大杉栄
なぜ進行中の革命を擁護しないのか
生死生の僕に対する非難は、それを具体的に言えば、要するになぜ僕がロシアのボルシェヴィキ政府を攻撃するのか、ということにあるらしい。
そして、それについての生死生の根拠は、一つの無政府主義の社会へゆくにはボルシェヴィズムを通過しなければならないということと、もう一つは共同の敵に対しては共同して当たらなければならないということから、無産階級の手に初めて移されたロシアの政権を支持することこそ、よかれあしかれ、共同目的を有するものの現在の任務であり、当然の義務であると考えられたものらしい。
一足飛びに天国に行けるかどうかは僕も疑う。しかし無政府主義へ行くにはまず社会主義を通過しなければならぬとか、ボルシェヴィズムを通過しなければならぬとかいうことは、僕は無政府主義の敵が考え出した詭弁だと思っている。
ロシア革命の最初のころには、レーニンをはじめボルシェヴィキどもはよくそんなことを言った。日本でも共産主義の最初の宣伝時代にはよくそんなことを聞いた。が、ひととおりその効果を見たあとでの、彼らの無政府主義者に対する態度はどうか。彼らはまるで資本家の次はこんどは無政府主義者だというような具合じゃないか。「全生産力の不十分な現在から一足飛びに」などというもっともらしい経済論も、僕はちっとも信用しない。が、そんな議論は、こんな雑誌の一ページや二ページで尽きることではない。詳しいことはいずれまた論ずるとして、とにかく僕は無政府主義の即時実現を信ずるものであるということだけを明らかにしておく。
次には、共同の敵には共同して当たらなければならないということだ。これには、一応僕は賛成する。共同の敵、すなわち一言にして資本家制度と闘う時には、僕は労資協調論者から個人主義的無政府主義者にいたるあらゆるものとの共同をあえて辞せない。ただ僕がその間に保留しておきたいのは、僕の批評の自由である。互いに協定した戦線の内外における、僕の行動の自由である。それが許されさえすれば、僕はどんないやなやつとでも、共同の戦線に立つことくらいはがまんする。
実際問題にはいってこの話を進めてみよう。今日本の労働運動界ではヨーロッパのいわゆる「共同戦線」の問題とはほとんどまったく独立して、一種の共同戦線問題、すなわち労働組合総連合の問題が起きている。労働者でない、したがってどこの組合にも属していない僕は、組合員として直接この問題にあずかることはできないが、この問題については、第三者というよりももっと近い態度で、多少その促進に努めているつもりだ。
が、僕と他のいろんな社会運動者との間はどうかというと、最近僕は同じ主義以外のほとんどどの方面からも共同を望まれたことがない。僕のほうからそれを望んで、ことに日本のボルシェヴィキにそれを申し込んだことは数回あるが、いつも僕は、体よくかあるいはこっぴどく跳ねつけられてばかりいる。そしてまれにいっしょになっても、その結果はカマラードシップをも友情をも手ひどく裏切られるのが落ちだった。
しかし、僕は今ここで僕の愚痴を述べたくはない。ただ最初僕は誤ってボルシェヴィキとの共同の可能を信じて、それを主張しそれを実行して、そして見事に彼らから背負投げを食わされたという僕の愚を明らかにして、後にくる人たちの戒めにしておけばいいのだ。
僕は今、日本のボルシェヴィキの連中を、たとえば山川にしろ、堺にしろ、伊井敬にしろ、荒畑にしろ、みなゴマのハイのようなやつらだと心得ている。ゴマのハイなどとの共同はまっぴらご免こうむる。が、ここにまだ付け加えて言っておきたいのは、やつらが本当に資本家階級と闘う時には、ぼくだってやはりやつらと同じ戦線の上に立って、共同の敵と闘うことを辞するものでないことだ。
ボルシェヴィキ政府に対する批評! 僕はそれをずいぶん長い間遠慮していた。僕ばかりではない。世界の無政府主義者の大半はそうだった。また、革命の最初にはみずから進んで共産主義者らの共同戦線に立ったものも少なくはなかった。ロシアの無政府主義者らは、ほとんどみなそうだと言ってよかろう。
ロシア以外の国での無政府主義者は、一つにはロシアの真相がよくわからなかった。そしてもう一つには、実際反革命がいやだった。そして彼らは十分な同情をもって、ロシア革命の進行を見ていたのだ。
が、真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらがわかった。
ロシアの革命は誰でも助ける。が、そんなボルシェヴィキ政府を誰が助けるもんか。