タイトル: 『社会主義と個人主義』
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/kutumi01.html
備考: 【注】・横書きのため各段落の漢数字はアラビア数字に改めた
・旧字体の一部を、同意語に改めた
・海外人名は、原文のままとした
・原文ルビは再現せず、文中及び引用者注/※で対応した(Anarchy In Japanより)

 1 個人主義とはすでに今人の耳に熟するところ、社会主義もまた世の論者によりてしばしば語らるるところなり。しかれども純粋の個人主義、真誠の社会主義はいかなるものぞ。余をもって見ればわが国においてはこれを説くものはなはだ稀なり。ただ社会主義は『平民新聞』の主張その最も純粋なるを見る。同新聞は余の親友幸徳、堺ら諸氏の経営するところにして、今の俗悪なる風潮にさからい、善戦健闘することまさに識者の称するところ、余は実に大いにこれを尊敬す。しかも同新聞は余をもって個人的無政府主義者なりとし、また絶対に社会主義に反対するものとなしたるがごとし。

 しかれども余はこれに対してあえて弁ずるところなからんとす。ただここにいわゆる個人的無政府主義と社会主義との関係について、少し説くことを要すと思惟す。

 2 明々地に余の理想を告白すれば、まことに個人的無政府主義なり。しかもそはプルードンまたはクロパトキンもしくはバクーニンの亜流を酌(く)みたるにあらず。さればとてスチルネルに私淑したるにもあらず。実に天下の各個人がことごとく賢となり智となり、今日のごとき偽善なく、虚偽なく、不徳なく罪悪なく、したがって法律のごとき道徳のごときすべてある制裁をもって行為に命令するものを要せざるにいたれる時を想像してのことなり。かくのごとき時代には政府の必要あるべからず。各個人は各自完全にみずから治めて、何ら他よりの制裁命令を要せざればなり。

 今日といえどもまことに高徳の君子あらば、彼が身には法律も道徳もまた作法も必要なかるべし。超然として高くみずから己を治めて、あえて他の命令制裁を被むることなきを得ればなり。天下の個人みなかくのごとく成らんか、各個人みな太陽のごとくまた高峰の雪のごとく、自然にして独立自由に、高くかつ清きことを得べし。この時において政府なるものはたして何の要かある。

 畢竟すれば政府は俗人と愚人と痴漢猾奴とのために最大必要なるのみ。彼らの一掃せられたる世には、すなわち人間に尾を要せざると一般、元来何らの必要もなかるべきものなり。

 ゆえに余はこの境として、人間のこれに達するゆえんの道を個人の進化に求む。人間が今日のごとくなおいまだある階級の猿猴たるを免れざる間は、その多くは俗なり痴なり悪なりしかしてまた奸譎(※1)[1] なり。彼らはとうていある束縛の下にあらざれば生活しあたわざる厄介者なり。

 3 国家といい社会という。余よりして見れば桶に嵌めたる蔑箍(※2)[2] のごときものなり。しかして各個人はこれその桶を作すゆえんの木片に外ならず。もしそれこの木片にして昔の生木時のごとく各自独立し、自由に完全にみずから治め、高く清風の中に聳えて生活することを得んか。何ぞ蔑箍の束縛あるを要せん。そもそもまた桶となりて何の苦役に供せられ、あるいは汚れに染みあるいは傷を被むることをなすに及ばざるなり。

 しかれどもいま木片は独立せず、また自由ならず。しかして桶を作れる悪漢あり。その悪漢は名を主権という。彼や領土と名づくる汚土を盛らんがために、なるべく大いなる桶を製作す。なるべく多くの木片を集めてはなはだ頑固なる蔑箍を嵌むるなり。ここにおいてか桶は汚れたる泥土に染まりて厭うべき色を生ず。各自の木片はまたことごとくこれに染まりてその天然なる生木の鬱々蒼蒼たる自由の色を失う。憫むべきは今の木片なり。今の吾人なり。

 しかれども千万歳ののち枯木ふたたび花開く時に遇うまでは、吾人は区々たる木片なり。ある階級の猿猴なり。国家の蔑箍を要す、社会の桎梏もまたこれなきことを得ず。ここにおいてか国家主義あり。社会主義あり。

 余の理想は遠き未来のまた未来にありて、今はその光明多くの人に認められず。明滅断続、微々たり茫々たり。余はまことに憐むべき主義の信者なるかな。

 4 しかれども今の世には稀には喬木(※3)[3] の雲際に高きを見、猿猴を離れたる猿猴あり。彼は超然昂然として桶屋の店頭に木片を笑い、動物園もしくは花屋敷の鉄鎖に縛されたる猿を嗤えり。しかも木片や群猿や彼らは唇を翻してかえってまた彼を笑えり。

 奇人よ、隠者よ、幣拗漢(※4)[4] よ、狂者よ、馬鹿者よ、これ彼が彼らに呼ばるるの名なり。あるいは慾を解せざるもの、あるいは世渡りを知らざるもの、これもまた時として彼が彼らに呼ばるるの名なり。しかも彼や平然たるべく洒然(※5)[5] たらん。しかしてみずから高く世外に超絶して、毀誉褒貶の外に立ち、あるいは猛鷲のごとく、高山の絶頂にあり、あるいは偃鼠(※6)[6] のごとく人の知らざる地下に潜み、悠々みずから適するの生を営みて、もって詩歌を友とするものあらん、もって哲学を楽しむものあるべし。彼や法律を要せず、道徳を要せず、己れの意に任せてみずから治むればなり。すなわち彼にとりては政府なるもの、そもそも何の必要かある。たまたまもって租税と戸籍との煩累(※7)[7] を感ずるのみなり。

 彼がごとき生活の趣味は木片や群猿の解するところにあらず。高風慕うべき俳人哲士の間その彷彿を認め得べからざるにあらず。しかしてこれ個人的無政府主義が今の蔑箍ある桶の中にありて、その所現を妨害せられ、畸形をなして発作せるものなり。

 5 朝露を踏むは日光を見るゆえんの初めにあらずや、畸形の発作あらば正形の所現かならずしもそのなきを嘆ずるを要せず。今の世においても正形の所見あり、真に高人と称せられ君子と呼ばるるもの出でなば如何の生活をなすべきか。彼みずからにとりては、はたして法律の束縛を要するや。道徳の制裁を要するや。そもそもまた政府の御指図を必要とするや。

 他の俗人、愚人、悪人、痴漢、猾奴らとの交際なからざるを得ざるによりて、彼らのために法律、道徳、政府を要することあるべし。もしそれまことに高人との間、君子と君子との間にありてはなんら他の制裁、命令、束縛を要せずして、なにごとをも治め何物をも賊(そこな)うことなかるべきなり。

 しかも今日においてかくのごとき高人、君子を見る。暁天の残星もただならず。また亭々(※8)[8] たる大木を桶屋の店頭に見るあたわざるがごとく、世はほとんど挙げて木片なり、群猿なり。よく日光における朝露たるあたわずして、ついに風雨に先立つの黒雲たるを免れず。嘆ずべきかな。しかれども古今三千歳その間稀に真珠を豚群に投じたるがごとき、清き朝露の一二滴を雑木醜獣の間に見ることかならずしも絶無にあらず。孔子を支那に見、釈迦をインドに見、耶蘇をユダヤに見たりしがごときこれこの類にあらずや。

 朝露はすでに降れり。常に風雨の日のみ来たるにはあらず。熈々(※9)たる日光を見る時なからざらんや。孔子、釈迦、耶蘇を今日に再生せしむるは難かるべきも、かくのごとき賢智の性格を全人類のうえに得る、その進化の極みにおいてはかならずしも不可能というべからず。

 かくのごとき賢智の性格にして世界に満たんか。各自皆みずから治めん。政府の必要は絶対的にこれあるを見ざるべし。しからば余の理想は憐むべき主張にあらず。光明を遠き将来に見るゆえんにあらずや。

 6 議するものあらん。しかれども世は生存競争の荒き風に吹かる。すべての人はこれがために罪悪の淵に沈むべしと。あるいはしかるべしといえども、生存競争なるものは生物の始めて世に出でたる以来、かって消滅したる時なし。しかもすでに聖人君子の出現を見たり。今日というといえども俳人哲士の間に畸形なる個人的無政府主義の発作あり。もって生存競争の荒き風がこの主義を吹き去るあたわざるを証するのみならず、かえってこの主義の所現を早むべく進化の過程を催すものあるを見るべし。社会主義を語るの人は、生存競争を惨劇なりとして大いに忌めり。これを廃滅せしめんと企てつつあり。これも吾人をして安楽ならしむるゆえんの一方法ならん。しかれどもこの競争や生ある物の、いなすべての物の必有の属性なり。もし人の助骨を抜き去ることその神のごとくなるを得たらば、すなわち人より生存競争を抜き去ることを得ん。しかれどもこれただ空想のみ、この点において個人的無政府主義は社会主義と立脚点を同じうすることあたわず。

 今の生存競争はいかにも惨劇を演ず。しかれどもこれは実は今の人―木片や群猿の演劇なればなり。桶の蔑箍が固くして木片を締むることあまりにはなはだしければなり。もし高く清く超然として神のごとき慾望、仏のごとき観念を有し、自由に完全に独立なる個人あり。同じ個人との間に生存競争をなさんか。かならずや神性的の競争(※10)[10] なり。惨劇にあらず、きわめて潔く快き戦争ならずんばあらず。孔子と釈迦とソクラテースと耶蘇とゾロアスターとマホメットをして同時代同地域に生活せしめよ。彼らはおのおのその面のごとくその心を同じうせざれば、生存の競争をなすなきを得ざるべし。しかもその争いや君子なるべく、けっして惨劇ならざるべし。いわんや彼らよりもさらに秀でたる進化を経たる個人あるにおいてをや。その生存競争はまったく神性的のものたり。神的生存競争これ実に個人的無政府主義の一大条件にして、この競争には法律を要せず、政府を要せず、ただ個人の神のごとく仏のごとき自由の心によりて支配せらるべきのみ。

 かくのごとき生存競争はすなわち人類の進化をしてますます高からしむるゆえんの動機なり。忌むべく厭うべきゆえんを見ざるべし。

 しかれどもこの境は遠き未来のまた未来なり。吾人の目前に出現せしむるあたわず、すなわち吾人の今の生活はその蔑箍に締められざるを得ず。おそろしき生存競争の演劇をなさざるべからず。ここにおいてか社会主義者はこの演劇をしてなるべくだけ悲しからざらしめんとして、種々に社会の舞台面を変ぜんと企つ。

 7 いわく資本―土地の私有といえる背景は少数の俳優をして良き役を占有せしめ、彼らのみを幸福ならしむるゆえん、すなわち多数の俳優の苦痛の種子なり。ことにその私有資本の競争は大いなる秋嘆場を演ぜしむるゆえんなり。ゆえにすべてこれを全廃して、もって資本―土地を毫も競争なき社会全体の公有てふ大道具に変更せざるべからず。この大道具にしてひとたび人生の舞台を飾るにいたらば、すべての俳優すなわち人民は平等にその利を受けて幸福に演舞することを得ずし(ママ)と、社会主義のアルファよりオメガァはシャアフレのいうがごとくまったくこれに過ぎざるべし。しかれども善き演劇には善き俳優を要し、善き俳優は誂えの道具を要す。資本―土地の私有といえる背景は、畢竟すれば良き俳優―ことには悪形の俳優の誂えになれりしものなり。これが因襲して今日の社会の舞台面をなせるものなり。しかして今日の俳優は門閥を貴ぶ。すなわちその背景は良からぬ俳優にても門閥家なればこれを飾るを得るにいたる。ここにおいてか自余多数の俳優はこれを用いることあたわず。悲惨痛苦なる演劇に困殺せられんとす。社会主義はこの悲惨痛苦の間より発明せられたる人生演劇改革の一大良法たるを失わず。

 しかもただ道具の改革なり。背景の変更に止まる。「書き割」を廃して「ドロップ」となすの類のみ。いかにも社会改革の一大良法たるを失わずといえども、しかれども個人的無政府主義のごとく精神に重きを置くことを忘れたる観なきを得ず。遠き未来のまた未来を期する個人的無政府主義の現下の所期は、個人の精神の改革なり。社会の舞台面の改革よりも、各個人なる俳優の心の改革を第一とするなり。ここにおいて教育という重大なる問題とせず(ママ)。

 8 もしそれ誤らざる教育をもって、各個人を涵養せば、彼らは絶対に高く清く、神のごとく心を有するにいたらざるまでも、比較的にその精神を高尚にし、優美にして、今の人のごとくある階級の獣類に止まり、動物的の搏噬(※11)[11] をなすことなきに至らん。すなわち生存競争の精神を変更して、今のごとく悲惨に乱暴かつ不道徳ならざらしむることを得ん。しかしてこれ個人的無政府主義の所期なる神のごとき人に達するゆえんの階梯なりとす。

 蛹は化して、蛾となり、毛虫は変じて胡蝶となる。生物の脱皮してさらに高等の動物となるは、自然界の舞台の常観、人為をもってこれにある催進方法を加うればさらにその中にて巧妙なる進化を見ることあり。人類の教育はすなわちこれこの人為淘汰を自然淘汰の上に増加するゆえんなり。もしこれを誤らずばその淘汰作用をもって、やや良き馬の中より良き馬を産ましめ、良き馬の中よりもっとも良き馬を産ましむることを得るがごとく、凡人の間より秀才を、秀才の間より人傑を、人傑よりしてもっとも高き理想(※12)[12] の人を生ぜしむることを得ん。すなわち悪魔よりして天使を生じ、劣情よりして貞操を産む、必無というべからざるなり。

 社会主義は形質上における這般(※13)[13] の進化を急進的の社会改革に求め、個人的無政府主義は精神上における這般の進化を漸進的の人類教育に求む、一は外よりし、一は内よりす。この点においてはただ内外の相違のみ、おそらくは相呼応して人類の向上進歩を期することを得ん。

 9 社会主義の実行せられたる日においては、資本家なく地主なく、ある特権を社会経済の上に有するものあるを許さざるの制度を行うがゆえに、富者の暴横跋扈なく、強者の専慾乱行なきことを得、一般の人民ことごとく衣服に窮することなきを得べしとせらる。しかもなおかくするゆえんの制度を執行することを要す。したがって個人に対する社会の干渉を断つことあたわず、少なくとも個人は常に社会の制裁干渉の下に立たざるべからざるなり。

 個人的無政府主義の行なわれたる結果を想像すれば、各個人皆賢皆智にしてことごとく神のごとき心を有す。

 あえて社会の制御を受けずしてみずから治め、独立独行す。すなわち己よりしてみずから暴横跋扈することなく、専慾乱行することあらず。天下一人の衣食に窮するがごとき運命にある劣者あることなし。ゆえに資本―土地の私有を許すも許さざるも、特権をもって他人を虐するがごときものなければ、かかる制度はいずれもまったく無用に帰す。したがって社会の制裁干渉なるものを要せざるなり。

 二主義の実行せられたる暁を比較すれば、それかくのごとく一はなお政府のごとき干渉権を有する権力の中心を要し、これによりて外よりして制御して天国を製造するにあり。一は一切外部よりするの制裁を要せず、また権力の中心を要せず、各個人みずから自由の天国を生ぜしむるなり。一は製造なり、他は出生なり。一は他動的の細工なり、他は自動的の発生なり。一は人の造るところにして他はわが造るところなり。

 10 しかもこの二主義はいずれも現下の状態よりして見れば、ただ理想なり。いずくんぞ夢のごとき空想に似たるやも知るべからず。耶蘇教徒で天国は近付けりと叫びながら、何時にもその実現なきがごとく、いずれの主義の天国も今はただこれを夢に見るを得るのみ。

 ここにおいてか、社会主義はその純粋ならざる国家社会主義に姑息し、個人的無政府主義は奇道を歩みて隠遁主義を主張するのやむを得ざるにいたる。これらはいずれもその主義のはなはだ微温なるものなり。前者は国家の力を籍(か)りてわずかに資本家、地主の跋扈を警戒し、多数人民の不幸の幾分を辛うじて少しく救済するに止まり、後者は一般の個人の度し難きに呆然として、国と権との上に超然として山林に独嘯するか、世と俗との下に没然として陋巷(※14)[14] に隠棲するか、二者その一を択み、わずかにその主義の貫徹を期す。前者は世とともに移りてあえて汚れに染むを辞せざらんとし、後者はただ己れ一身を己れの欲するところに任せてこれを屑くせんとす。高尚なる二主義もここにいたりてはその不運なる、憫むべからずとせんや。

 しかもまた一直線に進みてその主義の精神を伝え、あくまでもその実行を期せんとする三昧の論者なきにあらず。今の純粋なる社会主義者、わが国においては平民社諸子のごときその一なり。しかして個人的無政府主義においては欧州にはすでにその人あり、スチルネルのごときアウベロン、ヘルベルトのごときニイチェのごとき―その説くところは一ならざれども、すなわちこれなり、わが国にては未だ一人のこれあるを見ず、余のごときもまたつとにこの理想を有せしかども、今日初めてわずかにこれをここに語るを得るのみ。この点より見れば余はまさに日本唯一の無政府主義者なるべし。

 しかもただこれ真に理想としてなり。今にわかにこれを行なわんとするにあらず。行なわんとしてもまた行なわるべき時代にあらず。ある階級の猿猴は未だまったく脱皮したるにあらざれば、人として完全なるにあらず。いわんや神のごとき人としてにおいてをや。

 11 しからば、今は一歩退きて、社会主義に与みし、外よりして生活の天国を地上に建つるに尽力する、また可ならんというべきものあるべし。しかれども厳正なる論理をもってすればわが主義はこれを許さず。わが主義はすなわち個人の完全なる自由独立を理想とす。資本―土地の所有を禁ずというの思想はまさにこの理想に矛盾するなり、命令禁止等外制的の組織をもちいずして、個人の高潔なる自由意志をもって財産物品の自由使用あるに至らしめざるべからず。神のごとき人とは一切自動的にして制せられず制せず、しかして毫末も偽善なく虚偽を見ざるをいう。私有制の禁止はこの人格を累わするゆえんたるを免れず。

 今日にて財産金銀に頓着せざるものなきにあらず。家財を傾けて美術に抛ち、遊蕩に棄つるものあり、稀には慈善のために家を捨つるあり、これ無意識ながら自由意志をもってする私有財産無差別観の傾向なり。神のごとき人―個人的無政府主義の実現せられたる世の人は、財産私有制の禁不禁の境界に超絶したるものなり。わが有もわが有に頓着せざること今の私有財産無差別観の傾向あるものに似て、しかもその円満完全なるにあり。しかしてこの超絶の境を理想となすものは、私有制の禁不禁を談ずるがごときをもって、未だわが境に達せざるものとしてただその進来を俟つのみ。

 12 しかれども社会主義の実行は、現下の社会制度における資本―土地の私有競争を除き、これを競争なき公有に移すをもって、事容易に運ぶを得べし。今日のごとき貪慾なる乱暴なる人の皮を着せる巨猿が、ひとり社会に跋扈せる時にありては、これもさほどに容易にはあらざるべきも、しかも天下の個人をことごとく賢ことごと智にして神のごときものたらしむるの業に比せば、まことに易々なるべし。社会主義はすなわち個人的無政府主義よりも、その実行容易なり。したがって前に行なわるべきものならん。しかして個人的無政府主義はこれ人類進化の極致なるべし。すなわち人が最上円満なる発達をとげて、完全自由なる域に達せる時なればなり。

 ゆえに個人的無政府主義は、現下の人類の精神的方面においては最上の理想なり。

 社会主義はまた人類の社会的方面においては最上の理想なり。しかも前者に比すれば前後一歩の差ありといわざるを得ず。すなわち社会主義前に立ち、個人的無政府主義奥に位し、前隊後衛の関係をなすに似たるべし。前衛の戦術と殿軍の軍略とはおのずから異なるものあるがごとく、社会主義と個人的無政府主義との説くところもまた同じからず。同じからずといえども、しかれども同じくこれ人類の向上進歩のために孤軍を提げての進軍なり。しかしてその異なるところは方面の同じからざるなり。部分の相違のみ。論理学にいわゆる正反対にあらざるなり。

[1] ※1 奸譎(かんけつ)→邪悪で嘘が多い

[2] ※2 蔑箍(べっこう)→竹のたが

[3] ※3 喬木(きょうぼく)→高い木

[4] ※4 幣拗漢()→<現在調査中>

[5] ※5 洒然(しゃぜん)→心にわだかまりなくサッパリしている

[6] ※6 偃鼠(えんそ)→もぐら

[7] ※7 煩累(はんるい)→めんどうなこと

[8] ※8 亭々(ていてい)→大木が高くまっすぐ伸びている様

[10] ※10 原文では「競△(ママ)」となっている

[11] ※11 搏噬(はくぜい)→つかみ食らう

[12] ※12 原文では「高△(ママ)」となっている

[13] ※13 這般(しゃはん)→こういう

[14] ※14 陋港(ろうこう)→汚く狭い街中