タイトル: 無政府共產
サブタイトル: 入獄記念ーー小作人ハナゼ苦シイカ
トピック: 仏教, 無政府共産主義
発行日: 1908年
ソース: http://lovedeluxe.blog9.fc2.com/blog-entry-1422.html(2026年2月17日検索)

人間の一番大事な、なくてならぬ食物を作る小作人諸君。 諸君はマアー、親先祖のむかしから、此人間の一番大事な食物を、作るとに一生懸命働いておりながら。 くる年もくるとしも、足らぬたらぬで終るとは、何たる不幸の事なるか。

そは佛者のいふ、前世からの惡報であらふか、倂し諸君、二十世紀といふ世界てきの今日では、そんな迷信にだまされておつては、末には牛や馬のやうにならねならぬ、諸君はそれをウレシイト思ふか」

來るとしも、くるとしも貧乏して、たらぬ、たらぬと嘆くことが。 もしも、冬の寒い時に、老いたる親をつれて、づしや、かまくら、沼づや、葉山と。 さむさを厭ふて遊んで、あるいた爲だと、いふならば。 そこに勘忍の、しやうもある。 もしも夏ノ暑い時に、病めるツマ子を引きつれて、箱根や日光に、アサツを避けタ其タメに、ことしは、少しタラぬとでも、いふなラば。 ソコニ慰める事も、できやう」

ことしは、長男をドイツに遊學させ、弟を大學に、娘を高等女學校へ入れタノデ。 山林を一町ウツタとか、デンチを五たん質入したとか、いふならは後の樂を、アテにして、ツマとの寢物がたりも苦くはなからう。

ところが諸君の、年が年中、タラヌたらぬと、いふのは決して、そんなゼイタクなワケではない。 正月がきたとて、ボンがきたとても。 あたらしい着物一まいきるではなし、よは二十世紀の文明に建築術は進んだといふても諸君の家には、音さたがない、諸君の家は五百年も千ねんも、イゼンの物である。 しかし、それは少しも無理ではない、着物はゴフクやに、ゼニをださねばならぬ、家は大工に手まちんを、拂はねはならぬ。 しかも諸君は悲いことに、其ぜにを持たない、そこで諸君の着物はいつもボロボロで、家は獸の巣のやうである」

しかしナガラ、食もつは諸君が、じぶんで作るのであるから。 一ばん上等のモノを、くふておるかといふに決してそうではない。 上等の米は地主に、とられてジブンは粟めしや、ムギめしを食して、そうして地主よりも商人よりも、多く働いておる。 それですら、くる年もくる年モ、タラぬタラぬといふのが、小作人諸君、諸君が一生涯の運命デある」

これはマア、どうしたワケであらうか。 一口に歌つて見れば

なぜにおまいは、貧乏する。 ワケをしらずば、きかしやうか。

天子金もち、大地主。 人の血をすふ、ダニがおる。

諸君はヨーク、かんがいて見たまへ。 年が年中、アセ水ながして、作つた物を。 半分は地主と云ふ、泥坊にトラレ。 のこる半分で、酒や醬油や鹽やこやしを、買ふのであるか。 其酒にも、コヤシにも。 スベテの物に、ノコラズ政府と云ふ、大泥坊の爲にトラレル稅金が、かゝつて。 其上に商人と云ふ泥坊が、モウケやがる。 ソコデ小作人諸君のやうに、自分の土地と云ふ者を持たずに、正直に働いておる者は、一生涯貧乏とハナレル事は出來ないのである」

マダそればかりなら、ヨイが。 男の子が出來れば、ナガイ間、貧乏のなかで育てあげ、ヤレうれしや、コレカラ。 でんばたの一まいも、余分に作つて、借金なしでも致したいと思ふまもなく、廿一となれば、イヤデモ何でも、兵士にとられる。 そうして三年の間、小遣ゼニを送つて、キゝタクもない。 人ゴロシのけいこを、させられる。 それで戰爭になれば、人を殺すか、自分で殺されるかと云ふ。 血なまグサイ所へ、引つぱりだされる」

セガレが兵士に、三年とられておるうちに、家におるおやぢは、ツマコをつれて、コジキに出だしたといふ者もある。 兵士にでたセガレは、うちが貧乏で、金は送つてくれず。 金がなければ、古兵にイジメられるので、首をクゝつて死んだり、川へとびこんで死んだり。 又は鐡道で死んだりした者が、何ほどあるか、しれぬ、のである。

こんなグアエに、小作人諸君を、イジメルのだもの。 諸君が、朝は一番ドリにおき、夜はクラクなるまで、働いたとて。 諸君と貧乏は、ハナレルことではない」

コレハ全體、なぜであらうか。 おなじ人間に、うまれておりながら。 地主や、かねもちの家に、うまるれば。 廿四五までも、卅マデモ。 學校や外國に遊ンデ、おつて、そうして、うちにかいれば。 夏は、スゞシキところに、暑さをシノギ、冬はあたゝかき、海岸に家をたつて。 遊びくらして、おるデハナイカ。 自分は桑のは一枚ツミもせずに。 キヌの、きものにツゝマツテ。 酒池肉林と、ゼイタクをして、なんにも、せずに、一生を遊び、送るノデアル。 諸君は、シラヌデ、あらうが。

大地主や、かね持か。 夏の卅日を、日光や箱根デ、遊ぶのに。 一人デ、二干や三千の金を、つかふと云ふでは、ないか。 三干圓とよー、諸君が廿歳のとしから、五十歳まで、やすまず、クワズに働いても三千圓といふカネは出來まいではないか。 そうして、其人たちは兵士などには、出なくても宜いのデある」

小作人諸君。 諸君もキツト今の金持や大地主のやうに、ゼイタクを、したいであらう、タマニハ遊んでおつて、ウマイ物をたべたいであらう。 けれども、それが諸君に出來ないと云ふのは、諸君が一つの迷信を持つて、おるからである。 オヤ先祖のムカシからコノ迷信を大事にしておつた爲に、地主や金持のスルヤウナ、ぜいたくを夢にも見ることが出來ないのである、諸君がわれわれの言ふ事をキイテ今すぐにも其迷信をステサイすれば諸君は、ほんとうに安樂自ゆうの人となるのです。

しかし、天子や金持は、諸君にコノ迷信をすてられては。 自分たちが遊んでゼイタクをすることが出來なくなるからムカシヨリ天子デモ大ミヤウでも。 この迷信をば、無くてならぬ、アリガタキものにして、諸君を、あざむいてキタノデある。 それだから、諸君の爲には、今の天子デモ大臣デモ。 昔の徳川モ、大ミヤウも、おや先祖の昔から、恨みカサナル、だい敵デあると、いふことを忘れテハナラヌ」

明治の今日も其とふり、政府は一生ケン命で、上は大學のハカセより、下は小學校の教師までを使ふて、諸君に此迷信を、すてられぬヤウニしておる、そして諸君は又、之をありがたく思ふておる。 だから諸君は一生涯、イヤ孫子の代まで、貧乏とハナレル事は出來ない、然らば小學教師などが、諸君や諸君の子供に教えこむ、迷信と云ふのは何であるか。 迷信といふは、マチガツタ考へを大事本ぞんに守つておる事を、云ふのである。 ナゼニ諸君が昔から、此マチガツタ考へを、持つて、おるかと云ふことは、あとにして。 どう云ふマチガツタ考が迷信であるかといふことを語つてみやう」

△諸君は地主から、田や畑をつくらして。 モロウカラ、其お禮として小作米をヤラネばならぬ。

△諸君は。 政府があればこそ、吾々百姓は安心して、仕事をしておることが出來る、其お禮として稅金を。 ださねばならぬ。

△諸君は、國にグン備がなければ、吾々百姓は外國の人に殺されてしまふ、それだから若い丈夫の者を、兵士にださねばならぬ、

と云ふ。 此三ツのマチガツタ考へが深くシミ込んでおるから。 イクラ貧乏しても、小作米と、稅金と、子供を兵土に出すことに、ハン對することが、出來なくなつておる。 モシモ小作米をださなくも宜しい、稅金をおさめなくても宜しい、かわい子供を兵士に、ださなくても宜しいなどゝ云ふ者があれば、ソレハむほんにんである、國賊である、などゝ云ふて、其じつ自分たちの安樂自由の爲に、なることを。 聞く事も讀む事も、せずにしまふ。 コゝハ一番よーく、考へて、讀んでいたゞきたい」

然らば、ナゼ小作米を地主へ。 ださなくても宜しい者か、と云ふに、ソレハ小作人諸君が。 耕やす所の田や畑を、春から秋まで、鋤もいれず、タネもまかず。 コヤシもせずに、ホツテおいて、ゴらんなさい、秋がきたとて米一粒、出來ませぬ。 夏になつても麥半ツブとれる者でない。 コゝを見れば、スグにしれるではないか。 秋になつて米ができ、夏になつて麥ができるのは、百姓諸君が一年中、アセ水ながして、やすまずに働いた爲である。 ソウして見れば自分が働いて出來た、コメや麥は、ノコラズ百姓諸君の、ものである。 何をネボケテ、地主へ半分ださねば。 ならと云ふ、理クツがあるか」

土地は天然しぜんに。 あつた者を。 吾等の先祖が、開こんして食物の出來るやうに、したのである。 其土地をたがやしてトつタ物を、自分の者にするのが、何でムホンニンである、

小作人諸君、諸君はながいあひだ地主に盗まれて、きたのであつたが、今といふ今、此迷がさめて見れば、ながいながい恨みの、ハラヰセに、年ゴを出さぬバカリでなく。 ヂヌシのクラにある。 麥でも金でも、トリカヘス權利がある。 ヂヌシのクラにアル、すべての者をトリダスことは、決して泥坊ではない。 諸君と吾等が久しく奪はれたる者を、回復する名譽の事業である。

ツギニ、政府に稅金をださなくても宜しいと云ふことは、ナゼであるか、小作人諸君ムヅカシイ理くつはいらぬ。 諸君は政府といふ者のある爲に、ドレダケの安樂が出來ておるか。 少しでも之が政府様のアリガタイ所だといふことがアツタナラ、言つて見たまい、昔から泣く子と地頭には勝たれぬといふて。 無理な壓制をするのが。 お上の仕事と、キマツテおるではないか、コンナ厄界の者をイカシておく爲に、正直に働いて稅金をだす小作人諸君は貧乏しておるとは、馬鹿の頂上である。

諸君は、こんな馬鹿らしい政フに、稅金を出すことをやめて、一日もハヤク、厄界ものを亡ぼして、シマフではないカ。 そうして親先祖の昔より、無理非道に盗まれた、政フの財產を、トリ返して。 みんなの共有に、しやうではないか。 之は諸君が當然の權利で、正義をおもんずる人々は、進んで萬民が自由安樂の爲に政府に反抗すべきである。

今の政府を亡ぼして、天子のなき自由國に、すると云ふことがナゼむほんにんの、することでなく、正義をおもんずる勇士の、することであるかと云ふに。 今の政フの親玉たる天子といふのは諸君が、小學校の教師などより、ダマサレテおるやうな、神の子でも何でもないのである、今の天子の先祖は、九州のスミから出て、人殺しやごう盗をして、同じ泥坊なかまの。 ナガスネヒコなどを亡ぼした、いはゞ熊ざか長範や大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考へて見れば、スグしれる。 二千五百年ツゞキもうしたといへばサモ神様でゞも、あるかのやうに思はれるが代々外はバンエイに苦しめられ内は。 ケライの者にオモチャにせられて來たのである。

明治になつても其如く、内政に外交に、天子は苦しみ通しであらうがな、天子の苦しむのは、自業自得だから勝手であるが、それが爲に。 正直に働いておる小作人諸君が、一日は一日と、食ふことにすら、くるしんでおるのだもの。 日本は神國だなどゝ云ふても諸君は少しも、アリガタクないであらう。

コンナニ、わかりきつた事を大學のハカセだの學士だのと云ふヨワムシ共は、言ふこともかくことも出來ないで、ウソ八百で人をダマシ自らを欺いておる。 又小學校の教師なども、天子のアリガタキ事をとくには、コマツテおるが。 ダンダンうそが上手になつて一年三ドの大祝日には。 ソラトボけたまねをして、天子は神の子であると云ふことを、諸君や諸君の子供に、教へ込んでおる。 そうして一生涯、神の面をかぶつた、泥坊の子孫の爲に、働くべく使ふべく教えられるから、諸君はイツマデも貧乏とハナレルコトは出來ないのである、コゝまでとけば、イカニ勘忍づよい諸君でも、諸君自身の、奪はれておつた者をトリカエス爲に。 命がけの運動を、するきになるであらう。

小作人諸君。 諸君はひさしき迷信の爲に、國にグンタイがなければ、民百姓は生きておられん者と信じておつたであらう、ナルホド昔も今も、いざ戰爭となれば。 ぐんたいのない國はある國に亡ぼされて、しまふに極つておる、けれども之は天子だの政府だのと云ふ大泥坊があるからなのだ、

戰爭は政府と政府とのケンクワでわないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんくわする爲に、民百姓がなんぎをするのであるから。 この政府といふ、泥坊をなくしてしまへば、戰爭といふ者は無くなる。 戰爭がなくなれば、かわい子供を兵士にださなくても宜しいと云ふことわ、スグにしれるであらう。

ソコデ小作米を地主へ出さないやうにし、稅金と子供を兵士にやらぬやうにするには、政府と云ふ大泥坊を無くしてしまふが一番はやみちであるといふことになる、

然らばいかにして此正義を實行するやと云ふに、方法はいろいろあるが。 マヅ小作人諸君としてわ、十人でも廿人でも連合して。 地主に小作米をださぬこと、政府に稅金と兵士を、ださぬことを實行したまへ。 諸君が之を實行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし。 一ぐんより一縣にと、遂に日本全國より全世界に及ぼして。 コゝニ安樂自由なる無政府共產の理想國が出來るのである。

何事も犠牲なくして、出來る者ではない。 吾と思わん者は此正義の爲に、いのちがけの、運動をせよ」 (ヲワリ)


◎發行の趣意

此小册子は、明治四十一年六月廿二日、日本帝國の首府に於て。 吾同志の十餘名が、無政府共產の赤旗を掲げて。 日本帝國の主權者に抗戰の宣告をなしたる爲に同年八月廿九日、有罪の判決を與へられた。

 大杉  榮       荒畑  勝三       佐藤  悟

 百瀬  すすみ    宇都宮 卓爾       森岡  永治

 堺   利彥      木村  源治郎     大須賀 さと

 山川  均       小暮  れい       徳永  保之助

右諸氏が入獄紀念の爲に、出版したのである」

 此小册子は、二年もしくは四年の後出獄する、同志の不在中。 在京僅少の同志が、心ばかりの傳道であります」

 此小册子を讀んで、來るべき革命は、無政府共產主義の實現にあるとを意得

(ウラヘツゞク)

せられし諸君は、目下入獄中の同志に。 はがき、にても封書にても送られたし、これ入獄諸氏に對す唯一の慰めで、かの戰士の膽力を研鑽する福音であります。

 入獄諸氏に送らるゝ手紙は。

 東京市牛込市ケや東京監獄在監人 何々君

と書き、そうして差出人の住所姓名を明らかにして出して下さい」

此小册子は、ながきながき迷信の夢より諸君を呼び醒まし。 ちかき將來になさねばならぬ、吾等の革命運動を謬釋せざる爲に、廣くかつ深く傳道せねばならぬのでありますから、無政府共產と云ふとが意得せられて、ダイナマイトを投ずる事をも辭せぬといふ人は、一人で多くに傳道して願ひたい。 しかし又、之を讀んでも意得の出來ぬ人は、果して現在の社會は正義の社會であるか、又吾人の理想は今の社會に滿足するや否やを、深く取調べて願たい」