anarchist_neko
静かな革命
社会変革は火炎瓶やデモ、あるいは投票によってのみもたらされる訳ではない。オンラインだろうとオフラインだろうと、わたしたちは会話や消費、労働といった様々な日常行為を通じて、日々、少しづつだが確実に社会を変え続けている。漸次的な変化は蓄積し、わたしたちが次に取る行動、取りうる行動、そしてわたしたち自身すらをも、大きく変容させる。
わたしが買わなかった高野豆腐は、あるいはその代わりに買った挽肉は、明日の入荷数を決定する根拠の一つとなり、スーパーの在庫数を通して、わたしやわたしの周囲の人の献立を変える。わたしがコロナ禍の夕方に渋谷のスクランブルを渡れば、「スクランブルを渡る人」は一人増え、他者が同様の行動を取る際の心的障壁を一人分だけ減らす。社会問題に敏感であるという姿勢をとる人が差別的な表現を平然と口にすれば、差別的なステレオタイプを一言分だけ確実に許す。わたしたちがもたらし続ける変化は蓄積し、やがて自分や自分の守りたい人たちを、特に社会的な弱者を、追い詰めていくことになる。
もたらされるのは、もちろん悪い結果ばかりではない。誤っていると信じる行動を避け、自らの信じるより良い代替案を、行動を通じて示すことだって可能だ。わたしたちの様々な行為はやわらかな「プロパガンダ」となり、同様の行動を取るよう、取れるよう、世界を優しく変えていく。
わたしたちは、そうやって日常的な行動を通じて社会を変え続けている。そして、あらゆる人間のあらゆる行為の結果として生じたそれを見ながら、あるいはそれに縛られ続けながら、自身のあるべき姿や取るべき行動を問い直し、判断し、形成し直し続け、さらにそれをまた社会に反映させ返している。われわれの生活は、全員が嘘偽りのない声を出せ、消去法で代弁者を選ぶ必要などない「投票」として、永遠のフィードバック・ループを形成している。個人の行動以上に政府を通じた改革へ大きな期待を寄せているとしているとしても、少なくとも市民が変わらなければ政府は変わらない — 「民主主義」社会であればなおさらに。
ならば、わたしは意識的に「正しく」あって、あるいはあろうとして、「一票」を投じ続けたい。少なくとも、自身の思想に反する意見を社会に反映させることを避け続けたい。それは何よりも大切で本質的な政治運動であり革命行為であると、わたしは信じている。
わたしはそういった思いでずっと「自粛」を続けてきた。人を死に至らしめる可能性の無視できない行動を十分に避けられるのに選択するのは暴力でしかないと、そういった行動をとって良いと示すことはわたしにとって看過されるべきものではないと、そう思って生活してきた。「差別」という暴力と戦いながら、十分にできる対策を怠ったり、あえて積極的にリスクの高い行動をとるなどして他人を感染させるのは、わたしには自己矛盾にしか見えない。少なくともわたしは、わたしのできる範囲ですべきと思うことを可能な限りして、すべきでないと思うことを可能な限り徹底的に拒絶することで、政府の愚策に頼らずともできることがあることを、そうやって生きることができるということを、同じ考えの人たちと示し続けたいと思って行動してきた。
「宣言」が明け、都心の人の行き来は確実に増えた。夕方の山手線には酒の匂いが漂うようになり、自宅からコンビニまでの数分間ですれ違うマスクのない集団の数は倍増した。アクティビストを自称する人すらもが旅行し、密集して遊んでいる。
わたしはわたしの基準で、リスクが充分に下がったと確信できていない。確信できない以上、そして当分の間外出や外食を避けられる状況である以上、わたしはこれらを可能な限りで避け続けるしかない。政府の「宣言」解除はリスク評価に用いるデータの一つではあっても、自身の信じる正しさを無視する為の免罪符ではない。
これが過剰な反応なのか、正直なところ悩んでいる部分もある。その可能性は否定しない。ただ、懸念を持つに十分な理由があると判断し、そしてそれに基づく行為をもうしばらく続けられるのなら、わたしはわたしの思う正しい行為を繰り返す。そのことでその基準への不信感を表明し、感染拡大防止への協力を求め続ける。政府がどんな計画を持とうと、わたしたちはただわたしたちとして、わたしたちの信じる正しい行為をできる範囲で繰り返す。
もちろん、「できる範囲」は人によって当然変わる。わたしがこのような行動を取れることは、特有の環境や特権の結果でしかない。だから、お互いにお互いが可能な限りの情報を収集し、共有し、軌道修正を常に続けながら、日々自分の可能な限りで求める自分であれるように生き続け、そして、そうやって生きている隣人たちを見つめて考え続けるしかない。そうやって繰り返し選択する行動は他者から見れば「不十分」だとしても、わたしたちには「できる範囲」以上はできない。できる範囲で精一杯すべきと思うことをしているか、しすぎだとかなんて、本人にすら容易に判断できることではない。各々が、その時々でできる最も正しいことをし、過ちだと信じることを避けていくしかない。
だから、本当にそこまで考えた結果、あなた自身の思う「今取れる最も正しい行為」が、明日の夜にゴールデン街で会食すると決めることならば、それでいいと思う。わたしも、自分のすべきと思う行為をできる範囲で繰り返し続けることで、自分の思う正しさを訴え続けるだけ。各々のできる精一杯の「正しい」行為を繰り返していくこと、少なくともそうしようという意識の積み重ねこそが、そしてみなにそうやって生きることを提案し続けることこそが、静かな、しかし何よりも大切な革命行為だから。