タイトル: ウイルス禍を生き延びるアナキスト・ガイド
サブタイトル: 危機の資本主義と台頭する全体主義――抵抗の戦略
著者名: CrimethInc.
発行日: 2020年3月18日
ソース: https://vi.crimethinc.com/2020/03/18/uirusuhuo-wosheng-kiyan-biruanakisutogaido-wei-ji-nozi-ben-zhu-yi-totai-tou-suruquan-ti-zhu-yi-di-kang-nozhan-lue(2022年4月13日検索)
備考: 翻訳:名波ナミ(@naminanamix on Twitter)
Blog https://note.com/naminanamix

このパンデミックは数週間で終わるものではない。仮にもし厳しい封じ込め策が功を奏し、感染者数を一か月前のレベルまで抑えることができたとして、対策を中断すればすぐにまた指数関数的に感染が拡大する可能性がある。突然の外出禁止命令、一貫性のない検疫、いやます絶望的な状況といった事態は数か月は続くだろう。しかし、緊張が沸点に達すれば、ほぼ確実に情況は変わっていくだろう。その瞬間に備えて、自らと互いをウイルスの脅威から守ろう。パンデミックがもたらすリスクと安全についての問いを通して思考しよう。そして、私たちの健康と幸福を維持することなんてはじめから勘定に入れていない社会秩序の破滅的な結末に立ち向かおう。

ウイルス禍を生き延びる

このパンデミックとそれによって引き起こされるパニックを生き延びるということで言えば、長年にわたり積み重ねられてきたアナキストの組織と防衛のアナキスト的形態から学べることはたくさんある。

アフィニティ・グループを組む

長引くだろう自宅待機の見込みは、私たちの今までの生がどんなものだったか多くのことを教えてくれる。仲のいい家族と一緒に、あるいは楽しいシェアハウス(訳注)に住んでいる人たちは、壊れた夫婦関係のなかにある人、大きな空っぽの家にぽつんと住んでいる人たちと比べるとずっと良い状況にある。この事実は、人生において何が本当に重要なのかを思い出させてくれる。マイホームと核家族を持つというブルジョワの夢や、それを代表するアメリカの外国人政策に代表される安全性のモデルが何と言おうと、全世界をフェンスで囲い込めるかどうか次第だという安全保障なんかよりももっとずっと重要なのは一体感とケアである、ということだ。

「社会的距離」は必ずしも社会との完全な隔絶のことではない。もし社会が誰とも結びついていない個人の群れになりさがれば、私たちの安全はさらに脅かされる。そんなことではウイルスからも、ストレスからも、資本家や国家機関による権力掌握からも身を守れないだろう。たとえば高齢者はウイルスに感染した場合のリスクが高い。しかし以前から、高齢者の社会的な孤立は危険なレベルに達している。高齢者たちを他者との接触から完全に切り離しても、彼らの身体的・精神的な健康を守ることにはならないだろう。私たちはみな、医学的安全性と生を享受し行動を起こす集団的な力の両方をもってして、緊密なグループにしっかりと根を張る必要があるのだ。

信頼できる人たちのグループを選ぼう。理想を言えば、日々の暮らしを共有する人たち。全員が同じ程度のリスクを抱え、リスクをどこまで許容できるかの程度を共有する人たち。ウイルス禍を生き延びるための、これがあなたのアフィニティ・グループ、つまり中心のないアナキスト組織を形作る基本単位である。メンバーは必ずしも同じ建物に住んでいる必要はない。大事なのは、リスク要素を全員で共有し、安心できることである。グループが小さすぎると、孤立してしまうかもしれない。そうなるともし感染した場合大変だ。グループが大きすぎると、今度は不必要な感染リスクに晒されることになってしまう。

感染のリスクにどのように付き合うかについて共有できる見通しを持てるまで、互いによく話しあおう。個人として完全に物理的に隔離することから、共有物を触った後は除菌ジェルを使うようにするとかまで、あらゆることだ。もしグループの外でウイルスとの接触リスクとなる要素を極限まで減らせるなら、グループの中でハグしたり、キスしたり、一緒に料理したり、共有の物を使ってもいいだろう。重要なのは集団的に許容する用意のあるリスクのレベルについて合意すること、決められたセキュリティの手順をよく守ること、新しいリスク要素が出てきたらはっきりとコミュニケーションすることだ。

これが、アナキストがセキュリティ文化と呼ぶもの――リスクを最小化するためにある種の見立てを共有する実践である。警察による弾圧と国家による監視に対処するとき、私たちは必要に応じた情報共有によって自分たちを守る。ウイルスに対処するときには、感染が広がりうる方向をコントロールすることによって自分たちを守るのだ。

全てのリスクを避けることはできない。大事なのは、安心できるリスクがどこまでかの線を引くこと、そしてもし何かが起きても「必要と思われた予防策はすべてやったから後悔はない」と言えるような行動をすることだ。アフィニティ・グループで日常を共にすれば、慎重さと陽気さの両方の良い部分を得ることができる。

ネットワークを築く

もちろん、アフィニティ・グループの人々だけに会うという訳にはいかない。もし誰も安全にアクセスできない資源が必要になったらどうするのか? あるいはグループの全員が発症したらどうする? あるグループが危機に瀕しても、他のグループが助けに行けるように、相互扶助ネットワーク内の別のグループとつながっておく必要がある。こういったネットワークに参加することで、全員を自分と同等のリスクに晒すことなく物資と援助を行き渡らせることができる。

つまり、もしネットワーク内の別のグループの人々が交流する場合、リスクの追加を最小化するためにより厳しい手段を採用するという発想だ。

最近では政治家でさえ「相互扶助」という言葉を盛んに口にするようになった。言葉の本来の意味からすれば、相互扶助は慈善団体のように他者を一方的に支援することではない。この言葉が意味するのは、ネットワークに参加する人が必要なものを得られるようにすることで、全員が他者の福利のために投資する理由を持つ双方向的なケアの脱中心的な実践である。これは「やられたらやり返せ」という意味ではない。そうではなく、困難な時にも共同体を維持するための余剰とレジリエンスとを作り出すケアと資源の交換のことだ。相互扶助ネットワークがその真価を見せるのは、長期にわたって他者と相互に信頼を築くことができる時である。ネットワークのメンバー全員と顔見知りでなくてもいいし、全員を好きじゃなくてももちろん良い。全員がネットワーク全体に対して十分に貢献すればよいのだ。その取り組みが、豊かさの感覚を作り出す。

この相互的な枠組みは、社会の階層化に資するように見えるかもしれない。似たような資源へのアクセスを持つ似たような階層の人々は、自身の資源を最大化しようとして自然とひかれあうだろう。しかし、多様な背景を持つ複数の集団がいれば、様々な資源にアクセスできる。金銭的な豊かさなど、配管工の経験や、ある地域の方言を話す能力や、これまで自分が依存していることに全く気が付かなかった共同体の中の社会的紐帯にくらべれば何の意味もないことは、いまや明らかになったわけである。誰もが自分の属する相互扶助のネットワークを可能な限り遠く広く広げるべき十分な動機を持っているのだ。

土台となる考え方はこうだ。私たちを安全にするのは互いの繋がりであって、他人から身を守ることや他人に力を及ぼすことではない。食料やら日用品やら武器やらの備蓄を自宅の核シェルターにせっせと積み上げることばかり考えているプレッパー【 終末に備えて地下室持ってる田舎のアメリカ人】たちは、世界が生き残りをかけた殺し合いの舞台になる終末の日に備えている。生き延びるために闘っている周囲の人々を差し置いて、自分だけの解決に努力を傾けているとどうなるか。あなたの唯一の希望は競争を勝ち抜くことしかない。そして仮にそれがうまくいったとして、ついに銃を向けるものが何もなくなりたった一人残されたあなたに使える道具と言えば、その手のなかの銃しかないだろう。

リスクとどう距離をとるか

新たな致死的伝染病の登場によって、私たちはみなどのようにリスクと距離をとるか考えざるを得なくなった。自分の命を危険にさらすに値するものとは、なんだろうか? いろいろ考えたうえで、多くの人が達する結論はこうだ。資本主義社会における地位を維持することには、(他のどんなこともそうだが、)自分の命を危険にさらすほどの価値はないと。しかし、互いを守り、ケアしあい、自由と平等な社会で生きる可能性を守るためになら、命を懸ける価値があると言えるだろう。

高齢者を完全に孤立させるのが安全と言えないように、あらゆるリスクを避けようとしても安全ではない。愛する人が病に倒れ、隣人が死に、警察国家が私たちの自律性の最後の一滴まで拭い去っているときに、誰にも会わずに閉じこもっていたら、安全ではいられない。ありとあらゆるリスクがあるのだ。尊厳ある生を生きるためにどんなリスクを覚悟しなければならないか、再考せざるを得ない時がかならず来るだろう。

そこで、このパンデミックに乗じて国家と世界経済によってもたらされる避けられる悲劇の数々をどのように生き延びるか、という問いが持ち上がってくる。もちろんパンデミック以前からやつらは無意味な悲劇を産みだし続けているわけだが。幸運なことに、ともにウイルスを生き延びるのに必要な仕組みはまた、奴らに抵抗する武器ともなる。

危機を生き延びる

はっきりさせておこう。もはや全体主義は「そのうちやってくるかもしれない恐ろしいこと」ではない。いま世界中で行われている施策は、言葉のあらゆる意味において全体主義そのものだ。私たちは今、完全な移動の禁止、24時間の外出禁止、まぎれもない戒厳令、そしてその他独裁政策といった政府による一方的な布告の発令を目にしている。

ウイルスの拡大から身を守るための方策を取るなとは言わない。しかし各国の政府が実施している方策は権威主義的手段と権威主義的論理に基づいているということは言っておかねばなるまい。公的医療ケアや危機を生き延びるための方策を差し置いて、どれほどの資源が軍、警察、銀行、株式市場に割かれたかを考えてみてほしい。コロナの検査を受ける方よりもその辺をぶらついたからといって逮捕されるほうがよっぽど簡単だ。

ウイルスが今まで私たちが生きてきた日常――私たちの関係性、私たちの家庭――が本当のところどんなものだったのかを明らかにしてしまったように、私たちがこれまで生きていたのが独裁社会であったことも同じく明らかになった。ただパンデミックの到来によってそれが公の認めるところとなったのだ。フランスでは10万もの警官が路上に配備され、2万以上が黄色いベスト運動に投入されている。アメリカ/メキシコ、そしてギリシャ/トルコの国境で、亡命を求める難民たちが追い払われている。イタリアとスペインでは、誰もいない通りでジョギングしていた人を警官の一団が急襲する。

ドイツのハンブルクでは、難民の自律組織が数年間にわたって運営していたテントをこの機に乗じて警察が強制的に追い出した。自宅待機命令が出ているにも関わらず、ベルリンの警察はアナキスト・コレクティブのバーを退去させようといまだ圧力をかけてくる。また別の場所では、パンデミック突撃隊の勲章を身に着けた警官たちが難民センターに踏み込んできている。

なかでも最悪なのは、すべてが一般大衆の暗黙の了解のもとに起きているということだ。 権力当局は人々の健康を守るという名目のもとになら事実上何でも、私たちを殺すことさえできる。

これから状況が進むにつれて、警察と軍隊がだんだんと決定的な力をつけていくのを見ることになるだろう。世界の多くの地域で、彼らだけが自由に大人数で集まることができる。警察だけがまとまって集まることができる唯一の社会的身体であるなら、「警察国家」以上に私たちの生きるこの社会のあり様を言い表す言葉はないだろう。

兆候は数十年前からあった。かつての資本主義は工業労働ができる膨大な数の労働者たちを維持していなければならならず、だから、今日ほどには命を安く取り扱うことはできなかった。資本主義的グローバル化と自動化によって労働者への依存が克服されるに従い、世界の労働力はだんだんとサービス業に移行していった。そして人々が経済が機能するために不可欠ではなく、それゆえ安定性を欠き給料の良い仕事をしている裏で、政府は不安と怒りを統制するために武装した警察の暴力に依存するようになっていったのである。

もしパンデミックが一定以上長引けば、おそらく今以上に自動化が進むだろう。たとえば自動運転車は運転手たちよりもブルジョワたちの感染リスクを下げることになるだろうが、そうなると機械にとってかわられた労働者にある選択肢は二つに一つである。警察、軍隊、警備会社、民間軍事会社といった弾圧産業に就くか、わずかな賃金を得るために重大なリスクを取らねばならない不安定労働者となるかだ。私たちが今猛スピードで向かっているのは、リスクのほとんどを引き受けて働く下層階級から警察力によって分離された場所で特権階級が仮想の労働を行う、という未来なのだ。

すでに、アマゾンCEOジェフ・ベゾスはあらゆる地域の商店を駆逐することを見込んで10万人もの新たな労働者を雇い入れた。またベゾスはサービス部門の労働者は常にリスクに直面することになるにもかかわらず、(彼の経営する)ホール・フーズ・マーケットの従業員に4月に2ドルの追加手当だけは与えるが有給休暇は許可しないという。つまるところ、彼にとって労働者たちの命というのは何でもない。単にもし労働者たちが死んだら補償金を支払えば良いというだけのものである。

こうなれば、反乱は避けられない。人心をなだめるための社会改革が――すくなくともパンデミックの衝撃を和らげる一時的な対策は実行されるだろう。しかしそれらは私たちの健康を守るためだという誤解される限り際限なく増大する国家暴力を手に携えてやってくるのだ。

事実、国家こそが私たちにとって最も危険だ。国家こそがまったく不平等な資源の配分を強要し、私たちを不均衡に分配されたリスクに直面させるのだ。生き延びるには、公平な方針を要求するだけではだめだ――国家権力を拒否し、その基盤を掘り崩さなければならない。

抵抗の戦略

この目的のためにすでに始まっているいくつかの抵抗の戦略を紹介して、結びとする。

家賃ストライキ

サンフランシスコではハウジング・コレクティブのステーション40がこの危機への対応として家賃ストライキを勝手に宣言してしまうという戦略をいち早く始めた。

「この危機には、団結して決定的な行動をとることが必要です。これは自分たちと自分たちのコミュニティを守り、ケアするためです。いま、これまで以上に、私たちは借金を拒否し、搾取を拒否します。私たちは資本家の肩代わりをしてこの重荷を負いません。5年前、私たちは地主による追い出し攻撃を打ち破りました。この勝利は近隣の人たち、そして世界中の友人が連帯してくれたからこそ得られたものです。私たちはいま再び、このネットワークに呼び掛けます。私たちのコレクティブはベイエリア全体で真夜中に始まる外出自粛の準備は万端です。いまこの瞬間、私たちにとって最も意味ある連帯の行動は、皆さんがともにストライキに入ることです。私たちがあなたの背中を支えます。皆さんが私たちを支えてくれているように。よく休み、そして祈り、互いを大切にしましょう」

請求書の支払いができなくなる何百万もの人々にとって、この機会を利用しない手はない。次から次へとやってくる請求書をやりくりして生活する何百万もの、数えきれない人々が、すでに職と収入を失って、4月の家賃を払う手立てがなくなってしまった。彼らを支援するための最善の方法は、私たち全員がストライキをはじめることだ。そうすれば当局も支払わない人々全員を標的にすることはできない。収入を得る方法がないのに、銀行や地主が家賃や住宅ローンで儲けるなんておかしい。それが普通の感覚だ。 このアイデアはすでに様々な形で世界を駆け巡っている。オーストラリアのメルボルンでは、世界産業労働組合の地域支部がCOVID-19家賃ストライキ宣言を推進しているし、ローズ・コーサスは家賃、住宅ローン、光熱費の支払いを停止するよう呼び掛けている。同じ呼びかけをシアトル家賃ストライキがワシントン州で出している。シカゴの借地借家人はオースティン、セントルイス、テキサスの人々と共に家賃ストを行うぞと(地主たちに)脅しをかけている。カナダでは、トロント、キングストン、モントリオールで組織化が進んでいる。また他にも、家賃と住宅ローンのストライキを呼び掛ける文章が出回っている。

全国レベルで家賃ストライキを成功させるためには、これらのイニシアチブの少なくとも一つが、参加しても孤立したまま放置されることはないと多くの人が確信できるくらいの勢いを得る必要がある。しかし、大きな組織が大規模ストを上から導いてくれるのを待つよりも、こういった取り組みは草の根レベルで始めるのが一番だ。中央集権的な組織は往々にして闘争の初期段階での妥協を招き、こういった運動に力を与える自律的な取り組みの力を弱めてしまう。この経験をより強固なものにするために一番いい方法は、上からの命令に関係なく自らを守れるネットワークを築くことだ。

労働ストライキ・交通ストライキ

セイント・ナザレの大西洋造船所では昨日【訳注】から何百もの労働者がストライキを始めた。フィンランドでは、バス運転手が感染の危険を減らすため、また自身が晒されているリスクに対して抗議するため、乗客から運賃をとることをやめ、無料の公共交通を可能ならしめる過程を示している。

もし困難を抱えた不安定な労働者階級がストライキと操業停止によってその力を見せつけるのに適したタイミングがあるというのなら、それが今だ。今回こそは、多くの普通の人々が共感するだろう。ビジネスを中断すればウイルス拡散のリスクを減らすことにもなるのだ。賃上げを通して特定の従業員の個別の状況を改善することを求めるのではなく、通常通りの操業を妨害するネットワークを築き、システム全体をぶち壊しにして、生き方と関係性の別様な方法への革命的な手引きとすることを目指すのが最も重要なのだと、私たちは強く主張する。ここまで来たら、この状況下で私たちの必要なものが公正公平に手に入るような改革を思い描くよりも、資本主義の廃絶を想像するほうがもはやずっと容易いのだ。

刑務所暴動

ブラジルとイタリアの刑務所では暴動が起き、その結果すでに何件かの脱走事件が起た。なかにはけっこうな大規模逃亡劇もある。これらの囚人たちの勇気は、このような大災害の下で最も苦しむだろう、公衆の目から隠された人々の存在を思い出させてくれる。

そして、世界が刑務所の独房の格子に変わるときに命令に従い、隠れ家に潜んでいるのではなく、手を組んで行動し、現状を打破することができるのだと、彼らは私たちを駆り立ててくれる。