大杉栄

社会的理想論

1920

      

      

      

 無政府主義者ことにクロポトキンはよく言う。労働者はまず、その建設しようとする将来社会についての、はっきりした観念を持たなければならない。この観念をしっかりとつかんでいない労働者は、革命の道具にはなるが、その主人にはなることができないと。  実際労働者は、今日までのどこの革命にでも、いつも旧社会破壊の道具にだけ使われて、新社会の建設にはほとんどあずかっていない。大部分は自分らの力で破壊しておきながら、それが済めば、あとは万事を人任せにしている、そしてそのいわゆる新社会が、まったく旧社会同様の他人のためのものになることに少しも気がつかない。 しかしこれは、労働者に新社会組織についてのはっきりした観念がないということよりもむしろ、自分のことはすべてあくまでも自分でするという、本当にしっかりした自主心がないからではあるまいか。  たとえば、よし労働者に新社会組織の観念がないにしても、みずから旧社会の破壊とともに新社会の建設にもあずかりさえすれば、その革命の主人になることができるわけだ。また、よし労働者がその観念を持っているにしても、それが他人の知恵で造ってもらったものであれば、その革命の本当の主人にはなることができないわけだ。それからまた、よしその観念があるにしても、その建設はやはり人任せにすることができるわけだ。  したがって、労働者が本当に革命の主人となるためには、自分らのための社会を造るためには、何よりもまず、労働者の解放は労働者みずからが成就するという、自主心の徹底に努めなければならないことになる。  僕は今それを、クロポトキンのいわゆる「新社会組織についてのはっきりした観念」をつかむことについて、ことに論じてみたいと思う。

 新社会組織についての観念、すなわち新社会の理想、といったところで、まずどんな観念、どんな理想を持てばいいのかわからない。  それには、労働者の目の前に、すでにいろんな見本ができている。無政府主義のそれもある、社会民主主義のそれもある。サンジカリズムもある。ギルド社会主義もある。  しかし労働者は今すぐには、そのなかのどれを選べばいいのかわからない。いずれもみな、それ相応に、もっともらしい理屈を持っている。が、そのなかのどれが一番いいのか、労働者にはまだ本当にはわからない。  それに労働者は、そんな観念とか理想とかの見本を理屈の上で比較研究する前に、そのせっぱつまった生活の、少々でもの改善を謀らなければならない。それが労働者の目下の急務だ。  そして労働者は、この急務に努力しつつある間に、資本家と労働者との関係、政府と資本家もしくは労働者との関係についての、その地位を漸次自覚してきた。今日の社会制度の根本的誤謬にまでも気づきだした。また、労働条件改善のためのその努力のなかに、それよりももっと強くその心中に湧いてくる、自由の精神に目覚めてきた。  これは、僕が今多くの労働者の中にみる事実だ。そしてそれらの労働者は今、その眼前に見せつけられる諸種の社会的観念や理想をそのまま受け入れる前に、彼ら自身が獲得してきた社会的知識と自由の精神との結合に努力している。見本の買入れよりも、その刺激の下に自分の品物をつくり出そうとしている。

 人生とはなんぞやということは、かつて哲学史上の主語であった。そしてそれに対する種々の解答が、いわゆる大哲学者らによって提出された。  しかし、人生は決してあらかじめ定められた、すなわちちゃんとできあがった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生なのだ。  労働運動とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。  観念や理想は、それ自身がすでに、一つの大きな力である、光である。しかしその力や光も自分で築きあげてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。  労働者がその建設しようとする将来社会についての観念、理想についても、やはり同じことだ。無政府主義や社会民主主義や、サンジカリズムや、またはギルド社会主義等の、将来社会についての観念や理想は、あるいはヨーロッパやアメリカの労働者自身が築きあげてきた力や光であるかもしれない。彼らはその力と光との下に進むがいい。しかしその観念や理想は、日本の労働者が今日まで築きあげてきた現実とは、まだ大分距離がある。  僕らはやはり、僕ら自身の気質と周囲の状況とに応じて、彼らの現実を高めることに努力しつつ、それによって僕ら相応の観念と理想とを求めるほかはないのだ。そしてそこに、僕らのいわゆる、信者のごとく行動しつつ、懐疑者のごとくに思索する、という標語が出てくるのだ。


https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/osugi03.html#12(2023年2月20日検索)