者にだけありあまるほどの科学的真理を専有させて、人類のほとんど全体を五世紀も十世紀も前と同じように、それらの真理を知ることのできない奴隷や器械のようにしておく、この現状に根本的の改革を加えることが肝心だと分るだろう。そしてまた、諸君がこの博大な人道的の、あくまでも科学的な思想に徹した時、その時に諸君は純粋科学の興味を失ってしまうだろう。諸君はこの改革を行う方法の研究を始めるだろう。そしてもし諸君がその研究をするのに、科学上の研究をする時にやったのと同じ公平無私で進んだなら、諸君は必ず社会主義を採用するだろう。曲論僻説とは縁を断ってわれわれの中にはいって来るだろう。すでにありあまるほどの快楽を持っている少数の人々に、その上にも快楽を与えるために働くことがいやになって、諸君の知識と熱心とを被圧制者の即刻の用に捧げるだろう。

そしてその時に諸君は、義務を果したという感じと、諸君の感情と行為との間に確かめられた本当の一致とによって、かつては夢にも知らなかった力を自分の中に見出すだろう。そしてまた、他日――しかもそれは、諸君の先生達にはお気の毒ながら決して遠いことではない――諸君がそのために働くだろう改革が行われた時、その時に科学は、集合的の研究とそのために働く労働者の群の有力な協力との中に新しい力を得て、今日の遅々とした進歩はそれに較べれば児戯の観をなすほどの、一大発展をするだろう。その時に科学を楽しめ。その楽しみは万人のためのものであるだろう。

もし諸君が法律の研究を終えて、弁護士になろうとするなら、諸君もまた、諸君の将来の活動についていろんな迷想を懐くことであろう。

私は、諸君が愛他主義を知っている、ごく善良な人間であるとする。恐らくは諸君はこう思うだろう。「すべての不正不義に対する間断のない、かつ容赦のない闘いに身を投ずるのだ。そして、至上至高の正義そのものの表現である法律の勝利のために尽すのだ。これほど美わしい天職があろうか。」そして諸君は、諸君自身と諸君が選んだこの天職とに満身の確信をいだいて、実生活にはいるとする。

そこでまず、法廷記事の何処でも手あたり次第に開いて、社会が諸君に何を語るかを聞いてみよう。

ある金持の地主があって、契約通りの地代を払わない小作人の追立てを請求する。法律の見地からすれば何の躊躇することもない。その小作人は地代を払わないのだから、すぐにも立ち去らなくちゃならん。しかし、もしその事実を詳しく調べて見れば、われわれはこういうことを知るのだ。

地主はいつもその地代を逸楽の酒宴に撒き散らし、小作人はいつも汗水流して働いている。地主はその土地を改善するために何にもしていない。しかるに鉄道が敷かれたり、新しい道路ができたり、沼地が埋立てられたり、荒地が開拓されたりして、その土地の価が騰貴して十五ヵ年の後に三倍になった。そしてこの地価の騰貴に大部分あずかって力のある小作人は零落した。高利貸の手に落ちて、借金で首が廻らなくって、ついにその地代も払うことができなくなったのだ。

法律は、地主の側からいえば、常にはなはだ明白だ。法律は地主が正しいという。しかしながら、正義の感情が未だまったく法律の虚偽のために殺されていない諸君は、はたしてこれをどう処理しようとするか。諸君は、この小作人を路傍に放逐するように弁護するであろうか。あるいはまた、土地の騰貴は農夫の労働によるものであるから、その騰貴額の全部を地主から農夫に払い戻すようにと、諸君は弁護するであろうか。諸君はこの二つのいずれかをとろうとするか。法律のためにすれば正義に反し、正義のためにすれば法律に反するのだ。

また、労働者がその工場主に対してストライキを行う時、諸君はいずれにくみしてこれを処理しようとするか。法律にくみしようとするか。詳言すれば、恐慌を利用して法外な利益をむさぼろうとする工場主にくみしようとするか。あるいは法律に反して一日わずかに一円あまりの賃金を得て、眼前に妻子の衰えゆくのを見なければならぬ労働者側にくみしようとするか。

諸君は契約の自由を主張して、偽りの平和に満足するか。それともまた、食にあいたものと食につきたくて労働するものとのあいだに、すなわち強者と弱者とのあいだに結ばれた契約は、真の契約じゃないと叫んで正義を主張するか。

さらに他の例をあげよう。一人の男がパン屋の前をうろうろしていたかと思うと、やがて一片のパンをかっぱらって逃げ出して捕えられた。彼は失業労働者で、彼の家族の人々は、数日来なんにも食わないのだという。パン屋の主人は、この男を赦してやるように頼んだが、警察官はそれを聞かないで、ついにその男は起訴せられ、六ヵ月の懲役に処せられた。これが神聖なる裁判の命ずるところである。こうした裁判が毎日行われているのを見て、諸君の良心はかくのごとき現社会に対して、反抗しようとしないだろうか。

また、幼ない頃から他人に虐遇せられて、かつて同情という言葉をも知らずに育って来た男が、一円の金が欲しさにその隣りの人を殺した。諸君はこの男に対して、どんな法律を適用しようとするか。彼は罪人というよりはむしろ狂人だ。そして、こんな狂人ができたのは社会の罪じゃないか。これを知って諸君は、なおこの男を二十年の懲役、あるいは死刑にしようとするか。また酷遇に堪えないで工場に放火した労働者を牢屋にたたき込もうとするか。王冠を戴いている人殺しを射撃したものを、無期懲役にしようとするか。否、否、否!

もし諸君が、単に教えられたことを繰り返すのみでなく、それを推理し分析して、その真の起原を掩うている偽りの雲を掃い去ったなら、諸君は必ず法律に対して侮蔑の念を起すであろう。

法律は強者の権利である。その条項は、永い月日と、血腥い歴史をへて人類に伝えられた、すべての専制君主を神聖化するために存在するものだ。だから諸君が、法律の奴隷となって日日やっていることは、良心の掟に逆らって不正不義の味方をしているのだということが分るだろう。

不正な法律と良心の争いは永続するものでない。諸君はその良心を沈黙させて自ら奴隷となり終るか。あるいは旧い習慣を打ち破って、経済的、政治的、社会的の、すべての不正不義を絶滅するために、われわれとともに働く人となるか。その時に諸君は社会主義者となるであろう。

青年技術家諸君。諸君は科学の発明を工業に適用して、そして労働者の地位を改善しようと夢みるだろう。けれども、ああ、かくして諸君が得るところのものは、ただ悲しい絶望と失敗とがあるのみだ。諸君は青年の活気と智力とをもって、断崖の縁をうねったりあるいは御影石の巨人の胸をつらぬく鉄道の設計に熱中して、自然が離した二つの国を結びつけることもあるだろう。しかしその工事をはじめるやいなや、諸君はただちに、その真暗なトンネルの中で、激しい労働の苦しみと病いとのために、ほとんど死にたえてゆく労働者を見るだろう。また、わずかな賃金と肺病の黴菌とを懐ろにして、悄然と故郷に帰って行く労働者を見るだろう。そして工事の進行するに従って、卑しい貪婪の結果である人間の屍体が、ごろごろ転がっているのを見るだろう。さらにこの鉄道ができあがった時に、それが侵略者の大砲を運搬する道になるのを見るだろう。

また、諸君が生産を容易にしようと、何等かの発明を思い立ち、青春の身をそれにささげて、幾晩も幾晩も徹夜した結果、ついにある貴重な発見をしたとする。そこで諸君は、すぐにそれを実地に応用してみて、その結果があまりに予想と反するので、大いに驚くことだろう。幾十万の職工はこれがためにその職を失い、少年労働者が一種の機械のようなものとなってそれに代わる。そして、数人の資本家はこれがために巨大の富を得て祝盃をあげる。ああ、これがはたして諸君の予想したところだったろうか。

また諸君は、近世の工業の発達を研究して見て、織物機械の発明のために、多数の機械女工が失業したことを知るだろう。トンネルの中に働く労働者が、金剛錐の発明されたにもかかわらず、ぞくぞく、関節固着病のために死ぬのを見るだろう。左官や日傭取が、ジファードの起重機のかたわらに依然として失業しつつあるのを見るだろう。ここにおいて、もし諸君が、機械を発明するほどの独立した精神で社会問題を研究するならば、諸君は必然につぎのごとき結論に到着するだろう。

私有財産と賃金制度の存在する現社会の下においては、発明は労働者の幸福を増進するものではなく、かえってその圧迫を重くし、ますますその労働を卑しくし、ますますその失業を頻繁にし、ますますその恐慌を劇烈にするばかりだ。そしてこれがために利益を得るものは、常にあらゆる幸福と快楽とをその一身に集めているかの資本家だ。

一度びこの結論に達した時、諸君は何をしようと思うか。諸君はその良心を資本家の前に沈黙させて、ついには青年時代の正しかった理想をも捨ててしまって、諸君自らが掠奪者の仲間入りをして、快楽の権利を得ることにのみ一生懸命になるだろうか。あるいはまた、諸君がその愛他的な心情からついにつぎのように言うだろうか。

いや、今は確かに発明する時じゃない。まず生産組織を改革しなければならない。私有財産が廃止されたその時こそは、すべての新しい工業の進歩が人類全体の幸福利益となるのだ。そして今日ではほとんど機械に等しい労働者が、その時に初めて物を考え研究する人間となり、労働によって練られたその知識を十分によく応用するようになるのだ。工業の進歩は一躍して、今日夢にも思っていないようなことが成し遂げられるのだ。

小学校教員諸君、諸君のあるものはその職業をもって、はなはだうるさい厭なものと思うだろう。またあるものは、無邪気に子供等にかこまれて、そのいきいきした眼と嬉しそうな微笑とに満足を感じて、自分がかつて幼少の時にいだいた人道的理想を、彼等の小さい頭に呼び起させようと努めるであろう。前者はいうに足らないが、私はその後者に一言したいのだ。

私は往々、諸君が非常に悲しい顔色をするのを見る。また私は諸君が何故にそうも眉をしかめるかということも知っている。今日、現に、諸君の愛する生徒の一人が、ウィリアム・テルの話を意気ごんで物語っている。彼はラテン語はあまりよくできないが、正直な善良な心の生徒である。今、彼の眼は光り輝いて、いかなる暴君をも即座に刺し殺そうとするもののように見える。彼はシルレルの熱情火のごとき詩句を熱心に口誦む。「鉄鎖を断切る奴隷の前に、自由人の前に戦慄するなかれ」と。

しかるにこの生徒が家に帰ると、その父兄達は、牧師や警察官に尊敬をかいてはならぬと言ってきびしく叱りつける。そして官吏や上長に対しては謹慎と尊敬と服従とを守れという、一時間あまりの説教を聞かされる。かくして彼はついにシルレルを捨てて『自助論』を手にしてしまった。

昨日もまた人が来て諸君に話すのに、諸君の最良の生徒が皆な悪い方面にばかり進んで行って、ある子供はサーベルや勲章のみを夢みている。あるものはまた資本家と共謀して、たださえ少ない労働者の賃金を掠め取ろうとのみ思っていると。これらの生徒に多大の望みを嘱していた諸君は、ここにおいて、現実と理想とのあいだの悲しむべき矛盾について、大いに考えるところあるであろう。

諸君はさらに深い思いにふけるであろう。そこで私は予言する。諸君はかくして幾度か失望に失望を重ねて、ついには諸君自身の愛読書を捨ててつぎのように叫ぶであろう。なるほどテルは正直な人には違いないが、要するに愚直な男であったのだ。また詩は炉辺のものとして、ことに終日比例の法式を教えた後などでははなはだ結構なものである。しかし詩人などというものは、雲の上にうろついているもので、その思想は、日常の生活のためにも、また視学官のつぎの巡回の時にも、何の役にも立たぬものだと。

また諸君の青年時代の理想が、壮年になった時にかたい自信となることもあろう。諸君は学校の内外において広大な人道的教育をほどこさねばならぬと思うであろう。そしてそのことのとうてい現在の社会では行われがたいのを見て、ついにブルジョア社会の根底に攻撃を加えるようになるだろう。その時に諸君は、学務局から免職の処分を受け、学校を去ってわれわれの中に来るであろう。そして諸君よりは年はとっているが学識のあさいものらに対して、知識のいかに望ましいものであるかを説き、人の本領、われわれ人類はかくかくであるべきものだと説くであろう。

そして諸君は、世界に真の平等と、真の友愛と、無窮の自由とをもたらさんがために、われわれ社会主義者とともに努力して、現代社会の改革のために尽すであろう。

青年技術家諸君、彫刻家諸君、画家諸君、詩人諸君、音楽家諸君。諸君は諸君の先人の霊感した聖火が、今日諸君の芸術にはまったく欠乏していて、芸術がただ平凡庸劣に流れていることを認めないか。

それもそのはずではないか。再び古代の世界を発見して、さらに自然の泉に浴するような、歓喜によってつくられた文芸復興時代の諸傑作は、今の時代の芸術にはまったく存在しない。革命的思想は、今日まではなはだ冷淡に看過された。そして理想のない今日の芸術は、写実の中にこれを見出し得たと信じて、あるいは木の葉の上の白露の玉を色写真にとったり、あるいは牡牛の脚の筋肉を模写したり、あるいは息の根もとまるような臭い溝の汚穢物や、醜劣な貴婦人の居間などを、韻文にことこまかに描いたりして、芸術の能事おわれりとしている。

はたしてしからば、いったいどうすればいいのかと諸君は言うであろう。

諸君の自ら持っているという聖火は、単にくすぶっている燈芯のようなもので、諸君がこの聖火をもってなお従前のごとく続けて行くならば、諸君の芸術はやがて、夜店商人の装飾か、赤新聞の小説書きか、安芝居の脚本書きのような職業に堕落してしまうであろう。いや、諸君の大部分は、非常な速力で、すでにこの峻坂を下りつつあるのだ。

けれども、諸君の心臓の鼓動が真に人類のそれと同音にうつならば、また、真の詩人のように諸君が生命をきく耳を持つならば、諸君の周囲に波うつ苦痛の激浪や、まのあたり饑餓に死に行く人々や、砿抗にうずたかく積み重なっている死屍や、防砦の下によこたわる不具の屍体や、シベリアの雪の中や熱帯の孤島の浜辺に葬られようとする追放者の一団や、また勇敢と卑怯と、高尚な決意と下劣な狡獪との争闘に、敗者は苦痛に叫び、勝者はのん気に笑う、この絶望の奮闘を見て、諸君はとうてい手をこまねいて傍観するに忍びないで、諸君は自ずから、被圧制者の列中に来るだろう。何となれば、優美や壮観や生命は、光明と人道と正義のために闘うものの味方となることを、諸君はよく知っている。

諸君はついに私の言葉をさえぎって言う。

抽象科学は奢侈品であり、医者の実務は虚偽であり、法律は不徳不義であり、機械の発明は掠奪器をつくることであり、学校は実際家の知識とは相容れないで圧服せられるのみであるというなら、他になすべきこととして残るものは何だろう。

雄大な、心から喜んでできる仕事――すなわち諸君のもっとも高尚でもっとも生気のある性質を奮起させるような、いいかえれば、諸君の行動と良心とが完全に一致する仕事――それはどんな仕事なのか。私はそれをつぎに話そう。

諸君のとるべき道は二つある。諸君は良心をまげても自分の安居逸楽ができる間は、そして人々がそれをさせておく間は、人道などは俺の知ったことじゃないと言ってしまうか、しからざれば社会主義者の中に投じて全社会の改革に従事するかの、二つのとるべき道がある。これは必ず到達すべき論理的結論である。ブルジョワ的教育と同僚の利己的観念から出る詭弁とにまどわされずに、周囲の状態を公平に判断し得る人々には必ず来る結論である。

一度、この結論に達した時に、この問題の解決は容易である。諸君は諸君の地位を捨てて、常に諸君が禽獣視する平民の中に行ってみよ。しからばこの疑問は自ずから解決される。

英、独、伊、米、仏などあらゆる国々において、権力階級と平民階級とのある所には、必ず奴隷制度を破壊して、正義と平等の原理にもとづく新社会を建設しようとする激烈な運動が行われている。今ではもう何人も、十八世紀における農奴や、または今なおスラブ人種のあいだに歌われている、かの悲しい歌によってその悲惨な境遇を叫ぶことに満足しないで、さまざまな障害を打破って奮闘している。常に呪われつつある人種の大多数を、いかにして幸福ならしめんかとの考えにみたされている。その常識とその観察と、その悲惨な経験とによってこれが解決につとめ、かくて彼等のあいだに共通な思想を生じて、団結運動をするように尽力している。零細な金を集めてその困難を切り抜け、外国の平民階級と握手して国際間の戦争を未然に防ぐように努めている。その効果は、口先ばかりの人道家などの及ぶところではない。相識り相扶けてその思想を練り、それを宣伝するためには万事を投げうってそれに当り、投獄、追放、虐殺、相次いで来るも屈せず撓まず、さらにまた難戦苦闘をはじめて行く。

新聞は、睡眠の不足と衣食の欠乏とによって脳髄の疲労した人々によって経営せられている。運動はわずかに生命をつなぐ労働者の零細な金によって維持されている。そして彼等は、雇主に社会主義者であることを知られれば、たちまち放逐せられて妻子を路頭に迷わさねばならぬ地位にあるのだ。こうしたことは諸君が人民の中に行けば必ず目撃し得ることである。

この不断の戦いにおいて、困難な重圧の下に倒れながら、幾度びか労働者は叫んだ。「われわれが出費して教育してやったあの青年は今どこにいるであろう。彼等が勉強していた間、われわれは彼等の衣食の世話をし、重い荷物の下に背をまげ腹をくぼめて学校や図書館をつくってやった。彼等のために顔を蒼くしてわれわれには読めもしないあの立派な書籍を印刷してやった。人道の学問をしたと称して人道を見ることあたかも毛虫のごときかの先生は、今どこにいるであろう。彼等は自由を口にしながら、日々ふみにじられているわれわれの自由を少しも庇ってくれたことがない。文学者、詩人、画工――一口に言えば、かの偽善者の一隊は、眼に涙をうかべて平民の窮状を語るけれども、われわれの運動をたすけるためにいまだかつてわれわれの中に来たことがない。」

これを聞いた青年のあるものは、卑怯にも冷淡に無関係のふうを装い、多数のものは「賤民」とさげすんで、もしその特権にでも触れようものなら、ただちにつかみかかろうとする勢いを示すのだ。

この時にあたって、太鼓と防塞とを夢みて、絶えず人気とりに、舞台に現れてくる青年がある。しかし彼等は、防塞までの路は遠く、そしてその得ようとする月桂樹には荊棘がまじっているのを知ると、すぐに平民の味方から逃げてしまう。彼等はただ野心ぶかい利口な奴等にすぎない。その企てが一度挫折すると、今度は平民の投票を得ようと努める。けれどももし平民が、彼等の教えた主義を実際に行おうとすれば、彼等は真先にそれを否認する。また平民が、指揮官たる彼等の命令の出ない前に動こうものなら、それに砲弾をも向けかねない。さらにこれに加うるに、馬鹿げた悪罵と、傲慢な軽蔑と、卑劣なる讒誣とをもってする。これがすなわちわれわれ平民の社会進化に対して、かのブルジョワの青年が、助力を与えたと称するところの全部である。

しかるになお、諸君は尋ねる。どうすればいいのか。もうすべての準備はできた。青年軍は非常なる希望をもってその若き精神力と知識と才能の全力をあげて、平民のために尽くそうとしている。

純粋科学の熱心家である諸君は、もし諸君が社会主義の諸原則に通じ、今まさにわれわれの戸を叩きつつある革命の本当の意味が分ったならば、この新しい主義と一致するために科学全体がつくり直されなければならぬことに気がつくだろう。十八世紀において科学のあらゆる分科に行われた革命よりもさらに重大な革命を、この科学の中に行うのが諸君の仕事であるということに気がつくだろう。

今日の帝王や英雄や議会のお伽噺のような歴史は、人類の永いあいだの進化における民衆の立場から書かれなければならぬことが分るだろう。また今では資本家の掠奪を神聖化するものにすぎない経済学は、その根本の原則においても、またその無数の応用においても、まったくつくりかえられなければならぬことが分るだろう。人類学も、社会学も、倫理学も、まったくつくり直されなければならず、また諸種の自然科学そのものですらも、自然現象についての概念の上にも、またその説明の方法の上にも、深い変化を受けなければならぬことが分るだろう。

よろしい。そこでその仕事を始めるがいい。諸君の才能をこの目的のために使うがいい。ことに、諸君の明晰な論理をもってわれわれの偏見を打破し、また諸君の綜合によってよりよき組織の基礎をきずいてくれ。さらには、本当の科学的研究の大胆さをわれわれの日常の議論に応用することを教えてくれ。また諸君の先輩がやったように、真理の勝利のためには生命そのものをでもあえて犠牲にすることを見せてくれ。

苦い経験によって社会主義を学んだ医者諸君。諸君は、もし人間が今日の生活状態の下につづいて行くなら、人間は衰滅にむかって急いでゆくのだということ、また人間の大多数が科学が健康にいいといっている状態とはまるで反対の状態にうごめいている間、諸君のどんな薬でも病気には無効であるということを、今日も明日も怠ることなくたえず語れ。そして、まず根こそぎにしなければならぬのはこの病気の原因であることを説き、かくしていっさいの除き去らなければならぬものをわれわれに示してくれ。諸君の解剖刀を持って来てどしどしと腐敗してゆくわれわれのこの社会を間違いのない腕前で解剖してくれ。合理的の生活というものがどんなものでなければならぬかを話してくれ。また、手足が腐ってそれが全身に及ぶようであれば、その手足は切りとってしまわなければならぬ、ということを本当の外科医のように説いてくれ。

工業に科学を応用しようとして働いた青年技術家諸君。諸君は諸君の発明の結果がどんなであったかを明らさまに話してくれ。またわれわれのすでに得た知識が多くの発明をはらんでいることや、もっといい社会状態の下では工業が大いに発達することや、また人がいつでも自分自身の生産を増すという考えで生産すれば容易に生産することができることなどを、まだ将来にむかって大胆に進むことのできないものどもに説き聞かしてくれ。

詩人諸君、画家諸君、彫刻家諸君、音楽家諸君。もし諸君が諸君の本当の使命と、また芸術そのものの本当の利害とが分ったならば、われわれと一緒に来るがいい。諸君のペンと画筆と鏨とを革命のために持って来い。諸君の感動的な筆をもって、諸君の印象的な絵画をもって、平民がその圧制者に反抗して勇敢に闘っている様を描いてくれ。われわれの祖先の心を燃した名誉ある革命の情火を青年の若き心の中に燃してくれ。社会的解放の大事業のためにその生命を捧げる夫の生涯は立派な生涯だということを、女どもに話してくれ。その今日の生活のどんなにみにくいものであるかを民衆に示して、この醜悪の原因にまで触れてくれ。もしその一歩一歩ごとに、今日の社会制度のいろんな愚劣にぶつからなければ、合理的生活というものがどんなものであるだろうかをわれわれに話してくれ。

最後に、知識や才能を持っているすべての青年諸君。もし諸君が諸君の性質に一片の同情心があるなら来い。そしてこの知識や才能をもっとも必要としているもののために尽くしてくれ。が、承知しておいてもらいたいのは、もし諸君が来るなら、それは主人として来るのではなく、戦友として来るのだ。支配するために来るためではなく[#「来るためではなく」はママ]、諸君自らの力を得るために来るのだ。多くの人達に教えるのではなく、その人達の熱望するところをつかまえに来るのだ。それを推察し、それに形をあたえて、そしてそれを実際生活の中に実現させるように、青年の熱情と時代の識見とを尽して、うまずたゆまず働くために来るのだ。

その時に、その時にはじめて、諸君は完全な、高貴な、合理的な生活を送るであろう。この道への諸君のあらゆる努力が立派にその効果をもたらすであろう。そして諸君の行為と諸君の良心の命令とのあいだに、一たびこの崇高な一致ができれば、それは勢い、諸君がかつて夢にも見たことのない力を諸君にあたえるであろう。

民衆の中にあって、真理と正義と平等とのために不断のたたかいを闘う。青年としてこれよりも貴いどんな生涯を望むことができようか。

私は長いあいだかかって富裕な階級の青年諸君に説いて来た。もし諸君が勇敢であり、そして誠実であるならば、諸君の生活そのものから来るジレンマ(板ばさみ)のために、諸君はただちに来たって、社会主義者と一緒に働き、彼等とともに社会革命のために闘うべく余儀なくされているのだと。

しかもこの真理は実に単純なのだ。しかしブルジョワ的周囲の影響をうけている人達に話す時には、幾多の偏見と闘い、幾多の迷信を打破し、また幾多の異論を説きふせなければならぬのだ。

が、労働者階級の青年諸君にものを言うのには簡単に言ってもよく分る。もし諸君が少しでも推理し、またその推理にしたがって行動する勇気を持っていれば、生活の圧迫そのものが諸君を駆って社会主義者にしてしまうのだ。

労働者階級のあいだから出て、社会主義の勝利をもたらすために働かないなどというのは、労働者階級の真の利害を思い違って、その本分を忘れ、その歴史的使命を放棄してしまうものである。

諸君は、諸君がまだ腕白小僧の時に、寒いある冬の日、薄暗い中庭に下りて遊んだことを覚えているだろう。寒さは薄い着物を透して肩を噛む。破れ靴の中に泥が一ぱいにはいり込む。その時に諸君は、暖かそうに着こんで、ぶくぶくと太っている子供等が、けがらわしいというような顔つきをして諸君を見ながら、遠くの方を通って行くのを眺めた。けれども諸君は、こうして着かざっているこの子供等が、知識においても、常識においても、また精力においても、とうてい諸君や諸君の友達に及びもつかないことを知っていた。しかるにその後諸君は、毎朝五時、六時から汚ない工場の中に閉じこめられて、轟々いう機械のそばに十二時間も立ち尽し、そして諸君自身もこの機械のようなものになって、一年中毎日毎日この機械と一緒に動きつづけて行く。そしてその間に、ゆっくりと彼等は、大学や何かの立派な学校へ教わりに行く。そして今は、諸君よりも馬鹿ではあるがただ余計に教わった彼等が、諸君の主人となって、人生のあらゆる快楽と、文明のあらゆる利益とを享けているのだ。しかるに諸君はどうか。どんな運命が諸君を待っているのか。

諸君が小さな、暗い、湿っぽい家に帰る。そこには五、六人の人間が幾尺四方の狭い中にうごめいている。生活に疲れきって、年よりもむしろ労苦のために老いぼけた母が堅パンとジャガ芋とを持って来る。それが諸君の御馳走の全部だ。そして諸君は、お茶とは名ばかりの黒っぽい水で、それを流しこむ。そしてなお諸君は、そんなことから気をまぎらすのには「どうしてあすはパン屋に払おうか、どうしてあさっては家主に払おうか」という、いつまでたっても終りにならないおなじ問題に苦しめられるのだ。

ああ。諸君は諸君の両親とおなじ悲惨な生活を、この上にもなお、三十年も四十年もつづけて行かなければならぬのか。幸福や知識や芸術のあらゆる快楽を他人に得させるために生涯のあいだ働いて、自分は一片のパンを得ることができるかどうかという永遠の心配をしていなければならぬのか。少数のなまけものどもにあらゆる贅沢をさせるために、自分の生活を美しくするいっさいのものを永久に見棄てなければならぬのか。そして労苦につかいへらされて、いったん不景気――あの悲しい不景気――が来れば、その報いとして餓死する。これがはたして諸君の一生の憧憬であろうか。

恐らくは、諸君はあきらめてしまうだろう。そして、どうして[#「どうして」はママ]この境涯からぬけ出る道が分らないでこう言うかも知れない。「幾代も幾代もおなじ運命の下にすごして来たのだ。私も、この運命を何とも変えることのできない以上は、やはりそれにしたがわなければならない。働こう。そしてできるだけよく暮らせるように努めよう。」

よろしい、それならば、生活そのものが諸君に教える労をとるだろう。

いつか恐慌が来る。その恐慌は今までのような一時的のものではない。全産業を壊滅せしめ、幾千万の労働者を窮乏のどん底に投込み、その家族を離散せしめるような大恐慌である。その時、諸君は他の労働者達と同じようにこの災害とたたかう。けれども諸君はすぐに、諸君の妻や子や友人等がだんだん困苦にまけて、諸君の眼前にやせおとろえてゆくのを見るだろう。かくして彼等はただ食物がないために、手当や医薬が不十分なために、その命を終ってしまう。一方、富めるものは歓喜に満ちて栄華の夢に酔っているのだ。その時に諸君は、今日の社会が実にたまらないいやなものであることが分るだろう。また、この恐慌の原因について考えるだろう。そして諸君の研究は、幾百万の人間を少数の無益な無駄遣いどもの残忍な貪欲の犠牲にする、この不埒千万さを、底の底まで詮索するだろう。そして、その時に諸君は、現社会はその根底より改造しなければならぬという、社会主義者の言葉が嘘でないことが分るだろう。

一〇

しかしこうした一般的恐慌のことは別として、今度は諸君個人の特殊の場合のことにうつろう。

ある日、諸君の主人が自分の財産をふやすために、さらに幾銭かを諸君から絞り取ろうとして、諸君の賃金を減らそうとする。諸君はそれに反抗する。すると諸君の主人は横柄に「こっちのいう値段で働くのがいやなら、出て行って草でも食っているがいい」と言う。かくして諸君は、諸君の主人が羊の毛を刈り取るように諸君をも刈り取ろうとしているのみでなく、なお下等動物と同様に諸君を見ている、ということが分るであろう。賃金制度によってその容赦のない束縛の中に諸君をおくことだけで足らないで、さらにあらゆる点において諸君を奴隷にしようとするものであることがわかるであろう。

その時に諸君は、あるいは彼等の前に膝を屈し、人間としての品格をすてて、あらゆる屈辱をうけるか、あるいは頭にかっと血が上って、諸君が今降りつつある恐ろしい坂に身慄いして、はね返って、失業して街に出るかするであろう。そして、諸君は社会主義者が「反抗せよ、経済的奴隷制度を破壊するために起ち上れ!」というのが真理であることが分り、社会主義者の中に来て経済的、社会的、政治的、すべての奴隷制度の絶滅に努力するようになるであろう。

ある日また諸君は、諸君があれほど愛してほめていた、あのすばしこい歩きぶり、あの淡白な処作、あの嬉しそうな話しぶりの、ある可愛いい若い娘の話を聞くであろう。幾年も幾年も貧窮とたたかって、彼女はうまれ故郷を去って都へと行った。そこでは生存競争がはげしいということも、彼女はよく知っていた。それでも彼女は少なくとも正直な生活を送ることはできようと思っていたのだ。しかるにその運命がどうであったかは諸君が今知っている通りだ。ある資本家の息子に言いよられて、彼女はそのうまい言葉にだまされてしまった。彼女はその青春のもえるような情熱を尽して、その男に身を捧げた。そしてそのただ一つの報いとして、彼女は赤ん坊を抱いたまま捨てられてしまった。彼女はいつも勇敢にたたかって行った。しかし彼女は寒さと饑えとに対するこの不平等なたたかいに負けた。そして彼女はある病院の中でその日を終えてしまった。

諸君はこの話を聞いてどうするか。「そんなことは今始まったことじゃない」などと愚にもつかぬことを言って、この話の記憶を遠ざけてしまって、カフェにはいって、みだりがましい言葉をはいて、この乙女の記憶を辱かしめようとするか。それとも、この話に大いに憤慨して、その男を探しだしてその罪悪を面罵し、そして、日々こんな事実が繰りかえされているのを見て、社会が怠けものと貧乏人との二つの階級に分れているあいだはとうていこんなことの絶えないことを知って、ついに社会主義者の中に走って来るようになるだろう。

そして諸君は、労働者階級の婦人諸君は、こんなことを、冷淡に黙ってすごされようか。

しっかりと諸君に寄りそっている子供の可愛らしい頭をなでながら、もし今日の社会状態が変らなければ、どんな運命がその子を待っているかを考えたことはないか。諸君の妹や子供等の将来のことを考えたことはないか。諸君の子供等もやはり、諸君の父や兄と同じように、どうしてその毎日のパンを得ようかというほかには何にも考えずに、酒場のほかの何の楽しみもなしに、生きて行くことを諸君は望むのか。諸君の夫や、諸君の子供等が、その祖先から伝えられた資本家の財産をふやそうがために、永久にその掠奪の犠牲となっていることを望むのか。諸君の夫や、諸君の子供が、資本家の奴隷となり、大砲の餌食となり、富者の畑をこやす肥料となることを望むのか。

否、否、否、千度も否。諸君の夫が火のような熱心と決心とでストライキを始め、しかもついに勝ち誇った資本家が傲慢な句調で命令する条件に、帽子を手に持って従わなければならぬようになった時、諸君の血が煮えくり返ったことを私はよく知っている。一揆の時、兵隊の銃口の前に胸を曝して真先きに進んで行ったスペイン婦人を、諸君が讃美していることを知っている、社会主義の[#「知っている、社会主義の」はママ]被告人を獄中で虐待した残忍な獄吏の胸をピストルで撃ち貫いた一婦人の名を、尊敬をもって語っているのを知っている。

パリ一揆の時に弾雨をおかしていかに平民の婦人が男子を励ましたかを読む時、諸君の胸が感激におどるのを私は知っている。

一一

真面目な青年諸君、婦人諸君、農夫諸君、労働者諸君、職人諸君、兵卒諸君。諸君はやがて自分の権利がどんなものであるかを知ってついにわれわれの中に来るようになるだろう。諸君はすべての奴隷制度を一掃し、鎖を断ちきり、旧い習慣を打ちこわして、全人類に新しい地平線を開き、この人類社会に真の自由と真の平等と真の四海同胞主義を来たらしめ、すべての人が労働し、すべての人がその労働の結果を享有し、すべての人がその才能を十分に伸ばすことができ、すべての人が合理的な人道的生活をするようになるこの革命を準備するために、諸君の同胞とともに働くようになるであろう。

われわれが望んでいる、こんな偉大な立派な目的は、とうていわれわれの小さい弱い団体では達し得られるものでない、などと思ってはならない。圧制に苦しんでいるわれわれ平民の数がどれほどあるか数えて見よ。

地主に白米を食わすために、自分は麦を食って働いているわれわれ小作人の数だけでも、数百万の大多数だ。自分はぼろを着て、他人のために絹やビロードを織るわれわれ労働者の数も非常な大多数だ。工場の汽笛が、われわれ労働者にほんのしばらくの休息をゆるす時に、われわれは潮のように道路にも公園にもみなぎりあふれるではないか。号令とラッパで自由に動かされるわれわれ兵卒は、将校に勲章や年金を得させるために弾丸の的となり、われわれ愚かな兵卒は今まで外国の兄弟を殺すことよりほか知らなかった。されどわれわれ兵卒が一度び反抗の声をあげるならば、金モールと羽毛をもっていかめしく着かざっているあの狐のごとき指揮官の奴等は、たちまち尾をたれて消え失せるのである。

日々苦しめられ、罵られ、辱しめられているわれわれ労働者の数は、何人も数えることのできないほどの大多数だ。われわれは何ものをも呑み、何ものをも抱き得る、洋々たる大海のごときものである。われわれにしてあえてこれをなす意志があるならば、世界の圧制者のごときは一瞬にして打殪し、正義を行うことができるのである。


https://www.aozora.gr.jp/cards/001229/files/50510_54018.html(2022年4月14日検索)
大杉栄訳 底本:「大杉栄・伊藤野枝選集第1巻 クロポトキン研究」黒色戦線社 1986(昭和61)年6月1日発行