高島鈴

布団の中から蜂起せよ――アナーカ・フェミニズムのための断章

布団の中から蜂起せよ――アナーカ・フェミニズムのための断章

2022年10月

生きていることが苦しいか? この世を憎んでいるか? この世の変化を望みながら、その兆しすら見えない現状に失望しているか? 布団の上で動けないまま、特に見たくもないSNSだの天井だの毛布の裏側だのをえんえんと眺め、自分でも正体のわからない不安をやり過ごしているか?

あなたにもしそのような経験があるなら、この本はあなたのためにある。あなたがこの本を必要としなかったとしても、この本はあなたのためにできている。いわば本書は、一方的にあなたを待っているのだ。開きっぱなしの扉、飲める水の湧く静かな沼、あるいは誰もいない湖畔のベンチとして、今ここに存在しているのである。あなたは来るかもしれないし、来ないかもしれない、来たとしても関心を持たずに通り過ぎてしまうかもしれない。だからこの待機は、私からあなたへの祈りに近い。

ただ、祈りは弱くない。これははっきり否定しておかねばならないことだ。祈るとか信じるといった言葉を、対象の不可能性をごまかすための語彙、あるいは単なる粉飾に貶めて用いる言説を、私は軽蔑する。祈りを嘲笑って、いったい人間に何ができるだろうか? 地獄のような世の中に陳腐化されてしまった「信じること」の意味を、私は奪い返したい。信じることは、信じることだ。何かをするためには、それができると信じるほかないのである。

私はこの世を、少しでもマシな方向に動かしたい。何者にも、どのような大きな力にも脅かされることなく存在できる世の中を作り出したい。それが具体的にどのような形をした世の中であるのかは、まだ多少曖昧だ。現時点で私が持っている地図は、国家、家父長制、異性愛規範、資本主義をはじめとするあらゆる権力、差別、中心主義を解体・否定し、その先に感情的関係性を必要としない相互扶助によって成立する社会を見据えること、そればかりである。まずは弱い個人を追い詰める現状の批判、破壊、拒絶。私はここに力点を置いている。

批判、破壊、拒絶をはじめとする「この世をマシな方向に動かす」ための働きかけの全てを、私は革命的行動であると認識していて、私は革命を信じている。このアバウトさを、私はあえて歓迎したい――なぜならそれがより多くの人をより多くの場所で巻き込むために必要であるからだ。私は革命のために共闘できる相手を、一人でも多く求めている。だから、あなたを待つとは言ったけれど、私が実際に期待しているのは、あなたが私とともに革命的行動に巻き込まれてくれることなのだ

革命における共闘とは、思想の共有でも、感情的な結びつきの共有でも、「現場」の共有でもなく、目的の共有である。それぞれの持ち場で自分なりの戦いを続けていくことこそが、革命の正しい手順である。誰かにとっては国会前で自らの要求を叫ぶことが戦いかもしれず、別の誰かにとっては同僚の差別発言を笑って流さずに「それ、差別的ですよ」と言う勇気が戦いかもしれないし、また別の誰かにとっては、今を生き延ばすことそのものが戦いになるだろう。

革命とはある日突然がらっと全てが変わるような、劇的な事象のことではない。変化は地道な行動によって少しずつ訪れる。現時点でのわれらが注力すべきであるのも、革命的行動が帰結する先ばかりを心配することではなく、今の自分に何ができるのかを考えることである。一瞬だけ派手にやって散るような抵抗手段が戦いでないとは一切思わないが、私が大事にしたいのは、もっと持続可能な革命なのだ。

まずは、生きること。生き延びることで抵抗運動もまた潰えずに生き延びることができる。逆に言えば、抵抗の意志を維持しながら生きることそのものは、すでに革命への加担なのだ。だから、「革命」という言葉に「そんな過激な行為にはついていけない」と思った人も、心配はいらない。指一本、視線ひとつ動かせずとも権力への抵抗は可能であると、私は約束する。

今説いた「革命」は、一見孤独な営みに見える。しかし目的を背負った時点で、同じ目的を背負った誰かの背中を、私は/あなたは預かることになる。内向きの円ではない、外向きの円として、われらは共同戦線を構築できる。生きていることは苦しい。変わらないこの世が憎い。しかし何の力もない。そのようなわれらが、ばらばらに生きて、ばらばらに抗う。この蓄積が、必ず巨大な「変わり目」を生み出す。私はそう信じている。

これを語っている「私」とは、高島鈴という名前でライターをしているアナーカ・フェミニスト、要はあらゆる権力とあらゆる差別に反対する考えを持つ者である。一九九五年、地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災の年の秋に生まれた。幼稚園を出る頃に9・11があり、小学校を出るタイミングでリーマンショックがあり、中学を出るときには3・11が起きた。私は生まれてこのかた好景気というものを経験したことがなく、年々全てが悪くなっていくかのようなムードの中で人生を過ごしてきた。

世代経験でまとめて人間を語るふるまいの暴力性を一度飲み込んで、あえて世代論として言うなら、われらは最初からだいたいのことを諦めている――いや、諦めさせられていると思っている。自分が主体として何かを選択した、という感覚は、ほとんどない。ただ気がついたら悪くなっていて、その「悪い流れ」には抗えないということだけはっきり学習している。全ては悪くなる、でもどうしようもない。それが基調。それがリズム。問われているのは何を歌うかという一点で、リズムの変更や譜面の破壊は最初から選択肢にないのだ。だって何かを動かせる「主体」であると自覚していないから。そんな契機、一度も降ってこなかったから。

こういう状況に生きてきたのだから、私の説く革命が「絵空ごと」として受け取られる可能性は大いにあるわけだ……意味がわからない/どうせ何も変わらないじゃん/え、本気で言ってる?等々。そりゃそうなるよな、私だって状況に影響されていないわけじゃない。本当に国家の解体が可能なのか、家父長制による支配を破壊し尽くすことができるのか、全てをぶち壊した後に私は生きていけるのか、いつだって怖い。

でも私の恐怖は本気の恐怖だ。マジでそうならない可能性についてビビっているからこそ、「そうじゃない世界」へ至る道筋を模索するのも本気の焦燥の中でできるというわけだ。あなたも今、本当は怖いんじゃないか? もっと悪くなる世界に恐怖しているんじゃないか? だとすれば、あなたはすでに扉の前に立っているではないか。だってそれは「本気」でしょう?


https://note.com/jimbunshoin/n/n49f9b7f5c96b(2026年2月14日検索)