タイトル: 青年の構造的半失業状態と徴募兵制をめぐる諸事情について
著者名: James v. Hopkins
トピック: 反軍国主義
発行日: 2002
ソース: https://web.archive.org/web/20041215014449/http://a.sanpal.co.jp/aic/artikloj/JvH_20020628.html(2023年2月20日検索)

 「湾岸戦争」以降の10年におよぶ経済不況は、従業員ならびに労働者の新規採用の枠を縮小させている。高校卒業者のおよそ過半数が正規の採用では就職できないままに、いわばアルバイトないしパートタイム雇用の枠で就労している。同様の事態は、程度の差はあるものの大学卒業者にもみられる。こうした不況下の就職難は、構造的に青年を半失業の状態においている。生活および将来設計の立たない半失業状態は、青年らの心理身辺にさまざまな葛藤や抑圧をひきおこす。将来的な家庭形成を期待しえない半失業状態は、よほどの心根と度胸がないかぎり、青年らを内心における虚無にみちびく。若い女性の性風俗業への流入と青年の半失業といった二極に分離される傾向は、いっそうそうした心理的かつ社会的な行き違いの圧力をたかめる。一方で、経済的に安定したより好条件の就職や結婚の機会を求める傾向は、依然とした階級ならびに特権構成を否応もなくひとびとに認知させる。ティーンエイジャーの殺人的な暴力や実際の殺人ならびに若い女性への凶暴な犯行といった、このところ目立つように報道される傾向は、こうした社会情況によっても充分にその背景を示唆することができる。青少年期に経験する暴力的な気配や嫌悪感は、その後の心理的な成長に根深い葛藤不安の影響をのこす。隠然とした社会的売買春の存在もまた同様に青少年らのナイーヴな感受性を傷めているということができるだろう。

 しかし青年には、その一方でつねに愛や自尊心への慰撫や承認を求めるつよい願望がある。そのことがまたさまざまな場面で葛藤を生じさせる。また、そうした願望や感情は素朴な道徳心に鼓舞されることでときに社会的な貢献への興味関心となる。ボランティア活動に参加したり、社会福祉に関係する職域を求める青年らがいる一方で、また逆に、国への献身として単純に兵士になることにひとつの解決を求める青年もいるのである。

 とくにこの不況下に、青年らの一部には、自衛隊員になることで就職問題を解決する者がいるのである。最近の新聞報道では、「予備自衛官補」の募集に応募する青年が増加しているという。この予備自衛官補は、駐屯地での3カ月の訓練を終えると一時金として30万円が支給される。ところで、関係筋からこの間もらされているのは、戦時における部隊構成に一般兵員がいちじるしく不足しているということである。もとより自衛隊の一般兵員はこれまで募兵制によって構成運営されてきた。また、自衛隊は兵員訓練の課程で幾つかの職業訓練をふくんでいる。このことが、経済的な事情から普通学校へ進学できない青年の一部を、自衛隊が一種の職業訓練学校として吸収してきたということもあり、一般自衛隊員をつねに流動させてきた。こうしたことが、不況下の現在、いっそう顕著な特徴としてはたらくのである。

 最近、自衛隊員に女性の応募が増加しているといった報道がみられる。職域として自衛隊が女性にも開放されたという事情があるにしろ、このことはたんに女性の社会進出がすすんだという評価では、充分な説明にはならない。むしろ女性が正当充分な評価をうけることができる職域が十分に広まっていないことと、依然とした女性への社会的かつ構造的な圧力といったものが背景にあると考えることのほうが、理解としては慎重といえるだろう。たしかに、志願女性兵士の心理的な大胆さはみとめなければならないだろう。しかし、いまの日本の社会構成のなかでは、軍部隊への女性の志願は決して政治的な文脈において積極的に賞揚できるものではない。というのも、性産業・売買春制と女性の軍務への動員は対極にあるようにみえても、いまのところその本質は、ブルジョワ家父長制社会への人的サービスのふたとおりのかたちでしかないからである。

 昨年末、治安および平和維持活動を名目にインドネシア・東チモールに派遣された自衛隊部隊には女性兵士がふくまれている。偶然に彼女らを取材したテレビ・ドキュメンタリーを観たが、彼女らの現地での努力を中傷するつもりは(わたしには)ないが、それでも彼女らは自動小銃によって武装して移動している。しかも、もし活動地において潜伏民兵による武装攻撃があった場合は、上官の命令如何によっては戦闘しなければならないのである。平和維持活動における自衛隊の武装とその使用は、当初は隊員自身の正当防衛の域にとどめられていたが、いまはその域が拡大されている。部隊指揮官の判断命令によっては、充分な戦闘行動をとれるようにその権限が拡張されてきている。彼女らは政府中枢のいう「国際貢献」と自身の海外での活躍を単純にむすびつけて考えているようであったが、そのむすびつけには主観的な短見または先見があるようにわたしにはおもわれた。

 さて、こうしたPKO部門での志願女性兵士の活動とはべつに、いま現在すでに導入されているのは、「即応予備自衛官制」である。この兵制は、1997年当時に議会に上程され、与党の賛成によって成立したものである。この兵制の主旨は、海外での紛争発生の際に、現地居留日本人の安全および救助を目的とする場合には、完全武装の兵士となって部隊を構成する予備役兵員の確保である。一年のうち、一定期間の部隊訓練への参加が義務づけられており、日頃は民間の事業職務に従事しているこれらの予備役兵員は、政府および司令部の召集発令とともにただちに部隊に合流するということになっている。この事例はおそらくすでに、パキスタン領内まで飛行した自衛隊輸送機に搭乗した兵士によってすでに履行されているとおもわれる。輸送機に搭乗した兵士は自動小銃を携帯していたのである。また、即応予備自衛官制の内容には、多国籍軍の動員構成に際しては、第一線の戦闘を担当できるだけの能力を維持すべきものとされている。これらの内容の兵制は、当時の政府によって「自衛隊法改正案」または「自衛隊関連法案」として提出され、議会での一部野党の反対のなかで、さしたる抵抗もなしに採決・可決されてしまった。この法案の内実をもっとも切実にうけとめなければならなかったのは、一般自衛隊兵士諸君だったのだが、世論による支援のないところでは、かれらの不安や危惧は一向に認知されることはないといわざるをえない。

 ところで、さる12月初頭に、インド洋上に作戦展開中のアメリカならびにイギリス海上軍艦隊への輸送支援部隊として海上自衛隊が派遣されることが政府・議会によって決定された際、長崎・佐世保海軍基地付きの自衛官複数が辞表を提出したという。かれらの判断と選択には一片の良識がふくまれているようにおもわれる。現憲法の理念原則を理解かつ尊守するのであれば、然るべき判断というべきである。しかし、大半の自衛官および一般兵士諸君は、政府の政策決定をそのままにうけいれて、政府および幕僚上官の指揮下に任務を遂行しているようである。最近にして、インド洋上に作戦展開中の自衛隊艦船のなかで、士官級クラスが会議の場で、自分らの活動をどう国民に理解してもらうのか?といった葛藤と動揺を指揮官に呈したと報道された。まだしも士官クラスのなかに、こうしたナイーヴな感受性があったことを知って、わたしは一縷の期待感を抱くここちがした。おそらく一般兵士諸君のなかにも、同様な葛藤や動揺を内心に抱くものがいるであろう。

 わたしは(アフリカ・モザンビークでの)PKO部隊の任務に小隊長として従事した者(予備役)と偶然に談話したことがあるが、部隊駐留地域の住民とは隔てられたままに、ちいさな部隊キャンプのなかで待機する状態は、(とくに夜間が)不安のきわみであったという。ゲリラ民兵は、おおく戦闘を経験しているうえに、また土地の住民とも自由に交渉できる立場にあるからである。  こうしたことは、単純なことではない。軍部隊の外地駐留は、つねに武装した軍隊としての存在をアピールすることであり、そのことによって一定の圧力と影響力を行使することに、その本質的な目的があることをわれらは理解しなければならない。昨年末、東チモールに上陸展開した自衛隊の部隊は、駐屯地での整列時に、携帯した自動小銃になぜか銃剣を装着していた。また、横須賀米軍基地のゲートを警備防衛する自衛隊が市街地にむけて機関銃を設置したことをみると、この国の軍部隊の存在の構造的な本質をうかがうことができるであろう。  (そも、溯ってみるとき、いまの自衛隊が発足当時には「警察予備隊」と呼ばれたことの意味を考えるべきである。また、国の正規軍は、つねにときの政府の実力装置であり、国内におきた事態が警察の力量をこえた場合には、治安出動するのが歴史的な実例である。かつてこの国では、労働者の大規模ストライキにたいしては警察だけでなく軍部隊が鎮圧のために介入していたのである。単純に、国外からの軍事的な侵入攻撃に対抗するものではなく、国家政府の発令によっては自国の人民にたいしてさえ、実力介入する余地を軍隊はもっているのである。)

 話しを本題に戻せば、いま現在、自衛隊の募兵はいたるところでつづけられており、とくに「予備自衛官補募集」の告知は、大学の就職掲示板にさえ張り出されているのである。また、駅前のショッピング・センターの電光ニュース情報掲示においても「陸海空・自衛官募集・問い合わせは地方連絡支部まで云々」と、流されている。  戦時の軍部隊編成に一般兵員のいちじるしい不足を予告しているいまの政府関係当局と、青年の恒常的な半失業状態、そして募兵構成とその情報宣伝の世間への浸透は、現在の政府・幕僚および軍が、インド洋・アラビア海周辺で作戦任務を遂行中であることをみるとき、全景としては、いわば準戦時下における募兵宣伝ということもできるのである。  かたや、日本・韓国によるサッカー・ワールドカップ共同開催があり、「サッカー戦」という象徴によるナショナリズム感情の高揚があった。サッカーの公式戦と実際の軍事戦争の遂行を同列にみることはもとよりできない。しかし、韓国においては、サッカー試合会場の周囲に軍部隊が展開して、警戒しているという異常な光景がある(そうした光景は映像報道されていないが)。また、日本においては、サッカー・ファン・フーリガンへの警戒強化の一環としてか、同時に対テロリストを口実にか、警察機動隊に高性能小型自動小銃が使用配備された。こうしたことどもをみるとき、「9・11」以降のうごきのなかで進行している各要素が、全体として「反テロリスト」ならびに「治安維持」を根拠口実にした、全体的には軍事的な治安体制の確立への志向性が強まっている。そして、このうごきをほぼ完全に網羅するかたちで、「有事関連三法案」いわば事実上の戦争宣言法制および戦時協力動員法制が政府・与党によって策定されようとしているのである。

 ところで、いま現在において日本本土を直接の攻撃対象あるいは仮想敵国として、想定している国家政府はないと言い切ってよいだろう。一部政治家や知識人・ジャーナリズムが、国際情勢の不安定や危機を煽って、日本の政治をより国家(国粋)主義的ならびに軍事主義的な方向へとよりいっそう誘導しようと試みていることは、ここ数年来あきらかになってきていることではある。実際、首相である小泉純一郎が、日本の歴史的な対外戦争を遂行し、またそれに従事した戦没軍幹部ならびに兵士を軍神英霊として祀る「靖国(ヤスクニ)神社」を拝礼し、現在アメリカ連邦政府が主導する、対イスラム武装勢力の国際戦争にまた軍事的な支援協力を継続するなかで、うえに述べてきたことどもが現実の情景になっているのである。

 いま現在進行中の国際戦争に、日本はまだ側面からの協力支援といったかたちで関与している。しかし、アメリカ連邦政府はごく近い将来にイラクのサダム・フセイン政権への掃討戦争に着手しようと模索している。この対イラク戦争への日本の軍事力のいっそうの動員が図られる可能性がある。そうしたことへの予断および準備として、このたびの一連の戦争法制が登場したとみることもできる。この社会のあらゆる領域への協力動員発令を可能にする本格的な戦争法制の準備策定は、単純に本土領内への軍事的侵略行為に対抗する防衛策としてあるよりも、むしろより対外的な攻撃戦争への備えとしてあると考えることのほうが、情勢判断としては正確だろう。事実、アメリカ連邦ならびに日本と韓国の政府はいま現在の軍事協定にもとづいて、ときに秘密裏な海上共同軍事演習をおこなってきた。ときにアメリカ連邦大統領ジョージ・ブッシュJr.が北朝鮮の人民共和国を「悪の枢軸」として名指しし、その動向によっては先制攻撃の選択肢も考慮に入れると発言し、またその発言内容に沿ったあらたな戦略ドクトリンが準備策定されようとしているいま、日本政府が策定しようとしているこのたびのあらたな戦争法制は、地理的により近接した北朝鮮の人民共和国への攻撃戦争を可能にするものである。

 さて、北朝鮮の人民共和国についてであるが、この共和国を組織している政治思想イデオロギーは、基本的には社会主義・共産主義と呼ばれるものである。ところで、社会主義・共産主義思想には、その理論構成からして、無差別な殺戮をふくむ侵略的な行為を良しとする発想や傾向はない。そしてまたそもそも北朝鮮に組織された人民共和国が、かつての帝国主義日本の侵略併合と植民地支配からの解放闘争を出自としたものであることにわれらは留意しなければならない。そして、ときに社会主義・共産主義者が実力武装した戦いを展開する場合、それはあくまで抑圧され、収奪されている人民を政治的に解放することを目的におこなわれることが基本的な原則である。帝国主義・植民地支配・ブルジョワ支配秩序を追求する軍事戦争がおこなう一般人民への無差別な殺害あるいは収奪や抑圧といったものとは、本来的に反対の志向性を社会主義・共産主義者は訴求している。(そのことなくして大陸中国における共産党ならびに赤軍の勝利もおそらく成立しなかったであろう。)そして実際のところ、朝鮮の人民共和国が強固な軍事体制を組織しているにしても、そのことはむしろ日本ならびに韓国に駐留するかつて朝鮮半島全域を制圧するところまで軍事戦争(犠牲者数およそ300万人)を展開したアメリカ軍の介在圧力に対抗するためであると考えるべきだろう。もとより、社会主義・共産主義者の組織する人民軍は、民族ないし人民解放のための軍事組織であって、帝国主義者の動員する侵略または人的ならびに社会的共有財を破壊攻撃することを目的とする軍隊とはその性質を異にするものである。歴史的にはいくたびかの変節に類いする光景を目撃してきたということはあるが、それらも本来的な目的任務からの逸脱あるいは政治指導部による歪曲操作の結果もたらされたものとみるべきものである。これらの深層を洞察するためには、社会主義・共産主義者が依拠する最大の前提である社会革命の遂行あるいは防衛という観点から考察しなければならない。(こうしたことがらを詳論することはこの文書の主旨ではないので、またべつの機会にゆずる。)

 以上に述べたことがらをむすぶべき視点は、日本の政府がいま策定しようとしている戦争法制が、帝国主義のイデオロギーに依拠した対外的な軍事介入(戦争)を想定したものであるということである。

James v. Hopkins
vendredi, 28 juin 2002