タイトル: サークルA60歳:真実の物語
著者名: Tomás Ibáñez
発行日: 2024年4月
ソース: https://note.com/bakuto_morikawa/n/nf52513329eac(2024年4月22日検索)

サークルAはとても広く普及し、広く認識され、蔓延しているため、アナキズムの伝統的シンボルとして受け止められ、長い間存在していたかのように思われている。その起源はスペイン革命に遡るという噂もある。今の若いアナキスト達は、ドゥルティと一緒に撮影された民兵のヘルメットに描かれているようなハッキリ識別できる対象物以上に、サークルAを見慣れている。プルードンに言及し、「Anarchy in Order」を要約していると信じている人達もいる。実際は、リバータリアンの図像において最近の現象である。サークルAは1964年にパリで考案され、1966年にミラノで再考案された。日付が2つ?発祥地が2つ?詳しく見てみよう。

「Groupe JL de Paris(青年リバータリアン゠パリ゠グループ)」がこのシンボルを描いたのは、1964年4月、会報『Jeunes Libertaires(青年リバータリアン)』の表紙だった。様々な潮流・グループ・組織を横断して「アナキズム運動全体に」提案した。「主に二つの動機からである。まず、壁の碑文やポスターの制作を簡素化・迅速化するためである。第二に、公共圏における全てのアナキズム表現に共通する要素を取り入れることで、社会の中でアナキズム運動の認知度を高めるためである。具体的に言えば、私達の目的は、スローガンの下に長々と署名を書く必要をなくし、壁の碑文作成に要する時間を最小限に抑えることだった。さらに、私達は、全てのアナキストが受け入れ、使用するのに充分一般的なシンボルを選びたいと考えている。私達は、提案したシンボルがこれらの基準を最もよく満たしていると考える。これを『アナキスト』という言葉と一貫して対にすれば、人々の心にアナキズムとの連想を引き起こすだろう」

1964年の青年リバータリアンの提起は、パリの地下鉄の通路に落書きされた以外、成功しなかった。忘れてはならないが、当時、ビラや新聞はステンシル(壊れやすい媒体)や従来の凸版印刷で印刷されていたため、円の中にAを示した鉛版が必要だったのだ。同年12月、サークルAは『Action Libertaire(リバータリアンの行動)』紙に掲載されたトマース(イバニェス)の記事のタイトルに登場した。60年代初頭、フランス全土の複数のグループを含む「青年リバータリアン」ネットワークは弱体化していた。地方の会報は発行されず、パリの会報は1965年から1967年まで休止状態だった。しかし、いくつかの「青年リバータリアン」は後に1968年5月運動の先頭に立つ。第一章はここで終わりである。 提案されたシンボルは円の中に刻まれた大文字のAである。トマース゠イバニェス(画像)が発案者で、ルネ゠ダラがデザイナーである。このアイデアはどこから生まれたのだろうか?デザインの単純さからだろうか、CND(核軍縮キャンペーン)の既に普及している反核シンボルからだろうか、それとも他のインスピレーションからだろうか?

「Alliance Ouvrière Anarchiste(アナキスト労働者同盟)」は書簡で、自分達は1950年代後半からこのシンボルを使っており、組織名の頭文字AOAを示していると主張しているが、その会報『L'Anarchie(アナーキー)』には1968年6月まで登場しなかった。

サークルAのシンボルが実験的に使われるようになったのは1966年で、パリの若者達と友好関係を保っていたミラノの「Gioventù libertaria(青年リバータリアン)」が1968年に定期的に使っていた。これら二つのグループが「欧州青年アナキスト連絡委員会(CLJA)」を結成した。このシンボルが公的に生命を持ち始めたのはこの時からだった。

私達が最初に見たのはミラノだった。若いアナキストたちのビラとポスターに普通に署名として使われていた。時には、反核シンボルやオランダのプロヴォと関連付けられている場合もあった。このシンボルはイタリア全土に広まり、その後世界中に広まったが、1968年のパリ五月革命にはサークルAは見られず、1972年~1973年に初めて最初の痕跡が見られている。この数年間で、サークルAの人気は爆発的になり、世界中の若いアナキストが流用し、模倣した。大きな成功を収めていたため、もしその発案者が特許を取っていたら、その人は今日億万長者になっていただろう…

何故これほど急速に目覚ましい成功を収めたのだろうか?基本的には、JLがこのシンボルを提案したのと同じ理由のためである。第一に、極度に描きやすい。十字や星印のようにシンプルで、鉤十字や鎌と槌よりも単純である。第二に、本格的に発展しつつあった新しく若い一つの運動が壁に文字を書くようになり、認識可能なシンボルを求めていた。

このようにしてサークルAは採用されるようになった。いかなる組織もグループもこのシンボルを使うよう命じるつもりはなく、アナキストにとっては他の国際的なグラフィックシンボルもなかった(イタリアでの松明のように、時代遅れのシンボルを使うことはあった)。

これがサークルAの真実の物語である。サークルAは意識的な意思と自発性で生まれた。リバータリアンに典型的なカクテルだった。他の物語は伝説に過ぎない。 このシリーズの文書で使われた資料は、CSL-Archivio Pinelli(ミラノ)とCIRA(ローザンヌ)に寄託されている。


この記事の初版は2001年に『Bollettino Archivio Pinelli(ピネッリ=アーカイヴ会報)』(via Rovetta 27, 20 170 Milano)に掲載された。ここでは2002年にCIRA会報第58号に掲載されたものを使った。